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[横沟正史] 人面疮

_8 横溝正史(日)
 しかし、それも考えようによっては、女のせまい心から、福田屋の娘ともあろうものが、温泉宿の女中などしていることを恥じたのかもしれない。
 それともうひとつ考えられるのは、松代と譲治とのあいだに、もっと深い関係があったのかもしれない。たとえ婚約のあいだがらとはいえ、まだ式もすまぬうちに、そういう関係になっていたのを、ものがたい松代は恥として、それを知られることを恐れていたのではあるまいか。……
 しかし、それもあいてが死んでしまったいまとなっては、なんの障害があろうか。むろん処女でないというのは残念だが、おたがいに好きあっていれば、それもたいして問題にはならないだろう。
 そこでお柳さまは手をまわして、福田屋のことを詳しく調べてみたが、由紀子の話にすこしも間違いはなかった。
 松代はたしかに福田屋の長女であり、葉山譲治という婚約者があったが、それも三月の神戸の大空襲で死亡したということも、ハッキリたしかめることができた。その譲治と肉体的に関係があったかなかったか、そこまではたしかめようもなかったが。……
 これで貞二君との結婚に、なんの障害もないことになったので、お柳さまは大喜びだったが、そこへまた思いがけない障害が持ちあがって、お柳さまを失望のどん底へ|叩《たた》きこんだ。
 由紀子と貞二君がひとめをしのんで、おくの|納《なん》|戸《ど》や土蔵へひそむようなことが、おいおいひとめについてきた。
 由紀子というのは姉とちがって、派手で、明るい美貌の持主だが、気性も大胆で、積極的だった。キャバレーやダンスホールを渡りあるいてきているだけに、男の心をかきみだすコケティッシュなところもたぶんにそなえていた。そういう女にかかっては、貞二君のごときはひとたまりもなかった。
 由紀子は貞二君と姉との関係、お柳さまの気持ちなど、百も承知のうえで、貞二君を誘惑したらしい。
 それ以来、薬師の湯にはいざこざが絶えなかった。お柳さまと由紀子とはことごとにいがみあった。しかし、由紀子はお柳さまがどんなにいきり立とうと平気だった。
 いちど関係ができてしまうと、貞二君はもう由紀子に頭があがらなかった。由紀子の歓心をかうために、貞二君は日夜きゅうきゅうたるありさまだった。貞二君をすっかり|自《じ》|家《か》|薬《やく》|籠《ろう》|中《ちゅう》のものにまるめこんだ由紀子は、じじつ上薬師の湯の女あるじとしてふるまった。半身不随のお柳さまなど眼中になかった。いわんや松代においておやである。
 いちど貞二君の嫁として予定されていた松代は、またもとの女中の地位に|蹴《け》|落《おと》されて、妹の虐使に甘んじなければならなかった。彼女は妹にどんなに口ぎたなくののしられても、黙々として立働いた。
 貞二君は心中どう思っていたかわからない。あるいはお柳さまにすまない、松代に悪いと|煩《はん》|悶《もん》していたのかもしれない。しかし、貞二君のような気の弱い男は、いちど関係ができてしまうと、女に頭のあがらないものである。
 由紀子とのあいだに夜毎展開される肉の饗宴が、貞二君の身も心もただらせ、すさませ、貞二君からすっかり理性をうばってしまった。どうかすると昼間から抱きあって、あたりはばからぬ法悦に、のたうちまわっているふたりの姿を、奉公人たちが目撃して、顔を赤くするようなことも珍しくなかった。
 こうしてただれたふたりの関係が、一種異様な雰囲気を薬師の湯へただよわせているところへ出現したのが、あの顔半面に大火傷のある田代啓吉という男である。そして、そのことがまた局面を一変してしまったのだ。
 一週間ほどまえ、田代啓吉という火傷の男が薬師の湯へやってきたときの、由紀子のおどろきといったらなかった。それはちょうど由紀子がはじめてここへやってきたときの、松代のおどろきにも似ていた。
 由紀子はひどくおびえがちになり、ヒステリックになった。たまたま以前から患っていた眼病が悪化したことも手伝って、彼女はめったにじぶんの部屋から出なくなり、貞二君が押しかけていっても、まえのように|媚《こ》びをたたえて迎えるようなことはなく、かえってぎゃくに、剣もホロロに追いかえした。
 そのことが貞二君をいらだたせ、粗暴にし、なにかしら突発しなければやまぬような、険悪な雲行きになっているところへ持上ったのが、昨夜の由紀子の変死事件であった。……
「なるほど」
 と、磯川警部の長い話をききおわった金田一耕助は、考えぶかい眼付きでうなずきながら、
「それで、貞二君は田代啓吉という男を疑っているんですか」
「そうです、そうです。ところがその田代にはアリバイがある……」
「いったい、その田代という男は由紀子とどういう関係があるんです。それはまだわかっていないんですか」
「はあ、それはあとで訊いてみようと思ってるんですが、由紀子がああなったいまとなっては、素直に泥を吐きますかね」
「ああして大火傷の跡があるところをみると、なにか空襲に関係があるんじゃないでしょうかねえ」
「いや、わたしもそれを考えてるんですがねえ」
「松代の婚約者だった葉山譲治という男は、三月の神戸の大空襲で死亡したということでしたねえ」
「はあ。……金田一先生はあの男を葉山譲治だとお考えですか」
「いや、いや、葉山ならば由紀子よりむしろ松代のほうがおどろくはずですからねえ」
 金田一耕助はしばらく黙って考えこんでいたが、やがてまた磯川警部のほうをふりかえると、
「ときに松代の容態はどうですか。まだ話ができる状態じゃないんですか」
「はあ、けさがた意識を取りもどしましたが、まだひどく|昂《こう》|奮《ふん》しているものですから……」
「ああ、そう」
 金田一耕助はそのまま黙って、庭にそそぐすすきの穂に眼をそそいでいた。
 日差しはまだ暑かったが、秋はもうそこまで忍びよってきているのである。
     六
 その午後、岡山市から出張してきたT博士執刀のもとに、由紀子の解剖が行われたが、かくべつ|検《けん》|屍《し》の結果をくつがえすような材料も発見されなかった。
 由紀子の死因はたしかに|溺《でき》|死《し》で、その時刻も昨夜の九時前後と断定された。
 しかし、溺死と断定されたといっても、そこから一足飛びに、自殺か他殺か、それとも過失死か、そこまでは決定するわけにはいかなかった。
 不思議なことには、きのう着ていた由紀子の着物は、家の内からも外からも発見されず、それが|一《いち》|抹《まつ》の疑惑として取りのこされた。しかし、繊維品が貴重品扱いされる当節のこととて、だれかが由紀子の脱ぎすてた衣類を、こっそり持ち去ったのかもしれなかった。こういう山の奥のひなびた山村でも、油断もすきもない時代なのである。
 解剖の結果をきいて金田一耕助と磯川警部が一服しているところへ、貞二君がしずんだ顔をしてやってきた。
「先生」
 貞二君のようすはゆうべからみると、だいぶんおだやかになっている。
 いちじの昂奮がおさまったのと、ゆうべ危いところを救われたことにたいする感謝のおもいが、貞二君の態度からいくぶんなりとも、とげとげしさを拭い去ったのであろう。
「貞二君、なにか用……?」
 磯川警部は物問いたげな視線をむけると、貞二君はしょんぼりと頭を垂れて、
「はあ、松代が金田一先生と磯川警部さんに、なにかお話し申上げたいことがあるというのです。ぜひ聞いていただきたいことがあるから、ご迷惑でもむこうの部屋へきていただけないかといっているんですが……」
 金田一耕助と磯川警部はふっと顔を見合わせたが、金田一耕助はすぐ気軽に立ちあがって、
「ああ、そう、警部さん、それじゃお伺いしようじゃありませんか」
 昨夜の部屋へ入っていくと、寝床のうえに起きなおった松代が、|蒼《あお》い顔をしてふたりを迎えた。その顔はいくらか|硬《こわ》|張《ば》っていたが、なにもかも|諦《あきら》めつくしたような平静さがそこにあった。
 そのそばの積み重ねた夜具にはお柳さまがよりかかっていて、気づかわしそうに松代の横顔を見まもっていた。
 松代は磯川警部の顔をみると、ひくい声で昨夜の応急処置の礼をいった。
「いや、いや」
 と、磯川警部は厚いてのひらを気軽にふって、
「それはわしのせいじゃない。あんたの運が強かったんじゃな。しかし、そんなことよりも、なにか話があるということだが、体のほうは大丈夫かな。あんまり無理をせんほうがいいよ」
「はあ、有難うございます。でも、どうしてもみなさんに聞いていただきたい話がございますもんですから……」
「ああ、そう、じゃ、ぼつぼつでいいから聞かせてもらおうか」
「はあ……」
 松代は強い決意のこもった眼で、金田一耕助と磯川警部を見くらべながら、
「さきほど貞二さまからおうかがいしたんでございますけれど、由紀ちゃんの死んだのは昨夜の九時ごろのことだということでございますけれど……」
「ああ、そういうことになっている」
「しかし、それ、なにかの間違いじゃございませんでしょうか」
「間違いというと……?」
「いいえ、由紀ちゃんの死んだのはゆうべの九時ごろじゃなく、ほんとうは、けさの一時ごろではないかと思うんですけれど……」
 磯川警部は金田一耕助と顔見合せたが、やがておだやかに体を乗りだすと、
「松代君、科学というものをもう少し信用してもらわなければ困るね。けさの検屍の結果も、さきほどの解剖の結果も一致しているんだよ。由紀ちゃんの死んだのは昨夜の八時半から九時半までのあいだにちがいなし」
「はあ……」
 と、松代はたゆとうような眼をあげて、磯川警部と金田一耕助の顔を見くらべている。その眼にはかえって不安の色が濃かった。
「しかし、松代君、君はどうして検屍や解剖の結果に疑問をもつんだね。由紀ちゃんの死んだのを一時ごろだと、どうして君は考えるんだね」
「すみません。決してみなさんを信用しないというわけではないのですが……」
 松代は瞳に涙をにじませると、溜息をつくように鼻をすすって、
「それじゃ、由紀ちゃんを殺したのはあたしじゃなかったのでしょうか」
 と、自分で自分に語ってきかせるようなひくい、思いつめた声である。
「君じゃないね」
 と、言下に磯川警部が断定した。
「げんにその時刻には君は、おれたちといっしょにいたじゃないか。おたがいにへたな俳句をつくっていたんだ。そうだろう」
「はい」
「しかし、松代君、君はまたどうしてそんなバカな|妄《もう》|想《そう》をえがいたんだ。由紀ちゃんを殺したのはじぶんだなんて……」
「はあ……」
 松代はちょっと鼻白んだようにためらったが、すぐ決心をかためたように、キラキラと涙にうるんだ眼をあげると、
「警部さんも金田一先生も聞いてください。わたしには幼いときから、とてもいやな、|羞《はず》かしい病気がございますの」
「羞かしい病気というと……?」
「はあ……それはこうでございます。なにかひどく心に屈託があったり、また心配ごとがあったりいたしますと、夜眠ってからフラフラと歩きだすのでございます」
「夢遊病……と、いうやつかね」
 磯川警部はおどろいたように|眉《まゆ》をつりあげて、金田一耕助をふりかえった。
 しかし、ゆうべその現場を見ている耕助はべつにおどろきもせず、松代の顔を見まもっている。お柳さまはあいかわらず気づかわしそうな顔色だった。
「はあ……でも、十四、五のころから、そういうこともしだいに少くなってまいりまして、こちらさまへまいってからは、皆さまにかわいがっていただくせいか、いちどもそういう経験はございませんでした」
「ああ、ちょっと……」
 と、金田一耕助がさえぎって、
「そういう発作を起したときには、じぶんでもわかるもんですか」
「はあ、それがなんとなくわかるんでございますの。夢中で歩いてきても眼がさめてから、なんとなくはっと思い当るようなことがございまして……そういうとき、じぶんの着て寝たものや、手脚などを調べてみますと、その痕跡があるんですの。なにかこう、潜在意識下かなにかに、発作を起したという記憶がのこるらしいんですの」
「なるほど、それがこちらへきてからは、そういう経験がなかったんですね」
「はあ、いちども。……ですから、わたしも忘れたつもりでいたんです。ところが、どうでしょう、ゆうべ久しぶりにその発作が起きたらしいんでございますの。いや、起きたらしいんじゃない、たしかに起きたんでございますの」
「それ、どうしてそうハッキリわかるんですか。やはり潜在意識下の記憶かなにかで……」
「いいえ、ゆうべのはもっとはっきりしておりました。眼がさめたときあたしは|稚《ち》|児《ご》が|淵《ふち》のうえの、|天《てん》|狗《ぐ》の鼻のとっさきに立っておりましたから……」
「まあ!」
 と、お柳さまは|怯《おび》えたように瞳をおののかせる。貞二君は下唇をかみしめながら、喰いいるようにその横顔を見つめていた。
「それで……」
「ああ、ちょっと待ってください」
 と、金田一耕助は言葉をつづけようとする松代を、すばやくさえぎると、
「松代君はなにか稚児が淵か天狗の鼻に、心をひかれることでもあるんですか」
「はあ、あの……」
「いやね、夢中遊行時の行動といえども、かならずしも当人にとっちゃでたらめの行動じゃないと思うんですよ。君はいま潜在意識という言葉をつかったが、夢中遊行時の行動にも、潜在意識下の願望があらわれると思うんだが、君はなにか稚児が淵に……?」
「はあ、あの、そうおっしゃれば……」
 と、松代は貞二君の視線を避けるように|瞼《まぶた》をふせると、
「あたし、このあいだから死にたい、死にたいと思いつづけていましたから……ひょっとすると、稚児が淵をその死場所ときめていたのでは……」
 ふっさりと伏せた長い|睫毛《ま つ げ》のさきにたまった涙の玉が、ほろりと|膝《ひざ》のうえにこぼれおちる。お柳さまが貞二君のほうをふりかえると、貞二君はただ黙って暗い顔をそむけた。
「なるほど、それじゃ、君は夢中遊行を起して、稚児が淵へ身投げにいったということになるんですね」
「はあ……あの……そうかもしれません」
 松代の伏せた睫毛から、またホロリと涙の玉が膝にこぼれた。
「それから……?」
「はあ……それで気がついてみると天狗の鼻のうえに立っておりますでしょう。わたしもうびっくりしてしまいました。いいえ、びっくりしたと申しますのは、天狗の鼻に立っていたということより、またじぶんが夢遊病を起したということに気がついたからでございますわね」
「ああ、なるほど、そりゃそうでしょうねえ」
「それで、あたしすっかり怖くなってあわててひきかえそうとしますと、そのとき、ふと眼についたのが稚児の淵のそばに浮いている白いものでございます。おや、なんだろうと|覗《のぞ》いてみて、それが由紀ちゃんだとわかったときのわたしの驚き!……どうぞお察しくださいまし」
 松代は両手で眼頭をおさえると、呼吸をのんで|嗚《お》|咽《えつ》した。
 金田一耕助と磯川警部、お柳さまと貞二君の四人はしいんと黙りこんだまま、松代のつぎの言葉を待っている。
 松代はまもなく顔をあげると、うつろの眼であらぬかたを視つめながら、けだるそうな声で言葉をつづけた。
「あたしじぶんの部屋へかえってから考えました。はい、考えて考えて考えぬいたのでございます。由紀ちゃんは自殺などするひとじゃありません。と、いって眼病が悪化してから、部屋のなかへ閉じこもったきりでしたから、夜更けて泳ぎにいこうなどとは思われません。と、すると、あたしが殺したのではあるまいか。どういう方法で殺したのかわかりませんが、夢遊病の発作を起しているあいだに、あたしが殺したのではないかと……それで……」
「ああ、ちょっと待ってください」
 と、金田一耕助はさえぎると、
「しかし、それはまた考えかたが、あまり飛躍しすぎやあしませんか。ごじぶんの夢中遊行時に、たまたま由紀ちゃんが死んだからって、それをじぶんの責任のように思いこむというのは……?」
「いいえ、それにはわけがあるのでございます」
「そのわけというのを聞かせていただけますか」
「はあ……」
 と、松代はあいかわらず、放心したような眼を窓外にむけたまま、
「あたしはまえにもおなじような状態で、由紀ちゃんを殺したことがあるんです。いえいえ、由紀ちゃんはああして生きてかえってきましたけれど、譲治さんはそれきり死んでしまったのです。あたしが……」
 と、松代はちょっと嗚咽して、
「あたしが譲治さんを殺したのです。|嫉《しっ》|妬《と》のあまり譲治さんを殺してしまったのです」
 涙こそおとさなかったが、松代の顔にはいたましい悲哀のいろが、救いがたい絶望とともにえぐりつけられている。
 お柳さまは怯えたように眼を見張り、貞二君は下唇を強くかみ、金田一耕助と磯川警部は顔見合せた。
「松代さん」
 と、金田一耕助は膝をすすめて、
「そのときのことを話してくださいますか」
 松代はいたいたしく|頬《ほほ》|笑《え》んで、
「はあ、なにもかもお話し申上げる約束でしたわねえ。それではお話しいたしますから、みなさんもお聞きくださいまし」
 そのとき松代がとぎれとぎれに語ったのは、つぎのようないたましい話であった。
 松代と由紀子はふしぎな姉妹であった。由紀子は幼いときから、姉のものをかたっぱしから横奪りするくせがあった。
 両親がふたりになにか買いあたえると、由紀子はいつも姉のぶんまで手に入れなければ承知しなかった。姉の持っているものはすべてよく見え、姉の幸福はすべてねたましく、|羨《うらやま》しかった。そして、じぶんにだいじなものを横奪りされて、悲しそうな顔をしている姉を見るとき、由紀子はこのうえもなく幸福をかんじるらしかった。
 ところが松代は松代で、妹にたいしてふしぎな罪業感をいだいていたらしい。それはじぶんでも説明のつかない罪業感だった。
 なにかしら、じぶんは妹にたいしてよくないことをしている。妹にたいして致命的なあやまちを犯している。……
 考えてみるとなんの理屈もないそういう罪業感が、ものごころつく時分から松代の心を悩ませ、だから、じぶんはその埋合せとして、妹のいうことならばどんなことでも、きいてやらねばならぬと心にきめていた。
 それがいよいよ由紀子を増長させたらしい。
 福田家が没落して、神戸の葉山家へひきとられると、由紀子はひと月もたたぬうちに、姉の婚約者を奪ってしまった。手っとりばやく彼女は譲治と肉体的関係を結んでしまったのだ。
 だから、葉山の両親が式こそすませていないが、じじつ上の夫婦として譲治と松代にあてがった家で、じっさいの夫婦として夜毎のいとなみをおこなっていたのは、譲治と妹の由紀子であった。松代はひとり女中部屋で寝かされた。
 譲治はもう松代に見向きもしなかった。以前かれは松代に迫って、さいごのものを要求したことが二、三度あった。
 そのとき、式もすまさないうちにそんなことをと、松代がものがたく拒絶したのが、譲治の気にさわっていたのか、由紀子とそういう関係になると、譲治はわざと松代のまえで妹の由紀子とふざけてみせたりした。しかも、そういうことが由紀子の趣味にも合致していたらしい。
 由紀子には露出狂の傾向があったらしく、どうかすると譲治を誘って、わざと姉のまえで抱きあってみせ、あられもない痴態をみせつけることによって、よりいっそうの快楽をむさぼっていたらしい。
 そういうことが松代の心をきずつけずにはいられなかった。松代の実家も葉山の両親も、ものがたいひとたちだったから、こんなことがわかったら、ただですむはずはなかった。松代はじぶんのこともじぶんのことだが、譲治と妹のために破局のやってくるのをおそれていた。
「その心配が昂じたのでしょうか、忘れもしないあれは三月の大空襲の夜でした。あたしはながいあいだ忘れていた夢遊病を起したのでございます。そしてただならぬ気配にはっと気がつくと、あたしは譲治さんと由紀ちゃんの寝室に立っていました。しかも|足《あし》|下《もと》には譲治さんが血まみれになって倒れており、由紀ちゃんがこれまた血まみれになって、あたしにすがりついておりました。姉さん、かんにんして……かんにんして……と、叫びながら……」
 疲労が蒼い|隈《くま》となって松代の眼のふちをとりまいた。唇もかさかさにかわいて|色《いろ》|褪《あ》せていた。松代の眼には涙もなく、ただ痛烈な悲哀がかげのように漂うていた。
「あたしはびっくりしてじぶんの手を見ました。すると、どうでしょう、あたしの手には肉斬り|庖丁《ぼうちょう》が握られているではありませんか。……」
 松代はのけぞるばかりにおどろいた。そして、じぶんのやったことなのかと妹に尋ねた。
 それにたいする由紀子の答えはこうだった。
 じぶんと譲治さんが寝ているところへ、だしぬけに姉さんがその庖丁をもってとびこんできて、譲治さんをズタズタに斬り殺し、じぶんもこれこのように。……
 と、由紀子がみせた左の胸部からは、恐ろしく血が吹きだしていた。
 松代は恐怖のあまり肉斬り庖丁をそこへ投げだし、そのままそこから逃げだしたが、その直後に起ったのがあの大空襲だった。
「なにもかもがめちゃくちゃでした。あたしは恐ろしい罪業と、あの大空襲で気が狂うようでした。一夜の空襲で|灰《かい》|燼《じん》と帰した神戸を捨てて、あたしはあてもなく疎開列車に乗りこみましたが、とても郷里へかえる勇気はありません。あたしは恐ろしい罪の思い出をいだいて、岡山県のあちこちを放浪したあげく、とうとう|辿《たど》りついたのがこの家でございます」
 このとき、こらえきれなくなったかのように、松代の眼には涙がにじんだ。松代は涙のにじんだ眼をお柳さまにむけて、
「あのときのご隠居さまのご親切は、死んでも忘れることはできません。罪深いあたしをご隠居さまは、やさしい愛情で抱きくるんでくださいました。ご隠居さまがやさしくしてくださればくださるほど、あたしの心はうずき苦しみました。あたしにとって恐ろしいのは、過去の罪業も罪業でしたが、それ以上に現実に、日夜やさしいご隠居さまを、あざむきつづけているということでございました。たとえ夢遊病の発作中とはいえ、……いいえ、そのようなことはなんの弁解にもなりませんわねえ。あたしはひとを殺した女なのです。ご隠居さまのやさしいご親切を、受入れるねうちのない女なのでございます」
 金田一耕助がなにかいおうとした。しかし、松代はすばやくそれをさえぎると、あいかわらずふかい哀愁のこもった声で語りつづけた。
「この春ごろからあたしの右の|腋《わき》の下に、ふしぎなおできができました。はじめのうちはたいして気にもとめませんでしたが、それがぐんぐん大きくなって、人間の顔のようになりました。あるときあたしは鏡にうつしてそのおできを見て、それが由紀ちゃんの顔にそっくりなのに気がついたとき、あたしはそのまま死んでしまわなかったのが、いまから思ってもふしぎなくらいです。そのときあたしは思ったのです。由紀ちゃんの|呪《のろ》いがこもって、このようないまわしいおできができたのだと……」
 松代はふかい溜息を吐くと、しずかにひと滴の涙を指でぬぐうて、
「そのときも、あたしはよっぽど死のうかと思ったのです。あたしが死のうと考えたのは、そのときがさいしょではございません。この家へ辿りつくまで……いえいえ、このお家へ辿りついてからも、なんど死を思いつめたかしれません。しかし、意気地のないあたしには、いつもそれを決行することができないのでした。このいやらしいおできができたときも、あたしは死を思いつめ、迷い、ためらい、じぶんを叱り、ずいぶん苦しんだのでしたが、なんとそこへひょっこりと、死んだと思った由紀ちゃんが訪ねてきたではございませんか」
 松代はかすかに身ぶるいをすると、
「由紀ちゃんはかえってあたしを慰めてくれました。なんでも由紀ちゃんはひどい傷だったけれど、危いところでいのちを取りとめたのだそうでございます。由紀ちゃんはいいました。譲治さんの死体は空襲でやけてしまったから、だれもあのことをしっているものはない。昔のことは忘れてしまいなさいと……」
 松代の眼からまた放心のいろがふかくなってきた。彼女はうつろの眼を縁側の外へはなったまま、
「由紀ちゃんはあたしを許してくれました。しかし、由紀ちゃんが許してくれても、譲治さんを殺したあたしの罪は消えるものではございません。こういういまわしいおできができたのも、ゆうべのような出来事が起る前兆だったのではございますまいか。由紀ちゃんの呪いはやはりあたしの胎内に宿っているのでございます。ご隠居さま、先生、警部さま、ゆうべ手を下して由紀ちゃんを殺したのは、あたしでなかったかもしれません。でも、そのまえにあたしは譲治さんを殺しているのです。あたしはやっぱり人殺しの犯人でございます」
 語りおわって松代はシーンと涙をのんで泣いていた。
 磯川警部は唇をへの字なりに結んで、にがにがしげに渋面をつくっている。
 松代はこういう告白をする必要はなかったのだ。彼女が語るところが真実としても、いまではなんの証拠も|蒐集《しゅうしゅう》することはできないであろう。あの大空襲がなにもかも焼きはらってしまって、松代の罪業はあとかたもなく消滅してしまったのだ。しかし、警部としては職業柄、こういう告白を聞いた以上、聞きずてにするわけにはいかなかった。
 磯川警部が困ったように金田一耕助と顔を見合せているところへ、障子の外からかるい|咳《せき》|払《ばら》いとともに、ひくい、沈んだ男の声がきこえてきた。
「御免ください。田代啓吉でございます。ちょっとお耳に入れておきたいことがあるんですが……」
     七
「御無礼はじゅうじゅう存じております。御無礼を承知のうえで立聴きしておりましたのは、いろいろわけのあることでして……ところが立聴きが立聴きですませなくなりましたので、こうして顔を出しましたようなわけで……」
 火傷の男は顔半面、赤黒くてらてら光る頬っぺたをひきつらせて、静かに障子の外にすわっている。貞二君は敵意のこもった|眼《まな》|差《ざ》しで、火傷にひきつった顔をにらんでいる。
 お柳さまと松代はふしぎそうな顔色だった。
「ああ、そう」
 と、磯川警部はいたって気軽な調子で、
「さあ、さあ、どうぞこちらへお入りください。じつはこちらからあんたのほうへ、出向いていくつもりだったんですが……」
「はあ。それでは……」
 と、部屋のなかへ入ってきた田代啓吉は、静かにうしろの障子をしめると、一同にかるく頭をさげて、
「じつはいま松代さんのお話を伺っていて、これはどうしてもみなさんに、申上げておかねばならぬと思ったことがございましたものですから……お聞きくださるでしょうか」
「はあ、はあ、承りましょう。まあ、そこへお|坐《すわ》りください」
 磯川警部がすこし|膝《ひざ》をずらして席を譲ると、
「はあ、ありがとうございます」
 と、火傷の男はまたかるく頭をさげると、
「そのまえに、まずわたしの身分から申上げておかねばなりませんが、松代さん」
「はあ……」
「あなたはわたしをご存じないでしょうねえ」
「はあ、あの、いっこうに……」
 と、松代は薄気味悪そうな顔色である。
「いや、あなたがご存じないのは当然ですが、じつはわたしはあなたとおなじ市のうまれのものなんですよ。しかも、由紀ちゃんが神戸の葉山さんのお宅へひきとられるまで、ごく親しくご交際をねがっていたものなんです。いや、もっとざっくばらんに申上げますと、おたがいに、まあ、なにもかも許しあっていた仲なんです」
 田代にジロリと|尻《しり》|眼《め》に見られて、貞二君はかっと|頬《ほお》に血がのぼったようである。
「はあ、はあ、なるほど、それで……?」
 貞二君がなにかいいだしそうにするのに先手をうって、磯川警部があとをうながした。
「はあ、なにしろわたしにとってははじめての女ですから、まあ、由紀ちゃんのことが忘れられなかったわけです。ところが、そのうち由紀ちゃんは神戸のほうへひきとられていく。なにしろ、ああいう気性のひとですから……いや、じつは郷里にいるじぶんからいろいろ男と|噂《うわさ》のあったひとなんです。ご両親はご存じでしたかどうか……それで、ぼくとしても心配で心配でたまりません。むこうでまた男でもできやしないかと思うと、いても立ってもいられないわけです」
「ふむふむ、なるほど……」
「はあ……ところが情ないことにはそのじぶんぼくは徴用で、市をはなれることができない身分で、それだけにいっそうやきもきしていたわけです。ところが、そのうちにわたしは|肺浸潤《はいしんじゅん》にかかりまして……なにが仕合せになるかわからないもので、そのおかげでわたし徴用解除になったわけです」
「なるほど、それで君は由紀ちゃんのあとを追って神戸へいったというわけかな」
 と、磯川警部は思わず膝をのりだした。金田一耕助やお柳さま、貞二君の三人も、|眼《ま》じろぎもせずに田代啓吉の顔を見つめている。
「はあ、わたし、徴用解除になると、さっそく神戸へとんでいきました。ところが神戸へきてみると、案の定、由紀ちゃんにはちゃんと男ができているではありませんか。それがいうまでもなく葉山譲治君でした」
 と、火傷の男は貞二君にチラリと|一《いち》|瞥《べつ》をくれると、
「わたしはむろんなんどとなく、ひそかに由紀ちゃんを呼び出しました。もとどおりになってくれと|歎《たん》|願《がん》したんです。由紀ちゃんはときどきはわたしに、その、許してはくれたんです。その……体をですね。しかし、譲治君と別れようともしなかったんです」
「ああ、そう」
 と、磯川警部は貞二君をながしめに見ながら、
「それじゃ、由紀ちゃんは譲治君と関係をつづけながら、しかも、君とも肉体的関係を復活していたというんですな」
「そうです、そうです。わたしのばあいは口止めという意味もあったんですが、やはり根が多情だったんですね。しかも、そういう多情なところに男というものは心をひかれるんです」
「ふむ、ふむ、それで……?」
「はあ、しかし、そうはいうもののわたしにとっては、そういう状態は耐えがたいことでした。やっぱりはっきりじぶんのものにして、郷里へつれてかえりたかったんです。そこでわたしも決心しまして、譲治君とよく話しあうつもりで、葉山家へのりこんでいったんです。いや、忍びこんだといったほうがよろしいでしょう。それが三月のあの大空襲の晩でした」
 一同ははっとしたように眼を見交わせた。
 磯川警部はいよいよ膝をのりだして、
「それで……?」
「はあ……」
 と、さすがに田代も息をのみ、
「ところがどうでしょう。忍びこんだ譲治君の寝室は血みどろで、譲治君は|朱《あけ》にそまって死んでいる。いや、殺されていたんです。しかも、由紀ちゃんも胸にきずをうけて……」
「ああ!」
 松代はとつぜん恐ろしそうに身ぶるいをすると、
「いわないで……もうそれ以上いわないで……みんな、みんな、あたしのしたことなんですから……」
「いいえ」
 と、田代はあわれむように松代をみて、
「だから、ぼくは申上げなければならないんです。あれはあなたに責任のないことなんです。あれは由紀ちゃんのやったことなんです」
 貞二君ははじかれたように顔をあげた。そして|噛《か》みつきそうな眼で田代をにらむと、
「馬鹿なことをいうな。由紀子がなぜ……由紀子がなぜ譲治君を殺したというんだ」
「無理心中をはかったんですよ」
「無理心中……?」
「ええ、そう」
 と、田代は落着きはらった声で、
「これはあとで聞いたことですが、あのじぶん、ふたりの仲が葉山家や、由紀ちゃんの実家にしれて、由紀ちゃんは岡山へつれもどされることになっていたんです。由紀ちゃんはじぶんの魅力をしっておりますから、本来ならばつれもどされても驚かなかったでしょう。譲治君にあとを追わせるくらいの自信はもっていたでしょう。ところがいかんせん譲治君は、徴用でしばられている体です。あのころの徴用といえば国家の至上命令ですから、いかなる由紀ちゃんの魅力といえども、どうすることもできないわけです。そこで無理心中をはかったわけですね」
「そこへ君がとびこんだというわけか」
「はあ、しかし、そのまえに貞二君に一言注意しておきたいんですがね。由紀ちゃんが譲治君と無理心中をはかったからって、由紀ちゃんが譲治君に惚れてたなんて考えたら大間違いですよ。由紀ちゃんは譲治君なんかにちっとも惚れちゃいなかった。いや、あのひとは男に惚れるような性質じゃなかったんです」
「それじゃ、なぜ無理心中など……?」
「なあに、じぶんがいなくなると譲治君が、ここにいる松代君のものになる。それが由紀ちゃんにゃくやしかったんです。あのひと、ちゃんとそういってましたからね」
 啓吉は気の毒そうに松代のうなだれた顔を見ながら、
「由紀ちゃんはいつもそうだったそうです。小さいときから姉さんの幸福、仕合せが、うらやましく、ねたましく、姉さんのもっているものは横奪りしなきゃ気がすまなかったそうです。それが昂じて長じてからは、姉さんの男を片っぱしから横奪りして、姉さんの悲しむ顔を見るのがなによりの楽しみになったそうです。だから、そこにいる貞二君のばあいでも、べつに好きでもなんでもなかった。ただ、じぶんがここを出ていくと、姉さんが仕合せになる。それがくやしいと、これは由紀ちゃんがハッキリぼくにいったことですから間違いはないでしょう」
 さすがに貞二君は面目なさそうに顔をそむけた。顔から|頸《くび》|筋《すじ》から火が出るように真っ赤になっているのが笑止だった。
「それで、君はこっちへきてから、由紀子と関係が復活していたの」
「はあ、それはもちろん……あのひとはそんなことちっとも構わないひとですし、それにぼくに弱味を握られてるもんですから……」
「田代さん」
 と、金田一耕助がそばから言葉をはさんで、
「三月の神戸の大空襲の夜のことを、もう少し詳しくお話しねがえませんか」
「そうそう、それをお話しするためにここへ顔を出したんでしたね」
 と、田代は思い出したように、
「いまもいったとおり、由紀ちゃんは譲治君を松代さんにわたしたくないばかりに殺してしまったのです。そして、じぶんも死のうとしたんですが、元来、あのひと自殺などできるひとじゃありません。薄手を負うて苦しんでいるところへとびこんだのがわたしなんです。由紀ちゃんは助けてくれとわたしに|縋《すが》りつきました。助けてくれというのは、傷のことではありません。傷はどうせ浅いのですから。……由紀ちゃんの助けてくれというのは、譲治君殺しの罪をひきうけてくれというのでした。これにはぼくも驚きました。いかにわたしがあのひとに|惚《ほ》れてるとはいえ、あまりの身勝手に腹が立ったのです。そこでふたりが押し問答をしているところへ、フラフラと入ってきたのが松代さん、あなたでした」
「おお、おお、それで……それで……?」
 と、大きく、強く|喘《あえ》ぎながら膝を乗りだしたのはお柳さまである。
「田代さん、田代さん、それで松代に罪をひきかぶせるように細工をおしんさったんですか」
「はあ、それを思いついたのも由紀ちゃんでした。わたしはじっさいあのとき驚いたのですが、由紀ちゃんは松代さんに夢遊病の性癖があることをしっていたんです。それで、松代さんに罪をなすりつけようと、その手に血まみれの庖丁を握らせたんです。そして、わたしにすぐ出ていくようにと……」
「ああ、それじゃ松代は……それじゃ松代は……?」
「ご安心ください。松代さんにはなんの罪もないのです。この話はけっして|嘘《うそ》じゃないんです。その証拠には、ぼくはその夜の空襲で、このように醜い顔になったんです。それにも|拘《かかわ》らず由紀ちゃんは……あの面喰いの由紀子は、死ぬまでぼくのものだったんです。こっちへきてからも、ぼくの自由になっていたんです。由紀ちゃんはぼくに殺人の秘密を握られている。だからこういう醜い男でも、眼をつむって抱かれなければならなかったんです」
 田代は醜い頬をなでながら|物《もの》|凄《すご》い微笑をうかべた。ゾーッと鳥肌の立つような薄気味悪い微笑であった。
「ときに、田代さん」
 と、金田一耕助が思い出したように、
「あなた、天狗の鼻の本柵が鋸でひききってあったことをお聞きじゃありませんか」
「ああ、あれ!」
 とつぜん、田代の瞳に怒りの炎がもえあがるのを見て、
「あなた、あれについてなにかお心当りが……」
「あれは……あれは……由紀子がぼくを殺そうと企んだんです」
「ああ、そう、それではそのいきさつをお話しねがえませんか」
「はあ……」
 田代はハンケチで額の汗をぬぐうと、
「けさ、天狗の鼻の木柵が鋸でひききってあって、貞二君があやうくそこから|顛《てん》|落《らく》するところだったときいたとき、わたしは怒りのためにふるえました。ぼくたちはゆうべ一時ごろ、天狗の鼻で逢う約束だったんです。由紀ちゃんはこういいましたよ。あたしが|磧《かわら》からハンケチをふるから、あなたは木柵から身を乗り出して、おなじようにハンケチをふって頂戴と……」
「それで、あなたは出掛けなかったんですか」
「いいえ、出かけましたよ。一時半ごろここを出かけたんです。ところが天狗の鼻へいきつくまえに、由紀ちゃんの死体が淵にうかんでいるのを見つけたんです。それで、そこから引返してきたんですが、もし、そうでなかったら……ぼくが泳ぎのできないことは、由紀ちゃんもよくしっていましたから……」
「ああ、ああ……」
 お柳さまがふたたび重い口で叫んだ。
「松代はなんにもしらなんだ。松代はなんにもしなかった。松代はやっぱりわたしの思うていたとおりじゃ。松代は|生娘《きむすめ》じゃった。由紀子は……由紀子は……」
「あっ、ご隠居さん!」
 磯川警部と金田一耕助が左右から腕をのばしたとき、お柳さまは|蒲《ふ》|団《とん》のはしをつかんで、まえのめりにのめっていた。
     八
 隠居所へかつぎこまれたお柳さまは、その後もながく|昏《こん》|睡《すい》状態をつづけていた。駆けつけてきた医者によって、どんなことがあっても、絶対に体をうごかしてはならぬと厳命された。
 自殺未遂におわった松代はもうじぶんの健康どころではなかった。彼女は昼も夜も隠居所へつめきって、憂わしげな眼で昏睡状態にある老婆の、いくらかむくみのきた顔を視つめていた。それは見るものをして感動を誘うような情景だった。
 由紀子の葬式をおわった夜、お柳さまはちょっと意識を取り戻したが、しかし、すぐまた昏睡状態におちいった。この間における貞二君の気のもみようは、たいへんなものだったようだ。かれはこのまま母を死なせたくなかったらしい。このまま母に死なれてしまっては、じぶんは生涯立ちなおれないだろうと思われるのだった。
 かれはしつこく医者にお柳さまの容態について訊ねていたが、医者もそれにたいして判然たる返事をする自信がなかったらしい。こうした不安な状態のうちに二日とたち三日と過ぎていった。
「金田一先生」
 と、磯川警部はうかぬ顔色で、
「すみませんでした。けっきょくまた先生のご静養をふいにしてしまいましたね」
「いや、いや、警部さん、そんなこと気になさることはないんですよ。これで結構ぼくは清閑をたのしんでいるんですから……」
「いや、そうおっしゃられるとどうも……」
 と、磯川警部はためらいがちに、
「しかし、先生、こうなると由紀子がどうして|溺《でき》|死《し》したのか、わからなくなってしまいましたね。自殺か、他殺か、過失死か……」
「警部さん」
 と、金田一耕助は空にういたいわし雲に眼をやりながら、
「そのことについちゃご隠居さんが、なにかしってらっしゃるんじゃないでしょうかねえ」
「隠居が……?」
「だって、ご隠居さんは卒倒なさるまえに、由紀子は……由紀子は……と、おっしゃったじゃありませんか。あのとき、ご隠居さんはなにをおっしゃるおつもりだったんでしょうねえ」
「金田一先生」
 と、磯川警部はその横顔を視まもりながら、
「あなたはあのとき、隠居がなにをいおうとしていたとお思いですか」
「さあ……」
 と、金田一耕助は口許に奇妙な微笑をうかべて、のろのろとした口調で、
「それはわかりませんねえ。ご隠居さんにお聞きしなければ……しかし……」
「しかし……?」
「ええ、そう」
 と、金田一耕助はきゅうにいきいきとした眼つきになって、
「警部さん、ご隠居さんはかならずいちどは覚醒しますよ。あのひとにはいいたいことがあるんです。それをいわないかぎりあのひとは、死ぬにも死にきれないでしょうからねえ」
 金田一耕助のその予言は的中した。そのつぎの日の夕方ごろ、お柳さまははっきりと意識をとりもどした。
 それを聞いて金田一耕助と磯川警部は、すぐに隠居所へかけつけたが、意識をとりもどしたとはいうものの、お柳さまは生ける|屍《しかばね》もおなじことだった。彼女は身動きはおろか、口をきくことすらできなかった。ただできるのは瞬きをすることと、目玉を動かすことだけだった。
 それでも耳はきこえるらしく、金田一耕助と磯川警部がかけつけたとき、お柳さまは隠居所のすぐ外を流れている|谿流《けいりゅう》の音に耳をすましているらしかったが、その顔にはなにかひとをゾーッとさせるような物凄い微笑がきざまれていた。
 お柳さまは金田一耕助と磯川警部の姿をみると、なにかいおうとするかのように、口をわなわなと動かした。しかし、言葉が出ないと気がつくと、にわかに眼玉をぐるぐるはげしく廻転させはじめた。
「警部さん、母はなにかいいたいことがあるんじゃないでしょうか」
 お柳さまの眼の動きをみて貞二君が磯川警部のほうをふりかえった。磯川警部は金田一耕助の顔を見た。
「ああ、そう、松代さん、あなた聞いてごらんなさい。これはあなたがいちばん適任だ。眼の動きによってなにか判断してみましょう」
 金田一耕助の言葉に、
「はあ……」
 と、松代は涙声で答えると、お柳さまの耳に口を当てて、
「ご隠居さま、なにかおっしゃりたいことがございますか。金田一先生がご隠居さまの眼の動きで、判断しようといってらっしゃいます」
 お柳さまは唇をつぼめて微笑をうかべると、その眼は一同の頭上をこえて押入れのほうへむかっていった。
「先生、ご隠居さまのおっしゃりたいのは、あの押入れのなかじゃございますまいか」
「そうらしいですね。貞二君、押入れのなかを調べてみたまえ」
 貞二君は押入れの|襖《ふすま》をひらいて、ふしぎそうになかを探していたが、とつぜん大きな声をあげた。そして、そこに積んである蒲団のあいだから引っ張りだしたのは、派手なお召の着物だった。
「あっ、こ、これは由紀ちゃんの着物じゃないか。帯も……|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》も……」
 一同は弾かれたようにお柳さまのほうをふりかえると、凍りついたようにシーンとしずまりかえった。お柳さまのその顔には、いかにも満足そうな微笑がうかんでいるのである。
 松代と貞二君は|怯《おび》えたように眼を見張って、大きく息を|喘《はず》ませている。
 そのときお柳さまははげしく瞬きをすると、また眼玉がぐりぐりと廻転をはじめた。松代はその視線を追うていたが、やがて部屋のすみにある、脚のついた大きな木製の|耳盥《みみだらい》に眼をとめると、
「ご隠居さま、この耳盥のことでございますか」
 お柳さまはそうだといわぬばかりに、またはげしく瞬くと、満足そうに頬笑んでみせた。
 金田一耕助はふしぎそうにお柳さまと、その木製の耳盥を見くらべていたが、とつぜんあることに思いあたったらしく、はっとしたように眼を見張った。
 そして、いそいでお柳さまの耳に口をよせると、
「ご隠居さん、ご隠居さん、あなたがおっしゃりたいことを、わたしがかわってこのひとたちに申上げてもかまいませんか」
 お柳さまはだまって金田一耕助の顔を見まもっていたが、やがて満足そうにまたたきをした。
 金田一耕助はちょっと沈痛な顔色で、貞二君と松代のほうをふりかえると、
「貞二君、松代さん、ご隠居さんはね、由紀ちゃんを殺したのはじぶんだということをいいたがっていらっしゃるんですよ。ご隠居さん、そうでしょうねえ」
 お柳さまは満足そうに口をつぼめてまたたいた。
 貞二君はしばらく|唖《あ》|然《ぜん》として、金田一耕助の顔をにらんでいたが、やがてさっと満面に朱を走らせると、
「そんなバカな……そんなバカな……母は畳を|這《は》うよりほかには、身動きもできない体だったじゃありませんか」
「いや、それで十分だったんですよ」
 と、金田一耕助はお柳さまに聞えるように、大きく声を張りあげて、
「人間を溺死させるには、なにも大海の水を必要としないのです。そこにある耳盥いっぱいの水でも、十分に目的を達することはできます。由紀ちゃんはその耳盥に顔をつけた。そこをご隠居さんがうえからおさえつけた。いや、うえから全身をもってのしかかっていったのでしょう。ご隠居さんは身動きこそ不自由ですが、そのくらいのことはできましょうし、あのとおり肥満していらっしゃるから、由紀ちゃんはそのまま水をのんで死んでしまったんです。ご隠居さん、そうでしょうねえ」
 お柳さまはまた満足そうにまたたいた。その顔には誇らしげな微笑さえうかんでいるように見えたのである。
「しかし……しかし……」
 貞二君はまだ半信半疑の顔色で、
「由紀ちゃんはなぜ、盥のなかへ顔をつっこんだんです。なぜまたそんなバカなまねを……?」
「貞二君」
 と、そのとき、そばからおだやかに言葉をはさんだのは磯川警部である。
「それは君の質問とは思えないね。薬師の湯は眼病に効くというし、由紀ちゃんは眼病を患っていたというじゃないか。由紀ちゃんは隠居のまえで洗眼をしていたんだろう。いや、洗眼をするように隠居がしむけたんだろう。隠居、そうじゃありませんか」
 磯川警部の質問に、お柳さまは満足そうにまたたきをすると、また目玉をぐりぐり廻転させて、窓のほうへ視線を走らせた。
「ああ、そうか」
 と、磯川警部は大きくうなずくと、
「ご隠居さん、あんたはそれから由紀子を素っ裸にして、その窓からうらの谿流へ死体を投げ落したんですね」
 お柳さまの満足そうな微笑とまたたき。……
「そして、由紀子の死体は谿流づたいに稚児が淵へ流れていったんですね。それが八時半から九時半までのあいだの出来事だったんですね」
 またしてもお柳さまの満足そうな微笑とまたたきである。
「金田一先生」
 と、磯川警部は金田一耕助のほうをふりかえると、
「ありがとうございました。これで事件は解決しました。由紀子の全身についていたあの擦過傷は、稚児が淵の岩礁でできたのではなく、いや、それもあったでしょうが、それ以前に谿流をながれていく途中でできたのですね」
 金田一耕助は暗い眼をして無言のままうなずいた。
 とつぜん、貞二君の咽喉から嗚咽の声がもれはじめた。貞二君は腕を眼におしあてたまま、子供のように声を立てて泣きはじめた。
 お柳さまが心配そうにその顔を見まもっているのを見ると、金田一耕助がやさしくその背中に手をかけた。
「貞二君、お母さんがなぜそんなことをなすったか、君にもわかっているでしょうねえ」
 貞二君は腕を眼におしあてたまま、二、三度強くうなずいた。
「ああ、そう、それではあなたはお母さんにお|詫《わ》びしなければいけませんよ。松代さん」
「はい」
「あなたは貞二君のそばについていてあげてください。警部さん」
「はあ」
「われわれはもう失礼しようじゃありませんか。あなたのご用はもう終ったようですよ」
「ああ、そう、じゃ……」
 ふたりが障子の外へ出たとき、
「お母さん……お母さん……」
 と、貞二君が子供のように泣きわめくのが聞えた。
 お柳さまはその夜しずかに息をひきとったが、おそらくそれは大往生だったことだろう。
 金田一耕助と磯川警部のふたりは、お柳さまの初七日をすませてから薬師の湯をたつことになったが、その間ふたりは貞二君や松代と、しんみりと話しあう機会をもった。
「貞二君、君は松代君と結婚するんだろう」
「はあ、そうしたいと思っております」
「いつ……?」
「できるだけ早くしたいと思っておりますが……」
「そのほうがいいね。お母さんの一周忌を待とうなんて考えないほうがいいんじゃないか。そのほうが故人の遺志にそうというもんだ」
「はあ、わたしもそう思っております。できたらことしのうちにも式を挙げたいと思っているんですが……」
「ああ、それがいいね。そのほうがお母さんも安心なさるだろう」
「ときに、松代さん」
 しばらく沈黙がつづいたのちに金田一耕助が口を出した。
「はあ……」
「あなたのあの|腋《わき》の下のおできですがねえ」
「はあ……?」
 と、松代の顔にはちょっと怯えたような色が光り、それから頬を真っ赤にそめてうつむいた。
「それ、いちどしかるべきお医者さんに診てもらったらどうかと思うんです。なんなら磯川警部さんにO大のT先生でも紹介しておもらいになったら……」
「先生」
 と、貞二君が真剣の色を眼にうかべて、
「金田一先生はあのおできについて、なにかお心当りが……?」
「はあ、ちょっと考えてることがあるんですが……」
「金田一先生、それはどういう……あなたになにかお考えがおありでしたら、ここで貞二君や松代さんにいってやってくれませんか」
「いやね、警部さん」
 と、金田一耕助はいくらか|羞《はじ》らいの色をうかべて、
「これはぼくの妄想かもしれないんです。しかし、いちおうたしかめてみる価値はあると思うんですよ。松代さん」
「はあ……」
「あなた、小さい時分から由紀ちゃんにたいして一種の罪業感をもっていられた。絶えず妹さんにすまない、すまないと思いつづけてこられたということですが、なにかあなた由紀ちゃんにたいして罪の自覚がおありですか。由紀ちゃんにたいしてすまないことをしたというような……」
「さあ、それがいっこうに……ただ、あたしは長女にうまれたものですから、なにかと両親に可愛がられてきましたから……」
「しかし、それじゃ、ご両親は由紀ちゃんをとくにうとんじてこられたんですか」
「いいえ、べつにそんなことは……」
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