必读网 - 人生必读的书

TXT下载此书 | 书籍信息


(双击鼠标开启屏幕滚动,鼠标上下控制速度) 返回首页
选择背景色:
浏览字体:[ ]  
字体颜色: 双击鼠标滚屏: (1最慢,10最快)

[饴村行] 粘膜人间

_3 (日)
 清美はその表情に強い怒りを覚え誰彼無しに次々と睨《にら》みつけた。
 壱番の男がこちらに向かって歩きながら左手を挙げた。参番の男が頷きテープレコーダーの点滅器を入れた。すぐに老人の嗄《しわが》れた歌声が流れてきた。
 しねしねしなぬかいちぢごく
 しねしねしなぬかにいぢごく
 しぬときこわいぞしるでるぞ
 しぬときこわいぞめんでるぞ
 えんまのうでとがきのうで
 しんのぞうまでひとひねり
 しねしねしなぬかさんぢごく
 しねしねしなぬかよんぢごく
 しぬときこわいぞしこでるぞ
 しぬときこわいぞやりでるぞ
 えんまのあしとがきのあし
 しりこだままでふみつぶす
 それは踏み絵の時に聞かされたあの老人の声だった。歌詞は違ったが読経《どきよう》に似た独特の節は全く同じだった。
 その歌が合図だったらしく突然出入り口の鉄の扉が開いた。見ると二人の男が広場に入ってきた。彼等もまた白衣を着て防毒面を被《かぶ》り、左腕に赤い腕章をしていた。前を歩く男の腕章には「肆《よん》」、その後に続く男の腕章には「伍《ご》」という漢数字が書かれていた。肆番《よんばん》の男は大きな黒い巾着袋を持ち、伍番の男はリヤカーを引いていた。荷台には大きな白い布が被せられ、何が載せられているのかは分からなかった。二人は清美達の前まで歩いてくると立ち止まった。距離は五メートルもなかった。
「よし、右から順に取らせろ」
 いつの間にか参番の男の隣に立っていた壱番の男が、肆番の男に命じた。肆番の男は頷《うなず》くと、列の右端に立つ三つ編みの女子生徒に近づいていった。
「この中に入っている球を一つだけ取れ」
 肆番の男は黒い巾着《きんちやく》袋を差し出した。三つ編みの生徒はゆっくりと巾着の中に手を入れ、一個の白いゴムボールを取り出した。その表面に漢字が一つ書いてあるのがちらりと見えた。肆番の男はボールを受け取りその漢字を見た。防毒面の眼鏡から覗《のぞ》く目に鋭い光が浮かんだ。
「さそりっ!」
 肆番の男はボールを高く掲げて叫んだ。周囲の金網に群がった無数の見物人から歓声が上がった。伍番の男がリヤカーの荷台を覆う白い布をめくり、中から一振りの軍刀を取り出した。
「おい、外套《がいとう》を脱いでそこに正座しろ」
 壱番の男が三つ編みの生徒の前方の地面を指揮棒で指した。三つ編みの生徒は白い外套を脱いでセーラー服姿になると、一歩前に出て正座した。自分の処刑方法を知ったためかその顔は青ざめ、膝《ひざ》の上で組んだ両手が小刻みに震えていた。伍番の男は歩いてくると三つ編みの生徒の真横で止まり、抜刀した。側にいた弐番の男が十六ミリカメラを構えて撮影を始めた。フィルムが回るシャカシャカという乾いた音が辺りに響いた。
「ゲロ吐きたくないか? 怖くて怖くてゲロ吐きたくないか?」
 男は楽しそうな口調で質問したが三つ編みの生徒は無言のまま俯《うつむ》いていた。
「もっと首を出せ」
 伍番の男が囁《ささや》いた。三つ編みの生徒は両手を震わせながら、深くお辞儀をするように頭を下げた。白く細いうなじが露《あら》わになった。参番の男がテープレコーダーの点滅器を切り老人の歌を止めた。
 伍番の男は鞘《さや》を足元に落とすと軍刀を上段に構え、そのまま一気に打ち下ろした。鞠《まり》を蹴《け》るような音と共に生徒の頭部が斬り落とされ、その反動で仰け反る胴体が勢い良く後ろの地面に倒れた。首の切断面からは葡萄《ぶどう》酒そっくりの血が噴き出し、続いて先程食べた蕎麦《そば》がどろどろと流れ出た。周囲を囲む見物人から一斉に大きな拍手が起き、甲高い指笛があちこちから聞こえた。伍番の男は白衣のポケットから手拭《てぬぐ》いを出し、軍刀に付いた血を丁寧に拭《ふ》き取った。そして鞘を拾い刀身を収めると、リヤカーまで引き返して荷台に戻した。三つ編みの生徒の両手は組まれたまま、小刻みに震え続けていた。
 清美は絶句した。それはあまりにも無残な光景だった。次は自分の番だと思った途端悪寒が背筋をつらぬき、ひざまずいて命乞《ご》いをしたい衝動に駆られた。同時に清美は激しくおののく自分に愕然《がくぜん》とした。セントアンデレに対する強い信仰心をもってすれば、怯《おび》えることなく安らかに死ねると固く信じていたからだった。しかし現実は違っていた。目前に迫った処刑の恐怖に完全に飲み込まれ、マーテル教徒としての矜持《きようじ》は消滅していた。もはや今の清美にはアンデレ経典を唱える余裕すらなかった。
 傍らに立っていた肆番の男が清美の前にやってきた。
「この中に入っている球を一つだけ取れ」
 肆番の男が黒い巾着袋を差し出した。清美は動けなかった。全身が硬直して瞬きもできなかった。全身の神経が凍りついたようだった。清美は巾着を凝視したまま立ち尽くした。
 不意に肆番の男が清美の頬を張り飛ばした。清美はよろめいて後ずさった。
「早く球を取れっ」
 肆番の男が苛立《いらだ》った口調で命じた。ビンタの衝撃で清美は我に返った。何とか右手を伸ばして巾着の中に入れ、最初に触れたゴムボールを取り出した。その表面には「蝮《まむし》」と書かれていた。肆番の男はボールを受け取りその漢字を見た。防毒面の眼鏡から覗く目が大きく見開かれた。
「まむしっ!」
 肆番の男がボールを高く掲げて叫んだ。金網に群がった無数の見物人からまた歓声が上がった。それは三つ編みの生徒の時よりも遥《はる》かに大きかった。
「外套を脱いで十字架の前に立て。他の奴らは邪魔だからどけっ」
 壱番の男が指揮棒で清美の後方を指した。
「蝮」は磔刑《たつけい》を意味する漢字のようだった。残りの四人の生徒が足早に五メートルほど離れた場所に移動した。清美もまた白い外套を脱いでセーラー服姿になると、高さが二メートル近くある十字架の前に立った。それは木ではなく、厚さ一センチ、幅二十センチほどの鉄板でできていた。四方向に伸びるX形の四つの柱には、手足を固定するための革バンドが十センチ間隔で四つずつ付いていた。罪人の身長によって使うバンドの位置が変わるようだった。また下の二本の柱は途中から土の中に埋まっていたが、全部でどれ位の長さがあるのかは分からなかった。
 壱番の男がやって来ると、十字架の下に背もたれの無い丸椅子を置いた。それは蕎麦屋の屋台にあったものと同じだった。
「これからお前の処刑を開始する。手足を固定するからこの上に立って両手を広げろ」
 壱番の男が指揮棒で椅子を指した。清美は眩暈《めまい》を覚えた。膝から一気に力が抜け足が激しく震えだした。震えはたちまち上体に這《は》い上がり肩から指先に落ちた。唇が痙攣《けいれん》するように揺れ動き、上下の歯列がぶつかってかちかちと音を立てた。『処刑』という男の声が頭の中で何度も鳴り響き、再び悪寒が背筋をつらぬいた。清美は生まれて初めてマーテル教徒になったことを後悔した。弐番の男が十六ミリカメラを構えてまた撮影を始めた。フィルムが回るシャカシャカという乾いた音が辺りに響いた。
「一番目の子は良かった。特に首から蕎麦が出るところが良かった。実に美しくて刺激的だ。ああいうのが観客に受けるんだ。お前も死ぬ時蕎麦が出るといいな」
 男は嬉々《きき》とした表情を浮かべた。しかし極限まで追い詰められた清美の感情は麻痺《まひ》し、その言葉に対して何の反応も示すことができなかった。清美は老婆のような緩慢な動作で丸椅子の上に立ち、震える両腕を万歳するように左右に広げた。壱番の男は白い指揮棒を白衣のポケットに差し込むと、慣れた手つきでその手首を柱の革バンドに固定していった。清美の身長が百五十センチと低いため、使用されたバンドは下から二番目のものだった。
 両手首の固定が終ると壱番の男は清美の立つ丸椅子を蹴って倒した。清美はX形の十字架に中吊《ちゆうづ》りになった。左右の手首に全体重が掛かり革バンドが皮膚に喰い込んだ。清美は苦痛に顔を歪《ゆが》めた。壱番の男は清美のスカートを無造作に剥《は》ぎ取り、その下のショーツを乱暴に引き下ろした。下半身が露出した途端、金網を取り囲む無数の見物人がどっと笑い声を上げた。「毛が生えてやがるっ」という子供の甲高い声が聞こえた。しかし清美は羞恥《しゆうち》を感じなかった。裸を見られて恥じらうような余裕はもうどこにも残っていなかった。時計の秒針のように正確に、そして確実に迫って来る「死」の恐怖に、清美はただただおののき続けていた。
 壱番の男は再び慣れた手つきで、清美の左右の足首を柱の革バンドに固定していった。清美はすぐに手足をX形に開いた恰好《かつこう》になった。十字架の正面にいる見物人からは清美の性器が見えるらしく、男達はみな股間《こかん》を見ながら卑猥《ひわい》な笑みを浮かべていた。
「始めろ」
 壱番の男がリヤカーの前にいる伍《ご》番の男に命じた。伍番の男は頷き、リヤカーの荷台から一本の細い素槍《すやり》を取り出した。それは長さが清美の身長ほどあり、刃だけでなく長柄の部分も銀色の金属でできていた。あれでつらぬかれて死ぬと分かった途端、清美は失禁した。小便は大きく開いた股間から勢い良く放たれ、音を立てて地面を濡《ぬ》らした。それを見た見物人がまたどっと笑い声を上げた。
 伍番の男が槍を持って歩いてくると清美の前で止まった。男は屈《かが》みこむと清美の股間を覗き込んだ。
「子供だから小さいな。もう少し大きくしよう」
 男は低く囁くと槍を置き、白衣のポケットから硝子《ガラス》の小瓶を取り出した。小瓶の中には黄金色の液体が半分ほど入っていた。男は蓋《ふた》を取って中身を掌《てのひら》に垂らし清美の肛門《こうもん》に塗りつけた。それは油のようにぬるぬるしていた。男は小瓶をポケットに仕舞い、今度は小型の折り畳み式ナイフを取り出した。
 清美は短い悲鳴を上げた。肛門の筋肉が反射的に収縮した。何とか股《また》を閉じようと下半身にありったけの力を込めたが、足首を固定している革バンドはびくともしなかった。男はナイフの刃を指で摘《つ》まんで引き出し、おもむろに清美の肛門に押し当てた。金属のひやりとした冷たさを感じた瞬間、男は素早くナイフを引いた。初めは何も感じなかった。一瞬清美は男が切り損ねたと思った。しかし痛みは数秒後にやってきた。肛門とその周囲が不意に熱くなり、ひりつくような痛みが湧き上がってきた。傷口が花弁のようにぱっくりと開いているのが皮膚の感覚で分かった。思ったほど痛みを感じないのは、肛門に塗られた液体に原因があるようだった。
 男はナイフをポケットに戻すと傍らに置いた槍を取った。いよいよ『串刺《くしざ》し』の始まりだった。清美は強い息苦しさを覚えた。胸の鼓動が尋常ではなかった。今まで経験したことのない異様な速さで心臓が震え動いていた。
 男は金属でできた槍の長柄を両手で握り、鋭い切っ先を清美の裂けた肛門に挿した。また金属のひやりとした冷たさを感じた。男は一呼吸分の間を置くと槍を無造作に突き上げた。切っ先は素早く直腸の中を進み、そのまま突き当たりの腸壁をつらぬいて小腸に突き刺さった。下腹部に激烈な痛みが走った。それはとても耐えられるものではなく、清美は仰け反って絶叫した。耳をつんざく凄《すさ》まじい悲鳴が刑場に響いたが、男は全く意に介さずにさらに槍を突き上げていった。冷たく鋭い切っ先が腹の中を進むのが分かった。ぶちぶちと小腸がちぎれる音が微《かす》かに聞こえた。激痛は瞬く間に腹部全体に広がった。清美は身をよじり髪を振り乱して「やめてっ! やめてっ!」と叫んだ。大量の涙が溢《あふ》れ口から涎《よだれ》が飛び散った。しかし切っ先は止まらなかった。小腸の塊をつらぬき、その上を横行する結腸をつらぬくと胃の下部に突き刺さった。清美は強烈な吐き気を覚え、込み上げてきたどろりとしたものを吐き出した。
「出た、蕎麦《そば》が出たぞっ」
 傍らで撮影していた弐番の男が嬉々として叫んだ。激痛はいつの間にか全身を覆っていた。頭の天辺《てつぺん》から爪先《つまさき》までがどくどくと激しく脈打っており、もうどこが痛いのか区別がつかなかった。叫ぶことも儘《まま》ならなくなった清美は、泣きながら頭を左右に振る以外なす術《すべ》がなかった。胃の内部にゆっくりと刃先が入ってきた。清美は再び強い吐き気を覚え嘔吐《おうと》した。
「また蕎麦が出た、また蕎麦が出た」
 弐番の男がカメラを持ったままぴょんぴょんと飛び跳ねた。伍番の男は両手で持った長柄を慣れた手付きで左右に動かし、刃先を胃の中の右上部に突き刺した。そこには開口部のようなものがあるらしく、大した痛みも感じずにするりと刃先が中に入った。
「よし、噴門から食道への進入成功」
 男は小声で呟《つぶや》くと、残りの長柄を素早く肛門の中に突き入れていった。全身を覆う激痛はさらに増幅した。清美は歯を喰《く》いしばり両手を力一杯握り締めた。食道の中を迫《せ》り上がってくる槍の冷たい感触がはっきりと感じられた。これだけの極限状態にいながら、なぜ自分が失神しないのか不思議だった。切っ先はたちまち喉《のど》元に達し、そこで止まった。
「おい、槍を貫通させるから上を向いて口を開けろ」
 伍番の男が低く囁《ささや》いた。清美は湧き上がる凄まじい痛みに顔を歪めながら、何とか空を仰ぎ口を開いた。男は処刑の達人であり、口から槍を出すことに強いこだわりを持っているようだった。
 男は再び槍の長柄を肛門に突き入れ始めた。しかしその直後、清美は首に鋭い痛みを覚えた。
「ちくしょう、失敗した」
 男が舌打ちし長柄から手を離した。男の手元が狂って切っ先が食道を突き破り、首の右側から飛び出したのが分かった。頸《けい》動脈が切断されたらしく、瞬く間に込み上げてきた血が口の中一杯に広がった。生温かいそれは仄《ほの》かに塩辛く鉄錆《てつさび》の臭いがした。清美の口から大量の血が溢れ出した。周囲の見物人から一斉に拍手が起こった。
「ちくしょう失敗した。ちくしょう失敗した。ちくしょう失敗した」
 伍番の男は同じ言葉を繰り返しながらしゃがみ込み、子供じみた動作で何度も地面を叩《たた》いた。
 清美は肛門から首までを槍でつらぬかれたまま、生死の境を彷徨《さまよ》っていた。切断された頸動脈からの出血が酷《ひど》く、間断なく血が込み上げてきて半開きの口から溢れ続けた。血は白いセーラー服を赤く染め、真下の地面に落ちて大きな血溜《ちだ》まりを作っていた。程なく清美は強い寒気を覚えた。大量出血のために体温が低下したらしく、手足がわなわなと震え出した。朦朧《もうろう》とした意識の中、清美は激しい喉の渇きを覚えた。無性に水が飲みたくて堪《たま》らなかった。泥水でも海水でもいいから、腹が一杯になるまでがぶ飲みしたかった。
 しゃがんでいた伍番の男が立ち上がった。男は白衣のポケットからまた折り畳み式のナイフを取り出した。
「お前は失敗作だ、芸術品としての価値が消滅した」
 男は頭を左右に振るとナイフの刃を指で摘まんで引き出した。清美は手足を震わせながら虚《うつ》ろな目でその刃先を見つめた。
「だからもういらない」
 男は素早く清美の左胸をナイフで刺した。
 清美の体がびくりと跳ねた。心臓が破裂して四散するような痛みを覚えた。息が止まり視界が瞬時に暗くなった。周囲からたくさんの拍手が沸き起こったがそれもすぐに聞こえなくなった。全ての感覚器官が停止した。

 気付くと清美は白いタイル張りの部屋の中で椅子に座っていた。しんと静まり返った室内には他に誰もおらず、天井に灯《とも》る蛍光灯の放電する音だけが微かに聞こえていた。
 清美は全裸で、左右の手首と足首を革バンドで椅子に固定されていた。朦朧とした意識の中、清美はここが紅十字脳病院の病室だと思った。あれだけの傷を負った自分が生きているということは、病院で緊急手術を受けたとしか考えられなかった。しかしなぜ途中で処刑が中止になったのか、そしてなぜマーテル教徒の自分が助けられたのかが分からなかった。
 不意に正面にあるドアが荒々しく開いた。清美はあの防毒面を被《かぶ》った男達だと思ったが、入ってきたのは二人の憲兵だった。一人は三十代後半で口髭《ひげ》を生やしており、もう一人は二十代前半で背が高かった。中年の男は少佐の襟章を、若い男は少尉の襟章を付けていた。
「目が覚めたか。ちょうど十五分経ったところだ」少佐が腕時計の文字盤の硝子を指で叩いた。「お前は子供だから、ショック死するんじゃないかと内心ヒヤヒヤしてたんだ。凄《すご》かっただろ?『髑髏《どくろ》』の世界は」
 ドクロという言葉が鋭く胸を突いた。清美は思わず息を飲み少佐の顔を見つめた。同時に麻痺《まひ》していた脳内が正常に戻り次々と記憶が回復した。自分が非国民であること、ここが憲兵隊本部の地下室であること、そして『髑髏』という幻覚剤で拷問を受けていたことなどを思い出した。
「廊下にまで悲鳴が響き渡ってうるさいなんてもんじゃなかったぞ。お漏らしまでしてるところを見ると、かなり強烈な体験をしたようだな」
 少佐が僅《わず》かに口元を緩めた。清美は慌てて床を見た。椅子の下には大量の黄色い液体が広がっていた。立ち上ってくる臭いで尿だと分かった。清美は伍《ご》番の男がリヤカーから素槍《すやり》を取り出した時、恐ろしさのあまり失禁したことを思い出した。
「さて、『髑髏』の素晴らしさを充分理解してもらったところで、改めて訊《き》きたいことがある。お前が隠している幸彦の秘密とは一体何だ?」
 少佐が静かに言った。
 清美は目を伏せて下唇を噛《か》んだ。
 私は一度死んだんだ、と清美は思った。紅十字脳病院の処刑場に立てられた、X形の鉄の十字架の映像が鮮明に浮かんだ。それは夢や幻のように朧《おぼろ》げで曖昧《あいまい》なものではなかった。『髑髏』が清美の脳内で創り上げた完全無欠の現実だった。清美は確かにあの真夜中の保健室から早朝の処刑場に至る間、ドロローサという浄化名を持ったマーテル教徒として生きた。その別人格の人生体験は呼び覚まされた前世の記憶のように、清美の心の中に深く染み込んでいた。
 清美の体は肛門《こうもん》から首までをつらぬく槍の感触を、そしてそれに伴う気も狂わんばかりの激痛をはっきりと覚えていた。切っ先が腸を切り裂くぶちぶちという音と共に、周囲を取り巻く見物人の歓声が耳の中に響いた。清美の心臓がどくどくと激しく脈打ち出した。あの時味わった圧倒的な恐怖と絶望が悪寒となり背中一面に広がった。もしもう一度『髑髏』を使用されたら、正常な精神状態でいることはまず不可能に思えた。しかしここまで追い詰められても尚《なお》、清美の気概は揺るがなかった。今までと同様に、幸彦の秘密を口外するつもりは毛頭無かった。無論それが悲劇的な結果を招くことになるのは充分承知していた。
 清美は自決の覚悟を決めていた。
 自らの命と共に幸彦の秘密をこの世から消し去るつもりだった。そのためには『髑髏』の再注入が必要だった。清美は『髑髏』体験中のショック死に全てを懸けていた。少佐は五人の女が恐怖の余り、心臓麻痺を起こして死にかけたと言っていた。また清美が幻覚から覚醒《かくせい》した時、「死ぬんじゃないかとヒヤヒヤした」とも言っていた。それだけ危険な『髑髏』を二度注入された者は今まで皆無であり、続けざまに死の衝撃を体験すれば必ず心臓が停止するはずだった。万が一死ななかったとしても発狂する可能性が極めて高く、狂人となった清美の支離滅裂な言動の中から、何が真実で何が嘘かを区別することは絶対に無理だった。
 清美はおもねるような目で松本少佐を見た。ここで今まで通り秘密は知らぬと嘘を吐《つ》けば、少佐が二度目の『髑髏』注入を即決すると予期していた。
「私は本当に、本当に兄の秘密なんか知らないんです、嘘じゃありません、これが真実なんです、お願いします、後生だから、後生だからどうか信じて下さいっ」
 清美はわざと懇願するような声で叫んだ。
 しかし少佐は何の反応も示さなかった。無言のまま清美の顔を凝視するだけだった。それは清美の心中を探っているようにも、込み上げてくる怒りを抑えているようにも見えた。清美はどうしていいか分からず、また目を伏せて下唇を噛んだ。
 沈黙が一分ほど続いた。
 やがて少佐は髭を右手でゆっくり撫《な》でると、鼻から大きく息を吐いた。
「清水、上には俺から報告しておく。全責任は俺が取るから『髑髏』を持って来い」
 少佐が清美を見たまま低く呟《つぶや》いた。背後に立つ少尉は背筋を伸ばして「はいっ」と答え、素早くドアを開けて出て行った。

 目醒《めざ》めた時、視界は真っ暗だった。
 暗い場所にいるのか、目蓋《まぶた》が開かないのか分からなかった。やがて目の前を覆う黒い霧の様なものがゆっくりと薄れていき、徐々に白いタイル張りの室内が見えてきた。
『髑髏』の世界からの二度目の帰還だった。
 まだ朦朧とする意識の中、清美は自分がショック死も発狂もしていないことを知った。まさに命を賭《か》けた一発勝負に敗れた訳だが、不思議と失望も戸惑いも感じなかった。代わりに胸の奥から湧き上がってきたのは、生き延びたことに対する安堵《あんど》だった。あれだけ固い決意で死に臨んだにもかかわらず、いざ助かってみると人間は本能的に「生」に執着するようだった。事実、清美の中で自決したいという思いは完全に消えていた。
 清美は大きく息を吐くと目を閉じ、先程まで見ていた幻覚を思い出そうとした。しかし今回はなぜかその殆《ほとん》どが記憶に残っていなかった。何者かに惨殺されているはずだったが、肉体を破壊された時の感触も、それに伴う激痛の感覚も皆無だった。ただ一つ覚えているのは覚醒する直前、どこかの路地の中で見知らぬ男に追いかけられたことだった。国民服を着たその男は身長が二メートル近くあり筋骨隆々としていた。怪我をしているらしく左足を引きずっていたが、それでも走る速度は速かった。
 清美は細く暗い路地を全力疾走で逃げていた。背後から足音と共に荒々しい呼吸の音が聞こえ、振り向く度に男との距離が縮まっていた。心臓が信じられない速さで脈打ち、全身から冷や汗が噴き出していた。丁字路に差し掛かり慌てて右に曲がった清美は足を滑らせ転倒した。追いついた男は清美の胸倉を掴《つか》んで強引に仰《あお》向けにし、腹の上に馬乗りになった。清美はそこで初めて追跡者の顔をはっきりと見た。男は顔だけが十歳ほどの子供だった。坊主頭で頬が赤く青洟《あおばな》を垂らしていた。
「おめぇはどうやって死にてぇ?」
 男が呟いた。声も子供のものだった。
 清美が記憶しているのはそこまでだった。残りはみな、どろりとした意識の底に沈んだままだった。
 不意にドアが開き、清水少尉を伴った松本少佐が部屋に入ってきた。
「一日に二回も極上の幻覚が見られてお前は幸せだな。また悲鳴が廊下にまで響き渡ってたぞ」少佐が椅子に座る清美を見て楽しそうに言った。『髑髏』の効力に絶大な信頼を寄せているらしく、その顔は自信に満ち溢《あふ》れていた。「さあ、いい加減幸彦の秘密を教えてもらおうか」
 その言葉に心臓が小さく鳴った。清美は反射的に幸彦の秘密を想起しようとした。しかし頭には薄暗い闇しか浮かんでこなかった。秘密は確かに清美の脳内に存在していた。それははっきりと自覚できたが、どれだけ意識を集中させても記憶を再生することができなかった。清美は慌てて幸彦の顔を思い浮かべようとしたが結果は全く同じだった。再び心臓が小さく鳴った。清美はそこで初めて記憶障害が起きたことに気づいた。原因は以前少佐が言っていた通り、『髑髏』の副作用以外考えられなかった。
「お、思い出せないんです、兄の秘密も、顔も、全然思い出せないんです、ど、『髑髏』の副作用です」
 清美が震える声で少佐に告げた。
 同時に今まで冷静だった少佐が初めて怒りを露《あら》わにした。歯を喰いしばる口を真一文字に結び、鋭い目付きで清美を睨《にら》みつけた。その双眸《そうぼう》には刺すような光が浮かび、額や頬が見る間に紅潮した。少佐は両手を握り締めて足早に近づいてくると、清美の頬を力任せに殴りつけた。凄《すさ》まじい衝撃に清美は眩暈《めまい》を覚えた。椅子に固定されていなかったら間違いなく昏倒《こんとう》した一撃だった。少佐は清美の髪を鷲《わし》掴みにし、うな垂れた顔を強引に上向きにした。
「いつまでもくだらねぇ猿芝居してんじゃねぇっ! 俺は十六年憲兵やってんだっ! てめぇが嘘言《たわごと》ぬかしてることぐらい目ぇ見りゃ一発で分かんだよっ! 殺されたくなかったらさっさと吐けっ! こっちにも我慢の限界があんだ馬鹿野郎っ!」
 少佐は腹の奥底に響き渡る大声で怒鳴った。清美は左の口端から血が流れ出るのを感じながら、自分の感情の起伏が消えていることにも気づいた。憲兵に殴打され激しく罵倒《ばとう》されているにもかかわらず、恐怖というものを全く感じなかった。頭の中には怒鳴り声が耳障りだという思いしかなかった。清美は少佐の更なる罵詈《ばり》雑言を聞きながら、自分が廃人になってしまったことを知った。

 松本少佐は最後まで清美を疑い続け、三度目の『髑髏《どくろ》』使用許可を本部の上層部に願い出た。しかし二度『髑髏』を注入しても何も聞きだすことができず、また診察に来た軍医が「これ以上拷問を続ければショックで死亡する」と断言したため、清美は即日釈放されることになった。少佐は納得できず直属上官の大佐に電話で抗議したが、拘禁の延長は認められなかった。
 清美は漸《ようや》く拘束椅子から解放された。しかし足が震えて立つことができず、担架に乗せられて拷問室から運び出された。松本少佐と清水少尉は無言でその後を付いて来た。担架はエレベーターで一階に上がり、連行された時と同じビルの裏手の通用口から外に出た。通用口の前には野戦用の装甲患者車がエンジンを掛けたまま停車していた。清美が担架ごと車に乗せられる時、松本少佐が「俺は絶対諦《あきら》めんぞ」と呻《うめ》くように言った。
 翌日、一人の憲兵伍長《ごちよう》が自宅を訪ねてきた。松本少佐の命令で来たというその伍長は、幸彦は必ず家に戻り清美と接触しようとすること、そのため今日から村役場に三人の憲兵が常駐することを告げ、幸彦が帰宅したら家に入れる前に役場へ通報しろ、もし感づかれて逃げようとしたら射殺しろ、と淡々とした口調で命じた。そして役場との直通電話を設置し、安全装置を外した自動拳銃《けんじゆう》を置いて出て行った。
 どこかで声がした。
 誰かが清美、と呼んでいる気がした。
 それは遠くからの叫び声のようにも、耳元での囁《ささや》き声のようにも聞こえた。
 椅子にもたれてまどろんでいた清美は耳を澄ませた。それは確かに人の声だった。若い男が清美、清美とどこかで叫んでいた。清美は目を開けて居間の壁に掛かった振り子時計を見た。針は四時四十七分を指していた。先程から七分経過したのか、それとも二十四時間と七分経過したのか判別できなかった。清美は体を起こすとゆっくりと立ち上がり、覚束無い足取りで北側の壁にある両開きの窓の前に立った。白い長袖《そで》の体操服を着た清美の姿が薄《うつす》らと硝子《ガラス》に映った。空は相変わらず鈍色《にびいろ》の雲に覆われており、辺りはどんよりと薄暗かった。
 不意に窓の前に学生服を着た若い男が現れた。それは二日前に清美を訪ねてきた同級生らしき人物だった。
「清美、俺だ、ちょっと用事があんだ、中に入れてくれっ」
 男は窓硝子を指で叩《たた》きながら叫んだ。なぜか声が露骨に上擦っていた。清美は窓から数歩後ずさると、その顔をぼんやりと見つめた。それは確かに以前から知っている男だった。もしかしたら小学生の頃からの知り合いなのかもしれなかったが、依然として名前は浮かんでこなかった。
「清美、俺の声は聞こえてんだろ? おめぇに大事な話があんだ、どうしても今日中に伝えなきゃなんねんだ、頼むから玄関のドアを開けてくれ」
 男は窓硝子に顔を押し付けて懇願した。その目には油膜のようにぬめった光が浮かんでいた。清美はその光に淫猥《いんわい》なものを強く感じた。男は激しく発情しているようだった。清美は大きく息を吐いた。寝癖で乱れた髪をかき上げながら、ゆっくりと窓に近づいていった。男が嬉《うれ》しそうに笑みを浮かべた。清美と話せると思ったようだった。
「……帰って」
 清美は呟《つぶや》くように言うと、左右に開いた芥子《からし》色のカーテンを閉めた。男は自分に気があるようだった。大事な話とは愛の告白かもしれなかったが、清美は向こうに何の興味も何の感情も持っていなかった。恋愛ごっこがしたいのなら誰か他の女として欲しかった。
 清美が椅子に戻り背もたれに手を掛けた時、大音響と共に窓硝子が砕け散った。無数の硝子片が四散し角ばった石が床に転がった。鍵《かぎ》を外す音がし、窓枠を開ける音がした。カーテンがレールから荒々しく引き剥《は》がされ学生服の男が現れた。清美は椅子から立ち上がり男の顔を見つめた。感情が消えているため恐怖は感じなかったが、この状況にどう対処すればいいのか分からず動くことができなかった。
 男は窓から居間の床に飛び降り、散乱する硝子片を白いズック靴で踏みながら歩いてきた。緊張のためかその顔は酷《ひど》く強張《こわば》っていた。男は程なく清美の前で止まった。
「今日からおめぇは俺の便所女だ。殴られたくなかったらじっとしてろ」
 男はまた上擦った声で言うと、いきなり清美を抱きしめ唇を合わせてきた。まだ童貞らしく口内をまさぐる舌使いが稚拙だった。下腹に押し付けられた股間《こかん》には硬直した陰茎の感触があった。男は接吻《せつぷん》をやめると清美をテーブルの上に押し倒した。ちょうどそこには自動拳銃が置かれており清美の背中の下敷きになった。背骨に拳銃の銃把が喰《く》い込み鋭い痛みが走った。
「痛いっ、やめてっ」
 清美は堪《たま》らず叫んだが男は強引にのしかかってきた。体操服を捲《まく》り上げて乳房を出し、両手で荒々しく揉《も》みながら左右の乳首を交互に何度も吸った。清美は背中の痛みに耐えかねて男を押しのけようとしたがびくともしなかった。
 不意にテーブルの下からめりっと木の裂ける音がした。次の瞬間二人の重みに耐えきれなくなった四本の脚が折れ、音を立ててテーブル板が床に落ちた。衝撃で拳銃がさらに背骨に喰い込み清美は大きな悲鳴を上げた。しかし男は全く意に介さなかった。素速く体を起こして膝立《ひざだ》ちになると、清美の体操ズボンを中のショーツと一緒に強引に引き下ろした。下半身が露わになっても清美は羞恥《しゆうち》を感じなかった。ただ冷たい外気にさらされた性器に寒気を覚えただけだった。男は腰のバンドを外して学生ズボンを下ろした。下半身に下着を着けておらず、怒張した白っぽい陰茎が勢い良く屹立《きつりつ》していた。
「四つん這《ば》いになって尻《しり》を突き出せ」
 男が低い声で命じた。初めての性交で緊張しているのか語尾が震えていた。清美はゆっくりと上体を起こした。背中から拳銃が離れやっと背骨の痛みが和らいだ。清美は言われた通り後ろを向いて四つん這いになった。性交したい気分ではなかったが抵抗するのが酷く億劫《おつくう》だった。さっさとやることをやって出ていって欲しかった。清美は性器が見えるよう上体を低くして尻を掲げた。男は清美の尻を両手で荒々しく掴《つか》むと、指や口で愛撫《あいぶ》することなくいきなり陰茎を挿入した。完全に濡《ぬ》れていなかった清美は痛みを感じて顔を歪《ゆが》めた。男はすぐに腰を激しく振り出した。しかしその動きは犬の交尾と同じく単調で何の技巧も無かった。清美は男が性交の快感に負け、すぐに射精すると思った。
 しかし男は中々果てなかった。息を荒らげ何度も呻き声を上げたが腰の動きは止まらなかった。やがて清美の肉体は陰茎の動きに反応しはじめた。亀頭が膣壁《ちつへき》を擦《こす》る度、疼《うず》くような快感が湧き上がるようになっていた。それはピストン運動が速まるにつれて急速に増していき、いつしか抑え切れないものになった。清美は堪らず喘《あえ》ぎ声を上げ、男の動きに合わせて自分の腰を振った。快感は真っ赤な炎となって背骨を駆け巡り頭の芯《しん》を火《ひ》達磨《だるま》にした。清美はさらに激しく腰をうち振るい髪を上下に振り乱して「幸彦っ、幸彦っ」と叫んだ。その途端稲妻のような閃光《せんこう》が目の前を走った。同時に意識の奥底から解き放たれた記憶が、動脈から噴き出る鮮血のように脳裡《のうり》に迸《ほとばし》った。一人の男の顔が甦《よみがえ》った。細面で鼻梁《びりよう》が高く、一重の細長い目をした唇の薄い男。
 兄の幸彦だった。
 不意に男がむせび泣くような声を上げた。腰を振りながら清美の尻を鷲《わし》掴みにした。陰茎がさらに膨らみビクビクと数回跳ねると腰の動きが止まった。
 射精を終えたらしい男は大きく息を吐き、四つん這いになった清美から体を離した。
「おめぇ、大分感じてたな。俺のマラボウは具合が良かったろ?」
 男が背後から訊《き》いてきたが清美は答えなかった。顔に掛かった前髪をかき上げ、ゆっくりと上体を起こした。いつの間にか全身が汗にまみれ肌がぬるついていた。清美は右手で体を支えながら潰《つぶ》れたテーブルの上に尻をついた。下向きになった膣から生温かい精液がどろりと流れ出た。清美にはそれがとてつもなく汚らしいものに思えた。清美の性器は幸彦のものだった。そこに射精が許されるのはこの世で幸彦だけだった。その二人だけの聖域に汚物を放った男に対し、清美は強烈な嫌悪と憎悪を覚えた。
 清美の目が先程まで背中の下敷きになっていた自動拳銃に止まった。迷うことなく右手が伸びてそれを拾い上げた。銀色の鉄の塊は見た目以上にずしりと重かった。清美は大きく息を吸うと後ろを振り向いた。男は下半身裸のまま床に胡坐《あぐら》をかいていた。それは溝口祐二という同じ二年一組の生徒だった。内向的で口数が少なく目立たない存在だったので、自分を犯しに来たことが信じられなかった。
 初めての性交を終えた祐二は満足そうな顔をしていた。剥《む》き出しの陰茎はまだ半分ほど勃《た》っていた。
「いいか、もう一回言うぞ。今日からおめぇは俺の便所女だ。俺は毎日ここに来ておめぇとやりまくる。だからいつも体をきれいにしておけ」
 祐二は薄ら笑いを浮かべた。清美は右手で持った拳銃《けんじゆう》を祐二に向けて突きつけた。三十センチほどの至近距離だった。祐二が「おめぇ……」と何かを言いかけた時、清美は目をつぶって力一杯引き金を引いた。凄《すさ》まじい火薬の破裂音と共に拳銃が勢い良く跳ね上がった。飛び出した薬莢《やつきよう》が床に転がる音がした。清美は目を開けた。白い硝煙が漂う中、祐二は仰《あお》向けに倒れていた。清美は拳銃を構えたまま立ち上がった。生きていたらもう一発撃ち込むつもりだった。清美は慎重に近づいていくと上から祐二の顔を覗《のぞ》き込んだ。弾丸は祐二の口元に命中していた。上唇が大きく裂け前歯が上下四本とも吹き飛んでいた。弾丸が後頭部を貫通したらしく頭の下から大量の血が溢《あふ》れ出ていた。
 清美は拳銃を下ろした。
 松本少佐が言っていた秘密とは、「幸彦の秘密」ではなく「幸彦との秘密」だったのだと思った。
 二人が肉体関係を持ったのは去年の十二月のことだった。雪が降りしきるある日の夜、清美は肌寒さを覚えて目を覚ました。部屋の片隅に置かれたストーブを見るといつの間にか火が消えていた。灯油は半分以上残っていたが何度点滅器《スイツチ》を押しても着火しなかった。あいにく両親は工場の夜勤で留守だった。清美は隣の自室で眠る幸彦を起こし、ストーブが故障したからみてほしいと頼んだ。しかし寝惚《ねぼ》け眼《まなこ》の幸彦は、明日直すから今晩は俺の部屋で寝ろと言って毛布を被《かぶ》った。しょうがないな、と清美は思った。冷えきった自分の部屋で震えながら眠る気にはなれなかった。清美はベッドに潜り込み、幸彦に背中を向けた。抵抗は全く感じなかった。小学四年生まではよく同じベッドで寝た仲のいい兄妹だった。清美はすぐに眠りに落ちた。
 再び目を覚ましたのは早朝だった。寝ている間に寝返りをうったらしく、仰向けの幸彦の胸に頬を押し付けるような恰好《かつこう》になっていた。清美が密着した体を離そうとした時、幸彦の心臓が異様に大きく脈打っていることに気づいた。清美が顔を上げると既に目覚めていた幸彦と目が合った。夜明け直後の薄闇の中、その瞳《ひとみ》は潤みを帯びて光っていた。
「……おめぇ、いい匂いがするな」
 幸彦が微《かす》かに震える声で呟《つぶや》いた。その言葉は清美の体を電流のように駆け巡った。幸彦が清美を強く求めているのが分かった。そしてその瞬間清美も幸彦をより強く求めていた。
 二人は抱き合い激しく唇を合わせた。
 それから週に四回、両親が夜勤の夜に二人は情を交わすようになった。兄と妹は完全な男と女になっていた。清美の初恋の相手は兄だった。幼い頃から幸彦に対し恋愛感情のようなものを抱いていた。しかしそれは外国の映画俳優を好きになるのと一緒で、絶対に実現不可能なものだと思い込んでいた。それだけに清美は幸彦との性交にのめり込んでいった。近親相姦《そうかん》という感覚は一欠片《かけら》も無かった。自分達は運命に導かれてこの世で巡り合った訳であり、恋愛しようが性交しようが二人の自由だと思った。将来は駆け落ちして結婚し、必ず幸せな家庭を築くものだと信じていた。それだけに幸彦が他の女と出奔したことは衝撃だった。清美の心は未《いま》だにめちゃくちゃに破壊されたままだった。
 清美は手にしていた自動拳銃を落とした。
 鉄の塊が床板を打つ鈍い音が響いた。
 とにかく死体を何とかしなければならなかった。清美は下半身裸のまま祐二の両足を抱えると、後ろ向きに歩きながら引きずっていった。痩《や》せていて小柄な体格だったが死体になると異様に重かった。清美は歯を喰いしばってありったけの力を出さねばならなかった。途中祐二の腕が椅子に当たり座布団の上に載っていた黒電話が床に落ちた。受話器が外れ受話口から微かにプルルルと発信音が聞こえたが気にしている暇は無かった。
 居間を出た清美はそのまま台所に入り、勝手口を開けて裏庭に出た。雑草が生い茂る十坪ほどの庭の中央にリヤカーが置かれていた。清美は祐二の足を離すと足早に近づいていき、荷台を押して二メートルほど前に押し出した。
 リヤカーの下に古びた木製の蓋《ふた》があった。畳半畳ほどの大きさで正方形をしていた。右側の上下の角には直径二センチほどの穴が開けられ、その間に錆《さ》びついた鎖が通されていた。清美は両手で鎖を掴むと蓋を引き上げ、そのまま本を開くように左側の地面に倒した。中からコンクリートの階段が現れた。傾斜が三十度ほどの急なものだった。ここは清美が生まれる前に造られた防空壕《ぼうくうごう》だったが、今は穀物や薪《まき》の貯蔵庫として使われていた。憲兵が家宅捜索に来た時も屋内は徹底的に調べたが、庭のリヤカーの下までは気が回らなかったらしく、未だに手付かずの状態だった。死体を隠すには絶好の場所に思えた。
 清美は再び祐二の両足を抱え、後ろ向きに歩きながら壕の入り口まで引きずっていった。そして死体の向きを百八十度回転させると頭から中に突き入れた。祐二は車が凸凹《でこぼこ》の坂道を下るように何度も弾みながら、急な階段を落ちていった。清美は念のために辺りを見回し、誰もいないことを確かめてからゆっくりと階段を下りた。
 中はひんやりとした空気が漂っていた。清美は階下に着くと左側の壁の点滅器を押した。低い天井に付いた裸電球が黄色い光を発した。祐二は目の前の地面に仰向けに倒れていた。右腕が奇妙な角度で外側に折れ曲がっていた。
 階段から一メートルほど離れた右側にコンクリートの壁があった。その中央に襖《ふすま》一枚ほどの大きさの鉄のドアが付いていた。その中が八畳ほどの広さの防空壕だった。清美はノブを回してドアを開けた。
 強烈な臭いが鼻を衝《つ》いた。
 液体のように濃い腐臭が鼻腔《びこう》にからみついてきた。清美が思わず顔をしかめた時無数の蠅が一斉に飛び立ち、不快な羽音を響かせて壕内を乱舞した。清美は床を見た。高く積み上げられた薪の下で二人の人間が仰向けに倒れていた。右側が作業服姿の幸彦で、左側がブラウスとスカートを着けた美紀子だった。衣服に染み込んだ大量の血液は黒褐色に変色して固まっていた。腐敗が進んだ青墨色の顔はどちらも蛆《うじ》だらけで、目の周りと唇が真っ黒だった。半開きの目蓋《まぶた》の中の眼球は白濁しており、鼻孔と口から灰色の腐汁が流れ出ていた。そして美紀子の傍らに転がる血の付いた出刃包丁を見た時、再び稲妻のような閃光が目の前を走った。同時に記憶の奥底の、さらに奥に埋没していた記憶が漸《ようや》く解き放たれ鮮やかに映し出された。
 あの夜、あの、幸彦が美紀子を伴って帰ってきた入隊前日の夜、半狂乱になった清美は美紀子に対し、自分達兄妹の禁断の関係をぶちまけた。しかし美紀子は驚かなかった。隣に立つ幸彦が彼女には洗い浚《ざら》い告白したと前置きして言った。「俺はおめぇとやる度に罪悪感を抱いて苦しみ続けてきた。やっぱり妹は妹でしかねぇ。どうしても恋愛の対象にはならねぇんだ。そして俺が心から愛してる女は、やっぱり美紀子一人だってことを改めて思い知った。俺がおめぇとの関係を続けることは、俺にとってもおめぇにとっても、美紀子にとっても悪い結果しか出ねぇ。だからけじめをつけるために、おめぇとの関係を終りにして美紀子と結婚することにした。俺の告白を聞いた美紀子は初めかなり動揺したけど、最後にはちゃんと俺の苦しみを理解して許してくれた。婚姻届は今日二人で役所に出してきた。明日連隊に入隊するけど、二年後に除隊した後はどこか遠い所に行って美紀子と家庭を築く」そして納戸から大きな旅行鞄《かばん》を取り出すと、美紀子と二人で荷造りを始めた。
 その光景を見ているうちに清美は我に返った。強いショック状態が消えると清美の頭がカッと熱を帯びた。その温度は急速に上昇して脳を炙《あぶ》り始めた。「美紀子と家庭を築く」という幸彦の声が繰り返し鳴り響き、こめかみが激しく脈打った。やがて頭皮がジリジリと焼け焦げるような感覚を覚えた時、清美の中で何かが音を立てて弾《はじ》け飛んだ。清美は台所に走った。流し台の抽斗《ひきだし》を開けて出刃包丁を掴《つか》み、「裏切り者裏切り者」と呪文《じゆもん》のように呟きながら居間に戻った。清美の手元を見た美紀子が大きな悲鳴を上げた。幸彦が驚いた顔で振り向いた。清美は「裏切り者裏切り者」と呟きながら包丁を振り上げた。
 二人を何度刺したのかは覚えていなかった。
 気が付くと幸彦と美紀子が血だらけになって倒れていた。清美は裏庭の防空壕に二人の死体を運んでいき、凶器の出刃包丁と一緒に放置した。清美は何があってもこの殺人を口外すまいと決意した。もし犯罪が発覚すれば間違いなく死刑だった。完全な被害者である自分が加害者を殺したのは理に適《かな》った行為であり、その『正当な報復』のために銃殺されるのはどうしても納得できなかった。清美はどんな嘘を吐《つ》いてでも、どんな犠牲を払ってでもしらを切り通そうと心に誓った。
 不意に家の前で車のブレーキ音が響いた。ドアが閉まる音と共に複数の荒々しい靴音がし、玄関の扉が激しく何度も叩《たた》かれた。清美の脳裡《のうり》を居間の黒電話が過《よぎ》った。受話器を取るだけで自動的に役場の待機所と繋《つな》がる、という憲兵伍長《ごちよう》の言葉が耳の奥で響いた。
「おいっ、早く開けろっ」
「だめだっ、鍵《かぎ》が掛かってるっ」
「家の裏に回れっ」
 男達の声が飛び交い靴音がこちらに近づいてきた。防空壕の入り口の蓋は開いたままだった。清美はぼんやりと幸彦の死に顔を眺めながら、「裏切り者……」と呟いた。
第参章 怪童彷徨
 溝口雷太は板張りの廊下を歩いていた。
 一人だった。
 前を見ても後ろを見ても他に誰もいなかった。しんと静まり返った廊下は長く、どこまでもどこまでも続いていた。廊下の両側には無数の白い襖がずらりと並んでいた。しかし室内に人の気配は無く、全く物音がしなかった。ただ雷太が板を踏みしめる音だけが微《かす》かに鳴っていた。雷太はふとある事に気づき辺りを見回した。窓が見当《みあた》らず、どこにも照明器具が設置されていなかったが、なぜか廊下は薄ぼんやりと明るかった。
 暫《しばら》く歩いていると前方に淡い光が見えた。近づいていくにつれ、それが提灯《ちようちん》の明かりだと分かった。雷太は橙色《だいだいいろ》に照らされたその襖の前で止まった。鴨居には『溝口家』と大きく書かれた箱提灯が一つ掲げられていた。室内から声がした。若い男の声だった。何かを話しながら笑っていた。好奇の念に駆られた雷太はそっと襖を開けた。中は薄暗い座敷だった。正面の壁に床の間と押入れがあり、左の壁に行灯《あんどん》の乗った地袋があった。部屋の中央に二人の男が立っていた。学生服を着た中学生だった。一人はガーゼマスクを口に付け、もう一人はロイド眼鏡を掛けていた。二人は顔を寄せ合い小声で何かを話していたが、やがてロイド眼鏡の中学生が襖の陰の雷太に気づいた。
「おい、そこの小僧、こっちへ来い」
 ロイド眼鏡が手招きした。雷太は一瞬躊躇《ちゆうちよ》した。二人から何とも言えない背徳的な臭いを嗅《か》ぎ取ったからだった。しかしこの部屋で一体何をしているのか知りたくてならなかった。雷太は無言で襖を開けると座敷の中に入った。
「金は持ってきたんだろうな?」
 ガーゼマスクの中学生が低い声で言った。雷太は訳が分からず首を傾げた。
「おめぇ豚嫁折檻《せつかん》を見にきたんだろ?」
 ロイド眼鏡も低い声で言った。雷太は益々《ますます》訳が分からなくなった。ブタヨメセッカンとはどんな行為を指すのか全く想像がつかなかった。雷太の頭は混乱したが、取り敢えず国民服のポケットに手を入れてみた。指先が紙幣のようなものに触れた。取り出すとそれは二つに折られた一枚の十円札だった。雷太は紙幣をロイド眼鏡に手渡した。
「十円か、しょうがねぇな。本当は二十円なんだが今日のとこはまけといてやる」
 ロイド眼鏡は十円札を学生服の胸ポケットに入れると、床の間の右側にある押入れの戸を開けた。中は空っぽだった。棚や寝具は取り払われ、畳二畳程の個室のようになっていた。
「入れ」
 ガーゼマスクが雷太の肩を押した。雷太は素直に中に入った。ロイド眼鏡とガーゼマスクがその後に続き素早く戸を閉めた。辺りが闇に包まれた。同時に押入れの正面の壁から数本の細長い光が差し込んできた。見ると雷太の腰の高さに直径三センチ程の丸い穴があった。穴は等間隔で横に三つ並んでいた。
「もう始まってるぞ、小僧、見てみろ」
 ロイド眼鏡が雷太に囁《ささや》いた。雷太は膝立《ひざだ》ちになり右端の穴を覗《のぞ》いた。そこもまた座敷だった。部屋の造りはこちらと全く同じだった。違うのは天井から垂れ下がった黒い縄に、両手を縛られた女が吊《つ》り下げられている事と、その隣に竹刀を持った男が立っている事だった。女は赤い腰巻きを一枚着けただけで上半身は裸だった。ざんばら髪で深く頭を垂《た》れているため顔は見えなかった。男は頭の禿《は》げ上がった小太りの中年だった。カーキ色の上下の作業服を着ていた。
「そんなに若い野郎がいいか?」
 男は竹刀で女の頭をこづいた。女は頭を垂れたまま答えなかった。
「そんなに若い野郎がいいかって訊《き》いてんだよっ!」
 男は叫び女の背中を竹刀で強打した。女は大きく仰《の》け反って呻《うめ》いた。その顔を見て雷太は息を飲んだ。自分の母親の和子だった。男は竹刀をバットのように振りながら、和子の背中を何度も何度も打った。その度に和子は大きく仰け反りくぐもった呻き声を上げた。雷太はやめろと叫んだ。死んじまうと叫んだ。
 しかし声が出なかった。立ち上がって隣の座敷に行こうとした。しかし首から下が硬直して動かなかった。
「このアバズレッ、パンパンッ、なめた真似しやがってっ」
 男は竹刀を投げ捨てると和子の顔面を殴りつけた。肉が肉を打つ鈍い音がした。
「……ずべふしゅる」口角から血を流しながら和子が呟《つぶや》いた。「ずべふしゅる、じゅるべんどんちゃぎ」
 それは奇妙な言葉だった。雷太には何を言っているのか全く理解できなかった。
「今さら遅いんだよ馬鹿野郎っ」
 男は言葉の意味が分かるらしくまた和子の顔面を殴った。
「げらみょんばりれん、らじぎぬんひゅる、ずべふしゅる」
 和子は何度も頭を下げた。謝罪しているようだった。
「これで三回目だぞっ、我慢にも限界があんだよっ。絶対許さねぇからなっ!」
 男は作業ズボンの腰から刃物を抜いた。それは普通の包丁よりも切っ先が鋭い、刃渡り二十センチほどの牛刀だった。途端に和子の顔から血の気が引いた。恐怖のためか半開きの唇が痙攣《けいれん》するようにひくひくと動いた。
 やめてくれっ、許してくれ、お願いだっ、
 それは俺の母親なんだっ!
 雷太は絶叫し、壁を両手で叩《たた》こうとした。しかしやはり声は出ず、首から下も全く動かなかった。雷太は歯を喰いしばり涙を流した。できることはそれだけだった。
 男は和子の顔にかかった髪の毛を乱暴に払い除《の》け、その鼻先を左の指で摘《つ》まんだ。そして右手で持った牛刀の刃を横にして鼻孔の下にあてがった。
「ずべふしゅるっ! ずべふしゅるっ!」
 和子が哀願するような叫び声を上げたが、男は躊躇することなく右手を一気に押し上げた。肉を裂く鋭い音がした。和子の鼻は一瞬で削《そ》ぎ落とされた。平らになった顔面の中央には鼻腔《びこう》の穴が開き、流れ出した大量の血が顎《あご》を伝ってぼたぼたと畳に垂れた。
「ぎゅろびんっ! ぎゅろびんっ! ばびろれんきゅるっ!」
 和子はしかめた顔を左右に振り、涙を流しながら絶叫した。血まみれの鼻腔の穴は洋梨に似た形をしており、まるで豚の鼻が付いたように見えた。
「これが豚嫁折檻だ」
 真ん中の穴を覗いていたロイド眼鏡が楽しそうに言った。男は牛刀で和子を吊り下げている紐《ひも》を切った。和子は崩れ落ちるように畳の上に倒れた。男は和子を仰《あお》向けにし、両足を押し広げてその上に覆いかぶさった。そして作業ズボンを下ろして尻《しり》を出すとゆっくりと腰を振りだした。
「始まったぞ」
 ロイド眼鏡が嬉々《きき》として言い、ガーゼマスクと顔を見合わせた。二人は穴を覗きながら学生ズボンの股間《こかん》に手を入れ、素早く上下に動かし始めた。雷太には男が和子にしている行為も、二人の中学生がしている行為も全く理解できなかった。しかし和子が蔑《さげす》まれ、辱められていることは充分に分かった。
「……ぎゅろびん……ぎゅろびん……ぎゅろびん」
 腰を振る男の下で和子がうわ言のように同じ言葉を繰り返した。雷太は涙を流しながら復讐《ふくしゆう》を誓った。将来大人になり強靭《きようじん》な肉体を持ったら、必ずこの三人を殺してやると決意した。
「和子っ!」
 雷太が叫んだ。なぜか今度は声が出た。驚いてもう一度叫ぼうとした時、雷太は突然覚醒《かくせい》した。
 顔を上げると目の前にコンクリートの壁があった。
 くすんだ灰色をしたそれはかなり古びており、ざらついた表面の至る所に細かいひびが走っていた。雷太は後ろを向こうとした。しかし体がぴくりとも動かなかった。雷太は首だけを動かして左右を見た。どちらを見ても目前に古びたコンクリートの壁があった。雷太は首を反らせて上を見た。十メートルほど頭上に丸い開口部があり、そこから僅《わず》かな日の光が漏れていた。雷太はそこで初めて、自分が細長いコンクリートの穴の中にいることを知った。雷太の肩幅と穴の直径は等しく、両腕を胴体に付けた形でぴたりと嵌《は》まり込んでいた。雷太は直接見ることができない両脚を動かしてみた。膝から下は自由に動いたが、足の裏が地面に触れていなかった。雷太は自分がこの穴に落下し、途中で体が引っ掛かって宙に浮いた状態でいることを理解した。しかしこの穴が一体何なのか、そしてなぜ自分がこの穴に落下したのかは皆目見当がつかなかった。
 雷太は目を閉じて耳を澄ませた。しかし自分の呼吸音以外何一つ聞こえてこなかった。完全な無音状態といってよかった。試しに大声を上げてみようとしたが、喉《のど》が干涸《ひから》びているのか掠《かす》れた声しか出なかった。
 雷太は上空の丸い開口部をぼんやりと眺めた。それ以外やることが無かった。雷太はなぜか無性に今の時刻が気になった。それを知ってどうなる訳でもなかったが、とにかく正確な時間を確認したくて堪《たま》らなかった。不意に雷太は以前、元衛生兵の老人から聞いた話を思い出した。それは負傷や疾病などで死期の近づいた兵士は、しきりに今何時なのかを知りたがるというものだった。雷太は自分も死期が近いのかもしれぬと思ったが、特に怖いという感情は湧いてこなかった。
 覚醒してから二時間程経った頃、頭上の開口部から見える空がその明るさを失い始めた。初秋のため日が暮れるのが早く、晴れ渡った青空に紫色の薄闇がじわじわと滲《にじ》んでいくのが分かった。雷太はその光景を見つめながら強い尿意を覚えた。ズボンの前開きのボタンを外して陰茎を出したかったが、両腕を壁に押し付けられ全く動かすことができなかった。雷太は暫《しばら》くの間両脚に力を込めて耐えていたが、やがてこらえきれずに失禁した。生ぬるい大量の小便が放たれ、たちまちズボンがびしょ濡《ぬ》れになった。満杯だった膀胱《ぼうこう》が空になったため、下腹部には何とも言えない爽快《そうかい》感が広がった。こうして小便や大便を垂れ流しながら、誰にも発見されずに餓死するのだなと思ったが、今度もまた怖いという感情は湧いてこなかった。
「おい、誰かいるか?」
 突然上から甲高い声が響いた。雷太は驚いて顔を上げた。頭上の開口部に中を覗《のぞ》き込んでいる黒い人影が見えた。
「ああ、いるぞ」
 雷太は掠れた声で答えた。
「おめぇ以外に誰がいる?」
「いねぇ、俺一人だ」
「そこから出てぇか?」
「出てぇ」
 雷太がそう言うと人影は開口部から姿を消し、またすぐに戻ってきた。手に何かの束のようなものを持っているのが見えた。
「これからロープを垂らすからそれに掴《つか》まれ。引っ張ってやる」
 人影は手にしていた丸い束を無造作に投げ込んだ。束はたちまちほぐれて紐状になり雷太の頭の上に落ちてきた。雷太は壁と胴体に挟まれた両腕を引き抜こうとした。しかしありったけの力を込めても微動だにしなかった。雷太は仕方なく目の前に垂れたロープに噛《か》みついた。
「おい、ちゃんと掴んだか?」
 人影が聞いてきた。雷太はロープを噛んだまま「うおう」と唸《うな》った。意思が伝わったらしく人影はロープを引き上げ始めた。ずるずると音を立てながら、ゆっくりと雷太の体が持ち上がっていった。人影は人間離れした力の持ち主だった。百キロを超える雷太の巨体を一定の速度を保ったまま、一度も止まることなく引き上げ続けた。まるで巻き上げ機でロープを巻き上げているような感じだった。
 一分程で雷太の上半身が地上に出た。雷太はロープを持っている者を見て驚いた。それは人間ではなく河童《かつぱ》だった。以前一度だけ遠くから目撃したことはあったが、これだけの近距離で遭遇するのは初めてだった。噂通りの醜悪な容姿であり、面妖《めんよう》な怪力の持ち主でもあった。自分の巨体を易々と引き上げたのも納得できた。雷太はロープから口を離すと地面に両手をつき、勢い良く腕を押し上げて穴から下半身を引き抜いた。小便でぐしょ濡れになったズボンが外気に触れ、股間や太腿《ふともも》が酷《ひど》く冷たかった。
 雷太は辺りを見回した。そこは森の中だった。穴の周囲には無数の雑草が生い茂り、すぐ側には古びた丸太小屋があった。すでに夕暮れ時になっており、木々の間から見える紅色の西の空が眩《まぶ》しかった。
「丸太小屋の机の上にちょうど紐があった。だから使ってみた」
 傍らに立つ河童が手にしたロープを地面に落した。眉間《みけん》に小豆《あずき》大のほくろがあった。
「穴から出られたのは良かったけど、おめぇ大丈夫か?」
 河童が雷太の顔を覗き込んだ。雷太は無言で頷《うなず》いた。魍魎《もうりよう》の類《たぐい》と関わり合いになりたくなかった。
「穴から出られたのは良かったけど、おめぇ大丈夫か?」
 河童が同じ言葉を繰り返した。
「……何がだ?」
 雷太が嫌々訊《き》き返した。
「おめぇ、ここんとこにものすげぇ怪我してるぞ」
 河童が自分の顔の左頬を指さした。雷太が半信半疑で左頬に触ると、皮膚がずたずたに裂けていた。指先が傷口の裂け目から口の中に入り、上顎《あご》の歯茎に当たった。
「おめぇ、ここんとこにも、ものすげぇ怪我してるぞ」
 河童が今度は自分の左目を指さした。雷太は人差し指と中指で注意深く左目に触れた。目蓋《まぶた》が縦に裂け、潰《つぶ》れた眼球が眼窩《がんか》からはみ出していた。なぜ今まで左目が見えないことに気づかなかったのか不思議でならなかった。
「おめぇ、こんなとこにまでものすげぇ怪我してるぞ」
 河童はさらに自分の頭の天辺《てつぺん》を指さした。雷太は両手で頭頂部を探った。何か鋭利なもので頭蓋《ずがい》骨を縦に割られていた。指先が頭蓋の中に入ったが、空間があるだけで脳には触れなかった。
「顔と頭がずたぼろぐっちょんだけど痛くねぇのか?」
 河童が好奇に満ちた目を向けた。
「ああ、何でか知らんが全然痛くねぇ」
 雷太は頭蓋から指を引き抜いた。
「そうか、全然痛くねぇのか。そりゃ良かったじゃねぇか。おめぇ得したなぁ」河童は笑みを浮かべて何度も頷いたが、突然その表情を硬くした。「ところでおめぇに訊きてぇことがある。この辺でジッ太とズッ太に会わなかったか?」
「ジッ太とズッ太って誰だ?」
「俺の弟だ。ジッ太が中くらいの背丈で、ズッ太がちっちぇえ背丈をしてる」
「そんな河童の兄弟、見たことも聞いたこともねぇ」
「じゃあ、おめぇはベカやんの友達の弟なのか?」
「違う。俺はそんな奴じゃねぇ」
「じゃあ、おめぇはベカやんの友達の弟を知ってるか?」
「ベカやんも、ベカやんの友達も、その弟も知らねぇ」
「ふーん、そうか、知らねぇか、ふーん」河童は雷太の頭の天辺から足の先までを何度も何度も見直した。「……ところでおめぇ何者だ? この村の者か?」
 河童が黒く大きな目をぎょろぎょろさせた。雷太は思わず言葉に詰まった。そこで初めて自分が誰なのか、全く分からないことに気づいたからだった。
「俺は……俺は……一体誰だか分からねぇ」
 雷太が低く呟《つぶや》いた。
「自分の名前が分からねぇのか?」
「分からねぇ。名前を思い出せねぇのか、初めから名前がねぇのかも分からねぇ」
「何で井戸に落ちたのかは分かるか?」
「それも分からねぇ。気がついたら穴ん中にいた」
「そうか」河童は真顔のまま腕組みをした。
「どうも話が噛み合わねぇ。おめぇはジッ太とズッ太を知らねぇと言うし、ベカやんとベカやんの友達と、ベカやんの友達の弟も知らねぇと言うし、自分の名前も何で井戸に落ちたのかも分からねぇと言う。でもな、おめぇの体からはジッ太とズッ太の血の臭いがぷんぷんすんだ。これはどう考えてもおめぇとあの二人の間に何かがあったっていう証拠だ。と言うことは答えは二つしかねぇ。おめぇが本当に全部忘れてるか、嘘を吐《つ》いてるかだ」
「で、でも、俺は本当に何も分からねぇ」
 雷太は頭を左右に振った。
「だからこれからおめぇをキチタロウの所に連れて行く」
「キチタロウって誰だ?」
 雷太が低い声で訊いた。
「俺の友達だ。もう四百年くれぇ森に棲《す》んでる奴で村一番の物知りだ。キチタロウだったら、おめぇの話が本当か嘘かちゃんと分かる」
 河童はニヤリと笑った。

 キチタロウの住《す》み処《か》は森の北端にあった。
 背後に聳《そび》える岩山の険しい崖《がけ》に隣接する一角に、なぜかぽっかりと三坪ほどの円形の空き地があり、その中央に高さ五メートルほどのヒノキの古木が立っていた。ヒノキの根元には石でできた小さな祠《ほこら》があり、水が入った茶碗《ちやわん》が供えられていた。河童は祠の前に来ると二回お辞儀をし、拍手《かしわで》を二回打った。
「キチタロウ、キチタロウ、出てきておくれ、我に願い事あり。キチタロウ、キチタロウ、出てきておくれ、我に願い事あり」
 河童は甲高い声で叫ぶと手を下ろし、深々と一回お辞儀をした。その途端祠の後ろに立つヒノキの古木がみしっと大きく軋《きし》んだ。同時に根元から上に向かって黒い裂け目が一本走った。その裂け目の中から黒い影のようなものが出てきた。巨大な瓢箪《ひようたん》のような形をしたそれは石炭タールのようにどろりとしていて、表面がさざなみ立つように揺れ動いていた。
「キチタロウだ、もっと下がれ」
 河童が雷太に耳打ちした。二人は急いで五歩後退した。影はふわふわと浮遊するようにして祠の前に来た。その途端どろりとしていた全体が急速に固まり始め、瞬く間に物質化した。
 目の前に、身長が二メートはある異形の者が立っていた。それは黒い外套《がいとう》に身を包み、首から上もすっぽりと黒い頭巾《ずきん》に覆われていた。不思議なのはその体型だった。頭と胴体が同じ大きさの完全な二頭身だった。
「おおキチタロウ、よく来てくれたなぁ、ありがとなぁ」
 河童が嬉《うれ》しそうに笑った。キチタロウは外套から右腕を出した。それは体格とは裏腹に普通の長さと形をしていたが、妙に肌が白く艶《つや》やかでまるで若い女の腕のようだった。キチタロウはその右腕でゆっくりと頭巾を取った。その姿を見て雷太は息を飲んだ。胴体と同じ大きさの巨大な顔と頭は、無数の小さな瘤《こぶ》にびっしりと覆われていた。瘤は蜜柑《みかん》ほどの大きさで薄い小麦色をしており、だらりと垂れ下がっていた。上の部分はぶよぶよしており、下の部分は丸く膨らんでいた。表面には幾つもの筋が走り、黒くて縮れた毛がまばらに生えていた。それは見れば見るほど人間の睾丸《こうがん》にそっくりな瘤だった。
「何用だ?」
 キチタロウが低くくぐもった声で言った。左右の目と口は垂れ下がった瘤の隙間から僅《わず》かに確認することができたが、鼻は見えなかった。
「こいつのことでお願いがあんだ」河童《かつぱ》が隣の雷太を見た。「ジッ太とズッ太がいなくなったんで森の中を探してたらこいつに会ってな、色々訊いたんだけど、弟達のことも自分の名前も何もかも分からねぇって言うんだ。でもこいつの体からはあの二人の血の臭いがぷんぷんするし、どうも怪しくてならねぇからこいつの話が本当か嘘か調べてくんねぇか?」
「承知した。ただしこいつは人間だから儂《わし》の姿も見えんし声も聞こえん。お前が直接聞きたいことを尋ねてみい」
 キチタロウが雷太を顎《あご》で指した。河童は頷《うなず》き、隣に立つ雷太の方を向いた。
「おめぇは本当に俺の弟達のことも、自分の名前も分からんようになっちまったのか?」
「分からねぇ、何も思い出せねぇ」
 雷太は小さく呟いた。
「こいつは嘘は言っとらん。本当に分からんようになっておる」
 キチタロウは断言するような口調で言った。
「本当か? 本当にこいつの話は嘘じゃねぇのか?」
「人間が嘘の話をすると口から泥のような臭いがするもんだが、こいつの口からは何の臭いもせん。間違いない」
「じゃあ、なんでこんな風になっちまったんだ?」
「それはこいつが今、半馬鹿の状態にあるからだ」
「ハンバカ? 何だいそりゃ?」
 河童が首をひねった。
「こいつは頭を叩き割られた時、脳味噌の半分が外に飛び出てしまったのだ。それで今までの記憶が半分消えて、色んなことが分からなくなっておる。脳味噌が全部無くなれば全馬鹿になって死んでしまうが、半分残ってるから死ぬことなく半馬鹿となって生きておるのだ」
「目ん玉や頬っぺたや、頭の傷が痛くねぇのもそのせいなのか?」
 雷太がキチタロウに訊《き》いた。
「お、おめぇ人間なのにキチタロウが見えんのかっ?」
 河童が驚いて雷太を見た。雷太は無言で頷いた。
「ほう、これは面白いっ」キチタロウは顔一面に垂れ下がった睾丸そっくりの瘤を揺らして笑った。田圃《たんぼ》で鳴くウシガエルの声によく似た、腹に響く重低音の笑い声だった。
「人間が半馬鹿になると、儂の姿が見えるようになるとは知らなんだ。お前は儂を見た初めての人間ということになるな、いや面白い面白い」キチタロウは楽しそうに笑みを浮かべ、好奇に満ちた目で雷太を見た。「お前の質問に答えてやる。お前の体の傷が痛まんのは、痛みを感じる脳味噌が外に飛び出して、今お前の頭の中に存在しとらんからだ。分かったか?」
 雷太は頷いた。
「他に訊きたいことがあるなら何でも質問せい、儂が全部答えてやるぞ」
 キチタロウは得意げに言った。雷太は少しの間考えてみたが他の質問は何も思い浮かばなかった。これも半馬鹿のせいかもしれないと思いながら雷太は首を左右に振った。
「なあキチタロウ、半馬鹿って脳味噌が出ちまってるからもう治らねぇんだろ?」
 河童がつまらなそうに訊いた。
「いや、治す方法は一つだけある」
 キチタロウが声を潜めて言った。
「何っ? 治る?」河童が黒く大きな目をさらに見開いた。「ちょっ、ちょっ、ちょっと待ってくれ。じゃあこいつの半馬鹿が治れば消えた記憶が戻んのかっ?」
「戻る」
 キチタロウが即答した。
「そうなりゃこいつがジッ太とズッ太の事を思い出すから、あいつらの行方を聞き出せるじゃねぇかっ。なあキチタロウ、どうしたらこいつの半馬鹿が治るんだっ?」
「足りない脳味噌を補充すれば元に戻る」
「ホジュウ? それは他の脳味噌をこいつの頭に入れるってことか?」
「そうだ。ただしこいつは子供だから大人のものはだめだ。こいつと年齢が近い奴の脳味噌を手に入れて補充するのだ」
「ということは村のガキンチョをさらってくんのか?」
「他に方法はあるまい」
「駄目だ、村には行けねぇ」
 河童は急におびえたような表情を浮かべ、視線を落とした。
「なぜ村に行けんのだ?」
「村には兵隊がいる。兵隊は俺を見ると面白がって鉄砲を撃ってくる」
「鉄砲が怖いのか?」
「おっかねぇ、鉄砲はクソ漏れるぐれぇおっかねぇ、だから村には行きたくねぇ」
「だったらお前も鉄砲を持てばいいではないか」
「鉄砲を買う金がねぇし、もし金があったとしても河童に鉄砲を売る人間はいねぇ」
「人間の知り合いから鉄砲を借りることはできんのか?」
 それを聞いた河童が顔を上げた。
「ベカやんなら鉄砲を持ってる。ちょっと古いけどデカくて頑丈なやつだ。でもあの鉄砲はベカやんの宝物だから貸してくれねぇ」
「では、奪えばいいではないか」
「むこうは鉄砲の持ち主だぞ。そんなことすりゃ俺が撃たれちまう」
「何も面と向かっていきなり奪えとは言っとらん。そのベカやんという奴を誘《おび》き出して、騙《だま》し討ちにした後で奪えばいいのだ」
「ダマシウチって何だ?」
「相手を油断させておいて、いきなり殺すことだ」
「ふーむ、なるほど、ふーむ、そうか、ベカやんを殺すのか……」河童は何度も頷いた。「それは今まで考えたことがねぇ方法だ。でも確かにそうすればあのデカくて頑丈な鉄砲は俺のもんになる」
「鉄砲さえあれば兵隊は怖くないから、村に行って子供をさらってくることができる。そしてその脳味噌をこいつの頭に補充すれば記憶が戻る。どうだ、見事問題が解決するではないか」
 キチタロウは自慢げに胸を張った。
「でもどうやってベカやんをダマシウチにする? ベカやんは兵隊上がりで勘がいいから、ちょっとやそっとのことじゃ騙されねぇぞ」
「毒だ。毒猫の毒を飲ませる」
「毒猫の毒かぁ、ありゃものすごく強烈だからイチコロだ。でもどうやって飲ませる?」
「緑茶に混ぜて飲ませるのだ。毒猫の毒は緑色で緑茶にそっくりな上、無味だから人間にばれることはない」
「やっぱりキチタロウは凄《すげ》ぇなぁ、やっぱり村一番の物知りだ」河童は尊敬の眼差《まなざ》しでキチタロウを見た。「確かにそれだったらあのベカやんでも一発で仕留められる。そしてあのでっかい鉄砲は俺のもんになる。なるほどなるほど、そりゃいい考えだ」
「そういえばお前は毒猫を獲《と》るのが得意だったはずではないか?」
「ああ、得意だ。最近は獲ってねぇけどまだ腕は落ちちゃいねぇ」
「じゃあ何の問題も無いな。これで一件落着だ。他に何か知りたいことはあるか?」
 キチタロウが鷹揚《おうよう》に訊いた。
「一つだけある。こいつの怪我の手当てをしてぇんだが、どうしたらいい?」
 河童《かつぱ》がまた雷太を指差した。
「ほっぺたの傷にはケンゾウの実を三十粒と、シズミの葉を三十枚すり潰《つぶ》して塗れ。塗ったら手拭《てぬぐ》いで頬《ほ》っかむりさせておけばいい。潰れた眼球は取り出して、代わりにネコメグルミの実を入れておけ。頭の傷は放っておいて大丈夫だ。脳味噌を補充したらまた儂の所に連れてこい。その時にちゃんと治してやる」
 キチタロウは淀《よど》みなく答えた。
「分かった、おめぇのいう通りにやってみる。色々世話になったな、ありがとなぁ」
 河童がキチタロウに手を合わせてお辞儀をした。キチタロウは無言で頷いた。その途端二頭身の巨大な体が、またさざなみ立つように揺れ動き始めた。瘤《こぶ》だらけの顔が瞬く間に溶け、全身が石炭タールのようにどろりとした黒い影になった。影はふわふわと浮遊するように上昇すると、ヒノキの裂け目に吸い込まれるように入っていった。同時に古木がみしっと大きく軋《きし》み、裂け目が一瞬で消えた。
「な、キチタロウは凄《すげ》ぇだろ、あいつに分からねぇことなんて何もねぇんだ」河童は自慢げに言うと雷太の肩を叩《たた》いた。「まずは森ん中にあるちっちゃな泉で毒猫狩りだ」
「泉? 毒猫は水ん中に棲《す》んでんのか?」
 驚いた雷太が訊いた。
「馬鹿かおめぇは。猫が水ん中で生きていける訳ねぇだろ。森ん中に毒猫の縄張りがあって、そこであいつらが固まって暮らしてんだ。その近くにちっちゃな泉があって、その水を飲みにあいつらが集まってくんだ」
「でも水なら沼にもあるじゃねぇか」
「毒猫は濁った沼の水は飲まねぇ。泉の透き通った湧き水だけを飲む生き物だ。よっく覚《おぼ》えとけ」河童は雷太の胸を指でつついた。「それが終ったらおめぇの怪我の手当てをしてやる。さ、行くぞっ」
 河童はくるりと踵《きびす》を返し、森の中央に向かって歩き出した。雷太はのっそりとした足取りでその後についていった。

 ヒノキの古木から南東へ二十分ほど歩いた所に毒猫の縄張りはあった。そこは様々な針葉樹が鬱蒼《うつそう》と生い茂り、森の小道どころか獣道さえなかった。毒猫は木から木へ飛び移って移動するから地面を歩かねぇ、と河童は説明した。そこから東へ百メートルほど離れた場所に泉はあった。リヤカーが二台ほど停められる大きさで人間の瞳《ひとみ》のような形をしていた。水深が一メートルほどの浅い底部には白砂が広がり盛んに水が湧き出ていた。
「毒猫はいるのか?」
 雷太が辺りを見回しながら言った。
「いねぇ。あいつらは夜になんねぇと出てこねぇ。でももうじき日が暮れるし、目ぇ覚ましてる奴も絶対に何匹かいるから、そいつらを誘い出す」
「どうやって誘い出すんだ?」
「まあ、見てな」
 河童はいきなり自分の陰茎を掴《つか》むと泉の畔《ほとり》に黄色い小便を掛け始めた。小便の量は多く、泉の周囲を一周するまで途切れなかった。
「毒猫は珍しい臭いを嗅《か》ぐと堪《たま》らなくなって寄ってくる。それが一体なんの臭いか知りたくなんだ。この辺りに河童はいねぇから俺の小便の臭いは凄《すご》く珍しい。だからあいつらはその正体を知りたくて必ず寄ってくる。そこをふんづかまえるんだ。さ、森の中に隠れて毒猫を待つぞ」
 河童は雷太の手を引いて木々の中へ入った。
 辺りはしんと静まり返っていた。夜が近いせいか鳥の鳴き声もしなかった。雷太と河童はスギの木の陰に隠れた。
「おっと、イシグルを作るのを忘れてた」
 河童は独り言のように呟《つぶや》くとスギの木に絡まった蔦《つた》を一メートルほど引きちぎり、その両端に拳《こぶし》大の石を一つずつ縛りつけた。
「それで毒猫を獲んのか?」
 雷太が声を潜めて訊《き》いた。
「そうだ、俺はイシグルの名人だからな」
返回书籍页