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森見登美彦 - 四叠半神话大系

_6 森見登美彦(日)
 それでは今回はこれぐらいで失礼致します。
 お手紙お待ちしております。
[#地付き]かしこ  
[#地付き]樋口景子  
       ○
 午後になると四畳半が蒸し暑くなってきた。暑くなると苛々してきて、コインランドリーで下着を盗んだ犯人への怒りがまた湧いてくる。私は四畳半の隅で黙々と読書に耽る香織さんを眺めたり、下着類と引き替えに手に入れたぬいぐるみをふにふにと押し潰した。
 気分転換のために勉学に励もうとした。
 しかし、教科書に向かっているうちに、この不毛に過ぎた二年の遅れをがつがつとみっともなく取り返そうとしているような気分になってきた。そんないじましい己の姿は私の美学に反する。したがって私は潔く勉強をあきらめた。こういった潔さには自信がある。つまりは紳士だということだ。
 こうなると、提出すべきレポートは小津に頼るほかない。〈印刷所〉と呼ばれる秘密組織があって、そこに注文すれば偽造レポートが手に入るのである。〈印刷所〉なる胡散臭い組織へ負んぶに抱っこでやってきたおかげで、私はいまや小津を介して〈印刷所〉の助けを借りなければ急場のしのげない身体になってしまった。身も心も蝕《むしば》まれてぼろぼろである。小津との腐れ縁が断ち切りがたい原因はここにもある。
 まだ五月の終わりだというのに、もう夏が来たかのように蒸し暑い。猥褻物陳列で訴えられても文句が言えない規模まで窓は開け放っているが、空気は澱《よど》んでいる。澱んだ空気は種々の秘密成分を織り交ぜながらじっくりと時間をかけて熟成され、あたかも山崎蒸留所の樽《たる》に詰められた琥珀色《こはくいろ》のウヰスキーのごとく、ひとたびこの四畳半へ立ち入った者を完膚なきまでに酩酊《めいてい》させずにはおかない。かといって、廊下に面した戸を開くと、幽水荘をうろつく子猫が勝手に入って来てにゃあにゃあと可愛い。食べちゃいたいほど可愛いから喰ってやろうかと思ったが、さすがにそこまで野蛮な所業に及ぶことはできない。たとえパンツ一丁でいるにしても、紳士的であらねばならないからである。子猫の目脂《めやに》を取ってやってから、すみやかに追いだした。
 そのうちごろりと横になった私はいつのまにかぐうぐうと眠っていた。今日はめずらしく早起きをしたので、眠りが足りなかったらしい。ハッと目覚めるとすでに日は大きく傾いて、私の休日は不毛に終わろうとしている。この不毛なる休日を、唯一、有意義なものとする「英会話教室」の時間が迫っていた。私は出かける支度をした。
 ソフトボールサークル「ほんわか」でひどい目にあった私は、サークルというものを信用しなくなっていた。当然、時間が有り余る。樋口景子さんからの手紙に「英会話学校に勤めている」と書いてあったことに刺激を受けて、前年の秋頃から河原町三条の英会話学校へ通うことにしたのである。ちなみに、私が通い始めた英会話学校では、樋口という女性は働いていなかった。
「じゃあ、香織さん。お留守番を頼む」
 私はそう言い置いたが、彼女は『海底二万海里』に夢中で顔を上げなかった。読書に夢中になる女性の横顔はじつに美しいものである。
       ○
 下鴨幽水荘から自転車で走りだした。
 あたりはすでに夕暮れの風情で、柔らかい雲が覆った空は薄桃色をしていた。冷たい夕風が吹き渡っている。
 私は下鴨神社のわきを抜けてから、御蔭通を越え、参道を抜けた。その先は河合橋《かわいばし》と出町橋の間になり、西から来た賀茂川と、東から来た高野川が合流する。一般に鴨川デルタと呼ばれている地帯である。この時節、鴨川デルタは大学生の新歓で賑《にぎ》わう。私も一回生のはじめ、あのヘンテコなソフトボールサークル「ほんわか」で、鴨川デルタでバーベキューをした記憶があるが、なんとなく会話に加われず、賀茂川に石ばかり投げた哀しい記憶があるばかりだ。
 出町橋の西詰から、賀茂大橋の西詰まで、涼しい土手の上を走りながら、私は何となく自虐的な思いに駆られて、対岸の鴨川デルタで和気藹々《わきあいあい》と楽しんでいるらしい学生たちを睨んだのであるが、河原で賑やかに語り合う若人たちの中に小津の姿があることに気がついた。あの不気味さは間違えようがない。思わず自転車を止めた。
 小津は新入生らしい一群に囲まれて、心地良さそうにしていた。私の不毛な一日を尻目に、彼はサークルの気心の知れた仲間と一緒に盛り上がっているらしい。賀茂川を挟んであからさまに明暗を分けた形となり、私は憤った。あんな気味の悪い妖怪のような男を、新鮮な魂を抱えた若者たちが温かく取り囲むとは世も末である。魂の汚染はとどめようがない。
 私はしばらく対岸の小津を怒りをこめて睨んでいたが、そういうことをしていても腹が減るだけだ。気を取り直して自転車を走らせた。
       ○
 英会話のクラスが終わってから、日の暮れた夜の街を歩いた。
 腹をふくらますために三条木屋町の長浜《ながはま》ラーメンをすすってから、木屋町を下った。
 歩きながら小津のことを考えていると、ラーメンでふくれた腹が、また一段とふくれるようだ。この二年、彼はかぎりなく狭い私の交友範囲の中核にあぐらをかき、ひっきりなしに我が四畳半の平和を掻き乱してきた。昨夜は丑三つ時にラブドールを押しつけて風のように去るという身勝手ぶりである。しかし、より本質的な問題は、本来純粋だったはずの私の魂が、小津のせいで汚染されつつある事実である。黒に交われば黒になる。人格の歪《ゆが》んだ小津に接するうちに、知らず私の人格も影響を受けているのではないか。
 小津に対する苛立《いらだ》ちをくすぶらせながら、私は高瀬川に沿ってぶらぶらと歩く。
 やがて私は足を止めた。
 飲み屋や風俗店がならぶ中に、身を細めるようにして暗い民家が建っていた。
 その軒下に、白い布をかけた木の台を前にして座る老婆がいた。占い師である。台のへりから吊《つ》り下がっている半紙は、意味不明の漢字の羅列で埋まっている。小さな行燈《あんどん》みたいなものが橙色《だいだいいろ》に輝いて、その明かりに彼女の顔が浮かび上がる。妙な凄《すご》みが漂っていた。道行く人の魂を狙って舌なめずりする妖怪である。ひとたび占いを乞《こ》うたが最後、怪しい老婆の影が常住坐臥《じようじゆうざが》つきまとうようになり、やることなすことすべてがうまくいかず、待ち人は来ず、失《う》せ物は出ず、楽勝科目の単位を落とす、提出直前の卒論が自然発火する、琵琶湖|疏水《そすい》に落ちる、四条通でキャッチセールスに引っかかるなどといった不幸に見舞われる―そんな妄想をたくましくしながら私が凝視しているものだから、やがて相手もこちらに気づいたらしい。夕闇の奥から目を輝かせて私を見た。彼女が発散する妖気に、私はとらえられた。その得体の知れない妖気には説得力があった。私は論理的に考えた。これだけの妖気を無料で垂れ流している人物の占いが当たらないわけがない、と。
 この世に生まれて四半世紀になろうとしているが、これまで謙虚に他人の意見に耳を貸したことなど、数えるほどしかない。それゆえに、敢えて歩かないでもかまわない茨《いばら》の道をことさら選んできた可能性がありはしないか。もっと早くに自分の判断力に見切りをつけていれば、私の大学生活はもっと違った形をしたものであったろう。謎めいたソフトボールサークル「ほんわか」に入ることもなく、性根がラビリンスのように曲がりくねった小津のような人間に出会うこともなかったろう。良き友や良き先輩に恵まれ、溢れんばかりの才能を思うさま発揮して文武両道、その当然の帰結として傍らには美しき黒髪の乙女、目前には光り輝く純金製の未来、あわよくば幻の至宝と言われる「薔薇色で有意義なキャンパスライフ」をこの手に握っていたことであろう。私ほどの人間であれば、そういう巡り合わせであったとしても、ちっとも違和感を覚えない。
 そうだ。
 まだ遅くはない。可及的速やかに客観的な意見を仰ぎ、あり得べき別の人生へと脱出しよう。
 私は老婆の妖気に吸い寄せられるように足を踏みだした。
「学生さん、何をお聞きになりたいのでしょう」
 老婆はもぐもぐと口に綿を含んでいるように喋るので、その口調にはより一層ありがたみが感じられた。
「そうですね。なんと言えばいいのでしょうか」
 私が言葉に詰まっていると、老婆は微笑んだ。
「今のあなたのお顔からいたしますとね、たいへんもどかしいという気持ちが分かりますね。不満というものですね。あなた、自分の才能を生かせていないようにお見受けします。どうも今の環境があなたにはふさわしくないようですね」
「ええ、そうなんです。まさにその通りです」
「ちょっと見せていただきますよ」
 老婆は私の両手を取って、うんうんと頷《うなず》きながら覗きこんでいる。
「ふむ。あなたは非常に真面目で才能もおありのようだから」
 老婆の慧眼《けいがん》に、私は早くも脱帽した。能ある鷹《たか》は爪を隠すということわざにあるごとく、慎ましく誰にも分からないように隠し通したせいで、ここ数年はもはや自分でも所在が分からなくなっている私の良識と才能を、会って五分もたたないうちに見つけだすとは、やはりただ者ではない。
「とにかく好機を逃さないことが肝要でございますね。好機というのは良い機会ということですね、お分かりですか? ただ好機というものはなかなか掴《つか》まえにくいものでしてね、まるで好機のように見えないものが実は好機であることもあれば、まさに好機だと思われたことが後から考えればまったくそうでなかったということもございます。けれどもあなたはその好機をとらえて、行動に出なくちゃいけません。あなたは長生きはされるようだから、いずれその好機をとらえることができましょう」
 その妖気にふさわしい、じつに深遠な言葉である。
「そんなにいつまでも待てません。今、その好機をとらえたい。もう少し具体的に教えてもらえませんか」
 私が食い下がると、老婆はやや皺《しわ》を歪めた。右頬が痒《かゆ》いのかしらと思ったが、どうやら微笑んだらしい。
「具体的には申し上げにくいのですよ。私がここで申し上げましても、それがやがて運命の変転によって好機ではなくなるということもございまして、それではあなたに申し訳ないじゃございませんか。運命は刻々とうつろうものでございますから」
「しかし、このままではあまりに漠然としていて困りますよ」
 私が首をかしげると、老婆は「ふっふーん」と鼻息を噴きだした。
「宜《よろ》しいでしょう。あまり先のことは申さずにおきますが、ごく近々のことでしたら申し上げましょう」
 私は耳をダンボのように大きくした。
「コロッセオ」
 老婆がいきなり囁《ささや》いた。
「コロッセオ? なんですか、そりゃ」
「コロッセオが好機の印ということでございますよ。あなたに好機が到来したときには、そこにコロッセオがございます」
 老婆は言った。
「それは、僕にローマへ行けというわけではないですよね?」
 私が訊ねても、老婆はにやにやするばかりである。
「好機がやって来たら逃さないことですよ、あなた。その好機がやって来たときには、漫然と同じことをしていては駄目なのですよ。思い切って、今までとはまったく違うやり方で、それを掴まえてごらんなさい。そうすれば不満はなくなって、あなたは別の道を歩くことができましょう。そこにはまた別の不満があるにしてもね。あなたならよくお分かりでしょうけれども」
 まったく分かっていなかったが、私は頷いた。
「もしその好機を逃したとしましてもね、心配なさる必要はございませんよ。あなたは立派な方だから、きっといずれは好機をとらえることができましょう。私には分かっておりますよ。焦ることはないのですよ」
 そう言って、老婆は占いを締めくくった。
「ありがとうございました」
 私は頭を下げ、料金を支払った。立ち上がって振り向くと、背後に女性が立っている。
「迷える子羊さん」
 羽貫さんは言った。
       ○
 羽貫さんは英会話学校で同じクラスである。前年の秋に私が入会して以来、ほぼ半年にわたる付き合いになるが、これはあくまでクラスメイトとしての付き合いである。私はこれまで彼女の超絶技巧を盗もうと繰り返し挑戦していたが、いずれも失敗に終わっていた。
 羽貫さんはきわめて流暢《りゆうちよう》に滅茶苦茶な英語を喋った。彼女が次々と放り投げる英語らしき断片は自在に宙を舞い、文法的に破綻しているにもかかわらず原則を超越して結びつき、なぜか相手の脳裏で正確な意味を構成した。摩訶《まか》不思議である。一方の私は、頭の中で推敲に推敲を重ねているうちに会話がすでに次のステージへ進み、発音するに値する台詞が堂々完成した頃には時すでに遅し、というパターンを飽かず繰り返していた。文法的に破綻した英語を喋るぐらいならば、私は栄光ある寡黙を選ぶであろう。石橋を叩いて壊す男とは私のことだ。
 英会話で聞き齧《かじ》った自己紹介から、羽貫さんが歯医者に勤めていると私は知った。英会話教室では、それぞれの好む題材についてスピーチをするが、彼女はおおむね歯について語る。歯学分野における彼女の語彙《ごい》は、私の知る半年だけでも飛躍的に増えた。そしてクラスメイトたちの歯についての知識も、この半年で飛躍的に増えた。これはたいへん良いことである。
 私がスピーチの題材に選ぶものは、きまって小津の悪行であった。私の交友関係の中核を、小津が占めているからである。正直なところ、彼の不毛なおこないをインターナショナルな場で公表することは気が引けたのだが、やむを得ず言及したところ、なぜかクラスメイトたちから喝采《かつさい》を受け、毎週「OZニュース」を語らせられることになった。他人事《ひとごと》だから面白いのであろう。
 しばらくそんなことを繰り返していたところ、クラスが終わった後に羽貫さんから声をかけられた。驚くべきことに、羽貫さんは小津の知り合いであった。小津は彼女の勤める窪塚歯科医院の患者であり、しかも小津が「師匠」と呼んで足繁く通っている人物は、羽貫さんの古い友人だというのである。
 彼女は「スモールワールドね」と言った。
 我々は小津の悪辣《あくらつ》な人間性について語り合い、すぐに意気投合した。
       ○
 占い師のところで出会った後、私と羽貫さんは木屋町の居酒屋へ入ることになった。
 羽貫さんは英会話のクラスが終わった後、誰かと約束があって木屋町へ来たらしいのだが、急にむらむらとそいつに対する嫌悪の念が湧き、しかし酒は呑《の》みたい、しかしそいつとは会いたくない、だがやんぬるかな酒は呑みたい、という煩悶《はんもん》を抱えていたところ、人生に迷っている私を見つけたという。「渡りに船、渡りに船」と彼女はめちゃくちゃなメロディーで歌いながら、ずんずん夜の旅路を歩きだした。
 週末の居酒屋は賑やかであった。もともと学生が多いが、とくに今は新入生歓迎コンパの時期である。つい先日まで高校生だったような顔がちらほら見受けられた。
 我々は小津の目前に広がる暗黒の未来を願って乾杯した。小津の悪口を言ってさえいれば話が盛り上がるのだから便利である。世に悪口の種は尽きない。
「あいつにはさんざん迷惑をかけられました」
「でしょうね。それが趣味だもんねえ」
「人の生活にいらんちょっかいをだすのが生き甲斐《がい》ですからね」
「そのくせ、自分のことは秘密にするでしょ」
「そうそう。僕はあいつの下宿の場所も知らんのですよ。何回聞いても言わん。自分はうちに何度も転がりこんでるくせに……」
「あら、私は行ったことあるよ」
「本当ですか?」
「うん。浄土寺のねえ、白川通からちょっと入ったところにある砂糖菓子みたいにおしゃれなワンルームマンションだったわ。小津君、仕送りはたんまりもらってるのよ。とにかく、可哀想なのは御両親ね」
「どこまでも腹の立つやつ」
「でも、小津君の一番の親友なんでしょう?」
 彼女はそう言って、けらけら笑った。「あの子、よくあなたの話してるわ」
「あいつ、何を喋ったんですか?」
 私は薄暗がりで怪しく微笑む小津を思い浮かべながら訊ねた。羽貫さんは不埒な嘘を吹きこまれている可能性があるので、断固として否定せねばならん。
「色々よ。一緒に変なサークルから逃げだした話とか」
「ああ」
 それは本当の話である。
       ○
 私が迷いこんだサークル「ほんわか」は、その名が示す通り、春霞《はるがすみ》のかかった空に浮かぶ雲のようにほんわかとしていた。上級生も下級生も「○○さん」と呼び合い、部内間の序列関係は一切ないものとされていた。先輩も後輩もない、憎しみや哀しみもない、この白いボールを投げ合うように愛のキャッチボールを続けて、みんな一緒に楽しく助け合っていこうという、一週間も在籍すれば卓袱台《ちやぶだい》をひっくり返す衝動に駆られるようなサークルである。
 週末にグラウンドを借りて白球を投げ合い、一緒に食事をしたり、遊びに出かけたりしているうちに五月が過ぎ、六月が過ぎ、七月が過ぎた。こうしたぬるい交流を通して私が平凡な社交性を身につけたろうか。そうはいかぬ。私の堪忍袋はぱっつんぱっつんに張りつめていた。
 いつまでたってもほかの人間に慣れることができない。みんなつねにニコニコと微笑み、優しく語り、口論もせず、猥談もしない。誰も彼も印象が同じだから区別がつかず、名前と顔が一致しない。私が何か言うと、みんな優しい微笑みを顔にはりつけたまま黙りこんでしまう。
 私が親しみを感じた唯一の人間が小津であった。小津は独特の話術でサークル内でも一定の位置を確保することに成功していたが、ニコニコと天真爛漫《てんしんらんまん》に微笑むことに困難を感じているらしく、どうしてもにやにやと妖怪めいた笑みになり、その腹の中にひそむ邪悪さを隠しようもないという印象であった。彼だけは名前と顔が一致していた。むしろ、忘れられなかった。
 その夏、京都と大阪の県境にある森で二泊三日の合宿が行われた。ソフトボールの練習があるのは御愛敬、ようするに懇親会である。みんないつもニコニコ笑ってよろしくやっているのだから、いまさら懇親でもないだろうと私は意地悪く思った。
 ところが二日目の夜、宿泊施設になっている野外活動センターの一室を借りてミーティングが行われた後、私がこれまで見たこともない中年の男が先輩に案内されて姿を見せた。唐突であった。小太りで、マシュマロを頬張ったような顔つきをしていて、眼鏡が小さ過ぎて顔面に埋めこんだように見える。
 やがてその男が話を始めた。愛だの現代の病だのこれが君たちの戦いだの、やけに力を入れて語っている。つかみどころのない大げさな言葉が延々と流れるばかりで、意味が分からない。「あれは誰?」と思った私は周囲を見渡したが、誰もがありがたそうな顔をして聞いている。欠伸《あくび》をしているのは私の斜め前に座っている小津ばかりだ。
 やがてその男に促された部員たちが一人一人立ち上がって、色々と個人的なことを述べ始めた。悩み事を告白する者もあれば、このサークルに対する感謝の意を表明する者もある。誘ってもらって良かったと言う者もある。立ち上がった女性が少し喋るなり泣きだした。小太りの男は彼女を甘い口調でなぐさめる。「君は決して間違っていない。僕はそう信じているし、ここにいるみんながそう思っているよ」
 小津が促されて立ち上がった。
「なんだか、大学に入ってからというもの不安ばかりだったんですけど、このサークルに入っていたおかげで慣れることができたと思います。ここで皆さんと一緒にいると安らぎます。本当にすごいことだと思います」
 さきほどまでの欠伸が嘘のように木訥《ぼくとつ》と述べている。
       ○
「それでどうなった?」
 羽貫さんは先を促す。ちょっと酒に酔ったのか、甘えるような口調になっている。
「促されて適当に喋りましたけどね、後から部屋に話しに行くからとその小太りの男に言われて、困ったことになったなあと思った。部屋に戻るまえに便所へ行って、しばらく時間を潰してロビーに人影がなくなったのを見計らって、玄関まで降りて、とりあえず外へ出たわけです」
「ああ、そこで小津君と会ったのね」
「そうそう」
 野外活動センターの玄関の外へ忍びでた私は、暗がりから姿を現した小津の姿を見て、古《いにしえ》より森にひそむ妖怪が現れたのかと思った。すぐに小津だと分かったが、私は警戒を解かなかった。彼が「ほんわか」によって派遣された刺客にちがいないと思ったからである。逃亡しようとした私を縄でぐるぐる巻きにしてあの小太りの男につきだすのだ。糠漬《ぬかづ》け臭い地下拷問室に監禁され、高校時代の初恋などの甘酸っぱい想い出の数々を根掘り葉掘り尋問されるかもしれない。そうは問屋がおろすものか。
 私が睨んでいると、小津が「はやく」と囁いた。
「逃げるんでしょう。僕もおともしまっせ」
 そうしてやむなく意気投合した我々は、暗い森を抜けた。
 野外活動センターから、山の下にある農村までは真の闇と言うべき道路を歩かねばならなかったが、小津が懐中電灯を持っていたので助かった。じつに用意のよい男だ。荷物は部屋に置いてきたが、どうせ大したものも入っていないのだから、気に留める必要はない。途中で何度か車が通り過ぎたが、そのたびに我々は木立の中に飛びこみ、隠れてやり過ごした。
「なんだか大冒険ねえ」
 羽貫さんは大げさに感心したように言う。
「どうなんですかね。あれだけ必死に逃げる必要があったのかどうか分からないですよ。べつにそのまま泊まってもどうってことなかったかもしれない」
「だって宗教サークルでしょ」
「まあね。でもその後一回電話があっただけで、しつこく勧誘もされませんでしたよ。あからさまに見こみがなさそうだったんですかね」
「そうかもしれないわねえ。そのまま山道を歩いてどうしたの?」
「とりあえず山を下りて、農家の畠《はたけ》を抜けました。国道まで出たら車に乗せてもらえるだろうと思ったけれど、これが真夜中だからほとんど走ってないし、なかなか停まってくれません。手ぶらの不気味な男が二人だったら、俺だって停まりません」
「たいへん」
「それでまあ、二人でさんざん歩いて、標識見て、JRの駅を目指しました。果てしなく遠かった。田舎ですからね。明け方の四時ぐらいにひとまず最寄り駅には着いたんだけど、その駅だと追っ手が来るかもしれないという被害妄想に怯《おび》えて、線路を辿って、隣の駅へ行ったんです。スタンドバイミーですよ。そうして駅前で缶珈琲を飲んで時間を潰して、始発に乗って帰りました」
「きつい」
「電車の中で泥んこのように眠りました。足がもう全然動かなかったですよ」
「そうして小津君との友情が」
「いや。いっこうに育《はぐく》まれませんでした」
 すると彼女はけらけら笑う。
「小津君はね、でもあれで純粋なところもあるでしょ」
「見当たりませんな」
「またまた。小津君の恋の話知らないの?」
 聞き捨てならんことである。私は思わず身を乗りだした。
「え、え、え。あいつの恋?」
「そうねえ。映画サークルのね、一回生の頃に知り合った女の子らしいわ。師匠にも会わせたことないみたいだし、私も見たことない。どうもその子には、ほかの自分を見られたくないみたいね。憎たらしいけど可愛いでしょう。私、恋の相談も受けたよ」
「ちくしょう」
 怒りに震える私を見て、羽貫さんはたいそう面白そうであった。
「なんて名前だったかしら……。うーん」
       ○
 先斗町《ぽんとちよう》にある羽貫さん行きつけの「月面歩行」なるバーに連れて行かれて、あれこれ小津の悪口を言い合っているうちに我々はますます意気投合した。その場にいない第三者への悪口というものは、人々をかたく結びつけるものである。
 私はやがて、コインランドリーの件を語った。
「そんなにあなたの下着が欲しかったのかしら」
 彼女は笑いながら首をかしげた。
「下着がどっさりなくなったら困りますよ、ほんとうに」
 そうこうしているうちに夜も更けてきたが、羽貫さんはいっこうに元気を失わない。私は夜の街の喧噪《けんそう》に揉まれて疲労をおぼえた。酒を無尽蔵に呑むというわけでもないので、息苦しくなってきた。酔っぱらった羽貫さんの眼が何か妖《あや》しく煌《きら》めき始めると、我が四畳半が懐かしくなった。はやく家に帰りたい。帰って、あれこれと思い煩うことなく猥褻文書を紐解き、そのまま布団へもぐりこみたい。
 しかし事態は私の予測を裏切って進んでいく。
 たがいに近所なのだからタクシーで一緒に帰りましょうということになり、さらに酔った彼女の眼がらんらんと輝きだすと、私は現実をコントロールする自信を失っていった。タクシーの窓の外を流れる夜景を見ていた羽貫さんが「ふふん」と息を吐いてこちらを見ると、なんだか私を取って喰いそうな顔だった。
 彼女のマンションは御蔭橋に近く、川端通に面していた。マンションの部屋まで、足取りの確かでない彼女を送るついでにお茶を飲んでいきませんかということになった時点では、もはや自分が何者なのか、どこから来てどこへ行くのか、悠久の時の流れの中に置いてけぼりにされたような心細さを感じていた。雨に濡《ぬ》れた捨て猫のようにぷるぷると震えていた。
       ○
 呪われた思春期の門をくぐってこの方、我がジョニーには惨めな思いを強いてきた。ほかの男たちのジョニーの中には、恥も外聞もなく縦横無尽に活躍している輩《やから》もごまんといることだろう。それなのに、私のような主人を持ったばかりに、我がジョニーは持ち前のやんちゃぶりを広く社会一般に発揮することもできず、真の実力を押し隠している。能ある鷹は爪を隠すとは言え、血気盛んなジョニーが、かくも空しい境遇にいつまでも甘んじているわけがない。彼はすきあらば自己の存在理由を確認せんとして、私の制止を振り切り、その頭を傲然ともたげた。
「おいおい、そろそろ俺の出番じゃないのかい?」
 彼は不敵な声で繰り返し言った。
 そのたびに私は「好機はいまだ到来せず」と言い渡し、「おまえは出てくるな」と厳しく叱責《しつせき》した。我々は現代社会に生きる立派な文明人である。私は紳士であり、ほかにも用事は色々とある。ジョニーが思うさま活躍できるような場所を与えるためだけに、桃色遊戯にかまけている暇はないと説いた。
「本当に好機なんて来るのかよう」
 ジョニーはぶつぶつ言う。「俺を見下して、いいかげんなことを言うな」
「そう言うな。部位的に見下すのはやむを得ない」
「どうせ俺よりも脳味噌《のうみそ》が大事なんだろ。チクショウ。脳味噌はいいよなあ」
「すねるんじゃないよ、みっともない」
「ふん。待てど海路の日和なしか」
 そう言ってジョニーはごろんと横になってふてくされるのであった。
 私とて彼が可愛くないはずがなかったので、待てど海路の日和なき日々を送る彼を見ていると心が痛んだ。彼がやんちゃであればあるほどに、外界と折り合えずに孤独な一匹狼として吠《ほ》えるしかない自分の姿と二重写しになる。哀れさはいや増した。ときたま妄想の世界で遊ぶだけで彼が貴重な才能を空費してゆくのかと思うと、涙を禁じ得なかった。
「泣くなよ」
 ジョニーは言う。「ごめん。俺がわがままだったよ」
「すまん」
 私は言う。
 そうして私とジョニーは仲直りする。
 まあ、そういう日々だったと思ってもらって間違いはない。
       ○
 羽貫さんの部屋はよく片づいていた。よけいな物もあまりない。いつでも身軽にどこへでも行けるという雰囲気が、私などにはいっそ羨《うらや》ましかった。混沌《こんとん》に混沌を混ぜて練った四畳半とは雲泥の違いがある。
「ごめんなさい。ちょっと飲み過ぎた」
 羽貫さんはハーブティーを入れながら、けらけら笑う。眼は例のアヤシゲな光を湛《たた》えている。いつの間にか上着を脱いで長袖のシャツ一枚になっている。いつの間に脱いだのか分からぬ。
 彼女はベランダの硝子戸《ガラスど》を開け放った。川端通に面したベランダからは高野川沿いにならぶ並木が見えた。
「川のそばでいいでしょう。車の音は少しうるさいけど」
 彼女は言った。「屋上にのぼったら、東に大文字が見えるよ」
 しかしながら、もはや私には大文字などはどうでもよかった。
 女性が一人で暮らす部屋に誘われて二人っきりでお茶を飲んでいるという、あまりにも典型的な異常事態を迎えて、いかに紳士的に体面をたもって切り抜けるかと思案していた。史学物理学心理学生化学文学|似非《えせ》科学までのあらゆる知識を総動員し、脳味噌の内燃機関が唸《うな》り声を上げている。ここに小津がいれば、こんな緊張をする必要もなく、なごやかに事が運ぶのになあと思った。
 それにしても羽貫さんは不用心に過ぎるのではないか。
 深夜を過ぎた頃合いに私を自室に導き入れるとは危険である。たしかに私は英会話のクラスメイトとして半年の付き合いがある。彼女の知り合いである小津の「親友」でもある。しかし、まっとうな判断力を持つ女性であれば、私を亀甲《きつこう》縛りにした上に布でぐるぐる巻きにしてベランダから逆さまに吊《つる》しておもむろに火を点ずるまでは安心できないであろう。酔った彼女の代理として、彼女の身を案じている私をよそに、羽貫さんは甘い口調で、今夕に待ち合わせていた相手のことを喋り始めた。
 彼女の相手というのは窪塚歯科医院の窪塚医師にほかならぬことを知って驚いた。窪塚医師には妻も子もあると知って、もっと驚いた。そういう人物が職権を濫用して彼女と逢い引きを企《たくら》むのは許しがたいことだと思ったが、羽貫さんも長く勤めているというし、私のような精神的無頼漢学生は大人の人間関係にまつわる機微が分からない。下手に口をだすまいと思っているのに、羽貫さんは窪塚医師との関係についてあれこれと語り、私に助言を求めるのであった。
「やっぱり木屋町に放ったらかしにしてきたのは悪かったかな」
 彼女はそんなことを呟《つぶや》いている。
 だんだん私は黙しがちになっていった。そうすると羽貫さんは私のそばへにじり寄るようにした。
「なあに、なんでそんなに怖い顔しているの?」
 羽貫さんは言った。
「もともとこういう顔でございます」
「それは嘘でしょう。さっきはそんなところに皺はなかったでございますよ」
 彼女は言って、私の眉間《みけん》に顔を近づけた。
 そうして、唐突に私の眉間を舐《な》めようとしてきた。
 私はびっくり仰天して、後ずさりした。彼女はあきらかにヘンテコな目つきをして、私にくっついた。
       ○
 そのとき、私が気づいた事実として、以下の四点を挙げることができる。
 一点目は、彼女の胸のふくらみが私におしつけられていたということである。この事態を冷静に受け止めようとしたが、おおかたの予想通りそれは困難を極めた。そもそも私はこの女性特有の謎めいたふくらみに男たちが右往左往することを苦々しく思い、長年にわたって映像的な方面から考察を重ねてきた人間であるが、なぜあんなふっくらしているぐらいしか取り柄のないものに我々が支配されているのか、その謎は解けていなかった。むろん現今における羽貫さんの乳との位置関係上、私も興奮するにやぶさかではないが、このような単純なふくらみに純粋なハートを鷲掴《わしづか》みにされて、長年守ることを余儀なくされてきた純潔を棒に振るわけにはいかない。私の誇りが許さない。
 二点目は、彼女に舐められるのを避けるために顔を上げたとき、壁にかかっているコルクボードに気づいたことである。たくさん貼《は》りつけられた写真の中に、彼女が旅先で撮ったらしい写真がある。そこはイタリアである。写真に写った「コロッセオ」を見て、そのような異常事態にありながらも、私は木屋町の占い師の言葉を一瞬にして思いだした。あれほど私が待ち望んでいた「好機」は、今ここにあるのではないか。
 三点目は、ついに「海路の日和」とばかり、暴れん坊なジョニーが己の存在を主張し始めたことである。「おいおい、俺の出番かい?」と彼は頭をもたげた。私は彼を叱責しようとしたが、「これこそ好機じゃないのか?」と彼はもっともなことを言う。「俺はもう飽きるほど我慢してきたんだ。さて、そろそろ俺に主導権を握らせておくれよ」
 四点目は、我々がいる壁に伝って左へ動いて行くと台所に通じ、その向こうにはトイレがあるという事実であった。すみやかに籠城《ろうじよう》して心頭を滅却し、事態の沈静化を待つには恰好の場所と言えよう。
 羽貫さんは私の身体にからみつき、しきりに顔を舐めようとする。
 脳味噌は迷走に迷走を重ねる一方、ジョニーが活躍の場を求めて不穏に蠢《うごめ》いている。彼は私の体内にある欲望という欲望をすべて吸い上げ、一気に覇権を握ろうと企てているらしい。参謀本部たる脳味噌は未《いま》だゴーサインを出さないが、ジョニーひきいる一党はもはや参謀本部の入り口で押し合いへしあいしている。「何してる」「今こそ好機でんがな」「話がちがう」と雄叫《おたけ》びを上げる。
 参謀本部の奥にじっとしている私はジョニーの声に耳をふさぎ、真剣に私の人生の作戦地図を見下ろした。「一時の欲望に押し流されて文明人と言えるか。よく知らない女性が酒でふわふわしているのに乗じて事を為《な》し、そんなことで誇りが保てるか」
 私が重々しく言うと、ジョニーは拳《こぶし》を振り上げて参謀本部の鉄製の扉をがんがん殴り始める。ほとんど半狂乱である。「事を為せればそれで充分だぞう」「事を為すことがどれだけ大事か分かってんのかあ」と叫んでいる。「我々に主導権を委譲しろ」
「事を為すことだけに何の意味があろう。何より大切なのは誇りだ」
 私は言い返すと、ジョニーは一転して哀願口調になった。
「ねえ、男の純潔に何の意味があるの。そんなものをいつまでも守って、いったい誰が、よくできましたと誉めてくれるの。これで新しい世界が開けるかもしれないでしょ。向こう側が見てみたいとは思わないの?」
「向こう側は見てみたい。しかし今はまだその時ではない」
「そんなこと言って、明らかに今が好機じゃないか。コロッセオもあったじゃないか。あの占い師の言った通りじゃないか」
「好機を掴むべきかどうかは、私が判断する。おまえが判断するところではない」
「うおおおう。俺は泣くよ。泣いちまうよ」
 私は心を鬼にした。にじり寄る羽貫さんから逃れるように、壁をするすると伝った。そのまま羽貫さんもくっついてくる。二人そろってジャングルの奥地にひそむ妙な生物のように動いて、部屋を移動し、台所まで滑りこんだ。
「あ、ゴキブリが」
 私が言ったとたん、羽貫さんはぎょっとして後ろを振り返った。そのすきに乗じて私はついに立ち上がった。トイレに逃げこみ、鍵《かぎ》をかけて籠城した。誇りを保つための行為だったのに、あまり誇り高い行為に見えなかったのは無念である。
 ジョニーが切なく怒号したのは言うまでもない。
       ○
「大丈夫? 気分悪い?」
 羽貫さんが外からのんびりした声で問いかけている。私は「大丈夫です、ちょっと」と言い、トイレの中で耳を澄ませた。やがて彼女は部屋へ戻ったらしい。
 私はトイレに立て籠《こ》もり、自分をめぐる三人の女性のことを考えた。一人は顔も知らない文通相手で、もう一人は人形であり、最後の一人は酔っぱらって人の顔を舐めたがる人だ。
 しかし淡々と暮らしてきたこれまでの二年間、身辺がこれだけ華やいだことはなかった。おお、この甘い生活。ひょっとすると、小津が香織さんを私の四畳半へ持ちこんだときから、風向きが変わったのかもしれぬ。これからは女性との出会いが引きも切らず、予定帳には逢引《あいびき》の予定がみっしり、喉《のど》から血が出るほど睦言《むつごと》を語らねばならないであろう。考えるだけでうんざりする。神経が衰弱し、比叡山《ひえいざん》へ駆けのぼる羽目になるのは目に見えている。
 桃色遊戯の達人を目指す器ではないならば、一人に決めなくてはならない。
 三人の乙女のうち、一人は無言の美女であるから、これはいくら私でも除外せねばならない。もう一人は私の「文通哲学」によって、逢うことは許されない。当然、最後の一人、羽貫さんだけが残る。
 木屋町の占い師は「コロッセオ」と予言した通り、まさにこの場で、私は「コロッセオ」の写真を見つけた。ジョニーが主張するように、下半身方面へ主導権を明け渡せという浅薄な意味ではないはずだ。好機なればこそ、この場では紳士らしく理性を保ち、彼女が素面《しらふ》に戻るのを待ってから、正当な手段で合併交渉を再開すべきであろう。
 酒に酔っているとはいえ、彼女もまったく興味のない相手の顔面を舐めようとすまい。一風変わった人であるから、この私に好意を抱くほどの物好きだとしても不思議ではない。ここで心機一転、好機を掴んだならば私は自分の未来を純金に変えるだけの力量を発揮するであろう。潜在力には自信がある。ただ潜在させ過ぎて見失っているに過ぎない。
 私は心を落ち着かせた。
 ジョニーが静かになるのを待ち、ようやくトイレから出ると、羽貫さんは部屋の真ん中に寝転んで、ふいごのような音を立てて眠っていた。
 私は彼女の覚醒《かくせい》を待つべく、傍らに座りこんだ。
       ○
 酔っていたせいであろう、私らしくもなくうたた寝をしてしまった。壁に凭れていたはずなのに、いつの間にか横になっている。
 何かただならぬ気配がする。
 眠い目をこすりながら起きあがると、目の前にぬらりひょんが正座していた。「ぎゃ」と飛び上がりそうになるのを堪《こら》えてよく見ると、それは小津である。奇怪だ。先ほどまでたしかに羽貫さんの部屋にいたはずなのに、目の前には小津が座っている。歯科衛生士の羽貫さんとは仮の姿であり、その皮をめりめりと剥《む》けば中に小津が入っていたのではないかと想像した。ひょっとすると私は、女性の皮をかぶった小津に顔を舐められそうになり、女性の皮をかぶった小津と合併交渉をするところだったのではないか。
「なんでおまえがここにいる」
 私はようやく言った。
 彼は気取った仕草で頭を撫《な》でた。
「かわゆい下級生たちと三条で盛り上がっていたのを呼びだされましてね。タクシーで来たんですぞ。こっちの身にもなってほしい」
 どういうことか分からない。
「つまりですな。羽貫さんは僕の師匠の友だちで、親しくお付き合いがあるんですが、彼女には難点が一つありましてな。酒を呑み過ぎると理性のタガが緩むというか、まあそういうことで」
「なんだそれは」
「ひょっとして顔を舐められそうになりませんでした?」
「うむ。舐められかけた」
「ふだんは抑えてるんですけれど、今夜はあまりにあなたと楽しく飲んだせいで、ちょいと度が過ぎたということです。つまり、今夜起こったことは水に流してほしいと」
「なんと」
 私は呆《あき》れた。
「申し訳なかったと彼女は言っております。いまさら恥じらってもしょうがないんですけどねー」
 とたんにトイレの中から抗議をするように、うげええと声が聞こえてきた。どうやら羽貫さんはトイレに立て籠もり、しかるべき酒の報いを受けているらしい。
「しかし何でおまえが来るんだ」
「彼女の代理人として、あなたに事情を説明して慰めようと。師匠の古い御友人のピンチを無視できないでしょ」
 羽貫さんに顔を舐められかけて、運命の変わり目を見たつもりになっていたが、種明かしをされればじつに阿呆らしい。理性の手綱を握っていて良かったと思った。しかし、私に冷や水を浴びせる役どころを小津が担ったのは腹が立つ。
「あなた何もしなかったんでしょうな?」
 小津が言った。
「何もしなかった。顔も舐められそうになっただけだ」
「まあ、あなたの器量ならどうせそんなとこでしょうけど。彼女に迫られて、怯えてトイレに立て籠もったりしたんじゃないですか?」
「そんなことはしない。あくまで紳士的に彼女を介抱した」
「どうだか」
「ちくしょう。腹が立つなあ」
「あんまり羽貫さんを責めないでください。ほら、便器を抱えて報いを受けてます」
「ちがう、おまえに腹を立てているんだ」
「ひどい、とばっちりですよ」
「俺がロクでもない目にあうときは、たいていおまえがそこにいるんだ。この疫病神め」
「あ、またあなたはそんなひどいことを言うんだ。僕がなんでわざわざ楽しい宴会を抜けだして、こんなところへ来たと思うんですか。親友として、あなたを慰めるためですよ」
「おまえの憐憫《れんびん》など、いらん。だいたい、俺がおかれているかくのごとき不愉快な状況は、すべておまえに起因する」
「そんな人として恥ずべき言い草を、よくもまあ堂々と断言しますねえ」
「おまえに会わなければ、もっと有意義に暮らしていた。勉学に励んで、黒髪の乙女と付き合って、一点の曇りもない学生生活を思うさま満喫していたんだ。そうに決まってる」
「まだ酔ってるみたいですね」
「俺がいかに学生生活を無駄にしてきたか、今日気づいたよ」
「慰めるわけじゃないけど、あなたはどんな道を選んでも僕に会っていたと思う。直感的に分かります。いずれにしても、僕は全力を尽くしてあなたを駄目にする。運命に抗《あらが》ってもしょうがないですよ」
 小津は小指を立てた。
「我々は運命の黒い糸で結ばれてるというわけです」
 ドス黒い糸でボンレスハムのようにぐるぐる巻きにされて、暗い水底に沈んで行く男二匹の恐るべき幻影が脳裏に浮かび、私は戦慄《せんりつ》した。
「そんなことより、おまえ、二年付き合ってる彼女がいるらしいな。どうだ、図星だろ」
 私が言うと、小津は妖しい笑みを浮かべた。「ウフフ」
「その笑いはなんだ?」
「ヒミツ」
「おまえのようなやつが、俺を尻目に浮かれるとはけしからん」
「まあまあ。僕が幸せであることはこの際、どうでもよいのです。とにかく今日のところはね、夢を見たのだと諦《あきら》めて、早々にお引き取り下さい」
 小津は菓子の箱を差しだした。
「なんだこれは?」
「羽貫さんからお詫びということで、カステラです。ひとつこれで、なにとぞ穏便に」
 小津は店の乗っ取りを企む悪徳手代のような顔をした。
       ○
 空も白んできた明け方の街を歩いた。
「宴《うたげ》のあと」と言うべき空しさが漂い、夜明けの寒さが身に染みた。御蔭橋の真ん中に立って己を抱くようにしながら、高野川の両岸を埋めるみずみずしい緑を眺めた。めったに見ることない清らかな朝の景色は新鮮に感じられたが、その分、下鴨幽水荘に帰りついたときにはゲンナリした。玄関脇の壊れかけた蛍光灯も、木造の下駄箱も、埃《ほこり》っぽい廊下も、ふだんよりもいっそう薄汚く感じられるのである。
 足どり重く冷たい廊下を辿り、四畳半の万年床へ倒れ伏した。温まってやわらかくなる布団の中で、盛りだくさんな昨日の出来事を思い返した。しめくくりに小津が登場したのは腹立たしいし、トイレで思い描いた羽貫さんとの未来が翌日を待たずに儚《はかな》く消えたのはつらいが、なんの、よく考えてみれば恋愛|双六《すごろく》の振り出しに戻っただけではないか。そんなことは日常茶飯事である。心の傷と引き替えにカステラが手に入っただけでも、割の良い話だと思え。これで我慢しろ。我慢しろ。
 しかし納得できない。
 心の隙間が埋まらない。
 私は布団の中から、語らぬ同居人を盗み見た。香織さんは相変わらず本棚に凭れ、慎ましく『海底二万海里』を読んでいる。私はふと身を起こして、彼女の髪を撫でてみた。一心不乱に本を読んでいる可憐な黒髪の乙女に寄り添っているような気がした。錯乱していたのだ。
「俺の馬鹿野郎……」
 私は思わず呻《うめ》き、ふたたび布団へ撤退した。
 身辺が華やぐかと大それた妄想を抱いたのは情けないことだった。あるいは、あの占い師の予言に従ってジョニーに主導権を渡し、酔っぱらった羽貫さんと不埒なふるまいに及んでおれば、本当に新しい生活が始まっていたのであろうか。いや、そんなはずはない。私は認めない。男性と女性の結びつきとは、もっと厳粛なものたるべきである。靴紐《くつひも》のようにちょいちょいと結ばれてたまるものか。
 小津が香織さんを持ちこんだときから風向きが変わったのかと思ったが、私をめぐる「三人の女性」のうち、羽貫さんは早々と脱落した。夢を見たのは、半日にも満たない。私に残されたのは、決して逢うことの許されない文通相手と、同居してはいるが人間ではない女性である。
 つまり何も残されていないに等しい。
 この冷徹な現実と、私は向き合わねばならない。大丈夫、私ならば可能だ。
 布団に寝っころがりながら香織さんの横顔を眺めているうちに、ふとジョニーが誤って蠢きかけたが、私はそのまま眠りに落ちて、ことなきを得た。
       ○
 夕刻に目を覚まして、出町のそばにある喫茶店へ出かけて夕食とした。
 鴨川デルタのそばを抜けるとき、夕日に照らされる大文字がくっきりと見えた。ここからは送り火がよく見えるであろう。ここで樋口景子さんと一緒に大文字を眺めたらどんなものであろうと妄想を膨らましかけたが、あんまり夕風に吹かれて妄想に耽っていても腹が減るだけなので、適当なところで切り上げた。
 下鴨幽水荘へ戻って机の前に座り、精神統一、樋口景子さんへの返事を書いて、このやり場のない思いを紛らわせることにした。
「拝復
 一足先に夏がやってきたような蒸し暑い日々が続いていますね。私の下宿はなかなか風が通らないので、よけいに暑いです。ときおり廊下にハンモックを吊して過ごしたい衝動に駆られますが、さすがにそこまではできません。これから夏にかけて、下宿で勉強できないのはつらいことです。おそらく図書館に籠《こ》もることになるだろうと思います。図書館は邪魔の入ることがないので、勉強もはかどることでしょう。
『海底二万海里』気に入っていただけて幸いです。私は世界地図を広げて、ノーチラス号の航路を辿りながら読みました。そうすると何だか自分も海を航海しているような気分になることができます。ぜひお試しください。スティーヴンソンの『宝島』はまだ読んだことがありません。本屋で探して読んでみることにします。昔の冒険小説というものは、手に汗を握る一方でのんびりしたところもあって、そのかねあいが絶妙です。冒険のくせに殺伐としていないところが好ましい。
 アイリッシュパブというものはどんなものなのか分かりませんが、一度行ってみたいものです。大学と下宿を往復するだけの日々で、最近はあまり街へ出る機会がありません。
 私は、この春以来、実験に講義にと忙しい日々を送っています。外面的に見れば殺伐とした日々ですが、なかなか充実した日々と言えます。科学とは興味深い世界です。ただジュールヴェルヌが生きた十九世紀よりもずっと裾野《すその》が広がって、生半可なことではすべてを見渡すことができなくなったのが残念に思われます。ただ、だからこそ今の私たちの生活があるわけなので、贅沢《ぜいたく》は言えません。
 樋口さんの言われるように、今の自分に与えられた機会を思う存分活用し、これからも自分を高めていく所存であります。そのためにも健康が大切なので、できるだけ運動はするようにしています。栄養にも気をつけることにします。
 ただ、私も毎日魚肉ハンバーグだけをむさぼり喰っているわけではありません。誤解なきよう願います。私は健康のためとなれば、アロエヨーグルトを丼いっぱい食べることさえ躊躇《ちゆうちよ》しない男です。
 お忙しいとは思いますが、樋口さんも健康に気をつけて。
[#地付き]敬具」
 うんうん呻吟《しんぎん》しながら、樋口景子さんへの手紙を書き上げた。
 多少美化したところはあるが、これはむしろ洒落《しやれ》た演出と言うべきであろう。心にもないことを書いている場合でも、書いている最中はなんだかそんなことをふだんから思っている気がする。手紙を書いている間はすっかり模範的学生となっているが、手紙を書き終わると、まるで夢を見たような気がして、模範的とはとうてい言いがたい獣道へ迷いこんでいる自分を再発見するのはやや苦痛である。「自分を高めていく所存」とは我ながらぬけぬけと書いたものだ。志ばかりあって、方途は闇の中にある。自分を高めるにはどうすればよいのだろう。高めなくてもかまわないところばかりに泥土を盛り上げている気分が振り払えない。
 書き上げた手紙を封筒にいれた後、私は樋口景子さんからの手紙を読み返した。
 彼女は梅雨が好きだという。雨に煙る紫陽花を見るのが好きだったという。『海底二万海里』で潜水艦に閉じこめられた哀れな銛打ちが可哀想だという。くれぐれも身体に気をつけてくれという、この私に!
 彼女はどんな女性であろう。
 一心に手紙を書くことで気を紛らわせるつもりが、かえって心が疼《うず》き始めたのは皮肉である。彼女の手紙を胸に抱いて溜息《ためいき》をついた。我ながら気色の悪い所業であり、そのあまりの気色悪さが私を現実に引き戻してくれた。
 夢中で先日コインランドリーで拾ったスポンジの熊をふにふにと揉んだ。その柔らかい手触りによって、心が安まった。見れば見るほど可愛いので、名前をつけてやろうと思った。五分ほど思案した後、そのたぐいまれな柔らかさにちなんで、「もちぐま」と名づけることにした。
       ○
 その夜、私が香織さんに対して不埒な振る舞いに及んでいないか検査すると失礼なことを言いながら、小津が訪ねてきた。
「おまえ、いつになったらこれを引き取ってくれるんだ」
「もうじき引き取りますってば」
 小津はニヤリとした。「そんなこと言って、本当は香織さんとの生活をエンジョイしてるのではないですか? こんな風に『海底二万海里』なんか読ませたりして」
「今すぐ黙れ。未来|永劫《えいごう》黙れ」
「それはお断りです。僕は無駄口がきけないと、淋《さび》しくて死ぬんです」
「死ねばいいのだ」
「ところがどっこい、僕は無駄口を叩いているかぎり、殺しても死なないのです」
 それから小津はひとしきり、強靭《きようじん》で想像を絶する細かな繊維の先ッぽがファンデルワールス力によって汚れ成分と分子結合を作るため、力を入れずに軽く触れるだけでいかなる汚れも取れるという幻の超高級亀の子|束子《だわし》の話をした。師匠に探してこいと言われたらしい。
「そんな阿呆なものが存在するはずがない」
「いや、あるんですってば。あなたが知らないのも無理ないです。あまりによく汚れが落ちるものだから、洗剤メーカーから圧力がかかって、大々的には売られていないんですからね。とにかく、あれをなんとか手に入れないことには……」
「おまえも阿呆なことに精神を磨り減らしているなあ」
「師匠はいろいろなものを欲しがるから大変なのですぞ。ちりめん山椒《ざんしよう》やら出町ふたばの豆餅《まめもち》ならまだ手を打てるけれども、骨董品《こつとうひん》の地球儀やら古本市の幟《のぼり》やら、タツノオトシゴや大王|烏賊《いか》まで欲しがるんですからねえ。そうしてヘタなものを持って行って御機嫌を損ねたら破門ですわ。気の安まる暇もないのです」
 小津は妙に楽しそうであった。
「そうそう、師匠がタツノオトシゴを欲しがったときにね、ゴミ捨て場で大きな水槽を見つけて、持っていったのです。試しに水を入れてみたら、途中で水が怒濤のように漏れだして大変な騒ぎになっちゃった。師匠の四畳半が水浸し」
「待てよ、おまえの師匠の部屋は何号室だ?」
「この真上です」
 私はふいに怒り心頭に発した。
 いつか、私の留守中に二階から水漏れがしたことがあった。帰ってきてみれば、したたり落ちた水が貴重な書籍類を猥褻非猥褻のへだてなくふやけさせていた。被害はそれだけにとどまらず、水に浸ったパソコンからは貴重なデータが猥褻非猥褻のへだてなく電子の藻屑《もくず》と消えた。この出来事が、私の学問的退廃に追い打ちをかけたことは言うまでもない。よっぽど抗議に行こうかと思ったが、私は正体不明の二階の住民とかかわり合いになる面倒を厭《いと》い、あのときはうやむやにしてしまった。
「あれはおまえの仕業か」
「猥褻図書館が水浸しになったぐらい大した被害じゃないでしょ」
 小津はぬけぬけと言うのであった。
「もう、とっとと出て行け。俺は忙しいんだ」
「出て行きますとも。今日は師匠のところで闇鍋《やみなべ》の会があるのです」
 小津は食材のつまったビニール袋を持っていた。
 出て行こうとした小津がふと、テレビの脇に置いてあるスポンジの熊に目をつけた。彼はそれを手に取って、ふにふにと柔らかさを確かめている。
「なぜあなたがこんなむやみに可愛いものを持っているんです?」
「拾ったんだ」
「これ、貰《もら》っていいですか?」
「なぜ?」
「ちょっと今夜の闇鍋に入れてやろうと思って」
「阿呆か。そんなもの、煮たって喰えない」
「おもちと間違えて喰うんじゃないかなあ」
「喰うかそんなもん」
「くれないと上でまた水を撒《ま》いてやるぞ。猥褻図書館をだいなしにします」
「分かったよ、分かったよ。持ってけ」
 私は音を上げた。数少ない心の安らぎを奪われるのは辛かったが、とにかく小津を追いだしたかったのである。
「へへへ。どうもありがとうございます。香織さんに悪戯《いたずら》しちゃだめですよ」
「うるさい、とっとと行け」
 小津が去ると、ドッと疲れてしまった。
 彼がもちぐまを喉に詰めて、味わい深い頓死《とんし》を遂げることを下鴨神社の神に祈った。
       ○
 翌日のことである。
 大学へ出かけて日がな一日、講義だ実験だと立ち回ったあげく、私は喫茶コレクションにて夕餉《ゆうげ》の明太子《めんたいこ》スパゲティを食した。それから今出川通へ出ると、夕日の中で盛り上がった新緑を黄金のように輝かせている吉田山を見上げた。
 ああ。
 私は、ふらふらと銀閣寺《ぎんかくじ》へ向かって今出川通を歩いた。
 魔がさすということは本当にある。
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