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[横沟正史] 人面疮

横溝正史(日)
  金田一耕助ファイル6
   人面瘡
[#地から2字上げ]横溝正史
  目次
 |睡《ねむ》れる花嫁
 |湖《こ》|泥《でい》
 |蜃《しん》|気《き》|楼《ろう》|島《とう》の情熱
 |蝙《こう》|蝠《もり》と|蛞《なめ》|蝓《くじ》
 |人《じん》|面《めん》|瘡《そう》
    睡れる花嫁
     一
 ちかごろは凶悪な犯罪や陰惨な事件がつぎからつぎへと起こって、ほとんど応接のいとまもないくらいだが、これからお話しようとする「|睡《ねむ》れる花嫁」の事件ときたら、その陰虐さにおいて比類がなく、この事件の真相が究明されたときには、さすがに大犯罪や怪事件に|麻《ま》|痺《ひ》した都会人も、あっとばかりに|肝《きも》をつぶしたものである。
 それは凶悪であるばかりでなく陰惨であった。陰惨であるばかりでなく不潔であった。しかもあいついで起こった陰惨にして凶悪、凶悪にして不潔な「睡れる花嫁」事件の底には、ほとんど常識では考えもおよばぬような、犯人のゆがんだ|狡《こう》|智《ち》と計画がひそんでいたのだ。
 さて、それらの事件の露頭がはじめて顔を出したのは、昭和二十七年十一月五日の夜のことだったが、その|顛《てん》|末《まつ》というのはこうである。
 その夜十一時ごろ、S警察署管内にあるT派出所づめのパトロール、山内巡査は受持区域を巡回すべく、十一時ごろ、同僚の石川巡査と交替で派出所を出ていった。
 人間の運命ほどわからないものはなく、これが生きている山内巡査を見る最後になろうとは、石川巡査も気がつかず、また、当の本人、山内巡査も神ならぬ身の知るよしもなかった。
 しかし、あとから思えば虫が知らせたというのか、山内巡査は出るまえに、石川巡査とこんな会話をかわしたそうだ。
「いやだなあ。また、あのアトリエのそばを通らねばならんのか。おれゃ、あのアトリエのそばを通るとき、いつもゾーッと総毛立つような気がするんだ」
「あっはっは、そんな|臆病《おくびょう》なことをいってちゃ、この職業は一日もつとまらない」
「いや、おれ自身、そんな臆病な人間とは思っちゃいない。巡回区域のなかにゃ、もっともっと|淋《さび》しいところもあるんだが、あのアトリエだけは苦手だな。いまいましい、どうしてはやくぶっこわしてしまわないのかな」
「そんなことをいったって、持ち主の都合もあるんだろう。まあいいからはやくいってきたまえ。いやな仕事を片付けて、あとで何かあったかいものでもおごろうじゃないか」
「ふむ、そうしよう、じゃ、いってくるよ」
 そうして山内巡査は出かけたのだが、それきり生きてふたたび、派出所へ帰ってくることはなかったのである。
 いったい、S警察署のあるS町というのは郊外のそうとう高級な住宅街で、やたらに樹木が多く、夜などたいへん|淋《さび》しい町だ。しかも、そこにはS学園という、幼稚園から大学まで包括する大きな学校もあり、昼間の人口と夜の人口とのあいだに、そうとうのひらきがあるといわれるくらい、夜ともなれば静かなところである。
 おまけに、山内巡査の受持区域というのが、S学園からS町のはずれへかけての、この町でもいちばん淋しい区画だ。山内巡査はこの区域を、いつもあんまり好んでいなかったが、夜のパトロールのときはことにいやだった。
 それというのが、さっき石川巡査とのあいだに話が出た、あのアトリエのことがあるからだった。そのアトリエというのは、S学園の建物を通りすぎて、人家もまばらな畑地ヘさしかかると間もなく、向こうに見えてくるのである。
 それはもう長く住むひともなく、荒れるにまかせてあるうえに、いちばん近い隣家からでも、百メートル以上も離れており、おまけに|亭《てい》|々《てい》たる杉木立にとり囲まれて、めったに陽のさすこともなく、昼間見ても、ゾーッと総毛立つほど陰気で、いかにも|曰《いわ》くありそうな建物なのだ。
 しかも、じっさいそのアトリエには、世にも陰惨な歴史があるのだ。
 それはまだ山内巡査がこの土地を知らないまえの出来事だったが、いつか同僚の石川巡査から聞かされた、その陰惨なエピソードの記憶が、夜の巡回の途次など、ことになまなましく|脳《のう》|裡《り》によみがえってくるのだ。
 それはいまから数年まえの出来事だった。
 当事、そのアトリエには|樋《ひ》|口《ぐち》|邦《くに》|彦《ひこ》という画家が、細君とふたりきりで住んでいた。樋口邦彦というのは、その当時の年齢で、四十近かったそうだが、それに反して、細君の|瞳《ひとみ》というのは、まだ若い、しかし病身そうな女であった。
 じっさい、瞳は肺をわずらっていたのだ。彼女はそれより一年ほどまえまで、銀座裏のキャバレーで、ダンサーとして働いていたところを、樋口邦彦と相知って、|同《どう》|棲《せい》することになったのだが、キャバレーにいるころから、ときどき|喀《かっ》|血《けつ》していたという。
 しかも、その病勢は樋口と同棲することによって、快方に向かうどころか、いっそう|昂《こう》|進《しん》していった形跡がある。げんに瞳がそのアトリエに住むようになって以来、定期的に診察していた医者は、ふたりに別居するようにと、|切《せつ》にすすめたそうである。彼らの異様な愛欲生活が、女の病勢をつのらせていることが、はっきりわかっていたからだ。
 しかし、瞳は笑ってとりあわず、樋口も彼女を手離さなかった。
 変わり者の樋口は、近所づきあいというものをほとんどやらなかったが、それでもご用聞きやなにかの口からもれて、彼の瞳にたいする熱愛ぶりは、近所でも知らぬものはなかった。
 それは瞳の病勢が、いよいよつのってきた八月ごろのことである。
 旦那さんが病室へたらいを持ち込んで、まるで、赤ん坊に行水をつかわせるように、奥さんのからだのすみずみまで洗っていただの、奥さんのおしもの世話は、いっさい旦那さんがおやりだの、それでいて、毎晩旦那さんは奥さんといっしょにおやすみだのというような、顔の|赧《あか》くなりそうな|噂《うわさ》が、ご用聞きの口からもれて、聞くひとの|眉《まゆ》をひそめさせた。
 そのうちに十月になると、だれももう瞳の姿を見なくなった。声も聞かなかった。
 ご用聞きが|訊《たず》ねると、奥で寝ている、近ごろはだいぶん|快《い》いほうだと、樋口はにこにこしながら答えた。その様子にはべつに変わったところも見られなかった。
 だが、そのうちに樋口は、ご用聞きたちをしめ出してしまった。表も裏もしめきって、必要な品は自分で店まで買いにいった。
 そういう樋口の様子に、ここにひとり、疑惑を抱くものが現れた。それは酒屋の小僧の|浩《こう》|吉《きち》という少年で、町でも評判のいたずら小僧だった。
 彼はある日、樋口が買物に出かけるのを待って、垣根のなかへ忍びこんだ。瞳の病室はアトリエから廊下づたいでいける日本座敷であることを、浩吉はまえから知っている。
 ところがその病室には雨戸がぴったり閉まっていた。いや、病室ならず、どこもかしこも、雨戸や|鎧扉《よろいど》が閉まっていた。
 浩吉の胸はいよいよ騒いだ。結核患者にとって、新鮮な空気が何よりも必要なことを浩吉も知っていた。だから風のない日には、どんな寒い季節でも、瞳はガラス戸を開放して寝ていた。それにもかかわらず昼日中から、雨戸をぴったり閉めきっているとは……?
 そのことと、もうひとつ、浩吉の胸をはっと騒がせたものがあった。それはどこからともなく|匂《にお》うてくる、なんともいえぬいやな匂いだ。胸がむかむかするような、吐気をもよおしそうないやな匂い……、しかも、どうやらそれは雨戸のなかから匂うてくるらしいのである。
 浩吉は思わず武者ぶるいをした。彼はいまや好奇心と功名心のとりこになっていたのだ。ひょっとすると、自分が世にも異様な犯罪の発見者になるかもしれないという自覚が、彼に武者ぶるいをさせてやまなかった。
 浩吉はどこかなかへ忍びこむ|隙《すき》はないかと、家のまわりを探して歩いた。そして、アトリエの窓の鎧扉のひとつが、かなりいたんでいるのに眼をつけた。いたずら小僧の浩吉には、それをこわして、そこから忍びこむくらいのことは朝飯前だ。
 浩吉はこの家の間どりをよく知っている。アトリエから廊下づたいに、薄暗い病室のまえまでくると、|襖《ふすま》の向こうからまたしても、胸のむかむかするようないやな匂いが、いまにも|嘔《おう》|吐《と》をもよおしそうなほど強く匂ってきた。
 浩吉はぐっとひと息吸いこむと、それから思いきって襖をひらき、手さぐりに壁ぎわのスイッチをひねった。
 と、そのとたん、この季節にもかかわらず、おびただしい|蠅《はえ》がわんわんと飛び立ち、お座敷用の低いベッドのなかに、世にも気味の悪い死体が横たわっているのを発見したのである。
 浩吉のような子供にも、ひとめ見てそれが死体とわかったのは、それが死後、そうとうの時日が経過して、かなり腐乱の度がすすんでいたからだ。あのまがまがしい臭気と、おびただしい蠅は、その腐乱死体から発するものだった……。
 この陰惨な事件は、当時大センセーションをまき起こした。
 樋口邦彦はただちに逮捕され、死体は解剖に付された。しかし、他殺の|痕《こん》|跡《せき》はなく、大|喀《かっ》|血《けつ》による死亡であることが確認された。
 だから、ただそれだけならば、死亡届を怠り、死体をいつまでも手許においたという罪だけですむのだろうが、世にもいまわしいことには、その死体に死後も|愛《あい》|撫《ぶ》されていたらしい形跡が、歴然と残っていたことである。
 それについて、樋口邦彦はこういったという。
「それは故人の遺志だったのです。瞳は息をひきとるまえに、わたしに向かってこういったのです。わたしが死んでも火葬になどせず、いつまでもおそばにおいて愛しつづけてくださいと……」
 樋口はもちろん精神鑑定をうけた。しかし、べつに異常をきたしているふうもなかった。かれは起訴され、断罪された。いま刑務所にいるはずである。
 その後、アトリエに付属する建物はとりこわされて、どこかへ転売されていったが、アトリエのほうは立ちくされたまま、いまも無気味なすがたをさらしているのだ。
     二
 さて、まえにもいった昭和二十七年十一月五日の夜、このアトリエのまえまでさしかかった山内巡査は、アトリエの窓からもれる明かりを見、思わずぎょっと足をとめた。
 その明かりというのは、どうやらマッチの火らしく、一瞬にしてめらめらと消えてしまったのだから、もし山内巡査がとくべつに、このアトリエに関心をもち、無意識のうちにも注目していなかったとしたら、気がつかずに通りすぎていたかもしれない。それに気がついたのが山内巡査の不運だった。
 山内巡査は危うく立ち枯れそうになっている、杉の|生《いけ》|垣《がき》に身をよせて、いま明かりのもれた窓を注視していたが、二度と明かりはもれず、そのかわりどこかで|蝶番《ちょうつがい》のきしる音がした。だれかがアトリエの扉を開いたのだ。
 山内巡査が小走りに、門のほうへ走っていくのと、門のなかからひとりの男が飛びだしたのと、ほとんど同時だった。相手は山内巡査のすがたを見ると、ぎょっとしたように、大谷石の門柱のそばに立ちすくんだ。
「君、君」
 と、山内巡査は声をかけて、懐中電灯の光を向けながら、その男のほうへ近よった。
 懐中電灯の光のなかにうき上がったのは、|鳥《とり》|打《うち》帽子をまぶかにかぶり、大きな黒眼鏡をかけ、|外《がい》|套《とう》の|襟《えり》をふかぶか立てた、中肉中背の男のすがただった。男は外套の襟を立てているのみならず、マフラーで鼻から口をつつんでいるので、顔はほとんどわからない。
 それがいっそう山内巡査の疑惑をあおった。
「君はいまあのアトリエのなかで何をしていたんだね」
 山内巡査はするどく訊ねた。
「はあ、あの……」
 相手はまぶしそうに懐中電灯の光から眼をそらしながら、低い声でもぐもぐいったが、山内巡査にはよく聞きとれなかった。
「君はこの家が空き屋だということを知ってるかね」
「知ってます」
 相手はあいかわらず低い|不明瞭《ふめいりょう》な声である。
「その空き家のなかでいったい何をしていたのかね」
「ここはぼくの家ですから」
 山内巡査はそれを聞くと、思わずぎょっと相手の顔を見直した。しかし、あいかわらず鳥打帽子と黒眼鏡、マフラーと外套の襟で顔はほとんどわからない。
「君の名は……?」
「樋口邦彦……」
 低い、陰気な声である。
 山内巡査は何かしら、総毛立つような気持ちがして、思わず一歩しりぞいだ。かれはここへくるみちすがら、樋口という男のことを考えていたのだ。
「樋口邦彦というのは君かあ?」
 山内巡査は思わず問い返したが、相手はそれにたいしてなんとも答えず、あいかわらず無言のまま門柱のそばに立っている。
 山内巡査はまたあらためて、黒眼鏡の奥をのぞきこんだが、あいにく懐中電灯の光を反射して、眼鏡が黄色く光っているので、その奥にどんな眼があるのかわからなかった。
 なるほど、しかし、樋口邦彦なら顔を隠すのもむりはないと山内巡査は考えた。この近所では顔を知られているのだろうし、昔のあさましい所業を思えば、とても顔を出してはおけないのだろうと、山内巡査は善意に解釈した。だが、しかし、|訊《き》くだけのことは訊かねばならぬ。
「しかし、樋口邦彦なら、いま刑務所にいるはずだが……」
「最近出所したのです」
「いつ?」
「一か月ほどまえ……」
 山内巡査はちょっと小首をかしげて考えた。このまま見のがしてよいだろうか。……しかし、なんとなく不安である。
「とにかく、ぼくといっしょにアトリエヘ来たまえ。そこで君が何をしていたか聞かせてもらおう」
 しかし、相手は無言のまま門柱のそばを離れようとしない。
「おい、こないか」
 相手のそばへ立ちよって、その手をとろうとした山内巡査は、どうしたのか、突然、
「ううむ!」
 と、低い、鋭いうめきをあげると、そのまま骨を抜かれたように、くたくたとその場にくずれていった。見ると、樋口邦彦と名のる男の右手には、血に染まった鋭い刃物が握られている。
 黒眼鏡の男は相手が倒れるのを見ると、ひらりとその上を飛びこえて、そのまま|闇《やみ》のなかを逃げていく。
 山内巡査は腰のピストルに手をやったが、もうそれを取り上げる気力もなかった。
 あのアトリエの隣家(と、いってもまえにもいったとおり百メートル以上も離れているのだが)に住む、村上章三という人物が、その場に通りかかったのは、それから五分ほどのちのことである。
 村上氏は門柱のそばに落ちている懐中電灯の光に眼をとめて、不思議に思って立ちよってきた。そして、そこに|血《ち》|糊《のり》のなかにのたうちまわっている山内巡査を発見したのだ。
 さいわい、村上氏のうちには電話があったので、ただちにこの由が警察へ報告され、係官が大勢どやどやと駆けつけてきた。山内巡査の体はすぐにもよりの病院へかつぎこまれたが、そのころにはまだ山内巡査の生命もあり、意識もわりにはっきりしていたので、樋口邦彦なる人物を、職務訊問した顛末が虫の息のうちにも語られた。山内巡査はそれを語り終わって、不幸な生涯をとじたのである。
 そこでただちにこの由が警視庁へ報告され、警視庁から全都にわたって、樋口邦彦の指名手配がおこなわれたが、いっぽう例のアトリエは、S署の捜査主任井川警部補と、二、三の刑事によって取り調べられた。そして、そこに世にも驚くべき事実が発見されたのである。
 いったい、建物というものは、住むひとがないと、かえっていっそう荒廃するものだが、そのアトリエも御多分にもれず、ものすごいほどの荒れようだった。雨もりが激しいらしく、したがって床のある部分はぼろぼろに|腐朽《ふきゅう》していて、うっかり脚を踏みこもうものなら、そのままめりこんでしまうおそれがあった。|蜘《く》|蛛《も》の巣が一面に張りめぐらされ、壁土はほとんど|剥《は》げ落ちていた。
 井川警部補と三人の刑事は、順にかかる蜘蛛の巣を、気味悪そうに払いのけながら、懐中電灯をふりかざして、このアトリエのなかへ入っていったが、突然、刑事のひとりが、
「あっ、主任さん、あんなところに|屏風《びょうぶ》が張りめぐらしてある!」
 と、叫びながら懐中電灯の光を向けた。
 見ればなるほど、アトリエのいちばん奥まったところに、屏風が向こうむきに張りめぐらしてある。
 この荒廃したアトリエと、日本風の屏風。この奇妙な取り合わせが、警部補や刑事に一種異様な|戦《せん》|慄《りつ》をもたらした。一同はぎょっとしたように、しばらく顔を見合わせていたが、
「よし、いってみよう」
 と、警部補は先頭に立って、屏風の背後へ近よると、その向こうがわへ懐中電灯の光をさし向けたが、そのとたん、
「ううむ!」
 と、鋭くうめいて、はちきれんばかりに眼をみはった。
 屏風の向こうには、いささか古びてはいるけれど、眼もあやなちりめんの夜具が敷いてあり、夜具のなかには高島田に結った女が、塗り|枕《まくら》をして眠っている……。
 いや、いや、それは眠っているのではない。死んでいるのだ。しかも、死後そうとうたっているらしいことは、そこから発する異様な臭気から察しられる。女は|紅《べに》|白《おし》|粉《ろい》も濃厚に、厚化粧をしているけれど、顔のかたちは、はやいくらかくずれかけている。
「畜生!」
 井川警部補はするどく口のうちで舌打ちした。
 樋口邦彦という男が、かつてこのアトリエのなかで、どんなことをしたか知っている警部補は、今夜ここから逃げ出したその男が、腐乱しかけたこの女の死体に、いったいなにをしかけたのか、想像できるような気がするのだ。
 警部補はなんともいえぬいまわしい戦慄を感じながら、金屏風のまえに横たわった、花嫁すがたの女の死体をみつめていたが、そのとき、突然刑事のひとりが、しゃがれた声で注意した。
「主任さん、主任さん、こりゃ、あの女ですぜ。ほら手配のあった写真の女……|天《てん》|命《めい》|堂《どう》病院から盗まれた死体の女……」
 井川警部補はそれを聞くと、さらにはちきれんばかりに眼をみはって、女の顔を見つめていたが、
「ううむ!」
 と、またもや鋭くうめいた。
     三
 渋谷道玄坂付近に、天命堂という病院がある。そこの三等病室に入院していた|河《こう》|野《の》|朝《あさ》|子《こ》という女が、十一月二日の正午ごろに死亡した。
 病気は結核で、そうとう長い病歴をもっていたが、天命堂病院で気胸の手術を受けていたのがかえって悪かったらしく、にわかに病勢が悪化して、半月ほどの入院ののち、とうとういけなくなったのである。
 河野朝子は渋谷にあるブルーテープという、あんまりはやらないバーの女給だった。いや、女給というより、ブルーテープを張り店にして、客をあさる時間外の|稼業《かぎょう》のほうが、本職のような女であった。
 彼女には東京に|親《しん》|戚《せき》がなかったので、ブルーテープのマダム水木|加《か》|奈《な》|子《こ》がその|亡《なき》|骸《がら》を、引き取ることになっていた。加奈子はお店へ亡骸を引き取って、形ばかりでもお|葬《とむら》いを出してやるつもりだといっていた。
 ところがその死体について妙なことが起こったのだ。
 病院では死体移管の手続きを終わって、ブルーテープから受け取りにくるのを待っていたが、すると、二日の夜おそく、加奈子の使いのものだと称して、男がひとりやってきた。
 その男は中肉中骨で、鳥打帽子をまぶかにかぶり、大きな黒眼鏡をかけ、風邪でもひいているのか大きなマスクをかけていた。その上に外套の襟をふかぶかと立てているので、顔はほとんどというより、全然わからなかった。
 その男は事務室へ、水木加奈子の手紙を差し出した。文面はこのひとに、河野朝子の死体をわたしてほしいというのだが、この手紙はのちに加奈子の筆跡と比較された。そして、それが全然違っており、|贋《にせ》手紙であることが立証された。
 しかし、病院ではそんなこととは気がつかなかった。まさか死体を盗んでいこうなどという、ものずきな人間があろうとは思わなかったのだ。
 ただ、あとになって、死体引き渡しに立ち会った山本医師と沢村看護婦の語るところによると、
「そういえば、病室へ入っても帽子もとらず外套も脱がず、失敬なやつだと思っていました。それにほとんど口もきかず、こちらが型どおりおくやみを述べるとただうなずくだけで、冷淡なやつだと思っていましたが、まさか死体泥棒だったとは……」
「わたしも、死体が盗まれたとわかってから気がついたんですが、なんとなく陰気なひとで、ゾーッとするような印象でしたね。病室から死体運搬車で玄関まで死体を運んだんですが、そのあいだもひとことも口をきかずに……そうそう、左の脚が悪いらしく、少し|跛《びっこ》をひいていたようです」
 その男は玄関まで死体を運んでもらうと、雑役夫にたのんで、死体を表に待たせておいた自動車へ運びこませた。そして、みずから運転して立ち去ったというが、だれもこれが贋使者と知らないから、車体番号に注意を払うものもなかった。
 ところが、この自動車が立ち去ってから、一時間ほどのちのことである。
 水木加奈子の代理のものから電話がかかって、今夜は都合が悪いから、死体の受け取りは明日にしてほしいといってきたから、病院でもへんに思った。
 そこで、さっき使いのものがやってきたので、死体をわたしたと話すと、電話口へ出た水木加奈子の代理の女は、ひどく驚いたらしかった。
 そんなはずはない、ママは今夜、自分で受け取りにいくつもりだったが、|宵《よい》から|胃《い》|痙《けい》|攣《れん》を起こして苦しんでいるので、使いなどを出した覚えはないといいはった。そこでさんざん押し問答をしたすえ、それじゃ、ともかくママと相談して、誰かが出向いていくからと、代理の女は電話を切った。
 それから半時間ほどたって、水木加奈子の養女しげると、死んだ朝子の朋輩原田由美子というふたりの女が、天命堂病院へ駆けつけてきたが、やっぱり加奈子に使いを出した覚えはないと聞いて、病院でも驚いた。
 |試《ため》しに使いの持ってきた手紙を見せると、ふたりとも言下に加奈子の筆跡ではないと否定した。それから騒ぎが大きくなって、警視庁から等々力警部が出張し、病院の関係者はいうにおよばず、ブルーテープのマダム水木加奈子、加奈子の養女しげる、さらに通い女給の原田由美子が取り調べられたが、死体泥棒の正体については、だれもこれといった証言を提供することはできなかった。
 その日も、ブルーテープは平常どおり開業しており、客もそうとうあったが、それらの客のなかには、朝子の死体が今夜おそく帰ってくることを、しげるや由美子から聞いていったものもあるというから、あるいはそれらの客のうちのだれかが|悪《いた》|戯《ずら》をしたのかもしれなかった。しかし、だれも左脚が不自由で、跛をひいている男に、心当たりはないという。
 マダムの加奈子は、十時ごろには死体を引き取りにいくつもりだったが、その一時間ほどまえから胃痙攣が激しくなったので、店のほうはしげると由美子にまかせておいて、自分は離れになっている寝室へしりぞいた。ところが、いつまでたっても胃の痛みが去らないので、あまり病院を待たせてもと、十一時ごろ、養女のしげるに電話をかけさせたのだという。
 これが二日の夜の出来事で、それ以来、警察のやっきとなった捜索にもかかわらず、|杳《よう》としてわからなかった朝子の死体が、はからずもS町のいわくつきのアトリエから発見されたのである。しかも、世にもあさましい睡れる花嫁として……。
     四
「ああ、これはひどい。これはひどい。これゃ人間の所業じゃないな」
 むっと異臭のただようアトリエのなかを、|檻《おり》のなかのライオンのように、行きつもどりつしながら、顔をしかめて|呟《つぶや》くのは、ほかならぬ|金《きん》|田《だ》|一《いち》|耕《こう》|助《すけ》である。あいかわらず、よれよれの着物によれよれの|袴《はかま》をはいて、頭は例によって|雀《すずめ》の巣のような|蓬《ほう》|髪《はつ》である。
 金屏風の向こうがわでは、医者や鑑識の連中が、忙がしそうに立ち働いている。刑事がアトリエを出たり、入ったり、捜査主任等々力警部の指図を仰いで、どこかへ飛び出していったりした。アトリエの外には新聞記者が大勢つめかけている。
 十一月六日、薄曇りの朝十時ごろのことである。
 金田一耕助は天命堂病院の死体盗難事件にひどく興味を持っていた。かれはその事件がただそれだけにとどまらないで、何かしら、薄気味悪い事件に発展していきそうな予感をもっていたのだ。
 ところが今朝の新聞を見ると、果然、その死体は警官殺しという血なまぐさい事件をともなって発見されたのだ。しかも、睡れる花嫁として……。
 金田一耕助はその記事を読むと、すぐに警視庁の等々力警部に電話した。さいわい、警部はまだ在庁して、これからS町へ出向くつもりだから、なんならすぐにということだった。そこで警視庁へ急行した金田一耕助は、そこから警部たちと、このいまわしい現場へ同行したのである。
 医師の検死や鑑識課の指紋採集、さては現場撮影などが終わると、金田一耕助は等々力警部にうながされて、はじめて金屏風の向こうへ入った。
 河野朝子は昨夜、井川警部補が発見したときと同じ姿勢で、絹夜具の上に横たわっている。しかし、|掛《かけ》|蒲《ぶ》|団《とん》ははねのけられて、派手な|緋《ひ》|縮《ぢり》|緬《めん》の|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》を着た姿が、この荒廃したアトリエの空気と、異様なコントラストをしめして無気味だった。
 それに、すでに形のくずれかかった青黒い死体が、頭も重たげな|文《ぶん》|金《きん》高島田に結い、眼もさめるような長襦袢を着ているところが、なんだか|木《ミ》|乃《イ》|伊《ラ》の|粧《よそお》いでも見るように薄気味悪かった。
「あの頭はかつらなんですね」
「そう」
「犯人はここで死体と結婚したわけですね」
「結婚……?」
 と、等々力警部はちらりと金屏風に眼をやって、
「ふむ、まあ、そういうことになりますな。死体は愛撫されているんだから」
 等々力警部はそういって、ぺっと|唾《つば》を吐くまねをした。さすがものなれたこの老練警部も、いかにも|胸《むな》|糞《くそ》が悪そうだ。
「ところで犯人と目されている樋口邦彦という男には、これと同様な前科があるんですね」
「ええ、そう、だからこの事件、警戒を要すると思うんですね。最初の事件で味を覚えて、そういう習性がついたとすると、今後もまた、こういうことをやらかすんじゃないかと思ってね」
「なるほど、それも考えられますね」
「なにしろ、警官を刺し殺すほど、デスペレートになっているとすれば、あいつのこれに対する願望は、非常に深刻かつ凶暴なものになっていると思わなければなりませんからな」
 金田一耕助はくらい眼をして、哀れな犠牲者の顔を見ていたが、何を思ったのか、急にゾクリと肩をふるわせる。
「金田一さん、どうかしましたか」
「いえね。警部さん、ぼくはいま警部さんのおっしゃった言葉から、とても恐ろしいことを連想したんです」
「恐ろしいこととは……?」
「警部さんはいま、そいつの願望が非常に深刻かつ、凶暴なものになっていると思わなければならぬとおっしゃったでしょう。ところで、死体を手に入れるということは、そう楽な仕事じゃありませんね。ことに若い女の死体と限定されているんですから。だから、死体が手に入らないとすると……」
「死体が手に入らないとすると……?」
「自分の手で死体をつくろうと考えだすんじゃないかと……」
「金田一さん!」
 警部はギョッとしたように、激しい視線を金田一耕助のほうへ向けて、
「それじゃ、この事件の犯人は、いずれ殺人を犯すだろうと……」
「とにかく、昨夜、警官をひとりやっつけているんですからね」
 金田一耕助は軒をつたう雨垂れのように、ポトリと陰気な声で|呟《つぶや》いた。
 警部はなおも激しい眼つきで、金田一耕助の顔を見つめていたが、突然、強い語調で叫ぶように、
「いいや、そういうことがあってはならん。断じてそういうことはやらせん。そのまえにあげてしまわなきゃ……」
「樋口は一か月まえに出獄してるンですね」
「ええ、そう」
「それからの行動は……?」
「いまそれを調査中なんですがね。あいつはそうとう財産をもってるだけに厄介なんです」
「この被害者、河野朝子、あるいはブルーテープとのコネクションは……?」
「いや、それもいま調査中なんですがね。間もなくここへ、ブルーテープのマダムがくることになってるンです。それに聞けばなにかわかるかもしれない」
 ブルーテープのマダム水木加奈子が、ふたりの女をつれて駆けつけてきたのは、それから間もなくのことだった。ふたりの女とはいうまでもなく、養女のしげると女給の原田由美子である。
 三人は井川警部補に案内されて、アトリエのなかへ入ってくると、緊張した面持ちで屏風のなかをのぞきこんだが、ひと目死体の顔を見ると、三人ともすぐに眼をそらした。
「もっとよく見てください。河野朝子に違いありませんか」
「はあ、あの……」
 加奈子は口にハンカチを押しあてたまま、もう一度恐ろしそうに死体に眼をやったが、
「はあ、あの、朝子ちゃんに違いございません。どうお、しげるも由美ちゃんも?」
「ええ、あの、ママのいうとおりよ。朝子ちゃんにちがいないわね、由美ちゃん」
「ええ」
 由美子は死体から眼をそらすと、恐ろしそうに身ぶるいをする。
「いや、ありがとう。それじゃちょっとあんたがたに訊きたいことがあるんだが、ここじゃなんだから、むこうの隅へいきましょう」
 等々力警部は三人の女をうながして、アトリエのべつの隅へみちびいた。
 金田一耕助は少し離れて、それとなく三人の女を観察している。これが事件に突入したときのかれの習癖なのだ。どんな|些《さ》|細《さい》な関係でも、事件につながりのあるとみられた人物は、かれの注意ぶかい観察からのがれることはできないのだ。
「マダムは樋口邦彦という人物を知っちゃいないかね」
 等々力警部の質問にたいして、加奈子はあらかじめ予期していたもののように、わざとらしく|眉《まゆ》をひそめて、
「ええ、そのことなんですの。今朝、新聞にあのひとのことが出ているのを見て、すっかりびっくりしてしまって……」
 こういう種類の女の年齢はなかなかわかりにくいものだが、水木加奈子はおそらく三十五、六、あるいはもっといってるかもしれない。大柄のパツと眼につくような派手な顔立ちだ。どぎついくらい濃い紅白粉も、豊満な肉体によく調和している。身ぶりや表情もそれに相応して、万事大げさだった。
「ああ、それじゃマダムはあの男を知ってるんだね」
「はあ、存じております」
「どういう関係で……?」
 マダムは表情たっぷりに、警部の顔に流し目をくれながら、
「だって、あたしもと、銀座のキャバレーランタンで働いてたんですもの」
「銀座のキャバレーランタンというと?」
「ご存知ありません? 樋口さんの奥さんになった瞳さんの働いてたキャバレー」
「ああ、そう」
 等々力警部は急に大きく眼をみはり、加奈子の顔を見なおした。
「じゃ、マダムもあのキャバレーのダンサー……?」
「いいえ、あたしダンサーじゃありませんの。こんなおばあちゃんですものね。あたしあそこでダンサーたちの監督みたいなことしてましたの。やりて|婆《ばばあ》の憎まれ役。うっふっふ」
 等々力警部は怒ったようなきつい顔で、加奈子の冗談を無視して、
「それじゃ、その時分、樋口を知ったわけですね」
「ええ、そう。あたし瞳さんとは仲よしでしたの。ですから、瞳さんがあのひとといっしょになってから、ここへも二、三度遊びにきたことがございます。あの時分からみると、このお家、見違えるみたい」
 加奈子はあたりを見まわして、大げさに肩をすくめる。この女、すべてが芝居がかりである。
「それで、あの男が刑務所を出てきてから、会ったことは……?」
「ええ、それが会っておりますのよ。そのことについて、警部さんにもお|詫《わ》びしなければならないと思っていますの。ほら、朝子ちゃんの……」
 と、加奈子はまた表情たっぷりの視線を、屏風の奥に投げかけると、
「あの死体が紛失したとき、どうして樋口さんのことを思い出さなかったものか」
「じゃ、なにか思い当たることでも……」
「ええ、そうなんですの。あの日、二日でしたわね。天命堂病院で朝子さんの死に水をとっての帰りがけ、道玄坂でばったり樋口さんにお眼にかかったんです。すると、樋口さんが今夜遊びにいってもいいかとおっしゃるんでしょ。それで、今夜は|駄《だ》|目《め》、お店早じまいにして、病院へ死体を引き取りにいかねばならない。それからお通夜をするんだからって、そういったら、樋口さんが亡くなったのはどういうひとだ、いくつぐらいの娘だ、きれいな女かっていろいろお訊ねになるんです。でも、それ、身うちのものが……朝子ちゃんは身うちってわけじゃありませんけど、身内同様にしてたでしょ。そういうものが亡くなったとき、だれでもお訊ねになることでしょう。だから、それに特別の意味があるなんて、あたしけさ新聞を見るまで気がつかなかったんです。あのひと、あの晩、お店へいらしたそうです。あたしそのこと、さっきしげるから聞くまで、ちっとも知らなかったんですけれど……」
「店へきたというのは……?」
 だしぬけに等々力警部に問いかけられて、しげるはちょっとどぎまぎする。
 金田一耕助はさっきから、この女を興味ぶかい眼で見守っていた。女としても小柄のほうだが手脚がすんなりのびていて、体も均整がとれているので、小柄なのがすこしも気にならない。それに、ぴったりと身についた、|袖《そで》のながい黒|繻《じゅ》|子《す》の|支《し》|那《な》服を着ているので、じっさいよりも背が高く見える。年齢は二十くらい……いや、まだそこまではいっていないかもしれない。体の曲線に女としての十分な成熟が見られず、前髪をそろえて額にたらした顔も、きれいなことはきれいだが、女としての色気がたりない。ちょっと少年といった感じである。
「はあ、あの、いまから考えると、あれはきっとママの様子をさぐりにきたんですね。あれは何時ごろでしたか、九時から十時までのあいだだったと思います。あのひとがやってきて……」
「あのひとというのは樋口邦彦だね」
「はあ」
「君はそれまでに樋口に会ったことがあるの」
「ええ、二、三度家へいらしたことがあるんです。でも、あたし、昔あんなことがあったかただとは知らなかったんです。ママがいってくれなかったもんですから。刑務所から出てきたばかりだということさえ知らなかったんです」
「ふむふむ、それで二日の晩……?」
「はあ、あの、たぶん九時半ごろだったと思います。ここにいる由美ちゃんは知らないそうですから、きっとご不浄へでもいった留守だったんでしょう。樋口さんがやってきて、ママはもう病院へ死体を引き取りにいったかって訊くんです。それで、あたし、ママは今夜、胃痙攣を起こして寝ているから、死体引き取りはむつかしいんじゃないかって、つい何気なしにいったんです。そしたら、二こと三こと、ほかのことを話して、そのまま帰っていったんです。いまから考えると、確かに妙だったんですけれど、そのときは、あのひとがあんなひとだとは夢にも知らなかったもんですから、今朝、新聞であのひとの名前を見るまで、つい、そのことを忘れていて、ママにもいってなかったんです」
「しげるがそのことをいってくれたら、昔のこともございますし、朝子ちゃんの死体を盗んだの、ひょっとするとあのひとかもしれないと、気がついたかもしれないんですけれど……」
 マダムが例によって表情たっぷりにつけ加えた。
「しかし、死体盗人の犯人が、跛をひいてたってことから、樋口という男を怪しいと思いませんでしたか」
 だしぬけに、金田一耕助に言葉をかけられ、加奈子としげるは、びっくりしたように振り返ったが、
「ええ、そのことなんですがね」
 と、マダムは|怪《け》|訝《げん》そうに、耕助の顔をジロジロ見ながら、
「そのことについても、今朝しげると話し合ったんでございますのよ。樋口さん、跛をひいていたかしら。……あたしがせんに知ってるころには、べつに脚が悪いようなことはなかったんですもの」
「いや、樋口は刑務所にいるあいだに、左脚を負傷して、それ以来、跛をひいてたっていうんだがね」
 等々力警部は口をはさんだ。
「ああ、そう、それじゃ、あたしもしげるも見逃してたんですわね。そんなにひどい跛じゃないんでしょう」
「ああ、ごくかるい跛だって話だが……」
「あんたは」
 と、金田一耕助は由美子のほうを振り返って、
「樋口という男にあったことないの」
「いえ、あの、あたし……」
 由美子はもじもじしながら、
「二、三度、お店へいらしたので、お眼にかかったことがございます」
 由美子というのは特色のない、ひとくちにいってもっさりした女だ。ことに眼から鼻へ抜けるように|聡《さか》しげなしげるとならべて比較すると、いっそう、その平凡さが眼についた。だぶだぶとしたしまりのない肉付き、小羊のように|臆病《おくびょう》そうな眼、まるまっちい鼻、金田一耕助にただそれだけのことを訊かれても、額に汗をにじませているところを見ると、よほど気の小さい女なのだろう。
「二日の晩、その男がお店へきたときには、君はいなかったんだね」
「はあ、あの、きっとお手洗いへでも……」
「ああ、そう、ところで君もその男が、跛をひいてたことに気がつかなかった?」
「いえ、あの、あたしは気がついてました」
 と、いってからマダムとしげるの顔を見て、
「でも、ほんにかるい跛でしたから……」
 と、慌てたようにつけくわえた。
「あら、そう、由美ちゃんは気がついてたの。それじゃ、あたしたちよっぽどぼんやりしてたのね。ほっほっほ」
「ところで、マダム」
 と、等々力警部。
「樋口が二、三度マダムのところへきたというのは、何か特別の用件でもあったの?」
「いえ、べつに。なにぶんにも、……以前ああいうことがあったひとでしょう。だから、だれも気味悪がって、相手にしなかったんですね。それで、あたしのところへ、今後の身のふりかたについて相談にきたわけなんですの」
「マダムは気味悪くなかったんだね」
「いえ、それはあたしだっていやでしたわ。まさかこんなことをしようとは存じませんでしたけれど、……でも、そうむげに追っぱらうわけにもね。それで話を聞いてあげてたんですけれど……」
「どんな話をしてたかね」
「なんでも、あたしどもみたいな商売をしたいようにいうんです。あのひと、小金を持ってるらしいんですね。でも、ああいう商売、どうしても女が主にならなければ駄目でしょう。そういう女が見つかるか、……あのひとのしてきたことを知ったら、だれだってね、気味悪がって逃げだしてしまいますわ。ですけれど、あたしとしてはそうもいえませんので、何かもっとかたぎな商売なすったら……と、いったんです。でも、いやあねえ」
 と、マダムは眉をひそめて、
「だって、今後の身のふりかたについて、相談にのってくれなんて来ながら、こんなことするんですもの。もうああいう趣味が本能になってるんでしょうか」
 加奈子は大げさな身ぶりで、ゾクリと肩をふるわせた。
     五
 樋口邦彦のけだもののようなこの行為は、|俄《が》|然《ぜん》世間に大きなセンセーションをまき起こした。
 樋口はもう、生きた女では満足できず、死体、あるいは腐肉でないと、真に快楽を味わえないのではないか。もし、そうだとすれば、早晩、金田一耕助が恐れるように、凶暴な殺人行為にでも発展していくのではないか……。
 警察では、むろん、やっきとなって樋口のゆくえを追及したが、二日たち、三日とすぎても、|杳《よう》として消息がつかめない。
 全国に写真がバラまかれ、新聞にも毎日のように、いろんな写真が掲載されたが、いっこう効果はあがらなかった。いや、こんな場合の常として、投書や密告はぞくぞくときたが、つきとめてみるといずれも人違いで、いたずらに警官たちを奔命に疲れさすばかりだった。
「樋口があくまで|執《しつ》|拗《よう》に、逃げのびようとするのもむりはない。そこには、あのいまわしい死体に関する犯罪のみならず、警官殺しという大罪が付随しているのだ。つかまったが最後ということを、かれもよくわきまえているにちがいない」
 しかし、警察もただいたずらに、手をこまねいていたわけではない。
 五日夜以後の樋口のゆくえはわからなかったが、刑務所を出てからのかれの行動はだいたい調べがついていた。
 小石川に住んでいる、樋口|正《まさ》|直《なお》という某会社の重役が、かれのいとこだった。十月八日、刑務所内の善行によって、刑期を短縮されて出てきた樋口邦彦は、いったんそこに身をよせたが、三日ほどして本郷の旅館へひきうつっている。
 それについて樋口正直氏の談によるとこうである。
「刑務所へ入るとき、財産いっさいの管理をまかされたものですから、それを受け取りにきたんです。財産はS町にある地所はべつとしても、証券類で約五、六百万はあったでしょう。それを資本に……それでも足りなければS町の地所を売ってでも、何か商売をしたいといってました。アトリエは持っていても、画家として立っていく自信はなかったんですね。刑務所を出てから、すっかり人間が変わってましたね。以前からそう陽気なほうではなかったんですが、こんどは恐ろしく無口になって……やはりあの事件が影響したんだねと、家内なんかと話したことです。ここを出たのはやはり面目なかったんでしょう。きっと何も知らぬ他人のなかへ入りたかったんですね。こっちもしいて引きとめませんでした。家にも年ごろの娘がありますんでね」
 邦彦は本郷の宿も三日で出て、牛込の旅館へうつっている。ところがその牛込の旅館も十日ばかりで出て、それからどこに泊まっていたのかはっきりしない。
 おそらく前身が知れるのをおそれて、変名で宿から宿へとうつっていたのだろう。加奈子にも、しょっちゅう変わるからといって、はっきり住所をいわなかったそうだ。
 ところが、十月二十八日になって、新宿のM証券会社で、証券類をいっさい金にかえている。そのたかは六百万円で、だから、かれはそれだけの金をふところに、どこかに潜伏しているわけだ。
 こうして警察必死の追及のうちに、五日とたち、十日とすぎたが、十一月二十日になって、またもやおぞましい第二の犯行が暴露された。
 ああ、金田一耕助の予想は的中したのだ。|妖獣《ようじゅう》はいよいよ本領を発揮して、そのゆがんだ欲望を遂行するために、ついに殺人をあえてしたのである。
     六
 それよりさき、十一月十七日のことである。中野区|野《の》|方《がた》町にある|柊屋《ひいらぎや》という小間物店へ、ひとりの男が訪ねてきた。
 この柊屋は自宅の奥に五間ほどの部屋をもっていて、それを貸間にしているのだが、そのひとつが最近あいたので、周旋屋へたのんで間借り人を探していたところが、そこから間借りの希望者をよこしたわけである。
 その男は茶色のソフトに、|鼈《べっ》|甲《こう》ぶちの眼鏡をかけ、感冒よけの大きなマスク、それに外套の襟をふかぶかと立てているので、ほとんど顔はわからなかった。
 しかし、その日がちょうど空っ風の強い、とても寒い日だったので、柊屋の主人もべつに怪しみもせず、部屋を見せたところが、すぐに話がついて、若干の敷金のほかに、一か月分の間代をおいていった。家族は妻とふたりきりで、今夜のうちに引っ越してくるといっていた。
 名前は松浦三五郎、丸の内にある|角《かく》|丸《まる》商事につとめているといったが、そんな会社があるのか、柊屋の主人は知らなかった。
 さて、その夜、松浦三五郎とその妻は、夜具をつんで自動車でやってきた。九時ごろのことだった。ところが柊屋の貸部屋は、間借り人専用の門と玄関がべつにあるので、柊屋の主人は松浦三五郎のやってきたのを知らなかった。
 ただし、柊屋のおかみが間借り人のひとりの部屋から出てきたところへ、松浦三五郎が玄関へ、夜具の包みを運びこんできたので、
「ああ、いまお着きですか」
 と、|挨《あい》|拶《さつ》すると、
「はあ、今夜は夜具だけ。ほかの道具はいずれ明日……」
「奥さまは……?」
「自動車のなかにいます。ちょっと体をこわしているので……」
 松浦は昼間と同じように、大きなマスクをかけているので、言葉はもぐもぐ聞きとれなかった。
 柊屋のおかみはちょっと細君というのを見たいと思ったが、それもあんまり野次馬らしいと思ったので、
「それじゃ、お大事に……」
 と、挨拶を残して母屋のほうへ立ち去った。松浦は夜具を部屋へ運びこむと、表へ出てきて、
「それじゃ、運転手君、手伝ってくれたまえ。家内は病気で、歩かせちゃ悪いから」
「承知しました」
 と、運転手は松浦に手伝って、若い女をかつぎ出すと、
「奥さん、大丈夫ですか。じゃ、お客さん、どうぞ」
 と、左右から細君を抱えるようにして、玄関からなかへ入っていった。そして、自分の部屋へ入ろうとするところへ、隣の部屋から間借り人の細君が顔を出して、
「あら、どうかなすったんですか」
 と、びっくりしたように訊ねた。
「いえ、ちょっと脚に怪我をしているものですから」
 と、松浦は運転手にいったのとはべつのことをいって、そのまま自分の部屋へ入っていった。隣の部屋の細君も、べつに怪しみもせず、そのまま障子を閉めてしまった。
 それが十七日の晩の出来事だが、それきりだれも松浦ならびにその細君を見たものはなかった。しかし、柊屋のほうではさきに間代をとっているのだし、間借り人には万事自由にやらせているので、べつに気にもとめなかった。また同居人は同居人で、柊屋との契約がどうなっているのか知らないので、これまたたいして気にもとめなかった。
 ところが二十日の朝になって、隣室の細君が何やら異様な臭気を感じた。その細君はちょうどつわりだったので、臭気に関して敏感になっていたのである。彼女は料理をしていても、昼飯の食卓に向かっても、異様な臭気が鼻について離れず、食事も咽喉に通らぬどころか、食べものさえ吐きそうだった。その臭気の源はたしかに隣室、すなわち松浦の部屋にあるらしかった。
 夕方ごろ、たまらなくなった細君は、母屋へいって柊屋のおかみにそのことを訴えた。そこへほかの間借り人も同じようなことを訴えてきたので、柊屋のおかみも捨ててはおけず、裏の貸部屋へいってみた。
「松浦さん、松浦さん、奥さんもお留守でございますか」
 柊屋のおかみが声をかけるのを聞いて、
「あら、それじゃ、この部屋のかた、ここにいらっしゃるはずなんですか」
 と、隣室の細君が訊ねた。
「もちろん、そうですよ。どうして?」
「だって、きのうもおとといも、全然、ひとの気配がしないので、あたしまた、ひと晩だけのお客かと思って……」
 隣室の細君はそういって、ちょっと顔を|赧《あか》らめた。十七日の夜、真夜中すぎまでこの部屋から聞こえてきた、むつごとの気配に悩まされたことを思い出したからである。
「いいえ、そんなはずはありませんよ。ひと月分いただいてるんですからね。松浦さん、松浦さん、開けますよ。よござんすか」
 障子を開けると異様な空気は、いっせいに三人の鼻を強くついた。貸部屋はいずれもふた間つづきになっているのだが、表の間には何事もなく、臭気は閉めきった|襖《ふすま》の向こうの、奥の間から|匂《にお》うてくるらしかった。
 三人とも不安な予感に真っ蒼になっていた。隣室の若い細君は|膝頭《ひざがしら》をがくがくふるわせた。彼女の脳裡をふっとS町のアトリエ事件がかすめたからである。
「おかみさん、おかみさん、お|止《よ》しなさい、お止しなさい、その襖開くの……あたし、怖い……」
 おかみはしかし、きつい顔をして、襖のひきてに手をかけると、
「松浦さん、松浦さん、ここ開けますよ。よござんすか」
 と、うわずった声で念を押すと、思いきって襖を開けたが、そのとたん、いまにも吐き出しそうなほど、強い匂いが三人の鼻をおそうた。
 この部屋には雨戸がなく、張出し窓に|格《こう》|子《し》と、ガラス戸が閉まっているだけなので、部屋のなかはまだ明かるい。その部屋の中央に|蒲《ふ》|団《とん》が敷いてあって、そこに女が仰向きに寝ている。そして、その女の周囲から、あの異様な臭気は発するのだ。
 隣室の細君はもうべったりと敷居のうえに腰を落としており、彼女よりすこし勇気のあるおかみと、もうひとりの同居人は、それでも蒲団のそばまでいって、女の顔をのぞきこんだが、ふたりとも、
「きゃっ!」
 と、叫んで|尻《しり》|餅《もち》ついた。その女は明らかに死んでおり、しかも、そろそろ顔のかたちがくずれかけていた。
 おかみさんも同居人も知らなかったけれど、それはブルーテープの通い女給、由美子だった。
 由美子は青酸カリで殺されたのち、あさましい妖獣の手にかかって、第二の睡れる花嫁にされたのだった。
     七
 二十日の夜おそく、中野署へよび出されたブルーテープのマダム水木加奈子は、そこにいる等々力警部と金田一耕助の顔を見ると、ふいに胸をつかれたように、よろよろ二、三歩よろめいた。
 ふだんからゼスチュアの大きなマダムなので、それがほんとの驚きなのか、それともお芝居たっぷりなのか、さすがの金田一耕助にも判断がつきかねた。
「また、何か、あったんですか」
 と、その声は低くしゃがれてふるえている。大きな眼が吸いつくように等々力警部の眼を見つめている。
「ああ、それをいうまえに、マダムにちょっと訊きたいんだが、おたくの女給の由美子だがね、いつからお店を休んでいるんだね」
「ゆ、由美ちゃん……?」
 マダムは低く絶叫するようにいって、右手の指を口に押し当てた。
「由美ちゃんが、ど、どうかしたんですか」
「いや、それよりもぼくの質問にこたえてくれたまえ」
「由美子は十五日の昼すぎ電話をかけてきて……いいえ、由美子自身じゃないんです。代理のもんだといって、男の声だったそうですけれど……」
「そうですけれどといって、マダム自身電話に出たんじゃないの?」
「いいえ、うちのしげるが出たんです」
「ああ、そう、それで……」
「由美子は四、五日旅行するから、お店を休むと、ただそれだけいって、電話を切ってしまったそうです。それで、しげるとふたりでぷんぷん|憤《おこ》ってたんです。朝子が死んで、そうでなくても手の足りないところへ、いかにお客さんがついたからって、四、五日も勝手に休むなんて……それで……」
「ああ、ちょっと」
 と、金田一耕助が言葉をはさんで、
「そうして、客と旅行するようなことは、ちょくちょくあるんですか」
「はあ、それは……」
 と、マダムはちょっと耕助を流し目に見て、
「ああいう稼業でございますから、ちょくちょく……でも、たいていひと晩どまりで熱海かなんかへ……」
「ああ、なるほど、それでマダムは四、五日という長期にわたって、由美子君が旅行するということを、怪しいとは思いませんでしたか」
「いいえ、べつに……ただ、身勝手なのが腹が立ったのと、いったいどんな客か知らないけれど、あんなもっさりした娘を、四、五日もつれ出すなんて……と、しげると話して笑ったくらいのもんですけれど……」
「ところで、きょうはしげるちやんは……?」
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