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天地明察

_13 冲方丁(日)
『まさに明察。敬服|仕《つかまつ》った』
 という感じの、珍しいほど長々とした称賛の文章を書いて送ってくれていた。その上、関や村瀬にまでこう言われるのだから、疑うべきことなど何一つない。後はただ、数理の研究をどこまでも深めてゆくことで、さらに暦法を確かなものにし、新たな発見を求めるばかりである。そしてそれは春海の生涯のみならず遥か後世にまで委《ゆだ》ねられるべきことがらだった。一方で、このとき関からも、新たな成果が出されていた。
『解伏題之法』
 という、二年ほど前にほとんど完成していた稿本である。そこでまたも関は新たな算術を発明していた。後世、〝行列式と呼ばれるようになるものを、全く独自に発明したのである。しかもこの術理は、このときまだ中国や日本のみならず、ヨーロッパにすら存在していない。授時暦の誤謬を見事に見出してなお、強烈な衝撃をこうしてもたらしてくれる関に、春海の方こそ敬服する思いだった。
「関殿が見出された術理こそ、〝和算と呼ばせていただきたくなります」
「よせよせ。お主の暦法の前では、気恥ずかしいだけだ」
「何を仰《おっしゃ》る」
「お主こそ」
 村瀬が、愉快そうに膝を叩いて笑った。
「たまらんよ、あんたたちは。それはそうと、今度の改暦勝負はいつだい、渋川さん?」
 春海は顔を引き締め、
「じきに」
 と告げた。事実、改暦の気運はまた少しずつ高まりつつあった。何しろ宣明暦の誤謬は明らかなのである。以前の改暦請願から既に十年、その誤謬はますます甚だしく、各地で話題になっていたし、何より将軍綱吉が改暦に興味津々だった。
「だが大老はそうではないと聞く」
 関が言った。新たに大老職に就いた堀田正俊の政治姿勢は、一言で称することが出来た。すなわち〝緊縮である。天和三年、世はこれまでにも増して大不況に陥っていた。『飢民数万』などと、全国から悲愴《ひそう》な報告が江戸に集まるほどだった。しかし堀田は、
〝天意の前に仕方なく慎む
 という、かつて保科正之が斬って捨てた、武家にのみ都合の良い民生否定を美徳とし、効果的な政策をほとんど行わずにいた。堀田はあの山鹿素行を師として崇めており、山鹿も山鹿で、堀田の思想を正当化するための新たな武士の理論をずいぶんと提供している。堀田と山鹿。この二人がいる限り、改暦の儀は至難である。将軍綱吉さえそう思っている節があった。
「方策はあります。やや、あざといものではありますが」
 だが春海は恬然《てんぜん》と微笑んでいる。これより春海は、じっと腰を据えて改暦への算段を見極め、着々と布石を打つことに努めた。保科と酒井の二人から学び、二十余年の歳月で培い、江戸と京という日本の二つの中心地を往復し続けた生活で身につけた態度であり戦略である。
 堀田の〝緊縮はやがて江戸城そのものを貧窮に陥れた。城中で働く者たちに、賃金が支払えなくなる可能性すら生じたのである。しかも将軍綱吉も堀田も、それを自分たちの無策のせいではなく、自然現象であるかのように老中たちに伝えた。国の権力者が、官吏に給与支払いの不能を吐露するなど、暗愚を通り越して早くも末期症状と言って良かった。
 そこへ、春海の〝あざとい一手がするりと打たれた。
 それは老中稲葉正通を通して堀田に渡され、抜群の効果を発揮した。すぐさま稲葉正通の同席のもと、指導碁と称して、春海が堀田のいる部屋へ呼び出された。
「これは、まことか?」
 堀田が訊いた。碁盤の上に、春海が稲葉正通に渡した文書があった。碁笥《ごけ》すら最初から用意されていない。せめて碁を打ちながら話すといった余裕はないのだろうかと、全く違う感想を抱きつつ、平伏しながら淡々と返答した。
「はい」
「この、頒暦とやらだけで、これほど莫大《ばくだい》な金を集めるというのは、まことなのか?」
「はい」
「改暦が幕府に財をもたらすと?」
「はい」
 そこで堀田が黙り、ようやく同じ質問の繰り返しをやめた。春海の機械的な反応から、
(まるで酒井と話しているようだ)
 堀田がそう思っているのが、亡霊でも見るような落ち着かぬ目つきから分かった。怯《おび》えるというほどではないが、大老にしては胆力がないな、と他人事のように春海は思った。
 そこで、見かねたのか、稲葉正通が言葉を挟んだ。
「帝が改暦の勅を下されるかも知れない」
 このとき稲葉正通は京都所司代でもあった。朝廷の動きには敏感である。そして昨今の宣明暦による誤謬がようやく問題になり、朝廷自ら改暦を検討しているとの情報があるという。
「はい、存じております」
 だが春海はとっくにその動きをつかんでおり、ますます堀田を鼻白ませている。
「武家が改暦に参加出来るか?」
 稲葉が訊いた。
「一つ、お許しいただきたいことがあります。それが叶えば、できるでしょう」
「なんだ」
 堀田が神経質そうに言った。
「二刀を差すことをお許し下さい」
 これは春海を武家の代表にするということである。稲葉がちらりと堀田を見た。堀田はしかめっつらで黙っている。山鹿から理想の武士像を吹き込まれている堀田からすれば、碁打ちの侃刀《はいとう》など不快きわまりないのだろう。
「刀はあるのか」
 稲葉が訊いたが、これは堀田の気持ちを促すためだと察せられた。
「以前、碁の席で、人から贈られたものがあります」
 酒井からもらった刀だとは言わなかった。稲葉が目配せし、堀田が渋々と言った。
「そなたが朝廷を出し抜ければな」
 春海はただ平伏し、それについては何も返答しなかった。既に改暦事業の開始の布石は打っていた。ただ、その後に必要な、最後の一手を探していたのである。
 その一手は意外なところで見つかった。
 天和三年九月。京で頒暦を売る大経師家に事件があった。主人の妻と手代の不義密通が発覚し、店の金を盗んで逃げたが、協力者ともども処刑されたのである。主人の大経師意春はむろん裁かれることはなかった。むしろこの事件を逆手にとって売名するなど、頒暦商売の権利拡大に血道を上げている。したたかであり強欲だった。妻を喪ったことなど何とも思わぬ人物で、
(使える)
 春海はこの大経師の振る舞いからそう判断し、幾つかの根回しを行った。そうして最後の一手を定めてから二ヶ月後の、天和三年十一月。
 ついに、予期されていたことが、起こるべくして起こった。
 宣明暦が、月蝕の予報を外したのである。しかも多くの者たちが、暦にある月蝕は起こらないとしていた。城中で、春海も何度かそのことで意見を求められ、
「起こりません」
 断言していた誤報である。これが契機となり、十年ぶりに改暦の気運が高まった。いや、もはや宣明暦が誤謬だらけであることが常識となった上での、前回とは比較にならぬ強い気運である。春海の過去の挑戦を知る者たちが、頻繁にその話題を持ち出し、春海の反応を窺った。だが春海は表立っては動かずにいる。自分から改暦について口にすることは一切しなかった。ただひたすら、これまでに打った全ての布石が効果を発揮するのを見守っていた。
 そしてついに朝廷が動き出し、改暦の勅が下されたときも、春海はきわめて平静でいる。
 霊元天皇の名において発布された勅により、陰陽|頭《かみ》たる土御門家が、改暦を行うことが決定されたのだった。かつて春海が改暦請願を単身で行ったことを知る幕府の面々は、たまらず呻いたという。保科正之に倣って武家による文化作りを理想とする将軍綱吉や、頒暦による莫大な収益を期待していた堀田などは、あからさまに落胆し、揃って嘆息したらしい。
「やはり、京か……」
 堀田を始めとして老中全員がそう口にした。帝が指名し、公家が先頭に立っての改暦に、武家の割り込む余地はない。天文暦法のみならず、日本の文化の中心は京であると、朝廷が宣言したに等しかった。その決定を覆すすべが、江戸の幕閣にあるはずもない。
 そうして誰もが諦めた頃、幕府に対し、京都所司代を通して、ある書状が届けられた。
 きわめて異例の書状だった。そしてその内容に、幕閣一同が仰天したという。
『暦法家として、また神道家として名高い、保井算哲こと渋川春海様に、改暦の儀に参加してもらいたい――』
 土御門家からの、上洛《じょうらく》要請であった。
       九
「そなた、いったい、いかなるまじないを使った?」
 恥も外聞もなく訊く堀田をよそに、
「は――」
 春海は淡々と平伏している。正直、そわそわする堀田の気配が鬱陶《うっとう》しかった。だが、よりにもよって京の土御門家から、幕府に対し、直接、改暦の助けを求めてくるなどとは、堀田のみならず全ての幕閣の面々にとっても異常な事態であるのは確かだった。
「答えよ、算哲。土御門家の者と、いつ親交を持った」
「先方と面識はございませぬ」
「その周辺の者と親しくしたと――」
 具体的な名を挙げさせようとしたところで、やっと堀田が黙った。これはあくまで春海個人の交友なのである。幕府の政治工作としてしまえば、朝廷も朝廷でどんな工作をしてくるか分からない。そうなれば幕府に分はなく、今度こそ改暦から完全に武家が締め出される。
 もしこれが酒井だったら、そもそも呼び出すことすらせず、全ての手配を稲葉に任せ、無言で春海を送り出している。
(酒井様より数段下だ)
 政治的な気配りがまるで足らない。やれやれと溜息をつきそうになりつつ言った。
「どうか上洛のお許しを下さいますよう」
「うむ。決してしくじるなよ」
「しくじれば腹を切ります」
 当然のごとく告げた。堀田が、む……と低い声を漏らした。まさかこの程度の言葉で気圧《けお》されたのだろうかと春海の方が眉《まゆ》をひそめそうになっている。
「必要なものがあれば届けさせる。金、人、物、何でも使え。幕府がお主を援《たす》ける」
 春海は静かに平伏し、無言のまま退出した。
 京へ向かう途中、回り道をして関の自宅に寄った。江戸を発つ前に、
「お陰様で、ようやく改暦の段となりました」
 と、己の口で伝えたかったからである。それまで全く事業の進捗を急かさず、改暦の気運が高まったときも、ただ一人、何も言わずにいた関は、
「この国の暦が変わるな。お主の暦で」
 そう感慨深げに微笑んでくれた。自分が支援したことは一言も口にしない。全て春海の働きなのだと言っていた。かつて考察の山を渡してくれたときの、見送る者の眼差しだった。
「だが土御門の足下とは……大丈夫なのか? お主のことゆえ考えがあるとは思うが」
「弟子入りします」
 さらりと告げた。さすがの関が目を丸くした。土御門家当主は春海より遥かに年下で、しかも暦法も数理も未熟と噂だった。
「本気か?」
「それが一番の手でしょう。相手の物を奪うからには、まず頭を下げるべきです」
「お主がわしに土下座したようにか」
 そう言われて、春海は恥ずかしそうに首を縮めた。関は声を上げて笑った。
「大和暦の定石は、お主の手にある。京も江戸も無い。日本の暦を打ち立てろ」
 春海が四十四歳のときのことであった。
       十
 当主である土御門泰福は、好奇心|旺盛《おうせい》な二十九歳。ふくふくとした頬が少年のようで、何につけても素直に感情をあらわにする。春海と出会った開口一番の言葉が、これだった。
「ほんまありがとうございます、春海様。お陰様で土御門の面目が立ちます」
 しきりに茶菓子を勧めながら、はきはきと頭を下げる。泰福も決して愚鈍ではない。経験が浅いだけで頭脳は優れている。春海の暦法家としての実績も、碁打ちとしての名も、幕府を背景とした政治力もわきまえていた。そしてもっと言えば、公家層のどこにも、高度な数理を駆使して暦法を解き明かせる人材がいないことを知っているのだ。
 たとえ帝が望んだとしても、土御門家に改暦を担えるだけの実力はない。春海もそこを利用して改暦参加の道筋をつけたのだが、泰福の歓待には真情がこもっていた。
「ですが、ほんまによろしいんですか。春海様は闇斎様から秘儀を授けられ、惟足様とも親しいお方です。お立場を考えれば、私が……」
「あくまで私が弟子で、泰福様が師。それが一番、上手《うま》く行きます」
 春海がにっこり笑って答えると、泰福は感激し、また恐縮した。その初々しさが春海には快かった。かつて自分とともに北極出地を行った建部や伊藤は、きっとこんな気持ちだったのだな、と思いながら言った。
「私にとっての大事は、定石です。天地の定石に辿り着くために、人の定石を守るに越したことはありません」
 すると泰福は礼儀正しく頭を下げ、
「春海様の大和暦法は、必ず、帝のお気に召します。ともに改暦を果たしましょう」
 立場上は師であることなど忘れ、すっかり春海に惚《ほ》れ込み、その暦法の教えを請うた。そして春海以上に、その大和暦に|ぞっこん《ヽヽヽヽ》になった。
「ほんまに素晴らしい。こんな……こんなものを、ようもお一人で成し遂げて……。私も土御門の名にかけてこれを学び、帝にお認め頂けるよう頑張ります」
 暦法の術理修得に全力を傾ける利発な若者の姿に、春海はかつての自分を見る思いだった。
 と同時に、自分と同じ過ちを犯すことを予見した。泰福は大和暦が採用されることを全く疑っていない。だがたとえ暦法が優れているからといって、それが通用するとは限らないのだ。
 春海は楽観していなかった。泰福に暦法を教える傍ら、毎日のようにあちこち出かけては情報収集に努めた。朝廷の定石、京という土地の定石、そして己の大和暦法という定石に、黙々と磨きをかけ続けたのである。結果、この改暦の困難さをはっきり認識した。
 このとき、朝廷は改暦の勅を受けて、三者分裂を起こしていた。一つは、春海がかねてから予想していた、〝民暦反対派である。彼らは、元が用いた授時暦や、中国の暦法を無視した春海の大和暦よりも、明で官暦として用いられた大統暦の方を採用すべきだと主張し、強力な工作を開始していた。
 今一つは、なんと授時暦の採用を願う一派である。かつて春海が改暦に失敗して以来、むしろ授時暦の優秀さが世に伝わり、宣明暦を無視して授時暦を用いる者が増えたのである。それを背景に、我こそ改暦を担わんとする神道家や算術家を抱えた公家層の者たちがいた。彼らは春海のことを、授時暦を捨てた〝裏切り者と罵り、大和暦を否定することに熱心な活動を見せた。さながら亡霊だった。他ならぬ春海がこの世に放った、誤謬という名の亡霊である。
 最後の一つは、帝の勅令で指名された土御門と、その門下に入った春海による大和暦である。
 この三者分裂に春海は違和感を覚えた。特に授時暦を担ぐ動きが、いかにもわざとらしい。春海をいちいち非難する人々の言動が、今回の改暦の勅にどうにもそぐわない。春海は京都所司代や、親交のある公家たちを通して、その正体を知った。
(人を割るためか)
 授時暦を推す一派の背後に、大統暦を推す者たちがいて操っているのである。その中心に、暦博士たる賀茂家の者たちがいた。春海の大和暦を支持する者が彼らの予想を超えて多かったのだ。そのため、わざわざ授時暦を持ち出し、大和暦を支持したかもしれない人々を分裂させ、大統暦を有利にする。春海を京に招いた安倍家ごと蹴落《けお》とすための策だった。
(上手いな)
 春海はそれこそ素直に感心した。相手の布石を切ることは碁の基本である。朝廷工作における切り結びの妙がどこにあるか、春海は泰福には何も言わずに思案し続けた。やがて、
(負けることには慣れている)
 そんな自分の経験に、勝負の妙手を見た。勝ってなお、負けてなお、勝負の姿勢を保つ。
 大統暦を推す一派が、どこまで〝残心の姿勢でいられるかを、じっと推し量った。一方で、えんを連れて京都市中をうろうろしたりした。あちこちの通りを見て回り、人混みの様子を観察しながら、市中で賑《にぎ》わっている場所を、えんから聞いた。
 またさらに、日に五通から十通の手紙をしたため、いつでも出せるよう、準備を整えた。
 その上で春海は、土御門泰福とともに、大和暦の採用を正式に上奏している。
 続けて大統暦、授時暦と、それぞれの採用が上奏された。果たして泰福は、この動きに全くついて行けなかった。勅令で指名された自分を無視するばかりか、授時暦上奏などという事態に唖然となるばかりである。そしてその工作は、見事なまでに効果的だった。
 年号が変わり、貞享元年三月三日。霊元天皇は改暦の詔《みことのり》を発布された。
 発布の直前まで、主だった面々が一堂に会し、決定を待った。その間、春海は泰福の緊張を和らげてやりつつ、その場に居合わせた面々をつぶさに見て取り、どこをどう切るか、あらかた目算をつけ終えていた。そして伝奏の到着が告げられ、
「大和暦法が採用されますよう……大和暦法が採用されますよう……」
 隣で泰福がしきりに呟くのをよそに、春海の心は神頼みとはかけ離れた状態にあった。
 とともに、こんな緊張の場にもかかわらず、幸福の思いが腹の底から湧いていた。
 心の中で、そっと、積み重なっていった己の歳を数えてみた。
 四十五歳と二ヶ月。二十二歳の終わりに北極出地に赴いてから二十二年余が経っていた。
 いや、あの絵馬の群れを――瞬時に書きつけられた一瞥即解の答えを見てから、二十二年だ。
 |からん《ヽヽヽ》、|ころん《ヽヽヽ》。
 幻の音が聞こえた。春海は目を閉じた。そして詔が読み上げられるのを瞑目したまま聞いた。
 帝は、大統暦採用を下された。賀茂家が陰で中心となって立てた明代の官暦である。彼らの工作によって、授時暦と大和暦、いわば春海の過去と現在の両方が、帝の採択から外された。
 ゆっくりと春海が目を開くと、真っ青になった泰福の顔があった。信じられないという顔で春海を振り返った。
「は、は、春海様……ま、まさか……大和暦が……」
 春海は無表情。その場にいる者たちの表情の変化から、この大統暦採用で誰が得をするのかを細かく見定めていた。ちらりと賀茂家の者たちの満悦の笑みと目が合った。勝った者の気の緩みが如実に坐相にあらわれている。彼らの群れが、春海の目に、日だまりの老木と映った。幹ばかり鈍重に太った、虫食いだらけの巨樹だった。春海が、ぽつりと言った。
「泰福様、このまま行きましょう」
「い……行く? どこへですか?」
 泰福は哀れなほど狼狽している。詔が発布された今このときに、怒って席を立っては非礼を咎められるだけだった。だが春海は、ようやく泰福に顔を向け、こう告げた。
「上奏の準備ですよ」
 泰福は愕然となった。たった今、大統暦の採用が決まったばかりである。その席で、決定を覆す上奏の準備を口にする。朝廷に属する泰福の常識を粉々に打ち砕く態度だった。
「も……も、もう一度、上奏すれば……や、大和暦が採用されると言うのですか?」
 泰福がおろおろと訊いた。春海は、にやりと笑い、
「必至」
 事も無げにそう口にした。
       十一
 詔が発布されたその日、春海はかねて用意していた二百八十通にも及ぶ手紙を全て出した。幕府に支払いを頼めないものもあり、手紙を出すための高額の支出を、全て酒井が渡してくれた金で賄《まかな》った。加えて、堀田に対して詳細な手紙をしたため、早急に届けさせた。
 膨大な量の手紙が一斉に出されるのに唖然となっている泰福に、春海が言った。
「では行きましょうか、泰福様」
「ど……どこへですか、春海様」
「梅小路がよろしいでしょう。人がよく集まります。道具もすぐに届きます」
 そう言ってしっかりと二刀を腰に差し、泰福とともに梅小路を訪れている。
 既に、巨大な天測器具が大勢の者たちによって組み立てられている真っ最中だった。かつて北極出地に同行した中間たちの働きである。中心となっているのは、建部家に仕えたあの平助の息子、平三郎である。父親にそっくりの寡黙さ、優秀さで、やって来た春海が声をかけても、
「ん」
 と返しただけで、子午線儀の組み立てに集中している。全て春海が頼み、稲葉が手配したものだった。一尺鎖をじゃらじゃら鳴らしながら器具設置の場所を定め、手に手に特異な形状をした道具を持ち、往来のど真ん中に家屋でも建てるかのような柱を次々に立ててゆく。昔と違うのは幔幕《まんまく》がないことで、これは自由に道行く者たちに見学させるためである。そして実際、この異様な観測準備の光景に、多くの者たちが驚愕して足を止め、人だかりができていた。
「は、春海様、いったい、なんですか、これは」
 呆然と棒立ちになる泰福に、春海は恬淡として言った。
「我々の大和暦法の確かさを、世の民衆に分かってもらうためです」
 やがて巨大な子午線儀が組み上げられ、京市民が驚きの声を上げた。さらに大象限儀の設置が行われるのをよそに、春海は泰福とともに子午線儀の下に敷かれた緋毛氈《ひもうせん》に悠々と坐《すわ》った。そろばんを取り出し、ぱちぱち珠《たま》を打つ。それから、さらさらと紙片に数値を書きこんでゆく。
「な、何をしているのです?」
「北極出地の予測です」
『三十四度八十七分十二秒』
 という数値を見せ、にっこり笑って、そろばんを渡した。
「一緒にやりませんか」
「は、はい……」
 泰福は、おずおずと受け取り、眉間に皺を寄せて算出している。
『三十四度九十八分六十七秒』
 さすがに地元で天測を行う陰陽師の末裔だけあってすぐに数値を出してきた。と、そのとき空にきらめきが見えた。春海は素早く立ち上がり、
「星だ!」
 大声を放って、泰福を跳び上がらせた。
「天測を開始せよ!」
 寡黙な平三郎を中心に、中間たちが手慣れた様子で、組み立てられたばかりの大象限儀の操作を始めた。何かが起こるらしいと、天測のことなど何も知らない見物人たちが、わっと期待の声を上げた。手順通りに三人がそれぞれ同じ数値であることを確かめた上で、中間の一人が数値を紙に記し、それを平三郎が、足早に春海のそばにやって来て、
「ん」
 と手渡した。春海はそれを受け取り、二人が算出した数値と照合した。さすがに驚いた。
『三十四度九十八分六十七秒』
 泰福もぽかんとなっている。秒までぴたりと合うとは思っていなかったのだろう。
「ほんまでっか、これ……」
 急に京訛りになって二つの数値を何度も見比べる泰福をよそに、春海は再び立ち上がるや、
「明察なり! 土御門家当主、見事、北極出地にて明察なり!」
 声を限りに叫びを上げた。なんだか分からないまま見物人たちがやんやと喝采《かっさい》した。泰福は両手に紙を握ったまま、驚きと喜びと気恥ずかしさで真っ赤になっておろおろしている。
「土御門泰福こそ星の申し子なり!」
 大声で笑った。演技でも何でもない、心の底から喜びが溢れていた。
 この日より、春海はこの小路で連日の観測を行った。北極出地だけではなく、恒星を片っ端から観測し、そのたびに春海と泰福とで数値の算出勝負をやったのである。刀を差した春海と、陰陽師の出《い》で立ちの泰福との〝勝負は意外なほど衆目を集め、江戸が勝つか京が勝つかと、通りすがりの者たちがこぞって〝観戦し、銭を賭けた。これが話題となり、〝大和暦の名が京都市民の間で評判になる一方、春海から手紙を受け取った者たちがぞろぞろとやって来た。
 神道家、朱子学者、僧、陰陽師、算術家などが、春海と泰福の勝負を観戦したり、観測を手伝ったりしたのである。改暦に賛意を示して協力を惜しまない岡野井玄貞や松田順承も来てくれた。自然と、今回の詔と代々の暦法についての議論が沸いた。それも梅小路の往来でである。
 言うなれば春海は、天体観測にかこつけて、民衆をひっくるめた公開討論の場を作り上げたのだった。そして人々が見ている前で、多くの専門家たちがこぞって大和暦を称賛し、
「日本の暦法、ここにあり」
 と謳《うた》った。これら天体観測と数値の算出勝負、そして公開討論は、大統暦の採用など知らぬ顔で何日も続いた。そしてその間にも、春海が打った様々な手が、着々と実を結んでいたのである。
 その一つが、詔の発布からひと月と経たずに効果を発揮した。
 朱印状である。
 前年、大老堀田および将軍綱吉が、春海の要請に同意し、土御門泰福を「諸国陰陽師主管」とし、朱印状を下していたのである。これが名ばかりではなく実権が伴うことが明らかになった。土御門家は、全国の陰陽師を配下とすることとなり、その収益は莫大なものとなることは誰の目にも明らかであった。
 これがまず最初に大きく局面を変えた。大統暦や授時暦を支持した公家たちが、みなこぞって、ぞろぞろと土御門家になびき、わざわざ梅小路までやって来るようになったのである。
 さらに春海は、前年、二度目の大和暦改暦の申請である『請革暦表』を作成する際、
『今天文に精《くわ》しいのはすなわち陰陽頭安倍泰福、千古に踰《こ》える』
 と泰福を絶賛し、改暦手当としており、土御門家へ、千石もの現米支給を取り計らっていた。
 また、朝廷と幕府の間で起こるであろう頒暦を司る上での数々の取り決め策を、幕府を通して行っている。様々な権利交渉である。改暦に際し、どこかで誰かが損を受ければ、その者に別の形で得をさせる。ひたすらその繰り返しであった。
 全て布石通りである。春海の予想外の出来事といえば、公家の者たちの心変わりの早さくらいだった。ほんの僅かな期間で、それまで官暦に固執していた公家たちが、揃って土御門に、ひいては春海と大和暦に称賛を送るようになっていたのである。
 そうして、民衆の関心と支持、専門家たちの是認、公家の利得の心をつかんだとき、さらなる勝負の一手が打たれた。
 かつて北極出地の際、春海たちを城に招いた、加賀藩主前田綱紀が、春海の要請によって動いたのである。綱紀の娘の嫁ぎ先である西三条家が、綱紀の意向を受けて仲介役を承知し、朝廷を左右する相手との直接交渉の場を設定したのだった。しかもその相手こそ、関白に就任したばかりの一条兼輝である。兼輝は霊元天皇に最も近い存在として大和暦支持を確約した。加えて、そのことを朝廷内で公言したのである。これによって公家同士の連繋《れんけい》が切りに切られた。大統暦採用を受けて頒暦準備を行おうとしていた動きが、完全に遮られた。
 またこの勝負の一手の直後、春海は以前から目をつけていた、大経師意春とも会っている。
 そしてこの人物に、大和暦の暦法による頒暦の大量作成と販売を一任し、京都所司代たる稲葉による認可を与えた。大経師はすぐさまその巨利に飛びつき、率先して、大和暦以外の頒暦を作成流通させないという、春海が想像した以上の、きわめてあくどい働きを見せた。
 路上での公開討論、世論形成、土御門家への朱印状、関白の確約、販売網の掌握。
 このとてつもない手の数々に対し、ついに大統暦支持派は壊滅状態となった。賀茂家にすら大和暦になびく者が続出した。お陰で、いったい誰がそもそも大統暦を支持したのかも分からぬ様相だった。今や公家層の大半が、大和暦を支持してしまったのである。
「では、行きましょうか」
 さらりと告げる春海を、泰福は、総身を震わせながら見つめた。
「は、春海様は、ほんまに凄《すご》い……私の一生の師です。土御門の恩人です」
「私一人ではどうにもなりません。泰福様のお陰で、どうにか大任が勤まりそうです」
 春海はにっこり笑って言った。そうして、泰福とともに、再び大和暦採用を上奏した。
 生涯を賭けた、四度目の改暦請願であった。
 その夜、春海は、二十二歳の自分がどこかの道を歩いているところを夢に見た。ふと目が覚め、自分が京にいることを悟った。すぐ隣で、えんが眠っている。ふと笑みが零れた。
「幸せ者め……」
 そんな言葉が零れた。かつて何の疑いもなく自分の未来に希望を膨らませていた若い頃の自分に向けての言葉なのか、今の自分に向けてのものなのかは判然としなかった。あの北極出地の測定を任されてから、今年で二十三年。今や、多くの算術家や、旧来の暦法を重んじる者、あるいは中国の学問が最高と信じる者からの罵言雑言が、春海一人に集中していた。そうまでして改暦の名誉が欲しいのか。そういう声が全国から聞こえて来た。
「うん……欲しいな」
 闇の中で春海は呟いた。建部と伊藤に誉めて欲しかった。酒井に天に触れたと告げたかった。死と争いの戦国を廃し、武家の手で文化を作りたいと願った保科正之の期待に応えたかった。闇斎の、島田の、安藤の、改暦事業を立ち上げた仲間たちの悲願を叶えたかったし、亡き妻に胸を張って報告したかった。村瀬に喜んで欲しかったし、えんと我が子に、自分の存在を誇ってもらいたかった。関孝和という男が託してくれたものを何としても成就させたかった。
 己だけの春の海辺に立ちたかった。
 それにしても、いったいいつの間に、これほどの人間が関わるようになったのだろう。どうして自分が、いつまでもその渦中にいられたのだろう。
 |からん《ヽヽヽ》、|ころん《ヽヽヽ》。
 そう思った途端、たまらない喜びが込み上げて来た。いつか聞いた金王八幡の算額絵馬の鳴り響く幻の音が鮮やかに耳に響いた。喪失された天守閣の向こうに広がる果てしもない青空を見た。それらの美しさを思いながら、いつしか微笑みながら泣いていた。
 貞享元年十月二十九日。
 大統暦改暦の詔が発布されてから僅か七ヶ月後のその日。
 霊元天皇は、大和暦採用の詔を発布された。これにより大和暦は改めて年号を冠し、「貞享暦」の勅名を賜り、翌年から施行されることが決まった。
 発布の場で、泰福は己の膝を握りしめ、ただただ滂沱《ぼうだ》の涙を流していた。
「は、ほんま……ほんまに……春海様……やりました……。大和暦が、認められました……。ほんまに、おめでとうございます……」
 春海は、ただ静かに瞑目した。
 過ぎ去った日々、この世を去った者たちの存在を胸に、ただただ感無量であった。
 大和暦採用はすぐさま江戸に報され、
「武家が天に触れたのだ!」
 その報告を受けた将軍綱吉は、そう叫んで歓喜したという。
 幕閣を始め、城中が興奮に沸いた。幕府はただちに天文方創設と、春海の初代任命、そして頒暦による巨額の利益収入の用意を整えている。だが大老の堀田がその興奮を知ることはなかった。享貞元年八月二十八日、堀田は死んだ。殿中での刺殺であった。相手は若年寄であり縁戚にあたる稲葉|正休《まさやす》という男で、これもその場で他の閣僚たちによって斬殺されており、なぜ凶行に至ったかは判然としない。
 さらに堀田の死から間もなく、山鹿素行もまた病で世を去った。最期まで武士の理念を唱え続け、春海の改暦についても、
「もって嗤《わら》うべし」
 という態度を変えることはなかったという。
 堀田と山鹿、ともに新時代を見ることのない逝去だった。
 以後、将軍綱吉は大老職を置かず、己と老中たちとの連絡役である側用人《そばようにん》を重用し、保科正之に倣って文治政策を推進した。が、いつしか生類|憐《あわ》れみの令を始めとした極端な弱者救済が民衆の反感を招き、暗愚の将として記憶されたまま、十四年後に病で没することになる。
 春海による改暦実現はすぐに江戸市中に広まり、これまでにない毀誉褒貶《きよほうへん》を招いた。
 特に算術家たちは口を極めて春海を罵り、磯村塾でも春海を批判する声が上がるほどだった。
 そんな中、村瀬と関孝和は平然とした様子で、二人揃って塾の庭で、空を眺めていた。
「やったなあ、渋川さん」
 村瀬が嬉しげに笑った。
「やってくれました」
 関はそんな風に言って、空に向かって手を伸ばした。
 ほろ苦い微笑みを浮かべて、自分には触れることが叶わなかった天を仰いだ。
       十二
 時は過ぎ、あるいは巡っていった。
 大和暦が採用されてのち、初代天文方として士分に取り立てられ、江戸市中に邸宅が与えられるとともに、晴れて束髪が許された春海は、
「武士になってしまったよ」
 なんとも照れ臭そうに、えんに言った。
「お似合いですよ、旦那様」
 えんも、からかうように笑ってくれた。
 春海のなした改暦ののち、将軍家綱は拙劣ながらも世を武断から文治へとさらに移行させていった。春海が文化事業をもって武家となり、また多くの文化人が城で役職を得ていったことが、城を、ひいては江戸を、新たな存在にした。すなわち、政道や経済のみならず、人々の生活の様相を決定する、文化発信の場となっていったのである。
 それから三十年後の、正徳《しょうとく》五年。
 七十七歳の春海は、えんとともに、京で芝居を観ている。
 近松門左衛門の作による『大経師昔暦《だいきょうじむかしごよみ》』で、例の大経師意春の醜聞がもとになっていた。
 実際の意春は貞享二年、大和暦による頒暦で巨利を得てさらに販売網を拡大せんとして独占に走り、その年の内に京都所司代である稲葉の怒りを買って、改易させられてしまった。以後、大経師は茂兵衛という別の男が担うようになったのだが、これが意春の妻と密通した男と同名であることが、何とも皮肉であると噂になったものである。
 芝居では、現実と違って、妻と密夫は助命が叶い、最後はめでたく結ばれていた。
「面白うございましたね」
 えんが観劇後に微笑んで言い、
「うん、うん」
 春海もうなずいている。体力の衰えから半身が麻痺し、上手く喋れなくなっていた。
 芝居を観終えた客たちの多くが、頒暦を手にしていた。芝居の中で語られる、暦にちなんだ台詞《せりふ》を楽しむためだろう。その暦法を作り上げた老人が、同じ客席にいるとは思ってもいない様子である。そのことを、春海はえんと一緒に微笑んで話した。
 まさかこれほど自分が長く生きるとは、芝居の舞台となった当時から今に至るも、思ってもみなかったことである。お陰で、次々に自分を置き去りにするようにして人々が世を去るたび、春海はただなすすべもなく見送らねばならなかった。
 改暦成就から十六年後の元禄《げんろく》十三年、水戸光国が病で亡くなった。最期まで教養と暴気に溢れ、たとえ相手が将軍であっても遠慮することがなかった。生類憐れみの令が極端化したときなど、自ら五十頭もの犬を叩き斬って毛皮を綱吉に贈り、法令反対を強烈に主張したという。
 そういう怖い存在がいなくなって、将軍綱吉の悪政はますますひどくなり、物価高騰を招いて世情不安を醸成した。その一方、世は華々しい元禄の時代へと突入し、江戸はかつてない栄華の場ともなって、文化を担う者たちの世代交代を促していった。
 光国の死の直後に、春海の義弟である知哲が世を去った。享年五十六歳。道策と最も多く対戦し、その才気を惜しまれての逝去だった。
 春海は既に天文方に就任するとともに碁方を引退していたが、頻繁に道策が江戸の邸宅を訪れたこともあって、ほとんどみなの棋譜を見ている。特に、道策が向二子の一目負けとなったときの棋譜など、かつてない新たな打ち筋が現れており、
「やったなあ」
 春海も嬉しくなって誉め、
「我が生涯、最高の傑作ですよ」
 自分が負けた棋譜のくせに、道策はやたらとはしゃいだものだった。
 そして知哲が亡くなって二年後、道策もまた病で死んだ。五十八歳だった。
 義弟と道策の相次ぐ死ののち、春海は、姓名を〝渋川春海に正式に変えている。ともに上覧碁を打ち、同じ時代を生きた安井算哲の名を、二人の命とともに葬ったのである。
 その翌年、義兄の算知も亡くなった。八十七歳の大往生だった。以後、安井家は十世まで存続することになる。
 そして年号が変わり、宝永《ほうえい》元年となった年に、将軍綱吉は実子がいないことから甲府宰相である徳川綱豊を世子と認め、江戸城に住まわせた。このため綱豊に仕える関孝和が、六十四歳にして幕府直属の士となり、江戸城勤めとなったのだった。春海は率先して城内を案内し、
「あちらが大広間です。大きいでしょう」
「うむ。大きいな」
「ここが虎の間です。ここでお着物を替えます。さ、履き物はこちらに」
「うむ。かたじけない」
 などと二人揃って城を歩いたりした。もしこれが三十年前に実現していたら、果たして春海と関は、ともに改暦事業を行っていたろうか。春海と関の二人については、後の世で会津藩の算術家たちについて略歴が記された際、たった一文だけが遺されることになる。
『蓋安井春海奉命改暦時 以関孝和者精算 命与其事』
 安井家の春海が改暦を行った際、関孝和という者が算術に精しかったため、その使命に与ったのだ、という。だが関は、自分が改暦に協力したとは全く口にせず、ただ春海の功績を誉めた。どんな書にも改暦のことは一語として記しはしなかったし、誰にも記させなかった。自身は算術家たちを多く育て、〝関流は日本随一の算術家の系譜をなし、やがて春海が予見したように、日本独自の数理たる〝和算の誕生を促していった。
 そうして江戸城勤めとなって僅か四年後、関孝和は静かに世を去った。享年六十九歳。
 春海の落胆はこれまでにも増して深く、葬儀ののちも、関の墓前を訪れては泣いた。
 それに同行し、慰めてくれたのが安藤である。最期まで謹厳誠実な人となりを失わず、あるいはそのせいで、改暦事業ののち多くの辛苦を背負うことになった。部下の不始末の責任を取り、自ら蟄居《ちっきょ》の罰を甘んじて受け、何年もの間、みなが安藤の無実を知るにもかかわらず、幽閉生活を送ったのである。晴れて赦免となってのち、かねてから春海に負けずに研究を続けてきた暦註検証の書を刊行し、江戸で、関や村瀬も交えてともに喜び祝ったものだった。そしてその安藤も、関の死からほどなくして没した。きわめて長齢の、八十四歳での逝去だった。
 翌年、将軍綱吉が薨去し、綱豊が六代将軍|家宣《いえのぶ》となって年号が正徳に革められたのを機に、春海は息子の昔尹に天文方の家督を譲って隠退した。
 家宣はただちに綱吉の悪政を廃止し、幕政立て直しをはかったが、たった三年で急逝してしまった。その幕政の混乱とさらなる立て直しを、春海はただ過ぎ去るべき者として眺めている。
 間もなく幼い徳川|家継《いえつぐ》が七代将軍となったとき、江戸は〝場末の町並地をふくめ、九百三十三町にまで増え、〝八百八町を超える世界最大規模の巨大都市へ発展していた。
 かつて明暦の大火と玉川上水によって生まれ変わった江戸は、さらに時代の爛熟《らんじゅく》を経て、春海の見知らぬ都市へと成長していった。
 そうして二年後の四月、春海がえんと連れ立って芝居を観た正徳五年。
 長子の昔尹が、三十二歳の若さで急逝した。まだまだこれからのはずだった。
 夫妻ともに悲しみに耐え、知哲の子を義子として迎え、安井家と渋川家の安泰に尽力してのち、春海はどっと魂が抜けたような疲労を覚えた。回復のない、自分の命の限りへと近づくばかりの疲労である。ようやく迎えのときがきたと悟ったのだろう。春海はこののち多くの時間を、身辺整理や子孫への遺言の作成にあてている。そしてその際、
 類《たぐ》ひなき きみのめぐみの かしこきを
  なににたとへん 春の海辺
 こんな歌を遺すよう指示している。きみとは誰のことか。あるいはそれは、巡りゆく星々と、それらを読み解くことによってもたらされる天の恵みのことだろうか。
 なお、えんは他に、二人の娘をもうけ、このとき既にそれぞれ良縁に恵まれていた。
 それから半年後の十月。
 春海とえんは、金王八幡の神社を訪れている。〝葉も枯れた枝だけの桜をわざわざ見に行ったわけではないだろう。何かを奉納したわけでもなく、ただの参拝である。むしろ神社に断って何かをもらって帰ったらしい。もしかするとそれは、遠い昔に春海が献げた〝誤問の算額絵馬だったかもしれない。春海からすれば、その絵馬が存在し続けた理由は一つしかない。
 えんが、焼かないよう神社に頼み、誤問の紙とともに残したのである。
 きっと春海がそのことを問うても、えんのことだから、
「存じません」
 にっこり微笑んで言ったろう。
 それから数日後の十月六日。
 春海と後妻、ともに同じ日に没した。
 残された家人たちは、最期まで仲むつまじい夫妻であった、まったくお二人らしいことだと、まるで不幸ではなく、祝うべきことでもあったかのように話している。
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主要参考文献
『算額道場』佐藤健一/伊藤洋美/牧下英世(研成社)
『新〝和算入門』佐藤健一(研成社)
『渋川春海の研究』西内雅(錦正社)
『明治前 日本天文学史 日本学士院日本科学史刊行全編』(財団法人 野間科学医学研究資料館)
『近世日本数学史 関孝和の実像を求めて』佐藤賢一(東京大学出版会)
『授時暦 訳注と研究』藪内清/中山茂(アイケイコーポレーション)
『暦ものがたり』岡田芳朗(角川選書)
『天文方と陰陽道』林淳(山川出版社)
『和算研究「貞享暦改暦に就いて」』児玉明人(算友会)
『横浜市立大学論集 日本書紀朔日考』山内守常(横浜市立大学学術研究会)
『科学史研究 第一号「渋川家に関する史料」』神田茂(日本科學史學会)
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[#地付き]この作品は「野性時代」二〇〇九年一月号~七月号に掲載されました。
[#地付き]単行本化にあたり加筆、訂正を行っています。           
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冲方丁(うぶかた とう)
1996年、大学在学中に「黒い季節」で第1回スニーカー大賞を受賞しデビュー。以後、小説を刊行しつつ、ゲーム、コミック原作、アニメ制作と活動の場を広げ、複数メディアを横断するクリエイターとして独自の地位を確立する。著作に『マルドゥックスクランブル』『はいはい、アース』『テスタメソトシュピーゲル』などがあり、2009年、初の時代小説『天地明察』を上梓した。
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