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[横沟正史] 人面疮

_7 横溝正史(日)
 だから、それから間もなくじぶんの部屋へかえってきた金田一耕助は、となりに寝ている磯川警部を起そうともしなかった。そのまま枕に頭をつけて、まもなくうとうとしはじめていたのだが。……
 こういうふうに書いてくると、金田一耕助というこの男が、いかにも冷淡で、不人情な人間のように思われるかもしれないが、かならずしもそうでないことは、諸君もよくしっているはずである。
 金田一耕助のように長いあいだ、いっぷう変った特殊な職業に従事している人物にとっては、人間の生命だの運命だのという問題に関しても、おのずから常人とちがった感情があるのもやむをえまい。
 それに金田一耕助はそのとき事件に食傷気味でもあったのだ。
 東京のほうでむつかしい事件を解決して、その骨休みにと思ってやってきたのが岡山だった。金田一耕助と岡山県との関係は、かれの|探《たん》|偵《てい》|譚《たん》をお読みのかたはご存じと思うが、金田一耕助はこの土地のあたたかい人情風俗がたいへん気にいっているのである。
 だから、東京の俗塵をさけた金田一耕助が、しばしの憩いの場所として岡山の土地をえらんだのはべつに不思議でもなんでもない。そこで岡山へやってきた金田一耕助は、さっそく県の警察本部につとめている、お|馴《な》|染《じ》みの磯川警部を訪ねていった。できれば警部にしかるべき静養地を紹介してもらおうという魂胆だった。
 ところがあにはからんや、岡山で金田一耕助を待ちかまえていたものは、またしても|厄《やっ》|介《かい》千万な殺人事件であった。しかも、その事件の担当者が磯川警部とあってはただではすまない。
 事件の捜査が|暗礁《あんしょう》に乗りあげて、磯川警部が四苦八苦、苦慮|呻《しん》|吟《ぎん》しているところへ、ひょっこり金田一耕助がやってきたのだから、警部にとっては地獄で仏にあったも同然だった。金田一耕助がいやおうなしに事件のなかへ引っ張りこまれたことはいうまでもない。
 金田一耕助は磯川警部にたいする友情としてもひと肌ぬがずにはいられなかった。さいわい三週間で事件の解決はついた。しかも、犯人が自殺してしまったので、磯川警部も事後の|煩《はん》|瑣《さ》な手続きから解放された。
 そこで、そのお礼ごころに磯川警部が案内したのが、この|薬《やく》|師《し》の湯なのである。そこは岡山県と鳥取県の境にちかい、文字どおり草深い田舎だが、ここの湯は眼病に|効《き》くというので、県下ではちょっとしられた湯治場になっているらしい。
 磯川警部も一週間ほど休暇をとって、ゆっくりと金田一耕助につきあうつもりで、きょう昼間ここに旅装をといたばかりだったのだが。……
     二
「先生、金田一先生、もうおやすみですか」
 電気スタンドの灯りを消して、金田一耕助がまたうとうととしかけているところへ、磯川警部がかえってきた。
「ああ、いや、まだ起きていますよ」
 金田一耕助は寝返りをうって、電気スタンドのスイッチをひねると、
「警部さん、どうかしましたか」
「ああ、いや……」
 と、金田一耕助の顔を見おろしながら、厚いてのひらでつるりと額を|撫《な》であげる磯川警部のおもてには、世にも奇妙な色がうかんでいる。
 金田一耕助と磯川警部はもうながいあいだの交際なのだ。だから警部の顔色をみると、金田一耕助にも事件の規模はわかるのだ。耕助は思わず寝床のうえに起きなおった。
「警部さん、なにか……」
「いや、先生」
 と、警部は肉の厚い顔をしかめて、
「夜中はなはだ恐れ入りますが、ちょっと見ていただきたいものがあるんですが……」
「なにか事件ですか」
「はあ、こんなところまできて、また事件ではまことに申訳ないんですが、じつはカルモチンの自殺未遂なんです。ただし、そのほうの処置はいたしました。さいわい、発見がはやかったので、命はとりとめると思うんですが……」
 物慣れた磯川警部は、カルモチンの自殺未遂ていどの事件ならば、医者がくるまでの応急処置くらいは心得ているのである。
「はあ、はあ、なるほど、それで……?」
「ところが、ここにちょっと妙なことがあって、それをぜひ先生に見ていただきたいんですが……先生にしてもごらんになっておかれたら、なにかの参考になりゃせんかと思うんですがな」
 磯川警部の瞳には一種異様なかぎろいがある。それがなにか言外の奇妙な意味を物語っているようであった。
「ああ、そう、それじゃ……」
 と、金田一耕助は気軽に立ちあがると、浴衣のうえからドテラを重ねた。さっきから見ると、またいちだんと冷えこむようだ。
 田舎の湯治場などによくあるように、この薬師の湯もあとからあとから立てましたらしく、長い縁側や渡り廊下が、まるで迷路のようにひろがっている。外はあいかわらずよい月らしく、しめきった雨戸のすきから、鮮かな光がさしこんで、廊下のうえにくっきりと|縞《しま》|目《め》をつくっている。足の裏にその廊下の感触がひんやりとつめたかった。
 磯川警部の案内で、長い縁側や渡り廊下を抜けて、母屋の裏側にあたっている雇人だまりのまえまでくると、なかから灯りの差す障子の外に黒い影が立っていた。
 立ちぎきでもしていたのか、その男は障子のなかのようすをうかがっていたらしいのだが、ふたりの足音をきくとあわててそこを離れた。そして、顔をそむけるようにして、ふたりのそばをすり抜けると、母屋のほうへ逃げていった。
 すれちがうとき、金田一耕助がなにげなくみると、右の|頬《ほお》におそろしい|火傷《やけど》のひきつれのある男だった。
「なんだろう……? あの男……」
 そのうしろ姿を見送りながら金田一耕助がつぶやくと、磯川警部もうさんくさそうに|眉《まゆ》をひそめて、
「変ですねえ。宿の浴衣を着ていたから客でしょうが、やっこさん、ここでなかのようすを立ちぎきしていたんじゃありませんか」
「どうもそうらしいですね」
「頬に大きな火傷の跡かなんかがありましたね」
「そう、だから目印にはことかかない」
 磯川警部はふっと不安らしく金田一耕助の顔をふりかえったが、すぐ思いなおしたように障子に手をかけて、
「さあ、どうぞ、この部屋です」
 障子をあけるとそこは六畳、いかにも奉公人の部屋らしく、|煤《すす》けてゴタゴタしたなかに寝床がひとつ敷いてあって、そこに女がひとり|昏《こん》|睡《すい》状態で横たわっている。
 金田一耕助はその女の顔をみたとたん、思わずほほうっと眼をみはった。
 それはたしかにさっきの女、金田一耕助が廁の窓から目撃した夢中遊行の女であった。さっきは夜目遠目でよくわからなかったが、こうしてちかくから見ると、透きとおるような肌をしたなかなかの美人である。
 女の枕下には男がひとり、落着きのない、心配そうな顔色で|坐《すわ》っていた。年頃は三十前後か、がっちりとしたよい体格をしているが、どこか神経質らしい男である。昏睡した女の寝顔を見まもりながら、しきりに唇をかんでいる。金田一耕助と磯川警部の姿をみると、少しあとへさがって窮屈そうに頭をさげた。
 これが薬師の湯のひとリ息子で、去年の秋、シベリヤから復員してきたばかりだという貞二君なのである。
「このご婦人は……?」
 金田一耕助が女の枕下に腰をおろして、磯川警部をふりかえると、
「ここの女中さんで|松《まつ》|代《よ》というんだそうです」
「カルモチンをのんだんだそうですね」
 金田一耕助が貞二君のほうへむきなおると、
「はあ」
 と、貞二君はかたわらの|一《いっ》|閑《かん》|張《ば》りの机のうえにあるカルモチンの箱を眼でしめした。
 金田一耕助が手をのばしてその箱を手にとってみると、なかはすっかり空になっている。
「どうして自殺などはかったのかわかっていますか」
 金田一耕助が訊ねると、
「貞二君、先生にあれをお眼にかけたら……?」
 と、磯川警部がそばから注意した。
 貞二君はちょっと|挑《いど》むような白い眼をして、磯川警部をにらんだが、やがてふてくされたように肩をゆすって、一閑張りの机のひきだしから、一通の封筒を取りだして、突きつけるように金田一耕助のほうへ差し出した。
 金田一耕助が手にとってみると、封筒のおもてには万年筆の女文字で、御隠居さま、若旦那さまへと二行にわたって書いてあり、裏をかえすと松代よりとしたためてあった。かなり上手な筆蹟だが、ところどころ文字がふるえているのは、これを書いたときの筆者の心の動揺をしめすものだろうか。
「なかを見てもかまいませんか」
「どうぞ」
 貞二君はあいかわらず、ふてくされたような調子である。
 なかは女らしい模様入りの便箋で、そこになんの前置きもなく、いきなり、つぎのような奇妙な文句が、表書きとおなじ女文字で書いてあった。
[#ここから1字下げ]
 あたしは今夜また由紀ちゃんを殺しました。由紀ちゃんを殺したのはこれで二度目で す。病気のせいとはいえ二度も由紀ちゃんを殺すなんて、なんというわたしは恐ろしい女でしょう。由紀ちゃんの|呪《のろ》いはせんからわたしの|腋《わき》の下にあらわれて、日夜、わたしを責めさいなみます。わたしはとても生きてはおれません。いろいろお世話になりながら、御恩がえしもできませず、かえって御迷惑をおかけいたしますことを、じゅうじゅうお詫び申上げます。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]松代
[#ここから3字下げ]
御隠居さま
若旦那さま
[#ここで字下げ終わり]
 金田一耕助は眉をひそめて、注意ぶかく、二、三度その文面を読みかえしたのち、貞二君のほうをふりかえって、
「この由紀ちゃんというのは……?」
 と、訊ねたが、貞二君が肩をそびやかしたきり答えなかったので、そばから磯川警部がかわって答えた。
「ここにいる松代の妹だそうです」
「やはりここにいるんですか」
「はあ、この春、松代をたよってきて、そのままここの女中に住込んだんだそうです」
「この手紙には松代君が今夜、妹を殺したように書いてありますが、なにかそういう気配でもあるんですか」
 金田一耕助が訊ねると、磯川警部も渋面をつくって、
「さあ、それがよくわからないんですね。さっき松代君がにわかに苦しみ出したので、ほかの女中がびっくりして貞二君を呼びにいったんだそうです。そこで貞二君が駆けつけてくると、そういう遺書が枕下においてあった。それでいま手分けをして由紀子という女の行方をさがしているところなんですがね」
「それじゃ、まだ行方がわからないんですね」
 金田一耕助が念を押すように貞二君のほうをふりかえると、
「はあ、まだ……とにかく家のなかにはいないようです」
 と、貞二君は吐き出すような調子であった。
 金田一耕助は改めてその貞二君の顔を見なおした。この男は松代という女の自殺未遂をどう思っているのか。多少なりとも|不《ふ》|愍《びん》がっているのか。それとも迷惑なこととして内心の怒りをおさえかねているのではないか。
 どっちともとれる貞二君のそのときの顔色だった。
 金田一耕助はふとさっき見た松代の姿を思い出していた。雲を踏むような足どりで稚児が淵のほうへおりていった、松代の奇妙な姿を|脳《のう》|裡《り》にえがきだしていた。
 しかし、そのことについてはまだいうべき時期ではないであろうと差しひかえた。いずれ松代が|覚《かく》|醒《せい》したらそのことについてただしてみよう。
 その松代は額にいっぱい汗をうかべて、寝苦しそうな荒い息使いである。顔色がびっくりするほど悪かった。
 金田一耕助はまた改めて遺書の文面に眼を落して、
「それにしてもここに妙なことが書いてありますね。由紀ちゃんを殺したのはこれで二度目ですと。……これはいったいどういう意味でしょう。病気のせいとはいえ、二度も由紀ちゃんを殺すなんて……と、書いてありますが、松代君はまえにも妹さんを殺した……いや、殺そうとしたことがあるんですか」
 金田一耕助は貞二君を見た。貞二君はあいかわらずふてくされたようすで、ふてぶてしくぶっきらぼうな調子で、
「松代は気が変になっていたんです」
「気が変になっていた……? なにかそういう徴候があったんですか」
「いや、いや、そういうわけじゃありませんが……」
 と、貞二君はいくらかあわてた調子で、
「しかし、そうとしか思えないじゃありませんか。でなきゃそんな妙なことを書くはずがない。おなじ人間を二度殺す。そんなバカなことがあるはずがないじゃありませんか。だいいち、今夜、由紀子を殺したというのだって、どうだかわかったものじゃない」
「しかし、それじゃ由紀子さんはいまどこにいるんです。こんな時刻に若い娘が家のなかにいないというのはおかしいじゃありませんか」
 そのときまた金田一耕助の脳裡には、ひょうひょうたる足どりで、稚児が淵のほうへおりていった松代の姿がうかんだが、かれはあわててそれを|揉《も》み消した。
「なあに、どっかひとめのつかないところで寝ているか、それとも……」
「それとも……?」
「いやさ、だれか男と|逢《あい》|曳《び》きでもしているのかもしれませんよ。あっはっは!」
 こういう場合としては、貞二君のその笑いかたには、なにかしらひとをゾッとさせるような毒々しさがあり、また多分にわざとらしかった。
 金田一耕助は|眉《まゆ》をひそめて、さぐるようにあいての顔色を見つめていたが、それでも言葉だけはおだやかに、
「いや、できればそうあってほしいものですね。ところで最後に、由紀ちゃんの|呪《のろ》いが腋の下にあらわれて……と、いうのはどういうわけですか」
「ああ、そのこと……」
 と、磯川警部は膝をのりだして、
「じつはそれなんです、先生、あなたに見ていただきたいものがあるとさっき申上げたのは……貞二君、金田一先生に見ていただこうじゃないか」
「はあ……」
 と、貞二君は答えたものの、その眼にはちょっと|怯《おび》えたような色が走った。
 金田一耕助はふしぎそうにふたりの顔を見くらべながら、
「なんです。その見てほしいとおっしゃるのは……?」
「いや、じつはこれなんですがね」
 磯川警部が掛蒲団をめくるのを、貞二君は毒々しい眼で見つめている。
 磯川警部は蒲団を胸までめくると、女の胸を左右にかきわけ、金田一耕助の眼のまえで右の腋の下をむき出しにした。
 と、同時に金田一耕助は大きく眼をみはって、思わず息をはずませたのである。
 女の腋の下にはもうひとつの顔がある。
 もっとも大きさはふつうの人間の顔よりよほど小さく、野球のボールくらいである。しかし、それはたしかに人間の顔……それも女の顔のようである。
 眼、鼻、口……と、死人のように妙にふやけた顔だったが、まぎれもなく人間の顔の諸器官を、のこらずそなえているではないか。
     三
「金田一先生」
 と、磯川警部は呼吸をのむように、
「よく小説や物語なんかに|人《じん》|面《めん》|瘡《そう》というのがありますが、ひょっとするとこれがそうではないでしょうかねえ」
 磯川警部のそういう声は、押し殺したようにふるえている。なんとなく|咽喉《のど》のおくがむずかゆくなるような声である。
 金田一耕助はそれには答えず、無言のまま喰いいるようにその気味悪い|腫《はれ》|物《もの》を|眺《なが》めている。
 じっさいそれは世にも薄気味悪い腫物だった。土左衛門のようにぶよぶよとして、|眉《まゆ》|毛《げ》のあるべきところに眉毛がないのが、ある種の悪い病気をわずらっている人間の顔のようである。眼のかたちはありながら、眼球のあるべきところにそれがなかった。|唇《くちびる》をちょっと開いているように見えるのだが、唇のあいだには歯がなかった。
 ちょうどそれは|彫塑《ちょうそ》家が人間の首をつくろうとして、なにかのつごうで途中で投げだしたような顔である。そういえばちょうど粘土細工のような顔で、色なども土色をしている。
 金田一耕助がそっと指でおさえてみると、ゴムのようにぶよぶよとした手触りだった。
「ふうむ!」
 金田一耕助はおもわず太いうなり声を吐き出すと、貞二君のほうをふりかえった。
「このひと、昔からこんなものがあったんですか」
 貞二君はギラギラと脂のういたような眼をひからせながら、強く首を左右にふって、
「そんなことしるもんですか」
 と、きたないものでも吐きすてるような調子である。
「しっていたら、そんな気味の悪い女、一日だって家におくことじやありません。とっくの昔に|叩《たた》き出してしまってまさあ」
 と、恐ろしく残酷な口調でいったが、それでもさすがに気がとがめるのか、こんどは急に弱々しい口調になって、
「しかし、そういえばこの夏頃から、松代はほかの女といっしょに風呂へ入ることをきらって、いつも夜おそく、ひとりでこっそり入っていたそうです」
「そうすると、これが妹の由紀ちゃんの呪いというんですかねえ」
 金田一耕助はもういちど、その奇怪な腫物を入念にのぞきこんだが、そのときそばから磯川警部が口をはさんで、
「いや、そういえばその顔は、どこか由紀子という娘に似てるようだと、ほかの女中たちがいってるんですがねえ」
 金田一耕助はその言葉を聞いているのかいないのか、医者が難症患者を診療するような入念さで、その腫物をしらべていた。
 と、そこへあわただしい足音をさせて、男衆らしい男がふたり、提灯をぶらさげたまま障子の外からとびこんできた。
「若旦那、たんへんです。たいへん……」
 と、息を|喘《はず》ませていいかけたが、そこにいる金田一耕助に気がつくと、はたとばかりに口をつぐんでたがいに顔を見合せている。
「いいんだ、いいんだ、|万《まん》|造《ぞう》」
 と、貞二君はもどかしそうに腰をうかして、
「由紀ちゃんのいどころはわかったのか」
「は、はい……」
「いいんだ、いいんだ。こちらは構わないかたなんだ。由紀ちゃんはどうしたんだ。いったいどこにいるんだ」
 と、まるで|噛《か》みつきそうな調子である。
「はい、あの、それが……」
「それがいったいどうしたというんだい。もっとはっきりいわないか」
「はい、あの、すみません」
 と、万造はあまりすさまじい貞二君の権幕に、いっそうおどおど度を失って、
「あの……|稚《ち》|児《ご》が|淵《ふち》に死体となってうかんでいるんです」
「稚児が淵に死体となって……?」
 貞二君ははじかれたように立ちあがった。金田一耕助と磯川警部はおもわずぎょっとした眼を見交わせた。
 そして、つぎのしゅんかん三人の眼はいっせいに、そこに昏睡している松代のほうへ注がれた。それじゃやっぱり松代が殺したのか……?
「へえ、あの、しかも由紀ちゃんは、素っ裸で水のなかに浮いてるんです」
 金田一耕助はしずかに女の胸をかくすと、磯川警部のほうをふりかえって、
「警部さん、あなたお出掛けになるんでしょう」
「はあ……あの、それはもちろん……」
「そう、それじゃわたしもお供しましょう」
「先生、どうも恐縮です。せっかく御静養にいらしたのに、またとんでもないことがもちあがっちまいまして……」
「いいですよ。ちょっと考えるところがありますから……」
 金田一耕助は松代の顔から貞二君のほうへ視線をうつすと、
「貞二さん、君も出かけるんでしょう」
「はあ……そ、それはもちろん」
「そう、それじゃちょっと待っていてください。警部さんとふたりで支度をしてきますから……ああ、そうそう、それからこの患者ですがね。みんな出かけたあとで、うっかり意識をとりもどして、また無分別を起すといけませんからだれか気の利いたものをつけておいてください」
「はあ、あの、それは大丈夫です。まもなく先生がきてくださると思いますから」
 こういう山奥の湯治場だから、医者までそうとう遠いのである。
「ああ、そう、それじゃ、警部さん」
「承知しました。それじゃ貞二君、ちょっと待ってくれたまえ」
 もとの座敷へかえって支度をするあいだも、磯川警部はしきりに恐縮していた。
「金田一先生、表はそうとう寒いですよ。そのおつもりでお支度をなさらなきゃ……」
「はあ、二重廻しを着ていきましょう」
「そうなさい。わたしもレーンコートを着ていきますから」
 磯川警部はそうとうくたびれた背広のうえにレーンコート、金田一耕助は例によって例のごとく、よれよれのセルの|袴《はかま》に足をつっこんだうえに、さいわい用意してきた|合《あい》トンビを肩にひっかけて、もとの女中部屋へかえってくると、松代の枕もとに夜具をつみかさねて、|肥《ふと》り|肉《じし》の老婆がひとりよりかかっていた。
 それを見ると磯川警部は眼をまるくして、
「おや、御隠居さん、あんたが付添いをなさるんですかな」
「はあ、あの……これがあまり|不《ふ》|愍《びん》でございますから、せめてお医者さんがお見えになるまでと思って、貞二にここへつれてきてもらいました。そちらの先生もご苦労さまでございます」
 半身不随のお柳さまは、重い口で|挨《あい》|拶《さつ》をすると、不自由なからだを動かして、それでもキチンと|坐《すわ》りなおした。
「ああ、そうそう、金田一先生、ご紹介しておきましょう。こちらがここの御隠居のお柳さま、御隠居、こちらがいつもわたしがお|噂《うわさ》している金田一先生」
 磯川警部はこの薬師の湯とは遠縁にあたっているとかで、祝儀不祝儀にやってくるので、この家の内情にはそうとう精通しているのである。
 お柳さまが改めてくどくどと挨拶をするのを、金田一耕助がほどよく応対しているところへ、貞二君も支度をして出てきたので、万造をさきに立てて一同は薬師の湯を出た。
 時刻はもう真夜中を過ぎて暁ちかく、なるほど外はそうとう冷えこむのである。月ももうだいぶん西に傾いていた。
 稚児が淵は薬師の湯から直線距離にして、五、六丁下手に当っているが、これを街道づたいにいくと、道が曲りくねっているので二十分はかかるのである。しかし、お柳さまの隠居所のすぐ下をながれている谿流の|磧《かわら》づたいに歩いていくと、わずか数分の距離だという。
 それを聞いて金田一耕助は、磧づたいの道をいくことを提案した。
「先生、危いですよ。大丈夫ですか。石ころ道なんですが……」
「なあに、大丈夫ですよ。月が明るいから|提灯《ちょうちん》もいらない」
 磧へおりるまえにふりかえってみると、さっき金田一耕助がのぞいていた廁の窓が、すぐ鼻先に見えている。
 松代もこの道をいったのだ。
 月がもうだいぶん西に傾いているので、谿谷は片かげりになっているが、金田一耕助の歩いていく磧のこちらがわは、提灯の灯りもいらぬくらい明るいのである。
 時刻はもう三時をまわっているので、二重まわしをはおっていても、山奥の夜の風は肌につめたかった。
 金田一耕助は磯川警部と肩をならべて、わざと貞二君たちの一行と、すこしおくれて磧の石ころを渡りながら、
「警部さん、貞二君というのはどういうんです。松代という女にたいして、なにかおだやかならぬ感情をふくんでいるようですが……」
 磯川警部もくらい眼をしてうなずくと、
「さあ、そのことですがね。わたしもちょっと意外でした。あれはむしろ貞二という男の、自責の念のぎゃくのあらわれじゃないかと思うんですがね」
「自責の念といいますと……?」
「いえね、貞二は後悔してるんですよ。松代にすまぬと思っているんです。しかし、男の意地として、すなおにそれが表明できないんでしょう。貞二というのは元来あんな男じゃない。わたしは子供のじぶんからしってますが、ごく気性のやさしい男なんです。もっとも、ちかごろ魔がさしたといえばいえますがね」
「貞二君はなにか松代に……」
「ええ、松代というのはいちど貞二の嫁ときまっていた女なんです。隠居もそれを希望し、貞二もひところは松代が好きだったはずなんです。それが、由紀子という妹があらわれてから、なにもかもむちゃくちゃになってしまったんです」
「貞二君は妹のほうが好きになったというわけですか」
「ええ、まあね。由紀子という女が貞二を|横《よこ》|奪《ど》りしてしまったんですね。話せばまあ、いろいろあるんですが……」
 磯川警部はいかにもにがにがしげなくちぶりだった。
「ときに、警部さん」
 しばらくしてから金田一耕助がまた口をひらいた。
「松代という娘のあの|腋《わき》の下の奇妙な|腫《はれ》|物《もの》ですがねえ。あなたはもちろんああいうこと、ご存じなかったんでしょうねえ」
「しりませんでした」
 と、警部は身ぶるいをするように、大きな呼吸をうちへ吸うと、
「金田一先生、いったいあれはどういうんでしょう。人面瘡というのは話に聞いたことがありますが、なんだか気味が悪いですねえ」
「さっきの貞二君の話によると、松代君はこの夏頃から、ほかの女中といっしょに風呂へ入ることをきらって、夜おそくこっそりひとりで入浴していたといってましたね」
「そうそう、そんな話でしたが、それがなにか……?」
「いや、と、いうことは夏頃までは松代という娘も、ほかの女中といっしょに風呂に入っていたということになりますね」
「あっ、なるほど。すると、ああいういまわしい出来物ができたのは、夏よりのちということになるわけですね」
「そうです、そうです。いったい医者はあの腫物を、どういうふうに説明しますか。……とにかく変っておりますねえ」
 金田一耕助はそれきり黙って考えこんだ。
 しばらくいくと、磧はにわかにせまくなって、そこからはどうしても街道へあがらなければならなくなっている。
 そのあがりくちで貞二君と万造が提灯をぶらさげて待っていた。そのへんから月の光と縁が切れて、むこうの山の陰へ入るのである。
 街道へ出ると稚児が淵はすぐだった。
 土地のひとが|天《てん》|狗《ぐ》の鼻と呼んでいる大きな一枚岩が、街道からすこし入ったところに張り出している。その下がふかい淵になっていて、土地のひとはそれを稚児が淵とよんでいる。
 稚児が淵はいまはんぶんは月に照らされ、はんぶんは月にそむいて、明暗ふたいろに染めわけられて、しいんとふかい色をたたえている。
 天狗の鼻の突端には、おとなの|臍《へそ》くらいの高さに|木《もく》|柵《さく》がめぐらせてあり、その木柵のこちらがわに、五つ六つの人影が、なにか声高にしゃべっていた。
 貞二君はそれを見ると急に足をはやめた。金田一耕助と磯川警部もそのあとから足をいそがせた。
「ああ!」
 天狗の鼻の木柵は一部分凸型になってつきだしている。ひとをかきわけてその凸部へ踏み出した貞二君は、その木柵に手をかけて、淵のなかをのぞきこみながら、うめくような声を咽喉のおくから|搾《しぼ》りだした。
 金田一耕助と磯川警部も、貞二君の背後から淵のなかをのぞきこんだが、ふたりとも思わずあらい息使いをした。
 月光に染め出された稚児が淵の、にぶく底光をはなつ水のなかから、針のような岩がいっぽん突出している。
 土地のひとはその岩を稚児の指と呼んでいるが、その稚児の指のすぐそばに、女がひとりうかんでいる。しかも、その女は一糸まとわぬ全裸であった。月の光に女の裸身がまばゆいばかりにかがやいていた。
 稚児が淵の水は、稚児の指をめぐって、ゆるやかに旋回しているらしく、女の裸身も木の葉のようにゆらりゆらりと、突出した岩の周囲をめぐるのである。月の光に女の裸身が、おりおり、魚の腹のような光を放った。
 それは美しいといえば美しい、残酷といえばこのうえもなく残酷な眺めであった。
 貞二君は|爪《つめ》も|喰《く》いいらんばかりに木柵をつかんで、やけつくような視線で女の裸身をみおろしていたが、とつぜん金田一耕助と磯川警部のほうをふりかえると、
「あいつだ、あいつだ、あいつがやったのだ!」
 と、|噛《か》みつきそうな調子である。
「貞二君、あいつというと……?」
「火傷の男だ! 顔に火傷のひきつれがある男がやったのだ!」
「火傷の男……?」
 磯川警部ははっとしたように、金田一耕助をふりかえったが、そのとたん、
「危い!」
 と、叫んで金田一耕助が、貞二君の腕をつかんでうしろへひきもどした。
 引きもどされた貞二君の腹の下から、木柵が一間あまり、大した音も立てずに、淵のなかへ|顛《てん》|落《らく》していったのである。
 一同は|茫《ぼう》|然《ぜん》たる眼で、水面へ落下していく木柵をみつめている。
     四
 金田一耕助はまたいそがしくなりそうだった。
 この男はよっぽど貧乏性にうまれついているとみえて、ゆっくり静養もできないように、いたるところに事件が待ちうけているらしい。ことにこの事件のばあい、かれはひとかたならぬ興味と好奇心にもえていた。松代の腋の下にあるあの奇怪な肉腫に、かれはこのうえもなく興味をそそられるのだ。
 |人《じん》|面《めん》|瘡《そう》。――
 人面の顔をした肉腫に関する伝説は、日本にも中国にも、古くから語りつたえられている。なかには人面瘡が人間の声で歌を歌ったなどという、奇抜な伝説さえのこっているが、それらの多くはとるに足らぬ浮説で、科学的にはなんの根拠もなさそうだった。
 たまたま、肉腫に生じた|皺《しわ》や凸凹が、眼、鼻、口に符節しているところから、そのような伝説が生じたのであろう。
 ところが、ゆうべ金田一耕助の見た人面瘡は、そんな怪しげなものではなさそうだった。
 ふたつの眼は単純な皺などではなくて、はれぼったい|瞼《まぶた》をひらけば、そこに水晶体の眼球があるにちがいないと思われた。
 鼻も偶然の凸所などではなくて、不完全ながら、ふたつの|鼻《び》|孔《こう》をそなえているように見えるのだ。
 唇もいろこそ悪いが、たしかに人間の唇のようにみえ、それを開くとそのおくに、歯なみがあるのではないかと思われた。
 それでいてその顔は、野球のボールくらいの大きさなのである。
 南洋の土人のなかには、人間の生首を保存する方法をしっている種族がある。
 それには|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》を抜きとってしまうのである。頭蓋骨をぬかれた首は、野球のボールくらいの大きさに収縮するが、それでもなおかつ、もとの顔のかたちを完全に保っているのである。
 金田一耕助もある大学の医学教室に、そういう生首の標本が保存してあるのをみたことがあるが、ゆうべ見た松代の人面瘡からうける感じは、そういう生首によく似ていた。
 昨夜――と、いうより今暁思わぬ活躍をした金田一耕助は、明方ごろやっと眠りについて、眼が覚めたのは十一時ごろだった。
 朝昼兼帯の食事をすませた金田一耕助が、縁側へ|籐《とう》|椅《い》|子《す》をもち出して新聞を読んでいると、|谿流《けいりゅう》の音にまじって、どこかで|蝉《せみ》がないているのが聞える。夜は冷えこむが日中はまだまだ暑いのだ。
 新聞にはべつに変ったことも出ていなかった。金田一耕助はそれを小卓のうえに投げ出すと、ぼんやりとゆうべ見た人面瘡のことを考えていたが、そこへ磯川警部が庭のほうから汗をふきながらやってきた。
「やあ、お早うございます」
「お早う……と、いう時刻じゃありませんがね」
 と、金田一耕助は白い歯を出してわらいながら、
「警部さんはゆうべ眠らなかったんでしょう」
「はあ。……でも、こんなこと慣れてますからな」
 と、磯川警部は赤く充血した眼をショボショボさせながら、それでも元気らしく、金田一耕助のまえの籐椅子にどっかと腰をおろした。
「お元気ですねえ。警部さんは……ぼくはどうも睡眠不足がいちばんこたえます。意気地がないんですね」
「なあに、こちとらは先生みたいに脳ミソを使いませんからな。頭を使うひとにゃ睡眠不足がいちばん毒でしょう」
「ときに、|検《けん》|屍《し》は……?」
「はあ、いますんだところです」
「死因は……?」
「解剖の結果をみなければ厳密なことはいえないわけですが、だいたいにおいて、|溺《でき》|死《し》と断定してもよろしいでしょうねえ」
「解剖はいつやるんですか」
「きょうの午後、ここでやることになってるんですが……金田一先生」
「はあ」
「またお手伝いねがえるでしょうねえ」
「まあね。ぼくでお役に立つことでしたら……それはまあ、そのときのことにしましょう。ところで溺死ということにして、他殺か自殺か過失死か……と、いうことはまだハッキリしないわけですか」
「はあ、そこまではまだ断定できませんが、ここにちょっと妙なことがあるんです」
「妙なこととおっしゃると……?」
「あの稚児が淵の周囲のどこからも、由紀子の着物が発見できないんです」
「ほほう」
「あの女、まさかここから裸であそこまで、のこのこ出向いていったわけじゃないでしょうがねえ」
「なるほど、それは妙ですね」
「はあ、それから、もうひとつ妙なことがあるんです」
「もうひとつ妙なことというと……?」
「いや、あの顛落した木柵ですがねえ。あれはやっぱり鋭利な|鋸《のこぎり》かなんかでひききってあったんです。つまりだれかがもたれると、淵のなかへ落ちるように仕掛けてあったんですね。しかも、鋸でひききったあとを、黒くぬってゴマ化してあるんです」
「なるほど」
「まあ、そういうところから見ると、他殺の|匂《にお》いもするんですが、と、いって、由紀子がその|罠《わな》に落ちたとも思えないんです。あなたもご存じのとおり、木柵は貞二君がもたれるまで、ちゃんとしていたんですからね。しかし、だれかがだれかを陥入れるために、あの木柵をひききってあったことはたしかですからね」
「なんだか複雑な事件のようですね」
「そうなんですよ。一見なんでもないような溺死事件に見えてますが、その底にはなにやらえたいのしれない複雑な事情がひそんでいるようです。だから、金田一先生」
「はあ」
「ひとつまたご協力願いたいんですが……」
「承知しました。それで、死体の状態は……?」
「それがまたふしぎでしてねえ」
 と、磯川警部は|眉《まゆ》をひそめて、
「あの稚児が淵というのは表面はあのとおりおだやかですが、水面下には岩がいっぱいあるんだそうです。しかも、底のほうにはかなり急な|渦《うず》がまいているんですが、由紀子はその渦にまきこまれたとみえて、全身にひどい|擦過傷《さっかしょう》をうけています。なかには肉のはじけたところもあり、そりゃ眼もあてられない死にざまです」
 と、磯川警部はいまわしそうに眉をひそめて、
「もっとも、それらの傷はぜんぶ死後できたものですから、当人としてはべつに苦痛は感じなかったでしょうがねえ」
「このへんのひとたち、あそこで泳いだりすることがあるんですか」
「ああ、そうそう、そのことですがね。だいたい稚児が淵というのはいまいったとおり、そうとう危険な場所ですから、男はともかく女はぜったいに泳いではならぬと、昔からいわれているんです。女が泳ぐときっとたたりがあるというんですね。ところが由紀子という女がアマノジャクで、みんながとめると、よけい面白がって泳ぐというふうだったそうです。だから、いまにたたりがあるぞと、土地のものがいってるところへ昨夜の事件ですから、てっきり稚児が淵のぬしのたたりだというんですよ。田舎のものは単純ですからね」
「泳ぎにいって溺れたにしても、着物のないのが妙ですね。ああいうところで泳ぐばあい、だいたい着物をぬぐ場所はきまってるんでしょう」
「ええ、そう、きのう|磧《かわら》から街道へあがっていったでしょう。あの磧をもう少しいったところで、由紀子はいつも着物をぬいでいたそうですが、それが見当らないんですね」
「それで、溺死の推定時刻は……?」
「昨夜の九時ごろ……九時を中心として、前後の一時間くらい幅をもたせた時刻だろうというんですがねえ」
「すると、昨夜の八時半から九時半までのあいだということになりますが、そんな時刻に女が泳ぎにいくというのはねえ」
 金田一耕助は昨夜、廁の窓から松代のすがたを目撃した時刻を思い出していた。
 あれはたしか午前一時ごろのことだったが、してみると、あの時刻の松代の行動と、由紀子の溺死とのあいだには、直接にはなんの関係もないわけだ。
「ところで、松代は由紀子の死の責任がじぶんにあるように考えているようですが、その時刻……由紀子が溺死したと思われる時刻における松代の行動は……?」
「さあ、それが妙ですよ。昨夜、松代はわたしたちの座敷につききりでしたよ」
 じつは昨夜、金田一耕助と磯川警部は名月を|賞《め》でながら、柄にもなく運座としゃれこんだのである。その席には貞二君もつらなっていた。
「あの娘はおとなしくて目立たないから、先生はお気づきだったかどうですか、終始この座敷にいましたよ」
「いや、それはわたしも気がついてましたよ。じぶんも俳句が好きだとかいってましたね」
「ええ、そう、ですから、あの娘が直接手をくだして、由紀子を殺したというのはおかしいんです。なにかそこに事情があることはあるんでしょうがねえ」
「貞二君は火傷の男が怪しいとかいってましたね。ありゃ、いったいどういう男なんです?」
「ああ、あの男……あれは|田《た》|代《しろ》|啓《けい》|吉《きち》といって大阪からきてるんですが、由紀子の昔の|識合《しりあ》いらしいんですね」
「なるほど、すると、由紀子を追っかけてきた……と、いうわけですかね」
「まあ、そこいらでしょうねえ。ときおり、由紀子とひそひそ話をしているのを見たものがあるといいますし、それに、あの男がきてから、由紀子はすっかりヒステリックになっていたと、ほかの奉公人たちもいってるんです」
「それで、その男のアリバイは……?」
「ところが、それがちゃんとあるんですね。女中がふたり宵から十二時ごろまで、あの男の部屋でおしゃべりをしていたというんです」
「なるほど、それじゃ……」
「ええ、それほどふかい|馴《な》|染《じ》みでもない客のために、女中がふたりまで、偽証するとは思えませんしねえ」
「貞二君は昨夜、われわれといっしょにいましたねえ」
 金田一耕助はしばらく黙ってかんがえていたが、やがて思い出したように、
「由紀子は昨夜、なにをしていたんですか」
「はあ、あの娘はちかごろ眼をわずらっていて、客のまえへは出ないことにしていたそうです。それに貞二との問題がこじれているところへ、なにかひっかかりのあるらしい田代という男がやってきたりしたので、すっかりヒステリーを起していたんですね。ちかごろはとかく部屋にひっこもりがちだったというんですが、まあ、そうでなくてもムシャクシャしているところへ、眼が悪くなっちゃ、いっそう憂うつになるわけでしょう」
「ここの湯は眼病にきくというのに、どうして眼をわずらったりしたのかな」
「それも稚児が淵で泳いだたたりだっていってますよ。田舎のものはたあいがありませんからね。あっはっは」
 金田一耕助はゆっくりとたばこを吸いつけた。それからしばらくよく晴れた空へまいあがる、煙のゆくすえを眺めていたが、やがておもむろに磯川警部のほうへむきなおった。
「それじゃ、さいごに貞二君を中心とした、松代と由紀子の三角関係についてきかせていただきましょうか」
「承知いたしました」
 金田一耕助の質問に応じて、磯川警部の語って聞かせた事情というのは、だいたいつぎのとおりである。
     五
 松代が薬師の湯へ女中として住み込んだのは、昭和二十年六月、戦争がまだたけなわのころだった。
 彼女ははじめから女中としてここへやってきたのではない。三月の大空襲で大阪を焼出された彼女は、ほとんど着のみ着のままの姿で、郷里の岡山県へ疎開してきたらしい。
 しかし、当時の都会人と農村のひとたちとのあいだには、とかく意志の|疏《そ》|通《つう》をかいていた。農村のひとたちもいいかおをしていれば、つぎからつぎへと疎開してくる都会の連中に、喰いつぶされるおそれがあった。
 物質でももっていればともかくも、松代のように着のみ着のままの疎開者は、農村としてももっとも迷惑な存在だった。けっきょくどこへいってもあたたかく松代を迎えいれてくれる家はなかったらしく、彼女はまるで乞食のように諸処方々を転々しなければならなかった。
 そして、絶望のあまり自殺一歩手前の心境で、|辿《たど》りついたのがこの薬師の湯である。
 当時、薬師の湯は軍に徴用されて、傷病兵の療養所になっており、いくら手があっても足りない状態だった。
 そのじぶん女あるじのお柳さまはまだ達者だったが、良人はとっくの昔に故人になっており、ひとり息子の貞二君は兵隊にとられて満州にいた。だから、しっかりもののお柳さまが三人の女中をあいてに、てんてこまいをしているところへ、ころげこんできたのが松代である。
 お柳さまは一も二もなく松代をひろいあげて女中にした。猫の手も足りないくらいの当時の事情では、|氏素姓《うじすじょう》、身許しらべなどしているひまはなかったのである。
 使ってみると松代はかげ|日向《ひなた》なくよく働いた。
 松代は口数の少い女であった。それとどっか暗いかげを背負うているような|淋《さび》しいところがあるのが難だったが、気性のやさしい、細かいところまでよく気のつく、まめやかな性質が、女あるじのお柳さまの気にいった。
 傷病兵たちのあいだでも人気があって、松代はひっぱりだこだった。淋しいところを難としても、松代は美人でとおるに十分な器量の持主だった。傷病兵の二、三から求婚されたという|噂《うわさ》もあったくらいだ。
 やがて戦争がおわって、薬師の湯が昔の経営状態にかえっても、松代はひまをとろうとしなかった。お柳さまもまた松代を手ばなそうとはしなかった。
 お柳さまは日ましに松代がかわいくなり、いつか、貞二が復員してきたら……と、楽しい夢想をえがくようにさえなっていた。
 ただ、それにたいして大きな障害となったのは、松代の|素姓《すじょう》がわからないことだった。
 どういうわけか、松代はどんなに訊かれても、じぶんの素姓を打ちあけようとしなかった。故郷が岡山のどこなのか、大阪でなにをしていたのか、いっさい口をつぐんで語ろうとはしなかった。
 あんまりしつこく訊くと泣き出すしまつで、どうかすると熱を出して寝ついたりした。なにかしら過去について、よほどひとにしられたくないことがあるらしく、あんまりそれを追求すると、ひまをとって出ていきそうにするのだった。
 それがお柳さまにとっては不安の種だったが、しかし、そのことを除いては、松代のすべてがお柳さまの気に入っているので、彼女に出ていかれては困るのであった。
 松代が前身をひたかくしにしていることに、絶えず不安と|危《き》|懼《く》をかんじながらも、お柳さまはやはり松代にたいする信頼をうしなわなかった。
 長いあいだ湯治宿を経営していて、いつも数人の奉公人を使ってきたお柳さまは、ひとを見る眼をもっているという自負があった。
 だから、松代が過去をかくしているにしても、松代自身に罪科があろうなどとは思えなかった。なにかしら大きな不幸に見舞われて、それを口にするのを潔しとしないのであろうと、お柳さまはかえって松代をいとおしがった。
 ことに昭和二十二年の秋、中風で倒れてからというものは、いよいよ松代が手ばなせないものになってきた。お柳さまが倒れたのは、やはり、いつ復員するともわからぬ貞二君の身を思いわずらったからであろう。
 松代はじっさいよく働いた。お柳さまにもよく仕えてその面倒も見た。少しもいやな顔もせず、お柳さまのおしもの始末までした。
 いっぽう温泉宿の経営も常態に復して、客もだんだん多くなった。松代はそのほうでも骨身を砕いてはたらいた。
 いまでは松代は、薬師の湯ではなくてはならぬ存在になっていた。
 そこへ待ちに待った貞二君がシベリヤから復員してきた。それが去年の秋のことで、お柳さまのよろこびはいうまでもないが、さらに彼女をよろこばせたのは、かねて彼女がいだいていた夢想が、どうやら実現しそうな気配になってきたことである。
 貞二君はすさんでいた。|苛《か》|烈《れつ》な戦争から戦後の|抑留《よくりゅう》生活が、貞二君の心をかたくなにし、すさんでとげとげしいものにしていた。その冷えきった魂に人間らしい温味を吹きこんでいったのは松代の存在だった。
 貞二君は母のそばに意外にうつくしいひとを発見し、そのひとの母に対する献身的な、やさしい心使いのかずかずを見るにつけて、とげとげしく冷えきった心もしだいになごんでくるのを覚えた。
 ちょうど春の氷がとけていくように、かれの魂にも愛情という暖い日差しが訪れてきた。ひかえめながらも、松代の貞二君をみる眼にも、しだいにもの思わしげないろがふかくなってきた。
 お柳さまにとってはそれこそ思う|壺《つぼ》だった。
 若いふたりのあいだに愛情が芽生え、育っていくということは、年老いた母にとってはこのうえもない喜びであると同時に希望でもあったが、ここでも難点は松代の素姓がハッキリしないということだった。
 薬師の湯は温泉宿とはいえ、由緒正しい家柄だった。どこの馬の骨とも牛の骨ともわからぬものを嫁にするわけにはいかなかった。ましてや、過去に暗いかげを背負うているとあってはなおさらのことだった。
 それにもかかわらず松代は依然として、その過去について口をわらなかった。
 このことが障害となって、三人が三人ともこの縁談に心がすすみながら、奥歯にもののはさまったような日がつづいた。
 ところがそこへとつぜん、新しい事態がもちあがって、がらりと局面が一変した。それが由紀子の出現である。
 ある日、とつぜん姉を頼って、由紀子がたよってきたときの、松代のおどろきようったらなかった。松代をあんなに信頼しているお柳さまでさえ、そのときの松代の態度ばかりは|腑《ふ》に落ちなかった。妹が訪ねてきたというのに、松代はまるで幽霊にでも|出《で》|逢《あ》ったように、まっさおになってふるえていた。いまにも気をうしなって倒れそうな眼つきをした。
 しかし、由紀子はいっこう平気で、しゃあしゃあとしてこんなことをいっていた。
 終戦後、じぶんは神戸や大阪のバーやキャバレーで働いていたが、どこへいっても思わしくないおりから、風のたよりに姉がここにいるときいたからとんできた。都会はもういやになったから、ここで女中に雇ってほしいと。
 そうして由紀子はそのまま薬師の湯に住みついたが、この由紀子の口からはじめて松代の素姓がわかってきたのである。
 松代はおなじ岡山県のO市でも、有名な菓子の司、福田家の長女にうまれた。
 福田屋というのは江戸時代からながくつづいた|老舗《しにせ》で、そこで売出す宝|饅頭《まんじゅう》というのは、岡山でもなだかい名物になっていた。ところが、戦争中砂糖の輸入が|杜《と》|絶《ぜつ》したころから、しだいに店が左前になって、いまではすっかり没落している。
 松代はしかしそのまえから、神戸にある親戚の|葉《は》|山《やま》といううちへあずけられていた。
 葉山家の次男|譲治《じょうじ》というのと縁談がまとまっていて、松代はそこへ花嫁修業のためにひきとられていたのだ。当時、譲治は私立大学の機械科を出て、航空機会社の技師をしていた。
 ところがそこへ福田家の没落がやってきて、にっちもさっちもいかなくなったところから、妹の由紀子も葉山家へあずけられることになった。
 そこで葉山家では家が手狭になったところから、つい近所にもう一軒かりて、そこへまだ式はすんでいなかったけれど、譲治と松代を住まわせ、由紀子もそのほうへ預けられていた。
 そこへ昭和二十年三月のあの大空襲がやってきたのだ。不幸にも葉山家のある付近一帯は猛火につつまれ、譲治は火にまかれて死んだ。そして、松代もそれ以来、ゆくえがわからなくなっていたというのが由紀子の話なのである。
 お柳さまはこの話をきいてひどくよろこんだ。福田屋といえば薬師の湯に劣らぬ名家であった。そこの娘ならば家柄としても申分なかった。
 ただ、お柳さまにとって|腑《ふ》に落ちないのは、なぜそのことを松代がひたかくしにかくしていたかということである。由紀子の話が真実とすれば、そこにはべつに秘密にしなければならぬ理由は、いささかなりともなさそうに思われる。それがお柳さまにとっては不思議であった。
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