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森見登美彦 - 四叠半神话大系

_3 森見登美彦(日)
「あいつのことは気にするな。阿呆がうつる」
 ふむふむと明石さんは頷いた。
「先輩はもはや手遅れですね。私の見るかぎり、だいぶ感染しております」
 私はしばらく憮然《ぶぜん》としてから「思いだした」と言った。
「何をですか?」
「そういえばあれを渡すと約束したな」
 私はサークルを自主追放になる直前に作った映画の話をした。小津が平家物語を暗唱しているという我ながら意味不明の映画である。
「それです」彼女は嬉しそうに言った。
 我々は翌週に会談を行い、くだんの映画の受け渡しを行うことで意見の一致をみた。会談は百万遍南西の「まどい」にて行い、あくまでついでながら夕食を一緒にとることにした。
 あの映画の出来具合については賛否両論あろうし、むしろ私は否定派なのだが、少なくとも明石さんは満足した。
       ○
 私と明石さんの関係がその後いかなる展開を見せたか、それはこの稿の主旨から逸脱する。したがって、そのうれしはずかしな妙味を逐一書くことはさし控えたい。読者もそんな唾棄すべきものを読んで、貴重な時間を溝《どぶ》に捨てたくはないだろう。
 成就した恋ほど語るに値しないものはない。
       ○
 今や多少の新展開が私の学生生活に見られたからと言って、私が過去を天真爛漫《てんしんらんまん》に肯定していると思われては心外である。私はそう易々と過去のあやまちを肯定するような男ではない。確かに、大いなる愛情をもって自分を抱きしめてやろうと思ったこともあったが、うら若き乙女ならばともかく、二十歳過ぎたむさ苦しい男を誰が抱きしめてやりたいものか。そういったやむにやまれぬ怒りに駆られて、私は過去の自分を救済することを断固拒否した。
 あの運命の時計台前で、映画サークル「みそぎ」を選んだことへの後悔の念は振り払えない。もしあのとき、ほかの道を選んでいればと考える。あの奇想天外な弟子募集に応じていたら、あるいはソフトボールサークル「ほんわか」を選んでいれば、あるいは秘密機関〈福猫飯店〉に入っていたら、私はもっと別の二年間を送っていただろう。少なくとも今ほどねじくれていなかったのは明らかである。幻の至宝と言われる「薔薇色のキャンパスライフ」をこの手に握っていたかもしれない。いくら目を逸《そ》らそうとて、あらゆる間違いを積み重ねて、二年間を棒に振ったという事実を否定することはできまい。
 なにより、小津と出会ってしまったという汚点は生涯残り続けることであろう。
       ○
 小津は大学のそばにある病院にしばらく入院していた。
 彼が真っ白なベッドに縛りつけられているのは、なかなか痛快な見物であった。もともと顔色が悪いので、まるで不治の病にかかっているように見えるのだが、その実は単なる骨折である。骨折だけで済んだのが幸いと言うべきだろう。彼が三度の飯よりも好きな悪行に手を染めることもできずにぶうぶう言っている傍らで、私はざまあみろと思ったのであるが、あまりぶうぶううるさいときには見舞いのカステラを口に詰めこんで黙らせた。
 それにしても、私と明石さんを引き合わせるだけのために、師匠を巻きこんでまで阿呆な計画を練り、さらには賀茂大橋から何の意味もなく落下して骨を折るとは、想像を絶する物好きぶりと言うほかない。小津の人生の味わい方たるや、我々には理解不可能である。そして、理解する必要もない。
「これに懲りて、人にいらんちょっかいをだすのはやめるんだな」
 私がカステラを頬張りながら言うと、小津は首を振った。
「お断りです。それ以外に僕がすべきことなんか何もないですからな」
 どこまでも性根の腐ったやつ。
 いたいけな私をもてあそんで何が楽しいのかと詰問した。
       ○
 小津は例の妖怪めいた笑みを浮かべて、へらへらと笑った。
「僕なりの愛ですわい」
「そんな汚いもん、いらんわい」
 私は答えた。
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  第二話 四畳半自虐的代理代理戦争
 大学三回生の春までの二年間、実益のあることなど何一つしていないことを断言しておこう。異性との健全な交際、学問への精進、肉体の鍛錬など、社会的有為の人材となるための布石の数々をことごとくはずし、異性からの孤立、学問の放棄、肉体の衰弱化などの打たんでも良い布石を狙い澄まして打ちまくってきたのは、なにゆえであるか。
 責任者に問いただす必要がある。責任者はどこか。
 私とて誕生以来こんな有様だったわけではない。
 生後間もない頃の私は純粋|無垢《むく》の権化であり、光源氏の赤子時代もかくやと思われる愛らしさ、邪念のかけらもないその笑顔は郷里の山野を愛の光で満たしたと言われる。それが今はどうであろう。鏡を眺めるたびに怒りに駆られる。なにゆえおまえはそんなことになってしまったのだ。これが現時点におけるおまえの総決算だというのか。
 まだ若いのだからと言う人もあろう。人間はいくらでも変わることができると。
 そんな馬鹿なことがあるものか。
 三つ子の魂百までと言うのに、当年とって二十と一つ、やがてこの世に生をうけて四半世紀になんなんとする立派な青年が、いまさら己の人格を変貌《へんぼう》させようとむくつけき努力を重ねたところで何となろう。すでにこちこちになって虚空に屹立《きつりつ》している人格を無理にねじ曲げようとすれば、ぽっきり折れるのが関の山だ。
 今ここにある己を引きずって、生涯をまっとうせねばならぬ。その事実に目をつぶってはならぬ。
 私は断固として目をつぶらぬ所存である。
 でも、いささか、見るに堪えない。
       ○
 この手記の主な登場人物は私である。第二の主役として、樋口師匠がいる。この二人の高貴な男に挟まれて、矮小《わいしよう》な魂を持った脇役たる小津がいる。
 まず私についてだが、誇り高き三回生であるということをのぞけば、さして述べることはない。しかし読者の便宜を図るために、私という男の風貌について述べる。
 京都の街中、たとえば河原町三条から西へ、アーケードをふわふわ歩いているとしよう。春の週末であるから人出も多くて賑《にぎ》やかである。土産物屋や喫茶リプトンを眺めながら歩いて行くと、ハッと目を惹《ひ》くような黒髪の乙女がこちらへ歩いて来る。まるで彼女のまわりの空間だけが輝いているかのごとく見えるだろう。彼女は涼しげな美しい瞳《ひとみ》で、傍らを歩む男性を見上げている。その男性の年頃は二十歳過ぎであろう、目は澄み、眉毛《まゆげ》がすっきりと濃く、頬にはすがすがしい微笑を浮かべている。四方八方どれだけアクロバティックな角度から見ても阿呆面《あほづら》に見えないという非の打ち所のない知的な顔をしている。背は百八十センチほどあり、骨格はがっしりしているが、決して剥《む》き出しの野性味を発散してはいない。ゆったりと歩いているように見えて、足取りには力がある。すべてに品が良く、心地よい緊張感がある。自己を律している男とは、まさに彼のことだ。
 素直に、その男が私であると考えていただきたい。
 これはあくまで読者の便宜を図ってのことだから、決して自分を現実以上に美しく飾ろうとか、女子高生にきゃあきゃあ言われたいとか、総代になって学長から直々に卒業証書を受け取りたいとか、そういう不埒《ふらち》なことは露ほども考えていない。したがって読者は、私が今的確に描写した男を、素直に私の姿として脳裏に焼きつけ、そのイメージを守り通していただきたい。
 たしかに私の傍らに黒髪の乙女はいない。ほかにもいくつか相違点があるかもしれない。
 しかし、それらは些細《ささい》な問題だ。大切なのは心である。
       ○
 続いて、樋口師匠について述べる。
 私は下鴨泉川町にある「下鴨幽水荘」という九龍城のような下宿の110号室に棲《す》んでいるのだが、彼はその階上の210号室に居を構えている。
 三回生の五月末に唐突な別れが訪れるまでの丸二年間、私は彼に師事した。学問そっちのけで修行に励んだ結果、およそ役に立たないことばかり学び、人間として高めるべきでないところばかり高め、高めるべきところはむしろ低まって見えなくなってしまった。
 樋口師匠は八回生であるというのがもっぱらの噂であった。長生きした動物がある神秘的気配を身につけるように、長く大学で過ごした学生もまた神秘的気配を身につける。
 彼は茄子《なす》のような顔にいつも暢気《のんき》な微笑を浮かべ、どことなく高貴であった。しかし顎《あご》は無精|髭《ひげ》が生えていた。いつでも同じ紺色の浴衣《ゆかた》を着て、冬はその上から古いジャンパーを着る。その恰好《かつこう》のまま、洒落《しやれ》たカフェで悠々とカプチーノを飲む。扇風機すら持っていないが、夏の暑い日にタダで涼める場所を百ヶ所は知っているだろう。髪の毛は奇想天外としか言いようがない癖毛であり、台風が先輩の頭にだけ上陸したように見える。葉巻をぷかぷか吸う。時々思いだしたように大学へ行くが、いまさらどれだけ単位を取っても手遅れであろう。中国語など単語一つも知らないはずだが、同じ下宿に住んでいる中国からの留学生と仲が良い。一度、留学生の女性に髪を切ってもらっているところへ出くわした。私が貸したジュールヴェルヌの『海底二万海里』を読み始めたが、一年近く経っても悠々と読んでいて返してくれない。部屋には私から取り上げた地球儀が飾ってあり、可愛いまち針が刺してある。それが潜水艦ノーチラス号の現在位置を示しているということを知ったのは後のことだ。
 先輩は何らかの行動に出るでもなく、ただひたすら堂々と暮らすことだけに専念していた。それは恐るべき克己心によって維持されている紳士的態度、もしくは阿呆の骨頂であった。
       ○
 最後に小津について述べる。
 彼は私と同学年である。工学部で電気電子工学科に所属するにもかかわらず、電気も電子も工学も嫌いである。一回生が終わった時点での取得単位および成績は恐るべき低空飛行であり、果たして大学に在籍している意味があるのかと危ぶまれた。しかし本人はどこ吹く風であった。
 野菜嫌いで即席ものばかり食べているから、なんだか月の裏側から来た人のような顔色をしていて甚《はなは》だ不気味だ。夜道で出会えば、十人中八人が妖怪《ようかい》と間違う。残りの二人は妖怪である。弱者に鞭《むち》打ち、強者にへつらい、わがままであり、傲慢《ごうまん》であり、怠惰であり、天《あま》の邪鬼《じやく》であり、勉強をせず、誇りのかけらもなく、他人の不幸をおかずにして飯が三杯|喰《く》える。およそ誉《ほ》めるべきところが一つもない。もし彼と出会わなければ、きっと私の魂はもっと清らかであっただろう。
 それを思うにつけ、一回生の春、樋口師匠に弟子入りしたことがそもそもの間違いであったと言わざるを得ない。
       ○
 当時、私はぴかぴかの一回生であった。すっかり花の散りきった桜の葉が青々として、すがすがしかったことを思いだす。
 新入生が大学構内を歩いていればとかくビラを押しつけられるもので、私は個人の情報処理能力を遥《はる》かに凌駕《りようが》するビラを抱えて途方に暮れていた。その内容は様々であったが、私が興味を惹かれたのは次の四つであった。映画サークル「みそぎ」、「弟子求ム」という奇想天外なビラ、ソフトボールサークル「ほんわか」、そして秘密機関〈福猫飯店〉である。おのおの胡散臭《うさんくさ》さには濃淡があるものの、どれもが未知の大学生活への扉であり、私は好奇心でいっぱいになった。どれを選んでもとりあえず面白い未来が開かれると考えていたのは、手の施しようのない阿呆だったからである。
 講義が終わってから、私は大学の時計台へ足を向けた。色々なサークルが新歓説明会の待ち合わせ場所にしているからである。
 時計台の周辺は湧き上がる希望に頬を染めた新入生たちと、それを餌食《えじき》にしようと手ぐすねひいているサークルの勧誘員たちで賑わっていた。幻の至宝と言われる「薔薇色《ばらいろ》のキャンパスライフ」への入り口が、今ここに無数に開かれているように思われ、私は半ば朦朧《もうろう》としながら歩いていた。
 まず私が見つけたのは、映画サークル「みそぎ」の看板を持っている学生数人であった。新入生歓迎の上映会が行われるので、そこまで案内するらしい。しかし何となく声をかける踏ん切りがつかず、私は時計台前を廻《まわ》っていった。歩きながら、手持ちのビラの一枚をじっくり読んだ。
 まずひときわ大きな字で「弟子求ム」と書いてある。
「その千里眼は祇園《ぎおん》の雑踏から意中の乙女を見つけ、その地獄耳は疏水《そすい》へ桜花の降り散る音も逃さず。洛中《らくちゆう》にあまねく神出鬼没、天地間を自在に往還す。神州におよそ知らざる者なく、恐れざる者なく、従わざる者なし。彼こそは樋口清太郎。来たれ、仙才を秘めたる若人よ。四月三十日、時計台前にて集合。電話番号なし」
 世の中に胡散臭いビラは数あれど、これほど胡散臭いビラはまたとなかろう。しかしこういった不可思議な世界へ敢《あ》えて飛びこんで心胆を練り、来るべき栄光の未来への布石を打つのも悪くないと私は考えた。向上心を持つのは悪くないことだが、目指す方角をあやまると大変なことになる。
 私がそのビラをしげしげと読んでいると、「貴君」と声をかけられた。振り返ると、背後に怪しい人物が立っている。大学構内だというのに紺色の古びた浴衣を着て、葉巻の煙をふわふわ上げ、茄子のような長い顔には無精髭を散らしている。学生なのか学生でないのか判然としない。天賦《てんぷ》の胡散臭さを惜しみなく発揮する一方で、どことなく高貴な感じもして、にっこり笑う顔はむしろ可愛かった。
 それが樋口師匠であった。
「そのビラを読んだかい? 私は弟子を求めている」
「何の弟子ですか?」
「まあまあ。そう性急に本題に入るものではない。これは君の兄弟子だ」
 師匠の傍らに、ひどく縁起の悪そうな顔をした不気味な男が立っていた。繊細な私だけが見ることができる地獄からの使者かと思った。
「小津といいます。よろしく」と彼は言った。
「兄弟子と言っても、十五分早いだけだが」
 樋口師匠はそう言ってからからと笑った。
 そのまま百万遍にある飲み屋へ連れて行かれることになったが、私が師匠に奢《おご》ってもらったのは、後にも先にもあの一度きりである。酒を飲み慣れていなかった私は大いに羽目をはずし、樋口師匠も自分と同じ下鴨幽水荘に住んでいることを知って意気投合した。そのまま師匠の四畳半へ転がりこみ、後は小津と師匠と三人で何かわけのわからない議論に花を咲かせていた。
 はじめのうちは枕元に佇《たたず》む死神のように言葉少なだった小津が、しきりと乳談義を始めた。我々が目にしているのは本物の乳か贋物《にせもの》の乳かという奥深い議論が交わされ、量子力学などが持ちだされた挙げ句、「存在するか否かが問題ではない。信じるか信じないかだ」と樋口師匠が深遠な言葉を述べた後、私は意識を失った。
 かくして私は樋口師匠の弟子になり、小津と出会った。
 私が何の弟子になったのか。それが二年経っても明らかにならなかったことは言うまでもない。
       ○
 樋口師匠という一筋縄ではいかぬ人物と付き合うにあたって、忍耐とか謙虚な気持ちとか礼節とかそういった何らかの高度な工夫が必要だと考えたら、大間違いのこんこんちきである。そんな結構なものをこれみよがしに携えて彼と向かい合っても、嘆かわしいぐらい双方に得るものがない。師匠と付き合ってゆくために第一に欠くことのできぬものは「貢ぎ物」である。ようするに、食べものと嗜好品《しこうひん》である。
 近年、師匠のところへ出入りしていたのは、私と小津、明石さん、あとは歯科衛生士をしている羽貫さんだけであったが、師匠は我々が持ってゆく「貢ぎ物」によって食生活の九割を補っていた節がある。残りの一割は霞《かすみ》を食っていたのであろう。
 我々が一斉に師匠と縁を切れば、彼はどうするであろう。「食べ物がなくなったら何らかの行動を起こすだろう」というのは素人考えである。食べ物がなくなってもなお、決して行動を起こさずに堂々と構えているという態度こそ、師匠が厳しい自己鍛錬の末に手に入れた無敵の境地だからである。食べ物がなくなってあたふたするようであれば、この不景気かつ単位不足の昨今、もうとっくにあたふたしているに違いない。師匠はその程度では動じない。自分から食を得るために動き回るぐらいならば餓死も辞さないだろう、と我々に思わせるところに、師匠の卓越した技があった。
 もっとも、我々が食べ物を届けなくても、師匠は決して腹を減らしたりはしないのではないかと妄想することがあった。紫煙をくゆらせているだけでかぎりなく飢餓を遅延させ、餓死することさえ忘れるほどの仙才がありそうだった。このような境地に到達した学生は少ない。
 樋口師匠に怖いものなどあったのかどうか、ちょっと想像がつかない。しかし一度だけ、樋口師匠が「怖い」と言ったことがある。
 師匠は私から借りた本を返さないのみならず、図書館から借りた本も返さない。私が「半年も期限を過ぎてる」と言うと、師匠は「そうだよ。だから私は〈図書館警察〉が怖い」と言った。
「図書館警察なんてあるのか?」
 私は小津に尋ねた。
「それがあるのです」小津は恐ろしそうな顔をして言った。「期限の切れた図書をいかなる非人道的手段に訴えてでも強制的に回収する組織があるのです」
「嘘つけ」
「嘘です」
       ○
 京都市|左京《さきよう》区|吉田《よしだ》神社の参道で、午前零時の密会。
 吉田神社といえば、合格祈願すれば必ずや落ちるといわれるほどに霊験あらたかな神社である。毎年多くの高校生大学生が合格祈願しては浪人留年の憂き目にあい、およそ琵琶湖半杯分の苦い涙を流してきたという。私は吉田神社を敬して遠ざけてきたが、それだけ用心しても、まるで指の間を砂が流れ落ちるように単位は逃げていった。吉田神社の霊験おそるべしと言えよう。
 単位不足の昨今、私は吉田神社には一歩も足を踏み入れたくない。しかしあれこれと事情が重なって、吉田神社の参道で深夜の密会を行わねばならぬ羽目になった。
 大学に入って二年が過ぎた、五月の終わりのことである。
 日中は暑いけれども夜になれば夜気が冷たい。大学の時計台が闇の中で輝いているだけで、薄暗い近衛通にはほとんど人影がない。ときおり深海生物を思わせる夜行性の学生が通り過ぎるぐらいである。
 これが、初々しい黒髪の乙女との深夜の甘い逢瀬《おうせ》であれば、吉田神社の参道でぽつねんと一人、相手を待つのもやぶさかではない。そうやって待つ中にもうれしはずかしの深い妙味があるだろう。しかし、今宵《こよい》ここへ現れるのは小津である。けがらわしいY染色体をもつ腹黒妖怪である。いっそのこと、このまま約束を破って帰ってしまおうかと思ったが、そうなると樋口師匠に対して立つ瀬がなくなる。やむを得ず私は待った。小津はサークルの相島という先輩から車を借りてくると言っていた。誰に迷惑をかけるわけでもない自己完結的な事故を起こして彼がささやかな肉片となることを想像して時間をつぶした。
 やがて小さな丸っこい車が東一条通を進んできて、大学の正門わきに止まった。中から黒々とした人影が降り立ち、こちらへ歩んでくる。不幸なことに小津である。
「おこんばんは。待ちました?」
 彼は嬉《うれ》しそうに言った。
 まるでそこの角を曲がった地獄の一丁目からやって来たというような、いつにも増して深みのある顔をしているのは、おそらく今夜の計画が楽しみで楽しみで仕方がないからに違いない。他人の不幸をおかずにして飯が三杯|喰《く》えるという男である。今宵の外道極まる破廉恥作戦は、すべて彼の腹から出て来たのであり、私の発案ではないということに留意されよ。私は彼とは正反対の人間である。聖人である。君子である。私は師匠のために、しぶしぶ、やむなく参加したのである。
 我々は車に乗りこみ、そこから南側に広がる入り組んだ住宅街へ入っていった。車を走らせながら、小津はうきうきとしていた。
「いやあ。なかなか明石さんがうんと言ってくれなくて困っちゃいました。あの子も意外なところで情けの出ちゃう子ですねえ」
「まともな人間なら、こんな計画に荷担したくはない。俺だってごめんだ」
「またまた。本当は楽しみなくせに」
「楽しみなものか。師匠の命令だから仕方なく行くんだ。それを忘れるな」
 私は言い返した。「おまえ分かっているか、これは犯罪だぞ」
「そうかしら」そう言って小津は首をかしげたが、可愛らしいのが不気味である。
「立派な犯罪だ。不法侵入、窃盗、誘拐……」私は数え上げた。
「誘拐というのは人間相手の場合でしょう。我々が攫《さら》うのはラブドールですから」
「はっきり言うんじゃない。もっとオブラートにくるんで喋《しやべ》りたまえ」
「あなたはそんなこと言ってますけどね、おそらくどんなものなのか見てみたいと思ってるに違いない。長年のつき合いなんだから僕には分かります。見るだけじゃなくて触ってみたいとか思ってるんだろう。まったく手のつけられないエロですな」
 そう言って、小津は弁護の余地のない卑猥《ひわい》な顔をした。
「分かった。もう俺は帰る」
 私がシートベルトをはずしてドアを開けようとすると、小津は「まあまあ」と猫撫《ねこな》で声で言った。「僕が悪うございましたよ。ね。御機嫌を直して。これは師匠のためなんですよ」
       ○
 そもそもの発端はすでに歴史の闇へと葬りさられているが、樋口師匠はその闘いを「自虐的代理代理戦争」と呼んでいた。その名称からは、何かたいへんみっともない争いであるらしいことがおぼろげに分かるに過ぎない。
 約五年前、城ヶ崎という人物と樋口師匠との間に深刻な確執が生まれ、汚い汁で汚い汁を洗うような、みっともない戦いの火蓋《ひぶた》が切って落とされた。それが今もなお、この界隈《かいわい》で続いているのである。
 樋口師匠はときどき思いだしたようにいやがらせをし、それに対して城ヶ崎氏も返報するということが繰り返されてきた。師匠の弟子となった歴代の強者《つわもの》たちは、みなこの戦いに巻きこまれ、そのあまりの不毛さに人間としての尊厳を踏みにじられてきたという。私も例外ではない。水を得た魚のごとく生き生きとしていたのは小津ばかりである。
 城ヶ崎氏はある映画サークルを主催していて、博士課程に在籍しながらもなお隠然たる勢力を誇っていたが、不幸なことに小津がそのサークルにいた。前年の秋、小津は策謀のかぎりを尽くして城ヶ崎氏をサークルから放逐した。小津は性根が腐っているから、そうとう汚い手を使った。小津は同じサークルの相島という先輩を唆《そそのか》し、クーデターを起こさせたという。城ヶ崎氏は今でも相島という人物を失脚劇の首謀者として恨んでおり、小津が裏で糸を引いていたとは露ほども知らない。
 サークルからの失脚で精力をもてあましたのか、城ヶ崎氏はぽつぽつと樋口師匠にいやがらせを再開した。小ぜりあいが続いたあげく、今年の四月には師匠愛用の紺色の浴衣が桃色に染められるという惨事が起こった。樋口師匠は、小津に報復作戦の立案を命じた。小津は悪の参謀としての本領を発揮し、弁護の余地のない最低の作戦を立てた。
 それが「香織《かおり》さん誘拐」である。
       ○
 城ヶ崎氏は吉田山のふもと、吉田下大路町《よしだしもおおじちよう》に住んでいる。近年になって改築された二階建てアパートで、そばには竹藪《たけやぶ》もあり、趣きがあった。夜陰にまぎれて車を降り、私と小津はアパートのブロック塀の蔭《かげ》に身を寄せた。まるで自分が地獄からの使者になったような気がしたが、城ヶ崎氏の立場からすればたしかにその通りであろう。彼の愛する者を残酷にもかっさらいに来た我々は、死神呼ばわりされても文句は言えない。
 小津はブロック塀から上を覗《のぞ》いている。城ヶ崎氏の部屋は二階の南端である。明かりがまだ点《つ》いている。
「あれ、何やってるんでしょう。まだ城ヶ崎氏、部屋にいますね」
 小津は悔しそうに言った。「明石さん、約束守ってくれないと困りますな」
「明石さんも嫌な役目だ。彼女にこんなことさせるんじゃない」
「なんの。彼女も樋口師匠の弟子なのだから、これぐらいのことはしてもらわにゃいけません。阿呆に男女の区別なし」
 我々はブロック塀に挟まれた路地に立ち尽くした。街灯の光が届かない闇の中でもじもじし、誰かに見られればその場で通報されて然《しか》るべき胡散臭さをほしいままにした。
 そうやって身を寄せ合っていると、だんだん小津の黒い汁が闇の中へ溶けだして、私の身体に染みこんでくるように思われる。ここで傍らにいるのが黒髪の乙女であれば、暗がりで身を寄せ合うのも、我慢するにやぶさかではない。しかし、いるのは小津である。なぜこのように不吉な顔をした男と身を寄せ合っていなければならないのか。私が何か間違ったことをしたというのか。非は私にあるというのか。せめて、もう少し同志を、むしろ黒髪の乙女を、と私は思った。
「これはまた厄介なことになりましたねえ。予定が狂っちゃいますな」
「明石さんがこんな犯罪に荷担するわけがない。今日は中止することにしよう」
「そうはいきません。わざわざ相島さんに車まで借りてきたのに、いまさら中止にはできません」
 小津は口をへの字に曲げて、やもりのようにブロック塀にへばりついている。
「それにしても、樋口師匠と城ヶ崎さんの間にいったい何があったというのだ? なぜ、こんな不毛な争いを続けてるんだ? そしてなぜ我々がこんなことをしなければいかんのだ?」
 私は言った。
「自虐的代理代理戦争です」
「それは何だ?」
「さあ」
 小津も首をかしげた。「それは僕にも分からんですねえ」
「そんな誰も理由が分からなくなっているような争いに荷担して、貴重な青春時代を無駄にして良いものだろうか。もっとほかにすることはないのか」
「これも人間としてひと回り大きくなるための修行ですよ。でもこんな暗闇にあなたと二人立ちっぱなしっていうのは明らかに無駄ですねえ」
「そりゃ俺が言うことだ」
「そんな怖い目で見ないで」
「おい、くっつくなよ」
「だって寂しいんだもの。それに夜風が冷たいの」
「この、さびしがりやさん」
「きゃ」
 暇つぶしに、闇の中で意味不明の睦言《むつごと》を交わす男女を模倣することにも、やがて虚《むな》しさを感じた。しかも、なんだかそういったことを以前にやっていたような気がするのでますます私はやり場のない怒りに駆られた。
「おい、俺たち、前にもこんな言い合いしてなかったか」
「してるわけないでしょう、こんな阿呆なこと。デジャヴですよデジャヴ」
 ふいに小津がサッと身をかがめた。私もそれにならった。
「部屋の電気が消えました」
 闇の中で息を殺していると、カンカンと足音を立てて男が階段を下りてきた。自転車置き場からスクーターを出している。城ヶ崎氏は幾度か見たことがあるが、「自虐的代理代理戦争」のような実り少なき争いに精力を注ぐよりも、もっとほかに楽しい事が色々ありそうな、水もしたたるイイ男である。彼からは溢《あふ》れんばかりの水がしたたっているのに対して、我々のざまは何だ。我々からしたたっているものといえば汚い汁ばかりだ。
「男前だよな」私は唸《うな》った。
「見かけで判断してはいけません。あんな顔をして、女性の乳のことしか念頭にない」
「おまえだって人のことは言えんだろう」
「失敬な。僕の場合、乳もきちんと押さえていると言って欲しいですな」
 我々が塀にへばりついて乳の話をしているとも気づかず、城ヶ崎氏はヘルメットをかぶってスクーターにまたがると、東へ走って行った。
 我々は暗がりから滑りでて、アパートの階段へ廻った。
「これでしばらく帰って来ない」小津はくすくす笑った。
「城ヶ崎さんはどこへ行ったんだ?」
「白川通《しらかわどおり》のからふね屋です。まあ珈琲《コーヒー》をたらふく飲んで二時間は待つでしょう。明石さんは結局来ないとも知らずに。愚かなやつめ」
「ひどいよなあ」
「さささ、仕事にかかりましょう」
 小津は階段を上った。
 そういう次第で我々は城ヶ崎氏の住居へ不法侵入を果たしたわけだが、我々にピッキングの才能があったというわけではない。城ヶ崎氏の元彼女を通じ、小津がひそかに入手した合い鍵《かぎ》があったのである。鍵どころではない。小津は城ヶ崎氏の私生活の裏の裏まで知っていた。城ヶ崎氏がある女性と文通していたときの手紙まで持っているという徹底ぶりである。「情報を制した者が世界を制す」云々とたいそうなことを言っていたが、実際に、小津の閻魔帳《えんまちよう》にはさまざまな人物の恥ずかしい秘密が平凡社世界大百科事典のようにみっちりと書きこまれているらしい。私はそのことを考えるたびに、こんな歪《ゆが》んだ人物とは一刻もはやく袂《たもと》を分かたねばならぬという焦燥に駆られるのであった。
 ドアを開けたところに台所と四畳半ほどのフローリングの部屋があり、その向こうに硝子戸《ガラスど》で仕切られた部屋が続いている。小津が先に入って、慣れた手つきで台所の電燈をつけた。まるで飽きるほどこの部屋に出入りしているかのようである。私がそう言うと、小津はあっさり頷《うなず》いた。
「だって、サークルの先輩ですもん。今でも時々来て、愚痴を聞いてあげるのです。城ヶ崎さんは愚痴を言いだすと長くなるものだから、困ってしまう」
 小津は平気な顔をして言った。
「極悪人め」
「策士と呼んで下さい」
 あんまり犯罪的なことをしたくなかったので、私は紳士的にドアから入ったところで踏みとどまった。
「さあ、こっちへ」
 小津がせかしたが、私は仁王立ちした。
「おまえ、探してこい。俺はここを動かない。せめてもの礼儀だ」
「何を今さら。この期に及んで紳士ぶったってしょうがないでしょう」
 やや押し問答したが、小津は諦《あきら》めて一人で奥へ入っていった。暗い部屋でがさがさやっているかと思えば、何かの器具を誤って蹴っ飛ばす音がした。そうして「うひょひょ」という耳障りな喜びの声を上げている。「ほら香織さん、恥ずかしがらないで。城ヶ崎氏なんて置きざりにして、僕と一緒に行きましょう」などと遊んでいる。
 やがて小津が抱えて台所まで運んできた女性を見て、私は呆然《ぼうぜん》とした。
「香織さんです」
 小津が紹介した。「いや、それにしてもこんなに重いとは計算外でしたねえ」
       ○
 世の中にはダッチワイフと俗に言われる切ないものがあることは、多くの人が知っていよう。私だって知っていた。それに対する私の基本的認識は、やむにやまれぬ衝動に駆られた哀れな男がつい買ってしまい、後悔の涙にむせび泣くという、はなはだ偏ったものであった。
 五月になって小津が仕入れてきた情報は、城ヶ崎氏がこのダッチワイフを隠し持っているということだった。それがただのものとはわけがちがう、シリコン製でン十万円する超高級品だと小津は力説した。今は「ラブドール」と呼ぶのですと講釈を垂れた。
 それまで権力の座をほしいままにしていたサークルを追放され、同時に彼女にも去られ、失意のどん底にあった城ヶ崎氏が、ついつい寂しさに駆られて大枚をはたいたというのであれば、多少無理があるけれどもまだ筋は通る。しかしそうではない。城ヶ崎氏は、少なくとも二年前からそれを所持していたらしい。その間、人間のおなごにも手を出していたのだから、ある意味では筋金入りのラブドール愛好家と言えよう。ちょっと私には想像がつきかねることであった。
「あれは人形を大切にして暮らすことに意味があるんです。だから女性と付き合うこととはまた別問題なのです。あなたのように性欲処理の道具にしか見ていない野人には分からないでしょうが、ひじょうに高尚な愛の形です」
 小津が言うことなので、私ははなから信用しなかった。
 ところが、その夜、小津が奥から引っ張りだしてきた人形、香織さんは、とうてい人形に見えないほど美しく、可憐《かれん》であった。黒髪は綺麗《きれい》に撫でつけられ、きちんと襟のついた上品な服を着ている。ふんわりと夢見るような眼がこちらを見ている。
 私は思わず「それかッ」と感嘆した。小津が「しいッ声が大きい」と口に指を当てる。そして「ほら、この人ですよ。下手すりゃ惚《ほ》れます」と誇らしげな顔をした。
 そうとう重いらしく、小津は苦労して彼女を台所の床に寝かせた。横たわる清楚《せいそ》な美女の傍らに、いかにも嫌らしいヘンテコ妖怪がしゃがみこんでいるという、まるで昭和初期猟奇小説の挿絵のごとき光景が眼前に展開された。
「ほら、これを車まで持っていかねば」
 嫌らしい外見のわりにビジネスライクに言うと、小津は私に香織さんの身体を持てと急《せ》かすのである。
 彼女は可愛らしい顔をしていた。肌は人間の肌そっくりの色合いをしているし、ソッと触れてみると弾力がある。髪は丁寧に手入れされ、整えられた衣服には乱れがない。まるで高貴な生まれの女性のようである。しかし、彼女は微動だにしない。どこか遠くに目をやった瞬間に凍らされた人のようであった。
 じっと見つめているうちに、私はむらむらとしてきた、否、むらむらと怒りが湧き上がった。
 城ヶ崎氏と個人的な面識はないが、ここにあるのは非常に閉鎖的ではあるものの、高尚な形の愛であると認めざるを得ない。この香織さんの気品ある表情はどうであろう。決して背徳的な生活にうつつを抜かす顔ではない。丁寧に撫でつけられた髪も、きちんと整えられた上品な衣服も、城ヶ崎氏の愛の深さを示している。小津のように、これを性欲処理の道具にしか見ていない野人には分からないであろうが、城ヶ崎氏と香織さんが作り上げたこの繊細微妙な世界をぶち壊すことは、たとえ師匠の命令だとは言え、人として許されぬ、まさに外道の極み。香織さんを持ち帰ろうなどとは言語道断なり。
 これまで樋口師匠の教えに逆らうことなく、ペンペン草も生えない不毛の道を営々と歩んできた私だが、かくのごとき残酷な所業を認めることはできなかった。おお師匠よ、私にはできません。
 いそいそと香織さんに手を触れようとした小津の胸ぐらを、私はぐいと掴《つか》んだ。
「やめとけ」
「なぜ?」
「香織さんに手をだすことは俺が許さん」
 私は言った。
 城ヶ崎氏よ、そのままあなたの道を顎を上げて歩め。あなたの前に道はなく、あなたの後ろに道はできる。私は心の中で熱いエールを送った。むろん、香織さんにもである。
       ○
 その夜、きいきいと謎の小動物のような悲鳴を上げて抵抗する小津を引っ張って、私は下鴨幽水荘へ引き上げた。
 私が起居しているのは、下鴨泉川町にある下鴨幽水荘という下宿である。聞いたところによると幕末の混乱期に焼失して再建以後そのままであるという。窓から明かりが漏れていなければ、廃墟《はいきよ》と間違えられても仕方がない。入学したばかりの頃、大学生協の紹介でここを訪れたとき、九龍城に迷いこんだのかと思った。今にも倒壊しそうな木造三階建て、見る人をやきもきさせるおんぼろぶりはもはや重要文化財の境地へ到達していると言っても過言でないが、これが焼失しても気にする人は誰もいないであろうことは想像に難くない。東隣に住んでいる大家ですら、いっそせいせいするに違いない。
 すでに時刻は丑《うし》三つ時である。
 そのまま小津と一緒に階段をのぼった。私は一階の110号室に住んでいるが、樋口師匠は二階のいちばん奥、210号室に住んでいる。
 廊下に面したドア上部の小窓からは明かりが漏れていて、先輩は我々が首尾良く作戦を成功させて帰ってくるのを待っているらしい。正直なところ、先輩の期待を裏切り、「代理戦争」を放りだしてしまったのは心苦しかった。何か先輩の気に入るようなものをさし入れて御機嫌を取らねばなるまい。
 ドアを開けると、樋口師匠と明石さんが正座して向かい合っていた。師匠が弟子に訓戒を垂れているのかと思いきや、訓戒を垂れているのは明石さんらしい。我々が手ぶらで入っていくのを見ると、明石さんはホッとしたようであった。
「あの計画、やめたんですね」
 私は無言で頷き、小津はふて腐れている。
「やあ、諸君。お帰り」
 樋口師匠は尻《しり》をもじもじさせながら言った。
 私は小津を押しのけて、一部始終を説明した。
 樋口師匠は軽く頷き、葉巻を取りだすとぶわっと煙を吐いた。明石さんも師匠からもらった葉巻をぶわっと吹かした。何だか、我々がいない間に二人で何か言い合いをしたらしく、しかも明石さんの圧倒的優勢のうちに終わったと見えた。
「まあ、今夜のところはそれで良かろう」
 師匠は言った。小津が不平の声を上げると、師匠は「黙れ」と一喝した。
「ものには限度というものがある。浴衣を桃色に染められたのはたしかに近年まれに見る痛恨事であった。しかし、だからといって数年にわたって良好な関係にある城ヶ崎と香織さんを卑劣な手段で引き離すのは、残酷過ぎる報復だと言わねばならない。たとえ香織さんが人形だとしてもだ」
「あれ、師匠。この前と話がぜんぜん違いますがな」
 小津が反論すると、明石さんが「小津さんは黙って下さい」と言った。
「ともかく」と樋口師匠は続ける。「これは私と城ヶ崎が続けてきた戦いのルールを逸脱する。のみならず、地に足のついていない軽みを獲得して天地間を自在に往還せんとする我々の大目標からも逸脱した行為であったと言うほかない。私もちょっと浴衣のことが悔しくて、頭に血がのぼってた」
 そうして師匠は思いきり紫煙を吐きだした。
「こんなもんでいいかい?」
 師匠が明石さんに訊《たず》ねた。
「宜《よろ》しいでしょう」
 彼女は頷いた。
 かくして「香織さん誘拐」計画は水に流れた。小津は他の三人からの冷ややかな視線を浴びながら、そそくさと帰る支度をした。「明日の夜は鴨川デルタでサークルの宴会です。忙しい忙しい」小津は魚肉ハンバーグのようにぷりぷり怒りながら、腹いせにそんなことを言った。
「ごめんなさい、小津さん。明日は私、行けません」
 明石さんが言った。彼女は小津の所属するサークルの後輩である。
「なぜ?」
「レポートの準備をしなければいけないのです。資料を探さないといけませんので」
「勉強とサークルとどっちが大事なの?」
 小津は偉そうに説教した。「ちゃんと宴会に出なさい」
「いやです」
 明石さんはにべもなく言った。
 小津は返す言葉も無いらしい。樋口師匠はにやにやしている。
「貴君は面白いねえ」
 師匠がそう言って、明石さんを誉めた。
       ○
「香織さん誘拐未遂」事件の翌日、夕暮れである。
 夏のような蒸し暑さがようやく和らいで、涼しい風が吹き始めた三条大橋を歩きながら、私は来し方二年のあれこれに思いを馳《は》せていた。あのときああしていなければと思うことは無数にあるけれど、やはりあの時計台前で樋口師匠に会ったのが決定的であったという考えは揺るがない。あそこで会いさえしなければ、何だか分からないけれど、何とかなっていたはずである。映画サークル「みそぎ」に入る手もあったし、そうでなければソフトボールサークル「ほんわか」、あるいは秘密機関〈福猫飯店〉も候補だった。いずれを選んだにせよ、今よりは有意義で健康的な人間になれたであろうと思った。
 夕闇に沈む街の明かりが、ますますそんな思いに拍車をかけるのであったが、私はともかく先輩に貢ぐ亀の子|束子《だわし》を手に入れるべく、三条大橋の西にある古風な束子屋へ足を踏み入れた。
 樋口師匠の受け売りであるが、亀の子束子とは今から百年も前に西尾《にしお》商店によって売りだされたのを嚆矢《こうし》とする。材質は一般に椰子《やし》の実や棕櫚《しゆろ》の繊維である。師匠が言うには、太平洋戦争直後の混乱期、西尾商店の手法を盗んだ医科大学の学生が、台湾に生息する特殊な棕櫚の繊維を手に入れて作った亀の子束子を売りだした。その強靱《きようじん》で想像を絶する細かな繊維の先ッぽがファンデルワールス力によって汚れ成分と分子結合を作るため、力を入れずに軽く触れるだけでいかなる汚れも取れるという魅惑の台所最終兵器。あまりにも汚れが落ちるために洗剤の売れ行きまでこそげ落とされることを恐れた企業から圧力がかかって大々的には売られていない。しかし、そのような胡散臭い亀の子束子が、今も密《ひそ》かに作り続けられているという。
 師匠が住む四畳半の汚れっぷりは目に余るものである。中でも流し台の汚れ方は深窓の令嬢ならば一瞥《いちべつ》するだけで卒倒するであろうことを保証する。流し台の隅で、かつて地球上に存在しなかった生命体がこっそりと別枠で進化していそうなことを指摘したところ、掃除するためにはその高級亀の子束子が必要だ、何としても手に入れて来い、でないと破門だと言われた。
 むしろ破門にしてくれとは口にだして言わないだけの話である。
 かくして私はいっぱい亀の子束子を置いているその店を訪ねたのであったが、おずおずとその幻の束子について説明するにつれて、店の人の顔には苦笑が浮かんできた。当然であろう。私だって笑う。
「さあねえ、そういうものはありませんですねえ」
 店の人は言った。
 苦笑から逃れるようにして、三条通の雑踏へ出た。
 香織さん誘拐失敗のこともある。もういっそのこと自主破門されてやろうか。
 そこから河原町通へ向かって、ふらふらと歩いた。その昔、謀議を行っていた浪士たちを新撰組《しんせんぐみ》が襲ったという有名なパチンコ屋の前を通り過ぎた。なぜ浪士たちがわざわざパチンコ屋を選んで謀議を行ったのかは、解きがたい謎である。
 このまま下鴨幽水荘に帰るわけにはいかない。幻の束子は手に入らぬにせよ、何か師匠の機嫌が直るようなものを手に入れなければならぬ。キューバの高級葉巻なんぞはどうであろうか。それとも錦市場《にしきいちば》で美味《うま》い魚介類でも買っていくべきか。
 悩みに悩んでいた私は蹌踉《そうろう》と河原町通を南下した。夜が近づいて、いやがおうにも盛り上がりつつある周囲の雰囲気が私の苛立《いらだ》ちに拍車をかけた。
 古書店「峨眉書房」に立ち寄って本を買おうとした。私が店内に入って書棚を物色し始めるなり、煮蛸《にだこ》のような顔をした主人がにこりともせずに「もう閉めるから出て出て出て」と言って、まるで私が毒虫であるかのように追い立てた。それなりに顔|馴染《なじ》みだというのに、何ら融通をきかせようとしないのは腹立たしくも立派であるが腹立たしいことに変わりはない。
 行き場を失った私はビルの谷間を抜けて、木屋町へ歩いていった。
 今宵、小津はサークルの宴会があると言っていた。やつは今ごろ、可愛い後輩たちに囲まれてよろしくやっているのであろうが、私はといえば樋口師匠の妄想の所産たるヘンテコな亀の子束子探索にも失敗し、安息の地たるべき古本屋からも追いだされ、賑わいの中を一人孤独に歩いている。不公平極まるではないか。
 高瀬川に掛かる小橋のたもとに佇んでふて腐れていると、木屋町を行き交う人々の中に羽貫さんの顔が見えた。私は慌てて煙草に火が点かなくて困っている通行人に扮《ふん》し、顔を隠した。
 羽貫さんは樋口師匠の住まいへ出入りしている謎の歯科衛生士である。彼女が何を求めて木屋町界隈を徘徊《はいかい》しているか、十中八九、エチルアルコール目当てであろう。一度だけ、街中で羽貫さんに会ってしまったことがあるが、西部劇で馬に乗った無法者に縄をかけられて地面をひきずられる弱々しい人のごとく、私は木屋町から先斗町《ぽんとちよう》界隈を縦横無尽にひきずりまわされ、気がつくと一人ぼっちで夷川《えびすがわ》発電所のそばに倒れ伏していた。夏だったから良かったようなものの、冬であれば葉の落ちた並木の下で凍死するところだ。ここでむざむざ地獄のエンドレスナイトへ引きずりこまれ、珈琲《コーヒー》焼酎《しようちゆう》で半死半生にされるのは御免である。私は首を縮めて、羽貫さんの視線を回避した。
 彼女をやり過ごしてホッと一息ついたものの、行く当てがあるわけではない。
 なんだか、本当に自主破門への誘惑に駆られ始めたところで、私はその老婆に出会った。
       ○
 飲み屋や風俗店がならぶ中に、身を細めるようにして暗い民家が建っていた。
 その軒下に、白い布をかけた木の台を前にして座る老婆がいた。占い師である。台のへりから吊《つ》り下がっている半紙は、意味不明の漢字の羅列で埋まっている。小さな行燈《あんどん》みたいなものが橙色《だいだいいろ》に輝いて、その明かりに彼女の顔が浮かび上がる。妙な凄《すご》みが漂っていた。道行く人の魂を狙って舌なめずりする妖怪である。ひとたび占いを乞《こ》うたが最後、怪しい老婆の影が常住坐臥《じようじゆうざが》つきまとうようになり、やることなすことすべてがうまくいかず、待ち人は来ず、失《う》せ物は出ず、楽勝科目の単位を落とす、提出直前の卒論が自然発火する、琵琶湖疏水に落ちる、四条通でキャッチセールスに引っかかるなどといった不幸に見舞われる―そんな妄想をたくましくしながら私が凝視しているものだから、やがて相手もこちらに気づいたらしい。夕闇の奥から目を輝かせて私を見た。彼女が発散する妖気に、私はとらえられた。その得体の知れない妖気には説得力があった。私は論理的に考えた。これだけの妖気を無料で垂れ流している人物の占いが当たらないわけがない、と。
 この世に生まれて四半世紀になろうとしているが、これまで謙虚に他人の意見に耳を貸したことなど数えるほどしかない。それゆえに、敢えて歩かないでもかまわない茨《いばら》の道をことさら選んで歩いてきた可能性がありはしないか。もっと早くに自分の判断力に見切りをつけていれば、私の大学生活はもっと違った形をしたものであったろう。樋口師匠のような得体の知れぬ怪人に弟子入りすることもなく、性根がラビリンスのように曲がりくねった小津という人物と出会うこともなく、二年を棒に振ることもなかったろう。良き友や良き先輩に恵まれ、溢れんばかりの才能を思うさま発揮して文武両道、その当然の帰結として傍らには美しき黒髪の乙女、目前には光り輝く純金製の未来、あわよくば幻の至宝と言われる「薔薇色で有意義なキャンパスライフ」をこの手に握っていたことであろう。私ほどの人間であれば、そういう巡り合わせであったとしても、ちっとも違和感を覚えない。
 そうだ。
 まだ遅くはない。可及的速やかに客観的な意見を仰ぎ、あり得べき別の人生へと脱出しよう。
 私は老婆の妖気に吸い寄せられるように足を踏みだした。
「学生さん、何をお聞きになりたいのでしょう」
 老婆はもぐもぐと綿を口に含んでいるように喋るので、その口調にはより一層ありがたみが感じられた。
「どう言えばいいか分からないのですが」
 私が言葉に詰まっていると、老婆は微笑んだ。
「いまのあなたのお顔からいたしますとね、たいへんもどかしいという気持ちが分かりますね。不満というものですね。あなた、自分の才能を生かせていないようにお見受けします。どうも真の環境があなたにはふさわしくないようですね」
「ええ、そうなんです。まさにその通りです」
「ちょっと見せていただきますよ」
 老婆は私の両手を取って、うんうんと頷くようにして覗きこんでいる。
「ふむ。あなたは非常に真面目で才能もおありのようだから」
 老婆の慧眼《けいがん》に、私は早くも脱帽した。能ある鷹《たか》は爪を隠すということわざにあるごとく、慎ましく誰にも分からないように隠し通したせいで、ここ数年はもはや自分でも所在が分からなくなっている私の良識と才能を、会って五分もたたないうちに見つけだすとは、やはりただ者ではない。
「とにかく好機を逃さないことが肝要でございますね。好機というのは良い機会ということですね、お分かりですか? ただ好機というものはなかなか掴まえにくいものでしてね、まるで好機のように見えないものが実は好機であることもあれば、まさに好機だと思われたことが後から考えればまったくそうでなかったということもございます。けれどもあなたはその好機を捕らえて、行動に出なくちゃいけません。あなたは長生きはされるようだから、いずれその好機をとらえることができましょう」
 その妖気にふさわしい、じつに深遠な言葉である。
「そんなにいつまでも待てません。今、その好機をとらえたい。もう少し具体的に教えてもらえませんか」
 私が食い下がると、老婆はやや皺《しわ》を歪めた。右頬が痒《かゆ》いのかしらと思ったが、どうやら微笑んだらしい。
「具体的には申し上げにくいのですよ。私がここで申し上げましても、それがやがて運命の変転によって好機ではなくなるということもございまして、それではあなたに申し訳ないじゃございませんか。運命は刻々と移ろうものでございますから」
「しかし、このままではあまりに漠然としていて困りますよ」
 私が首をかしげると、老婆は「ふっふーん」と鼻息を噴きだした。
「宜しいでしょう。あまり先のことは申さずにおきますが、ごく近々のことでしたら申し上げましょう」
 私は、耳をダンボのように大きくした。
「コロッセオ」
 老婆がいきなり囁《ささや》いた。
「コロッセオ? なんですか、そりゃ」
「コロッセオが好機の印ということでございますよ。あなたに好機が到来したときには、そこにコロッセオがございます」
 老婆は言った。
「それは、僕にローマへ行けというわけではないですよね?」
 私が訊ねても、老婆はにやにやするばかりである。
「好機がやって来たら逃さないことですよ、学生さん。その好機がやって来たときには、漫然と同じことをしていては駄目なのですよ。思い切って、今までとはまったく違うやり方で、それを掴まえてごらんなさい。そうすれば不満はなくなって、あなたは別の道を歩くことができましょう。そこにはまた別の不満があるにしてもね。あなたならよくお分かりでしょうけれども」
 まったく分かっていなかったが、私は頷いた。
「もしその好機を逃したとしましてもね、心配なさる必要はございませんよ。あなたは立派な方だから、きっといずれは好機をとらえることができましょう。私には分かっておりますよ。焦ることはないのですよ」
 そう言って、老婆は占いを締めくくった。
「ありがとうございました」
 私は頭を下げ、料金を支払った。立ち上がって振り向くと、明石さんがいつの間にか背後に立っている。
「迷える子羊ごっこですか?」
 彼女は言った。
       ○
 明石さんは前年の秋頃から樋口師匠のもとへ出入りし始めた。小津と私に続く樋口師匠の三人目の弟子である。小津が所属しているサークルの後輩であり、小津の片腕ということであった。そんな経緯から小津との縁が分かちがたいものとなって、彼女は樋口師匠の弟子となった。
 明石さんは私の一つ下の学年で、工学部に所属していた。歯に衣《きぬ》着せぬ物言いで、周囲からは敬遠されているそうである。まっすぐな黒髪を短く切り、理屈に合わないことがあると眉間《みけん》に皺を寄せて反論した。目つきがやや冷ややかなところがある。そう簡単には弱々しいところを見せない女性であった。なぜ小津のような男と親しむ羽目になったのか、なぜ樋口師匠の四畳半へ出入りするようになったのか。
 彼女が一回生の夏であった。サークルの同回生が「明石さんって週末に暇なとき、何してんの?」とへらへらと訊ねた。
 明石さんは相手の顔も見ずに答えた。
「なんでそんなことあなたに言わなくちゃならないの?」
 それ以来、彼女に週末の予定を訊ねる者はいなくなったという。
 私はその話を後ほど小津から聞いたのであるが、「明石さん、そのまま君の道をひた走れ」と心の中で熱いエールを送ったことは言うまでもない。
 そんな中世ヨーロッパの城塞《じようさい》都市のように堅固な彼女にも、唯一の弱点があった。
 前年の初秋、彼女がまだ樋口師匠のところへ出入りし始めたばかりのことだが、下鴨幽水荘の玄関で彼女と出くわし、一緒に師匠の部屋を訪ねるために階段を上がった。
 明石さんが私の前を歩いていたのだが、戦時中の検閲官のように毅然《きぜん》と背を伸ばしていた彼女が、「ぎょえええ」とまるでマンガのような声を上げてのけぞり、階段を転落してきた。私はすばやく的確に彼女を受け止めた。言い換えれば、逃げ遅れてまともに直撃されたのである。彼女は髪を振り乱して私にしがみついた。私はその体勢を維持することができない。二人で廊下まで転がり落ちた。
 弱々しく羽ばたく蛾が、頭上をへたへたと飛んでいった。階段をのぼっている最中、その大きな蛾がべたっと明石さんの顔に張りついたらしい。彼女は蛾が何よりも怖かったのである。
「むにゅっとしてました、むにゅっとしてました」
 彼女はまるで幽霊にでも出会ったように顔面|蒼白《そうはく》になってがたがた震え、何度もそう言っていたのだが、終始堅固な外壁に身を包んでいる人が脆《もろ》い部分を露《あら》わにしたときの魅力たるや、筆舌に尽くしがたいものがある。兄弟子として分別をわきまえているべき私が、危うく恋に落ちるところであった。
「むにゅっとしてました」と譫言《うわごと》のように繰り返す彼女を、「まあまあ落ちつきたまえ」と紳士らしく慰めていたことを思いだす。
       ○
 私が歩きながら例の幻の亀の子束子の話をすると、明石さんは眉をひそめて唸った。
「樋口師匠も難しい要求をされますね」
「きっと香織さんを誘拐できなかったことが気に食わなかったんだな」
 私が言うと、明石さんは首を振った。
「そんなことはないでしょう。あれは樋口師匠らしくもないことです。私が昨晩そう言ったら、師匠も反省してらっしゃいました」
「そうかな」
「先輩は誘拐を断念したでしょう。もしあそこで断念してなかったら、私は先輩をお腹の底から軽蔑《けいべつ》せざるを得ませんね」
「でも君だって、小津に協力して城ヶ崎さんを誘いだしただろう」
「いえいえ。私は結局やらなかったのです。師匠が電話したのです」
「そうだったか」
「あんなことをして暗い嫌な気持ちになっていては、そもそも師匠の教えに反します」
「君が言うと説得力がある」
 私が言うと彼女は苦笑した。彼女は短く切りそろえた黒髪を小気味よく揺らして歩いていた。颯爽《さつそう》としていた。
「誘拐にも失敗し、束子も見つからん。いよいよ破門か」
 私は言った。
「いえ。諦めるのはまだ早いです」
 そう言うと、明石さんは先に立って歩き始めた。その凜々《りり》しく自信に満ちた歩き方がシャーロックホームズのようである。ホームズ様におすがりするしかないのですとベーカー街の事務所で手を合わせる依頼人のように、私は彼女の後について行った。
「私、前から不思議に思っているんですけど、樋口師匠と城ヶ崎さんの間に何があったんでしょう?」
 木屋町から河原町へ延びる路地を歩きながら、彼女は首をかしげた。
「城ヶ崎さんはもともと君のサークルの先輩だろう、君は何も知らんのか?」
「まったく知りません」
「俺も自虐的代理代理戦争という言葉しか知らない」
「よっぽど忘れられない出来事があったんでしょうね」
 そういうやり取りをしているうちに、彼女は足を止めた。先ほど私が訪れた古書店「峨眉書房」であった。
 気むずかしそうな顔をした主人は店じまいの準備をしていたが、彼女の顔を見ると笑みがくわっと広がって、煮蛸同然だったオヤジが、かぐや姫を見つけた竹取の翁《おきな》のごとき、めろめろの有様になった。彼女は古本市で峨眉書房の店番アルバイトをしたのがきっかけで峨眉書房主人と仲が良くなり、河原町通に出たときには店に立ち寄って世間話をするそうだ。それにしても峨眉書房主人の溶けたマシュマロのごときめろめろぶりはただごとでない。先ほど私を追いだしたときの態度とは天と地ほどの差がある。
 私が河原町通に面したショーウィンドウの中にある上田秋成《うえだあきなり》全集などを眺めている間に、彼女は峨眉書房主人と言葉を交わしていたが、竹取の翁はふんふんと頷いて聞いている。やがて主人が申し訳なさそうな顔をして首を振った。そうして河原町通の西を指さして、彼女に何かを告げた。
「ここでは駄目です。ほかへ行きましょう」
 彼女はそう言って、亀の子束子探索の旅を河原町以西へと方向転換した。
 河原町通を渡って、蛸薬師通《たこやくしどおり》を西へ行き、夕暮れの雑踏で賑わう新京極《しんきようごく》へ入った。彼女は新京極から寺町《てらまち》へ延びる路地に入って、古びた旅行|鞄《かばん》や電燈が軒先に並んでいる古道具屋へずんずん入って行く。私が店の隅でブリキ製の潜水艦模型などをいじって遊んでいる間に、彼女は「その亀の子束子について知っているかもしれない」という錦市場にある雑貨屋の名前を聞きだしてきた。
 唯々諾々《いいだくだく》と彼女のあとをついていくと、錦市場の西の果て近くにあるうっそうと暗い雑貨屋に彼女は入って行き、主人夫婦とあれこれ言葉を交わした後、今度は仏光寺通《ぶつこうじどおり》に面している雑貨屋の主人ならばという情報を入手してきた。
 日も暮れかかる四条通を渡り、南下して仏光寺のわきを通り過ぎ、今度は東へ向かって歩いた。四条あたりとは違って、このあたりは通行人もさほど多くはなく、静かである。
 半分シャッターを閉めた形になっている雑貨屋があった。彼女は暗い店内に首を突っこんで「すみません」と声をかけた。錦にある雑貨屋の名前を出して、どうやら話がうまく通じたらしい。私も呼ばれて中に入った。
 狭く暗い土間はいろいろなものが置かれて立てこんでいる。鶴のように痩《や》せた店主がスイッチを入れると、橙色の明かりがついた。
「どこでそれを聞かれたんですか?」
 店主に問われ、私は樋口師匠の名を挙げ、是非それを入手したいとお願いした。
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