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[横沟正史] 人面疮

_4 横溝正史(日)
 康雄はそこまでいうと、急におびえたような眼の色をして、警部の顔色をさぐりながら、
「警部さん、こんなこというても信用できんかもしれませんが、そんならぼくを林のなかへかついで行ったやつを探してください。そいつなら、ぼくがどんなに眠りこけていたかちゅうことを、よう知っとるはずですけん」
 警部はそれにたいして、なんとも発言しなかったが、そばから金田一耕助がすこし体を乗りだすようにして、
「康雄君、きみが振舞酒を飲んでいるとき、あたりにひとがいましたか」
「ええ、もう、そこらいっぱい。|芋《いも》を洗うようにごちゃごちゃと……そんなところで酒飲むのんは、貧乏人にきまっとるもんですけん、みんなもうがつがつして餓鬼みたいに……ぼくなんかちゃんと親戚があるもんですけん、そんなとこで飲むとわらわれるんですが、そんときは由紀子のことがあるもんですけん、景気づけにひっかけたんです。そうやなかったら、あんなまずい酒、飲めるもんやないんです。つうんと鼻へきて。……」
「その酒、自分で|酌《く》んで飲むんですか」
「いいえ、だれかが酌んでくれました」
 金田一耕助は警部のほうを見て、
「警部さん、もうこれくらいでいいでしょう。まだなにかお尋ねになることが……」
 警部はうなずいて、康雄に当分禁足を要請すると、康雄はおびえたように跳びあがった。
「警部さん、ぼくはほんとうになにも知らんのです。あれはみんな浩一郎のやったことにちがいない。浩一郎のやつ、|痴《ち》|話《わ》が|昂《こう》じて奥さんを殺しよったんです。いや、はじめから殺すつもりやったかもしれん。ところが、水車小屋へかえってくると、由紀子が行っていたので、これまた殺しよったんです。きっと由紀子になにか感づかれよったにちがいない。警部さん、警部さん、あれみんな浩一郎のやつのしわざです。ぼく、なんにも知らんのです。ぼくは潔白です。信じてください。信じて……」
 のどもかれんばかりにわめき散らし、おんおん泣きながら康雄が刑事にひったてられて出ていくのを見送って、磯川警部は清水巡査を呼ぶと、浩一郎を迎えにやり、さて、あらためて金田一耕助のほうへむきなおった。
「金田一さん、いまの康雄の話、どうお思いですか」
「そうですね。これは一応、浩一郎の話もきいてみなければ……」
「それはそうだがいまの康雄の話、まずい弁明だとは思いませんか」
「そうですとも、そうですとも。警部さん」
 と、木村刑事は|膝《ひざ》を乗りだして、
「由紀子を殺したのはてっきりあいつですぜ。もちろん、はじめからそのつもりじゃなかったが、その場のはずみで殺してしもうた。そこで|泡《あわ》をくって死体を湖水へ投げこんだんでしょう。浩一郎の乗ってきた舟が、つないであったわけですけんな。それから隣村へ逃げてかえろうとしたが、そこで村長の細君のことを思い出した。水車小屋で康雄が由紀子を手ごめにしようという段取りは、村長の細君が知っている。由紀子の死骸が見つかれば、すぐ自分に疑いがかかるわけですけん、そこでこれも殺してしまいよったんです。ねえ、そう考えれば万事つじつまが合うじゃありませんか」
「なるほど、明快な推論ですね」
 金田一耕助がにこにこしているところへ清水君が浩一郎をつれてきた。
 浩一郎はきのうとおなじく顔色青ざめ、苦悩の色がふかかったが、しかし、きのうからみると、かえって落ち着いているようだ。
「北神君、まあ、座りたまえ」
「はっ」
 浩一郎は膝っ小僧をそろえてかしこまる。
「今日はね、ひとつ、ほんとうのところを聞かせてもらおうじゃないか」
「恐れいりました。お手数をかけてすみませんでした。ぼくもそのつもりで参上しました」
 うなだれながらも、自若としたその横顔を、金田一耕助はにこにこ見ながら、
「そうそう、それがいいですよ。なにもかも正直にいってしまうんですな。由紀子さんの死体を湖水へ沈めたこともね」
     九
 金田一耕助のその一言に、警部も刑事も浩一郎も、はじかれたように顔を見なおした。
「いや、失敬、失敬、これがぼくの悪い癖ですね。とかく知ったかぶりをするやつです。さあ、警部さん、おつづけください」
 磯川警部はまじまじと、さぐるように金田一耕助の顔を見ていたが、やがてその視線を浩一郎のほうにもどした。浩一郎はうなだれて、肩がすこし小刻みにふるえていた。
「ああ、いや、北神君、さっそくだがね。いま西神の康雄君から妙なことを耳にしたんでな。きみが村長の細君と|姦《かん》|通《つう》していたというんだがな。どうだろう、それについてなにか……」
 浩一郎はこわばった微笑をうかべて、
「はあ、そのことなら康雄君がいま、村じゅうに触れてまわっております」
「きみはそれについてなにもいうことはないのかな」
「ございません。事実、そのとおりだったんですけん」
 浩一郎は沈痛な眼をあげて、警部や金田一耕助の顔を見ると、
「警部さん。しかし、この問題はこれくらいにしといてください。村長の奥さんとへんな仲になっていた。……と、ただ、それだけで満足してください。ぼくとしてもいまさら、亡くなったひとのことをとやかくいいたくないですけん。結局、ぼくの意志が弱かったんです」
 浩一郎は|膝《ひざ》の上に両手をついて、ふかく頭をたれた。
 磯川警部は金田一耕助と顔見合わせて、つよくうなずくと、
「よし、わかった。それじゃあの晩のことを聞かせてもらおう。あの晩、きみは村長の細君に呼び出されたんだね」
「はっ、だいたい隣村からの招待をことわって、水車当番を買って出たちゅうのも、奥さんの命令だったんです。奥さんがおっしゃるのに、もう一度|逢《お》うてくれれば、これきりにしてあげる。もし、それもいやだいうんなら、どんなことをするかわからんけん、そう思うてくれ……と、そういわれるもんですけん。……ぼく奥さんがこわかったんです」
 金田一耕助は|憐《れん》|愍《びん》の情をこめたまなざしで、浩一郎の横顔を見まもっている。この模範青年は年増女のしぶとい情欲にはがいじめにされて、身うごきもとれなくなっていたのだろう。
「それで、きみはあの晩、水車小屋から出かけたんだね。何時ごろ?」
「八時四十分でした。水車小屋から村長さんのところへ行くには、二十分はみておかねばならんのです。人目を避けてまわり道せんなりませんけん」
「それじゃ、村長のところで奥さんと逢うたんだね」
「はっ」
 色のしろい浩一郎の顔がもえるようにあかくなる。
「それで、奥さんと別れたのは?」
「九時四十分でした。ぼく、もうすこしはやく切りあげたかったんですが、これが最後のお別れだからちゅうて、奥さんがどうしてもはなしてくれんもんですけん」
 浩一郎の額から滝のように汗がながれる。警部の注意でその汗をふくと、いくらか浩一郎も落ち着いたようだ。
「それで、水車小屋へかえったのは?」
「九時五十五分でした。ぼく、奥さんがはなしてくれると、宙をとぶようにしてかえってきたんです」
「ああ、ちょっと……」
 と、金田一耕助がそばから、
「立ちいったことをきくようだが、そのとき、奥さんはどんな服装をしていたの」
「はあ、あの、|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》のまんまで……」
 浩一郎の声は消えいりそうである。
「そのとき、奥さん、どこかへ出かけるというようなこといってなかった?」
「いいえ、べつに……」
「きみに駆け落ちをせまるというようなことは……?」
「はあ、せんにはさかんにせまられたんです。しかし、ちかごろではもうあきらめたらしゅうて、あの晩も、これできれいに別れてあげるちゅうてくれたんです。でも、あとから思うとそのときの奥さんの口ぶりに、なんだかとても底意地の悪いひびきがあったような気がするんです」
 浩一郎はかすかに身ぶるいをすると、わしづかみにした手ぬぐいで、ごしごし額をこすっている。
「さて、九時五十五分ごろ水車小屋へかえってくると……?」
 と、切りだしたものの磯川警部も、さて、そのあとどう質問をつづけてよいかわからないので、助け舟をもとめるように、金田一耕助をふりかえる。
 金田一耕助はうなずいてすこし膝を乗りだした。
「浩一郎君、そのときはきみもさぞびっくりしたことだろうねえ。由紀子さんの死体がころがっていたんだから」
「な、な、なんですって!」
 磯川警部をはじめとして、そこにいあわせた刑事たちはみないっせいに、金田一耕助の顔を見なおした。
「き、金田一さん、そ、それじゃ由紀子を殺したのは、この浩一郎君では……?」
「いや、いや、それはそうではないようですね。しかし、その間の事情は浩一郎君みずからの口から、聞かせてもらおうじゃありませんか」
 浩一郎は無言のまま、ふかく頭をたれていたが、やがて涙のひかる眼をあげると、
「先生、ありがとうございます。それを知っていてくだされば、ぼくも助かります。ぼく、とてもこれからお話するようなことは、信用していただけまいと思うとりましたんですが……」
 と、浩一郎は手ぬぐいで眼をこすると、いくらか安心したような色をうかべて、
「はじめのうち、ぼくも気がつかなかったんです。なにしろ、一時間以上も小屋をあけとりましたもんですから、夢中になって米を|搗《つ》いておりました。ところが、そのうちにひょいと見ると、カーテンの下から足袋をはいた足がのぞいとるじゃありませんか。ぼく、びっくりしてカーテンのなかをのぞくとそれが由紀ちゃんなんです。ぼく、そのときはまだ殺されてるとは気がつかなんだんです。でも、由紀ちゃんが小屋にいるなんて、ゆめにも思わなんだもんですから、それだけでももうびっくりしてしもうて、あわててゆり起こそうとして、ひょいと顔を見ると……」
「ちょっと待ってください」
 と、金田一耕助がさえぎって、
「カーテンがしめてあっても、あそこ明るいんですか」
「はあ、それはいくらか。……なにしろ、ああいう丸太組みですから、丸太のすきから月の光がさしこむんです。それに、ちょうど由紀ちゃんの顔のところに、光があたっておりましたもんですから。……あとにもさきにも、ぼくあんなにびっくりしたことはありません。なにしろ、片眼がくりぬかれておるもんですから。……それで、ぼく、はじめて由紀ちゃんが死んでいる。殺されているちゅうことに気がつきましたのです」
「暴行をうけたような形跡はありませんでしたか」
 それは残酷な質問である。しかし、金田一耕助のような職業に従事していれば、ときと場合で、こういう残酷な質問も、あえてしなければならないのである。
 浩一郎の|頬《ほお》から血の気がひいた。
「はあ、あの|裾《すそ》がまくれあがって……ぼくがあんなことをしたというのも、ひとつには、そういうあさましい姿を、だれにも見せたくなかったけん。……」
 浩一郎はそこでギラギラと熱っぽくかがやく眼を、金田一耕助のほうへむけると、
「先生、そのときのぼくの驚きを御想像ください。ぼくもはじめはもちろんこのことを、ひとに知らせるつもりだったんです。いいえ、事実ぼくは小屋をとびだして、舟に乗って部落のほうへ行きかけたんです。ところが、途中ではっと気がついて立ちどまりました。これは自分に疑いがかかってくるかもしれんちゅうことに気がついたからです。その疑いを晴らすためには、小屋をあけたちゅうことをいわねばなりません。それも五分や十分のことならともかく、一時間以上も留守にしたちゅうことになると、どこでなにをしていたかいうことを申し立てねばなりません。そうなると、村長の奥さんとのことが|暴《ば》れてしまいます。いけない、いけない!……ぼくは舟を|漕《こ》ぐ手をやめました。まったく、ぼく、途方にくれてしもうたんです。気が狂いそうだったんです。いいえ、いいえ、あのときたしかに気が狂うとったにちがいありません。それでなければ、あんな恐ろしいことができるはずがありませんけん」
 浩一郎はいまさらのようにはげしく身ぶるいをする。
 金田一耕助はやさしい眼でそれを見ながら、
「つまり君は殺人のアリバイを犠牲にしてまで、村長の奥さんとの関係のほうのアリバイを、つくりあげようとしたわけですね。ところで、きみはすぐそのとき、死体を湖水へしずめに行ったの?」
「いえ、そうたびたび小屋をあけるわけにはいきませんし、舟で行ったり来たりしてるのをもしひとに見つかると怪しまれますけん、一時死体は舟のなかへかくしておいて、それから米搗きをつづけたんです」
 金田一耕助は興味ふかい眼で浩一郎を見まもりながら、
「それじゃ、九十郎が小屋をのぞいたときには、死体はまだ舟のなかにあったわけですね」
「はあ、あのときは、ぼく、まったくどうしようかと思いました。もし、舟のなかの死体を見つかったら……と、そう思うと生きたそらもなかったんです」
「九十郎とはどんな話をしたんですか」
「いいえ、べつに……祭りがにぎやかだったとか、そんな話でした」
「あの男はめったにひとと口をきかんそうだが……」
「ええ、しかし、ぼくにはわりあいに話をするんです。それにあの晩は酒をのんでいたので、あのひとにしては上きげんのようでしたけん」
「なるほど、なるほど、それから……?」
「はあ、それから……さいわい九十郎さんもなんにも気がつかずに行ってしもうたので、一時ごろ米を搗きおわると、|石《いし》|臼《うす》をいっしょに舟につみこみ、荒縄で死体に結びつけて、かえる途中で湖水へしずめてしもうたんです」
 浩一郎はまた額にじっとり汗をにじませて、はげしく身ぶるいをすると、
「いまから考えると、どうしてあんなむちゃなことができたもんかと思いますが、そのときは一生懸命でした。はあ、あの帯は半分解けておりましたので、結びなおしてやったんですが、男のことですからうまく結べませんで……|下《げ》|駄《た》はあのときどうしたのか、いまでも思い出すことができません」
 浩一郎はそこでことばをきると、張りつめた気がゆるんだのか、眼に涙をにじませ、がっくり肩をおとしてうなだれた。
 金田一耕助がそばからはげますように、
「しっかりしたまえ。もう少しのところだ。きみは由紀子さんが殺されているのを見たとき、それをだれのしわざだと思った? とっさになにか|頭脳《あたま》にうかんだことはなかった?」
「はあ、それはもちろん奥さんのしわざだと思いました。奥さんがみずから手をくだしたんではないにしても、だれかにやらせて、ぼくに罪をきせようとしているんだ。それが、あのひとの|復讐《ふくしゅう》なんだとそう思うたんです。それだけに相手の手にのってはならんと、あんな大それたことをやったんですが、きのう奥さんも殺されてるときいてびっくりしてしもうて……」
「奥さんがだれかにやらせたとするとだれに……?」
 磯川警部がそばから尋ねた。
「いえ、いえ、それはぼくみたいなもんにはわかりません。しかし、いかにもそんなことしそうな、怖いひとでした」
 浩一郎はいまさらのように秋子の恐ろしさを思い出したのか、額につめたい汗をうかべて身ぶるいをする。
「ところで、浩一郎君、きみはまえから由紀子さんの義眼に気がついてましたか」
「いいえ、全然知らなんだんです。だからあのときも生きた眼玉をくりぬかれたんだと思うて、ぞうっとしたんです。しかし、よくよく見ると血が少しもついておりません。それではじめて義眼をはめてたんだということに気がついたんです。そういえばまえから少し、左の眼がおかしいと思うとりましたけん」
「そのへんに義眼はなかったんですね」
「いいえ、そんなもん残しといたらたいへんですから、ずいぶん探したんですが、どこにも見えなんだんです」
「手紙だの紙入れだのは……?」
「いいえ、なんにも持っとらなんだんです」
「ところでねえ、浩一郎君」
 と、金田一耕助は少し机から体を乗りだすようにして、
「きみと村長の奥さんとの関係だがね。だれか感付いてるものがなかったかしら。あんた思い当たるところない?」
 浩一郎はまた顔をあかくして、
「いいえ、おそらくそんなひとないだろうと思います。そういう点、あの奥さんとても慎重で上手でしたから」
「しかし、浩一郎君、あの晩……三日の晩ですがね、こういう手紙を村長のポケットに投げこんだものがあるんですがね。警部さん、あれを……」
 金田一耕助にうながされて、磯川警部が例の密告状をひろげてみせると、浩一郎はびっくりしたように眼を見張った。
「浩一郎君、あんた、こういう手紙の筆者に心当たりはありませんか」
「いいえ、いいえ、ぼく、全然……」
「この筆跡には……?」
「それも、ぼくにはわかりません」
「ああ、そう」
 と、金田一耕助は手紙をたたんで、
「それじゃ、浩一郎君。最後にもうひとつお尋ねがあるんですがね」
「はあ。……」
「九十郎君のことですがね。九十郎君が由紀子さんの死体にどういうことをしていたか、きみも知っているでしょう。それについて、あんた、どう思う……?」
 そのとたん、浩一郎の頬にさっと血の気がのぼったが、それが潮のように退いていくと、額にいっぱい汗をにじませ、わなわなと体をふるわせながら、
「ぼく……ぼく……とても恥ずかしいことだと思います。自分のこと棚にあげていうのもなんですが、ほかの村のもんにも顔むけできんように思うんです。あのひと、もっと村のもんがめんどうみてあげねばいかなんだんです。しかし、あのひと自身にも悪いとこがあるんです。すっかりひがんでしもうて、ひとのいうこと、すなおにうけいれてくれんのです。しかし、それやからいうて、あんなあさましいこと……ぼく、由紀ちゃんがかわいそうで、かわいそうで……それというのもぼくが湖水にしずめたりしたもんじゃけん。……」
 浩一郎は手ぬぐいを眼をおしあてて男泣きに泣きだした。
 金田一耕助は警部のほうを見て、
「警部さん、どうです、これくらいで……」
 磯川警部はうなずくと、
「北神君、いまのきみの話が事実としても、いや、事実としたら、死体遺棄というなにがあるんだから、こらままかえすわけにゃあいかんよ」
「はあ、それはもう覚悟しとります」
 |嗚《お》|咽《えつ》する北神浩一郎が清水巡査に手をとられて出ていくと、木村刑事がフーッと鯨が潮を吹くようなため息をもらした。
「これはまた妙な事件ですな」
「しかし、浩一郎の話をきいてみると、あの男のやったことも、まんざらむりとも思えんな。もとより許しがたいことではあるが……」
「そうです、そうです。そうするとまた康雄がくろくなってきましたね。山越えの途中で眠りこけてしもうたなんて……警部さん、もう一度康雄をひっぱってきましょうか」
 腰をうかしかける木村刑事を、
「あっ、刑事さん、ちょっと待って……」
 と、金田一耕助が手でおさえて、
「九十郎はまだここの留置場にいるんでしょう」
「はあ、今日あたり送ろうと思うているんですが……」
「ああ、そう、それはさいわい、ちょっとここへ呼んでくれませんか。もう一度ききたいことがあるんだが……」
     十
 手錠をはめたまま警部のまえにひきすえられた九十郎は、あいかわらず無表情な顔色である。
 あのような忌まわしい、けがらわしい|罪《ざい》|業《ごう》も、この男の良心にはなんの|呵責《かしゃく》もあたえぬらしい。|狐《きつね》のおちた狐|憑《つ》きのように、きょとんとしたひげ面を、金田一耕助は興味ふかげに見まもっていたが、急に体を乗りだすと、そのひげ面の鼻さきへ顔をつきつけて、にやにやしながら、妙なことをしゃべりはじめた。
「九十郎君、九十郎君、人間の知恵って結局おなじようなもんだね。きみがさんざん頭をしぼったあげく、ここがいちばん安全だと思ったかくし場所は、ぼくにもやっぱりそう思えたからね。あっはっは」
 そのとたん、いままで生気をうしなって、どろんと濁っていた九十郎の|瞳《ひとみ》に、一瞬、さっとつよい感情の光がほとばしった。
 金田一耕助はそれを見ると、あざわらうようににやりと笑う。
 九十郎ははっと気がついたように、あわててもとの虚脱した、敗戦ボケの表情にもどったが、そこにいあわせたひとびとは、だれもその一瞬の動揺を見のがさなかった。
 磯川警部の瞳には、驚きの色と同時に、にわかに疑いの色が濃くなってくる。
「あっはっは、九十郎君、あんたぼくのいった意味がわかったとみえるね。あんたは利口なひとだ。|狡《こう》|猾《かつ》なひとだよ、あんたは。……それにあんたの立場もよかったんだね。|渦中《かちゅう》にいるとかえって物事よく見えないものだが、あんたのように孤立してると、|岡《おか》|目《め》|八《はち》|目《もく》というやつで、かえって村のかくしごとなどよくわかるんだね。あんたは村長の奥さんと浩一郎の情事を、だいぶまえから知ってたね」
 金田一耕助は注意ぶかく九十郎の顔を見つめている。九十郎の敗戦ボケの表情には、もうなんの変化もあらわれなかったが、この取調室のなかにはさっと緊張の気がみなぎる。
 磯川警部は息をころして、金田一耕助と九十郎の顔を見くらべている。
「それのみならず、利口で、狡猾で、注意ぶかい観察者であるあんたは、村長の奥さんの性質などもよくのみこんでいた。浩一郎と由紀子の婚約が発表されると、ただではすまないだろうと考えていた。そこへあの日、村長の奥さんから、由紀子にあてた浩一郎名前の手紙をことづかったから、すぐにさてはと万事をさとったんだ。敗戦ボケをよそおって、村のあらゆる秘密をかぎだそうとしているあんたは、あるいは村長の奥さんと康雄の密談を立ちぎきしていたのかもしれない。とにかく、その手紙が浩一郎の筆跡でないことをさとると、ひそかに封をひらいて中身を読んだ。それで村長夫人と康雄の計画がすっかりわかると、好機いたれりとばかり、きみはそれをきみ自身の、世にも惨悪な計画にふりかえたのだ」
 一同の瞳にうかぶ緊張の色が、いよいよふかくなってくる。刑事はつと立って九十郎の背後にまわった。
「さて、あんたはなに食わぬ顔をして、浩一郎からたのまれたといってその手紙を由紀子にわたした。そして、その晩、隣村へ行き、接待場で康雄ののむ酒にねむり薬をまぜる。それから康雄のあとをつけていって、山中で康雄の眠りこけるのを待って、これを林のなかへかつぎこんだ。あとからくるであろう由紀子に見られたら困るからだね。そうしておいて水車小屋へ来てみると、浩一郎は村長夫人に呼び出されていない。そこできみはなかへしのびこみ、カーテンの奥にかくれて待っていると、間もなく由紀子がやってきた。……」
 九十郎は依然として虚脱したような表情をつづけている。しかし、その装いもいまはむだだった。額に吹きだす玉のような汗が、かれの外見を裏切っているのだ。
 磯川警部は驚倒するような眼の色で、金田一耕助と九十郎の顔を見くらべている。
「きみはひと思いにあわれな由紀子を絞め殺した。それから、それから……」
 さすがに金田一耕助もそのあとはいいよどんだ。あまりにもいまわしい言葉だったからである。
「ところが、そのとききみは、世にも意外なことに気がついた。丸太のすきからさしこむ月の光が、仰向けに死んでいる由紀子さんの顔を照らしたが、その光のなかで、由紀子さんの左の眼が、異様なかがやきをおびているのに気がついて、きみははじめてそれを義眼だとさとった。そこで大いに好奇心をもよおしたか、それともいままでだまされていた腹立ちまぎれか、きみはその義眼を抜きとったんだ」
 清水巡査はまるで自分自身が告発されてでもいるように、これまたびっしょり汗をかきながら、用心ぶかく九十郎の背後に立つ。
 金田一耕助は相手の顔色などおかまいなしに、
「さて、義眼を抜きとると、きみは死体をそのままにしてそこをとび出し、村長の家へしのんでいった。そして|逢《あい》|曳《び》きをすませた村のロメオが立ちさるのを待ってなかへとびこみ、おそらくこんな言葉で奥さんをだましたんだろう。村長があんたと浩一郎の関係を知って、烈火のごとく怒っていまかえってくる。一時どこかへ身をかくしなさいと。……そして奥さんが支度をするのを待って、間道のほうへ案内し、ほどよいところで絞め殺して、赤土穴のなかへ死体を押しこんだ。そのとききみは義眼をもっていることに気がついて、穴を掘って埋めておいた。……村長の奥さんを殺したのは、|文《ふみ》|使《づか》いをしたことが|暴《ば》れ、それからひいて疑いを招くことを恐れたからだね。恐ろしい男だよ、きみは……」
 九十郎の額から吹きだす汗は、いまはもう滝となって流れおちる。しかし、手錠をはめられたかれには、それをぬぐうこともできないのである。虚脱の表情もしだいにうすれて、凶暴な憎しみの色がひろがってくる。
「ところで、その晩のきみの仕事は、まだまだ、それだけではすまなかった。それから隣村へとんでいくと、村長のポケットに、秋子浩一郎の仲を書いた密告状をほうりこんでおいた。村長を怒らせることによって、事件をできるだけ紛糾させようというんだね。これですっかり仕事もおわったので、はじめてゆっくり振舞酒にあずかり、さて、いまごろはどんな騒ぎになってるだろうと、舌なめずりをしながらかえってくると、あにはからんや、浩一郎は平然として米を|搗《つ》いている。さすがのきみもそのときは、狐につままれたような気持ちだったろうが、そこは利口なきみのことだから、ひそかに成り行きを静観しているうちに、なんという不思議なめぐりあわせか、浩一郎が湖水にしずめた由紀子の死体が、翌晩の大夕立でうかびあがって、ところもあろうにきみんちのまえの|崖《がけ》|下《した》に流れよったのだ」
 金田一耕助は|嫌《けん》|悪《お》にみちた眼で、醜悪な九十郎の顔を見ながら、
「きみは|狡《こう》|猾《かつ》な男だね、ぼくもいままで多くの犯罪者をあつかってきたが、きみみたいに狡猾なやつに出会ったのははじめてだよ。きみはその死体にたいして、けがらわしい欲望を感じたのかもしれぬ。しかし、それよりもきみの狡猾さがあのようなことをさせたのだ。きみはそっちのほうの罪、あのけがらわしい罪状で、まず挙げられておこうと考えたのだ。つまりその罪状の煙幕のかげにかくれて、殺人の容疑からのがれようとこころみたんだ。それについては、きみには大きな安心もあった。凶行と死体発見とのあいだに、浩一郎があのような小刀細工を|弄《ろう》しているんだから、いざとなったらそっちへ疑いがいくだろう。そのうえに死体から抜きとっておいた手紙や紙入れもある。それによって康雄に疑いをむけることもできる。……そこできみは大胆にも、あんな浅ましいことをやってのけたんだが、そこできみは大失態を演じたんだね」
 金田一耕助はにやりとわらうと、
「実際は敗戦ボケでもなんでもないきみは、ふつう人の審美眼をもっていたんだね。そういうきみにとっては、いかになんでも片眼くりぬかれたあの顔にはがまんができかねた。実際、あれはお岩様みたいに醜悪だったからね。そこで、まえの晩、埋めておいた義眼を掘りだしに行ったんだが、きみが大失態を演じたというのはそこのところだ」
 金田一耕助が思わせぶりに口をつぐむと、九十郎はなにかいいかけたが、すぐ気がついたように沈黙する。しかし、それでもその眼は物問いたげに、金田一耕助を見まもっている。
「義眼を掘りだしに行ったとき、きみはついでに木の枝や枯れ草をあつめて死体をおおうておいたね。なぜそんな馬鹿なまねをやらかしたのかね、きみみたいな利口なひとが……村長夫人が殺されたのは、あらゆる角度からみて三日の晩ということになっているんだ。ところがそのときは、三週間も日照りがつづいて、草も木も乾ききっていたはずなんだぜ。ところが、死体をおおうていた木や草は、ぐっしょりと水にぬれていた。……と、いうことは四日の晩の大夕立ののちに、ふたたび犯人がやってきたことを意味している。では、なんのためにやってきたのか、草や木で死体をおおう、ただそれだけのためか。どうもそうは思われないね。もっとほかにさしせまった用事があったのではないか。……そう思って赤土穴をさがしているうちに、ぼくは義眼が埋めてあったらしい跡を発見したんだ。ねえ、きみ、九十郎君、きみはなぜ義眼を掘りだしたあとの土を、よくくずしておかなかったんだね。あれはふつうの土ではないよ。粘りけのある赤土なんだ。鋳型のようにくっきりと、義眼の跡がのこっていたぜ。そのとたん、ぼくは勝利のラッパが耳の底で、鳴りわたるのを聞いたね。犯人はいったん埋めた義眼を大夕立のあとで掘りだしにきた。では、いったん埋めた義眼がなぜまた必要になってきたか。……きみ、西洋にこういうことばがあるのを知ってるか。|栓《せん》を必要とするものは、その栓のしっくり合う容器の持ち主だってことね。この場合、由紀子の義眼という栓を必要とした犯人は、すなわち、その義眼のしっくり合う、由紀子という容器の持ち主なんだ。そして、それはきみ、九十郎君じゃないか」
 そこで金田一耕助は、ごくりとつばをのみ、なにかしら照れくさそうな表情で、磯川警部の横顔にちらりと眼をやり、それからエヘンと|咳《せき》をして、九十郎のほうへむきなおった。
「ねえ、九十郎君。こうしてぼくはきみが犯人であることを知った。そこできみのうち……と、いうより小屋へ行ってみたんだ。そして、きみの知恵になり、ぼくがきみならどこへ義眼をかくしておくだろうと考えてみた。そして、結局、それほど大した苦労もせずに発見することができたんだ。見たまえ、これを……」
 だしぬけに、ぱっと開いてみせた金田一耕助の|掌《たなごころ》には、黒い瞳をもつ二重|貝《かい》|殻《がら》ようのかたちをしたガラス玉がにぶい光を放っている。
 そのとたん、手錠をはめられた九十郎の両手が、さっと上にふりあげられた。
 もし、そのとき、木村刑事と清水巡査が、うしろから九十郎をおさえなかったら、金田一耕助の掌の上で、義眼はこっぱみじんと吹っとんだろう。
「馬鹿! 馬鹿! 九ン十の馬鹿! おまえ由紀子に惚れとったのか」
 荒れ狂う九十郎の体をうしろから、羽交いじめにした清水君のにきびだらけの童顔は、汗と涙でぐっしょりぬれている。
「だれが……だれが……あんなしょんべん臭い娘に……」
 と、九十郎はバリバリと歯を|噛《か》みならし、
「おれはきらいなんだ。この村がきらいなんだ。村のやつら、どいつもこいつもきらいなんだ。なにが村長だ、なにが模範青年だ、おれは村のやつらに復讐してやったんだ。この村にできるかぎりのきたない罪の|烙《らく》|印《いん》をやきつけてやったんだ。|姦《かん》|通《つう》、暴行、殺人……それからもっともっときたない、けがらわしい罪名を……村のやつらもう世間へ顔むけができなくなるだろう。世間のひとはこの村の名をきいただけでも身ぶるいをするだろう。|態《ざま》アみろ、態アみろ、態アアみろ!」
 それはもう常人の|形相《ぎょうそう》ではなかったのである。
     十一
「金田一さん、ありがとう、ありがとう」
 北神九十郎のくわしい自供(それは金田一耕助の組み立てた推理と全然おなじだったが)があって、すっかり肩の重荷をおろした磯川警部は、その晩、金田一耕助をまじえて、部下とともにささやかな慰労の宴をはったが、ほんのりと酒気をおびた磯川警部は、幸福そのもののようであった。
「あんたのおかげでこんなにはやく片づいて……わしゃまさか九十郎がやったとは、ゆめにも思わなんだからなあ」
「いやあ、実際|奸《かん》|知《ち》にたけたやつですな。金田一先生もおっしゃったが、わたしもいままであんな|狡《こう》|猾《かつ》な犯人にお眼にかかったことがない」
 木村刑事もビールの|満《まん》をひきながら、慨嘆するように肩をゆすった。
 金田一耕助はてれながら、
「それはねえ、あいつの立場がよかったんです。あいつはいわゆるインヴィジブルマン、すなわち見えざる男だったんですね。敗戦ボケの九十郎は、どこでなにをしようと、だれも気にするものはなかった。あいつは牛馬同様に、いや、牛馬以上に完全に、村の連中から無視されていた。そういう立場を利用して、村長夫人と浩一郎の秘事を知ったんですが、またその立場を利用してああいう巧妙な犯行をやってのけたんですね。これが村のほかの連中なら、たれそれは何時ごろから何時ごろまで隣村にいたが、何時ごろから何時ごろまではいなかったと、調べてみればすぐわかる。康雄のばあいがそうですね。だけど、九十郎のばあいだと、おそらくその調査はやっかいですよ。だれだってあの男の存在に関心をはらうものはありませんからね。そういう有利な立場を極端に利用した犯罪ですね」
「なるほど、インヴィジブルマンというのはいい言葉ですな。ああいう罪であげられていながら、あいつの存在は完全に、われわれの焦点からはずれていたからな」
 金田一耕助はため息をつくと、
「ねえ、警部さん、あなたは一昨日こういうことをおっしゃったでしょう。こういうものしずかな農村のほうが、われわれの住んでいる都会よりも、ある種の犯罪の危険性をはるかに多分に内蔵していると。……実際、そのとおりなんです。しかし、それはあくまで内蔵しているだけであって、ある種の刺激がなければ、こんどのような陰惨な事件となって爆発しなかったろうと思うんです。では、その刺激とはなにか……やはり都会人の|狡《こう》|知《ち》ですね。こんどの事件の下絵をかいたのは疎開者である村長夫人、そして、それをおのれの奸悪な計画に利用したインヴィジブルマンは引揚者、きっすいの農村人である浩一郎や康雄はただ踊らされただけですからね。だからぼくのいいたいのは、農村へ都会のかすがいりこんでいる、現在の状態がいちばん不安定で危険なんですね」
「なるほど、なるほど、いわれてみればそのとおりだな」
 磯川警部はふとい|猪《い》|首《くび》をふりながら、しきりに感服の体だったが、急に思い出したように、
「それはそうと、金田一さん、話はちがうがあの義眼ですな。あれはどこにかくしてあったんですか。あんたのはしっこいのには驚いたが……」
 そのとたん、金田一耕助の顔はそれこそ火がついたように真っ赤になった。
「いやだなあ、警部さん、そんな皮肉をおっしゃると、ぼく穴があったら入りたいですよ」
「皮肉……?」
 磯川警部はじめ一同は、びっくりしたように耕助の顔を見なおす。金田一耕助はいよいよ照れて、がぶりとビールをひと口のむと、
「もちろん、あんなこと|卑怯《ひきょう》なことです。少なくともフェヤーじゃない。しかし、ぼくとしてはああするよりほかに手段がなかったんです。いかに牛小屋みたいにせまい小屋でも、義眼のような小さいものを探すとなるとたいへんですからな。ですから、きのう赤土穴のあの状態から、てっきり犯人は九十郎とにらむと、けさ、岡山の医大へ行って手ごろの義眼を借りてきたんです。ただ、ぼくの心配だったのは、九十郎のやつが義眼をすでに始末してやあしないかということでした。たたきつぶすとか、湖水へ沈めるとかねえ、そこでのっけにカマをかけて反応をためしてみたところが、まだ、どこかにかくしてあるらしい。そこで、とうとうああいうインチキをやったんですが……警部さん、ぼくのやりかたがフェヤーでなかったことについてはあやまります。だが、それはそれとしておいて、至急、九十郎の小屋を捜索してください。どこかに義眼がかくしてあるはずですから」
 磯川警部はじめ一同は、|唖《あ》|然《ぜん》としてあいた口がふさがらなかった。
    蜃気楼島の情熱
     一
「いったい、アメリカみたいな国からかえってきて、都会に住むならともかく、こういう田舎へひっこんだ人間で、アメリカ在住当時の生活習慣をまもっていくやつはほとんどないな。みんな日本趣味、それも極端な日本趣味に還元してしまうようだな」
「ああ、そう、そういうことはいえますな。アメリカのああいう、|劃《かく》|一《いつ》|的《てき》な缶詰文化の国からかえってくると、この国の非能率的なところが、かえって大きな魅力になるんですね」
「つまり束縛から解放されたような気になるのかな。耕さんのその和服主義なども、その現われのひとつだろうが……」
「いやあ、ぼくの話はよしましょう」
 金田一耕助は、|雀《すずめ》の巣のようなもじゃもじゃ頭を、五本の指でゆるく|掻《か》きまわしながら、照れたようなうす笑いをうかべた。
「あっはっは、しかし、あんたの和服主義も久しいもんだな。もう何十年来というところだが、何か主義とか主張とかいうようなものがあるのかな」
「何十年来はひどいですよ。おじさん、これでもまだぼくは若いんですからね。うっふっふ」
 金田一耕助はふくみ笑いをして、
「べつに主義もへちまもありませんがね。このほうが便利ですからね。第一、洋服だとズボンをはいてバンドでとめる。ワイシャツを着てネクタイをしめる。靴下をはいてガーターでとめる。靴をはいて……それだって靴べらってものがいりまさあ。それから|紐《ひも》をむすぶ。考えただけだって、頭がいたくなりそうな手数をかけて支度をしながら、さて、ひとさまのうちを訪問して、そのままスーッとあがれるうちってめったにありませんからね。まず靴の紐をといて靴をぬぎ、それからやっと上へあがるということになる。かえるときにはどうかというと、靴べらはどこへやったと、あちこちポケットをさがしまわったあげく、結局、うちへ忘れてきたことに気がつき、やむなくそのうちの備えつけの、いやに長っ細いへなへなした靴べらを借用したとたん、ポキッと折っちまう。大いに面目玉を失墜したあげく、お|尻《しり》をおったてて靴の紐をむすんでるうちにまえへつんのめる」
「あっはっは」
「ことにおじさんみたいに、腹のつん出たひとが、フーフーいいながら靴の紐を結んでるところを見ると気の毒になりますよ。今朝だって、式台に泥靴をかけておばさんに|叱《しか》られたじゃありませんか」
「うっふっふ」
「あれだって、じぶんのうちだからこそ、亭主関白の位でああいうことが出来るんだが、ひとさまのおうちじゃ、いかにおじさんみたいなずうずうしいひとでもやれんでしょう。結局、まえへつんのめって|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》を起こすということになる。これをもってしても、日本における洋服生活というやつが、いかに非能率的であり、かつ非衛生的だということがわかるじゃありませんか。おじさんなんぞもいまのうちに考えなおしたほうがいいですよ」
 金田一耕助がけろりとすましているのに反して、いや、耕助がすましているだけにかえっておかしく、相手は腹をかかえてげらげら笑っている。
「わかった、わかった。それじゃ、耕さんが和服で押し通しているのは、脳溢血がこわいからだね」
「そうですよ。この若さでよいよいになっちゃみじめですからね。おじさん、この|蟹《かに》、うまいですよ。食べてごらんなさい」
 金田一耕助の相手は眼に涙をためてまだ笑っている。それでいて耕助を見る眼つきにこのうえもない愛情がこもっている。
 この男は|久《く》|保《ぼ》|銀《ぎん》|造《ぞう》といって、金田一耕助の一種のパトロンである。
 金田一耕助が「本陣殺人事件」でデビューしたときの登場人物で、若いころアメリカヘわたって、カリフォルニヤの農園で働いていたが、そこで習得した技術と稼ぎためた金を日本へ持ってかえって、郷里の岡山県の農村で果樹園をはじめた。この果樹園は成功して、いまではジュースなども製造して、かなり盛んにやっている。
 金田一耕助も青年時代の数年を、アメリカの西部で放浪生活を送ったが、そのころ、ふとしたことから|識《し》り|合《あ》って以来、親子ほどある年齢のへだたりにもかかわらず、どういうものかうまがあって、耕助がげんざいやっている、風変わりな職業に入るときにも、この男の出資を仰いだ。
 |爾《じ》|来《らい》、いっそう緊密な友情にむすばれて、耕助は年に一度はかならず銀造の果樹園へ、骨休めにやってくる。
 金田一耕助のような職業にたずさわる人間には、ときどきの休養が必要だし、休養の場として、静かで、新鮮な果樹の|熟《う》れる果樹園ほどかっこうの場所はなかった。久保銀造も金田一耕助の|飄々《ひょうひょう》たる人柄を愛して、年に一度、かれがやってくるのを何よりの楽しみとしている。
 今年もかれがやってくるのを待って、二、三日のんきなむだ話に過したのち、|俄《にわ》かに思い出したように旅行にひっぱり出した。そしていま瀬戸内海に面した町の、宿の二階にくつろいでいるふたりである。
「ねえ、耕さん、いまのような話をね、|志《し》|賀《が》のやつにしておやり。よろこぶぜ、あの男……」
「承知しました。志賀さんの日本趣味に大いに共鳴して、ご機嫌をとりむすんで、ひとつパトロンになってもらいますかな」
「あっはっは、それがいいかもしれん。あいつはおれより、よっぽど金を持っとるからな。しかし、あいつのあれ、日本趣味というのかな。日本趣味だか支那趣味だか、なんだかえたいのしれん趣味だよ、あいつのは……何しろあのとおり、竜宮城みたいな家を建てるやつだからな」
 久造銀造はふりかえって欄干の外を指さした。欄干の外はすぐ海で、海の向こう一里ばかりのところに、小さい島がうかんでいる。
 夏はもう終わりにちかいころのこととて、海はとかく荒れぎみで、今日も雀色の|黄昏《たそがれ》の|靄《もや》のなかに、幾筋かの白い波頭をならべて、不機嫌そうな鉛色をしている。その海の向こうに小ぢんまりと藍色にうかんでいるのは、周囲一里たらずの小島だが、この島は全然孤立しているのではなく狭い桟道のようなもので本土とつながっているらしい。
「しかし、志賀さんがああいう島を買って、竜宮城のような家を建てるというのも、長いアメリカ生活にたいするひとつの反動でしょうな。|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》にいうとレジスタンスというやつかな」
「そうそう、それは大いにあるんだ。アメリカでしこたま稼ぎためたにゃちがいないが、それと同時にひどい目にあってるからな」
「ひどい目って……?」
「いや、それはいつか話そう。耕さんの領分にぞくすることだがな」
「ぼくの領分に……?」
 耕助がちょっとドキリとしたような眼で、銀造の顔を見直したとき、女中が階下からあがってきて、
「あの……沖の小島の旦那さまがいらっしゃいましたが……」
 話題のぬしがやってきたのである。
     二
 久保銀造はそこへ入ってきた男の服装をみると、おやというふうに眼を見張って、
「どうしたのそれ、ちかごろ君はいつでもそんな服装をしてるの?」
「あっはっは、馬鹿なことを。……なんぼぼくがこちらかぶれになったからって、紋付きの|羽織袴《はおりはかま》をふだん着にしちゃたいへんだ。いや、失礼しました」
「いや、どうも、はじめまして……」
 金田一耕助もおどろいたのだが、その男、黒紋付きの羽織袴に白足袋をはいて、手に白扇を持っている。年齢は銀造とおっつかっつというところだろうが、色白の好男子なので五つ六つ若く見える。八字ひげをぴいんと生やして、七三にわけた髪もまだくろい。
 これがいま話題になっている|志《し》|賀《が》|泰《たい》|三《ぞう》という人物なのである。
「どうだい? こうしてるとちょっとした男前だろう」
「まったくだ。|静《しず》|子《こ》さんの|惚《ほ》れるのも無理はないな」
「いや、ありがとう。そのとおり、そのとおりだ」
 志賀は扇を使いながら、子供のようによろこんでいる。
「しかし、どうしたんだ。その服装は……?」
「いや、それについてちょっとお|詫《わ》びにあがったんだが、親戚のうちに不幸があってね、今夜がそのお|通《つ》|夜《や》なんだ。いま、そっちへ出向くとちゅうなんだが……」
「おや、それはそれは……親戚というとお医者さんをしている|村《むら》|松《まつ》さん?」
「ああ、そう、ぼくの親戚といえばあそこしかないからね。そこの次男の|滋《しげる》というのが亡くなって、今夜がそのお通夜なんです」
「ああ、そう、それはいけなかったね」
「そういうわけで、これからすぐにあなたがたを御案内するというわけにはいかなくなったんだが、お通夜といったところで、どうせ半通夜で、十二時ごろにはお開きになるそうだから、その時分お迎えにあがります。それまで待ってください」
「いや、そんな無理はしなくても……そういうわけなら今度はご遠慮しようか」
「それはいけませんよ、久保さん、あなたはともかく金田一先生はわざわざ東京からいらっしたんだから、是非見ていってください。ねえ、金田一先生、よろしいでしょう」
 八字ひげなんか|生《は》やして|鹿《しか》|爪《つめ》らしいが、ものねだりするようなそういう口のききかたには、子供のような無邪気さがある。
「はあ、ぼくはぜひ見せていただきたいと思ってるんですが……」
「そうれ、ごらん、久保君、このかたのほうがあんたなんかよりよっぽど同情があるぜ。あっはっは」
 眼尻に|皺《しわ》をよせてうれしそうにわらっている。
「なにしろ御自慢のおうちだからね」
「そうですとも、それからもうひとつ御自慢のものをね、ぜひ見ていただかなくちゃ……」
「もうひとつ御自慢のもの……? それ、なんだっけ?」
「あれ、いやだなあ、久保さんたら、それをわしの口からいわせるんですか。そりゃ、いえというならいくらでもいうが……あっはっは」
 いくらか|赧《あか》くなった顔を、白扇でばたばた|煽《あお》いでいる。
「あっはっは、そうか、そうか、御自慢の奥さんを忘れてちゃ申し訳ない。ところで、今夜、奥さんも御一緒……?」
「ところがね、久保さん」
 と、志賀は亀の子のように首をちぢめて、
「静子はちかごろ体のぐあいが悪いといって、寝たり起きたりしてるんだ。それで、今夜もおいてきたがね」
「ああ、そりゃ、心配だね」
「どうして? 何も心配なことないじゃないか。そりゃまあ、おれもはじめてだから、心配なことは心配だが、それよりうれしいほうがさきでね。あっはっは」
「ああ、そうか」
 銀造ははじめて気がついたように、
「そうか、そうか、それはお目出度う。そうすると志賀泰三先生、いよいよ万々歳だね」
「あっはっは、ありがとう。おれ、それをはじめて聞いたとき、あんまりうれしいもんだから、静子のやつを抱きしめて、そこらじゅうキッスをしてやった。あっはっは」
 あんまり露骨なよろこびの表現に、金田一耕助はクスクス笑う。
 志賀もさすがに、照れたのか、血色のよい頬っぺたをつるりと|撫《な》であげると、
「いや、どうも御免なさい。なにしろアメリカ育ちのガサツもんですから、つい、お里が出ましたね。あっはっは」
「いや、わたしこそ。……そうすると、志賀さんはお子さん、はじめてですか」
「はあ。なにしろかかあもないのに、子供出来っこありませんや」
「すると、最近まで独身でいられたんですか」
「いや、若いころ一度結婚したことがあるんですが。……相手はアメリカ人でしたがね。それでひどい目にあって……そうそう、その話、久保君もよく知ってるんだが、お聞きじゃありませんか」
「いいえ、どういうお話ですか。……」
「あのとき、あなたみたいな名探偵がいてくれたら、わたしも助かったんですが。……それにこりたもんだから、生涯、結婚はすまいと思ったんですよ。それが、あの、静子みたいな天使が現われたもんだから……」
 志賀はそこで、袴にはさんだ時計を出してみて、
「おや、もう出向かなきゃならないな。それじゃ、久保さん、金田一先生、わたし、ちょっとこれから出向いてきます。十二時前後にはきっとお迎えにあがります。それまでにさっきの話、久保さんから聞いてください。わたしもずいぶん可哀そうな男だったんです。じゃ、のちほど」
 志賀泰三が出ていったあとで、金田一耕助と久保銀造は、顔見合わせて笑った。なんとなく心のあたたまる笑いであった。
「あっはっは、あいつも八字ひげなんか生やしているところは山師みたいだが、だいたいがああいう男なんだ。それにいま、幸福の絶頂にあるんだな」
「ねえ、おじさん、あのひとアメリカ主義に反抗して、日本趣味に転向したということですが、それにしてはただひとつ忘れてるところがありますね」
「忘れてるって、どういうとこ?」
「日本じゃ、あれくらいの金持ちで、あのくらいの年輩になると、もう少し気取るもんですがね。ああフランクによろこびを表現しない。もっとも、おじさんだからそうなのかもしれないけれど……」
「いや、誰にたいしてもああだよ。なにしろ変てこなうちを建てて、わかい細君をもって有頂天になってるんだからね」
「なかなか愛妻家のようですね」
「ああ、|舐《な》めるように可愛がるってのはあのことだね。それで最初の結婚のときも間違いが起こったんだ」
 久保銀造はちょっと厳粛な顔をした。
「そのことですか。さっきあなたに話してもらうようにといってらしたのは……?」
「ああ、そう」
 銀造はちょっと暗い顔をして、
「あの男、かくすってことが出来ないらしいんだね。それで、こちらの連中もみんなしってるんだが、最初の結婚の相手、イヴォンヌってフランス系のアメリカ人だったが、あいつのことだから猛烈に惚れてね、イヴォンヌでなければ日も夜も明けないという状態だったんだ。ところがわれわれはみんな知ってたんだが、イヴォンヌには結婚以前から、アメリカ人の情夫があって、結婚後もつづいていたんだね。だから、何か間違いがなければよいがと、みんな心配してたところが、果たしてそのイヴォンヌが殺されたんだね。ベッドのなかで」
 金田一耕助はちょっと呼吸をのんで、銀造の顔を見直した。銀造は渋い顔をして、
「なんでも絞め殺されたって話だが、それを発見したのがあの男さ。ところが、あいつそれをすぐに届けて出ればよかったのに。イヴォンヌ、なぜ死んだというわけなんだろうね。二、三日、死体といっしょに暮らしたんだ。ベッドをともにして。……つまり、死体といっしょに寝たんだね」
 銀造は顔をしかめて、
「もっとも、悪戯はしなかったようだが。……イヴォンヌを手放すにしのびなかったんだね。ところがそこを発見されたもんだから、てっきり犯人ということになったんだね。無理もない、われわれでさえ、ひょっとすると……と、思ったくらいだから。妻の不貞をしって、かっとして……と、そんなふうに思ったくらいだからな。ところが、あの男じしんは頑強に否定したんだね。第一、妻が不貞を働いていたってことさえ知らなかったというんだ。ところがあいつが犯人でないとすると、|睨《にら》まれるのは情夫だが、このほうは完全にアリバイがあったんだ。そのうちにあいつ当時まだあった検事のサードディグリーにひっかかって、身におぼえもないことを告白してしまったんだね。サードディグリーというのをおぼえてるだろう」
「一種の誘導訊問ですね」
「そうそう、あれは拷問にかわるもんだって、世論の反対にあってのちに禁止されたけど、それにひっかかったんだね。それで、あやうく刑の宣告をうけようというどたん場になって、真犯人が自首して出たんだ」
「真犯人というのは……?」
「それが悪いことにやはり日本人でね。|樋《ひ》|上《がみ》|四《し》|郎《ろう》といってあいつの友人だったんだ。これがイヴォンヌをくどくかなんかして、はねつけられたもんだから、ついかっとして……と、いうわけだったらしい。志賀が潔白になったのはうれしかったが、真犯人がやはり日本人だというんで、当時、われわれ肩身のせまい思いをしたもんだ」
「それで真犯人の樋上というのはどうなりました。電気|椅《い》|子《す》でしたか」
「いいや、電気椅子にはならなかった。自首して出たのと、それにそいつ、そう悪い人間じゃなかったんだね。イヴォンヌに誘惑されて、それに乗って、いざという間際にはぐらかされるかなんかして、それでかっとなったんだが、性質としては実直というより、いくらかこう鈍なやつだったな。たしか二十年だったと思うが、その後、どうなったかしらない。わたしが内地へひきあげてきたときには、まだくらいこんでいたようだが……」
 夏の終わりといえばそろそろ|颱《たい》|風《ふう》の季節である。嵐でもくるのか、しだいに風と波の音がたかくなってくる。欄干の外にはすっかり夜の|闇《やみ》が垂れこめて、ふたつ、三つ、星のまたたく空には、雲脚が馬鹿にはやくなっていった。
     三
 志賀泰三が瀬戸内海の小島(沖の小島という)に建てた竜宮城のような建物は、新聞や雑誌にも報道されてちょっと評判になっていた。
 それは日本趣味とも支那趣味とも、|飛鳥天平《あすかてんぴょう》とも安土桃山時代ともつかぬ、|摩《ま》|訶《か》不思議な構造物の混血児だが、見るひとのどきもを抜くには十分だった。
「なあに、よくよくみるとチャチなもんでね。材料やなんかも安っぽいもんで、それを極彩色に塗りたくって誤魔化してあるというもんなんだが、結構だけは相当なもんだな。あいつがああいう家を建てようとは思わなかった。結局、あれはアメリカ主義で、アメリカ人の見た東洋趣味が、あそこに圧縮されているのかもしれない」
 久保銀造はその家についてそう説明した。
「奥さんはこの土地のひとですか」
「ああ、そう、さっき話の出た村松ね、名前はたしか|恒《つねし》といったと思うが、そのひとがこの町のお医者さんなんだ。静子というのはみなし児で、村松さんのところで看護婦をしてたんだが、それを戦後アメリカからかえってきた志賀のやつが見染めてね。村松さん夫婦の媒酌で結婚したんだ。自慢するだけあってなかなかべっぴんだよ」
「まだお若いんですか」
「若いも若いも、二十三か四だろう。結婚したのは一昨年だったがね。それからだよ、あいつひげを生やしたり、髪をきれいになでつけたりしはじめたのは、もとはわれわれ同様もっとラフな男だったがな」
「いまでもその感じはありますな。とても無邪気で、……しかし、そういう奥さんに子供が出来るとなると、ああして有頂天になるのもむりはありませんね」
「あいつもいよいよ|有《う》|卦《け》にいったかな」
 銀造もわがことのようによろこんだが、しかし、必ずしも有卦に入ったのではないことは、それから間もなくわかった。
 それはさておき、十二時少しまえになって、村松家から女中が懐中電灯をもって迎えにきた。
 沖の小島の旦那様は、お酒に酔うてひとあしさきに|艀《はしけ》にいらっしゃいましたから、みなさまもこれからおいでくださいますようにという口上だった。
 その女中の案内で船着き場まできた銀造は、そこに碇泊しているランチを見て、思わず大きく眼を見張った。
 あとで聞くと、それが志賀泰三の自家用ランチだそうだが、まるで竜顔げ[#「げ」に傍点]き首のうえに、お|神輿《みこし》をくっつけたような恰好をしている。なるほど竜宮城のあるじの船としてはこうあるべきなのだろう。金田一耕助はちょっと|頬《ほほ》|笑《え》ましかった。
 志賀泰三はそのランチのそばに、ぐでんぐでんに酔払った恰好で立っていた。足下もおぼつかない模様なのを、二十七、八の青年が肩でささえて、
「おじさん、危いですよ、危いですよ」
 と、ハラハラするように注意をしている。
「志賀さん、どうしたんだね。ひどくまた酔っ払ったもんじゃないか」
「ああ、こ、これは久保さん、き、金田一先生も……し、失礼。だけどな、だけどな。ここ、これが酔わずにいられよか。あっはっは」
 乾いたような笑い声をあげる志賀泰三の眼には、涙のようなものが光っている。
「どうかしたんですか。お通夜の席でなにかあったんですか」
「はあ、あの、……おやじがつい、よけいなことをおじさんのお耳にいれたもんだから。……失礼しました。ぼく村松の長男で|徹《とおる》というもんです」
 ズボンに|開《かい》|襟《きん》シャツ一枚の徹は、陽にやけたたくましい体をしている。なんとなくうさん臭そうな顔色で、銀造と耕助の顔を見くらべていた。
「おじさん、お客さんがいらしたんだから、さあ、乗りましょう。ランチはぼくが運転します。|滋《しげる》のことは許してください。あいつも、もう仏になったんですから」
「うう、うう、許すも許さんも……だけど、おれはなんだか変な気になった」
 志賀泰三はバリバリと髪の毛をかきむしる。金田一耕助と久保銀造は、思わず顔を見合わせた。
「おじさん、おじさん」
 徹は泣き出しそうな声である。
「志賀さん、しっかりしたまえ。徹君が心配してるからとにかく船に乗ろう。われわれもいっしょに乗るから。さあ……」
「ああ、久保さん、すまん、すまん、こんな狂態をお眼にかけて……き、金田一先生、す、すみません」
 徹に抱かれるようにして、志賀泰三はランチに乗り込む。久保銀造と金田一耕助もそのあとにつづいた。
 ランチのなかにはビロードを張りつめた長い腰掛けがある。志賀はゴロリとその腰掛けによこたわると、駄々っ児のように両脚をバタバタさせながら、なにやらわけのわからぬことをくどくどいっていたが、急にしくしく泣き出した。
「どうしたんですか、徹君、なんだかひどく動揺しているようだが……」
「はあ、すみません、おやじがあんなことを打ち明けなければよかったんです。いま、すぐ船を出します」
 徹が運転台へうつると、すぐランチが出発する。
 嵐はだんだん強くなってくるらしく、雨はまだ落ちてこなかったが、風が強く、波のうねりが大きかった。空も海も墨をながしたように真暗で、そのなかにただひとつ、明るくかがやいている沖の小島の標識灯をめざしてランチは突進していくのである。
 志賀泰三のすすり泣きは、まだきれぎれにつづいている。それを聞いているうちに、金田一耕助はふっと、物の|怪《け》におそわれたようなうすら寒さをおぼえた。
 志賀泰三は腰掛けのうえで、しくしく泣きながらてんてん反側していたが、急にむっくり起きなおると、
「ああ、そうそう、久保さん」
 と、涙をぬぐいながら声をかけた。
「はあ……」
「さっきいい忘れたが、樋上四郎がいまうちにいるんです。樋上四郎……おぼえてるでしょう」
 それだけいうと、志賀泰三はまたゴロリと横になって、もう泣かなくなったけれど、それっきり口をきかなくなった。
 金田一耕助と久保銀造は、思わずギョッと顔を見合わせる。
 樋上四郎というのは、その昔、志賀の細君だったイヴォンヌを殺した男ではないか。
 金田一耕助はふっと怪しい胸騒ぎをおぼえて、仰向けに寝ころんでいる志賀のほうへ眼をやった。久保銀造も同じ思いとみえて、食いいるように志賀の顔をにらんでいる。じっと眼をつむっている志賀の顔は|物《もの》|凄《すご》いほど|蒼《あお》|白《じろ》く|冴《さ》えて、なにかしら、悲痛な影がやどっている。
 金田一耕助と久保銀造は、また、ふっと顔を見合わせた。
     四
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