その不思議そうな様子に、春海はおよそこれまで考えたこともない、酒井という人間の、愛嬌《あいきょう》のようなものを見た気がした。この人は、不思議なものに相対したとき、余計な理屈をつけず、ただ不思議だと思いながら眺める性分なのだ。素直と言えば素直、無関心と言えば無関心。
だが今、春海は、その酒井の態度にやけに人間味を感じた。
「お主の用意したものを見た。保科公にお主が送ったあれだ」
「は……」
「今後の算段は任す。将軍様への献上の段になれば、わしが取り持つ」
「恐悦至極に存じます」
「日と月を、算術で明らかにするか」
ますます不思議そうな酒井だった。かと思うと、やけに淡々とした、あるいは澄んだような目で春海を見た。
「天に、触れるか」
一瞬、酒井が微笑んだ気がした。不思議は不思議としてさておき、春海の刻苦勉励のほどだけはわかる。そういう感じだった。春海はなんとなく、あるとき突然、二刀を与えられて以来、初めて酒井という人に共感を覚えた。春海が算術に打ち込むのと同じように、あるいはそれ以上の使命感をもって、酒井もまた、幕政というものに心身を捧げてきたのである。
そのことが、やけに心に迫った。時代の革新をもって幕府を支えてきた保科正之とは違い、長期安定をはかる保守正道の尽力こそ酒井の役目であり性分なのだ。
そしてどちらも、江戸幕府にとって欠くべからざる存在だった。革新だけでは置いて行かれる人々の怨《うら》みが政道の障りとなり、保守だけでは新たな世を求める人々の鬱憤《うっぷん》を招く。
戦国から泰平へ。その政道が将軍家綱のもとで完成しようとしているのも、ひとえに保科正之と酒井忠清という対照的な人材が、絶妙の立ち位置を保って尽力し続けたからではないか。
その二人からお言葉を頂戴《ちょうだい》できることが、名誉である以上に、今の自分を作ったのかもしれない、という実感が春海の中で湧いた。不遜《ふそん》なことを言わせてもらえば、父を亡くした自分にとって、どちらも父に等しい存在のような気さえするのだった。
「はい、酒井様」
春海はただ静かに頭を垂れた。
それからひと月あまりののち。予期されていたことが、ついに生じた。
寛文十二年十二月十五日。
年は壬子《みずのえね》、日は丙辰《ひのえたつ》。
月齢は望。即ち満月たるその夜。
宣明暦は、月蝕《げっしょく》の予報を外した。
〝月蝕ありとしながらも実際には一分として蝕は起こらなかったのである。
一方、授時暦の予報では〝月蝕なしであった。いよいよ宣明暦の誤謬《ごびゅう》と、授時暦の精確さとが、日本全国、万人の眼前で明らかとなったのである。にわかに春海のもとへ改暦事業に関わる者たちから報せが届いた。
まず会津にいた安藤と島田が、同じ日付で、
〝蝕なし
との観測結果を報せてくれた。
京にいる闇斎、岡野井、松田からも、立て続けに手紙が来た。
〝改暦の機運、来たれり
どれもこれも、その気炎に満ちており、春海の昂揚《こうよう》を大いに煽《あお》った。
さらには、正之の側近たる友松勘十郎や、老中稲葉正則からも報せが来た。どちらも改暦の仕儀を開始するよう春海に命じるものであったが、しかし、それだけではなかった。
同時にそれらは、訃報だった。
一読した春海は、呆然と宙を仰ぎ、それから、ぎゅっと目をつむった。悲しみとともに、たとえようもないほどの事業への重責の念が降りかかってきたからだった。
宣明暦が予報を外した日から僅《わず》か三日後。
保科正之が、命を畢《お》えて世を去った。
二
保科正之の、死への準備は、特筆すべきものであった。
春海はその様子を、師の山崎闇斎や、友松、老中稲葉などから、悉《ことごと》に聞いている。
死の四年前、正之は〝十五箇条の家訓を制定している。これを発議したのは正之の側近である友松勘十郎で、
「大殿様の御子孫、また家臣ら、藩政を司る者たちが、大殿様ののち末永く守るべき教訓を、大殿様存命のうちに頂戴いたしたく存じます」
と正面切って要請したという。つまり、いつ死ぬか分からぬのだから、今のうちに藩の将来の方針となるものをくれ、と当人に言ったわけである。並の君主なら不遜《ふそん》だと一喝しそうなものだが、正之はあっさり納得し、自ら草案に着手した。代わりに、というわけでもないのだろうが、このとき友松に、正之による幕政建議の数々を焼くよう命じている。
幕政の建議のあれもこれもが正之の構想だったことが後世に伝われば、将軍への敬意が損なわれる。そうなれば将軍様を戴《いただ》いての幕府による〝天下の御政道の障りとなる。だから焼く。
友松も友松で涙を堪《こら》えるあまり、だらだらと脂汗を噴きながら、反論一つせず粛々と己の崇敬する君主の生きた証《あか》しを火にくべていったという。君主の死を平然と口にする家臣、家臣に過去の勲功を焼かせる君主、これほど信顔の歯車が噛み合い、不都合なく回転するのも珍しい。事実、正之亡き後の会津藩主たちは、才気|煥発《かんぱつ》な家臣の扱いで、たびたび失敗《しくじ》っている。
その二人による保科家〝家訓の起草および文飾を任じられたのが、闇斎である。
「あの保科公と友松殿やで。どんなご下命でも怖くて断れんわ。断りでもしたら、友松殿のことや、その日のうちに拙者の不徳とかなんとか言い残して、涼しい顔で腹を切りよるんじゃあないかと、こっちはびくびくものや」
のちに闇斎は、いつもの京都|訛《なま》りともなんともつかぬ独特の調子で春海に話している。周囲の人間を振り回すことで有名な闇斎も、正之と友松が相手ではずいぶん大人しい。
そうして制定された十五箇条の家訓は、多くの藩主たちが遺した家訓とは一線を画するものとなった。まず第一条で、会津藩主は他藩に倣わず、ひたすら幕府に尽くせ、それができない藩主に家臣は従うな、と定めている。どんな暗愚な主君でも、誅殺《ちゅうさつ》したり見捨てたりしてはならない、という下克上否定の正之の思想からすれば、実に厳しい言葉だった。
さらに別の一条で、正之は〝民生たる社倉制度の永続を命じている。民生が藩政を支え、藩政が幕政を支え、幕府による天下の御政道が民生を支える、という国の理想を明らかにし、その秩序構築はあくまで法治文治であるとした点が、正之が体現し続けてきた正義だった。
〝たとえ法に背いても、自己の武士道をまっとうすべし
といった武断の世の武士像を斬り捨て、
〝主君と同じく、法を畏《おそ》れよ。もし法に背けば、武士でもこれを宥《ゆる》してはならない
と明確に定めたのである。
そして最後の第十五条で、再び君主について言及している。君主のために家臣と民がいるのではなく、家臣と民のために君主がある。正之の人生の結晶とも言える家訓だった。
また正之は、宗教面においても、己の死をもって根づかせることを試みている。
日本古来にして固有の宗教たる性神道《かむながらのみち》、すなわち神道の探究の成果として、正之は、己の葬儀を神道に基づいて行う用意を整えた。
死期の近づく寛文十二年の八月。自らの寿蔵地(埋葬地)を定めるため、家臣たちのほか、当代随一の神道家である吉川惟足《きつかわこれたり》とともに会津|磐梯《ばんだい》山の猪苗代《いなわしろ》の地を訪れている。
この吉川惟足という人、もとは江戸日本橋の魚屋の息子である。
京に出て神道を学び、吉田神社に仕える卜部《うらべ》吉田家の神道を継承し、大いに発展せしめて独自の流派となした希代の天才だった。その才気と研鑽《けんさん》のほどはまさに抽《ぬき》んでて優れ、あの山崎闇斎が伏して師事を願ったといい、今では日本の神道家たちの筆頭と目されるに至っている。
その惟足を招いた際、正之は、このように問うたという。
「神の世の時代、民衆の情を得た政道、四海(世界)が安穏に治まった要領とは何か」
これに対する惟足の答えは、
「天照大神が世をお治めたもうた要領は、次の三つのほかにない。まず己を治めて正しくし、私をなくすこと。仁恵を重んじて民に施し、民を安んじること。多くを好んで問い、下情(世情)を精《くわ》しく知ること」
主君の滅私、民生主義による民の生活確保、そして詳細な世情把握、全てが正之の抱く治世の理想そのものだった。また、神の働きを意味する〝誠《まこと》、その働きに達するための〝敬《つつしみ》、実践の方法たる〝祓《はらい》、天地万物の本源たる神は、人間一人一人の内にも在るとする思想。いずれも惟足の大成した神道思想であり、正之をして心酔せしめ、大いに師事した。そして神道を究めること十数年、正之は惟足が驚喜するほどの境地に達し、ついには最高奥義である〝四事奥秘伝の授受の段を迎えるまでに至っていた。これは吉田神道が、神代のときより受け継いできたとされる神の法で、その全貌《ぜんぼう》は秘中の秘である。そしてその秘伝授受がなされ、
「土津《はにつ》」
なる霊号が惟足から贈られた。これが保科正之を〝土津公と呼ぶ由縁である。
土《はに》とは、神道において宇宙を構成する万物の根源であり、その最終的な姿を意味している。
神と霊と人の心とを結ぶもので、神も霊も心も、結局は同じものが別の形をとっているのだ、という道理をあらわす上で、なくてはならない言葉である。土たる理の一切を体得しえた会津の王――その霊名をもって、正之の存在そのものが神道の奥義を伝える一端となったのである。
そうして寿蔵地や葬法を定めて江戸へ戻り、運命の日たる寛文十二年十二月十五日を迎えた。
そのとき重い風邪で病床にあった正之は、友松の報せで、
〝蝕なし
という、かねて予測されていた一事が、ついに生じたことを知った。ちょうどそこに闇斎もいた。正之に請われて、六年余もかけて講じた朱子学の『近思録』の、最後の講義を終了したばかりだった。すっかり傷んだ書をたたんで、闇斎は、床に伏したままの正之と微笑み合った。
「終わりましたなあ」
闇斎が言うと、正之は何とか起き上がり、深々と礼をし、言った。
「ありがとうございました、山崎先生」
「保科様も、よう頑張りました」
闇斎も丁寧に礼を返し、目に涙を光らせながら、互いに数多《あまた》の学書を鳩首《きゅうしゅ》研鑽してきた日々を振り返って語り合った。
「六十一にして、方《まさ》に聖人の一言、吾《われ》を欺《あざむ》かざるの語を見得たり」
ぽつんと正之は言った。これは朱子の言葉である。
「大賢たる方でさえ、年功を積み、ようやく発明となっておられる。お陰様で、自分もこの歳になり、どうにか物事の推察ができるようになってきました。これはまことに幸せなことです。ありがとうございました、先生」
そう言って再び礼をした。闇斎もその喜びを深く分かち合っている。己の死を前にして、互いに歩んできた道のりを振り返ることができる。そういう相手がいることこそ幸福だった。
そこへ〝宣明暦が蝕を外したとの報がもたらされた。
「改暦の儀、いよいよの機です」
正之が微笑んで言った。生きて見定めることがないのを悟った上での言葉だった。
「必ずや、春海ならば謹んでまっとういたしましょう。この不肖の身も微力ながら尽力させていただきます。会津の算術の達人たちもいます。何も心配はいりません」
闇斎は涙ながらにそう誓った。
そして十二月十七日。死の床で、正之は、老中稲葉正則、およびその息子で、また正之の女婿でもある、稲葉〝丹後守《たんごのかみ》正通《まさみち》を呼ばせた。そして彼らに、こう言い遺した。
「気運に乗り、今こそ改暦を実現せしめよ。その方策の一々を、春海に主導させよ」
翌日、正之は、六十二歳の生涯を終えた。
三
会津藩家老の友松と、老中の稲葉正則、それぞれが正之の言葉をしたためて春海に送り、それらを受け取った春海は、しばらくの間、固く目を閉じて微動だにせずにいた。
|からん《ヽヽヽ》、|ころん《ヽヽヽ》。
幻の音がした。清々とした幸福の念に、深い悲しみの交じる音だった。と同時に、正之の優しげな笑い声が響いた。
(己に|飽きた《ヽヽヽ》、は良かったな)
会津にいる間に、いつしか正之は春海のことを、「算哲」ではなく「春海」の名で呼ぶようになっている。というのも、春海自身が何かの折り、名の由来を告げたからで、碁職への飽きから己自身の春の海辺を欲する、という、親から受け継いだ家督を否定するような言い分にも、
(それでも家督を投げ出さず、出奔せず、家を荒らさず、出来る限り家業に励んだのは、まことに天晴れな心がけだ)
正之は面白そうに笑ってくれた。かつて正之は、徳川家から親藩の証しとして〝松平の姓を名乗ることを許されたにもかかわらず、自分を育ててくれた保科家を敬い、保科姓を決して棄てなかった人物である。だがそれでも、春海の飽きに対する苦しみや、自ら別の姓名を考案した心持ちを、ちゃんと理解してくれていた。
(己の家を棄てず、とらわれず、そなた自身が、春の海辺のごとくあれ。そしてそなたの暦法と事業を通して、武家の文明に春をもたらしてくれ)
正之はそう言ってくれた。最初の改暦の試みにおいて、天皇の勅令が下されず、何の成果もないまま江戸に戻らねばならなくなったときも、
(春は必ずや来る)
そういう励ましの手紙を、家老を通して送ってくれている。
改暦という、地にあって天意を知ろうと欲する挑戦の意志、その事業の全権、それらをことごとく不肖の自分に委《ゆだ》ねてくれた正之に、春海は固く報恩を誓った。
明けて寛文十三年。
春海、三十四歳。全精力を傾けての改暦事業、実行であった。
会津の安藤と島田、江戸の友松と稲葉父子、京の闇斎らと、密接に連絡を取り、改暦請願の文書を練りに練って用意した。天皇と将軍という、国を体現する存在へ差し出す文書である。一字一句に己の霊魂をやどらせるような気魄《きはく》がなければ、とても書けるものではない。ただの一行を定めるのに心身消耗すること甚だしかったが、同時になんとも言えぬ昂揚と陶酔があった。国事に心身を献《ささ》げんとする没我の思いを繰り返し味わいながら、たまらない緊迫と畏怖《いふ》、それらがもたらす滅々たる疲労を乗り越えての作業となった。
その一方で、授時暦研究の最終的な確認が行われた。
事業に関わる者たちの協力で、京、江戸、会津という、三都市同時の天測をもとに、その暦法の確かなることを執拗《しつよう》なまでに明白にしたのである。
さらには家業の碁も疎かにはできず、正月明けから春にかけての公家《くげ》や寺社との碁会にも通わねばならなかった。日に日に昂揚に疲労が勝ったが意気挫けることなど想像もせず、正之の心意を承ったのだという思いが一層強烈に春海を衝き動かすようになっていた。
その間、闇斎や吉川惟足、会津藩家老の友松などが、また別の事業に尽力している。
正之の葬儀であった。
将軍家綱は、保科正之の冥福を祈るため、七日間の歌舞音曲の停止を江戸市中に命じた。
玉川上水の開削の推進、明暦の大火ののちの民生都市の建設など、果たして江戸の民は、正之の功績を知り、称《たた》えたろうか。ただ黙想の七日をもって、江戸は、武断の世を退け、文治の世を推し進めた偉人を弔った。
寛文十二年の十二月二十二日には、正之の遺体は会津へ運ばれている。
そして葬儀が行われたのは、実に三ヶ月後のことだった。異様なほどの遅延である。
理由は、正之の〝神式の葬儀が今さら幕府の方針と衝突したからで、幕府としては〝禁教令に基づき、切支丹排除の貫徹のため仏式葬儀が通例だった。とはいえ、本来、神式こそ日本人の葬法である。しかし神道の葬儀を正しく理解する者が幕閣にいない。寺社奉行にすら文化理解を任務とする役職がなく、それが問題をややこしくした。
逆にこれがきっかけとなって、のちに文化事業を主眼とする役職が立て続けに創設されるのだが、このときは、正之の葬儀を巡って、老中稲葉と吉川惟足の間で激論となったという。
葬儀の全権を任された友松などは、幕府から死罪を命じられようとも弔いの儀をまっとうすると宣言した。他の者ならまだしも友松ならば本当にやる。それがみな分かっていた。
最終的には、正之が神道奥義を伝授されたことを示す証文が幕府に提出され、決着となった。さすがに幕閣の面々も納得せざるを得なかったらしい。もし強硬に神式の葬儀を禁じては、全国の神道家たちから幕府の弾圧とみなされ、どんな不満を醸成するか知れない。
よって幕府としては奨励できないながらも正之の葬儀を〝黙認することが決まった。
なお、大老酒井および将軍家綱は、この紛糾の最初から最後まで何の指示も出していない。はなから幕府と関係のないこととして事態の悪化を未然に防いだのだろう、と春海は思う。ここでも歌舞音曲停止と同じく、幕府は沈黙をもって正之を弔ったわけである。
そうしてようやく保科正之の埋葬の儀が執行された。霊碑には『土津神墳鎮石』、墓標には『会津中将源君之墓』と刻まれた。さらに友松が奉行となって〝土津神社が創建され、幕府黙認のもと、初代会津藩藩主にして将軍家|御落胤《ごらくいん》たる人を祀《まつ》る、異例の神社建立がなされた。
その同時期。春海の担う事業も、いよいよその緒に就いていた。
寛文十三年夏。
宣明暦を廃し、授時暦への改暦を行う請願を、朝廷と幕府に捉出したのである。
春海が三十四歳のときであった。
四
『欽請改暦表』
というのが、朝廷に上表された文書である。
欽《つつし》んで改暦を請う、というその表題の直後に、『臣算哲言』と、全責任と全執行の裁断が安井算哲こと春海にあるのを明記している。
実にこのたった九字をもって春海は一介の碁職としての身分を跳躍し、天皇という宗教および文化の最高峰の眼前に名を晒したわけである。
『暦也者用天道 頒諸天下 以為民教者 有在于此 臣雖非其任 而不免僭越之罪 伏冀農民無失耕桑之節也 実惶実恐 頓首頓首』
天の道を用いて暦を天下に頒布し、もって民を教育する、自分はそのような任に非《あら》ず、僭越《せんえつ》の罪は免れずといえども、このままでは民が農耕の時節を失うことから、まことに恐惶《おそ》れ、頓首《とんしゅ》しつつ、ひれ伏して冀《こいねがう》――
そのような前文ののち、神武《じんむ》天皇、推古《すいこ》天皇、持統《じとう》天皇、清和天皇と、過去に天皇が命じてきた改暦について語りつつ、宣明暦に言及している。
『近歳試立表測※[#「日/咎」、unicode6677] 正知冬至夏至之日 宣明之暦法後天二日 暦数一差即諸事皆差 農桑適時耕穫失節 月之大小 日之吉凶 無一可者 其誤不可勝言矣』
近年、※[#「日/咎」、unicode6677]《ひかげ》(日時計の影)を測定し、まさに冬至と夏至の日刻を知り、宣明の暦日との間には二日もの後れがあることが明らかとなった。かくては農耕や収穫の開始の時節が失われ農事に不都合が生じて凶作となるばかりか、月の大小という万民の生活の尺度、日の吉凶というあらゆる宗教的根源が、全て無に帰してしまう。
『今幸逢 上聖達于天文者岡野井玄貞 精于暦学松田順承 其餘間有之 仰冀與通星暦之学者議之論之 審正暦象』
だが今さいわいにも岡野井玄貞という天文の達者、松田順承という暦学者がおり、彼らのような者たちに、正しい暦法を議論し、審正して下さるよう、仰ぎ冀う――
と、ここで内裏でも名高い岡野井と松田の名を出すことで、江戸主導の改暦ではなく、あくまで京と江戸、朝廷と幕府の協同事業であることを強調している。
そうした文言ののち、暦法が革《あらた》められることによって、万民はいよいよ農事と宗教と暦法の完全一体となることによって豊穣《ほうじょう》となるとともに、後世を助けることになる、これこそ、
『此聖教之先務 王者之重事』
古来の聖教の務めであり王者の重大事であるということを、ひれ伏し頓首しながら勇気を振り絞って謹言する次第である、という語句をもって結びの一文としている。
そして末尾に、
『寛文十三年 歳次癸丑 夏六月中旬 臣安井算哲 上表』
再びその名を記している。
幕臣としての肩書きはまったくない。将軍の意がどうであるとか、これが幕命に等しいとか、そもそもの事業の発起人が将軍家御落胤たる保科正之であるなどといった記述は一字としてない。そしてそれこそこの改暦事業の重要な点だった。
安井算哲という一介の碁打ちにして算術暦学の人が、朝廷と幕府とに同時に呼びかけ、協同の事業として改暦を行うよう請願する。
ときの帝《みかど》は霊元天皇、将軍は四代家綱。この両者の前で、春海はまさにただ一個の人間であらねばならなかった。何の後ろ盾もなく、いかなる勢力の後押しもない。よって事業開始において朝廷と幕府がせめぎ合う要因は一切ないのだということを身をもって示す。
ただ天と地との間に立って星を測る一人の人間としての、丸裸での請願だった。
さらにもう一つ、示さねばならないことがあった。
頼るべきは最新の暦法たる授時暦であり、それが最大の公正を民にもたらす、という点である。その暦法こそ、いかなる政治的意図をも超越した、真正たる改暦事業の根拠だった。またその暦法を採用することが天皇と将軍の権威を同時に守り、高めるということを端的に証明してのけねばならない。
そのすべとして春海は以前より自ら考案した一つの方策を用意していた。御城における勝負碁から発想されたもので、生前正之にも是非を伺い、全面的に肯定されている。
上表によって天皇の改暦勅令が下されるのを請願するのとほぼ同時に、春海はその方策を文書化し、まず老中稲葉を通し、大老酒井に、将軍家綱に献上している。
稲葉も酒井も、既にその方策については生前の正之とともに知っていたが、実際に完成した文書を見るのは初めてだった。
『蝕考』
と題された文書である。
『往歳略之』
すなわち、暦の要点を略記したものであり、またこの要点というのは、宣明暦が誤謬を犯した〝蝕についての予報を意味している。
いついかなる蝕が起こるか。既にある宣明暦の予報とともに、授時暦による予報を併記したもので、より真正なるをはかって大統暦という明国で用いられていた暦による予報も記した。
『癸丑至乙卯 三歳之間 以宣暦推攻之 日月当食者六』
寛文十三年の癸丑の年から、三年先の乙卯の年に至るまで、宣明暦によって予報された日月の蝕は、全部で六回。
今年、六月十五日。癸丑《みずのとうし》の日。
同年、七月|朔日《さくじつ》。戊《つちのえ》辰の日
甲寅《きのえとら》の年、正月朔日。丙寅の日。
同年、六月十四日。丁未《ひのとひつじ》の日。
同年、十二月十六日。乙巳《きのとみ》の日。
乙|卯《う》の年、五月朔日。戊子の日。
一つ一つに、授時暦と大統暦による予報をぶつけ、どの暦法が真に正しいものであるのか、万民の眼前で〝勝負させるのである。
裁定者は人ではない。天であり、日と月であり、宇宙に浮かぶ一個の球体たる地球である。これほど公正で、これほど規模甚大な勝負もない。
むろんこのときも、
『寛文十三年夏日 安井算哲 謹攻焉』
としか末尾に記していない。
事業協力者たちの連名すらなく、老中や大老の意などかけらも見当たらない。
事業の支援者である水戸光国の存在、惟足や闇斎ら神道家たちの賛意、正之の遺志を継ぐ会津藩のことも何も載っていない。
まさに乾坤一擲《けんこんいってき》の書である。
陰陽術《おんみょうじゅつ》の万象|八卦《はっけ》において、乾は〝天、坤は〝地を意味する。
今、天地の狭間《はざま》に、ただ己一個を擲《なげう》って、春海一世一代の勝負が始まった。
五
元号が改まり、寛文十三年から延宝《えんぽう》元年となった。
初秋、春海は江戸にいて、麻布の磯村塾を訪れている。
二十二歳のとき初めて訪れてから十二年。最後に訪れてからは実に四年半ぶりの訪問だった。
ここしばらく、ひたすら京と江戸を往復し、改暦事業の開始に奔走していたが、久々に自由な時間を得ることが出来た。そしてまた春海が上表を行ったのとほぼ同時期、あの村瀬義益が、
『算法|勿憚改《ふつたんかい》』
という算術書を出版していたのである。
世の算術のいかなる誤謬も、〝改めるに憚《はばか》ること勿《な》かれと謳《うた》った書だ。
いかに高名な算術家たちが達し、さらに一般認知されるに至った術理問答であったとしても、誤りがあれば遠慮せず正す、それが算術というものだ。そう断定し、また呼びかけていた。
ゆえに術理の〝証明に力を注いでおり、特に勾股弦《こうこげん》の法においては、なぜ勾の平方と股の平方の和が弦の平方の値に等しくなるのかを完全に解明するに至っている。そのためこの書によって、日本で勾股弦の法がごく一般的な常識となるであろうことは間違いなかった。
まさに今の春海の心根にぴったり合致し、畏《おそ》れ多くも帝と将軍様に上表を奉った身に大いなる勇気を与えてくれる書なのである。
是非とも出版を祝いたかったし、算術について語り合いたかった。
そして自分の事業に関して、一つだけ、村瀬に頼みたいことがあった。
そんなわけで、いつものごとく安藤から干し柿をもらって会津藩藩邸を出た。途中で魚売りの女たちから、鯵《あじ》とかなんとか言われて正体不明の干魚を買い、荒木邸の門をくぐった。
塾の玄関の戸はいつものように開けっ放しである。
塾生たちで混み合う時間帯を避け昼前に来たので誰もおらず、履き物もない。
玄関先に荷物を置きつつ村瀬を呼ぼうとして、壁に貼られた難問の応酬に目がいった。
途端になんとも言えない温かい思いがじんわり胸に染みこんでくるようだった。
会津に召致されてからというもの、改暦事業抜きで純粋に算術のことだけを考える余裕などまるでなかったのだが、今こうして塾生たちの問答を目にすると、ここしばらく縁のなかった、算術を楽しもうとする自由|闊達《かったつ》な気分がにわかに甦《よみがえ》ってきた。
いそいそと二刀を腰から引っこ抜いて玄関に置き、懐から算盤を取り出した。ほぼ何も考えずに玄関先の地べたにそれを広げ、浮き浮きしながらきちんと正座し、壁一面の難問の群れを見上げた。なんだかそれだけで幸せな気分になりながら、手早く算木を並べ、ひょいひょいと解いていった。初めて塾を訪れてから研鑽を欠かさず術理修得に励んできた春海であるが、中には咄嗟《とっさ》に解けない難問もあり、三つか四つも解いたら村瀬を呼ぼうと思いながらもやめられなくなって、
「けっこうな問題を出すじゃないか」
嬉しげに独りごちつつ五つ六つと解き、解けぬものはしっかり暗記し、大いに幸せなひとときを味わっているところへ、いきなり叱り声が飛んできた。
「これッ!」
突然のことに驚いて腰を浮かし、なんとも中途半端な姿勢のまま、ぽかんと間抜け面をさらして声の主を見た。
ほんの一瞬、箒《ほうき》を逆さに構えた、綺麗《きれい》な娘を見た。屹然《きつぜん》と眉《まゆ》を吊《つ》り上げて警戒の念をあらわにする初々しい娘だった。この塾に邸宅の敷地を提供している荒木氏の末娘であり、春海が金王八幡の神社で初めて出会ったときの十六歳のままの姿だった。
最後に会ったのは、春海が北極出地の旅に出る直前で、十二年も前のことだ。
が、その幻はすぐに消えた。
代わってそこには意外なほど大人びた、そもそも箒を手にしてもいなければ、眉も吊り上げておらず、くすくすと、おかしそうに笑っている、えんがいた。
「お久しぶりです、渋川様」
いかにも落ち着いた態度で言った。どこか懐かしんでいるような嬉しげな調子が声にこもっている。以前と変わらず、あるいはもっと綺麗になったような彼女に、春海はまだぽかんとしたまま見とれた。それから春海も微笑んで膝《ひざ》をはたきつつ立ち上がり、
「やあ、久しぶり」
これまた昔と同様、あるいはさらに輪をかけて朴念仁の見本のような挨拶《あいさつ》をした。
えんはまだ笑いながら、
「昔、地べたでお勉強をしたり腹を切ろうとしたりするのは、よそでして下さいと申し上げたこと、覚えておりますか」
「うん、まあ……すみません」
「私こそ、あまりにお変わりないので、つい失礼を致しました」
てっきり昔のような叱責口調が次々に飛んでくるのかと思ったら、そんな風にいたずらっぽいような調子で言われた。
春海は思わずえんという字を色々と連想した。円みの円か、婉《えん》なる風情か、それとも艶《えん》か。
本人はお塩の塩が良かったと言っていたっけ。実際は、延べるの延のはずだったが、けれどもなんとなく縁を感じる、という意味での縁の字も思いつく。
「いや、私も失礼した。ずいぶん長いこと塾に来ていなかったものでね。ついここの問題が面白くてやってしまいました」
ぼんやり応えながら頭をかいた。確かに春海の髪形だけはこの十年もの間あまりに変わりがなく、恥ずかしいのを通り越してすっかり開き直っているつもりだったが、やっぱりこうしているとかなり気恥ずかしかった。
「そんなことを仰《おっしゃ》って、ご自分のお宅でも、同じように奥方様に叱られているのではないのですか」
ちょっぴり意地悪そうにえんが言う。
「いや――」
言われてみれば確かに、ことの前で地べたに座って算盤を広げたことがあったような気もする。だがことの場合は叱るというより可哀想なくらいびっくりして狼狽《ろうばい》するのが常で、旦那《だんな》様、旦那様、と慌てる妻の声を思い出し、かすかに愁いが胸をかすめた。
「妻はなくてね」
えんがきょとんとなり、
「でも村瀬さんから、京でご婚礼を挙げられたと伺って……」
「亡くしてしまったんだ」
「まあ……」
「一昨年の冬にね。もとから丈夫でなかったが、胃の腑の病に罹《かか》ってしまった。なんとかしたかったが……何もしてやれなくてね」
「それは……存じませんでした。お気の毒様に……」
「まったく面目もない話だ」
つい反射的に詫びるようにして頭を下げていた。愁然たる思いが自然と己の声に滲《にじ》むのがわかったが、かつての悲嘆のあまり朦朧《もうろう》と魂が抜けたような調子ではなかった。いつの間にか死別の悲哀を静かに語れるようになっていた。
「あなたのせいではありません、渋川様」
慰めると言うより、事実を述べるようなえんの言い方だった。口調は大人しめだが、やけにきっぱりとした表情である。ほんの一瞬、その綺麗な眼のどこかに、気の強い娘の頃のえんが現れたようで、春海はまた頭をかいた。いつまでもどうしようもないことで後悔を引き摺《ず》るものではないと、暗に叱られているのかもしれないと、ちょっと思った。
「うん……。ところで、えんさんは、何かの用でこちらのお宅に?」
「父母に会いにです。あと、塾の様子を見たり。普段は、石井の家で……私が嫁いだ先の家が、親切にしてくれていまして、とても不自由なくさせて頂いています」
その妙な言い回しに春海は首を傾げ、
「不自由なく、ですか」
相手の言葉を芸もなく繰り返した。
嫁いだという割には、なんだか他人の家に厄介になっているというようではないか。すると、えんは別段声をひそめるでも翳《かげ》りを帯びるでもなく、はっきりとこう言った。
「良人《おっと》を亡くしたものですから」
なんと同じく一昨年、公務で出た旅先で病に罹って亡くなったのだという。今度は春海が胸を衝かれたようになり、慌てて言った。
「それは……ご愁傷様です……。良縁とお聞きしていたが……」
「ありがとうございます。実際、良い人でした。近頃ようやく落ち着きまして……石井家も、とてもよくしてくれておりますし」
「それは、何よりです……」
「はい」
そこで言葉が途切れた。
話題がなくなったというより、不思議な沈黙が降りていた。無言のうちに伴侶《はんりょ》を失う悲嘆を共有するとともに、いい歳の男女が、いっとき青年と娘に戻ってそこに佇《たたず》んでいるような、妙に気分が落ち着くかと思えば、どこか胸が騒ぐ感じもするような雰囲気である。
「これは何の魚だい渋川さん?」
いきなり声が起こった。春海もえんもびっくりして玄関先を振り返ると、いつの間にか、というよりかなり前からそこにいて二人を眺めていたらしい村瀬の笑顔があった。
「……確か、鯵《あじ》と言ってました」
「ふうん、鯵」
髷《まげ》に白いものが交じるようになったとはいえ、むしろその分、年季の入った男前を披露するようにますます洒落《しゃれ》た着崩し方をするようになった村瀬である。干魚の包みを手に取り、当然のように微笑んで言った。
「じゃあ飯にしようか」
「あんた偉いね、渋川さん。いつだって土産を持って来るし、大した勝負を塾に持ち込んでくれる」
やけに上機嫌の村瀬が大盛りの茶碗《ちゃわん》をえんから受け取りながら言った。食膳に箸を運ぶ傍ら、もっぱら村瀬の眼は春海が持ってきた大きな紙片に注がれている。
春海が将軍様に献上した『蝕考』の抜粋だった。三年間六回分の蝕について、宣明暦、授時暦、大統暦の三暦を競わせた、勝負の一覧である。
今日、春海が塾を訪れた理由の一つがそれだった。算術勝負とは違うが、その術理は同じであるのだ、ということで、塾の玄関先の壁にこの紙を貼らせて欲しかった。
この事業において民意は不可欠で、既に春海は闇斎や惟足ら、また幕閣の面々を通じて、この『蝕考』の勝負を出来る限り広く民衆の目につくようはかっている。塾での貼り紙はその方策の一環だった。だがむろん、春海の真意には別の面もある。というより、いざ塾に来てみればそちらの思いの方が一層強くなり、他の目的などどうでもよくなりそうな始末だった。
関孝和。
以前と変わらずこの塾では〝解答さんあるいは〝解盗さんの異名で通っており、たまに塾を訪れることは村瀬から聞いていた。その関孝和に、この事業を、春海の大勝負を見せたかった。そしてその上で、関孝和に三度目の勝負を挑みたいと願っていた。
具体的にそう村瀬に告げたわけではなかったが、
「三暦並べての蝕の予報とは恐れ入った。暦法はまさしく算術の難題だ。俺も門下生も文句は言わん。関さんだってきっと算術の出題と同じくらい興味を持つだろう」
そんな風にさらりと関について口にしてくれた。いずれ春海がみたび関に出題することをあらかじめ許してくれていた口調だった。
「ありがとうございます」
箸と茶碗を置いてきちんと礼をし、
「良《い》いかい、えんさん?」
と真面目に訊いた。
「なぜ私に訊くのです」
えんは呆《あき》れた顔で箸を運び、
「私が決めることではないでしょう。もう荒木家の者でもないのですし」
けっこうにべもなく言いつつ、昔通りしっかり春海の持参したものを食べてくれる。
「ところで、これ、本当に鯵なのですか?」
むしろこちらの方が重大だというような調子で、食べるときだけは娘のときのまま可愛らしいような姿を見せつつ問い返してきたものである。
「まあ……多分」
「鯵にしては小さ過ぎませんか?」
「最近じゃ小振りのを擂《す》り潰《つぶ》して団子にするらしいぞ」
村瀬が答えになっていないようなことを言う。えんはえんで疑問を呈しつつも遠慮無く食べてくれるので、春海はなんだか勝負の貼り出しを許されたことよりも、ほっとなっている。
食後に春海が持参した干し柿をみなで食べながら茶を頂いていると、
「そろそろ良いかな」
村瀬が呟いて席を立った。奥の自分の部屋へ行ったかと思うと、手に一冊の稿本を持って戻ってきて、春海の前に置きつつ言った。
「飯の前に見せると、何も喉《のど》を通らなくなりかねんからな。関さんの新しい稿本だよ」
たちまち春海は凝然となってその書に目を奪われた。
息をすることすら奪われそうなほど微動だにせず凝視した。己の目に喜びの輝きが躍るのが自分でもわかったし、また己のおもてに畏敬の緊張が漲《みなぎ》るのもわかった。ただしその己の様子を、えんが楽しげに見つめていることには気づかなかった。
「ここで開くなよ、本当に動けなくなっちまう。まったく凄《すご》い代物でな、俺は出版すべきだと言ってるんだが、関さんはそんな銭はないの一点張りだ。それじゃあんまりに勿体《もったい》ないんで少しばかり銭を貸そうと思ってるくらいさ。どうだい、持って帰って写すかい?」
「はいッ」
呑《の》み込んでいた息をいっぺんに吐き出すように言って、手を伸ばしかけ、
「……良いだろうか?」
中腰で、えんを振り返った。
「ですから、なぜ私に訊くのです」
「いや、まあ……」
「お持ちになればよろしいでしょう。あなたに読んでもらえることを、きっと関さんも喜ばれると思います」
「喜ぶ?」
「はい」
えんがにっこり笑って断定した。春海はその笑顔にちょっと見とれた。不思議なことに、むしろ、えんの方が喜んでいるような気もした。わけもなく春海は萎縮《いしゅく》したようになって、
「では、謹んで……」
と稿本を胸に抱えた。
「三暦合戦の方は、糊《のり》を貸すから適当に貼っておいてくれないか。後で俺の方で一筆書いておこう。俺はそろそろ近所の子供に算術を教えに行かなきゃならん」
そう言って村瀬は自分の部屋へ引っこんで教書の用意をし始め、春海は馬鹿でかい紙を壁に貼るのを、えんに手助けしてもらった。紙の角を綺麗に指で伸ばして貼りつけ、えんとともに己の一世一代の勝負を眺めた。たちまち怖さが襲ってきたが、今はその怖さを押し返してくれるだけの使命の念があった。自分一人の勝負ではなく、あの保科正之の心意でもあるのだと、うっかり、えんに話しそうになったが、その前にえんがこんなことを言った。
「関さんも、これを見て喜ばれると思います」
「あの……」
「はい」
「なぜ、関殿が喜ぶと……? 私などが……」
「御本人からお訊きしてはいかがですか」
「うん、まあ……」
それこそ、この十二年もの間、春海があえて解かずにい続けた難問だった。
かつて自分がここで誤問を貼り出したとき、関孝和がそれを見て笑っていたという。しかも嘲笑《ちょうしょう》していたのではなく、嬉しげですらあったと、他ならぬえんから聞いていた。
えんの言う通りにしよう。関孝和に会いに行くのだ。ただし改暦の事業ののち、みたびの出題をしてからだ。それだけのことをした上で会う。万が一、その出題が誤問であったとしても会うべきだった。そこまでしてなお会えぬのならば生涯無理だろうと直感的に理解していた。我ながら不思議なほどの意気地のなさ、あるいは頑迷さ、潔癖さだった。
そのことを口にしようとしたのだが、そこで予想だにせぬことが起こった。
「えんさんは関殿のことを好いているのかい」
なんとそんな言葉が転がり出た。いったい己の中のどこにそんな言葉が存在していたのか皆目わからない。言った後で自分の方がぎょっとなり、呆然となった。
だが、えんはしごく当然の顔のまま、
「私を幾つだと思っているのです」
ぴしりと窘《たしな》めるように言った。
確か今年で二十八のはずだと春海は律儀に頭の中で計算している。えんは、そこらの浮ついた商家の娘たちと一緒にするなというような、武家の娘としてはきわめて自然な態度で、
「私が初めてお会いしたときは既に妻女のある方でしたし」
春海の言葉自体はまったく否定しなかった。ところが、続けてこう言った。
「あなたのお陰で、分不相応にも関さんに出題しようという気もなくなりました」
これは女だから不相応というわけではない。今どきは、そこらの村の娘ですら算術を学ぶ。純粋に算術の腕前のことを言っているのだとわかったが、自分のお陰というのがさっぱりわからなかった。
「……なんでなんだい?」
訊きつつ、昔のように、存じません、の一言ですっぱり斬り捨てられるのかと思ったが、
「いつの間にか、あなたの出題を見ている方に興味を惹《ひ》かれましたから」
などと、なんだかやけに嬉しくなることを言ってくれた。
「なにしろ人様の家の玄関先で、腹を召そうという傍若無人の方ですし」
と付け加えられ、春海は頭をかいた。御城でもすっかり名物になった中途半端な髪形がまたもや気恥ずかしくなる一方、別の思いも湧いた。もし改暦事業が成就すれば士分に取り立てられるのは確実である。束髪が許され、晴れて二刀が下賜され、恩賞加増とともに江戸市中に邸宅を与えられる。今の今まで事業をいかに成就させるかばかり考えていた。そもそも妻を亡くした男が今さら士分邸宅を得たところで持て余すだけで、自分には算術修得と事業成就に傾倒する念さえあれば十分だと心のどこかで割り切っていた。
師の山崎闇斎などからは、かえって、
〝人の生は器械ではない。身中の心を殺しては、神の誠もない
などと怒鳴られそうな心境である。仏教は世を無とし、儒教は無が四徳たる仁義礼智の働きに変わるとするが、神道はもっと悠然と生と死を肯定する。死別ののち残された者の新たな人生を後押しし、決して、世は無常だとも、過去に殉じろとも言わない。
春海は、今このとき初めて、勝負が成就してのち自分が得るものを思い描くことが出来たわけである。そして、またぞろ問おうとも思わなかった問いが、ころんと口から零れ出た。
「あの私の誤問を、君はまだ持ってくれているのかい?」
素直に答えてくれるかと思ったら、今度こそあの返答が来た。
「存じません」
言いつつ、微笑んでいる。
「では、この勝負に勝った暁には……」
春海は、貼り出された『蝕考』を見やり、えんを見やり、急に言葉が続かなくなり、
「良いだろうか」
なんとも曖昧《あいまい》な訊き方をした。が、えんが問題にしたのは別のことだった。
「今度は三年も待たせるのですか?」
いい加減にしてくれと言わんばかりに怒られた。いや、既に今年の分は〝明察だったし、三年先のは五月の予報のみだから、実際のところ、あと一年と十ヶ月ほどだと、なんだかやけにしどろもどろになって説明し、
「……どうだろう」
情けない顔になって怖々と尋ねた。
「五月朔日ですね」
えんは睨《にら》むように『蝕考』の最後の勝負の日を見つめ、
「それ以上は待ちません」
厳しく告げた。
「うん。ありがとう」
ふっと温かで幸福な思いが春海の胸中を満たした。ことが死に、伊藤が死に、正之が死んで以来、絶える一方の思いだった。自分にもまだそのような思いを抱けたことこそ喜びだった。
「勝負の日のたび、勇を鼓して、ここに来ます。それ以外の日にも……」
「私は大抵、月の終わりに、この荒木の家に来ますので」
「うん。どうか病気になどならず……」
「あなたももっと壮健でいて下さい。このような勝負を始めたのですから。病などに倒れては元も子もありません」
「うん」
などと伴侶の病没を経験した者同士の気遣いというより、根深い不安と願いが入り交じってつい顔を出してしまうような言葉を交わしつつ、春海は借りた稿本を大事に抱えて塾を後にした。自分でもびっくりするほど足取り軽く、駕籠《かご》にも乗らず、珍しいことにそのまま歩いて藩邸まで戻っていった。
春海が立ち去った後、のんびり玄関先にやって来た村瀬は、門の方を見たままのえんの背に、
「一年と十月か。それだけあれば喪も明ける」
と言った。
「それはそうでしょう」
えんは、くすくす笑っている。
「楽しみな人だぞ、渋川さんは」
村瀬も笑って言った。
六
それこそ、えんに怒られそうな浮ついた幸福感があったが、そんなものはかけらも残さず吹っ飛ばされた。
『発微《はつび》算法』
そう題された関の稿本であった。
内容は実に〝解答さんらしい、遣題の解答集である。
二年前に沢口|一之《かずゆき》という算術家が出版した『古今算法記』という、天元術のことごとくを体系化した傑作の書があり、その末稿には十五の遺題があった。いまだ全問を解いた者はいない。
噂では意図的に解答不能の無術の問題も織り込まれているといい、改暦事業に従事している春海、安藤、島田ですら、解けぬ問題があった。
だが今、天意の化身たる竜がそれらを解いた。
関孝和の頭脳が、十五の難題ことごとくを〝解明したのである。
もはや〝解答ですらない。まさに術理そのものを解き明かす文書であった。難題を解くために恐ろしく独創的な解答法を、新たに編み出したことからもそれは明らかである。
傍書の法――というのが、その稿本で名づけられた新たな〝算法であった。
問題を解く過程で、術式の傍らに、未知の値であることを示す記号を記しながら解いてゆく。
遥《はる》かのちの世で〝代数と呼ばれることになる計算方法にきわめて類似した、中国から伝わったのでもなければ、日本に古くからあったのでもない、実に、この関孝和という個人が、数理算術の渦中に身を投じて発明した、まったく新たな算法であった。
(算術が変わる)
その直感に襲われ、ほとんど涙ぐみながら衝撃的な感動の念に打ち震えた。
(算学の誕生だ。この大和の国の算学。|和算だ《ヽヽヽ》)
まぎれもない日本独自の算術流派が、この稿本において出現したことを春海は悟った。
しかもそれは算術そのものの在り方を一変させる可能性を持っている。近い将来、これこそ日本全土の、即ちは大和の算術となるだろう。そして和算と呼ぶべきものが生まれるだろう。
そしてその和算は、関孝和の思想によって算学へと化身するのだ。
朱子学における基礎教養を意味する小学のように、誰もが学ぶことが可能で、決して超人業などではない、真に術理と呼ぶに値するものが、世に遍《あまね》く広まるに違いないのだ。
(これが天意だったのだ。このために天はあの方を地に降された)
本気でそう思った。心酔すら通り越し、崇拝に近い念すら抱いた。それほど途方もなかった。
自分が必死に駆けて駆けて追いつこうとし、ここまでやったのだと一瞬の満足を得た途端、釈迦《しゃか》の手のひらのごとく己の卑小さを知らしめ、仮初めの満足を粉々に吹き飛ばしてしまう。そんな関孝和に、この自分が出題する? もはや畏れ多い、という気持ちと、それでもこのまま挫けてはならない、という思いが交錯し、結局のところ、
(私にはこの事業がある。改暦という一大事業が。関殿とは違う事業の担い手なのだ)
それが最後の拠《よ》り所となって、危うく何もかも投げ出し、あの磯村塾からも逃げてしまいたいような思いを打ち消すに至ったのだった。
ぱーん。実に十余年ぶりに、関孝和という天与の才を具《そな》えた存在に向かって、激しく拍手《かしわで》を打った。ぐるりと時が巡ったようだった。まるで北極出地に旅立つ前の、ことを娶《めと》る前の、自分がいかなる役目を担うか知りもしなかった頃の自分に戻ったようだった。いや、それよりも一段高いところに立ち、下からこちらを見上げる過去の自分と、静かに目を合わせていた。
巡り巡って昔の自分に遭遇し、驚きながらも満ち足りたひとときを味わった。
脳裏にはいまだ見ぬ一瞥《いちべつ》即解の士の朧《おぼろ》でいて何にも比して強烈となる一方の存在があり、また一隅には、えんの微笑みがあった。そしてそれらの向こうに春海にとって始原の光景となった、あの天守閣喪失後に清々と広がる青空があって、その虚空の隅々に至るまで、建部や伊藤やことや正之ら親密な死者の霊たち、八百万《やおよろず》の神々とともに、この新たな時代に生きる自分たちの可能性を追い求める思いが果てしもなく満ちていった。
|からん《ヽヽヽ》、|ころん《ヽヽヽ》。
どこからか、あの幻の音が聞こえる。金王八幡宮で聞いた、絵馬たちの立てる音。人々の算術への思い、そしてまた、一瞥即解がもたらした、春海の人生の音だった。
今、自分は勝負の真《ま》っ只中《ただなか》にあるのだ。その実感が、何度も押し寄せては気を昂ぶらせた。