必读网 - 人生必读的书

TXT下载此书 | 书籍信息


(双击鼠标开启屏幕滚动,鼠标上下控制速度) 返回首页
选择背景色:
浏览字体:[ ]  
字体颜色: 双击鼠标滚屏: (1最慢,10最快)

[横沟正史] 人面疮

_2 横溝正史(日)
 しげるの名を聞くと、突然、マダムの顔色が変わった。
「ねえ、警部さん、ほんとに由美子はどうしたんです。じつは、けさからしげるが帰らないんで、心配していたところへ呼び出しですから、ひょっとするとしげるに何かと……」
「し、しげる君がけさから帰らないって?」
 金田一耕助と等々力警部が、ほとんど同時に叫んで身を乗り出した。ある不安な予感が、さっとふたりの|脳《のう》|裡《り》をかすめた。
「ええ、そうなんです。ですから、警部さん、由美子はいったい……?」
「殺されたよ。いま解剖にまわっているから、その結果を見なければはっきりわからないが、だいたい青酸カリに間違いないようだ」
「そして、やっぱり……?」
 マダムの唇は真っ蒼である。
「ああ、やっぱり朝子の死体とおなじように……」
 加奈子は低くうめいて、目をつむると、めまいを感じたように、少し上体をふらふらさせたが、急に大きく眼をみはり、
「警部さん、警部さん、しげるを探してください。しげるも、もしや……」
 しげるはその朝、渋谷駅近くにあるS銀行へ十万円引き出しにいった。金はたしかに十万円引き出しており、銀行でも支那服を着たしげるの姿を覚えているのだが、それきり姿が消えてしまったのである。
 支那服を着た女の死体が、三鷹の、マンホールから発見されたのは、それから一か月あまりもたった十二月二十五日のことで、むろん、死体は相好の鑑別もつかぬほど腐敗していた。しかし、着衣持物からブルーテープの養女しげると判断され、殺害されたのは十一月二十日前後と推定された。
 こうして妖獣、樋口邦彦はついに第三の犠牲者をほふったわけだが、ただ、ここに不思議なのは、しげるの顔は腐敗するまえから、相好の鑑別もつかぬほど、石かなにかでめちゃめちゃに、打ち砕かれていたのではないかという疑いが濃厚なことである。
 樋口はなぜそんなことをしたのか、また、その後、どこへ消えたのか、年が改まって一月になっても、かれの消息は杳としてわからなかった。
     八
「ねえ警部さん、ぼくはきのう、|川《かわ》|口《ぐち》|定《さだ》|吉《きち》という人物に会って来ましたよ」
 松のとれた一月十日、警視庁の捜査一課、第五調べ室にひょっこり訪ねてきた金田一耕助は、ぐったりと|椅《い》|子《す》に腰を落とすと、ゆっくりともじゃもじゃ頭をかき回しながら、雨垂れを落とすようにポトリといった。
「川口定吉……? それ、どういう人物ですか」
「川口土建の親方で、ブルーテープのマダム、水木加奈子のパトロンだった男ですよ」
 等々力警部はぎょっとしたように、椅子を鳴らし、体を起こした。
「金田一さん、その男がどうかしたというのですか」
「いえ、べつに……ただ、この男は去年の秋まで、すなわち九月の終わりごろまで、加奈子のパトロンだったんですが、十月になってぴったり手を切ったんですね。それで、何かわかりやしないかと……」
「しかし、金田一さん、樋口邦彦が刑務所を出たのは、十月になってからですよ。その以前に手を切って別れたとしたら、樋口のことは知るはずがないが……」
 等々力警部は不思議そうな顔色である。
「そうです、そうです。しかし、ブルーテープの経済状態はわかるだろうと思ったんです」
「ブルーテープの経済状態……?」
「ええ、パトロンの送金がたえたとしたら、どういうことになるか、それくらいのことはわかるでしょうからね。いや、じっさいにわかったんです。川口定吉なる人物がいうのに、自分が手をひいた以上、至急にだれかあとがまをつかまなければ、とてもあの店はやっていけぬだろう。加奈子というのが、とてもぜいたく屋だったからというんです」
「金田一さん、しかし、それが……?」
 等々力警部はまだ|腑《ふ》におちぬ顔色である。
「いや、まあ、聞いてください。それで、ブルーテープの経済状態がわかったので、ぼくはもうひとつ聞いてみたんです。あなたはどうして、加奈子と手を切ることになったのか。もしや、加奈子に男でもあることに、気がついたんじゃないかと?」
 等々力警部は無言のまま、穴のあくほど金田一耕助を凝視している。耕助がこういう話ぶりをするときには、何かを握っていることを、いままでの経験によって、等々力警部は知っているのだ。
「すると、川口定吉なる人物がこういうんです。いかにもあなたのおっしゃるとおりだ。しかし、ただそれだけではないと……」
「ただ、それだけではないというと……?」
「川口定吉氏がいうのに、自分もひととおり道楽をしてきた男だ。ああいう種類の女を世話する以上、浮気をするのは覚悟のまえだ。情夫のひとりやふたりこさえたのへ、いちいち|妬《や》いていては、とてもパトロンはつとまらない。ところが、水木加奈子の場合、いささか気味が悪くなってきたというんですね」
「どういう点が……?」
「川口氏のいうのに、いままでの経験によると、女が情夫をつくったばあい、注意していると、たいてい、相手がだれだか見当がつくものだ。自分はいままで、こっちでちゃんと知っているのに、相手がひた隠しに隠し、しかも自分をだましおおせたと、得意になっている男女を見ると、おかしくて仕方がなかった。そういうのを見るのが、いつか自分の楽しみになっていた……」
「あっはっは」
 と、等々力警部はひくく笑って、
「川口という男も変態じゃないかね」
「いくらかその傾向なきにしもあらずですね。ところがそういう趣味をもっている川口氏にして、加奈子の情夫はついに見当がつかなかった。あんまりうまく隠しおおせているので、だんだん、気味が悪くなってきて、こんな女にかかりあっちゃ、いつ、どんなふうにだまされるかもしれないと、それで、手を切ることにしたんだそうです。加奈子にはだいぶん、かきくどかれたそうですが……」
「ふむふむ、それで、金田一さんには、加奈子の情夫というのがわかっているんですか」
 金田一耕助はゆっくり首を左右に振って、
「いや、まだはっきり断定するわけにはいきませんがね。だいたい、そうじゃないかと思われる人物があるんです」
「その情夫が、何かこんどの事件に……?」
「いや、まあ、聞いてください。ぼくはだいぶんまえから、加奈子のあとをつけまわしていたんです。加奈子がだれかと秘密に通信するんじゃないかと……」
「金田一さん、金田一さん、あなたは加奈子が樋口をかくまっているとおっしゃるんですか。しかし、樋口の出獄は十月に入ってからだから、川口という男の気づいた情夫とは……」
「いや、まあ、待ってください。いまにわかります。とにかく、加奈子を尾行していたんですね。ところがきのう、加奈子は|神《か》|楽《ぐら》|坂《ざか》へ出向いていって、そこのポストヘ手紙を|投《とう》|函《かん》したんです。ぼくにはそれがわざわざ手紙を投函しにいったとしか思えなかった。そこでぼくは、わざと切手を|貼《は》らない手紙を投函したんです。そして、集配人のやってくるのを待って、切手を貼るのを忘れたから、ちょっと手紙を|選《よ》らせてくださいと頼んだんです。さいわい、集配人が親切なひとだったのと、手紙がそうたくさんなかったので、加奈子の手紙はすぐ見つかりました。差出人は加奈子と、名前だけしか書いてなく、宛名は清水浩吉様というんですが、近ごろぼくは、あれほど大きなショツクにうたれたことはありませんでしたね」
「清水浩吉……? そ、それはどういう人物ですか」
「いまから四年まえ、S町のアトリエでああいうことがあったとき、瞳という女の死体を最初に発見した酒屋の小僧とおなじ名前ですね」
 突然、等々力警部は椅子のなかで、ギクリと体をふるわせた。そして、しばらく口もきけない顔色で、金田一耕助を見つめていたが、
「金田一さん!」
 と、急に体を乗り出すと、
「あの小僧が、ど、どういう……」
「ぼくはそれをつきとめると、すぐにS町へ出向いていって、清水浩吉の働いていた、|三《み》|船《ふね》屋という酒屋を訪ねたんですが、あの事件のあったのは、浩吉の十三歳のときだったが、その翌年、女中にへんなことをしかけたので、三船屋を放逐されたというんです。聞いてみると、いたずらは激しかったが、非常な美少年だったというんですね。それで、写真はないかと探してもらったんですが、やっと一枚見つけてくれました。これがそうなんですがね」
 金田一耕助の取り出したのは、ローライコードでとった写真で、にっこり笑った少年の胸から上が写っている。なるほど美少年である。
「警部さん、その顔、だれかに似てると思いませんか」
「だれかにって、だれに……?」
「それに、四、五年としをとらせて、前髪を額にたらし、女の支那服の襟で|咽喉仏《のどぼとけ》を隠させたら……」
 等々力警部の眼は、突然、張り裂けんばかりに大きくなった。そして、かみつきそうな視線で、写真の顔を凝視していたが、
「し、し、しげる! そ、そ、それじゃ、あいつは男だったのか」
 等々力警部はしばらく|茫《ぼう》|然《ぜん》として、金田一耕助の顔を見つめていたが、にわかにハンカチを取り出して、額の汗を|拭《ぬぐ》うと、
「金田一さん、いってください。それじゃ樋口という男は……?」
「殺されたんじゃないでしょうかねえ。マダムとしげるに……」
「六百万円を奪うためだな」
「そうです、そうです。きっとどこかに、バーの売り物があるとかなんとか持ちかけたんでしょう。それで六百万円を持ってきたとき、ふたりで殺して死体を隠した。しかし、それきり樋口が行方不明になっては、どういうところから自分の店へ糸をたぐってくるかもしれないと恐れたんでしょう。ところが、ちょうどさいわい、朝子という女が亡くなったので……」
「死体を盗みにいったのは……?」
「これはマダムでしょう。胃痙攣と称して離れへひっこみ……」
「そして、死体にいたずらしたのは……」
 等々力警部と金田一耕助は、顔見合せて、ゾクリと体をふるわせた。
「ねえ、警部さん」
 しばらくたって、金田一耕助は世にも切ない表情を示した。
「清水浩吉はこれが最初の経験ではないんじゃないかと疑うんです。四年まえの事件のとき、彼はもっとはやく瞳の死体を知っていたのじゃないか。そして樋口の留守中に……満十三歳といえば、そろそろですからね」
 等々力警部は|唖《あ》|然《ぜん》として耕助の顔を見つめていたが、急につめたい汗が吹き出すのを感じた。
「しかし、金田一さん、由美子はなぜ……? 浩吉のゆがんだ興味から……?」
「いや、それはきっと何かあるんでしょう。由美子に何か|覚《さと》られたんじゃないか。しげるが男であることを知られたか、それとも樋口の殺害か……」
 等々力警部は二、三度強くうなずくと、
「樋口の跛……由美子のようなぼんやりが気がついているのに、眼から鼻へ抜けるようなマダムとしげるが気がつかなかったというのは……あのとき、へんだと思わなきゃいけなかったんだな」
 と、きっと唇をかみしめた。
「さて、こうして、ふたりまでブルーテープの女が|槍《やり》|玉《だま》にあがったとすると、しげるはもうわれわれのまえへ出られませんよ。疑われないまでも、強く注目されますからね。いくらうまく化けていても、女装の男という不自然さがありますからね。そこで姿をくらましたが、くらましたきりじゃ、疑いを招くおそれがあるので、だれか同じ年ごろの、体つきの似た女を、替え玉につかったんですね」
「だから、顔をめちゃめちゃにしておいたのか」
 等々力警部は溜息をつき、それからまた激しく体をふるわせた。
 考えてみると清水浩吉はまだ十七歳。女装しやすい年齢だが、それにしても十七歳の少年が……。
「どうして知り合ったのか知りませんが、三十|年《とし》|増《ま》と十七歳の美少年、そのゆがんで、ただれた愛欲が、こんないまわしい事件に発展していったんですね」
 金田一耕助はゆっくり立ち上がると、ポケットから手帳を出して、その一頁を破りとると、それを警部のほうへ押しやった。
「ここに清水浩吉のいまいる、アパートの所書きがあります。ぼくもちょっとかいま見てきましたけれど、髪を七三に分け、鼈甲ぶちの眼鏡なんかかけて、すっかり男に返っていますが、しげるに違いないようです。はやくなさらないと、ブルーテープに買い手がついたようですから、ふたりで高飛びするんじゃないでしょうか」
 金田一耕助は出ていきかけたが、思い出したようにドアのところで立ち止まると、
「それから、去年の十二月二十日前後に|失《しっ》|踪《そう》した女を、もう一度お調べになるんですね。マンホールの女の死体……いや、こんなことは、ぼくが申すまでもありませんが……ご成功を祈ります」
 金田一耕助はかるく頭をさげると|飄々《ひょうひょう》として、寒風の吹きすさぶ街頭へと出ていった。
    湖泥
     一
「あんたにこんなことをいうのは、|釈《しゃ》|迦《か》に説法みたいなもんかもしれんが、われわれが日常住んでいる都会よりも、こういう地方の、一見ものしずかな農村のほうが、ある種の犯罪の危険性を、はるかに多分に内蔵してるもんなんですな。都会では一日一日があわただしく過ぎていく。それに離合集散がはげしいから、憎悪も|怨《えん》|恨《こん》も、|嫉《しっ》|妬《と》も反目も、そういつまでもあたためているわけにはいかぬ。生活のあわただしさが感情の集中をさまたげるし、周囲の雑音によってうすめられもする。しかし、田舎ではそうはいかん、何代も何代もおなじ場所に定着しているから、十年二十年以前の憎悪や反目が、いまなおヴィヴィッドに生きている。いや、当人同士は忘れようとしても、周囲のもんが忘れさせないんですな。話題のすくない田舎では、ちょっとした事件でも、伝説としてながく語りつがれる。だから、いまも田舎では、数代にわたる不和反目なんてのがめずらしくないし、それがどうかしたはずみに、犯罪となって爆発するんですな」
「あなたの言ってらっしゃるのは、北神家と西神家のことなんですね」
 金田一耕助は指にはさんだたばこの|吸《すい》|殻《がら》を、ボートの|舷《ふなべり》ごしにポトリと水のなかに落とした。吸殻はジューンとつめたい音をたてて、秋の水のなかに消えていく。
 金田一耕助の相手は水の上に消えよどむ、紫色の煙を見まもりながら、
「ええ、そう」
 と、太い|猪《い》|首《くび》でうなずくと、眼をあげて、思い出したようにあたりを見まわす。
 そこは三方山にとりかこまれた湖水の上で、あたりには|胡《ご》|麻《ま》を散らしたように、|田《た》|舟《ぶね》やモーターボートが散らばっている。それらの田舟やモーターボートに乗ったひとびとは、てんでに長い|竿《さお》で水のなかをひっかきまわし、いとも熱心になにやらさがしもとめている。ときどきかれらのあげるわめき声が、周囲の山々にこだまして、びっくりするほど大きな反響となって湖水の上を流れていく。
 空の色にも、水の色にも、もう秋がふかいのである。
「北神家と西神家……もとは神田というて一家なんですがな」
 と、金田一耕助の相手は、落日を吸うて湖畔にしろく照りはえている、白壁の家を指さしながら、
「数代まえにふたつにわかれて、あちらは村の北にあるところから北神家、こっちのほうは村の西にあたるところから西神家と、そういうことになったんだが、この両家の|確《かく》|執《しつ》の原因なども、いまはもう伝説のかなたにかすんでしもうて、なにがなにやらわけがわからなくなっている。それでいて両家の連中、代々たがいに憎みあい、のろいあうべきものとして幼時から育てられているんだから、いやはや、因果といえば因果なもんです。ところが、そうなると不思議なもんで、両家が反目しあわねばならんような出来事、利害衝突をきたすような事件が、ちょくちょく持ちあがってくるんですな。この湖水などもそのひとつなんだが……」
 と、語り手はちりめんじわをさむざむときざんだ湖水の表面を見わたしながら、
「あんたもお気づきのこったろうが、これは人工湖なんです。明治二十何年かに、この向こうをながれる川が|氾《はん》|濫《らん》して、沿岸一帯水びたしになったことがある。これはいまでも|故《こ》|老《ろう》のあいだに語りつがれる|未《み》|曾《ぞ》|有《う》の大水害だったんですが、そのあとで、どうしても川の沿岸のどこかに、出水の調節をするための人工湖をつくらねばならんということになって、そこで白羽の矢がたったのがこの村なんです。さあ、そのときの村民の騒ぎというのを御想像ください。農民にとって土地よりだいじなもんはない。しかもここはごらんのとおりで山ばかり、平地というもんがいたってすくない。そのわずかばかりの平地を湖水の底にしずめてしまうちゅうんですから、村の連中にとっちゃ、しんにこれ死活問題です。しかし、ここに人工湖をつくるちゅうことは、国家の至上命令なんだから、農民がどんなに騒いだところでしかたがない。そこで、なんとかして、自分の土地だけでもたすかりたいというのが、まあ人情ですな。ところで、この土地でいちばんたくさん、土地を持ってるちゅうのが、北神家と西神家なんだから、両家のあいだにはげしい利害衝突が起こったというのももっともな話で、当時の両家の争いは、いまでも村の語りぐさになってるくらいで、それこそ、あわや血の雨が降らんばっかりだったというんですな」
「なるほど、それに代々の確執からくる感情問題もからんでるでしょうからね」
 金田一耕助は寒そうに|襟《えり》をかきあわせながら、眼をあげて湖水の周囲を見わたした。
 湖水をいだく山々は、湖畔にわずかばかりの湿地帯をのこしたきりで、|摺《すり》|鉢《ばち》の壁のようなけわしい傾斜をもって、|突《とっ》|兀《こつ》として|眉《まゆ》の上にそびえている。それらの傾斜はよく耕されて、一面に|葡《ぶ》|萄《どう》だの、|水《すい》|蜜《みつ》|桃《とう》だのが植わっている。
 それが耕地をうばわれたこの村の、唯一のなりわいとなっているのだが、だれの眼にもそれはいかにもいたましい努力にみえる。
「それで、そのときは北神家と西神家、どちらに軍配があがったんですか」
「それがね、皮肉なもんですな。両家の猛運動のかいもなく、けんか両|成《せい》|敗《ばい》とばかりに、結局双方ともあらかた湖水の底にしずんでしまったんだから、恨みっこなしといえばいえるもんの、憎悪と反目だけは旧に倍してながく尾をひいたというわけです」
「なるほどねえ」
 金田一耕助はもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、
「そういう両家の感情的なわだかまりを無視しては、こんどの事件の根底によこたわっているものを、理解することはできないというわけなんですね」
「そうです、そうです。それなんです」
 と、金田一耕助の相手はつよくうなずいて、
「わたしは思うんだが、いま、われわれがこうして、躍起となって探している|御《み》|子《こ》|柴《しば》|由《ゆ》|紀《き》|子《こ》ちゅう女が、はたして、北神家と西神家のせがれたちが、血まなこになって争わねばならんほど、ねうちのある女だったかどうか疑問だと思うんです。それゃ、べっぴんはたしかにべっぴんだったそうだ。写真を見ても、まあ|鄙《ひな》にはまれなというような器量ですな。それに|上海《シャンハイ》からの引き揚げ者で向こうで相当にくらしてたというから、こういう農村へ入ってくれゃ、それゃ、眼につく女だったにゃちがいないが……しかし、それかといって北神家と西神家のせがれたちが、いのちにかけても……と、いうほどの娘だったかどうか……やっぱりなんですな、先祖からの意地が大いに手つだっていたんでしょうな」
「それで、結局その|鞘《さや》|当《あ》ては、北神家のせがれの……なんてましたかね、|浩《こう》|一《いち》|郎《ろう》てんですか、その浩一郎に軍配があがったというわけですね」
「そうです、そうです、その浩一郎ってのは村じゃ一応、模範青年ってことになってるんですな。それでまあ、由紀子の意向はそっちへかたむき、結納もすんで、秋の取り入れがおわったら、式をあげようということになってたところが……」
「そこへ西神家から|横《よこ》|槍《やり》が出たというわけですか」
「そうです、そうです。それというのが御子柴の家はいくらか西神家に恩義をこうむっているんですな。御子柴一家は両親に由紀子、それから中学へ行ってる弟の四人家族なんですが、これが終戦後、着のみ着のままで上海から引き揚げてきた。それを最初に引きとって、めんどう見たのが西神家なんです。木小屋かなんかとりつくろって、そこへ住まわせておいたんですな。当時はなにしろ農村の景気のいい絶頂でさあ。ごらんのとおりこのへんじゃ、水田がすくないから、農民でも主食の配給をうけるもんが多いんですが、そのかわり、果物のほうが羽根がはえたように売れていく。おもしろいほど金がながれこんできたもんです。それでまあ、御子柴一家も西神家の果樹園の手つだいしたり、わずかばかりの土地を開墾して、ねずみのしっぽみたいなさつまいもを作ったり、そんなことでどうにかこうにか暮らしてきたんですが、これひとえに西神家のおかげではないか。それをなんぞや、西神家のせがれを|袖《そで》にして、北神家へ嫁にいくとはなにごとぞや、と、そういうわけで苦情が出たんですな」
「西神家のせがれはなんとかいいましたね」
「|康《やす》|雄《お》ちゅうですがね。因果なことにゃ、これが北神家の浩一郎とおないどしだから、いっそう争いがはげしくなります。しかし、村のもんはいってますな。西神家も悪い。由紀ちゃんを嫁にする気があるなら、もうすこし御子柴家のもんをだいじにしとけばよかったのにってね」
「すると、西神家じゃあんまりだいじにもしなかったというわけですか」
「ええ、それがね、めんどうを見てるとはいうもんの、ずいぶん邪険にして、まるで牛馬を扱うような調子だったといいますから、あんまり威張りもできんらしい。当時はなんしろ人手が足りず、|猫《ねこ》の手でも借りたいところだったから、おためごかしにずいぶんこき使ったんですな。それにゃ、御子柴の一家も内々腹にすえかねていたらしい。もっとも、昨年あたりから、いくらかようすが変わってきてたそうです。それというのが、引き揚げてきたころは、まだ十五、六の小娘だった由紀子が、年ごろになるにしたがって、だんだんきれいになってくる。そうなると若いもんがほっときませんや。なにかと口実をもうけては御子柴の家へあそびにくる。由紀子のおふくろちゅうのがまた都会育ちで如才がない。それでいつのまにか由紀子の家は、村の若いもんのクラブみたいになってしもうた。そうなると西神家でも、なるべく悪口はいわれたくないもんだから、いくらかまあ、ましな取り扱いをするようになったというわけです」
「それでまだそのころは、由紀子を嫁にする腹はなかったんですね」
「それはもちろん。こういうことにかけちゃあ、田舎の人間のほうが都会の人間より勘定高くできてますからな。無一物の引揚者の娘など、いかにべっぴんだからと、嫁にしようなどと考えるもんですか。もっとも、親の心子知らずで、康雄のほうではだいぶんまえから|御執心《ごしゅうしん》だったらしい。しきりに由紀子のごきげんをとってたそうですが、親たちにしてみれば、それをむしろにがにがしいことに思うていたんですな。ところが、そういう形勢が|俄《が》|然《ぜん》一変したというのが、北神家のせがれ、浩一郎の立候補なんですな。しかも、北神家では両親とも、この縁談に承諾をあたえているときいて、西神家の親たちもあわてだした。ほかへ嫁にいくならともかく、北神家へ嫁にいかれたら、それこそ西神家の面目はまるつぶれです。北神家へとられるくらいならうちへ……と、いう意地も手つだってるし、それによその花は赤いのたとえのとおり、いままで手もとにおいて、牛馬同様にこき使ってるうちはそうも思わなかったものが、北神家ほどのうちが眼をつけるかと思うと、いまさらのように由紀子という娘が、見なおされてくるちゅうわけでしょう。急にちやほやしはじめたというんです」
「なるほど、持つべきものは美人の娘というわけで、御子柴一家も|有《う》|卦《け》に入ってきたわけですな」
 金田一耕助のことばの調子は、しかし、どこか重く暗かった。
「そうです、そうです。そういうわけです」
 語り手もむっつりとうなずくと、
「まえにもいったとおり、由紀子のおふくろちゅうのが利口もんで、北と南とを両|天《てん》|秤《びん》にかけて、たくみに手玉にとっていく、娘の由紀子ちゅうのがおふくろに似た利口もんとみえて、どっちへも等分に|愛嬌《あいきょう》をふりまく。それでも、そこは地の利を得ているだけあって、はじめのうちは西神家の旗色のほうがよさそうに見えてたそうです。それが最後の土壇場になってひっくりかえって、北神家の結納がおさまったちゅうんだから、さあ、おさまらないのは西神家です。これゃあ、婚礼までにひと騒動起こらずばいまいといったところへ、突然由紀子が|失《しっ》|踪《そう》したもんだから、騒ぎが急に大きくなってきたわけです」
 語り手はそこでひと息いれると、思い出したようにあたりを見わたす。
 湖水の上に散らばった、|田《た》|舟《ぶね》やモーターボートからは、さかんに網がうたれ、また、ながい|竿《さお》で水のなかがかきまわされる。しかし、まだどこからも成果があがったという合図はない。
 そこは山陽線のKから一里あまり奥へ入った山間の一|僻《へき》|村《そん》。いまその村の人工湖にボートをうかべて、金田一耕助と相対しているのは、岡山県の警察界でも|古狸《ふるだぬき》といわれる|磯《いそ》|川《かわ》警部。
 金田一耕助は妙に岡山県に縁があって、「本陣殺人事件」でデビューしたときも岡山県の農村だった。それから「獄門島」「八つ墓村」と、たびたび岡山県で事件を取り扱っているが、そのつど行動をともにするのが、この磯川警部である。
 それだけに金田一耕助は、このずんぐりした猪首の警部に、ふかい親愛の情をおぼえて、関西方面へ旅行すると、いつも足をのばして岡山まで、警部に会いにくることにしている。
 こんども大阪まで来たついでに、岡山まで足をのばして、磯川警部を訪問したところ、こっちへ出張していると聞いて、あとを追っかけてきたのがきっかけで、はからずもこの異様な事件にぶつかったというわけである。
     二
「それじゃ由紀子という娘が、失踪した当時の事情というのを聞かせてください。きょうでもう五日になるのでしたね」
 金田一耕助はさっきから、なにか気になるように湖畔のほうを見ていたが、やがてその視線を警部のほうにもどすと、そうおだやかに切りだした。
 湖畔にはおおぜいのひとがむらがって、湖上における警官たちや青年団の活躍ぶりをながめているが、なにかしら切迫した空気がそこに感じられる。
 三方山にとりかこまれたこの土地の秋は、日の暮れるのもはやく、湖水の上にはしだいに|翳《かげ》りがひろがってきて、例によってよれよれのセルによれよれの|袴《はかま》といういでたちの金田一耕助は、さっきから肌寒さをおぼえて、しきりに貧乏ゆすりをしている。
「ええ、そう、きょうは十月八日だから、ちょうど五日になりますね。十月三日が隣村の祭りなんだが、由紀子はそのお祭りに行ったきり姿を消してしまったんです」
 警部はふとい指をあげて、湖水の西に牛が寝そべったようなかっこうでつらなっている山々を指さしながら、
「隣村というのはあの山のむこうにあるんだが、べつに山越えをしなければならんわけでもなく、|山《やま》|裾《すそ》をまわっていけるんだが、女の足だと半時間くらいはかかりますからな。ここいらの村々のもんは、みんなたがいに縁組みしとりますから、どの村にも親類縁者がある。だから祭りというとたがいによんだりよばれたり、まあ、田舎ではお盆よりも正月よりも、祭りがいちばん楽しみなんですな。ことにこの隣村のY村の祭りちゅうのは、近在でいちばん時期がはやいんで、みんな珍しがって押しかける。御子柴の家は引揚者だから、隣村に|親《しん》|戚《せき》があるわけではないが、それでも由紀子は友だちに誘われて出かけたんです。なんでもはやめに夕飯食って、家を出たのは四時過ぎだったというんですがね」
「友だちというのは……?」
「みんな女の子で、五人づれで出かけたというから、ほかに四人いたわけですな。それで、むこうのお宮へ行って、お|神《か》|楽《ぐら》やなんか見ていたんですが、そのうちに由紀子の姿が見えなくなったのに気がついたそうで……」
「それは何時ごろのことですか」
「だいたい八時か九時ごろのことだろうというんですが、まさかこんな騒ぎになろうとは、だれも思わなかったから、そのときはかくべつ気にもとめなんだんですな。なんでもむこうへつくとまもなく、大したことはないけれど、少し気分が悪いといってたから、さきへかえったんだろうくらいに思ってたそうです。なんでもその晩は|仲秋明月《ちゅうしゅうめいげつ》にあたっていて、とても月がきれいだったそうですから、女ひとりの夜道でも、そう不自由はなかったんですな」
「それっきり、だれも由紀子の姿を見たものはないんですか」
「そうなんです。だからおかしいちゅうんですな。由紀子が山裾の道を通ってかえったとしたら、だれかに出会わんちゅう法はないんです。祭りのお神楽はよなかの一時ごろまでありますし、それに青年団の余興、つまりのど自慢ですな。これはもう明け方の五時ごろまでつづいたといいますから、八時や九時はまだ|宵《よい》の口で、隣村とこの村をつなぐ道は、三々五々、人通りのたえまがなかったというのに、だれひとり由紀子の姿を見たものがない。それがおかしいちゅうんです。由紀子はなにしろ、近在きっての評判娘だから、会えばだれでもおぼえているはずなんですがな」
「山裾の道よりほかに道はないんですか」
「いや、それはあります」
 と、警部は|巾着《きんちゃく》の口をしぼったように、湖水の奥をふさいでいる、このへんでもいちばんたかい山を指さしながら、
「あの山を越えると村道を行くよりいくらかちかいんです。しかし、それも屈強の男の足のことで、足弱ならばむしろ山裾の村道をまわって行くほうが、かえってはやいかもしれませんな。それに、いかに月がよいからちゅうて、女ひとり夜ふけになって、山越えするとは思えませんしね」
「その晩、山越えをしたものはだれもいないんですか」
「いや、それがひとりあるんです。北神九十郎ちゅうて、これまた満州からの引揚者なんですがね。その男が夜の十二時過ぎ、山越えをしてかえってきたちゅうんです」
「北神九十郎というと浩一郎の家と親戚ででも……」
「さあ、それはいずれ株内じゃありましょうが、そうちかしい親戚ちゅうんでもなさそうです。それにこの男、三十年も満州にいたそうですからな」
「それで、その男、途中でなにか気がついたことでも……?」
「いや、べつに、なにも気がつかなんだというとります。もっとも、ひどく酒に酔うていたそうですから、途中でなにかあったとしても気がつかなんだでしょうな」
「それで西神の康雄や、北神の浩一郎という青年は、その晩、どうしていたんです」
「西神家の康雄のほうは、その晩、隣村の親戚へよばれていって、ぐでんぐでんに酔っぱらったあげく、そこに泊まっているんです。ところが北神家の浩一郎のほうは、その晩、祭りにも行かず、一時ごろまでむこうに見える水車小屋で、米を|搗《つ》いていたそうです」
 磯川警部の指さしたのは、湖水のいちばん奥まったところである。そこに湖水へながれこむ渓流があり、その渓流のそばにこけら|葺《ぶ》きの水車小屋がたっている。山越えで隣村へ行くには、その水車小屋のすぐ上手にかかっている橋をわたっていくのである。
「あの水車小屋は村の共有になっていて、毎日順繰りに使うことになっているんですね。その晩は北神家の番ではなかったが、番にあたっていたもんが、隣村の祭りへ行きたいちゅうので、番を北神家へゆずったんですな。なにしろ、このへんじゃ水田がすくないもんだから、どのうちも米は不足する。それで、早場米をつくって、一日もはやく搗いて食おうというわけで、浩一郎も精を出したんですな。いや、昔ならば北神家のせがれともあろうもんが、米搗きなんどすることはなかったんでしょうが、これも時世時節で、作男なんかもいなくなってしまいましたからな」
 金田一耕助は考えぶかい眼つきになって、
「その浩一郎という青年はどうなんですか。祭りなどというにぎやかなことはきらいで、ひとり黙々として米でも搗いていたいという青年なんですか」
「いや、ところがそうでもないんですな。なにかことがあると、まっさきにやるちゅうふうで、ことにのどがよくて歌がうまいんだそうです。それですから、隣村の祭りののど自慢にも、ぜひ出てくれちゅう招待を、どういうわけかことわって、水車で米を搗いてたちゅうんで、そこんところがちょっと……陰性といえば、振られたほうの康雄のほうが、どこか陰性なところのある青年ですがね」
 金田一耕助は警部の顔を見つめながら、
「それはちと妙ですね。そういう青年が年に一度の祭りの招待をことわるなんて……」
「ほんとうにそうです。この浩一郎という青年についちゃ、ほかにも妙なことがあるんですが、しかし、その晩、水車小屋にいたちゅうことはたしかなんで。さっきいった九十郎という男ですね。その男は十二時過ぎに山越えでかえってきたが、山越えでかえってくると、ほら、あの橋をわたって水車のそばを通ることになるんです。そのとき、浩一郎が小屋のなかで米搗きをしていたんで、ふたこと三こと、言葉をかわしているんです」
 金田一耕助はなにかしら、また気になるふうで湖畔のほうへ眼をやりながら、
「なるほど。ところで、浩一郎について妙なことというのは……?」
「それがどうもおかしいんです。とにかく、そうして娘ひとり突然姿を消したもんだから、この村はいうにおよばず、隣村なんかも大騒ぎでさあね。御子柴のうちじゃ青くなって、あちこち探してまわるやら、|八《はっ》|卦《け》|見《み》に見てもらうやら、村は村で青年団が山狩りするやら、まあ、いろいろやったんですが、すると祭りの日からなか一日おいて五日の朝、由紀子の弟の啓吉というのが、自宅のうらの庭で妙なものをひろった。浩一郎から由紀子にあてた手紙なんですがね」
「で、その内容は……?」
「三日の晩、水車小屋で待っているから、かっきり九時にやってきてくれ。式をあげるまえにぜひ話しておきたいことがあるから。……ただし、このことはぜったいにだれにもさとられぬように……と、だいたいそんな意味なんですがな」
「それじゃ、警部さん、話は簡単じゃありませんか。ぜったいに、だれにもさとられぬようにという浩一郎の指令なので、由紀子はきっと人目を避けて、山越しにこの村へかえってきたんじゃないんですか」
「ところがね、金田一さん、浩一郎はぜったいに、そんな手紙を書いたおぼえはないといいはるんです。事実また、筆跡をしらべてみても、浩一郎の筆とはまるでちがっているんですがね」
「なるほど。しかし、よしんばそれが|偽《にせ》手紙としても、由紀子がそれにあざむかれて、水車小屋へやってくるということはありうるでしょう」
「ところが、浩一郎はまた|頑強《がんきょう》に、それを否定するんですね。自分は宵から一時ごろまで、水車小屋にがんばっていたが、由紀子のやってきたなんてことはぜったいにない。もっともその間、半時間ぐらい、横になってうとうとしたが、由紀子がやってきたら気がつくだろうし、自分が気がつかなかったら、由紀子のほうで起こすはずだというんです」
「水車小屋には横になるような場所があるんですか」
「ええ、それはあります。三畳じきくらいの、|蓆《むしろ》をしいた板の間があって、|枕《まくら》なんかもそなえつけてあり、毛布でも|抱《かい》|巻《まき》でも持ちこむと、ちょっと横になれるようになっているんです。ところが、またここに妙なことには、浩一郎はそうして頑強に否定するものの、村の駐在の清水君ちゅうのが、水車小屋をしらべたところが、いまいった蓆の下から由紀子の紙入れが出てきたんです。しかも、隣村の祭りへ出かけるとき、由紀子がそれを持って出たってことは、両親のみならず、いっしょに行った友だちなんかもみんな証言してるんです」
「それじゃ、もう問題はないじゃありませんか。やっぱり由紀子は水車小屋へ……」
「まあ、まあ、待ってください、金田一さん。それだけの単純な話なら、なにもわたしがわざわざ出張してくることはないんですからな。問題はその手紙と紙入れなんで。……と、いうのは由紀子の失踪したのは、いまいったとおり三日の晩なんだが、その翌日の四日の夕方に、このへん一帯、秋にはめずらしい大夕立があったそうです。なんでも三週間めのおしめりだちゅうんで、みんなよくおぼえとるんですがね。だから、由紀子が三日の夕方、家を出るときその手紙をおとしていったものならば、五日の朝、由紀子の弟啓吉が発見したときには、その手紙、ズブぬれになっていなければならんはずでしょう。ところがそれがいくらか湿ってはいるものの、夕立にうたれた形跡なんてみじんもないんです。また、紙入れのほうですが、これまた四日の晩に勘十という男……この男が祭りの晩、浩一郎に番をゆずった男なんですが……その男が四日の晩に、水車小屋で米搗きをしてるんですが、そのとき、一度蓆をあげて掃除をしたが、そんな紙入れなんか、どこにもなかったというんです」
 金田一耕助の眼はしだいに大きくひろがってくる。さっきからもじゃもじゃ頭へつっこんでいた、五本の指の運動が、しだいにはげしくなってくる。これが興奮したときの、金田一耕助のいくらか奇妙な習癖なのだ。
「な、な、なるほど。そ、そ、そいつはおもしろいですな」
 と、これまた興奮したときのくせで、金田一耕助はどもりながら、
「すると、だれかが浩一郎をおとしいれようとして、作為を|弄《ろう》しているというんですね」
「じゃないかちゅう気がするんです。この話を聞いたとき、わたしゃなんだかいやあな気がした。いままでお話ししただけのことなら、単なる村の小町娘の失踪事件……よしんば、たとえ、そこに犯罪があるとしても、ありふれた殺傷事件ですむんですが、この手紙と紙入れのことがありますから、これゃただの事件じゃないぞ。相当手のこんだ事件だぞと、そんな気がつよくしたちゅうわけなんです。ところが、ねえ、金田一さん」
 と警部は体を乗りだすようにして、
「ここにまたひとつ、おかしなことがある」
「おかしなことというのは……?」
「いまいうた勘十という男ですがね。勘十のいうのに、紙入れに関するかぎり、四日の晩、そんなものはぜったいになかったというんですが、それにもかかわらず勘十は、三日の晩、由紀子が水車小屋へ来たんじゃないかという疑いを、まえから持っていたちゅうんですな」
「と、いうのは……」
「と、いうのは四日の晩、勘十が|米《こめ》|搗《つ》きに行って、すこし疲れたから横になろうとすると、枕にひと筋、女の髪の毛がついていたというんですな。勘十も三日の晩、由紀子の隣村の祭りへ行ったきり、行方不明になっていることを知っている。しかも、三日の晩、水車小屋にいたのは浩一郎だから、さては由紀子と浩一郎、ここでうまくやりおったなと思ったというんです」
 金田一耕助はまた気になるような視線を、湖畔のほうに投げながら、
「それじゃいったいどっちなんです。由紀子は水車小屋へやってきたのかこなかったのか。……」
「それがどうもわからん。浩一郎はぜったいに、そんなことはないと否定しつづけているんだが……」
「しかし、どちらにしても、由紀子は死体となって、この湖水のどこかにしずんでいるという疑いがあるんですね」
「そうです、そうです。五日の夕刻由紀子の|下《げ》|駄《た》が、六日にはおなじく帯が、湖水から発見されているんです。それできのうからわたしもこっちへ出張してきて、こうして捜策してるちゅうわけです」
「しかし、死体はもうどこかへ流れ去っているという心配はありませんか」
「いや、その心配はないんです。三日の夕方からして、ああしてあの水門は閉ざしたまんまなんだそうで。四日の夕方に大夕立があったことはあったが、なにしろ三週間もの|日《ひ》|和《より》つづきで、相当減水していたから、水門からあふれるちゅうほどではなかったんですな。だから、死体がこの湖水へ投げこまれたとしたら、いままだあるはずなんだが。……」
 警部はいくらかいらいらした眼つきになって、湖上にちらばっている舟を見まわしている。どこからもまだなんの反響もおこらず、山の影はいよいよながくなって、いまはもうすっかり湖水のおもてをおおうている。これではきょうの捜索もむだにおわるのではないか。……
 金田一耕助はあいかわらず、妙に気になる視線を湖畔のほうにむけながら、
「ところで、警部さん、三日の晩にはもうひとり、この村から姿を消したものがいるというじゃありませんか」
「ああ、そうそう、村長の細君ちゅうのがいなくなってるんですがね。ただし、村長自身は大阪のほうへ行ってるんだといってるそうで。……これはしかし、こっちの事件と関係があるとは思えませんがね。……おい、どうした、まだなんの手がかりもないか」
 と、警部は隣の舟に声をかける。
「へえ、どうもいっこう。……警部さん、こら|浚渫《しゅんせつ》船でもやとうてこんことには、らちがあかんかもしれませんぜ」
「そうなるとやっかいだなあ」
 磯川警部はいまいましそうに|眉《まゆ》をひそめる。さっきからしきりに湖畔のほうを気にしていた金田一耕助は、そのとき、ふと警部のほうへむきなおると、
「ねえ、警部さん、むこうに見えるあの小屋ですがねえ。ほら、部落からはなれて一軒ポツンと、湖水のすぐそばに建っている小屋があるでしょう。あれはいったいどういう小屋なんでしょうね。妙に|烏《からす》がさわいでいるようだが……」
 磯川警部は不思議そうに、金田一耕助の指さすほうへ眼をやったが、急にぎょっとしたように眼を見張った。
 部落と水車小屋とのちょうど中間ぐらいの、湖水の水際から二|間《けん》ほどあがった|崖《がけ》の上に、両方からせまる急坂におしつぶされそうなかっこうで、木小屋か牛小屋か、小さな小屋が一軒ポツンと建っている。
 そのへんはもうすっかり|夕《ゆう》|闇《やみ》につつまれて、|蒼《そう》|茫《ぼう》たる|雀《すずめ》色のたそがれの底にしずんでいるのだが、その小屋の上一面に、|胡《ご》|麻《ま》をまいたように烏がむらがって、不吉な声をたてているのである。
「き、金田一さん」
 磯川警部は眼をひからせ、ちょっと呼吸をはずませた。
「あの小屋がなにか……」
 と、そういう声はおしつぶされたようにしわがれている。
「いえねえ、警部さん、ぼく、さっきから考えてるんですが、あてもなく湖水のなかをひっかきまわしているより、あの小屋のなかをしらべてみたほうが、手っとりばやいんじゃないかと思うんです」
 磯川警部はまじろぎもせず、小屋の上にむらがる烏どもを見つめていたが、急にその眼をちかくにいる田舟のほうにもどすと、
「きみ、きみ、清水君だね。きみ、むこうに見えるあの小屋な、ほら、水際からすこしあがったところに建っている小屋さ、烏がいっぱいむらがっている小屋があるだろう。あれゃいったいなにをする小屋だね」
 この村に駐在している清水巡査は、まだとても若く、団子鼻にあごのひらたい童顔には、にきびが一面に吹き出している。
「ええ、あの、警部さん、あれは北神九十郎のうちですが……どうしたんでしょう、烏があんなに鳴きたてて……」
「北神九十郎……? ああ、満州からの引揚者ですね。家族があるんですか」
 金田一耕助がたずねた。
「いえ、あの、独りもんなんで。……満州から引き揚げてきたときには、おかみさんがおったんですが、ひどい梅毒で、一年ほどして死んでしもうて、それからずっと、ひとりで暮らしておるんです」
「祭りの晩、山越えでかえってきたという男ですね。どういう人柄ですか」
「はあ、それが……」
 と、清水巡査はいくらかかたくなって、
「ひとくちにいいますと、敗戦ボケちゅうんでありましょうか。それというのも、無理からんところもありまして。……満州では相当にやっておったちゅう話でありますが、それが|素《す》|寒《かん》|貧《ぴん》になって引き揚げてきまして。……しかも、引き揚げの途中、おかみさんちゅうのが、つまり、その……むこうの連中にさんざんわるさされたんですね。それで、ひどい病気をもろうてかえって、体じゅう吹出物だらけちゅうありさまでした。それでありますから、村のもんも気味わるがって、だれも相手にせなんだんであります。おかみさんがのうなったときにも、医者もよりつかんちゅう状態で。……それで、すっかりボケてしもうて、ろくすっぽ村のつきあいもせず、あれでどうして暮らしとるのかと思われるほどで。……まあ、牛か馬みたいな生活をしとります。しかし、警部さん、おかしいですなあ。あの烏のさわぎかたは……」
「き、金田一さん、行ってみましょう!」
 磯川警部が|噛《か》みつきそうな声でそういって、急ピッチにオールをあやつるうしろから、清水巡査もあわをくったように、
「警部さん! 警部さん!」
 と、呼吸をはずませ、にきびづらの童顔にぐっしょり汗をかきながら、田舟をあやつってついてくる。
     三
 この事件が当時あのように世間をおどろかしたのは、犯人よりも、また殺害方法よりも、死体の発見されたときの世にも異様な状態にあった。
 金田一耕助もだいたい想像はしていたものの、実際、|眼《ま》のあたりに見た死体には、かれの想像をはるかにこえた、一種異様な不気味さがあったのだ。
 それはさておき、突然ひきかえしてきた二|艘《そう》の舟が岸につくのをみると、なにごとが起こったのかと、湖畔にむらがっていた野次馬がばらばらとそばへかけつけてくる。清水巡査はそれを追っぱらいながら、金田一耕助と磯川警部を、九十郎の小屋へ案内する。
 さっきもいったように、九十郎の小屋は水際から二間ほどあがったところの崖の上に建っているのだが、ちょうど左右からせまる|山《やま》|襞《ひだ》のなかに、めりこむようにちぢこもっているので、湖水からだとよく見えるが、地上からだと、どの地点からもほとんど見えない。ひとぎらいとなった|隠《いん》|遁《とん》者が世間の眼からのがれてかくれ住むには、このうえもなく格好の場所というべきである。
「九十郎のやつが……九十郎のやつが……あいつ、なるほどつきあいの悪いやつやし、こっちから声をかけても返事もせんようなやつで、子どもなんか、九十郎の顔を見るとこわがって逃げだすくらいだが……まさか、……まさか……なにしろ、三十年以上も日本からはなれとったようなやつですから、気心がちっともわからんし、畜生ッ、しっ、しっ!」
 この意外な事件の進展に、まだ若い清水巡査はすっかり興奮している。童顔にはなばなしく吹きだしたにきびのひとつひとつが、汗をおびてぎらぎら光っている。
 三人の男がちかづいてくるのを見ると、屋根にむらがっていた烏どもが、いっせいにガアガア鳴きながらとびたったが、そのままほかへとんでいくのではなく、あちらの|梢《こずえ》、こちらの崖っぷちへと羽根をやすめて、また、ひとしきり、鳴きたてながら、首さしのべて好奇的な姿勢で、三人の姿を見まもっている。
 実際、たそがれの空に鳴きたてる烏どもの鳴き声には、一種異様な鬼気を感じさせるものがあった。
 清水巡査が牛馬同様の暮らしをしているといったのもあやまりではなく、九十郎の小屋はそこらにある牛小屋にそっくりだった。いや、牛小屋でももうすこしましなのがあるかもしれぬ。それでも都会のこういう種類の小屋からみると、荒壁がついているだけましだろう。
 三人がぐるりと小屋をひとまわりすると、入り口にはまった腰高障子の上に、まっくろになるほど|蠅《はえ》がたかっていて、なにかしら一種異様な臭気が鼻をつく。
 金田一耕助と磯川警部はどきっとしたように眼を見かわせる。
「烏や|昆虫《こんちゅう》の|嗅覚《きゅうかく》はおそろしい。警部さん」
「よし、なかへ入ってみよう。清水君、障子をひらいてみたまえ」
 たてつけのわるい障子が、がたぴしと音をたててひらくと、蠅がわっととびたった。
 なかは四畳半ほどのひろさだが、こういうところでも人間、生活をしていけるという見本のようなものだ。床には米俵のほぐしたのがしきつめてあり、すみっこのほうに|土《ど》|瓶《びん》や|茶《ちゃ》|碗《わん》が、|戸《と》|棚《だな》のように立てておいた|蜜《み》|柑《かん》|箱《ばこ》のなかにならんでいる。炊事は外でやるらしく|鍋《なべ》、|釜《かま》、七輪の類は見当たらない。
 元来、この小屋は北神家の小屋だったのである。上の山できった木を|薪《たきぎ》にして、いったんこの小屋へつんでおき、それを舟で部落のほうへはこんだものだが、九十郎夫婦が引き揚げてきたとき、それを無償で提供したのだ。したがってこの小屋には窓というものがなく、むっとこもった空気のなかに、耐えがたいほどの臭気がたてこめて、蠅がわんわんと小屋じゅうを舞いくるっている。
 それでも小屋の一方には、押し入れらしいものがあり、そのまえに|蓆《むしろ》が二枚ぶらさがっているのが、まるで乞食の住む|蒲《かま》|鉾《ぼこ》小屋のようである。
「清水君、その蓆のなかだ。その蓆をめくってみろ」
 警部はハンカチで鼻をおさえながら、窒息しそうな声をあげる。言下に清水巡査が蓆をめくるかわりに、一枚一枚ひきちぎった。
 押し入れのなかはそれでも感心に二段になっていて、上の段にはうすい|煎《せん》|餅《べい》布団が縦のふたつ折りにして敷いてあり、その|枕下《まくらもと》や足のほうには、ボロがいっぱいつめてあるが、その布団のふくらみからして、そこになにがあるかだれの眼にもすぐわかる。
 清水巡査がその布団をめくると、金田一耕助と磯川警部が、
「…………」
 と、無言のうめき声をあげて一歩うしろへしりぞいた。そこには一糸まとわぬ全裸の女が、むっとするような臭気のなかによこたわっているのである。
「九十郎のやつが……九十郎のやつが……」
 ひとめ見て、そこでどのような忌まわしいことがおこなわれていたかを|覚《さと》ると、まだわかい清水巡査は、べそをかくような顔をして、はあはあとはげしい息使いをしている。
 自分のあずかっているこの村に、このような忌まわしい事件がおこったことにたいして、清水巡査はその重大な責任感に圧倒されているのだ。
「清水さん、清水さん」
 と、金田一耕助が息のつまりそうな声で、
「顔を……顔を見てください。御子柴由紀子にちがいありませんか」
 清水巡査はおっかなびっくりといったかっこうで、死体の顔をのぞきこんでいた。なに思ったのか、突然、
「わっ、こ、こ、こいつは……」
 と、腸をしぼるような声をあげてうしろへとびのいた。
「ど、どうしたんだ。清水君、由紀子じゃないのか」
「ゆ、ゆ、由紀子は由紀子です。し、し、しかし、警部さん、あ、あ、あの眼は、ど、ど、どうしたんです……」
「なに……? 眼が……?」
「清水さん、眼がどうかしたんですか」
 金田一耕助と磯川警部は不思議そうに眼を見かわしたのち、いそいで死体の顔をのぞきこんだが、そのとたんふたりとも、大きな眼を見張ったまま、その場に硬直してしまった。
 あたりに立てこめた異様な臭気にもかかわらず、腐敗はまだそれほどひどく表面にはあらわれていなかった。なるほど、村の若者たちにさわがれただけあって、由紀子はこのへんの女にはめずらしい中高の、いくらか気品にとんだ面差しをしているが、それにもかかわらず金田一耕助は、ひとめその顔を見たとたん、なんともいえぬほど、醜怪な感じにうたれずにはいなかった。
 それというのが、由紀子の片眼――左の眼がなかったのである。
 そのために、顔半分がくろぐろとうつろになった左の|眼《がん》|窩《か》を中心として、|巾着《きんちゃく》の口をしぼったようにゆがんで、そこだけ見ていると|妖《よう》|婆《ば》のように醜怪で不気味なのである。
「こ、これはどうしたんだ。どうして左の眼をえぐりとったんだ」
 磯川警部は呼吸をはずませる。
「警部さん、これは死んでからえぐりとったんじゃありませんね。眼のまわりに傷らしい傷はありませんもの。由紀子ははじめから片眼がなかったんですよ」
「片眼がなかったあ」
 磯川警部は眼玉をひんむいて、
「金田一さん、そ、それはどういう意味です」
 金田一耕助は|茫《ぼう》|然《ぜん》として眼を見張っている、清水巡査のほうをふりかえって、
「清水さん、由紀子は左の眼に義眼をいれていたという話はありませんでしたか」
「ぎ、義眼……?」
 清水巡査はびっくりしたように、金田一耕助の顔を見なおしていたが、
「いいえ、いいえ、あの……そ、そんな話、一度もきいたこと、ありません。しかし……ああ! そ、そういえば、由紀子の眼つきは、いつもちょっとおかしかった。やぶにらみみたいで……だけど、そのために、いっそうかわいく、あどけなく見えたんであります。そ、それじゃ、あれは義眼だったんですか。ち、畜生! このあま! |牝狐《めぎつね》め!」
 清水巡査の憤慨ぶりはただごとではない。
 金田一耕助と磯川警部は顔見合わせてうなずいた。
 清水巡査はまだ若い。独身でもある。かれもまた由紀子の崇拝者だったとしても、べつに不思議はないであろう。
 磯川警部がなにかいおうとしたとき、ふいに表の障子に影がさして、足音もなくひとりの男が入ってきた。背後から光をあびているので、顔はよくわからなかったが、入り口に棒立ちになったまま、三人の姿と押し入れのなかを見くらべていたが、
「九十郎、これは、ど、どうしたんだ!」
 と、清水巡査にどなりつけられて、まるで骨でもぬかれたように、そのまま、くたくたと土間にへたりこんでしまった。
 死体のこのあさましい状態からして、九十郎という男を、どのように凶暴な人物であろうかと想像していた金田一耕助は、相手が思いのほか意気地のなさそうな男なので案外な思いだった。
 年齢は五十前後だろうか、小作りな体で、無精ひげをもじゃもじゃはやし、清水巡査もいったとおり、いかにも敗戦ボケらしく、|瞳《ひとみ》がにごって生気がなく、口をポカンとひらいているが、それでいて見ようによっては、陰険らしく見えるところもある。
「九十郎、これはいったい、ど、どうしたんだ。この死体は……?」
 |噛《か》みつくように清水巡査にどなりつけられて、九十郎は無精ひげをいっぱいはやしたくちびるを、もぐもぐさせながら、
「へ、へえ、拾いましたんで……」
 と、無感動な声でつぶやいた。
「拾ったあ? 馬鹿なことをいうな! 貴様が絞め殺したんだろう」
 事実、由紀子は絞め殺されたらしく、のどのあたりになまなましい、くろずんだ指の跡がついている。
 九十郎はしかし、あいかわらず無感動な声で、
「いいえ、ほんとうに拾いましたんです」
「拾ったって、どこで拾ったんだ」
 磯川警部がおだやかな声でたずねた。
「へえ、湖水のなかに浮いていたんで。すぐそこの崖の下に……」
「それはいつのことだね」
「へえ、あの……大夕立のあった晩で……」
「大夕立のあった晩というと、四日の晩のことだね」
「へえ、そうなりますか。……そうそう、隣村の祭りのつぎの晩でしたから、四日の晩ということになりますか」
「四日の晩の何時ごろのことだね」
「さあ、何時ごろとおっしゃられても……わたし、時計を持っておりませんので。……でも、大夕立のあがったあとのことで……」
「清水さん、夕立は何時ごろあがったんですか」
 金田一耕助が清水巡査をふりかえった。
「はあ、あの、八時ごろにはすっかりあがっておりました。お月様がとてもきれいだったんです」
「そうです、そうです。そのお月さんを見ながら、崖の上から小便をしておりましたんです。そして、小便をおわってから、ひょいと崖の下を見ますと、由紀子ちゃんの死体が浮いておりましたんで。……」
「崖の上から見ただけで、由紀子だとわかったのかね」
 磯川警部がたずねた。
「いえ、あの、それは……だれだかわかりませんでしたんで。でも、女だということだけはわかりましたんです。それで、いそいで崖をおりると、由紀子ちゃんの体を抱きあげてまいりましたんです。そのとき、由紀ちゃんの手足には、|荒《あら》|縄《なわ》がまきついておりまして……」
 金田一耕助はそれをきくと、いそいで死体の手と足をしらべてみたが、そこにはまぎれもなく、なにかできつく縛ってあったらしい|痕《こん》|跡《せき》がのこっていた。
「それから、どうしたんだ」
「へえ、あの……死体を小屋へはこんでくると、ぬれた着物をぬがせて裸にして、自分も裸になって、肌と肌をくっつけてあたためてやりましたんで。……そうすると、息を吹きかえすことがあるということを、聞いておりましたもんですから。……しかし、由紀ちゃんはとうとう息を吹きかえしませんでしたんで。……」
「そのとき、貴様はなぜすぐそのことを、御子柴のうちへ知らせてやらなかったんだ。御子柴のうちで大騒ぎをして、由紀子ちゃんをさがしていることを、貴様だって知ってたろうが」
 九十郎は|臆病《おくびょう》なけだもののような感じのする眼を、ちょっとあげて清水巡査の顔を見ると、ひげだらけの口をもぐもぐさせながら、
「へえ、それが……あんまりかわいい顔をしているもんですから……まるで、観音様みたいにきれいで……それですから、つい手ばなすのが惜しゅうなりましたんで……わたしもひとりで寂しいもんですから」
 さすがに眼は伏せていたが、顔あからめもせず、全然無感動な声なのである。
 磯川警部も清水巡査も、ちょっと二の句がつげぬという顔色である。金田一耕助も背筋をムズムズとはいのぼる不快感を払いおとすことができなかった。
「きみ、きみ、九十郎君」
 と、金田一耕助はのどにからまる|痰《たん》をきるように、二、三度つよくから|咳《せき》をすると、
「きみが湖水から拾いあげたとき、死体にはすでに片眼がなかったのかね」
 九十郎はギロリと耕助の顔を見たが、すぐにその眼を伏せると無言のままうなずく。
「それでもきみにはこの顔が、観音様のようにきれいに見えたのかね」
 九十郎は眼を伏せたまま、
「へえ、そっちのほうさえ見なければよろしいんで……」
 金田一耕助がつづいてなにか尋ねようとしたとき、よこから磯川警部がつよい語気でことばをはさんだ。
「おい、着物はどうした? 由紀子の着物はどうしたんだ」
「へえ、その|行《こう》|李《り》のなかに入っておりますんで……」
 押し入れの下の段に、古い、小さな柳行李が押し込んである。清水巡査がそれをひらくと、はたしてなかから湿った|銘《めい》|仙《せん》の着物が出てきた。なるほど、相当ながく水につかっていたとみえて、粗末な染めの染料が落ちている。肌着から足袋までいっさいがっさいそろっていたが、みんな絞ったきりなので、じっとりとぬれている。荒縄は湖水へすてたという。
 金田一耕助はだまって考えていたが、急に清水巡査のほうへむきなおると、
「清水さん、水車小屋の付近に舟がありますか。すぐ手に入るようなところに……」
「はっ、あの、それは……ふだんはありませんですが、だれかが米が|搗《つ》いているときには、いつも外につないでありますんです。御存じないかもしれませんですが、あそこは部落からうんとはなれておりますし、道がわるいもんですから、米を搗きに行くときには、みんな舟で行くんであります」
 金田一耕助はまたちょっと考えて、
「四日の晩、米搗きに行ったのは勘十という男でしたね。そのへんにいたら、ちょっとここへ呼んでくれませんか?」
「はっ」
 清水巡査が出ていったあとで、金田一耕助は死体に布団をかけなおした。
 勘十はすぐ見つかった。九十郎の家になにかことがあると知って、崖下へあつまってきた野次馬のなかに、勘十もまじっていたのである。
「九ン十、おまえ、どうしたんじゃい。旦那、九ン十がなにかやらかしたんで」
 勘十は三十くらいの、このへんの人間特有の、|頬《ほお》|骨《ぼね》の出張った男である。
「ああ、いや、それはいまにわかりますがねえ」
 と、金田一耕助がよこからひきとって、
「四日の晩、あんたが水車小屋へ行ったとき、なにかなくなったものがあるのに気がつきませんでしたか。なにかこう、おもしになるようなものが……」
 勘十はびっくりしたような眼で、金田一耕助の顔を見なおすと、
「へえ、あの、そういえば|碾《ひき》|臼《うす》がひとつのうなっておりましたんで。……いえ、もう、ちかごろでは使っておりませんので、のうなってもだいじないもんですが、これを……」
 と、腰からきせるを取りだすと、
「吸うときに、|吸《すい》|殻《がら》を落とすのに便利なもんですから……」
「石の碾臼?」
「へえ」
「どのくらいの大きさ?」
「これくらいで……」
 勘十が手の指で、直径八寸くらいのまるみをつくってみせるのを、磯川警部と清水巡査が緊張した眼で見まもっている。
 金田一耕助はうれしそうにうなずいて、
「なるほど、わかった、ありがとう。ところでねえ、勘十君、あんたその晩、小屋のなかにガラス玉みたいなものが落ちてるのに気がつかなかった?」
「ガラス……?」
 と、勘十は不思議そうに眼を見張って、
「ガラス玉ってなんですか」
「いや、いや、それはなんでもないんです。そうそう、それからもうひとつおききしたいことがあるんだが、あんた水車の当番を北神浩一郎君とかわったでしょう。あれ、あんたからいいだしたの、それとも浩一郎君から申し込みがあったの?」
「ああ、あれは浩ちゃんのほうからいわれましたんです。わたしは祭りを棒にふるつもりでおりましたんですが、浩ちゃんにそういわれたんで大よろこびで……」
「ああ、そう、いや、どうもありがとう」
 金田一耕助は磯川警部と眼を見かわせた。
     四
 磯川警部と金田一耕助、それにつづいて清水巡査の三人が、にわかに湖上の捜索をきりあげて、九十郎の小屋へはいっていくのを見送って以来、村のひとたちの上に重っくるしくのしかかっていたパニック状態は、そこから手錠をはめられた九十郎と、戸板に乗せられた由紀子の死体がはこびだされるのを見るにおよんで、とうとう沸騰点に達したようだ。
 |蜂《はち》の巣をつついたような騒ぎとは、こういうときに使うことばだろう。戸板をかついだ刑事たちは、むらがりよる野次馬を追っぱらうのに、大汗をかかねばならなかった。
 手錠をはめられた九十郎は、村のひとたちの|痛《つう》|罵《ば》をあびながら、それでもきょとんとして、|眉《まゆ》|毛《げ》ひと筋うごかさなかった。例によってポカンとなかば口をあけ、なんの感動もない顔色で、黙々として清水巡査にひったてられていく。
 金田一耕助はむこうから由紀子の母親らしいのが、気が狂ったようになって歩いてくるのを眼にすると、あわてて顔をそむけたが、そこで思いだしたように一行とわかれると、ただひとりで、湖水のいちばん奥にある水車小屋へむかった。清水巡査もいったとおり、なるほどひどい道で、これでは車もかよいかねるだろう。
 水車小屋は湖水へそそぐ渓流のほとりに建てられていて、五坪くらいもあるだろうか。黒木の丸太組みで、道に面したほうに小さな窓と、これまた黒木づくりの戸がついている。
 なかへはいると大きな臼と、臼の上に休んでいる|杵《きね》が眼につく。水車の回転にしたがって、この杵が上下する仕掛けになっているのだが、いまは水車がとまっているので、杵もむろん静止している。
 臼のまわりには一面に|糠《ぬか》がこぼれ、床の上には|叺《かます》だの|枡《ます》だの、大きなブリキの|漏斗《じょうご》などがごたごたとおいてあり、天井にはすすけたランプがぶらさがっている。
 この米搗き臼の奥に、|南《ナン》|京《キン》米袋をつづりあわせたカーテンがぶらさがっているが、それを開くとなかは一段たかくなっていて、蓆がしいてあり、畳表でつくった|枕《まくら》がひとつ、|垢《あか》じんだ色をしてころがっている。勘十が女の髪の毛がこびりついているのを見たというのがそれだろう。
返回书籍页