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[横沟正史] 人面疮

_5 横溝正史(日)
 ランチが沖の小島へついたころには、嵐はいよいよ本式になってきた。
 水門からボートハウスのなかへ入っていくと、白|小《こ》|袖《そで》に水色の|袴《はかま》をはいた少年が迎えに出た。
「徹、今夜はここへ泊まっておいで。夜が明けてから陸づたいにかえるがいい。それでも葬式に間にあうだろう」
 志賀もいくらか落ち着いていた。
「はあ、そうさせていただきます。すみません」
 徹はランチをつなぎとめながら、ペコリと頭をさげた。
 徹をそこへのこして一同がボートハウスを出ると、暗い嵐の空に、累々層々たる屋根の|勾《こう》|配《ばい》が重なりあって、強い風のなかに|風《ふう》|鐸《たく》が鳴っている。昼間、この島を遠望すると、おそらく|蜃《しん》|気《き》|楼《ろう》のように見えるだろう。
 大きな朱塗りの門を通り、|春日《かすが》燈籠のならんだ|御《み》|影《かげ》石の道をいくと玄関があり、老女がひとり出迎えた。
「ああ、お|秋《あき》さん、静のようすはどうだね」
「はあ、なんですか。今夜はとくべつに気分が悪いとおっしゃって、宵から寝所へお入りになりました。旦那さまがおかえりになりましたら、恐れいりますが、菊の間でおやすみくださいますようにとのことでした」
「ああ、そう、ちょっと見舞いにいっちゃいけないかしら」
 志賀の声はひどく元気がない。
「おじさん、今夜はおよしになったほうがいいでしょう。気分がおさまってから……」
 あとから来た徹が注意する。
「ふむ」
 おとなしくうなずいたものの、徹を見る志賀の眼には、なにかしら不快なものがうかんでいる。しかし、すぐその色をもみ消すと、
「いや、失礼しました。それではこちらへ……」
 案内されたのは菊の間だろう。欄間の彫りも|襖《ふすま》の模様も、ぜんぶ菊ずくめの豪華な十二畳で、客にそなえて|座《ざ》|蒲《ぶ》|団《とん》などもよくくばられていた。
「あの、召し上がりもののお支度をいたしましょうか」
「あ、いや、もうおそいからそれには及びません。志賀さん、あんたもおやすみなさい。なんだか気分が悪そうだから」
「はあ、どうも。……醜態をお眼にかけて……金田一先生もお許しください」
 志賀はまだ深く酔いがのこっている眼付きだが、さっきの|狂躁《きょうそう》状態とは反対に、深い憂鬱の谷のなかに落ちこんでいるらしかった。
 その晩、耕助は久保銀造と|枕《まくら》をならべて寝たが、なかなか眠りつけなかった。嵐はますますひどくなるらしく、風鐸の音が耳について離れない。しかし、それよりもっと耕助の眠りをさまたげたのは、さっきの志賀の狂態である。
 宵に宿であったときの上機嫌とうって変わったあの狂態は、いったい、何を意味するのか。お通夜の席で親戚の村松が、何かいったということだが、それはどういうことか。
 それにもうひとつ、気になるのは、かつて志賀の細君を殺したという男が、いまここにいるということだ。それ自体、不安をそそる事実だが、それよりも、あの狂態の最中に、志賀はなぜまたそのことをいいだしたのか。久保銀造も寝られぬらしく、てんてん反側していたが、しかし、さすがに、失礼な|臆《おく》|測《そく》はひかえて、ふたりとも口を利かず、そのうちに耕助はとろとろとまどろんだ。
 その耕助がただならぬ気配に眼ざめたのは、明け方ちかくのことだった。
 寝床のうえに起きなおって、聴き耳を立てると、遠くのほうで廊下をいきかう足音が乱れて、それにまじって誰か号泣する声がきこえる。
「おじさん、おじさん」
 耕助がゆすぶると、隣に寝ていた銀造もすぐ眼をさました。
「耕さん、何かあったかな」
 ただならぬ耕助の顔色に、銀造もギョッと起きなおった。
「おじさん、何かあったらしいですよ。ほら、あの声……」
 銀造もちょっと耳をすまして、
「志賀の声じゃないか。いってみよう!」
 寝間着のまま声のするほうへいってみると、一間のまえにお秋という老女と女中が三人、それに六十前後の白髪のおやじがひとりまじって、ものにおびえたように座敷のなかをのぞいている。
 それを掻きわけて金田一耕助がのぞいてみると、つぎの間のむこうに寝室があるらしく、立てまわした|屏風《びょうぶ》のはしから絹夜具がのぞいている。その夜具のうえに白い寝間着を着た男の脚と、赤い腰巻きひとつの女の脚が寝そべっていて、
「静……静……おまえはなぜ死んだ。おれをのこしてなぜ死んだ。静……静……」
 号泣する志賀の声が屏風のむこうから聞こえてくる。金田一耕助は久保銀造をふりかえって、ギョッと呼吸をのんだ。
「おれじゃない。おれじゃない。おれは何もしなかった」
 そばに立っているずんぐりとした白髪のおやじが、何かつかれたような眼の色をしてつぶやいている。金田一耕助がまた銀造のほうをふりかえると、銀造がかすかにうなずきかえした。これがその昔、志賀の愛妻を殺したという樋上四郎なのだろう。
「おじさん、とにかくなかへ入ってみましょう」
 屏風のなかをのぞいてみると、志賀はしっかりと愛妻の体を抱きしめ、|頬《ほお》ずりし、肌と肌とをくっつけて、静よ、なぜ死んだと掻きくどいているのである。
 その静子は腰巻きひとつの裸体で、長い髪が肩からふくよかな乳房のうえにからまっている。志賀が夢中でその体をゆすったとき、黒髪がばさりと寝床のうえに落ちたが、そのとたん、金田一耕助と久保銀造ははっきり見たのだ。
 静子ののどには大きな|拇《おや》|指《ゆび》のあとがふたつ、なまなましくついている。……
 だが、それにしても、静子の枕もとにころがっているものはなんだろう。いびつな球状をしたガラスのたまで、中央に黒い円形の点がある。金田一耕助はそれをのぞいてみて、ギョッと呼吸をのみこんだ。
 それは義眼であった。ガラスでつくった入れ眼である。その入れ眼が瞳をすえて、静子の死体と、志賀泰三の狂態を視すえているかのように。……
 金田一耕助はゾクリと肩をふるわせた。
     五
「おやじがあんなことを云わなければよかったんです。いかに弟の遺言だからって、おじさんの気性をよく知ってるんだから、いうべきじゃなかったんです。ただ、しかし、おやじもまさか、こんなことになろうとは思わなかったろうし、それにおじさんに謝りたいという気持ちもわかるんですが……」
 おそく起きてこの変事をしった徹は、|愕《がく》|然《ぜん》たる顔色で、おじさんに悪かった、静子さんに気の毒だと、しきりに繰りかえしていたが、そこを金田一耕助と久保銀造に問いつめられて、やっとしぶしぶ口をひらいた。
「これはわれわれにとっても、思いもよらぬことだったんですが、病いが改まっていよいよもういけないと覚悟をきめたとき、滋がこんなことを告白したんです。静子さんと弟は、静子さんの結婚まえ、つまりうちでまだ看護婦をしていた時分、恋愛関係があったというんです。だから、静子さんは結婚したとき、処女ではなかったし、しかもその交渉は静子の結婚後も、ひそかにつづけられていたというんです」
 金田一耕助と久保銀造は顔見合わせてうなずきあった。昨夜以来の志賀の言動から、ふたりはだいたいそのようなこともあろうかと想像していたのである。
「そして、そのことを昨夜、お通夜の席で村松さんがおっしゃったのかな」
 銀造の口調はきびしかった。徹は身もちぢむような恰好で、愁然と頭をたれながら、
「はい。それが滋の遺言でしたから。……滋はおじさんにすまなかった。悪いことをしたといいつづけ、じぶんが死んだらおじさんにこのことをうちあけて、よく謝ってくれといいつづけて死んだものですから……」
「いくら故人の遺言だからって、静子さんの立ち場もかんがえないで……」
 銀造の顔にはげしい憤りがもえている。言葉も強く、するどかった。
「はあ、あの、まったくそうなんです。しかし、父としては媒酌人としての責任もありますし、一応、耳に入れるだけは入れておこうと……まさか、こんなことになるとは思わなかったでしょうから……」
「なんぼ媒酌人としての責任があるからって、そ、そんな非常識な……」
「おじさん、まあまあ、しゃべってしまったものは仕方ありませんよ。ところで、徹さん」
「はあ」
「あなたはまさかこんなことになるとは思わなかったから、お父さんが秘密をうちあけたとおっしゃるが、そうすると、お父さんが秘密をうちあけたから、こんなことになった。……ということは、志賀さんが静子さんを殺したんだとおっしゃるんですか」
 徹はギョッとしたように顔をあげ、金田一耕助の顔を見直すと、やがて声をひそめて、
「じゃおじさんじゃないんですか。たれかほかに……」
「いいえ、それはまだわかりません。こういうことはよく調査したうえでないと、軽々には判断はくだせないものです」
「失礼しました。ぼ、ぼく……昨夜の今朝のことですし、おじさんが非常な激情家だってことしってますし、それに……それに、昔、アメリカで、おじさん、やっぱり同じようなことやったって話聞いてますから……」
「しかし、あれは志賀がやったことじゃなかったんだよ。犯人はほかにあったんだ!」
 銀造は怒りをおさえかねて怒鳴りつける。徹はしどろもどろの顔色ながら、しかし、どこかしぶとい色をうかべて、
「はあ、あの、それは……おじさんもそう云ってました。しかし、何分にも遠い昔の、しかもアメリカでの出来事ですから……」
「そ、それじゃ、君は……」
「おじさん、まあまあ、いいですよ。それより徹さん、もうひとつお訊ねしたいことがあるんですが……」
「はあ」
「滋君と静子さんの交渉は結婚後もつづけられていたとおっしゃるが、いつごろまでつづいていたんですか」
「はあ、あの、それなんです。それがあるから、父は面目ないというんです。ふたりの関係は滋が|大《だい》|喀《かっ》|血《けつ》をして倒れるまで、すなわち、三月ほどまえまでつづいていたというんです。だから、ひょっとすると、静子さんの腹の子は……」
 徹もさすがにそれ以上はいいかねたが、それを聞くと耕助と銀造は、ギョッとしたように顔見合わせた。銀造は怒りに声をふるわせて、
「そ、そ、そんなことまでいったのか!」
「はあ、あの、それが一番だいじなことですから。……云いだしたからにはそこまでいわなければ……しかし、しかし、やっぱり父が悪かったんです。全然、云わなければよかったんです」
 銀造が何かきびしい口調で怒鳴りつけようとするところへ、老女のお秋が入ってきた。
「久保の旦那様、ちょっと旦那様のところへ来ていただけないでしょうか。わたしどもではちょっと……」
「ああ、おじさん、いってあげてください。そのかわりお秋さん、あなたここにいてください。ちょっとお訊ねしたいことがありますから」
「はあ」
「耕さん、じゃわしはいってくる」
 銀造は憎々しげな|一《いち》|瞥《べつ》を徹にのこして、そそくさと部屋から出ていった。徹はもじもじしながら、
「ぼくもそろそろかえりたいんですが……きょうは弟の葬式ですから」
「葬式は何時ですか」
「三時出棺ということになってるんですが、いろいろ仕度がありますから」
 徹は心配そうに外を見ている。昨夜から見ると風はいくらかおさまったけれど、そのかわり大土砂降りになっていた。
「ああ、そう、それじゃおかえりにならなきゃなりませんが、そのまえにお訊ねがもうひとつ」
「はあ、どういうことですか」
「このへんに、どなたか入れ眼をしているひとがありますか」
「入れ眼?」
「お心当たりがありますか」
「入れ眼が、ど、どうかしたんですか」
「いや、お心当りがありますかって……」
「入れ眼なら滋さんがそうでしたね。右の眼がたしか入れ眼だとか……」
 お秋の言葉に金田一耕助は、思わず大きく眼を見張った。それから、口をすぼめて口笛でも吹きそうな恰好をしたが、それをやめて、徹のほうにかるく頭をさげると、
「いや、お引きとめして失礼しました。それではどうぞお引き取りになって……」
 徹はもじもじと、何かさぐり出そうとするかのように、耕助の顔を見ていたが、やがて|諦《あきら》めたように肩をゆすると、
「お秋さん、自転車をかしてほしいんだが……」
「はあ、ところが、いまみると、その自転車がこわれてるんですよ。傘を出させますから……」
 お秋は女中を呼んで傘を出すように命じた。徹は外の雨を気にしながら、しぶしぶ出ていった。
 そのうしろ姿を見送って、耕助はお秋のほうにむきなおった。
「ねえ、お秋さん。こういうことになったら、何もかも腹蔵なくおっしゃっていただかねばなりません。多少、失礼なことをお訊ねするかもしれませんが……」
「はあ、あの、どういうことでしょうか」
 お秋は心配そうに体をかたくしている。
「露骨なことをお訊ねするようだが、奥さんはいつもああして……つまり、その、腰巻きひとつでおやすみになるんですか」
「とんでもない」
 お秋は言下に打ち消して、
「奥さまはそんなかたではございません。あのかたはとてもたしなみのよいかたでしたから、裸で寝るなんて、そんな……」
「それじゃ、誰かが裸にしたと思わなければなりませんが、あの部屋には寝間着が見えなかったんですがね」
「はあ、あの、それは|敷《しき》|蒲《ぶ》|団《とん》の下に敷いてあるのじゃございませんか。奥さまは万事きちんとしたかたで、お召し物などもいつも折り目のついたのをお好みになりますので、お寝間着などお寝間をしくとき、ちゃんとたたんで、その下に敷いておきますんで……」
「ああ、なるほど、道理で……」
 しかし、これはどういうことになるのか。静子は寝間着に着更えようとして、着物をぬいだところを絞め殺されたのだろうか。しかし、女が着物をぬぎかえるときには、誰でも本能的に用心ぶかくなるものだ。
 着物をぬぎすててしまってから、敷蒲団の下にしいてある、寝間着を取り出しにかかるとは思えない。一応、寝間着を出しておいてから、着物をぬぐべきではないか。しかも、着物はきちんとたたんで|衣《い》|桁《こう》にかかっていたのだ。
「ところで、昨夜お召しになっていた着物は、衣桁にかかっている、あれにちがいないでしょうな」
「はあ、あれにちがいございません」
「奥さまは昨夜、何時ごろに寝所へおひきとりになりましたか」
「七時すぎでしたでしょうか。今夜は気分が悪いからとおっしゃって……」
「旦那さまがおかえりになったら、菊の間でおやすみになるようにとおっしゃったのはそのときで……?」
「はあ、さようでございます。わたしどもに用事があったらベルを鳴らすから、それまではさまたげないようにとおっしゃって……」
「それから今朝まで、奥さんにおあいにならなかったんですね」
「はあ、でも、十二時ちょっとまえでした。呼び鈴がみじかく鳴りましたので、お部屋のまえまでおうかがいして、声をおかけしたんですけれど、御返事がなくて、寝返りをおうちになるような気配がしました。それで、間違ってベルを押されたのだろうと、ひきさがって参りましたので。……ベルの鳴りかたが、ほんとにみじかかったものですから……」
「呼び鈴はどこに?」
「コードになって、枕許においてございます。寝ながらでも押せるように……」
 金田一耕助はしばらくためらったのちに、
「ところで、旦那様と奥さんのお仲ですがね。ふだんどういうふうでした」
「それはもう、あれほど仲のよいご夫妻ってちょっと珍しいんじゃないでしょうか。旦那様はもう奥様のことといえば夢中ですし、奥様もとても旦那様をだいじになすって……」
 それは誰でも奉公人のいう言葉である。
「どうでしょうね。奥さんには旦那さまのほかに愛人があったというようなことは……そして、結婚後もひそかに関係がつづいていたというようなことは……」
 お秋はびっくりしたように、耕助の顔を見ていたが、急に|瞼《まぶた》を怒りにそめると、
「金田一先生、あなたのことはさきほど久保さんからおうかがいいたしました。あなたのような職業のかたは、とかくそういうふうにお疑いになるのかもしれませんが、なんぼなんでも、それではあたし心外ですよ。それはまあ、結婚以前のことはあたし存じません。しかし、こちらへお嫁にこられてから、そんな馬鹿なこと。……これだけ大勢奉公人がいるのですから。そういうことがあればすぐしれますし、第一、そんなかたじゃございません。しかし……」
 と、お秋は急に不安そうな眼の色を見せて、
「誰かそんなことをいうひとがあるんですか」
「いや、まあ、それはちょっと……」
 と、耕助は言葉をにごして、
「ときに志賀さんのご親戚といえば、村松さんしかないそうですが、あそこのかた、ちょくちょく……?」
「はあ、それはよくいらっしゃいます。奥様の娘時分、あそこのおうちにいられたんですから、|田《た》|鶴《ず》|子《こ》さんなど、しょっちゅういらっしゃいます」
「田鶴子さんというのは」
「さっきここにいらした徹さんの妹さん、お亡くなりになった滋さんの下で、ことし二十におなりとか……奥さまとはご姉妹のようになすって……」
「なるほど、それからほかには……」
「ちかごろは先生が一週に一度はいらっしゃいます。奥さまが御妊娠なすってから、旦那さまがとても御心配なさいますので……一昨日もいらっしゃいました」
「一昨日というと、滋君というひとが……」
「はあ、ですから、先生は滋さんの死に目におあいになれなかったそうで。……それですから、奥さまが悪い、悪いと気になすって……」
 金田一耕助が何かほかに聞くことはないかと、思案しているところへ、対岸の町から係官がどやどやと駆けつけてきた。
     六
 志賀泰三はそのときまで、静子の死体を抱いてはなさなかった。肌と肌とをくっつけて、そうすることによって、静子の魂を呼びもどすことが出来るかのように、
「静、なぜ死んだ。おれを残してどうしておまえは死んだんだ」
 と、愛妻の名を呼び、かきくどいてやまなかった。だから、係官がやってきたときも、静子の|亡《なき》|骸《がら》から泣きわめく志賀をなだめて、引きはなすのに難渋しなければならなかった。
「イヴォンヌのときがやっぱりあれだったんだ。愛情のこまやかなのもほどほどで、少し度がすぎるもんだから他の誤解を招くんだ」
 と、久保銀造が慨嘆したが、じっさい、係官の心証はあまりよくなかったようだ。
 さて、こういう場合、何よりも必要なのは医者の検視なのだが、困ったことには嘱託医の村松氏は葬式でとりこんでいるうえに、近親者のことだから遠慮したいという申し入れがあったので、はるばる県の警察本部から、医者がくるのを待たねばならなかった。
 金田一耕助は係官の現場検証がおわったあとで、敷蒲団のしたを見せてもらったが、そこにははたして|袖《そで》だたみにした寝間着がしいてあったので、そのことについて係官の注意を喚起しておいた。
 正午過ぎ、志賀泰三が睡眠剤をのんでよく寝こんだところを見計らって、
「お秋さん、ぼく、ちょっと対岸の町へいってみたいんですが、自転車があったら貸してくれませんか」
「それがあいにくなことには。……どうしたのか今朝見ると、泥まみれになってこわれておりますの。まことに申し訳ございませんけれど……」
「ああ、そう、歩いていくとどれくらい?」
「歩いてはたいへんです。うかうかすると一時間はかかります。あの、なんでしたらランチを仕立てましょうか」
「ああ、そうしていただけたら有難いですね。それじゃ、おじさん、あなたもいっしょにいきましょうよ」
「ああ、そう、じゃいこう」
 金田一耕助のやりくちをしっている銀造は、多くをいわずについてきた。
 午前中降りしきっていた雨は小降りになって、霧のように細かい水滴が、いちめんに海のうちに垂れこめて、対岸の町も|模《も》|糊《こ》としてかすんでいる。
 ボートハウスヘ入っていくと、ランチの運転台にはゆうべ迎えに出た少年がすわっていた。むろんきょうは白小袖ではなく、金ボタンの小ざっぱりとした|詰《つ》め|襟《えり》である。
「やあ、君が運転してくれるの。ご苦労さん」
「いいえ」
 少年はちょっと|頬《ほお》を|赧《あか》くする。ふたりが乗りこむとランチは水門をくぐってすぐ海へすべりだした。
「君、君、運転手君、君の名はなんというの」
「はあ、ぼく|佐《さ》|川《がわ》|春《はる》|雄《お》ともうします」
「佐川春雄か、いい名だね。ところで春雄君、君、いつもこのランチを運転するの」
「はあ」
「それじゃあ、昨夜はどうして運転してこなかったの」
「昨夜は徹さんがお迎えにいらっしゃいましたから」
「徹君が迎えにきたって? なんできたの? いや、なんのためにという意味じゃあなく、なにに乗ってやってきたの」
「自転車であっちの道……」
 と、桟道を指さして、
「からいらっしゃったんです。何かご用事もおありだったんでしょう。あのかたもランチの運転がおできになりますから。旦那様をのっけてごじぶんで運転していらっしゃったんです」
「ああ、そう、それじゃ徹君、はじめっからお通夜がすんだら、またじぶんで送ってくるつもりだったんだね」
「はあ、そうおっしゃってました」
「それで、徹君の乗ってきた自転車はどうしたの」
「ランチに乗っけていらっしゃいました」
「しかし、それじゃ困るじゃないか。ご主人を島まで送ってきて、こんどかえるときはどうするつもりだったんだろう」
「いえ、それは、ゆうべひと晩泊まって、けさまた旦那といっしょに、ランチで町へおかえりになるつもりだったんじゃないでしょうか。どうせきょうはお葬式ですから、旦那もお出かけになるはずでしたから。あんなことさえなかったら……」
「ああ、そうか。そのとき君に運転してもらえばいいわけだね」
「はあ」
「おじさん、おじさん、この問題、狼と小羊をおなじ岸へおかないようにして、舟で川をわたらせるあの考えものに似てるじゃありませんか。あっはっは」
 対岸の町へついて村松家をきくとすぐわかった。そこはランチのつく桟橋からものの百メートルとははなれておらず、裏の石崖の下はすぐ海である。いかにも田舎の医者らしい門構えをなかへ入っていくと、弔問客が三々五々とむらがっており、玄関わきの受付には喪章をつけた男がすわっている。
 ふたりがそのほうへ歩いていくと、弔問客のなかから、
「あらまあ、お嬢さん、どうおしんさりましたの。そのお手……?」
 と、仰山そうにたずねる女の声がきこえた。
「おっほっほ、いややわあ。会うひとごとに訊かれるんやもン。ゆうべ階段からすべり落ちてはっと手をついたとたん|挫《くじ》いたンよ。大したことないんやけどお母さんにうんと|叱《しか》られたわ。お転婆やからって。あら、あの、どなた様でいらっしゃいましょうか」
 と、金田一耕助と久保銀造のほうへむきなおったのは、黒っぽいスーツを着たわかい娘で、左手を|繃《ほう》|帯《たい》でまいて首からつっている。これが田鶴子という娘だろう。色の白い、大柄の、ぱっと眼につく器量だが、いかにも高慢ちきで、それでいて品がない。
「はあ、あの、ぼくたち、沖の小島の志賀さんとこに厄介になってるもんですが、ちょっとお父さんやお母さんのお耳に入れておきたいことがございまして……」
「ああ、そう」
 と、田鶴子はうさんくさそうに、ふたりの風態をじろじろ見ていたが、
「あの、あっちゃのお姉さん……」
 と、いいかけて気がついたように、あたりを見まわすと、
「少々お待ちください。いま、お父さんにいってきますから」
 田鶴子はいったんなかへ入っていったが、すぐ出てきて、
「どうぞ」
 と、案内されたのはむさくるしい四畳半。いかにお葬式でとりこんでいるとしても、ここは客を通すような部屋ではなく、どうやらふたりは村松家にとって、あまり好ましい客ではないらしい。
 金田一耕助と久保銀造は、顔見合わせてにがわらいをした。
     七
「いや、お待たせしたね。何しろこのとおりとりこんでいるもんだから」
 およそ十五分ほど待たせて、やっと顔を見せたのは村松医師とその細君らしい五十前後の中婆あさん、徹と田鶴子もうしろからついてきた。田鶴子をのぞいた三人は紋服姿で、みんなじろじろうさんくさそうに金田一耕助の風采を見ている。
「あんたが金田一さんかね。じつはさっき徹から話をきいて、こちらからいこうかと思っていたところだったんだ。あんた、けさ徹に義眼のことを訊いたそうだが、それはどういう……?」
 村松医師は志賀泰三のまたいとこだということだが、なるほど、そういえばちょっと似ている。眼の大きな、鼻のたかい、わかいときは相当の好男子だったろうと思われるが、泰三とちがうところは、ひどく尊大にかまえていて高飛車である。
 しかし、これは田舎の医者として、あとから身についた体臭ででもあろうか。
「はあ、あの、ちょっと……」
 と、金田一耕助はわざと思わせぶりな|口《くち》|吻《ぶり》で、
「こちら、義眼について何かお間違いでも……?」
「いや、さっきお秋さんが云うたそうだが、亡くなった滋というのが義眼をはめてたんだ、ところでさっきあんたから義眼の話が出たと、徹がかえっていうもんだから、ふしぎに思ってお|棺《かん》の|蓋《ふた》をとってみたところが、はたして滋の義眼がくりぬかれているんだ。君、それについて何か心当たりのことでも……」
 村松医師も、細君も、徹も、田鶴子も疑わしそうな眼で耕助の顔を見まもっている。
「なるほど、それでいつくりぬかれたか、お心当たりはございませんか」
「そうだねえ。滋の|亡《なき》|骸《がら》を納棺したのはきのうの夕刻のことだったが、そのときにはむろん義眼もちゃんとはまっていたよ。だからくりぬかれたとすると、それからあとのことになるが……」
「すると、お通夜のあいだということになりますか」
「たぶんそういうことになるだろう。納棺したとはいうものの、蓋に|釘《くぎ》がうってあったわけじゃあないからね」
「あなた、あなた」
 と、そばから細君がじれったそうに、
「そんなこといってないで、このひとがなぜ義眼のことなんかいいだしたのか、それを聞いてごらんになったら……」
「いや、奥さん、失礼しました。それじゃ、ぼくから申し上げましょう。じつは……そうそう、沖の小島の奥さんが絞め殺されたってことは、徹君からもお聞きになったでしょう」
「はあ、それはさっき聞いた。みんなびっくりしてるところで……さっそく駆けつけなきゃあいけないんだが、こっちもこのとおりのとりこみで……」
「いや、ごもっともです」
「で、義眼のことだが……?」
「はあ、それが、……絞め殺された奥さんの|枕《まくら》もとに、義眼がひとつころがっていたんです。まるで死体を見まもるようにね」
 そのときの一同のおどろきかたはたしかに印象的だった。さすがに尊大ぶった村松医師も、さっと顔が土色になり、田鶴子のごときは、
「あら、いやだ!」
 と、さけんで畳につっぷしたくらいである。
「田鶴子、なんです。お行儀の悪い。あなたは向こうへいってらっしゃい」
 村松夫人がするどい声でたしなめる。これまた良人におとらぬ見識ぶった女だが、田鶴子はしかし頭を横にふったまま動こうとはしなかった。
「しかし、それは、ど、どういうんだろう」
「さあ、どういうんでしょうかねえ。ひょっとすると滋君の魂が、愛するひとの最期を見とどけにいったんじゃあないでしょうかねえ」
「馬鹿なことをおっしゃい」
 夫人がぴしりと極めつけるように、
「それは泰三さんがくりぬいていったにきまってますよ。滋がよっぽど憎らしかったんでしょう。だから、義眼をつきつけて静さんを責めたあげく、|嫉《しっ》|妬《と》にくるって絞め殺したんですよ。いかにもあのひとのやりそうなことだよ」
「|安《やす》|子《こ》、おだまり」
 村松医師は夫人を叱りつけておいて、
「これのいうことを気にしないで。少し気が立ってるもんだからね。ところで何か心当たりが……そうそう、徹もてっきり泰三君がやったことだと思いこみ、けさがた失礼なことを云ったそうだが、まあ、若いもんのことだから勘弁してやってくれたまえ。……強盗でも入ったような気配は……?」
「さあ、いまのところまだはっきりとは……何しろいつごろ殺されたのか、それすらまだよくわからない状態ですから……」
「いや、それはすまないと思ってる。おれがいければいいんだが、何しろこの状態で……本部のほうから誰か来たかね」
「いや、われわれが島を出るころには、まだ見えておりませんでした。検視の時刻がおくれると、それだけ正確な死亡時刻をつきとめにくくなるので、それを心配してるんですが……」
「いや、ごもっともで」
「でも、主人としてはいまのところ、出向けないってことくらい、あんたでもわかるでしょう」
 安子夫人の高飛車な調子である。
「いや、もう、それはごむりもございません」
 それから昨夜のお通夜の話になったが、いくら故人の遺言とはいえ、あんなことを打ち明けなければよかった。その点についてはふかく反省していると、村松医師は恐縮がったが、夫人はそれにたいして不服らしく、
「でもねえ、あんたがたはどういうお考えかしりませんが、あたしどものような律義な性分のものとしては、そういうことをしっていて、だまって頬冠りで通すなんてことはできませんよ。どうしてもいちど打ち明けてあやまらなければ気がすみませんからね」
「それはそうでしょうねえ。奥さんのようなかたとしては……」
「それにしても、あたし泰三さんというひとを見そこないました。あのひとアメリカでさんざん好きなことしてきてるんでしょう。それならば静子さんが処女であろうがなかろうが、そんなこととやかくいえた義理じゃないじゃありませんか」
「しかし、奥さん」
 と、久保銀造はむっとしたように、
「なんぼなんでもじぶんの妻のお腹にいる子が、他人のタネかもしれないなどといわれて、激昂しない男はまあおそらくおらんでしょうねえ」
「ほっほっほ、それでお腹の子ぐるみ、殺してしまったとおっしゃるのね」
 銀造は色をなしてなにかいいかけたが、金田一耕助に眼くばせされて、唇をきっとへの字なりに結んでだまってしまった。どうせ口ではこの女にかなわない。
 それでもふたりはせっかく来たのだからと、仏に線香をあげ、三時の出棺を見送って村松家を出た。村松医師もこちらが片付いたら、できるだけはやく駆けつけるといっていた。
     八
「耕さん、何か収穫があったかね」
 ランチに乗ったときの銀造の顔色はいかにも不愉快そうである。
「いやあ、べつに……ただ、なんとなくあのひとたちに会ってみたかったんです。しかし、おじさん、なかなか興味ある一家じゃあありませんか。四人が四人ともね」
「どうもわしにはあの細君が気にくわん。あの女、ひと筋縄でいくやつじゃないぜ」
「あっはっは、おじさん、みごとお面いっぽんとられましたね」
 口では笑っているものの、金田一耕助はなにかしらもの思わしげな眼で、ぼんやりと窓外を見ていたが、何気なくその視線を腰掛のうえに落としたとき、急に大きく眼をみはった。腰掛けと板壁とのあいだのすきに、何やらきらきら光るものがはさまっている。
「おじさん、おじさん、ナイフかなにかお持ちじゃありませんか」
「耕さん、何かあったかね」
 銀造にかりたナイフで、その光るものを掘りだしてみると、なんとそれはダイヤをちりばめた豪華な腕輪ではないか。しかも中央についているロケットのようなものを開いてみると、安産のお守りが入っている。
「あっ、こ、耕さん、こりゃあひょっとすると静さんの……」
「そ、そ、そうでしょうねえ、きっと。……君、君、春雄君」
「はあ、お客様、なんですか」
「この腕輪、ひょっとしたら奥さんのもんじゃあない」
 運転台でハンドルを握っていた佐川少年は、腕輪を見るとおどろいて、
「さあ、ぼく、こんな腕輪見たことありませんが、ここいらでこんなもん持ってるのは、うちの奥さんよりほかにいないでしょう。お客さん、これ、ランチのなかに落ちていたんですか」
「ああ、いまここで見つけたんだが、奥さんがいちばんさいごにランチに乗られたのはいつのこと……」
「もうずいぶんまえのことです。お腹が大きくなられてから、乗り物に乗るのをできるだけひかえていらっしゃるんです。はっきりおぼえておりませんが、もうひと月もまえのことではないでしょうか」
 金田一耕助は思わず銀造老人と顔見合わせた。
「それで、奥さん、腕輪をなくしたというようなこと、おっしゃってはいなかった?」
「いいえ。……変ですねえ、ひと月もまえからランチのなかに落ちていたとしたら、たとえどこにあったとしても、ぼく、気がつかねばならんはずですが。……毎日ランチのなかを掃除するんですから。……お客さん、どこに落ちていたんですか」
「この腰掛けと板壁のあいだの、すきまにはさまっていたんだが……」
「それならばなおのこと。……その腰掛けは蓋のように開くんですよ。ぼくは毎日、それをひらいてそのなかも掃除するんです」
「ああ、そう、おじさん、ちょ、ちょっと立ってみてください」
 金田一耕助の眼があやしくぎらぎら光るのを見ると、銀造は思わず|唾《つば》をのみ、あわてて腰掛けから立ちあがった。
 耕助が腰掛けの上部に手をかけてひきあげると、なるほど蓋のように開いて、なかは箱になっている。しかも、その箱のなかはごくさいきん誰かが洗ったらしく、まだ少しぬれている。
「君、君、春雄君、きょうこの箱のなかを洗ったの君かい?」
「いいえ。けさはランチのなか、きれいに掃除ができていたので、ぼくはなんにもしなかったんです」
「掃除ができてたって、誰がしたの。君のほかに誰かランチの掃除係りがいるの」
「いいえ。ランチの係りはぼくだけなんです。だから、きっと徹さんだろうと思ってお礼をいったら、旦那がゆうべへどをお吐きになったから、掃除をしておいたといってました」
 金田一耕助と久保銀造はまた顔を見合わせる。志賀泰三はずいぶん泥酔していたけれど、そんな粗相はしなかったはずである。
 金田一耕助は五本の指をもじゃもじゃ頭につっこんで、眼じろぎもせずに箱のなかを視つめていたが、やがてもじゃもじゃ頭をかきまわす、指の運動がだんだん忙がしくなってくるのを見て、
「こ、こ、耕さん」
 と、銀造老人も興奮してどもる。
「こ、こ、この箱がどうかしたのかな」
「おじさん、おじさん」
 と、耕助は老人の耳に口をよせ、
「この箱のなか、人間ひとり押しこもうとすれば、入らないことありませんね」
「な、な、なんだって!」
 耕助は蓋をしめようとして、蓋のうらがわから、ながい毛髪をつまみあげた。
「おじさん、あなたが証人ですよ。この髪の毛は蓋のうらにくっついていたんですよ」
 耕助はその毛髪をていねいに紙にくるむと、
「おじさん、もうかけてもいいですよ」
 と、みずから腰掛けに腰をおろし、しばらく眼をつむって考えていたが、やがてぎくっとしたように、
「君、君、春雄君」
 と、運転台の少年に声をかけた。
「はあ、お客さん、なんですか」
「お秋さんに聞いたんだけど、今朝見ると自転車がこわれてたんだってね」
「ええ、そうです、そうです。それですからお客さん、ゆうべ泥棒がはいったんですよ、きっと」
「こわれたって、どんなふうにこわれてたの」
「ペダルがひとつなくなっているうえに、ハンドルがまがってしまって、まえの車輪がうごかなくなってるんです。きのうの夕方までそんなことなかったんですから、ゆうべきた泥棒が、自転車で逃げようとして、どこかで転んだんじゃありませんか」
「自転車はどこにあったの?」
「自転車置き場にあったんです」
「自転車置き場はどこにあるの」
「裏木戸のすぐあちらがわです」
「裏木戸は開いてたの」
「さあ、それは……ぼく、聞きませんでした」
 金田一耕助はまた眼をつむって、ふかい思索のなかへ落ちていく。
     九
 沖の小島へかえってみると、さっき着いたといって、県の警察本部から駆けつけてきた連中が、島のまわりを駆けずりまわっていた。
 金田一耕助が玄関から入っていくと、なかからとび出した中老の男が、いきなり耕助に抱きついた。
「金田一さん、金田一さん、あんたがこっちへきてるとは夢にもしらなかったよ。岡山へきて、わしのところへ挨拶にこんという法はないぞな。わしが県でも|古狸《ふるだぬき》だということをしらんのかな。あっはっは」
 いかにもうれしそうに笑っているのは|磯《いそ》|川《かわ》警部である。
「本陣殺人事件」以来おなじみのふたりは、「獄門島」や「八つ墓村」のときもいっしょに働いたので、強い友情でむすばれている。
「いやあ、さっそくご挨拶にうかがいたかったんですが、ここにいるご老体がはなしてくれませんのでね」
「あっはっは、耕さんはわたしの|情人《いろ》ですからな。いや、警部さん、しばらく」
「いやあ、しばらく。あんたもお元気で。……しかし、金田一さん、あんたゆうべここへ来られたということだが、もう犯人の当たりはついてるんでしょうな」
「まさかね」
「どうだかな」
 磯川警部はわざと小鼻をふくらませて、意地悪そうにジロジロ耕助の顔を見ながら、
「その顔色じゃ、何だかどうも臭いですぞ」
「いやね。警部さん、ぼくは第一、犯行の時刻もしらんのですよ。それに死因なんかもはっきりわからないし……」
「ああ、そう、犯行の時刻は昨夜の十二時前後、……はばを持たせて午後十一時から午前一時ごろまでのあいだというんですがね。それから死因は|扼《やく》|殺《さつ》、……両手でしめたんですな。ところがちょっと妙なことがある」
「妙なことって?」
「|下《しも》から相当出血していて、ズロースは真紅に染まってるんだが、そのわりに腰巻きがよごれていない。それに汚物を吐いた形跡があるというんだが、敷布のよごれかたがこれも少ない。しかし、これは大したことじゃないかもしれんが……」
 と、いいながら磯川警部はジロリとふたりの顔を見て、
「あっはっは、金田一さん、あんたはしらをきるのはお上手だが、こちらのご老体は駄目ですな。いまのわたしのいったことに何か重大な意味があるらしいですな」
「あっはっは、おじさん、気をつけてください。この警部さん、みずから古狸と称するだけあって、なかなか油断はなりませんからね」
 銀造はしぶい微笑をうかべている。
「冗談はさておいて、警部さん、あなたがたのお考えでは……?」
「われわれのはいたって単純なもんです。昨夜のお通夜の席で、妻の不貞をきいたここの主人が、嫉妬のあまりやったんじゃないか。いや、やったにちがいないということになってるんですがね。犯行の時刻を一時とすると、時間的にもあいますからね。みなさん十二時過ぎにかえってきたそうじゃありませんか」
 金田一耕助はちょっとおどろいたように磯川警部の顔を見なおした。
「それじゃ、昨夜のお通夜の話は、もうあなたがたにもれてるんですか」
「そりゃ、お通夜ですもの。ほかにも客がおおぜいいましたからね。土地の警察のもんがそれらの客から聞き出したんです」
「ああ、そう、それじゃほかにも客のいるまえであんな話をしたんですか」
 金田一耕助はうれしそうにもじゃもじゃ頭をかきまわしている。銀造はあきれかえったように苦りきっていた。
「それにここの主人、若いときにもアメリカで細君をやったというじゃありませんか」
 銀造の顔にはいまにも爆発しそうな|憤《ふん》|懣《まん》の色がうかがわれたが、金田一耕助はいよいようれしそうにもじゃもじゃ頭をかきまわす。
「金田一さん、金田一さん、どうしたんです。あんたがその頭をかきまわすとどうも臭い。何かしってるなら教えてください」
「失礼しました。警部さん、それじゃお秋さんをここへ呼んでください」
 お秋はあの腕輪をみると眼をまるくして、言下に静子のものだと断言した。そして、そこに安産のお守りが入っているから、肌身はなさず、寝るときだって身につけていたという。
「それで、お秋さん、あなたがさいごにこの腕輪をごらんになったのはいつでした」
「きのうの夕刻のことでした」
 と、これまたお秋は言下に答える。
「ご妊娠なさいましてからは、奥さまのご入浴のさい、いつもあたしがお|背《せな》を流してさしあげることになっているんですが、きのうの夕刻ご入浴なさいましたとき、その腕輪をはずして、脱衣場の鏡のまえにおいてあるのを、あたしはたしかに見ておぼえております」
「金田一さん、その腕輪、どこで見つけたんですか」
 磯川警部がちょっと呼吸をはずませた。
「いや、それはあとでもうしあげましょう。ところで、お秋さん、奥さんのことですがね。昨夜奥さんが外出されたというようなことは考えられませんか」
 お秋はそれを聞くと、ギョッとしたように耕助の顔を見なおしたが、やがて低い声で、
「そうおっしゃれば、あたし、不思議に思ってることがございますの」
「不思議というと……?」
「じつは、あの、ぶしつけな話でございますが、奥さまがお腰のもののしたにズロースをお召しになってらしたってこと……」
「それがどうして不思議なんですか」
「奥さまは和服のときはぜったいに、ズロースをお召しにならないかたでした。ズロースをはくと着物の線がくずれるし、また、ズロースをはいてるという気のゆるみから、無作法なまねがあってはならぬとおっしゃって……ましてや、おやすみになるというのに」
「ああ、なるほど。しかし、洋装のときにはもちろんおはきになるんですね」
「ええ、それはもちろんですけれど……」
「それで奥さん、ゆうべ洋装で外出されたということは考えられませんか」
「はあ、あの、あたしどもにはよくわかりませんが、しかし、奥さまがだれにも内緒で、日が暮れてから外出なさろうなどとは」
「しかし、金田一さん」
 と、そばから磯川警部が口を出した。
「ここの奥さんが外出したにしろしなかったにしろ、そのことはこの事件に大して関係ないんじゃないかな」
「どうしてですか。警部さん」
「たとえ外出したにしろ、十二時にはこちらへかえっていたんですからな。お秋さんがベルの音を聞いたのは十二時ごろでしょう。……それから一時ごろに殺されたとすれば……」
「なるほど、なるほど、しかし、まあ、一応念のためにたしかめておきましょう。お秋さん、奥さんの洋服ダンスを調べてみてくれませんか。ああ、そうそう、それから今朝、自転車置き場のそばにある裏木戸が、なかからしまっていたかどうか、だれかに聞いてたしかめてくれませんか」
「裏木戸なら今朝たしかに、うちがわからしまっておりましたそうです。それから、自転車が泥だらけになってこわれているのが不思議だと……」
「ああ、そう、それではそのほうはかたづきました。では恐れいりますが、むこうへいったら樋上四郎さんに、こちらへくるようにつたえてください」
     十
 樋上四郎は久保銀造や志賀泰三よりわかいはずなのだが、たてよこいちめんにふかい|皺《しわ》のきざまれたその顔や、いつも背をかがめて真正面からひとの顔を見れないその態度から、じっさいの年齢よりも少なくとも十は老けてみえる。
 まるでちりめんのように顔じゅうにきざまれたその皺のひとつひとつに、この男の不幸な人生の影がきざみこまれていて、老いてもなおつやつやと色艶のよい久保銀造などにくらべるとき、わかいころの過ちが、いかに人間の一生を左右することかと|惻《そく》|隠《いん》の情をもよおさせる。
 樋上四郎は中腰になって上眼づかいに三人に挨拶すると、無言のまま|膝《ひざ》|小《こ》|僧《ぞう》をそろえて|坐《すわ》ると背をまるくする。すくめた|頸《くび》|筋《すじ》のあたりがみごとな渋紙色にやけていて、短く刈った白髪が銀色に光っている。
 金田一耕助はにこにこしながら、
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