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森見登美彦 - 四叠半神话大系

_4 森見登美彦(日)
 橙色の明かりに照らされて、痩せて彫りの深い顔がいっそう深くなって、店主は威厳に満ち溢《あふ》れて見えた。私が気圧《けお》されて口もきけないでいると、やがて彼は店の奥に引っこんで、しばらくして小さな桐の箱を持ってきた。物も言わずに店主が蓋を開けてくれたのを覗くと、一見何の変哲もない亀の子束子が入っている。
「これですがね」
 店主はそう言って、箱を私に手渡した。
「おいくらになりますか?」
 私が言うと、店主はしげしげと私の顔を見つめた。そうして、
「そうですな。二万円ほど頂きましょうか」
 と言ってのけた。
 いくら特殊な棕櫚の繊維でできた幻の亀の子束子とは言え、二万円は法外である。亀の子束子に二万円支払うぐらいならば、私はむしろ栄光ある破門を選ぶであろう。
 私は今日のところは持ち合わせがないという言い訳をしてその場をしのぎ、帰る道々、本当に破門されてやるべきかと思った。
「先輩、どうするんですか? あれ買うんですか?」
 四条通を歩きながら、明石さんが言った。
「買うものか。束子に二万円なんて、いくらなんでも無茶だ。あれはきっと下鴨茶寮とかそういう立派なところで使うべきもので、ヘドロにまみれた四畳半下宿の流し台を洗うべきものではない」
「でも、師匠は買ってこいと言ったんでしょう?」
「いよいよ破門だ」
「まさか、あの師匠がそんなにやすやすと縁を切るわけがないでしょう」
「いや。君も弟子になったし。小津もいるし。そろそろ俺のような人間はお払い箱にするつもりなのかもしれん」
「弱気にならないで下さい。私からも師匠に頼んでみます」
「よろしく頼む」
       ○
 弟子になってこの方、樋口師匠がふっかけてきた無理難題をいくつもしのいできた。
 今にして思えば、なんであんなことをやって時間を潰《つぶ》していたのか分からない。師匠の難題たるや、ほとんど意味不明であった。
 京都には大学が多いので、学生の数も多い。我々も京都に住む学生として、京都に貢献すべきだと師匠は主張した。小津と私の二人で雨の日も風の日も、哲学の道の冷たい石のベンチに腰かけて、西田幾多郎《にしだきたろう》『善の研究』を読み耽《ふけ》り、「つまり知覚は一種の衝動的意志であり」云々とわけもわからず議論していたことがある。京都の観光資源たらんとしたのである。この上なく不毛であった。おまけに腹を壊した。体力と精神力の続くかぎり頑張って、第一編第三章「意志」の項に至る頃には真っ白に燃え尽きていた。当初知的であったはずの顔はすぐにゆるゆるに弛緩《しかん》して、「我々の有機体は元来生命保存のために種々の運動をなすように作られている」というあたり、小津が「生命保存のための運動……」と呟《つぶや》いて卑猥な笑みを浮かべ、むやみと興奮した。おそらくY染色体に由来する破廉恥な想像に眩惑《げんわく》されていたのであろう。日がな一日、哲学の道のような閑静な場所で分かりもしない哲学書を読まされたせいで、小津の暗い衝動は熟れた巨峰のごとくはち切れんばかりになっており、『善の研究』は「技巧的下ネタ大全」と化した。計画が頓挫《とんざ》したことは言うまでもない。もし第四編「宗教」まで進んでいたら、我々は世間に顔向けできないぐらい何もかも冒涜《ぼうとく》していたに違いない。我々の精神力と忍耐力と知力が及ばなかったことは、西田幾多郎の名誉のためにも幸いである。
 師匠がフェラーリのファンだったことから、F1レースでフェラーリが優勝したとき、あの跳ね馬のマークが入った二畳分はあろうかという赤い旗を抱えて、百万遍交差点を斜めに走り抜ける羽目になり、あやうく車にひかれそうになったこともある。私は小津にやらせるつもりだったが、その旗は小津がどこからともなく入手してきて師匠に捧げたものであったから圧倒的に私の分が悪く、しかも師匠を煽《あお》るだけ煽って小津はどこかへ逃げてしまった。結局、私が満天下にフェラーリの威光を振りまく羽目になった。車の運転手からは罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせかけられ、道行く人々からは侮蔑《ぶべつ》の視線を浴び、凄絶《せいぜつ》な思いをした。
       ○
 師匠は色々なものを欲しがった。偉大な人間は欲望もまた大きいと嘯《うそぶ》いていたが、結局のところ調達するのは私と小津の役目になる。
 師匠に貢いだものは、食べ物や煙草や酒にかぎらない。珈琲|挽《ひ》きやら扇子やら、商店街の福引きで当たったカールツァイスの単眼鏡までが含まれる。師匠が一年にわたって読み耽っている『海底二万海里』も、もとはと言えば私が下鴨神社の古本市で購入したものだ。そういう古典的な冒険小説は少し肌寒くなった秋の夜長に読み耽るべきであると考え、大切に取っておいたはずなのに、いつのまにか師匠の手に渡っていた。
 出町ふたばの豆餅《まめもち》やら聖護院《しようごいん》生八ツ橋やらウニせんやら西村《にしむら》の衛生ボーロならまだいいが、下鴨神社の古本市の幟《のぼり》やケロヨンが欲しいと言われたときには、ほとほと困惑した。仮面ライダーV3の等身大人形、畳一畳分のはんぺん、タツノオトシゴ、大王|烏賊《いか》と言われると、もはやお手上げであった。大王烏賊など、どこで拾って来いというのか。
 今から名古屋へ出かけて「味噌《みそ》カツの味噌だけ」を買ってこいと言われたこともあるが、小津が本当にその日のうちに名古屋へ赴《おもむ》いたのには脱帽した。ちなみに私も鹿せんべいを買うためだけに奈良へ行ったことがある。
 タツノオトシゴが欲しいと樋口師匠が言いだしたときは、小津が大きな水槽をどこからともなく拾ってきた。水を溜《た》めて砂利や水草を入れているうちに、唐突にじゃあーと不吉な音がして、ナイアガラ瀑布《ばくふ》のように水が溢れだした。水浸しになる四畳半を右往左往する小津と私を眺めながら師匠は笑っていた。やがて、「階下に水漏れしてるんじゃないか」とのんびり言った。
「そうか。ここはボロですからねえ」
 小津が額を叩いた。「下の人が怒鳴りこんできたら困りますな。どうしましょ」
「アッ、待て。ここの下は俺の部屋だッ」
 私が叫んだ。
「なんだ。じゃあいいや。もっと漏れろ」
 小津は平然としている。
 樋口師匠の部屋から漏れた水は、階下110号室の私の部屋まで染み通った。したたり落ちた水が貴重な書籍類を猥褻《わいせつ》非猥褻のへだてなくふやけさせた。被害はそれだけに留《とど》まらず、水に浸ったパソコンからは貴重なデータが猥褻非猥褻のへだてなく電子の藻屑《もくず》と消えた。この出来事が、私の学問的退廃に追い打ちをかけたことは言うまでもない。
 そのくせタツノオトシゴが手に入るより前に、樋口師匠は「大王烏賊が欲しい」と言いだし、小津の入手してきた水槽は修理されることもなく廊下に放置されて埃《ほこり》をかぶることになった。師匠は海の生物への思いを紛らわせるために、私の『海底二万海里』を召し上げて一年近く返さない。
 割りを食ったのは私だったということになる。
       ○
 そんな数々の愚行の中に、城ヶ崎氏との熾烈《しれつ》な「自虐的代理代理戦争」があった。
 師匠の命を受けた我々は、城ヶ崎氏の表札を書き換え、粗大ゴミの冷蔵庫をアパートのドアの前に据え、何通もの不幸の手紙を送りつけた。そのたびに城ヶ崎氏は樋口師匠に対して、サンダルを接着剤で床に貼《は》りつける、黒胡椒《くろこしよう》入り風船を仕かける、寿司《すし》二十人前を樋口師匠の名で注文するなどの報復に出た。ちなみに、寿司二十人前が届けられたとき、樋口師匠はいささかも動じることなくこれを受け取った。そして仲良しの留学生や私たちを交えて寿司パーティを開いた。その悠揚迫らぬ態度たるや文句のつけようもなかったが、その代金は私と小津が折半した。
 二年にわたる修行の末、私が一皮むけた立派な青年に成長したかと言えば、残念ながら残念でしたと言うほかない。
 ならばなぜそんな不毛な修行に明け暮れていたのかと言えば、ただ単に師匠の喜ぶ顔が見たかったからに他ならぬ。我々が無意味で阿呆なことをすれば、師匠は腹の底から喜んだ。我々が師匠の意に沿うようなさし入れを持って行けば、「貴君も分かってきたなあ」と満面の笑みで誉めてくれた。
 師匠は卑屈になることは決してなかった。あくまで傲然《ごうぜん》としていた。それでも笑うときには、まるで子どものように素直であった。笑顔だけで私と小津を自在に動かす師匠のたくみな技術を、羽貫さんは「樋口マジック」と呼んだのである。
       ○
 亀の子束子探索の翌日、大学生にとってはまだ夜と言っても過言ではない朝の七時に、喧《やかま》しくドアを叩く音で起こされた。何事かと跳ね起きてドアを開けると、ちぢれた髪をもしゃもしゃにして目をぎらぎらさせた樋口師匠が廊下に立っていた。
「何ですか、朝っぱらから」
 私が言うと、師匠は懐におさめた四角いものを抱きしめたまま、物も言わずに肌寒い廊下に立ち尽くしている。やがてぽろぽろと大粒の涙をこぼした。茄子のような顔をくしゃくしゃにして、口をへの字に曲げ、苛《いじ》められた子供のように目を手の甲で一生懸命|拭《ぬぐ》いながら泣いている。そうして「貴君、終わったよ、終わった」と呻《うめ》いた。
 私は思わず緊張し、「何が終わったんです」と詰め寄った。
「これだよ」
 先輩は大切そうに懐に抱えこんでいた物をだした。それはジュールヴェルヌの『海底二万海里』であった。
「一年にわたる旅が今朝終わった。あんまり感激したので、貴君に伝えようと思ったのだ。それに本も返さなくちゃならんし」
 ドッと身体の力が抜けるように思われたが、師匠が涙を拭いながら感激しているので、こちらも二万|哩《マイル》にも及ぶ壮大な旅が終わったことに感激しかけた。
 師匠は『海底二万海里』を私に返した。
「長いこと悪かったね、本当に。でも良い時間を過ごさせて貰《もら》った」
 師匠は言った。「それでね、何も喰わずにさっきまで読んでいて、腹が減ってるんだ。牛丼でも食べにいかないか」
 そうして我々はひんやりとした朝の空気の中を、百万遍の牛丼屋へ出かけた。
       ○
 牛丼屋にて朝食をとり、私が二人分の会計をすませているうちに、樋口師匠はすでに百万遍から鴨川へ向かって悠然と歩き始めていた。私が追いつくと、師匠は「いい天気じゃないか」と嬉しそうに言う。彼は無精髭の伸びた顎を撫でながら空を見上げた。かすかに靄《もや》のかかった五月の青空が広がっていた。
 我々は鴨川デルタまで来た。樋口師匠は松林を抜けてゆき、土手を下りてゆく。松林を抜けると一杯に空が広がって、そのまま身体が空へ吸いこまれそうだった。目の前には賀茂大橋が大きく横たわっていて、車や歩行者が眩《まぶ》しい朝の光の中を盛んに行き交っていた。
 まるで海を進む船の舳先《へさき》に立つようにして、樋口師匠はデルタの突端に立った。そうして葉巻を吹かした。右後ろからやってくる賀茂川と、左後ろからやってくる高野川が、目の前で混じり合って鴨川となり、どうどうと激しい勢いで南へ流れてゆく。数日前まで雨が降っていたので、水嵩《みずかさ》が増しているらしい。川べりに青々と繁っている藪が水に浸っていて、いつもよりも川幅が広かった。
 師匠は葉巻を吸いながら「どこか遠くへ行きたいな」と言った。
「珍しいですね」
 私の知るかぎり、師匠は半日以上四畳半を空けたことがないのである。
「前々から考えてはいたんだが、『海底二万海里』を読んで決心が固まった。そろそろ私も世界に乗りだす日が来たようだ」
「旅費はあるんですか?」
「そんなものはない」
 そう言って師匠はにこにこ笑いながら葉巻を吹かしている。
 それから思いだしたようにこう言った。
「そういえば先日、大学へ出かけたら、三回生頃まで時々飲んでたやつと顔を合わせてね、やあこんちはって挨拶《あいさつ》したのに、向こうがえらく気まずそうな顔をした。今おまえ何してるんだと聞かれたから、ドイツ語の再履修だと言ったら、そそくさとどこかへ行ってしまった」
「師匠と同回生だったら、もうその人は大学院の博士課程でしょう。そりゃ先輩に会えば、気まずい思いになります」
「なぜ向こうが恥ずかしがる。留年してるのは向こうじゃあるまいし……分からんなあ」
「そこが師匠の師匠たるゆえんです」
 師匠は得意そうな顔をした。
 一回生の頃のことだが、「貴君、留年とテレビゲームと麻雀《マージヤン》だけはしてはいけない。でないと学生生活を棒に振ることになる」と樋口師匠は私を諭した。私はその教えを忠実に守り、今のところ留年にもテレビゲームにも麻雀にも手を出していないが、それでも学生生活を棒に振りつつあるのはどうしたことか。一度師匠に問いただそうと思いつつ、なかなか切りだせなかった。
 我々は土手のベンチに腰かけた。日曜の朝なので、賀茂川の河原を散歩する人やジョギングする人が見えた。
「三条へ亀の子束子を探しに行ったついでに、占い師に見てもらったんです」
 私はぽつんと言った。
「まだ人生が始まってもいないくせに迷ってるのか」
 師匠は愉快そうな顔をした。「貴君、ここはまだ御母堂のお腹の延長だぞ」
「いくらなんでも残りの二年間、束子を探したり、自虐的代理代理戦争を戦ったり、束子を探したり、小津の猥談に耳を傾けたり、束子を探したりして、棒に振るわけにはいかんのです」
「亀の子束子のことなら、もういいぞ。心配しなくても破門にはしない」
 師匠は慰めるように言った。「貴君ならば大丈夫だ。これまで二年間よく頑張ってきたじゃないか。この先二年と言わず、三年でも四年でも、きっと立派に棒に振ることができるだろう。私が保証する」
「そんな保証はいりません」私は溜息《ためいき》をついた。「師匠や小津に会っていなければ、もっと有意義に暮らしていたに違いないんです。勉学に励んで、黒髪の乙女と付き合って、一点の曇りもない学生生活を思うさま満喫していたんです。そうだ。そうに決まってるぞ」
「どうしたんだね。寝惚《ねぼ》けているのか?」
「僕がいかに学生生活を無駄にしてきたか、気づいたのです。自分の可能性というものをもっとちゃんと考えるべきだった。僕は一回生の頃に選択を誤ったんです。次こそ好機を掴んで、別の人生へ脱出しなければ」
「好機って何かね?」
「コロッセオだそうです。占い師が言ってました」
「コロッセオ?」
「僕にも何やら分かりません」
 師匠は無精髭の生えた顎をがりがり掻《か》きながら私を見た。
 そういう鋭い顔をすると師匠は高貴な感じがする。下鴨幽水荘のごとき倒壊しかけた四畳半には似つかわしくないほどであり、どこか由緒ある家柄の若君が瀬戸内海を航海中に難破の憂き目にあい、流れ流れて辿《たど》り着いたのがこのムサクルシイ四畳半という孤島であったという風にしか思えないのだが、師匠はよれよれになった浴衣を捨てず、だし汁で煮こんだような畳を敷き詰めた四畳半に居座っていた。
「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」
 師匠は言った。
「君はバニーガールになれるか? パイロットになれるか? 大工になれるか? 七つの海を股《また》にかける海賊になれるか? ルーブル美術館の所蔵品を狙う世紀の大怪盗になれるか? スーパーコンピューターの開発者になれるか?」
「なれません」
 師匠は頷いて、珍しく私にも葉巻を勧めてくれた。私はありがたく押し頂き、葉巻に火をつけようとして手こずった。
「我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根元だ。今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。君がいわゆる薔薇色の学生生活を満喫できるわけがない。私が保証するからどっしりかまえておれ」
「ひどい言われようです」
「毅然とするんだ。小津を見ならえ」
「それだけはごめんだなあ」
「まあ、そう言うな。小津を見たまえ。あいつは確かに底抜けの阿呆ではあるが、腰が据わっている。腰の据わっていない秀才よりも、腰の座っている阿呆のほうが、結局は人生を有意義に過ごすものだよ」
「本当にそうでしょうか」
「うむ。……まあ、なにごとにも例外はあるさ」
 それから我々は黙々と葉巻を吹かし、松葉の合間から射す日の光を眺めていた。平均睡眠時間十時間を誇る私には、圧倒的に睡眠時間が足らず、日が射してあたりが温まってくると、眠気を催してきた。師匠は一睡もしていないので、こちらも眠そうである。へんてこりんな男が二人、鴨川デルタで夢うつつになっているのは、世間の人々の大切な休日の朝を台無しにする所業であろう。
 師匠があくびをした。私もあくびをした。二人でずっとあくびをしていた。
「帰りますか」
「そうだな」
 下鴨幽水荘への帰途、下鴨神社の参道を歩いた。
「貴君には腰を据えてもらわなくちゃいかん」
 師匠は独り言のように言った。「そうでないと、跡目を譲れないではないか」
「何の跡目です?」
 私は驚いて訊ねた。
 師匠はにこにこ笑いながら葉巻の煙を吹きだした。
       ○
 人生一寸先は闇である。我々はその底知れぬ闇の中から、自分の益となるものをあやまたずに掴みださねばならない。そういう哲学を実地で学ぶために、樋口師匠が「闇鍋《やみなべ》」を提案した。たとえ闇の中であっても鍋から的確に意中の具をつまみだせる技術は、生き馬の眼を抜くような現代社会を生き延びる際に必ずや役に立つであろうと言うのであるが、そんなわけあるか。
 その宵、樋口師匠の四畳半で催された闇鍋会に集ったのは、小津、羽貫さん、そして私であった。レポートの提出期限が迫っているということで、明石さんは来なかった。私だってきわめてややこしい実験のレポートを提出せねばならないと主張したが、その主張はやすやすと却下された。ひどい男女差別と言うほかない。「大丈夫ですよ。僕がちゃんと〈印刷所〉に手配してレポートを入手してあげますから」と小津は言ったが、そうやって〈印刷所〉から小津が調達してくる偽造レポートに頼ることが、私の学問的退廃を決定的なものにしたのである。
 食材は各自が持ち寄るけれども、煮るまで正体を明かさないのがルールであった。小津は「香織さん誘拐未遂」事件がそうとう腹に据えかねたらしく、「闇鍋なのだから何を入れてもよいわけですよ、皆さん」と嫌らしい笑みを浮かべ、アヤシゲな食材を買い入れてきた。他人の不幸で飯が三杯喰える小津のことだから、言語を絶するものを入れるのではないかと私は気が気でなかった。
 小津は野菜が大嫌いだが、わけても茸《きのこ》類については人間の食いものとして認めていないということを知っていたので、私は美味い茸類を豊富に持参した。羽貫さんも悪戯《いたずら》そうな顔をしている。
 相手の顔もよく見えない真っ暗な四畳半にて、鍋に第一陣の具材が入った。樋口師匠はすぐに「喰え喰え」と言った。
「まだ煮えてませんよ」と私が言った。
「いいかね、諸君。箸《はし》で触ったものは責任をもって喰うように」
 師匠が言い渡した。
 羽貫さんは麦酒《ビール》を飲んでいるらしかったが、「暗闇で飲むと麦酒っぽくない」とぶつぶつ言っていた。
「目に見えないとぜんぜん酔えそうもないわ」
       ○
 私が羽貫さんに初めて会ったのは一回生の夏頃で、樋口師匠から紹介された。それ以来、師匠の四畳半にて、たびたび会っている。
 彼女は美人であるが、戦国武将の妻のような顔をしている。いや、戦国武将そのものと言って差し支えない。それほど覇気|漲《みなぎ》る顔をしていた。世が世なら一国一城の主《あるじ》になるべき顔だと私はつねづね思っていた。その気になれば、私や小津など一刀両断にしかねない気魄《きはく》がある。好物は、エチルアルコールとカステラである。
 彼女は歯科衛生士として、御蔭橋《みかげばし》のそばにある窪塚《くぼづか》歯科医院に勤めていた。何度か誘われたが、私は無抵抗の状態で口の中にわけのわからない棒やパイプを突っこまれることを潔しとせず、しかも相手が羽貫さんでは、なぎなたで歯石を落とされて血まみれになるのではないかという妄想を捨てきれず、なかなか訪ねることができずにいた。
 これまで小津と何度か討議したことがあるが、羽貫さんはそこはかとなく師匠の恋人であるような気配がありながらも判然とせず、弟子というわけでもなく、もちろん妻というわけでもない。謎めいている。
 羽貫さんは樋口師匠と同い年であり、城ヶ崎氏とも古い付き合いである。しかも城ヶ崎氏は彼女が勤めている窪塚歯科医院で定期検診を受けている。したがって羽貫さんと城ヶ崎氏は年に数回顔を合わせるという。
 樋口師匠城ヶ崎氏羽貫さんの三人に、かつてどういういきさつがあったのかさだかではなかったが、おそらく師匠と城ヶ崎氏の「自虐的代理代理戦争」なる対立について羽貫さんは詳細を知っているに違いなかった。私と小津は羽貫さんが酔っぱらったところを見計らって聞きだそうと企てたことがあるが、返り討ちにあった。以来、彼女から何かを聞きだそうとしたことはなかった。
       ○
 見えないものを喰うというのは、思いのほか不気味なことである。しかも鍋を囲む四人の中には悪意の純粋結晶たる小津という怪人がいる。
 鍋が煮えてから我々は喰ったが、次から次へと現れる正体さだかでない食べ物、あるいは食べ物らしい何かに圧倒された。「何だかコレうにょうにょしてるわよッ」と羽貫さんが悲鳴を上げて放り投げたものが私の額に当たり、私はうぎゃッと呻いた。私はそのうにょうにょしたものを、小津がいるらしい方向へ投げ返した。向こうからも「うひょ」というくぐもった悲鳴が聞こえた。後に分かったことでは、それはちぢれ麺《めん》に過ぎなかったのだが、暗闇では何だか長細い虫のように思われたのである。
「なんですかこれは。エイリアンのへその緒ですか?」
 小津が言った。
「どうせおまえが入れたんだろう。おまえが喰え」
「いやです」
「諸君、食べ物を粗末にしてはいけない」
 樋口師匠が家長のように言い渡したので、我々はおとなしくなった。
 やがて椎茸《しいたけ》を掴んだらしい小津が、「なんだコレ菌のかたまりですよぅ」ときいきい言ったので私はほくそ笑んだ。私の方は、親指ほどの大きさの妖怪めいたものを引き上げて心臓が止まりかけたが、落ち着いて調べてみるとホタル烏賊だった。
 第三陣まで食べ進んだところで、妙に鍋の具が甘くなってきた。しかも何だか麦酒臭い匂いもする。
「おい小津、てめえ。あんこ入れやがったな」私は怒鳴った。
 小津は「いひひひ」と笑い声を立てた。「でも羽貫さんは麦酒を入れたでしょう」
「ばれた? でも味に深みが出るでしょ」
「もはや深過ぎて何が何だか分かりません」私は言った。
「深淵《しんえん》なる鍋だね」
「皆さん、念のため言っておきますが、マシュマロを入れたのは私ではありません」
 小津が静かに宣言した。マシュマロを掴んだらしい。
 私はあんこ味の海老《えび》を喰い、マシュマロまみれの白菜を喰った。隣に坐《すわ》っている樋口師匠の気配を窺《うかが》ってみると、彼は美味そうにはふはふ言いながら何でもかまわず喰っている。まさに師匠の面目躍如たるところがあった。
 私は「香織さん誘拐」が明石さんの主張によってお流れになった話をした。羽貫さんはけらけらと笑った。
「明石さんが正しい。誘拐はひどいわ」と彼女は言った。
 小津が憮然《ぶぜん》として反論した。「万全の準備をした僕の立場を考えて下さいな。それに城ヶ崎氏は師匠の浴衣を桃色に染めたんでっせ。まったくやることが卑劣です」
「だって、それは笑えるじゃないの。城ヶ崎君はやることが洒落てるわ」
 憮然とした小津は黙りこみ、闇と渾然《こんぜん》一体となった。ただでさえ黒々としている小津はもう何処にいるのか分からなかった。
「城ヶ崎君とも長いわねえ」
 羽貫さんはしみじみと言った。
「城ヶ崎君、サークルから追いだされたんでしょう。私はあれだってやり過ぎだと思うわ。あれも小津君の暴走?」
 羽貫さんは小津のいるあたりを睨《にら》んだらしいが、彼は闇に隠れたまま返事をしない。
「城ヶ崎だって、サークルにうつつを抜かしている場合じゃないだろう」
 師匠が言った。「もういい歳なのだからね」
「樋口君が言っても、ぜんぜん説得力がないわ」
 わけのわからないものを喰ったのでいっそう腹が膨らむのが早く、それから先はもうほとんど食べずに我々はあれこれ喋った。羽貫さんはぐいぐい酒を飲んでいるらしい。不機嫌になった小津がぜんぜん喋らないのが不気味であった。
「小津、なぜ黙っているのだ?」
 師匠が怪訝そうに言った。「本当にそこにいるのかね?」
 ぜんぜん小津が応じないので、羽貫さんが「小津君がいないなら、小津君の恋人の話をしよう」と言った。
「小津に恋人がいるんですか?」
 私が怒りに震えた。
「もう二年の付き合いなのよ。同じサークルの子で、それはもうお嬢様のように上品で可愛らしい女の子らしいわ。見たことないけど。一度彼女に振られかけたとき、小津君が私に電話で相談してきてね、夜通しめそめそ泣いて……」
 闇にひそんでいた小津が「嘘ですぞ嘘っぱちだ」とぎゃあぎゃあ喚《わめ》いた。
「やっぱりそこにいるじゃないか」師匠が嬉しそうに言った。
「どうなの、彼女とはうまくいってるの?」
「黙秘権を主張します」小津は暗闇の中で言い放った。
「どんな名前だったかなあ」
 羽貫さんは思案している。「たしか、こひ……」
 彼女はそこまで言いかけたが、小津が「黙秘権を主張します」「弁護士を呼べ」と連呼し始めたので、笑いながら止めてしまった。「てめえ、自分だけちんちんかもかもやりやがって」と私が怒りに任せて言うと、「何のことでしょう」と小津は白を切った。私が小津方面の闇を睨んでいると、隣に坐って一人がむしゃらに鍋をつついていた樋口師匠が「およ、これはとても大きいな」とくぐもった声を上げた。それから「なんだかふにふにしている」と怪訝な声をだし、とりあえず齧《かじ》ってみようと試みたらしい。
「これは食べ物じゃないようだ」
 師匠は静かに言った。「喰えない物を入れるのはルール違反であろう」
「明かりを点けますか?」
 私が立ち上がって蛍光灯を点けると、小津や羽貫さんが唖然《あぜん》とした顔をしていた。師匠の取り皿には、スポンジ製の可愛らしい熊のぬいぐるみがむっちりと尻を落ち着けている。しっとりと鍋の出汁《だし》に染まっていた。
「可愛らしいぬいぐるみね」
 羽貫さんが言った。
「誰かね、こんなものを入れたのは」師匠が訊ねた。「喰うに喰えないではないか」
 しかし、小津も私も羽貫さんにも心当たりはなかった。小津が嘘をついているように思えないのは、かくのごとき可愛らしいものを思いつく清らかさが彼にかけらもないことは明白だったからである。
「私がもらうわ」
 羽貫さんはそう言ってぬいぐるみを受けとり、水道で丁寧に洗った。
       ○
 羽貫さんは気持ちの良い人なのであるが、酒を呑《の》み過ぎるのが困る。だんだん顔が白っぽくなってきて、目が据わってきて、おもむろに人の顔を舐《な》め始める。私や小津を壁際に追いつめてあわよくば顔を舐めようとする羽貫さんから逃げ回っているうちに妙な興奮を覚えてくるが、紳士たるもの、女性に顔を舐められたからとて鼻の下を伸ばすわけにはいかない。しかし、樋口師匠は面白い一発芸でも見るような顔をしていた。羽貫さんは歯科医院の医師からもらったカステラを丸ごとやるから添い寝しろと、とんでもないわがままを言いだしたが、私は断固拒否した。
 やがて小津は小汚い顔をさらに小汚くして居眠りを始めた。羽貫さんもようやく落ち着いて、うつらうつらしている。
「私は旅に出るのだ」
 師匠は歌うように言った。本人はあまり酒を飲むわけではないのに、羽貫さんが酒をしこたま飲むと師匠も酔っぱらったようになるという不思議なメカニズムがあった。
「どこへ行くつもり?」
 羽貫さんが眠そうな顔を上げて言った。
「とりあえず世界一周してくるつもりだ。何年かかるか分からないがね。羽貫も一緒に行くかい? 君は英語が喋れるからな」
「無茶言わないでよ。馬鹿馬鹿しい」
「師匠、英語は?」私が訊ねた。
「私はむざむざ英語を学ぶことを潔しとしない」
「でも樋口君、あれはどうするのよ?」羽貫さんは言った。
「いや、ちゃんと手は打った。ということで、もう十二時過ぎである。ちょっと猫ラーメンを食べにいかなくてはならん」
「小津君、起こそうか?」
 羽貫さんが言うと、師匠は首を振った。
「小津は寝かせておこう。我々三人だけでいいだろう」
 師匠はにっこり笑った。「城ヶ崎に会うのだ」
       ○
 下鴨神社前の暗い御蔭通を、樋口師匠は悠々と歩いていく。夜中なのでひっそりとしており、糺の森が風にざわめき、下鴨本通を車が時折通るのみである。先に立つ師匠のあとを、私は黙ってついていく。羽貫さんはやや足取りがふわふわしていたが、酔いはさめてきたらしかった。
「なあ、貴君」
 師匠が茄子のような顔をしわしわにして笑った。
「私は貴君を代理人にするからね」
「何の代理人ですか」
 私は驚いて訊ねた。
「ふふ。ともかく覚悟しておけ」
「なぜ小津じゃないんです?」
「小津君はいいのだ。彼には別の役目がある」
 猫ラーメンは猫から出汁を取っているという噂であったが、その噂の真偽はともかくとして、味は無類である。闇鍋で喰わされたヘンテコなもので腹中は満ちていたものの、猫ラーメンの味を思いだすと一杯ぐらいは入りそうに思われた。
 寒々としたくらがりにぽつねんと屋台があって、電球の明かりがある。冷たい夜気の中を温かそうな湯気が漂っていた。師匠が楽しそうに鼻を鳴らして、くいっと顎をしゃくった。見てみると先客が一人だけいる。彼は床机に腰かけて店主と喋っていた。
 我々が近づいていくと、「よお」と店主が顔を上げた。続いて先客が身体を起こし、こちらへ顔を向けた。彫りの深い整った顔が、橙色の電球に照らされている。
「遅いぜ」
 城ヶ崎氏は言った。
「すまんな」
 樋口師匠は言った。
「城ヶ崎君、お久しぶり。具合はいかが?」
 羽貫さんが頭を下げた。
「おかげさまで健康そのものさ」
 城ヶ崎氏はニッと白い歯ならびを見せた。
 我々三人はならんで床机に腰かけた。私は何だか身の置き場に困惑し、一番隅でいじけていた。いったいこの集まりは何であろうか。そもそも樋口師匠と城ヶ崎氏が一緒にいるところを見たことがなかったので、ひょっとすると大事なのではないかと思われた。
 かくして、「樋口城ヶ崎和解会談」の幕が切って落とされたのである。
「まあ、もうそろそろ終わらせようかね」樋口師匠が言った。
「そうだな」城ヶ崎氏が頷いた。
 かくして、樋口城ヶ崎和解会談は終了した。
       ○
「今回は長引いたよな」
 猫ラーメン店主が言った。「五年か、もっとか」
「忘れたね」城ヶ崎氏が気のない様子で言った。
「五年ちょうどだろう。俺たちの前の代理人の和解会議が今ごろだった」
 樋口師匠が言った。
「そうかそうか。やっぱり五年か」
 店主は言った。「先代たちはどうしてる?」
「私の先代は長崎の裁判所に勤めているはずだ。故郷だからね」
「城ヶ崎の先代は?」
「どうしたかな。万事いい加減な人だったからどうなってるか分からない」城ヶ崎氏は言った。「あの人が大学辞めて以来、連絡取ってないよ」
「城ヶ崎君の先代はどっちかというと、樋口君に似てたわ。浮世離れしててね。なぜ城ヶ崎君の師匠だったのかしら?」
「知らないよ。成り行きだろ」城ヶ崎氏は苦笑した。
 店主がラーメンをならべてくれた。
 四人には謎めいた連帯感があり、私は蚊帳《かや》の外であった。そもそも猫ラーメンの店主が師匠たちとそこまで長く深い付き合いであることに私は驚いた。驚きつつ慎ましくラーメンをすすった。
「そいつかよ」城ヶ崎氏が私の方を見て言った。
「うん。彼が私の代理人だ」師匠が嬉しそうに私の肩を叩《たた》いた。「そっちの代理人は今夜は来ないのかね?」
「あのバカヤロウ、どうしても約束があるから来れないと言ってさ」
「ふうん」
 城ヶ崎氏は頬に笑みを浮かべた。
「あいつは筋金入りの曲者《くせもの》だぜ。でもちゃんと代理してくれるはずだ。そっちの代理人は覚悟しておいたほうがいい」
「それは楽しみだ」
「決闘の日にはきちんと連れていくさ」
 店主が湯気の向こうで苦笑する。「なんだ。やっぱりあの決闘をやるのか?」
「やるとも。賀茂大橋の決闘は儀式だからね」
 樋口師匠が言った。
       ○
 謎めいた会談は和やかに終了し、城ヶ崎氏は颯爽とバイクで去った。樋口師匠は「そろそろ小津を蹴りだして、安らかな眠りにつくとしよう」と言い、大きなあくびをした。
「師匠、僕は何が何やら分からんのですが」
 私は言った。「代理人とは何です?」
「また明日きちんと説明する。今日はもう眠いや」
 師匠は下鴨幽水荘へ戻っていった。
 私は川端通にあるマンションまで、羽貫さんを送っていく役目を仰せつかった。彼女は闇鍋から出てきた正体不明の熊のぬいぐるみをふわふわと弄《もてあそ》びながら、暗い夜道を歩いた。そんな乙女チックな所作に励んでいるためか、戦国武将のような覇気はなりをひそめ、やや寂しそうであり、むしろ悩める乙女のようであった。
 私は怪訝に思いつつ、彼女と一緒に静かな御蔭通を歩いていった。
「城ヶ崎さんは、何というか、クールですね」
 私が言うと、羽貫さんはふふんと笑った。
「本当は樋口君とあんまり変わらないけどね」
「そうですか? とても師匠と悪戯合戦をやる人のようには見えないですが」
「本当は嬉しいくせに、顔には出さない」
「信じられませんな」
「城ヶ崎君は昔から、樋口君のほかに友だちいないから」
 羽貫さんはそう言って口をつぐんだ。熊のぬいぐるみをむぎうと押し潰した。スポンジのぬいぐるみはひどく切なげな顔をした。
 やがて高野川に差しかかった。御蔭橋はこぢんまりとした丸っこい橋で、そこから東を見ると大文字山がある。盆には大文字を見る人だかりで御蔭橋は一杯になるという。ちなみに私は送り火をまだ見たことがない。
 羽貫さんは物静かである。嵐の前の静けさと言うべきか、私は不吉な予感を振り払えなかった。彼女に巣くう邪悪なものが遅ればせながら蠕動《ぜんどう》を始め、今まさに彼女の内部から噴出しようとしているのではないか。見れば彼女の横顔は思い詰めたように蒼《あお》く、唇は堅く結ばれて、心なしかかすかに震えているようでもある。命を賭《か》けた決心を今まさにしたところといった案配である。
「もしかして羽貫さん、気分が悪いのでは?」
 私がおそるおそる訊ねると、彼女はにやりと笑った。
「ばれた?」
 そう言ってから、彼女は急に御蔭橋の欄干に取りつくようにした。そうして、信じられないほどさりげない感じで美しくそろりと吐いた。先ほど食べたばかりの猫ラーメンがしめやかに高野川へと落ちてゆくのを、彼女は興味津々といった面持ちで見つめていた。
 そうやって気を許したすきに、彼女が手に持っていたぬいぐるみの熊が、哀れにも欄干からおむすびのようにころりんと転げ落ちた。「あ」と言って彼女が欄干から身を乗りだしたので、非力な私が全力を尽くして引き留めた。あやうく二人とも猫ラーメンとぬいぐるみの後を追うところであった。ぬいぐるみは、欄干から高野川の水面に落ちるまで、可憐にくるくるとまわりながら、持ち前の可愛さを存分に発揮し、最後のひと花を咲かせた。やがて、ぽちゃんと暗い水が跳ねる音がした。
「あああ。落っこちた」
 彼女は無念そうに言って、欄干に顎をのせた。「あいつはどこまで流れてゆくのか」と歌うように言った。
「鴨川デルタへ流れていって、鴨川に入って、淀川《よどがわ》に入って、大阪湾へ行くのです」
 私は噛《か》んで含めるように言った。
 羽貫さんは「ふん」と鼻を鳴らし、身体を起こした。「いいよ。どこへなりと行っちまえッ」と、妙に芝居がかった口調で言うと、彼女はペッと唾《つば》を飛ばした。
 哀れなのは熊のぬいぐるみであった。
       ○
 羽貫さんをマンションへ送り届け、下鴨幽水荘へ戻った。
 110号室の前にひどくけがらわしい不気味な獣が座りこんでいると思ったら小津であった。「とっとと下宿へ帰れ」と私は言ったが、小津は「そんなつれないこと言わないで」と言いながら私の部屋へ上がりこみ、四畳半の隅に死体のように横たわった。
「僕をのけ者にして、みんなどこ行ってたんですか?」
 彼は言った。
「猫ラーメンだ」
「ずるい。僕はさびしい。さびしくて消えちゃいそう」
「願ったりかなったりだ」
 しばらく小津は何か哀れげな声を出していたが、やがて飽きたらしく、寝た。できるだけ埃まみれの四畳半の隅に押しやろうとすると、「むむ」と抵抗した。
 布団にもぐりこんで、私は思案に耽った。
 成り行きで師匠の後継者に決められてしまったが、「自虐的代理代理戦争」とは何であるのか? 師匠や城ヶ崎氏の過去には何があったのか? 明日行われる賀茂大橋の決闘とは何か? 猫ラーメン店主は何の関係があるのか、それとも関係ないのか? 私は城ヶ崎氏が連れてくる後継者と、これから不毛な悪戯合戦を続けねばならぬのか? もう逃げられないのか? そもそも相手はどんな人物か? 弱者に鞭打ち、強者にへつらい、わがままであり、傲慢であり、怠惰であり、天の邪鬼であり、勉強をせず、誇りのかけらもなく、他人の不幸をおかずにして飯が三杯喰えるような男であったらどうするのだ?
 私は身を起こし、小津の寝息に耳を澄ませた。
 目を逸《そ》らしようもないほどに明白かつ最悪の予感が、苦い汁のように胸に広がり、それを打ち消そうとする努力も虚《むな》しかった。己の現状に不満を抱き、木屋町の占い師の判断まで仰いだというのに、いったいこのざまは何か。しかるべき好機を掴んで、新しい生活へ脱出すべきなのに、むしろ好機を掴むどころか、ますます引き返しようもない隘路《あいろ》へと自分を押しやっているのではないか。
 私の悶々《もんもん》を尻目に、小津は忌々《いまいま》しいほどあどけない寝顔をしていた。
       ○
 その翌日、私は寝惚けている小津を早々に廊下へ蹴《け》りだし、大学へ出かけた。
 しかし、夕刻に行われるという「賀茂大橋の決闘」のことを考えると落ち着いていられなかった。そそくさと学生実験を終わらせ、下鴨幽水荘へ帰った。樋口師匠の部屋を訪ねてみたが、ドアにぶらさがっている黒板に「銭湯中」と書いてあった。来るべき決闘に備えて、身を清めているのであろう。
 自室に戻り、珈琲がごぼりごぼりと沸く音を聞きながら、闇鍋後に羽貫さんから頂戴《ちようだい》したカステラを眺めた。羽貫さんも残酷なことをする。これだけのカステラを一人で喰うのはじつに味気ないし、人間として間違っている。誰か気持ちの良い人と一緒に優雅に紅茶でもすすりながら上品に食べたいものだ、たとえば明石さんとか、と考えた自分に驚いた。自虐的代理代理戦争という謎めいた争いの後継者に選ばれるという不運にあい、より不毛な未来へのとば口に否応なく立たされているというのに、かように不埒な妄想をほしいままにするとは、現実逃避もよいところだ。恥を知らねばならん。
 頭上では、部屋へ入りこんだ大きな蛾が蛍光灯のまわりをひらひら飛んでいる。明石さんは蛾が嫌いであったなと思い起こし、あの階段で二人一緒に転落した甘美な想い出に耽った私は阿呆である。私はカステラを果物ナイフで切り分け、一切れ二切れと頬張りながら唸った。不埒な妄想に駆られそうになる自分を抑えるべく、猥褻図書館に手を伸ばしたところで、ノックの音がした。
 ドアを開くと、廊下に立っていた明石さんが悲鳴を上げて後ずさった。私の顔が何か欲情に駆られた気味の悪い怪獣に見えたのかと思ったが、彼女は私の部屋を舞っている蛾が怖いのであった。おもむろに私は蛾を撃退し、紳士的に彼女を迎え入れた。
「樋口師匠から夕方に来るようにと電話があったのですが。お部屋にいらっしゃらないようです」
 彼女はそう言った。
 私は手短に、樋口師匠と城ヶ崎氏の和解会談について語った。
「なんだかレポートを書いているうちに大変なことになっていたのですね。これでは弟子失格です」
「気にすることはないよ。話が唐突だからな」
 私は珈琲を注いで、明石さんに渡した。
 彼女はひと口すすってから、「ちょっと持ってきたものがあるんですが」と言った。鞄から取りだしたものは、見覚えのある桐箱である。蓋を開いてみると、彼女とともに探索したあの幻の亀の子束子がちょこんと収まっていた。「これで師匠に破門されずにすむでしょう」と彼女は澄まして言うのであったが、その兄弟子への思いやりに私の涙腺は崩壊しかけた。
「すまん。すまんなあ」
 私は呻いた。
「いいんです」
 彼女は言った。
「とりあえず、カステラ食べる?」
 私はカステラを勧めた。彼女はひと切れ取って齧った。
「レポートで忙しかったんだろう。本当に悪いことをした」
「ええ。レポートは滑りこみでした」
「何のレポート? 君、工学部だったね?」
「私は工学部の建築科に在籍してます。レポートは建築史でした」
「建築史?」
「はい。ローマの建築について書いたんです。神殿とか、コロッセオとか」
 コロッセオ。
 とたん、ノックの音がした。
「おおい、貴君。決闘の時間だ」
 樋口師匠の声がした。
       ○
 湯上がりの師匠はつやつやとした顔をしていたが、無精髭は相変わらずであった。「小津と一緒に湯に浸かってきたのだ」と師匠は言った。
「小津はどうしたんですか?」
「あいつは城ヶ崎のところへ行った。小津は城ヶ崎の手下だったんだよ。面白いよなああいつは」
 師匠は懐手して、かかかと笑った。「私の浴衣を桃色に染めたのもあいつだ」
 むろん、読者諸氏はとっくにお分かりであったろう。
 前年の秋以来、サークルから失脚して孤独をかこつ城ヶ崎氏のもとへ小津は足繁く通い、愚痴を聞いてやり、彼を追いだした卑劣漢をともに糾弾した。むろん、卑劣漢を陰で扇動していた極めつけの悪党が小津自身であったことはすでに述べた。そうして小津は城ヶ崎氏の心へ悪魔のごとく滑りこみ、腹心の地位を確立した。連日二人でとぐろを巻き続けて意気投合、小津が樋口師匠の弟子であることを知った城ヶ崎氏は「いっそ俺のスパイにならないか」と話を持ちかけ、小津はあたかも悪徳商人のような笑みを浮かべて「城ヶ崎先輩もワルですのぅ」と承諾した。
 小津の意味不明の暗躍によって、世にも不毛な図式は整った。
 小津は樋口師匠の命を受けて城ヶ崎氏の郵便ポストに十数種の昆虫を仕かける一方、城ヶ崎氏の命を受けて樋口師匠の浴衣を桃色に染めるという奇怪な行ったり来たりを繰り返し、八面六臂《はちめんろつぴ》の大活躍、呆《あき》れた二重スパイぶりをほしいままにした。よく考えてみるまでもなく、忙しく動いているのは小津ばかりだ。それだけ危うい超絶技巧へ精力を傾けながら、いったい彼は何がしたかったのか。解きがたい謎であるが、強いて解く必要もない。
「小津が城ヶ崎のスパイだというのは気づいていた。でも面白いから放っておいた」
 樋口師匠は言った。
「ようするに、全部あいつの仕組んだことだったわけでしょう」
 私は言った。「師匠も城ヶ崎さんもあいつの掌《てのひら》で踊ってたことになりますよ」
「小津さんにも感心しますね」明石さんが言った。
「そうだな」
 師匠は腹を立てる様子もない。
「あいつは底抜けの阿呆だからね。自虐的代理代理戦争史上、前代未聞の出来事ではあるだろう。あいつは歴史に名を残す」
 樋口師匠は「おや、カステラが」と言い、私が勧めるまでもなく喰った。それから意気揚々と「さあ、今宵は賀茂大橋の決闘だ」と言った。
「師匠、ちょっと待って下さい」
 私が慌てると、師匠は頷いた。
「貴君も事情を知りたいだろう。だから自虐的代理代理戦争について説明すべきであろうと思う」
       ○
 自虐的代理代理戦争とは何か。
 この不毛かつ高貴な戦いは太平洋戦争前にまで遡《さかのぼ》る。
 ことの発端は高等学校の学生同士の恋の鞘当《さやあ》てとも言われているし、濁酒《にごりざけ》の飲み比べだったとも言われているが、詳しいことはすでに歴史の闇に没している。
 発端となった争いは長く尾を引いた。彼らは在学中、ずっと戦い続けた。あまりにも戦いが長引いたために、彼らが卒業する頃になっても、まだ決着がつかなかった。今となっては名前も伝わっていない歴史上の男たちは、ついに在学中に決着をつけることを諦めた。ならば仲直りすればよいだけの話だが、意地っ張りな彼らは仲直りを拒んだ。また彼らは疲れていたので、争い続けることも拒んだ。さらに彼らは誇り高かったので、ことがうやむやになることも拒んだ。苦し紛れに案出されたのが、彼らの個人的な争いを無関係な後輩に代理させるという前代未聞の奇手である。
 以来、大学史の裏を脈々と流れるこの戦いの歴史が始まった。
 当時の争いがどういった形で行われていたのか、記録は残っていないが、当時からすでに不毛な悪戯に徹すべしという不文律が確立されていたことだけはたしかである。代理させられた後輩たちには、個人的|怨恨《えんこん》はない。ただ「争わねばならぬ」という形式だけが与えられていた。彼らは争い続け、強いて決着をつけなかった。決着をつけてよいものかどうか、分からなかったのだ。彼らは彼らの先輩がしたように、自分たちの戦いをさらなる代理人へ引き継がせた。結論の先送りである。
 やがて起こる太平洋戦争、敗戦、戦後の復興、学園紛争など、あらゆる社会の動向とはまったく無関係に、この戦いは連綿と受け継がれた。発端となった争いの理由は忘れ去られ、形式だけが残り、反復される形式は、やがて伝統となって、代理人たちの行動を規定した。
 八〇年代後半から、猫ラーメンの屋台が和解および引き継ぎに関する打ち合わせの場と定められた。先任者は賀茂大橋で締めくくりの決闘を行い、引き継ぎを完全に終了する。新たに代理人となった者は、出来得るかぎりその戦いを長引かせ、見こみのある代理人を選んで、この伝統ある戦いを引き継がせなければならない。
 その日より、小津は城ヶ崎氏の代理人となり、私は樋口師匠の代理人となった。
 たがいを不毛にいぢめあう争いを「代理する」という意味から、いつしかこの争いは「自虐的代理代理戦争」と呼ばれるようになった。正確には「自虐的代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理代理戦争」であり、我々は三十人目の代理人となる。
 樋口師匠と城ヶ崎氏は二十九人目の代理人に過ぎない。二人の過去に恐るべき確執などは存在しないのである。伝統を断ち切ることは誰もが嫌がり、また戦いの終わらせ方を誰も知らないというだけのことである。
 すなわち、この争いに「理由」はないのだ。
       ○
「本当のことですか?」
「君が代理してくれないと、私と城ヶ崎の和解が成立しない。小津はあんなひねくれ者だから、貴君もやりがいがあるだろう」
「冗談じゃない」
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