「今度の勝負は何年かかるのです?」
「十年」
たちまち、えんが冷たい顔になるのへ、慌てて言い直した。
「い……いや、それよりは早く成就させてみせる。か、必ずだ」
「一年の次は三年、その次は十年ですか。だいたいあなたが期限を守ったことがあるのですか」
「う……うん、まあ……」
「家が許すのでしたら、今度こそあなたが期限を守るよう、そばで見張って差し上げます」
「え……?」
今度は、春海の方が、まじまじと見つめ返した。えんは何も言わず、肩をすくめて立ち上がった。で、どうするんだ、と問うような眼差《まなざ》しが降って来た。
「あ……ありがとう」
さっと立ち上がり、
「秋には必ず迎えに来る」
固く誓うように言った。
「秋?」
まだ一月である。えんの呆れ顔をよそに、
「うん、必ずだ。では、御免」
行儀良く頭を下げると、大急ぎで身を翻し、そのまま駆け足で荒木邸を後にした。頭の中は、これからやらねばならないことで一杯だった。算知に話を通す、関の考察に目を通す、事業再開を仲間たちに告げる。
春海が脇目も振らずに立ち去る一方で、塾の方から村瀬が面白そうに笑みを浮かべながら、えんのそばまでやって来て言った。
「みんな聞いてたぞ。家の方も聞こえたろう」
えんは泰然としたもので、
「ならきっと話が早いでしょう」
と言った。
「喪が明けたな」
村瀬が笑った。
四
それから一年余の、延宝五年、春。
春海、三十八歳。京の生家で挙げられた二度目の祝宴において、
「何が、秋ですか」
嫁入り飾りの下から、えんの燃えるような怒りの目が向けられ、
「も‥……も、申し訳ない……」
春海は縮こまって、冷や汗をかいている。
つつがなく祝言が済み、床入りを前にした、花婿と花嫁のみの饗の宴《うたげ》である。
関孝和から授時暦考察の束を受け取ってのち、春海はすぐに、改暦事業の再開を仲間たちに伝える手紙をしたためるとともに、婚礼の願いを義兄算知に告げていた。
かねてから春海に後妻を娶《めと》るよう勧めていた義兄は、その心機一転を大いに喜んだ。
「よくぞ言った。さすが安井家の長子。さっそく二本松の磯村殿に初見願おう」
「ち、違います、兄上。磯村様は塾の村瀬殿の師です。えんさんは、もとは荒木家の娘ですが、今は石井家の……」
「心配いたすな。必ずや良縁成就させ、お家の安泰、安井家の捲土重来《けんどちょうらい》となそう」
完全に勝負の姿勢である。本因坊との熾烈な勝負に敗れてのちも、ますます意気盛んな算知は、嬉々《きき》として縁談を進め、あっという間に話を通してしまった。荒木家も石井家も、将軍様御前で碁を打つ、という一言で縁談を承知したらしい。春海が改暦勝負をぶち上げ、大いに挫折《ざせつ》したことも問題ではなかった。武家は禄にあぶれるばかりのご時世である。江戸城内で公務があるというのは、それだけ人も羨《うらや》む立場なのだ。それならすぐにも婚礼を挙げられそうなものだが、何しろいったん京の生家に戻り、事業再開と嫁取りの準備を同時に整えねばならない。
「よう決意した!」
闇斎は春海の肩をぶっ叩いて、事業再開も婚礼も喜んでくれた。そればかりか、
『士気凛然、勇気百倍』
春海がえんに向かって放った言葉を、そのまんま事業関係者に伝え、事業の中心者たる春海の再起を伝えた。そのせいで遥《はる》かのちの世にまで、その八字が伝わることになるとは、まさか闇斎も春海も思っていなかったろう。そんなわけで、さっそく闇斎の人脈で公家《くげ》や僧や神道家たちに協力が呼びかけられたが、幕府の支援も無い今、大半が改暦に懐疑的だった。かと言って春海と闇斎だけでは、高価で巨大な天測器具を扱うにも支障をきたす。主な道具を、春海の生家の庭に設置するだけでも大変な苦労だった。人も金も潤沢だった北極出地の旅が思い出され、いかに建部と伊藤が苦心して事業に漕《こ》ぎ着けたかを改めて思い知らされた。
「授時暦自体に誤謬があるのです」
という春海の態度が、さらに協力者の数を激減させた。数理と暦術に精通している人間であればあるほど、授時暦の精密さを知っている。それが誤謬であるなど、春海が正気を失ったのかと疑う者すらいる始末だった。
「ほんまに精密なら、蝕を外すかいな」
闇斎はあっさり授時暦に誤謬ありという考えを受け入れたが、安藤や島田などは、
『一概に断じかねますが』
などと動揺を隠しきれない手紙を送ってきていた。確かに研究を重ねれば重ねるほど、授時暦は一つの美として称えたくなるようなしろものである。それを斬って葬る算段は、春海にも、まるでなかった。全ては春海の、また関孝和の考察によって導かれた仮定なのである。しかも大逆転の発想であり、雲をつかむような話だった。
『こちらでも検証を重ねますが、もし何か方策がおありなら御教示願いたい』
安藤や島田の心許《こころもと》ない返答も、彼らにとってそれが精一杯であることは春海も分かっている。実証する方法そのものを、完全に新しい角度から発明しないことには一歩も進めなかった。
春海は、まず関孝和の考察の数々を頼りとしながら、新たな方法論を誕生させる方策に没頭した。天体観測の道具も設計し直してはどうか。日月|星辰《せいしん》を測るための基準値を再設定してはどうか。授時暦を構成する数理を一つ一つばらばらにし、かつ世の様々な数理を挙げ、ある数理と別の数理が組み合わさることで、考えもしなかった矛盾が生じるか、試してはどうか。
どれもこれも気の遠くなるような労苦、金銭、人手、時間が必要だった。とても協力者を募れるものではない。その上、様々な検証や、ちょっとした天測の情報などが、片っ端から自分のもとに集まれば、それらを一瞥するだけでも膨大な時間が必要となる。
闇斎とたびたび相談しながら、春海はやがてそれらを解決する算段を明白にした。
それは天啓のごとく閃《ひらめ》いたが、実のところ過去からの課題そのものだった。
何の目的もなくおびただしい情報ばかり集めても、無駄ばかり増えてゆく。それよりもまず全ての土台となるような別の事業を設定し、その成就を通して、少しずつ授時暦の誤謬解明へとつなげる。そのために、何を土台とすべきか。大地である。遥か彼方の天を眺めようとする前に、己の足元である大地を、再設定すべきだった。
(日本の分野作りだ)
それこそ、かつて北極出地で伊藤から託された一事であったではないか。中国から伝えられた星の相と、地の相、そのつながりを、全て日本に存在する独自のものに置き換える。あのとき既に、自分にはなすべきことが与えられていたのだ。そればかりか、
(頼まれました)
かつてそう答えたではないか。その責任を、今こそ取るべきだった。
そうして算段がようやく定まり、どうにか協力者たちをいたずらに困惑させずに済むようになったときには、いつの間にか秋になり、本来の碁打ちの職に戻らねばならなくなっていた。
しかも普段のお勤めであればまだしも、
「本因坊道悦様、碁方引退」
こんな一大事が持ち上がったのである。算知との勝負に勝って僅か二年、本因坊道悦はその跡目を、一番弟子である道策に譲ることを決め、城の寺社奉行と碁打ち衆に報告した。
「すわ、争碁か」
碁打ち衆のみならず城の者たちの多くがそう思った。若い道策が、安井家の算知もしくは春海と熾烈な勝負を行うことになる。それならそれで春海も覚悟を決めれば良いだけだったが、ここで道策の圧倒的な才能の輝きが議論の種になった。
今や、安井家のみならず本因坊をふくむ囲碁四家の誰一人として、道策に勝てないのである。ただ勝てないのではなく、ついていけなかった。道策は碁における革命児であり、その実力は一手ごとに碁の定石そのものを変貌《へんぼう》させようとしていたのである。ゆえに、
「名人位、遜色《そんしょく》なし」
道策の碁方就任を認める方へ傾いたのだった。ならばそれはそれで話が簡単であるはずだが、何しろ御城の公務である。二度も争碁を行いながら、今度は争碁なしとなれば、碁打ち衆全体の決定に誤りがないことを寺社奉行に証《あか》し、かつ大老や将軍様のご意向を伺わねばならなかった。手間に手間が重なり、安井家も、算知や春海のみならず義弟の知哲もふくめ、いちいち碁打ち衆の合議に顔を出し、道策の碁方就任に賛同する文書をせっせと調えることになった。
「面倒です。勝負をしとうございます。ぜひ、勝負をいたしましょう、算哲様」
当の道策は、むしろ悔しげに春海に言い募ったものだ。
「私は、お前が碁方に就くことに全く異存はないのだが……」
「異存の問題ですか。栄えある勝負なのです。せっかくの争碁なのです。わたくしだけ除《の》け者だなんて、ひどいではありませんか」
泣きそうな顔で言う。楽しみにしていた祝い事がなくなってしまったようだった。
だが結局、将軍様も道策の妙手には大いに感嘆しており、争碁なしでの四家同意のもと、異例の碁方就任が決まってしまった。
本因坊道策、三十二歳。若くして碁打ちの頂点に立った瞬間であった。だが、
「恨みます」
就任の儀の際、道策に真顔で言われ、春海はひやひやした。
そんなとき、さらに面倒があった。とは言え春海自身の意志であり都合である。長らく義兄を立てるため〝安井や〝保井を使い分けていた春海だが、今回の婚礼を機に、正式に〝保井への改姓を決めた。これには、春海とえん、それぞれの亡妻と亡夫への礼儀の意味合いもある。不義密通が死に値する罪とされる世である。春海は亡妻ことだけでなく、えんの亡夫の墓前も訪れ、この婚礼が不義ではないという許しを死者に得る供養をしている。役所にもそのように届け出た。幕府と京都所司代の両方にである。これが手間で、ふた月ほどもかかった。
そうこうして翌年の春になってやっと婚礼となり、その分、
「秋だと、自分から約束したでしょう」
実に容赦なく、えんに睨《にら》まれた。
「こ、ここまで遅れるとは、思いもよらず、面目もない……」
ひたすら平身低頭の春海である。えんは怒った顔のまま着物の帯から紙を取り出し、すっかり色あせて皺だらけになったそれを、春海の前で広げてみせた。大円と小円。大方と小方。それらの蝕交から分を求める――かつて、えんが預かると言って取り上げた、春海の誤問だった。
「持っていてくれたのか……」
思わず涙がにじんだ。手を伸ばそうとすると、ひょいと取り上げられてしまった。
「お返ししようと思っておりましたが、やめました。期限を守らなかった罰です。あなたの事業が成されるまで、今一度、お預かりいたします」
「う、うん。今度こそ、必ず、十年のうちに事業を……」
「あと九年です」
ぴしりと宣告された。
「う……うん」
「あなたの亡き奥方様に代わり、今日から私があなたを見張っておりますから」
「うん……。それで、あのう……もう一つ、頼んで良いかな」
「いったいなんですか」
「私より先に、死なないでくれ」
えんはしばらく春海を真っ直ぐ見つめ、それから、おもむろに吐息した。
「無茶ばかり頼まないで下さい」
「すまない……でも頼む。頼みます」
「分かりましたから、あなたもしっかり長生きして下さい。いいですね」
「うん。けど、えんさんも……」
はいはい、と素っ気なくあしらわれた。そして、またじっと春海を見た。春海もえんを見た。
塾で十二年ぶりに再会したときのような不思議な沈黙が降りた。いい歳の男女が、本当に今このとき、青年と娘に戻って見つめ合っている気分だった。春海はほとんど初めて、この女性がこれから自分の妻になることを意識した。そんなことを正直に言えば、えんに滅茶苦茶に叱られそうだが、無我夢中の勢いだった。それが今やっと冷静になり、実感が湧いた。初めて出会ってからおよそ十五年。実現を願うどころか想像すらしなかった想いの成就だった。
やおら、えんの方が、襟元を撫《な》でつつ、言った。
「あの……私も、お頼みしたいのですが」
「な、なんだい。なんでも言ってくれ」
すると、えんは、ちょっと目を逸《そ》らして、その頼みごとを口にした。
「早く、この帯を解いていただけますか」
春海は真顔のまま、こっくんと大きくうなずいた。
五
保井算哲として最初に公文書に名を記したのは、二刀の返納の文書だった。婚礼を機に寺社奉行から命じられたのである。厄介者であり、事業拝命の証しでもあった二刀である。失うことは辛かった。だが今こそ本当に何の後ろ盾もなく、個人として改暦事業への邁進を決意する上で、二刀の喪失は、避けては通れないことのように納得する自分もいた。
(まずは地の定石をつかむ。そして天の理を我がものにする)
春海はそのため、北極出地の旅に出てより十六年、培い続けた全ての知識と技術とを総合していった。北極出地による各地の緯度。渾天儀《こんてんぎ》製作のための詳細な星図。授時暦の研究における天測と数理。そして保科正之や闇斎や吉川惟足によって研究された神道の奥秘。
それらを一つ一つ丹念に照会し、矛盾なく結び合わせてゆく。その上で〝分野という中国の国家的占星術の技術を適合させる。日本全土から見える、占術面で中心となる星とを結び合わせるだけでも大変な作業だった。だがそれを行うことで、土地の緯度と星の運行とが、精緻《せいち》な織物の経糸《たていと》と緯糸《よこいと》のように照応してゆき、さながら天と地とが互いに近づくようだった。
気が遠くなる作業だが、心気は充実する一方である。暦という天地そのものを相手にした難問に、一歩また一歩と解答の道筋がつけられてゆく実感があった。地の定石、天の理とは、こんなにも人の心に希望と情熱を抱かせるのかと、春海自身が驚くほどだった。
公務の合間を縫っての研鑽だが、まったく苦に思われない。かつて愛妻を亡くしたときのような、空虚さを無理やり事業への傾倒で埋め合わせる心境とはほど遠かった。
というより、えんの〝内助には、いささか春海の想像を超えるところがあった。京でのことである。あるとき闇斎との相談を終えて家に帰ると、庭にあった桃の木が忽然《こつぜん》と消えていた。
あまりのことに驚き、えんに訊くと、
「伐《き》りました」
当然のように言われた。家人に頼むのみならず自ら一度二度と斧《おの》を振るったそうな。
桃の実がなれば盗む者が後を絶たず、枝が伸びれば隣家から苦情があり、花が咲けば枝ごと折ってゆく者がいる。近所でも有名な木で、その分、面倒ごとが多かったのだが、
「あなたの技芸向上に水を差すような些事《さじ》の源など、この家に一切不要です、旦那《だんな》様」
怖いほど、にこやかな断言だった。そしてこの〝処断を、近隣の者たちが誉めた。
「さすが武家の娘は違う」
あっという間に一目置かれるようになり、なんと近所中の奥方やら娘やらが、何かと、えんに相談事やら悩み事やら話しに来るようになった。えんは、さばさばとした態度で、彼女らを励ましたり、あしらったりし、かと思うと、
「あと八年ですよ、旦那様」
にっこり笑って春海に茶を差し入れたりする。怖くてとても怠けていられない。一方、その心気の充実は、事業以外においても如実に表れた。
延宝五年、十一月。御城碁において、春海が、道策を五目の差にまで迫った。他の打ち手ならまだしも、碁方についた道策相手の健闘を、将軍様を始め幕閣の面々が揃って誉め、
「保井に妙手あり」
碁の革命児たる道策の打ち筋に、ついてゆくだけでも立派なものとされた。
翌年の同じ月、同じく御城碁における勝負は、さらに白熱した。なんと道策に対し、春海が、三目の差に迫ったのである。
「保井が勝つか」
勝負の途中、幾度か、そのような囁《ささや》きが起こった。勝敗が決した直後などは、
「双方、見事なり」
あろうことか将軍家綱が、春海と道策の両者に向かって声を発し、幕閣の面々を驚かせるということまであった。将軍様が碁打ち衆に対して言葉をかけることなど異例中の異例である。
「この棋譜をご覧なさい、算哲様」
勝負の後、道策が勢い込んで言った。
「この見事な打ち筋。これでもあなたは星を選ぶのですか。暦などにせっかくの才を費やすと言うのですか。どうして碁に専心してくれないのですか」
「星が、私に命を与えてくれるんだ」
春海は、やんわりと、しかし、はっきりと確信を込めて告げている。
道策は唇を噛んで立ち尽くした。ひどく寂しそうだった。その細い両肩に、天才ゆえの孤独と淋《さび》しさがにじんでいる。ときおりそれと全く同じ姿を見せる男を、春海は知っていた。関孝和である。授時暦の考察を託されて以来、しばしば春海は関を訪れ、親交を持った。春海が背負う課題に対し、関は惜しみなく助言してくれた。素晴らしい閃きに満ちた考察を受け取る一方で、春海は、関の孤独を感じた。自分が名を挙げる機会が皆無の事業に、これほど積極的に協力してくれるのは、それだけ日頃、関に理解者がいない証拠でもあった。
(関さん、笑っていました。あなたのこの設問を見て、嬉しそうでした)
あの誤問を見て、関がどれほど春海に期待したか。対等に渡り合うだけでなく、むしろ自分以上の閃きを見せつけてくれるのではないか。あてどもない研鑽の道をともに歩めるのではないか。実際に関が春海に語ったわけではないが、そう強く願っているのは痛いほど分かる。
その期待に応《こた》えたいと素直に思う。だが春海は、それとは別のことを、関にも、このときの道策に対しても、口にしている。
「弟子を持て、道策。大勢の弟子を。お前が星となれば、多くの才ある者が迷わずに、お前のいる場所へ辿り着く。中には、お前を追い越してゆく者だっているだろう」
それが、もう一つの春海の素直な思いだった。自分がひたすら関の背を追い続けたことからの実感である。そしてそれこそ関や道策に、春海が何より期待することであり、彼らの天命であることを彼ら自身にも増して感じていた。関が、〝算学という、無知の者にも算術を学ぶ機会をもたらす思想を抱いたのも、彼の天命ゆえだと春海は信じている。
だが道策は、かえってひどく寂しげだった。突き放されたと思ったのかもしれない。
春海は優しく言った。
「私だって諦《あきら》めたわけではないよ」
「……何をでしょう?」
「初手天元」
にわかに道策が目を輝かせた。
「いつか、お前から奪い返してみせるよ、道策」
道策はやっと微笑み、
「負けませぬ」
嬉しげに言った。
その後、道策は多くの弟子を持った。うち一人は五代目本因坊となり、さらに名人に、すなわち碁方に就いた。それ以外にも、井上家四世を継ぐ者など才能溢れる者たちが集まり、道策の指導のもと、碁の定石や布石は大いに進歩してゆくこととなる。
そしてもう一人の竜も、春海の願い通り、同じく多くの弟子を育てた。そのうち二人を、春海は牛込の関の自宅で紹介されている。
「建部|賢明《かたあき》と申します」
十五歳の少年が凛と告げた。
「建部|賢弘《かたひろ》と申します」
十三歳の少年が負けじと声を上げた。
春海は彼らの前に坐したまま喜びのあまり咄嗟に口がきけず、目が潤むのを覚えた。二人とも、あの建部昌明の甥《おい》である。二人の少年たちに、建部の面影を見るような気がして、もう少しで泣き出してしまいそうになった。
「この者たちには、わしの術理をことごとく学び取ってもらうつもりだ」
関は、その程度のことは当然だというような顔でいる。
「ゆくゆくは、わしに代わって、主だった算術を書にしてもらいたくてな。やはり、書の版行は、わしの柄ではない」
そこまで関に言わしめるのだから、この若き建部兄弟の才気の確かさが窺《うかが》えた。
可哀想なくらい緊張する建部兄弟に、春海は微笑んで言った。
「これはまた大変な師を持ったね」
賢明と賢弘が、揃ってうなずきそうになり、慌てて左右へかぶりを振った。
「必ずや精進してみせます」
兄が元気良く告げた。事実、のちに兄弟は成長して関とともに優れた算術書を出し、やがて師を乗り越え、新たな数理を開発することになる。その門派は〝関流と呼ばれ、建部兄弟はその代表格として名を成すのだが、このとき春海は、ただ噴きこぼれそうになる涙をこらえ、
「精進せよ、精進せよ」
声を上げて笑いながら、言った。
六
春海自身の精進が実を結んだのは、それから間もなくのことである。
『天文分野之図』
延宝五年の冬から七年の夏にかけて江戸や京などで書として出版された〝日本の分野は、まさに全国規模の注目を受けた。
精密な天測と運行の計算とに裏打ちされた星図の全てが、全国各地の大地に照応されており、星々の位置やその蝕などから、各地の〝吉凶が一目|瞭然《りょうぜん》となる。春海のこれまでの技芸、そして神道の教養の集大成であった。その出来映えに、江戸の天文家、京の陰陽師、各地の僧たちが揃って唸ったという。そればかりか、巻物の装丁を生業《なりわい》とする経師たちが、春海の『天文分野之図』を、一つの美とみなし、何の関係もない本の表紙に流用したのである。それにより、さらに天文暦術や数理とは無縁の人々の間にも、〝天文図が一挙に流行したのだった。
春海も、その成果というか、ちょっと想像しなかったものを闇斎が手に入れ、面食らった。なんと美人画である。背景や着物の柄に〝天文図があしらわれていた。そればかりか絵の主役である女が、婀娜《あだ》っぽい様子で読んでいる本そのものが、『天文分野之図』なのである。
とはいえ家で美人画など飾れば、えんの無言の冷罵が待っている。代わりに麻布の磯村塾に持っていき、村瀬にあげることにした。たまたま江戸に戻っていた関も塾に来てそれを見た。
関は、延宝六年に甲府宰相たる徳川綱重が没してのち、その子の綱豊に仕えて勘定吟味役となっている。城中にお勤めを持つ春海が、おいそれと邸宅を訪問するのも憚《はば》られるため自然と磯村塾で会うことが多くなった。そのときも、春海が持参した魚を炙《あぶ》って食べながら、春海の事業の成果であることを言い訳に、いい歳の男が三人、美人画を囲んであれこれ真面目な顔で話すという、大いに楽しいひとときを味わった。
「絵の構図というのも、なかなか算術的だ」
関は、ぱちぱちそろばんを弾き、余白と女の面積やら、女の背丈と腕の比やらを算出し、
「〝解答さんも、女に関しては一瞥即解とはいかないかね」
村瀬にからかわれたりした。
「解く段取りがむしろ冥利《みょうり》」
しゃらっと関が返すのへ、村瀬も春海も馬鹿みたいに笑った。
春海に考察の山を託して以来、関から事業について進捗《しんちょく》を尋ねることは一度もなかった。
江戸にいる間、春海はしばしば村瀬や関と碁を打った。彼らが指導碁を望んだからでもあるが、何より〝碁会と称して安藤を招くためでもあった。これも十数年かけて果たせた約束である。安藤はたちまち関の才気に心酔し、藩士としての立場から師事できないことを惜しんだ。
そんな算術家同士の交流においても、関が率先して改暦について語ることはなく、
「また天に近づいたな」
春海が何かを成し遂げるたび、そんな風に端的に称えるだけである。一方で、数理算術の話題は年々、鋭さを増してゆき、春海に崇敬を抱かせんばかりであった。事業推進を急かし立てるのではなく、術の研鑽を共有することで、春海を無言のうちに支援する。その代償など何も求めない。ただ春海の歩みを信じている。それがこの天才の一貫した態度だった。
一方、春海は『天文分野之図』の書を、伊藤が荼毘《だび》に付された寺と、伊藤の子息に献納し、
「やっと出来ました、伊藤様」
伊藤の病没から八年、ようやくの成就をもって、改めて冥福《めいふく》を祈った。
さらに同年、春海はまたもや注目を浴びるものを版行している。
『日本長暦』
という書で、かつて改暦事業が開始された際、闇斎が提言した〝暦註《れきちゅう》の検証を、本当に神代の過去にまで遡って当てはめたのである。その最初のものは既に〝分野作りの過程として、延宝五年には出来上がっていた。それを世に広めさせるものとして精錬した書であった。
これら『天文分野之図』と『日本長暦』の発表により、春海は中国の占術概念を飛び越え、全く新たな、日本独自の国家的占星術の基礎を、ただ一人で試行した人物とみなされた。
安藤や、会津にいる島田からも、
「神憑《かみがか》りの偉功」
と敬われるほどで、闇斎や、神道界筆頭たる吉川惟足からは、
「安倍|晴明《せいめい》に匹敵せんとする学士」
などと激賞された。
「陰陽の鬼神|呪術《じゅじゅつ》がなんぼのもんや。天文暦法と神代の奥義こそこの国の秘儀の根幹や」
そう言って闇斎は、春海の背も肩も、ばしんばしんと、ぶっ叩いて喜んでくれたものだ。
あるいはそれ以上に喜んでくれたのが、かの水戸光国である。『天文分野之図』と『日本長暦』とを、ごつい両手にそれぞれ握りしめ、
「うぬう」
ものすごい唸り声を発しつつ、ぶるぶる震えていた。額に太い血管が浮いており、今度こそ、その岩のような拳《こぶし》で殴殺されるのではないかと、春海は生きた心地がしない。
「そなた、いったい幾つ、歴史に残るものをこしらえれば気が済む」
「か……過褒にて……」
「何が過褒か。当然の評価と思え」
殺気のこもった尊敬の眼差しという、およそあり得ない睨まれ方をされた。
「ここまでしておきながら、改暦の儀、よもや諦めはせんだろうな」
「はい」
春海は断言した。そのための分野作りであり暦註検証なのである。目的は授時暦の検証だけではない。中国からもたらされた至宝のごとき暦術から離れる。そうして日本独自の術理を新たに創出する。それこそ改暦のただ一つの突破口なのだと、このとき春海は深く確信していた。
「水戸が助ける。会津にも手伝わせる。何でも渡してやる。何か必要なものはあるか」
光国が身を乗りだして言った。早く見せろとねだる子供のようだった。春海は僅かに逡巡《しゅんじゅん》したが、すぐに腹を決めた。
「一つだけ、入手できぬものがあります。元は洋書です。題を、『天経或問』と言います」
さしもの光国が言葉を失い、
「ぬう」
虎の唸りを思わせる声を零した。
『天経或問』とは、中国の游子六という人の書で、西洋の天文学の詳細が記されているものとして、名だけは有名だった。だが切支丹の本格的弾圧と禁教令の全国施行により、洋書の類とみなされるものはほぼ禁書とされている。その禁制をすり抜けるただ一つのものが漢訳版や漢書だった。切支丹の教義が記されていないものに限り、一部の者にのみ読むことが許されているのである。
だが『天経或問』は、切支丹の教義書ではないとされているものの、星は宗教と密接につながっている。どこで切支丹の記述に出くわすか分からない。禁教令を破ったとみなされれば、即座の投獄が待っており、春海の人生は終わる。
「覚悟はあるのか」
光国が訊いた。
「天に手を触れようというのです。生涯をかけねば届きはしませぬ」
春海は即答している。もはやただ時間をかけて研究すればいいという段階は終わっていた。今、完全に別の角度からの検証が必要となっていたのである。そして春海の中では、〝何を検証すればいいかが、やっと朧気《おぼろげ》ながら察せられようとしていた。そこからさらに理解と確信を得るためには、中国でも日本でもない、第三の視点である洋書の存在が不可欠と考えるようになったのである。
ふいに、虎がにやりと笑った。この上なく恐ろしく、また頼もしかった。
「案ずるな。何があろうと決して、そなたとその一族に、手は出させぬ。たとえ相手が将軍その人であろうと、余がそなたを守る」
光国は約束を守った。翌年初め、解読に何の不都合もない、驚くほど破れも染みも皆無の『天経或問』が、ほとんど秘匿公文書の扱いで、江戸の会津藩邸に送られ、春海に渡されたのである。しかも光国の〝学問好きが、ただの趣味ではなく、藩政や幕政を左右するものである証拠に、いったいどうやって手に入れたのか、南蛮人が製作した地図まで添えられていた。
『坤輿《こんよ》万国全図』
という世界地図である。マテオリッチというイエズス会の宣教師が、布教のため訪れた中国で天文学を教える傍ら、製作した地図であるという。さすがの春海も初めて見たときは唖然《あぜん》となった。いったいどこに日本があるのか分からない。やっと見つけたと思ったら、小石のごとき国土に仰天した。京でその地図を広げているとき、えんに後ろから覗かれ、
「これが日本ですか?」
疑わしげに訊かれた。だが春海はこれが事実なのだとすぐに理解している。星の観測を通して、地球が巨大な球体であることはとっくに知っていたし、その球体の上に乗った、離れ小島のような列島が、日本であることにも納得していた。
「この世は、これほど広大だということだ。私たちが小さいのではなく、世が大きいのだ」
春海はえんに、そう説明している。
「あと六年ですよ」
えんが、なんだか急に心配になったように言った。まさか夫が、これほど巨大なものを相手に奮闘しているとは思っていなかったというような顔である。だが春海は地図を見ながら、
「必至」
強い笑みを浮かべて告げている。これほどのものを光国が用意してくれたお陰で、さらに自分が飛躍するだろうという予感があった。春海を見つめるえんも、それ以上は疑いを口にせず、
「はい」
と楽しげに微笑んだ。
事実、培い続けてきた知識と技術に加えて、西洋の視点を取り入れることにより、春海は飛躍的にその見識を深めている。だがその間、改暦に関わる者たちは次々に世を去っていった。
延宝八年、夏。島田貞継が病で逝去した。
死の寸前まで天測研究を続け、改暦のための重要な資料を多く遺《のこ》してくれたことを、安藤が手紙で報《しら》せてくれた。島田は、安藤にとってかけがえのない算術の師匠である。
〝ついに主君の遺命を果たせず
という島田の無念と、
〝どうか改暦成就を
強く願う安藤の思いとが、ずしりと音を立てて春海の身に降りかかった。春海はそれをしかと受け止めている。本当の改暦へ、あと一歩で到達するのだ。そう安藤に告げ、成就を誓った。
そして、そのひと月余りのちの、五月。
将軍家綱が、四十歳の若さで急逝した。病没である。幕閣の誰もが軽い風邪と思っていたらしい。家綱はやや病弱であったとは言え死の直前は健康そのものだった。跡継ぎすら定まっておらず、突然の死に、城が緊迫を帯びた。大老酒井は、対処について老中たちの質問に即答せず、ただじっと宙を見つめていたという。心の中では、五代将軍の候補が様々に駆け巡っていたのかも知れない。
が、にわかに政変が起こった。
老中である堀田〝筑前守《ちくぜんのかみ》正俊が、まさに電光石火の動きを見せ、家綱の異母弟である綱吉を擁立した。堀田がそれほどまでに強引な手段で政権を左右しようとは誰も思わなかったらしい。確かに、堀田の亡き父はかつての家光の側近、春日局の遺領を継いで家格に不足もなく、歳も四十六歳、きわめて壮健である。だが何しろ老中格の中でも末席にあり、勝手に徳川家の一員を担ぎ上げるなど、下手をすれば謀反である。
けれども大老酒井は、不思議なほど何の対処もしなかった。猛烈な速度で堀田やその一族が権力を奪取するのを淡々と眺めていた。己の地位が危うくなることに対して、およそあり得ぬ無関心さを示し、中立的な幕閣の面々が、呆気《あっけ》に取られるほどだったという。
かくして家綱|薨去《こうきょ》から、たった三ヶ月後の延宝八年八月。
綱吉は五代将軍宣下を受けて、徳川幕府に君臨した。城中の権力構図が一挙に変貌し、末端の武士たちから大奥の女房たちに至るまで、栄枯盛衰の見本のような権力逆転が起こった。
そして十二月、酒井は大老職を罷免された。翌年、大老に任じられたのは、むろん堀田正俊である。酒井は、将軍となった綱吉が鼻白むほど、その依怙《えこ》の沙汰《さた》そのもののような人事をあっさり受け入れた。そして翌年二月、酒井は家督を子息に継がせて公務を退き、隠居した。
その直後、公務で江戸にいた春海は、久々に酒井に招かれ、碁を打っている。
場所は、下馬所前の、酒井の邸宅だった。考えてみれば城内で碁を打ったことはあれど、酒井の邸宅を訪れるのは初めてである。〝下馬将軍などと揶揄《やゆ》された割には、豪奢《ごうしゃ》さとは無縁の、さっぱりとした雰囲気の邸宅だった。
実のところ春海は、今一つ、酒井に招かれた理由が分からずにいた。かつての改暦事業の際は、保科正之の意図があっての指導碁指名だったが、改暦失敗ののちは完全につながりを失ったと思っていたのである。政変で地位を追われた悔しさを、事業に破れた春海と分かち合おうなどという感性は、まるで持ち合わせぬ人であることはよく理解していた。
酒井の真意が分からぬまま、昔通り淡々と碁を打った。幕府の行く末が左右されるほどの政変の渦中にあったとは思えぬほど穏やかな、酒井の打ち筋だった。勝負の意欲や、怒りや悲しみどころか、碁を楽しもうという気配すら驚くほど欠如しているのが、この人らしかった。
「まだ、天に手を伸ばし続けているようだな」
あるときふと、酒井が言った。
「は……」
春海は相変わらず何と返事をしたら良いものか分からず、短く答えている。そんな事業は無駄だと言われるのだろうかと、ちょっと警戒した。
かと思うと酒井は手を叩いて人を呼び、
「あれを」
と、あるものを部屋に運ばせた。
何であるか、すぐに分かった。命令として身に帯びさせられ、そして一方的に返納を命じられたもの。春海が見慣れた、あの二刀である。二十二歳でいきなり与えられ、三十七歳で返納し、そして四十一歳の今、再び、春海の傍らに置かれた。
「お主のものだ」
返答に困るほど機械的な酒井の言だった。
「は……、しかし……」
「もとは保科公が用意させた刀だ。給金から天引きされることはない。わしが買った」
そう言うと、さらに人を呼んだ。今度は重そうな袋が刀のそばに置かれた。音で、金子だと分かった。かなりの額である。
「事業に使え。色々と必要であろう」
「な……なにゆえ、酒井様が……」
春海は完全に面食らって、礼すら言えずにいる。酒井も酒井で、
「さて」
小首を傾げるようにして盤面に目を向け、ぱちんと石を置いた。何の答えにもなっていない。だが春海はなんとなく、〝これでひと安心と呟きを聞いた気がした。置かれた石の呟きだった。城の激務に耐え、幕府安泰に尽力し切った者が、生まれて初めて、ほっと息を抜いたのだ。
「金は、使いたいように使え。だが改暦の儀を成すときは、刀を差しておれ。保科公が望んだことだ」
武家の手で文化を創出し、もって幕府と朝廷の安泰を成す。確かに保科正之の願いだった。
酒井自身がそのことに関心があるのかないのか、結局、春海には分からなかった。この二刀と金は、いわば酒井の〝身辺整理の一環なのだろうと、そんな風に思った。
今、正之とともに将軍家綱の治世のもと、泰平の世作りに尽くした男が、その仕事を終えたのだ。自分は正之と酒井の申し子かもしれない。そんな思いとともに春海は改めて平伏した。
「ありがたく頂戴《ちょうだい》いたします」
酒井は自分が打った石を見つめ、ふと庭を見た。庭木の向こうに、江戸城が見えた。
「大きな城だ」
不思議そうな酒井の呟きだった。その大きな城を背負って、公務に身を費やし続けたのだということを、誇るでもなく、ただ実感しているのだろう。
「はい、酒井様」
春海は、そっと言い添え、二人で黙って城を見た。
天守閣が喪《うしな》われた虚空に、気づけばさらに新たな時代の青空が広がっている。
「これほど大きかったのだな」
酒井は言った。
それから三ヶ月ほどのちの五月十九日、酒井は逝去した。享年五十七歳であった。
七
将軍綱吉の態度は、見苦しい、の一言だったという。酒井の訃報《ふほう》を聞くなり、腹を切ったのではないかと疑い、怖れ、墓を掘り返せとまで言った。自分で罷免しておきながら、死をもって諌言《かんげん》されたのではないか、他の幕閣の面々が酒井に倣うのではないかと恐怖したのである。
そんな将軍様の言動が下々の者にまで伝わり、なんと春海の耳にも入った。しかもただの根も葉もない噂ではなく、確かな事実として、その日のうちに城中に広まっていた。
それ自体が異常である。正当な手続きを経て座に就いたのではないということが醜いほど露呈していた。よもや将軍がそのような狼狽《ろうばい》を見せるとは、擁立した堀田自身も驚いたらしく、
「酒井は病で果てましてございます」
老中たちと一緒になって宥《なだ》めながら、誰もが、
(暗愚の将だ――)
その予感を抱いたという。それでも、その将を支えねばならない。それが、戦国の世を葬り、泰平の世へ辿り着いた徳川幕府の使命だった。また同時に、綱吉を擁立した堀田一族、またその係累である稲葉一族や、政変を支持した全ての者にとって、もはや避けて通れぬ道だった。
酒井が失脚してのち、事態は、春海個人にとってきわめて有利に動いた。
保科正之から改暦の儀を春海に担わせるようにという遺言を受けていた稲葉正則や、その息子であり正之の娘婿である稲葉正通などが、以前よりも重用されたのである。
また綱吉は、保科正之を〝理想の君主と称え、その善政を真似ようと必死になった。
必然、改暦の儀や、かつて春海が創案した〝天文方の構想に、将軍綱吉その人が興味を持っていることが、稲葉父子を通して、春海にも伝えられた。しかし当の春海が、そこですぐさま改暦建議を試みていない。まだまだ研究し、検証しなければならないことが残っていたし、実際の改暦の算段を整えるには、布石が足らなかった。
代わりにと言うわけではないだろうが、綱吉は年号を革《あらた》めた翌|天和《てんわ》二年、神道家の筆頭と目される吉川惟足を招き、寺社奉行直下の〝神道方を創設させ、その初代に任命した。
初めて幕府の中に、日本古来の儀式や知識を本格的に研究する文化機関が設けられたわけである。これによって全国の神道家が幕府統制下に置かれる一方、吉川惟足を代表として神道家たちの結びつきが強固となった。吉川惟足は、保科正之に〝土津公の霊号を授けた人である。改暦の儀に賛成しており、春海にとっては強力な支援者を幕府の中に得たことになる。
が、それ以上の支援者を、春海はこの年に喪った。
闇斎が死んだのである。
「六蔵……いや、春海よ。お前に、我が奥秘を授ける。惟足殿が証人となる」
病で危篤となった闇斎は、床に伏せたままそう言った。いつもの、どこの訛りだか分からぬ口調ではなく、貴人相手の講義のときの口調だった。そのせいで悲しみがいっそう増した。そんな風に別れの言葉を告げられたくなかった。
「嫌です、先生。いよいよなのです。授時暦の誤謬は明白です。新たな暦が始まるのです」
完全に青年の頃の態度に戻って春海は泣いた。いつの間にか自分が四十三歳になっていることなど意識になかった。それどころか青年からさらに子供に戻ったように喚《わめ》いた。
「どうかそれまで生きていて下さい。死なないで下さい。もうすぐです。もうすぐ――」
「宣明暦の予報が、再び日月の運行から乖離《かいり》する、か」
闇斎が微笑んで言った。〝証人として待機する吉川惟足も、真剣な面持ちでうなずいた。
「そうです。すぐです。ですから先生……」
「わしは消えるわけやないぞ」
急に、いつもの調子に戻り、闇斎が優しく笑った。
「この身にあった心が、霊となり、神へと戻るんや。そんでな、保科様や、お前の父や、前妻のおことと再会してな、お天道様とお月様と一緒に、お前を見守るんや」
春海は震えながら泣いた。やっとのことで、
「はい」
と言った。
「我が生涯をかけて見出《みいだ》した、垂加《すいか》神道の奥秘、どうか受け継いでくれ」
「はい、先生……」
「惟足殿」
「ここに」
闇斎が、吉川惟足に助けられながら身を起こした。そうして、闇斎から春海へと秘伝が伝授された。それこそ闇斎の命そのものだった。これにより春海は神道の一派をなす権限を得て、晴れて神道家の一員となった。改暦の儀において有用なことこの上ない立場を得たのである。
「お前の暦で、幕府を、朝廷を、日本全国を、あっと言わしたれ」
闇斎が、その生涯最後の豪毅《ごうき》さをみせて笑った。
天和二年九月。闇斎は世を去った。霊社号は乗加《しでます》霊社。享年六十四歳だった。
翌年、まるで入れ替わるかのように、春海のもとに別の命が訪れている。
えんが子を産んだ。男児だった。昔尹《ひさただ》と名づけられたその子を抱いて、
「ありがとう、ありがとう」
それ以外の言葉をすっかりどこかへ落としてきたかのように、春海は、えんと子の両方に向かって繰り返し言った。あまりのはしゃぎように、
「落ち着いて下さい。落としますよ」
えんにあっさり子供を引っ剥《ぺ》がされてしまった。母子を見つめながら、
「私より先に死なないでくれ、な」
思わずそんなことを口にし、
「私が、この子を死なせると思っているのですか」
猛烈に叱られた。
「いや、お前も子も……」
はいはい、と手を振られ、
「それより、あと三年ですよ」
「うん、もうすぐだ」
顔を引き締めてうなずく春海の指を、子供の小さな手がそっと握っている。
「もうすぐ、この手が、天に届きそうな気がするんだ」
そして天は、春海の予想を超えた姿で現れた。
天和三年春。
京の生家で最終的な検証を一人で行った結果、春海はまず大地と、そして天を見た。
どちらにも誤謬があり、その正しい姿がにわかに出現したのである。一つは、大地だった。授時暦が作られた中国の緯度と、日本の緯度、その差が、術理に根本的な誤差をもたらしていたことを実証したのである。北極星による緯度の算出、その〝里差の検証、さらには漢訳洋書という新たな視点によって、その誤謬が確実なものとなった。
すなわち授時暦は中国において〝明察である。その数理に矛盾はない。だが日本に持ち込まれた時点で、観測地の緯度が変わり、ひいては授時暦そのものが〝誤謬となるのである。
中国から渡ってくるものは無条件で〝優れたものとされるが、春海はその考えをここで初めて完全に捨て去っている。星がその考えを捨てさせた。天元たる北極星が、それを遥か以前から教えてくれていた。自分を始めとして、誰もそれに気づかなかっただけで。
さらにもう一つ。
春海の中で、何にも増して堅固だった常識が打ち砕かれた。それは天体の運行であった。
膨大な数の天測の数値を手に入れ、何百年という期間にわたる暦証を検証した結果、太陽と月の動きから、この春海がいる地球そのものの動きが判明したのである。
地球は、太陽の周囲を公転し続けている。そのこと自体は天文家にとって自明の理である。
だがその動き方が、|実は一定ではない《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということを、春海は、おびただしい天測結果から導き出したのだった。
近日点通過のとき、地球は最も速く動く。逆に遠日点通過のときには、最も遅く動いているのである。これは、たとえば秋分から春分までがおよそ百七十九日弱なのに対し、春分から秋分までは、およそ百八十六日余であることから、実は既に明らかになっていることでもあった。
後世、〝ケプラーの法則と呼ばれるもので、この近日点通過と、遠日点通過の地点もまた、徐々に移動していく。となると、地球の軌道はどんな形になるか。太陽を巡る楕円《だえん》である。
「……そんな馬鹿な」
思わず呟きが零れた。だがそれが真実だった。今の世の誰もが、星々の運行を想像するとき、揃って円を思い描く。真円である。それが、神道、仏教、儒教を問わず、ありとあらゆる常識の基礎となっている。そのはずではなかったのか。星々の運行、日の巡り、月の満ち欠けにおいて、いったい誰が、こんな、奇妙にはみ出したような湾曲した軌道を想像するというのか。
太陽が全ての〝中心という常識からすれば、地球が太陽から遠くなったり近くなったりしていること自体が想像の外だった。しかも矛盾なく検証すればするほど、近日点すら、ずれてゆくのである。定まった楕円軌道を地球が動いているのではなく、その楕円自体が、ゆっくりと移動していた。そして驚くべき誤謬を招いた。なんと授時暦が作られた頃は、近日点と冬至とが一致していたのだ。このため授時暦を作った元の才人たちは、それらが常に一致し続けるものとして数理を構築したのである。だが今、四百年もの時間の経過において、この近日点は、冬至から六度も進んでいた。
大地たる緯度の差。天における近日点の誤差。この二つが、
(――算哲の言、また合うもあり、合わざるもあり)
酒井に厳しく断じられたあの言葉を招いたのである。今、それが分かった。畏《おそ》れ多くて身が震えた。大地と天の姿そのものに誤謬と正答を見たのである。しかもこの日本で、今それを知るのは、おそらく己一人なのだ。怖くて怖くてたまらなくなった。
が、ふとその怖さが遠のき、代わりに、かつて聞いた声が整った。
「ときに惑い星などと呼ばれますがねえ。それは人が天を見誤り、その理を間違って理解してしまうからに過ぎません。正しく見定め、その理を理解すれば、これこの通り」
「天地明察です……伊藤様」
途端に、万感が込み上げてきた。どうしていいか分からず、ふらふら立ち上がって部屋を出た。観測器具が所狭しと設置された庭に立って、ぼんやり空を見上げていると、えんが気づいて庭に下りて来た。
「やったよ、えん」
ぼんやり告げた。
「おめでとうございます、旦那様」
えんがにっこり笑って言った。
どっと涙が溢れ、春海の頬を濡らした。何もかもが霞《かす》むのに、青空だけが澄み渡っている。
春海、四十四歳。実に北極出地から二十二年の月日を経て、天に触れた瞬間だった。
八
「大和暦というのはどうだね、渋川」
関孝和が気楽に言った。口調は気楽だが決して侮っているのではない。〝大和という最大級の称賛に等しい名も、春海の功績においては当然であると言っていた。
「……過分の名ではないでしょうか」
春海は照れ臭そうに首をすくめている。村瀬が笑って請け合った。
「なあに、渋川さん。関さんが言うほどだ。みなが納得するに決まってる」
磯村塾を訪れていた。関と約束してのことだ。
「では……請願の折には、その暦名で……」
「うむ。是非そうしなさい。お主の暦法に値する名は、そうそうないのだから」
関にそう言われ、なんだか気恥ずかしいほど嬉しかった。授時暦における緯度の差と、天の常識そのものに誤謬を見出してのち、正しい数値と数理をもって整えた暦法だった。今、これ以上の正しい暦法は日本に存在しないと断言できたし、会津にいる安藤などは、