必读网 - 人生必读的书

TXT下载此书 | 书籍信息


(双击鼠标开启屏幕滚动,鼠标上下控制速度) 返回首页
选择背景色:
浏览字体:[ ]  
字体颜色: 双击鼠标滚屏: (1最慢,10最快)

[饴村行] 粘膜人间

(日)
粘膜人間
飴村《あめむら》 行《こう》
目 次
第壱章 殺戮遊戯
第弐章 虐殺幻視
第参章 怪童彷徨
第壱章 殺戮遊戯
「雷太《らいた》を殺そう」
 村の中学校からの帰り道、農道の途中にある弁天神社の前で兄の利一《りいち》が言った。低音だが力の込もった声だった。隣を歩いていた溝口祐二《みぞぐちゆうじ》は無言で利一を見た。ロイド眼鏡を掛けた面長の顔は強張《こわば》り、レンズ越しに見える目には刺すような光が浮かんでいた。その光を見て祐二は利一の言葉が嘘ではないことを知った。十五歳の年子の兄は本気で十一歳の末弟の殺害を決意していた。しかし祐二は驚かなかった。雷太の横暴な態度に祐二の忍耐も限界まできていたからだった。それは反抗期と言う言葉で片付くような生易しいものではなかった。
 あれほど大人しかった雷太が変わり始めたのは一ヶ月ほど前、夏休みが終り二学期が始まった直後だった。
 まず名前を呼んでも返事をしなくなった。ふざけているのかと思い頭をつつくと鋭い目つきで睨《にら》み返してきた。次に祐二と利一を平気で呼び捨てにするようになった。二人とも内向的で物静かな性格だったが、さすがに小学五年生に呼び捨てにされると腹が立った。しかも雷太は父親が再婚した女の連れ子であり義弟だった。さっそく利一が強い口調で注意すると「だったら俺を黙らせてみろ」と逆に挑発された。
 雷太は顔だけ見れば普通の子供だった。坊主頭で頬が赤くいつも青洟《あおばな》を垂らしていたが、首から下が異常なまでに発育していた。身長が百九十五センチ、体重が百五キロもあった。腕も脚も丸太のように太く、左右の胸の筋肉は周囲を威圧するように高く盛り上がっていた。それは小柄で細身の祐二と利一の体躯《たいく》を遥《はる》かに凌駕《りようが》していた。雷太に挑発されて利一は言葉に詰まった。喧嘩《けんか》になれば叩《たた》きのめされるのは目に見えていた。小学生に負けるという屈辱だけは避けたかったのか、利一はそれ以上何も言わずに引き下がった。
 その行為が雷太をさらに調子づかせた。翌日から雷太は祐二と利一を顎《あご》で使うようになった。自分には手出しができないと分かった途端、中学生の義兄達を使い走りにしたのだ。宿題や買い物、部屋の掃除など様々な雑用を言いつけ、少しでも気に入らぬことがあると大声で喚き散らした。二人は耐え難い屈辱に苛《さいな》まれ爆発寸前だったが、雷太の圧倒的な肉体の前には服従せざるをえなかった。
 そんなある日事件が起きた。
 祐二と利一に対しての横暴を知った父親が雷太を呼びつけ厳しく叱責《しつせき》したのだ。しかし雷太は全く動じなかった。にやりと薄笑いを浮かべこれ見よがしに畳に唾《つば》を吐いた。激怒した父親が平手で頬を打つと雷太は逆上した。父親を突き飛ばして馬乗りになり、その顔面をめちゃくちゃに殴りつけた。祐二と利一は雷太の腕にしがみついて暴行をやめさせたが、父親は鼻骨を骨折して全治一ヶ月の怪我を負った。
 この出来事は祐二と利一を慄然《りつぜん》とさせた。二人に対する仕打ちはいくら酷《ひど》いとは言え所詮《しよせん》子供同士のものだった。しかしそれが大人に対しても行使されたことにより、事態はしゃれにならない深刻なものになった。父親を殴っている時も雷太は薄笑いを浮かべたままだった。人間の顔面を潰《つぶ》す快楽に浸《ひた》っているように見えた。その時雷太は明らかに己の肉体の持つ絶大な力に感づき、同時に暴力で他人の肉体を破壊する悦《よろこ》びに目覚めていた。それはまさに狂人が銃の操作を覚えたようなものだった。十一歳の子供が湧き上がる破壊の衝動を制御できるはずもなく、さらに唯一の抑止力となるはずだった父親が駆逐されたため、歯止めのきかなくなった雷太の暴力が今後さらに激化することは必至だった。祐二と利一はまだ暴行されたことは無かったが、それももはや時間の問題のように思えた。親を叩きのめして調子付いている雷太は、切っ掛けさえあればすぐに襲い掛かってくるはずだった。しかも二人の体躯は父親よりも貧弱だった。雷太の殴打で血まみれになった自分達の姿を想像すると、憤怒《ふんぬ》と恐怖で体が震えた。だから利一が雷太の殺害を主張した時も、祐二は身を守るためには至極当然のことだと思った。
「雷太を殺そう」
 利一はもう一度言った。初めと同様に低音だが力の込もった声だった。
「あの化け物をどうやって殺す?」
 祐二が歩きながら訊《き》いた。
「河童《かつぱ》だ。蛇腹《じやばら》沼の河童どもにやらせる」
「でも何と言って頼む? あいつら人間とはつるまねぇぞ」
「頼み方はベカやんに教えてもらう。ベカやんだったらいい方法を知ってるはずだ」
「じゃあこれから山に行くのか?」
「そうだ」
 利一は前を向いたまま頷《うなず》いた。祐二の頭に小太りで人の好《よ》さそうな中年男の顔が浮かんだ。
「祐二、いま金持ってるか?」
「小銭なら少しある」
 祐二が学生服のポケットに手を入れた。
「悪《わり》ぃが途中の煙草屋でゴールデンバットを三箱買ってくれ」
「土産か?」
「ベカやんは煙草が好きだから機嫌が良くなる」
 利一が横目で祐二を見た。

 ベカやんは村の東方にあるマルタ山に住んでいた。山の中腹に陸軍の古い防空陣地跡が残っており、その敷地内にある防空壕《ぼうくうごう》の中で寝起きしていた。
 ベカやんは流れ者だった。祐二が物心ついた頃にはすでにこの村に住んでいたが、その素性は謎だった。本名も年齢も出生地も、いつどこからやってきたのかも知る者はいなかった。ただ五二式《ごうにいしき》の自動小銃を持っていて射撃に長《た》けているため、どこぞの部隊からの脱走兵ではないかというのが専らの噂だった。
 しかし彼のことを憲兵隊に通報する村人は一人もいなかった。それはひとえにベカやんの明るく実直な性格のお陰だった。いつもニコニコと笑顔を絶やさず、人と会うと必ず自分から挨拶《あいさつ》した。子供や年寄りには殊の外親切で、山で獲《と》った鳥や獣の肉を気前良く分け与えた。田植えと稲刈りの時は無償で手伝い、村祭りには必ず自家製のどぶろくを神社に奉納した。誰とでも分け隔てなく平等に付き合ったが、村の女には決して手を出さなかった。
 そんな己の立場をわきまえた真摯《しんし》な態度が功を奏し、いつしかベカやんは村民の一人として認められていった。
 またベカやんは村内で唯一蛇腹沼に棲《す》む河童達と交流があった。村人は彼らの醜い容姿を忌み嫌い露骨に差別していたが、ベカやんは全く気にすることなく積極的に接触していた。初めは警戒して近づかなかった河童達だったが、その明るい性格と巧みな話術に少しずつ心を開いていき、今では猪の肉と沼の銀ブナを定期的に交換するまでになっていた。

 祐二と利一がマルタ山の防空陣地跡に着いたのは夕方の四時過ぎだった。
 山の南側の中腹に百坪ほどの平地があった。
 白い花穂をつけたススキが一面に茂るその中央に、錆《さ》びついた二門の八センチ高射砲が放置されていた。二十メートルほど離れた砲と砲の間には、直径が二メートルある四式照空燈《とう》が下向きになって倒れていた。後方には山の急斜面が迫っていて、そこに横穴式の防空壕が掘られていた。
 二人はコンクリートで固められた壕の入り口の前に立った。幅も高さも二メートルほどで、二枚の軍用毛布が扉代わりに垂れ下がっていた。夕食の支度をしているらしく、中から米の炊ける匂いが漂っていた。
「ベカやん」
 利一が呼びかけた。アルミの食器が触れ合うような金属音がしたが返事は無かった。
「ベカやんっ!」
 利一は大声で呼びかけた。金属音が止まり、中で人の動く気配がした。すぐに毛布の間から小太りの中年男が出てきた。ベカやんだった。十月だというのに白いランニングシャツを着て、カーキ色の半ズボンを穿《は》いていた。
「どうした少年ども、何か用か?」
 ベカやんが人の好さそうな笑みを浮かべて二人の顔を見回した。
「あの、河童に頼み事をするにはどうすりゃいいか、教えて欲しいんだけど」
 利一が低い声で言い祐二を見た。祐二は学生服のポケットから煙草の箱を三つ取り出しベカやんに差し出した。
「おお、ゴールデンバットか。ちょうどきれかけてたんだ、悪いな」
 ベカやんは嬉《うれ》しそうに煙草を受け取るとズボンのポケットに入れた。
「ところで河童に頼み事をするそうだが、一体何を頼むんだ?」
「ちょっと事情があって話せねんだ」
 利一が視線を逸《そ》らした。
「やばいことか?」
「やばくねぇって言ったら嘘になるけど、そんなに大した事じゃねぇよ」
「まさか人殺しじゃねぇだろうな?」
 ベカやんが好奇に満ちた目で利一を見た。
 利一の顔は一瞬強張《こわば》ったがすぐにその口元が緩んだ。
「俺らがそんなことするわけねぇじゃねぇか、悪《わり》ぃ冗談はやめてくれよ」
「いや、お前の目に妙に冷たい光が浮かんでるから、何となくそんな気がしたんだ。俺は今まで何度も修羅場をくぐってきたから、相手の発する殺気みたいなものに敏感に反応する癖があってな。まあ人殺しは冗談としても、それなりに血なまぐさいことをあいつらに頼むつもりだろう?」
「……確かにそうだけど、そんなにやばいことじゃねぇよ」
「警察にバレたら捕まるか?」
「頼むよベカやん、あんたには絶対迷惑をかけねぇから」
 利一が懇願するように言った。ベカやんはしばらく無言で利一の顔を見ていたが、やがて大きく息を吐いた。
「俺は最近金を貯めている。なぜだか分かるか? 新しい銃を買うためだ。今使ってる自動小銃は三十年前の型式でいい加減ガタがきてる。すぐに装弾不良を起こして弾が詰まってな、その間に狙った獲物がどんどん逃げちまう。だからどうしても最新型の八二式狙撃《はちにいしきそげき》銃が必要なんだ。
 お前らも貯金をしたことあるだろう? 金を貯めるにはどうしても我慢が必要だ。自分の欲望を可能な限り抑制しなくちゃいけない。人間は先天的に三つの欲望を持っている。睡眠欲と食欲と性欲だ。幸いに睡眠欲は完全に満たされてる。俺は酒に弱いからどぶろくを二合も呑《の》めば朝まで熟睡できる。食欲もどうにか満たされてる。米と干し肉だけは腐るほどあるから贅沢《ぜいたく》さえしなきゃなんでもない。
 残るは性欲だが、俺の場合これがちょっとばかし問題なんだ。今までは月に何度か隣町に女を買いに行ってたがそれができなくなった。もう三ヶ月も女を抱いてない。確かに自分で処理することもできるが、出した後どうしても不満と虚《むな》しさが残る。性欲が満たされなくても死にはしないが心の苛々《いらいら》が治まらない。これは精神衛生上絶対に良くないことだ。そこで提案があるんだが、お前らが俺の性欲を満たしてくれたら河童のことを教えてやる。どうだ、悪い話じゃないだろう?」
 ベカやんはニヤリと笑った。
 祐二は半信半疑だった。ベカやんの言葉のどこまでが本気で、どこまでが冗談なのか判断がつかなかった。
「せ、性欲を満たすって一体どうすんだ、俺らは男だぞ」
 利一が困惑した表情で訊《き》いた。
「なに、精液が出るまで手でしこってくれればいい。お前らが毎日一人でやってることだから簡単だろ?」
 ベカやんが楽しそうに右手を上下に動かした。そのあまりにもあっけらかんとした口調に空恐ろしさを感じ、祐二の背中にざわざわと鳥肌が立った。隣の利一も激しく動揺しているらしく、眼鏡を掛けた顔が露骨に強張っていた。そんな利一を見てベカやんが笑い出した。
「そんなにびびることないだろう。安心しろ、俺がしこって欲しいのはお前じゃなくてこっちの奴だ」
 ベカやんが祐二に視線を向けた。祐二の心臓がどくりと鳴った。顔から血の気が引くのが分かった。ベカやんは祐二の前にやってくると、無造作にズボンと猿股《さるまた》を下ろして陰茎を出した。赤黒いそれはいつの間にか膨張しており、あちこちに太い血管が浮き出ていた。ベカやんは祐二の右手を取り自分の陰茎を握らせた。それはゴムタイヤのように硬く、妙につるつるしていて生温かかった。
「早くしこってくれ」
 ベカやんが待ちきれないように言った。祐二は二呼吸分ほど躊躇《ちゆうちよ》した後、右手を前後に動かし始めた。こうなった以上一秒でも早く射精させこの行為を終らせたかった。ベカやんはすぐに息を荒らげ祐二の肩を両手で掴《つか》んだ。
「もっと激しくしこってくれ」
 ベカやんが呻《うめ》くように言った。祐二は陰茎を握る右手に力を込め前後に素早く動かした。ベカやんの呼吸がさらに荒くなった。ぎゅっと目をつぶり祐二の肩を掴む両手に力が込もった。
「もっとしこってくれっ、もっとしこってくれっ」
 ベカやんがうわ言のように繰り返した。祐二はさらに右手を強く速く動かした。ちゃっ、ちゃっ、ちゃっと言う陰茎をしごく音が響いた。突然ベカやんが大きく唸《うな》り足を突っ張らせた。同時に亀頭の先から大量の白い精液が飛び出した。精液は祐二の学生ズボンを掠《かす》め、足元の雑草の葉の上に音を立てて落ちた。ベカやんは大きく息を吐き祐二の肩から両手を離した。祐二もベカやんの陰茎から右手を離して後ずさった。傍らの利一を見ると強張った顔のまま呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていた。
「やっぱり中学生の手は柔らかくて気持ちがいいな」
 猿股とズボンを引き上げながらベカやんが満足そうに言った。不意に鼻を衝《つ》く青くさい臭いが漂ってきた。雑草にかかった精液が放つ異臭だった。祐二はそこで初めて自分がした行為に強い罪悪感を覚えた。陰茎の感触が残る右手が不快でならず何度も学生ズボンに擦《こす》りつけた。

 ベカやんは約束を守った。
 快楽の見返りとして河童《かつぱ》の詳細な情報を提供してくれた。現在蛇腹沼には三匹の河童が棲《す》んでいた。モモ太とジッ太とズッ太という三兄弟で、人間で言うとみな二十代前半位の若い河童だった。
「河童に何かをさせるのに一番確実なのは森にいるキチタロウという奴に命令させることだ。河童はキチタロウのことを神のように崇拝してるから言われたことはどんなことでもやる。でも残念ながらそいつはモノノケの類《たぐい》らしくて、人間の目には見えんそうだから接触するのは不可能だ。だからお前達が蛇腹沼まで出向いて行って、直接あいつらに頼む以外方法はない。でもな、それがまたとてつもなく厄介な事だから、これからする俺の話をよく聞いて、しっかり頭の中に叩《たた》き込むんだ。分かったか?」
 ベカやんが語気を強めて言った。祐二と利一は無言で頷《うなず》いた。
「何よりも肝心なのは初めに長男のモモ太と話すということだ。河童はとても自尊心が強くて年功序列にこだわる。だから何かを頼む時、絶対モモ太より先に弟のジッ太やズッ太と話してはいけない。そんなことをすれば長男の面子《メンツ》を潰《つぶ》されたモモ太が激怒して襲いかかってくる。奴らと会う時はとにかく一番初めにモモ太と話すんだ。ジッ太やズッ太が何か言っても無視して目を合わせるな。そうすればちゃんとモモ太がお前達と交渉してくれる。
 交渉が始まったら下手に出てモモ太を褒めまくるんだ。とにかく奴が喜びそうなことをいっぱい言え。河童の世界にはお世辞というものがないから、すぐに真に受けてお前らを自分の味方だと信じ込む。そうなったらこっちのもんだ。河童はみな純粋で間抜けだから、一度何かを信じると後は決して疑わなくなる。そこで何かを頼めば大抵のことはきいてくれる。
 だけどタダではないぞ、必ず見返りを要求してくる。それが何なのかはその時によって変わる。金だったり食い物だったり武器だったりする。勿論《もちろん》常識で考えて入手可能なものしか欲しがらないが、それでもモモ太の要求するものを用意できなかったら、頼みはきいてもらえないからな」
「……でも、どうやってモモ太と弟達を見分けんだ?」
 利一が訊いた。
「三匹の中で一番背が高いのがモモ太だ。眉間《みけん》に赤いほくろがある。中くらいの背丈の奴が次男のジッ太だ。右頬に傷跡がある。一番小さいのが三男のズッ太だ。腹に黒い染みがある。三匹とも特徴があるから一見してすぐ区別できる。でも最初はお前らを警戒して声をかけても絶対に返事をしない。だからまずこれを渡すんだ」
 ベカやんはズボンの尻《しり》ポケットから一発の銃弾を取り出した。
「これは五二式自動小銃の弾だ。この村で五二式を使ってるのは俺一人だからすぐに俺の物だと分かる。これを渡してベカやんから紹介されたって言えば何とかなるだろう」
 ベカやんは利一に銃弾を差し出した。利一はそれを無言で受け取り学生服の胸ポケットに入れた。
「いいか、河童は純粋で間抜けだ。それは間違いない。でもだからといって絶対なめてかかるな。純粋で間抜けだからこそ、ほんの些細《ささい》な一言に過剰に反応して人を殺すことがある。とにかく奴らと会う時は神経を尖《とが》らせて、非礼がないよう一語一句注意しながら話せ。分かったな?」
 ベカやんは強い口調で言った。祐二と利一は再び頷いた。
「俺が教えてやれるのはこれだけだ。後は直接沼に行ってやれるとこまでやってみろ、陰ながら応援する。それにしても今日は楽しかった。俺に用がある時はいつでも来い。お前がサービスしてくれるならできるだけの事はするぞ」
 ベカやんは祐二に顔を近づけてにやりと笑った。

「ベカやんのをしこってる時はどんな気分だった?」
 マルタ山からの帰り道、隣を歩く利一が遠慮がちに訊いてきた。
「やってる時は夢中だったけど、終ってから凄《すげ》ぇ嫌な気分になった」
 祐二は呟《つぶや》くように言った。まだ右手に陰茎の生温かい感触が残っていた。精液の青くさい臭いを思い出した途端、軽い吐き気が込み上げてきた。
「しかしよくやったな、俺が指名されてたら絶対に無理だったぞ」
 利一が顔をしかめた。
「しょうがねぇだろ、無理矢理やらされたんだから」
 祐二は両手を学生ズボンのポケットに入れ道端の小石を蹴《け》った。
「でもそのお陰でベカやんから情報を聞きだせたもんな」利一が笑みを浮かべた。「これであの忌々しいクソガキをぶっ殺せんだ、もう嬉《うれ》しくて嬉しくて村中を走り回りてぇ気分だ。明後日は日曜日だから、さっそく沼に行ってモモ太と交渉だ」
 利一が声を弾ませた。
「でも見返りに何を要求されるかちょっと怖くねぇか?」
 祐二が横目で利一を見た。
「おめぇは心配性だな。ベカやんも言ってたろ、常識で考えて入手可能なものしか欲しがらねぇって。何だかんだ言っても所詮《しよせん》河童だ、せいぜい猪の肉や芋焼酎《いもじようちゆう》ぐらいのもんだろ。そうなればまた山に行ってベカやんに売ってもらえばいいだけだ。怖いことなんかなんもねぇ」
 利一は祐二の肩に手を乗せた。祐二は口元を緩めて「そうだな」と言ったが、胸の奥底で何かが不気味にざわめくのを感じた。

 祐二の家は村役場の東側にある小さな住宅街にあった。木造平屋建ての古びた民家で、前庭に大きな柿の木が生えていた。
 帰宅したのは夕方の六時過ぎだった。玄関の三和土《たたき》でズック靴を脱いでいると、不意に奥の客間から呻《うめ》き声が上がった。震えを帯びたそれは確かに父親のものだった。祐二は利一と顔を見合わせると、慌てて上がり框《かまち》を駆け上がり板張りの廊下を走った。また父親の呻き声が上がった。一度目より大きかった。利一が客間の襖《ふすま》を引き開けた。
 中を見た祐二は息を飲んだ。正面の床の間の前に茶色い国民服を着た雷太が立っていた。右手に竹刀を、左手に火の点《つ》いた太い蝋燭《ろうそく》を持っており、その傍らに父親が全裸で正座していた。両手を後ろ手に縛られ、顔や禿《は》げ上がった頭の至る所に無数の白い塊が付着していた。それは雷太に溶けた蝋を何度も垂らされた跡だった。竹刀で滅多打ちにされたらしい背中には、血の滲《にじ》んだ赤いミミズ腫《ば》れが幾筋もできていた。
「な、何してんだ?」
 利一が上擦った声で訊《き》いた。
「お仕置きだ」
 雷太がぼそっと呟いた。
「どうして、お仕置きをしてんだ?」
 祐二が雷太を刺激しないよう静かに訊いた。
「和子《かずこ》を馬鹿にしたからやってんだ、何も問題は無かろう」
 雷太は青洟《あおばな》を啜《すす》り上げると蝋燭を父親の股間《こかん》に傾けた。溶けた蝋が萎《しぼ》んだ陰茎にボタボタと垂れ落ち父親が呻いた。和子とは雷太の実の母親で父親の再婚相手であり、利一と祐二にとって義母にあたる三十代の女だった。
 二ヶ月前に二十代の男と駆け落ちし、現在行方不明になっていた。
「親父はおめぇの母ちゃんをどんな風に馬鹿にしたんだ?」
 利一が雷太と父親を交互に見ながら訊いた。
「アバズレだと言った。あとパンパンだとも言った。よく意味は分からんが和子の悪口だということは分かった」
「何で親父がおめぇにそんなことを言ったんだ?」
「俺に言ったんじゃねぇ。電話で誰かに言ってたんだ。それで頭にきたから殴って脱がして縛りあげた。何も問題は無かろう」
 雷太は父親の背中を竹刀で思い切り打った。甲高い音と共に父親は上体を大きく仰け反らせて顔を歪《ゆが》めた。
「なあ雷太、もう充分おやじをぶっ叩いたんだろ? おやじも反省してると思うから、そろそろ許してやったらどうだ?」
 祐二がぎこちない笑みを浮かべた。
 その言葉に雷太は父親を見下ろした。父親は顔を歪めたまま苦しそうに肩で大きく息をしていた。
「おめぇ、反省してるのか?」
 雷太が父親の睾丸《こうがん》を竹刀の先で突いた。
「雷太、すまん、俺が悪かった、もう二度と和子を悪く言わんから、許してくれ」
 父親が喘《あえ》ぎながら言った。
「俺は反省してるかって訊いてんだ」
 雷太は父親の禿げた頭に蝋燭を押し付けた。じゅっと火の消える音がして大量の白い蝋が額や顔に流れた。父親は目をつぶり大きく呻いた。
「してる、反省してる、信じてくれっ」
 父親は声を震わせて叫んだ。
「本当か? 命賭《か》けるか?」
「賭けるっ、賭けるっ」
 父親は何度も頷《うなず》いた。
「今度和子の悪口を言ったら金玉を潰《つぶ》すからな、分かったか」
 雷太は竹刀を両手で握ると、バットで球を打つように父親の右頬を打った。父親は口から血を飛び散らせて前のめりに倒れた。雷太は竹刀を放り投げ客間から出て行った。
 祐二と利一は倒れた父親に駆け寄った。後ろ手に両手を縛っていた紐《ひも》を解き、ぐったりとした上体を抱き起こした。
「おやじ、大丈夫かっ」
 利一が声を掛けた。全裸の父親は口角から血を流しながら苦しそうに唸《うな》るだけだった。

 今年七十歳になる村で只《ただ》一人の医者の診断は、殴打による全身打撲、頬粘膜裂傷、そして右鼓膜裂傷だった。命に別状はなく、破れた鼓膜も中耳炎を起こさない限り、十日ほどで自然に塞《ふさ》がるとのことだった。医者は頬の内側に麻酔の注射を打ち手際良く傷を縫合した。元軍医のため「古参兵のリンチにあった初年兵みたいだ」と言って笑ったが、なぜ父親が負傷したかは一度も尋ねてこなかった。それは以前父親の鼻骨骨折を治療した時も同じであり、村人の私生活は決して詮索しないというのが彼の信条のようだった。
 医者は痛み止めと化膿《かのう》止めの薬をおいて帰っていった。
 利一と祐二は父親を布団に寝かせると自室に入った。そこは元々納戸だった部屋で三畳ほどの広さしかなかった。以前は居間の隣の八畳間を兄弟三人で使っていたが、三日前突然雷太がここは俺一人の部屋だとごねだした。雷太の暴力に怯《おび》えきった二人は逆らうことができず、渋々納戸の荷物を運び出して自室としていた。
「このままいけば俺らは雷太に殺される」
 床に胡坐《あぐら》をかいた利一が唸るように言った。向かいに座る祐二は大きく頷いた。
「もうぐずくずしてる暇はねぇ。明日は学校休んで朝一番に沼に行って、モモ太に殺しを頼む」レンズ越しに見える利一の目には白く冷たい光が浮かんでいた。「見返りに何を要求してくるか知らねぇが、モモ太が欲しがるものは絶対に用意すんだ。たとえ高価なもんでも諦《あきら》めんな。買えねぇなら盗んででもそれを手に入れて、必ず雷太を殺させるんだっ」
 利一は板張りの壁を拳《こぶし》で強く叩《たた》いた。
 祐二も全く同感だった。雷太の暴走を止めることは不可能だった。雷太を突き動かしているのは狂気だった。人間の肉体を破壊したいという血まみれの狂気が、雷太に過剰な暴力を振るわせていた。もはや理屈ではなかった。完全に精神を病んでいた。凶暴な狂人から身を守るには殺《や》られる前に殺るしかない、と祐二は思った。
 蛇腹沼は村の北方に広がる森の中央にあった。スギやヒノキなどの針葉樹が生い茂る中、細い小道を二十分ほど進むとやがて緩やかな下り坂となり、そこをさらに五分ほど下りていくと大きな沼のほとりに出た。面積は学校の校庭ほどあり水面の至る所に水草が浮かんでいた。
 河童《かつぱ》の住《す》み処《か》はすぐに分かった。沼のほとりの一隅にアカマツの大木が聳《そび》えており、その根元にうずくまるようにして古い掘っ立て小屋が建っていた。壁は大小様々な板切れでできており、天井は申し訳程度に藁《わら》で覆われていた。小屋の周囲には魚の骨や貝殻が散乱し、微《かす》かにすえたような臭いが漂っていた。利一と祐二は入り口の前まで来ると立ち止まった。
「モモ太、いるか? 用があんだっ」
 利一が叫んだ。返事は返ってこなかった。祐二は入り口に垂れた筵《むしろ》をめくり中を見た。茣蓙《ござ》が敷かれた六畳ほどの室内は無人だった。小屋の中央に小さな囲炉裏があり、左側の壁際には古びた茶箪笥《だんす》が置かれていた。囲炉裏の自在鉤《かぎ》には鍋《なべ》が掛かっていて、蓋《ふた》の隙間から薄《うつす》らと湯気が立っていた。
「鍋で何かを煮てるから、多分この近くにいるぞ」
 祐二は振り向いて利一に言った。利一は周囲を見回すと小さく舌打ちをし、「帰ってくるまで待とう」と呟《つぶや》いた。祐二は傍らのアカマツに寄りかかり学生服の第一ボタンを外した。利一はその場に立ったまま学生ズボンのポケットに両手を入れて沼を見つめた。
 辺りはしんと静まり返っていた。
 後方の森の中から野鳥の鋭い鳴き声が断続的に聞こえてくるだけだった。
 五分ほど経過した頃、不意に前方の沼の水面にぶくぶくと泡が湧き上がった。それはたちまち数を増して辺りに広がり、やがてその下から三匹の河童が次々と浮き上がってきた。祐二は寄りかかっていたアカマツから体を離した。
「来やがったぞ」
 利一がズボンのポケットから両手を出した。緊張しているのかその表情はどこか硬かった。
「まずはモモ太を見つけるんだ」
 祐二が利一の耳元で囁《ささや》いた。利一は無言で頷いた。河童達は体をくねらせて岸辺まで泳いでくると立ち上がり、水しぶきを立ててこちらに歩いてきた。それぞれの手に魚が詰まった網びくを提げていた。
 河童達は祐二と利一の前で立ち止まった。距離は三メートルほどだった。祐二は息を飲んだ。こんな近くで河童を見たのは初めてだった。三匹とも全身が鰻《うなぎ》のようにつるりとした皮膚で覆われていた。色は鮮やかな水色で表面は粘液状のものでぬらぬらしていた。相貌《そうぼう》はひよこに似ていた。口元に短い嘴《くちばし》が突き出し、その上に一対の大きな黒い目玉が付いていた。頭には噂通り『皿』があった。しかしそれは平たいものではなく半球形をしていた。まるで頭皮をきれいに剥《は》ぎ取り、頭蓋《ずがい》骨を露出させているように見えた。鉤形をした手足の爪は鋭く尖《とが》り、指と指の間は青白い水掻《みずか》きでつながっていた。股間《こかん》には人間と同様の陰茎と睾丸がぶら下がっていたが、陰毛が無く亀頭の部分が藍《あい》色だった。
 三匹の中で一番背の高い河童は真ん中に立っていた。百七十センチほどあった。長男のモモ太だった。ベカやんの言っていた通り眉間《みけん》に小豆《あずき》大の赤いほくろが付いていた。次に背の高い河童は右側に立っていた。百六十センチほどあった。次男のジッ太だった。右頬に刃物で切られたような横長の傷があった。左側に立つ一番小さい河童が三男のズッ太だった。百五十センチほどあった。腹に小さな黒い染みがあった。三匹ともその場に突っ立ったまま一言も口を利かなかった。
「あの、これを見てくれ」利一は学生服の胸ポケットから五二式自動小銃の銃弾を取り出した。「俺らベカやんの紹介で来たんだ」
 利一も一目見て見分けがついたらしく、ちゃんと真ん中に立つモモ太に銃弾を差し出した。モモ太は無言でそれを受け取ると暫くの間凝視し、それが終ると鼻を鳴らして執拗《しつよう》に臭いを嗅《か》いだ。
「おめぇら、ベカやんの友達か?」
 モモ太が利一を見た。
「そうだ、俺らはベカやんの親友だ」
 利一は笑みを浮かべて答えた。祐二も笑みを浮かべ大きく頷いた。
「ここに何しに来た?」
 右隣のジッ太が利一に訊《き》いた。利一はジッ太を一瞥《いちべつ》したが無視し、すぐにモモ太に視線を戻した。
「実はモモ太に頼みがあんだ」
 利一は笑顔のまま明るく言った。
「どうして俺に頼み事をする?」
 モモ太が不思議そうな顔をした。
「それは、モモ太が強くてみんなから尊敬されてるからだ」祐二が大声でお世辞を言った。「村の男らはみんな、モモ太と喧嘩《けんか》したら負けるって言ってる。相撲大会で優勝した貞夫《さだお》も、モモ太にだけは勝てねぇ、本当の横綱はモモ太だって言ってた」
「本当か? それは本当の話なのか?」
 モモ太が目を大きく見開いた。明らかに祐二の話に強い興味を示していた。
「本当の話だ。それに村の女どもはみんなモモ太のことをかっこいいって噂してる。モモ太に抱かれたい、モモ太の嫁さんになりたいってしょっちゅう言ってるぞ」
「俺に抱かれたいだと? それは俺とグッチャネをしてもいいと言っているのかっ?」
「グッチャネって何だ?」
「女の股《また》ぐら泉に男のマラボウを入れてソクソクすることだっ」
「そうだ、その通りだ。村の女どもはみんなモモ太に憧《あこが》れてて、モモ太とグッチャネをしたがってる」
「俺とグッチャネをっ」
 モモ太は呻《うめ》くように言った。その顔は上気したように赤くなった。
「おい、女どもは俺ともグッチャネをしたがってねえかっ?」
 左隣のズッ太が興奮した口調で叫んだ。しかし祐二はその言葉を無視してモモ太に一歩近づいた。
「これで分かったろ? モモ太は村で一番強くて一番人気がある。つまり村で一番偉い存在だ。だから俺らはモモ太に頼み事をするんだ」
「そうだ、その通りだ」隣の利一も一歩前に出た。「俺らが抱えてる問題は偉いモモ太にしか解決できねぇもんなんだ」
「ふうむ、そうか、そういうことか」モモ太が何度も頷《うなず》いた。「俺は村で一番強くて一番人気があるから村で一番偉い。だからおめぇらが、村で一番偉い俺に頼み事をしにきた。ふうむ、なるほど、確かに筋が通っている。ちなみに俺が兵隊だとすると位は何だ?」
「勿論《もちろん》大将だ」
 祐二はにっこりと笑った。
「そうか、大将か。俺は村の大将か。そうかそうか、今までちっとも気づかなかった。それは凄《すご》く嬉《うれ》しくて楽しいことだ」モモ太はまた何度も頷いた。「ところでおめぇらが俺に頼みたい事とは一体何だ?」
「弟の雷太を殺してくれ」
 利一が即答した。
「弟? おめぇらの弟を殺すのか?」
「そうだ」
「何歳だ?」
「十一歳だ」
「どうして自分らで殺さねぇ? そんな子供なら一捻《ひね》りでおしまいじゃねぇか」
 モモ太が首を傾げた。利一は言葉に詰まり祐二を見た。
「それが、異常に馬鹿でけぇ奴なんだ。物凄く凶暴で力が強くて、俺らではとても手がつけられねぇ状態なんだ」
 祐二が低く呟《つぶや》いた。
「おめぇら、弟が怖いのか?」
 モモ太が祐二と利一を交互に見た。祐二は何も言えずに目を伏せた。
「俺は弟なんか怖くねぇぞ。弟が二人もいるが今まで怖いなんて思ったことは一度もねえ。ジッ太もズッ太も俺にぶん殴られたらそれまでだ。あとは泣いて謝るだけだ。おめぇらはぺえぺえだ、年下の弟を怖がるなんてぺえぺえ以外ありえねぇ」
 モモ太は小馬鹿にするように声を上げてケラケラと笑った。傍らのジッ太とズッ太も釣られて同様に笑いだした。その嘲笑《ちようしよう》は祐二の神経を逆撫《さかな》でしたが、ぐっと感情を押し殺して我慢した。今河童《かつぱ》達ともめるのは得策ではなかった。機嫌を損ねたモモ太が雷太を殺さないと言い出したら元も子もなかった。
 モモ太はひとしきり笑うとまた真顔に戻った。弟達もそれに合わせて笑うのをやめた。
「よし、おめぇらの弟を殺してやる」
 モモ太が平然と言った。
「本当かっ? やってくれるかっ?」
 利一が叫んだ。
「ああ、弟なんてみんな同じだ。一捻りで殺してやる。ちょろいもんだ」
 そう言ってモモ太はジッ太を見た。ジッ太は頷《うなず》き「ちょろいもんだ」と繰り返した。ジッ太はズッ太を見た。ズッ太も頷き「ちょろいもんだ」と繰り返した。
「そのかわり欲しいもんがある」
 モモ太が利一を見た。
 きたな、と祐二は思った。
「何が欲しい?」
 利一が訊いた。
「村の女が欲しい」
「女っ?」
「そうだ、おめぇらぐらいの若い女だ。その女と気が済むまでグッチャネがしてぇ」
「でも、それは、その」
 利一は動揺してしどろもどろになった。
「どうした、何で困った顔すんだ? 村の女は俺とグッチャネをしたがってんだろ? 声を掛ければどんな女でも俺のとこに来んじゃねえのか?」
 モモ太が怪訝《けげん》そうな顔をした。祐二は小さく舌打ちした。先程モモ太をおだてている時、調子にのって村の女の作り話をしたことが裏目に出ていた。祐二は激しく後悔したがもう後戻りはできなかった。今さらあれは嘘でしたなどと言えば、雷太を殺すどころか自分達が殺されかねなかった。利一は助けを求めるようにしきりにこちらを見ていた。追い詰められた祐二の頭は激しく混乱した。額に冷や汗が滲《にじ》み左右の膝《ひざ》が微《かす》かに震え出した。思わず走って逃げようかと思った時、不意に一人の女の顔が浮かんだ。
 同級生の成瀬清美《なるせきよみ》だった。
 祐二の胸が大きく脈打った。それは土壇場で見出《みいだ》した一筋の光明だった。迷っている暇は無かった。祐二は河童への生《い》け贄《にえ》を清美に決めた。
「モモ太、俺が女を紹介する」
 祐二が語尾を震わせて言った。利一が驚いた顔で祐二を見た。
「本当か、本当におめぇが女を紹介してくれんのか?」
 モモ太が身を乗り出した。
「本当だ」
「どんな女だ?」
「望み通り、俺と同い年の女だ」
「グッチャネはできるのか」
「できる」
「器量はいいか?」
「いい。おまけに胸と尻《しり》がでかい」
「何という名前だ?」
「清美だ」
「清美っ!」
 利一が叫び、絶句した。
「どうだ、これでちゃんと雷太を殺してくれんな?」
 祐二は唖然《あぜん》とする利一を尻目に笑みを浮かべた。
「いや、まだだ」モモ太は首を横に振った。
「清美が本当にいい女かどうかちゃんとこの目で確かめてからだ」
「確かめるって、写真は持ってきてねぇぞ」
「写真じゃねぇ。直接見る」
「じゃあ森を出て清美の家に行くのか?」
「そうだ。清美の家に行って、清美の顔と体を見てから決める」
「いつ行く?」
「今日だ。朝飯を喰《く》ったら出掛ける」モモ太は右手に提げた網びくを見た。「この魚を味噌《みそ》汁で煮る。おめぇらも喰うか?」
「腹は減ってないから俺らはいいよ」
 祐二はやんわりと断った。
「じゃあ、そこで待ってろ」
 モモ太は踵《きびす》を返して小屋の中に入っていった。その後にジッ太とズッ太が続いた。三匹の背中には亀頭と同じ藍《あい》色の甲羅が付いていた。それは薄くて平らでつやつやしており、まるでベッコウでできているように見えた。
「おめぇは一体何考えてんだっ」モモ太達が小屋に入った途端利一が詰め寄って来た。「よりによって清美なんかを選びやがってっ」
「じゃあ他に誰がいる?」
 祐二が低い声で訊《き》いた。利一は何かを言いかけたがすぐに口ごもった。
「この村でモモ太に差し出して問題にならねぇ女は清美だけだ」
「でもあいつと関わったことを誰かに知られたらどうするっ」
「知られなきゃいいじゃねぇか、そこは俺らでうまくやるんだ。とにかくこうなった以上、清美を犠牲にする以外雷太を殺す方法はねぇぞ」
 祐二が強い口調で断言した。
 利一は忌々しそうに舌打ちをし、眼鏡を指で押し上げた。

 成瀬清美が『非国民』になったのはちょうど一週間前だった。原因は四つ年上の兄、幸彦《ゆきひこ》だった。今年の春十八歳になった幸彦は、規定通り徴兵検査を受け甲種合格となった。しかし地元の連隊に入隊する前日の夜、密《ひそ》かに家を抜け出しそのまま行方不明になった。通報を受けた憲兵隊は幸彦を兵役忌避者とみなし、警官や消防団員を動員して三日間山狩りを行ったが発見することはできなかった。
 政府は幸彦を『第一種非国民』に、そして残された清美と両親を『第二種非国民』に認定した。幸彦には銃殺刑が決定し、両親は強制収容所に送られた。十四歳の清美は処罰されなかったが完全な村八分となり、村営施設の使用や郵便物の投函《とうかん》などが禁止された。中学では全校集会が開かれ、来校した憲兵大尉が『非国民』生徒との交流を禁じる演説を行った。

 祐二も利一も幸彦の逃亡が発覚した日から一度も清美を見ていなかった。ずっと家に閉じこもっているらしかったが、一体どうやって生活しているのかは誰も知らなかった。
 清美の家は村の西方にある広大な林檎《りんご》畑の奥にあった。平屋造りの小さな一軒家で、壁は赤煉瓦《れんが》、屋根は瓦葺《ぶ》きになっており、鉄線を張り巡らせた何本もの木の杭《くい》が周囲を囲んでいた。祐二は近くの林檎の木の陰からそっと家の様子を窺《うかが》った。辺りに人影は無く、憲兵隊のサイドカーや装甲自動車も停まっていなかった。
「大丈夫、誰もいないぞ」祐二が振り向いて利一とモモ太に言った。「じゃあモモ太、俺が清美を外に誘い出すから、どんな女かここから見ててくれ」
「どうしても俺が行くのはダメなのか?」
 モモ太が不服そうに言った。
「だから何度も言ったろ、清美は異常に臆病《おくびよう》な女だから、いきなりモモ太が行ったら驚いて出てこなくなるって。まずは顔見知りの俺が会って、ちゃんとおめぇの事を説明しなきゃ話は前に進まねぇんだ。頼むから約束通りここで待っててくれ」
 祐二は子供に教え諭すように言った。勿論《もちろん》それは全てモモ太を騙《だま》すための嘘だったが、それでも五回も同じ事を訊かれるとさすがにうんざりした。モモ太はまだ祐二の説明に納得がいかないらしく、小声で何かを呟《つぶや》きながら地面の土を足で何度も蹴《け》った。
「じゃ、行って来るぞ」
 祐二はモモ太を無視して利一に告げると、清美の家に向かって歩き出した。距離は三十メートルほどあった。すぐに林檎畑を抜けて広い砂利道に出た。その道の向こう側にある草生《む》す荒れ野に家は建っていた。祐二は玄関の前に立った。樫《かし》の木でできたドアには赤いペンキで大きく『非』と書かれていた。それは家宅捜査に来た憲兵隊が印《しる》したもので、中の住民が『非国民』であることを示していた。祐二はドアを拳《こぶし》で三回叩《たた》いた。肉が木を打つ鈍い音が響いた。しばらく待ったが返事は返ってこなかった。祐二はまたドアを三回叩いた。一度目よりも力を込めた強い殴打だった。数秒後中で微かな物音がした。床板が軋《きし》むような音だった。人の気配を感じ取った祐二はドアに右耳を付けた。今度ははっきりと床板が軋む音がした。清美がいるのは間違いなかった。
「清美、俺だ、祐二だっ」
 祐二は叫ぶとノブを回したが鍵《かぎ》が掛かっていて開かなかった。祐二は玄関を離れ家の裏側に回った。雑草が生い茂る十坪ほどの庭があった。古びたリヤカーが一台置かれ、赤煉瓦の壁には両開きの窓が一つ付いていた。しかし芥子《からし》色のカーテンがぴたりと閉められ中は見えなかった。祐二は「清美っ、清美っ」と小声で連呼しながら、窓硝子《ガラス》を指先で何度も叩いた。不意にカーテンの真ん中が五センチ程開き、隙間から清美の右目が覗《のぞ》いた。
「清美、俺だ、話があるから玄関を開けてくれ」
 祐二が叫んだ。清美は無言で祐二を見つめた。その目には怒りの感情も怯《おび》えの感情も存在していなかった。ただ呆《ほう》けた老婆のような、虚《うつ》ろな淡い光だけが静かに浮かんでいた。清美はしばらく祐二を見ていたが、やがてゆっくりとカーテンを閉めた。祐二はまた清美の名を呼びながら窓硝子を叩いたが応答は無かった。完全に心を閉ざしているようだった。
 祐二は途方に暮れた。どうやって清美を誘《おび》き出せばいいのか見当がつかなかった。ため息を吐いて壁にもたれかかった時、家の表からガシャリという低い金属音が聞こえてきた。祐二はもしやと思い慌てて走っていくと玄関のドアが開いており、白い長袖《そで》の体操服を着た清美が戸口に立っていた。目が大きく、鼻筋の通った端整な顔はやつれていた。目の下に薄《うつす》らと隈《くま》ができ頬はこけていた。青白い唇はかさつき、肩まで伸びた髪は寝癖で酷く乱れていた。以前のよく笑う、明るく朗らかな面影は完全に消えていた。ただ十四歳とは思えない豊満な胸と尻、そして引き締まった腰回りはそのままだった。
「久しぶりだな」
 祐二が少々照れながら言った。清美は答えなかった。あの虚ろな目でぼんやりと祐二を見ているだけだった。
「突然来たから驚いたろ? 実は最近生徒会が中心になって、『清美を励ます会』っていうのを作ったんだ。勿論学校には内緒でな。みんなは今、おめぇのことを凄《すご》く心配してる。特に体調のことを気にしてて、ショックで病気になってたらどうしようって毎日話してんだ。だから今日は俺が代表で様子を見に来た。どうだ、元気でやってるか?」
 祐二は出鱈目《でたらめ》なことを言ってにっこりと笑った。清美は無言だった。完全なる無反応だった。顔の皮膚はぴくりとも動かなかった。その目は祐二の体を透かして、後方に広がる林檎畑を見ているようだった。祐二は清美が本当に呆けてしまったような気がし、少し怖くなった。
「お、おめぇ、大丈夫か?」
 戸惑った祐二が訊いた。
「……あんたは幸彦じゃない」
 不意に清美が低い声で呟いた。祐二は言葉に詰まった。突然のことにどう返答すればいいのか分からなかった。清美は祐二から目を逸《そ》らすとゆっくりとドアを閉めた。続いて中から施錠する金属音が響いた。
 祐二は唖然《あぜん》として立ち尽くした。清美は明らかに尋常ではなかった。しかしそれは過度の飲酒によって酩酊《めいてい》しているわけでも、強い薬物を使用して幻覚状態にあるわけでもなかった。
 拷問されたな、と祐二は思った。
 憲兵が非国民の家族を連行し、厳しく尋問することはよくあった。その際程度の差はあるにせよ、必ず何らかの拷問を加えるのが彼等の常だった。清美はその時の凄《すさ》まじい苦痛に耐え切れず、精神に異常をきたしたように思えた。
 祐二は試しにドアを何度か叩いてみたが、家の中は静まり返り物音一つしなかった。

 林檎畑に戻るとモモ太と利一が木の陰から出てきた。
「ちゃんと清美を見たか?」
 祐二がモモ太に言った。モモ太は頷《うなず》いた。
「どうだった?」
「そうだな、ぎりぎり及第点だ。丙種合格ってとこだ」
 モモ太は鷹揚《おうよう》な声で答えた。しかしその言葉とは裏腹に、股間《こかん》の陰茎は勢い良く屹立《きつりつ》していた。ベカやん同様あちこちに太い血管が浮き出し、藍《あい》色の亀頭の先は透明な液体でしとどに濡《ぬ》れていた。清美をかなり気に入ったようだった。
「清美には俺のこと何て伝えた?」
 モモ太がさりげない口調で訊《き》いてきた。
「モモ太がおめぇと仲良しになりたがってるって言った。そしたら清美が喜んで、私も仲良しになりたいってはしゃいでた」
 祐二は淀《よど》みなく言った。
「本当か、それは本当の話なのか?」
 モモ太が目を見開いた。
「さっきも言ったろ、モモ太は村の女どもの憧《あこが》れなんだって」
「ふうむ、なるほど、ふうむ、そうか、そういうことか」モモ太は鼻息を荒くしながら何度も頷いた。「それで、それで、俺は清美とグッチャネができるのか?」
「事情を話したらしてもいいって言ってた」祐二は笑みを浮かべた。「だから雷太を殺した後清美の家に行けばグッチャネができる」
 その言葉にモモ太は放心した。口をあんぐりと開け、口角から涎《よだれ》を垂らして祐二を凝視した。屹立した陰茎がさらに膨張し、さらに大きく反り返った。かなりの興奮状態にあるのが分かった。
「でも一つ注意がある。さっきも言ったけど清美は異常に臆病な女だ。初対面の奴が来るとなかなか玄関のドアを開けねぇ。だから一度ノックして返事が無かったら、家の裏側にある窓をぶっ壊して中に入ってくれ。話はしてあるから特に問題はねぇ。万が一清美が騒いだとしても、二、三発殴ればすぐに大人しくなる。後は裸にしてやりたいことを好きなだけやれる。どうだ、これでいいだろ?」
 モモ太は音を立てて唾《つば》を飲み込むと大きく頷いた。
「で、いつ雷太を殺してくれる?」
「明日だ、明日絶対殺す。だから明日清美とグッチャネするぞ」
「ご自由に。でもその前に雷太をどうやって殺すか、ちゃんと打ち合わせをしねぇとな」
 祐二は利一を見た。利一は大きく頷いた。

 祐二達は蛇腹沼に戻った。
 巨大なアカマツの根元に建つ小屋に入るとジッ太とズッ太が駆け寄ってきた。
「兄しゃん、清美の乳はどうだったっ?」
「兄しゃん、清美の尻《しり》はどうだったっ?」
 二匹は待ちかねたようにモモ太に訊いた。
「ぎりぎり及第点だ。丙種合格ってとこだ」
 モモ太は先程と同じ言葉を繰り返した。
「それで兄しゃんは清美とグッチャネすることができんのかっ?」
 ジッ太が興奮気味に言った。モモ太はその質問には答えず代わりに大きく咳《せき》払いをした。
「これからここで大事な話をする。おめぇらは森の中でも散歩してろ」
 モモ太は入り口に垂れた筵を顎で指した。ジッ太とズッ太は不満そうに顔を見合わせたが、長男の命令は絶対らしく二匹とも黙って小屋から出て行った。祐二と利一とモモ太は囲炉裏の周りに敷かれた茣蓙《ござ》に腰を下ろし、胡坐《あぐら》をかいた。自在鉤《かぎ》に吊《つ》られた鍋《なべ》の中には少量の味噌《みそ》汁が残っていた。
「じゃあ、俺が話す」
 祐二がモモ太に目を向けた。祐二は昨晩利一と共に雷太の殺害計画を立てていた。
「この森の南側に猟師の丸太小屋がある、知ってるだろ? その小屋の窓の下に枯れ果てた古井戸が残ってる。直径が一メートルほどで深さは十メートル以上ある。地上の手押しポンプや石囲いは撤去されてて危険防止の柵《さく》もねぇ。ただ穴だけが地面にぽっかりと開いてる状態だ。そこでだ、その井戸の中に雷太を突き落として欲しいんだ」
 祐二は低い声で言った。
「でもどうやって丸太小屋まで連れて行くんだ?」
 モモ太が首を傾げた。
「騙《だま》して連れて行く」祐二は口元を緩めた。「奴の母親は今、若い男と家出して行方不明になってる。その母親が密《ひそ》かに村に戻ってきて、小屋で雷太を待ってるって言うんだ。なぜそんな所にいるんだと訊かれたら、俺らの父親と会いたくねぇからだと答える。雷太は体はでかいが頭の中は十一歳だ。所詮《しよせん》母親に甘えたい盛りのガキだから、その言葉を信じて大喜びで小屋までやって来る。そこで先回りしていたモモ太が雷太を井戸まで連れて行き、後ろから背中を押すんだ」
「ふうむ、なるほど、ふうむ。でもどうやって井戸の前まで連れて行くんだ?」
 モモ太はまた首を傾げた。
「外で小便をしようとした母親が、間違って井戸の中に落ちたって言うんだ。驚いた雷太はすぐに駆け寄って中を覗《のぞ》き込むはずだ」
「ふうむ、なるほど、ふうむ。でも井戸に落として死ななかったらどうする?」
 モモ太が腕組みをした。
「あの深さだ、落ちたらまず間違いなく即死する。仮に即死しなかったとしても瀕死《ひんし》の重傷を負う。地上まで這《は》い上がってくるのは絶対無理だし、中でどんなに叫んでも今は狩猟期じゃねぇから誰も小屋には来ねぇ。水も食料もねぇからいずれ確実に死ぬ。死体が人目につくことはねぇし、仮に見つかったとしても子供の事故として処理される」
「ふうむ、なるほど、ふうむ、そうか、そう言われれば確かにそうだ」
 モモ太は何度も頷いた。
「単純で簡単な仕事だ。時間も一分とかからん。モモ太、やってくれるよな」
 利一が待ちきれないように訊いた。
「やる」モモ太は即答した。「おめぇらの弟を殺す、そうすれば清美と好きなだけグッチャネができる、だから俺は殺す、井戸に落として殺す、やるよ、俺はやる」そう言ってモモ太はケラケラと甲高い声で笑った。
 帰り際、祐二は念のためもう一度殺害方法をモモ太に説明した。そして明日の昼の十二時から十二時半の間に、雷太を小屋に連れて行くことに決めた。雷太は日曜日になるといつも昼近くまで寝ているからだった。モモ太には必ず十一時五十分までに小屋に来るよう指示した。河童《かつぱ》は時計を持たないので、利一が自分の腕時計をモモ太に貸して文字盤の読み方を教えた。左の手首に巻き付けてもらった腕時計が余程珍しいらしく、モモ太は動き続ける秒針をいつまでも見つめていた。

 その夜、祐二はなかなか寝付けなかった。
 目をつぶると清美の姿が鮮明に浮かび上がるからだった。昼間は何とも思わなかったが、なぜか闇の中ではその肉体が堪《たま》らなく卑猥《ひわい》に見えた。明日あの豊満な乳房や尻がモモ太に揉《も》まれ、舐《な》められ、吸われるのかと思うと異様なまでに鼓動が高まった。祐二は全裸の清美にのしかかり激しく腰を振るモモ太の姿を想像した。清美の喘《あえ》ぎ声や性交時の湿った摩擦音がはっきりと聞こえてきた。やがてモモ太の姿は祐二自身に変わり、清美の柔らかな肉の感触を掌《てのひら》や亀頭に生々しく感じた。
 祐二は堪らず陰茎を握った。熱く脈打つそれは限界まで硬く膨張していた。祐二は素早く右手を動かした。鋭い快感が突き上げてきて頭の芯《しん》が熱くなった。脳裏に浮かぶ自分が清美の上で激しく腰を振っていた。胸の中で清美っ、清美っと何度も叫んだ。瞬く間に祐二は絶頂に達し射精した。強張《こわば》った陰茎が大きく脈打ち、炭酸の粒が弾《はじ》けるような微細な痺《しび》れが顔面を走った。全身の筋肉が一斉に緩み、陰茎に集中していた全ての感覚が瞬時に元に戻った。あれほど高まっていた性欲が憑《つ》き物《もの》でも落ちたかのように完全に消えていた。
 祐二は大きく息を吐いた。
 敷布団の上に放たれた大量の白い精液が、窓から差し込む淡い月光に照らされていた。鼻を衝《つ》く青くさい臭いがゆっくりと漂ってきた。その異臭は昨日のベカやんとの行為を彷彿《ほうふつ》とさせた。祐二は軽い吐き気を覚えながら枕元のちり紙で精液を拭《ふ》き取り、音を立てぬよう気をつけながら毛布の中に潜り込んだ。隣からは利一の規則正しい寝息が聞こえてきた。
 祐二は枕に頭をのせ薄暗い天井を見上げた。板張りの天井には飛び散った血痕《けつこん》のような黒い染みがあちこちにあった。その染みの一つを見つめているうちに、祐二は清美を骨までしゃぶってやりたい衝動に駆られた。憲兵に拷問されたらしい清美は明らかに精神に異常をきたしていた。あの状態なら今日のように嘘を吐いて訪ねていき、いきなり押し倒せば容易に性交できるような気がした。それがうまくいけば、清美を自分専用の『便所女』にすることができた。家に家族はおらず、村八分で訪問者は皆無のため、毎日清美の体で性欲を処理することが可能だった。それは童貞の祐二にとってまさに夢のような生活だった。
 昼間見た、清美の呆《ほう》けた顔が闇の中に浮かんだ。また陰茎が少しずつ膨張を始めた。清美に対する罪悪感は皆無だった。清美の一家は政府が認定した『非国民』だった。『非国民』は人間ではなかった。人間ではない女を性の奴隷にしても咎《とが》める者はいなかった。祐二はさっそく月曜日の放課後、また清美の家に行ってみようと思った。
 眠気が霧のようにゆっくりと頭の中に広がっていくのが分かった。大きな欠伸《あくび》をした祐二は目蓋《まぶた》が重くなり目を閉じた。意識がゆっくりと眠りの世界に引き込まれている時、じわじわと湧き上がってくる尿意を感じた。全身がだるくこのまま眠りたかったが、やがてそれは我慢できない強いものになった。祐二は利一を起こさぬようそっと立ち上がり、静かに木戸を開けて納戸から出た。廊下の天井には二十燭光《しよつこう》の電球が薄ぼんやりと灯《とも》っていた。居間の隣の八畳間の前を通りかかった時、襖越《ふすまご》しに中から雷太の大きな鼾《いびき》が聞こえてきた。それは巨大な体躯《たいく》に似合わぬ子供丸出しの甲高い鼾だった。祐二は苦笑した。明日殺されるとも知らず熟睡する様はまさに間抜けそのものだった。やはり雷太の中身は十一歳のガキでしかない、と祐二は思った。
「今に見てろよ」
 祐二は低く呟《つぶや》いた。
 翌日の日曜日、祐二が森の南側にある丸太小屋に着いたのは午前十一時二十分だった。爽《さわ》やかな秋日和で、目映《まばゆ》い露草色の空がどこまでも広がっていた。祐二は上空を仰ぎながら雷太の最期に相応《ふさわ》しい日だと思った。
 昨日の段階で祐二が一人で小屋に来る予定は無かった。利一と共に雷太をうまく口車に乗せ、二人で家から連れ出す予定だった。しかし今朝になって利一が突然計画を変更した。理由はモモ太だった。
「どうも嫌な予感がする」と今朝になって利一が言いだした。「打ち合わせはしたし約束もしたけど、どうしても河童を心から信じられねぇんだ。モモ太のあのでっかい目玉を見てると、こいつは本当に俺らの言ってることを理解してんのかって気分になる。まあ、清美のことがあるからちゃんと仕事はすると思うけど、一応お前だけ先に行っててくれないか。もし十一時半までにモモ太が来なかったら、念のため沼まで迎えにいって欲しいんだ。もしかしたら時計の見方を忘れてるかもしれんからな。雷太は俺がちゃんと連れてくから、それまでモモ太と一緒に待っててくれ」
 利一はそう言って微《かす》かに口元を緩めた。
 祐二は古びた真鍮《しんちゆう》のノブを回して丸太小屋の木のドアを開けた。八畳ほどのがらんとした室内は無人だった。中央にずんぐりとした鉄の石炭ストーブがあり、傍らに粗末な机と椅子が一脚ずつ置かれていた。ストーブの上には白い琺瑯《ほうろう》のポットが乗っており、机の上には手斧《ておの》と束にしたロープが置かれていた。
 祐二は中に入った。板張りの床が軋《きし》んだ音を立てた。しばらく使用されていないため空気は埃《ほこり》っぽく淀んでいた。小屋の東側の壁に磨《す》り硝子《ガラス》のはまった窓があった。祐二は窓を半分ほど開けてみた。雑草が茂る目の前の地面にあの井戸の穴が見えた。小屋から五十センチほどの至近距離にあるその中は真っ暗だった。どろりとした不気味な闇に満ちていた。得体の知れぬ化け物が棲《す》む、魔界の深淵《しんえん》のように見えた。あの中にもうすぐ雷太が落ち、叩《たた》き潰《つぶ》れて死ぬのかと思うと興奮で胸が高鳴った。
 不意に表から複数の男の話し声が聞こえた。祐二は驚いて腕時計を見た。まだ十一時半にもなっていなかった。利一達が来るには早すぎる時間だった。祐二は困惑した。狩猟期までまだ二ヵ月近くあった。この小屋は猟ができる冬以外村人はめったに来なかった。もしかしたら密猟者かもしれぬと思い、祐二は少し緊張しながらドアを開けた。小屋の前にジッ太とズッ太が立っていた。二匹とも左手に酒の一升瓶を持っていた。なぜか実行役のモモ太がいなかった。
「よう、ベカやんの友達」
下一页 尾页 共5页
返回书籍页