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纆东绮谭 永井荷风

_2 永井荷风(日)
「そう。二三年前にゃ、通ると帽子なんぞ持って行ったものですね。」
「あれにゃ、わたし達この中の者も困ったんだよ。用があっても通れないからね。女達にそう言っても、そう一々見張りをしても居られないし、仕方がないから罰金を取るようにしたんだ。店の外へ出てお客をつかまえる処を見つかると四十二円の罰金だ。それから公園あたりへ客引を出すのも規則違反にしたんだ。」
「それも罰金ですか。」
「うむ。」
「それは幾何(いくら)ですか。」
 遠廻しに土地の事情を聞出そうと思った時、「安藤さん」と男の声で、何やら紙片(かみきれ)を窓に差入れて行った者がある。同時にお雪が帰って来て、その紙を取上げ、猫板の上に置いたのを、偸見(ぬすみみ)すると、謄写摺(とうしゃずり)にした強盗犯人捜索の回状である。
 お雪はそんなものには目も触れず、「お父さん、あした抜かなくっちゃいけないって云うのよ。この歯。」と言って、主人の方へ開(あ)いた口を向ける。
「じゃア、今夜は食べる物はいらなかったな。」と主人は立ちかけたが、わたくしはわざと見えるように金を出してお雪にわたし、一人先へ立って二階に上った。
 二階は窓のある三畳の間に茶ぶ台を置き、次が六畳と四畳半位の二間しかない。一体この家はもと一軒であったのを、表と裏と二軒に仕切ったらしく、下は茶の間の一室きりで台所も裏口もなく、二階は梯子(はしご)の降口(おりくち)からつづいて四畳半の壁も紙を張った薄い板一枚なので、裏どなりの物音や話声が手に取るようによく聞える。わたくしは能(よ)く耳を押つけて笑う事があった。
「また、そんなとこ。暑いのにさ。」
 上って来たお雪はすぐ窓のある三畳の方へ行って、染模様の剥(は)げたカーテンを片寄せ、「此方(こっち)へおいでよ。いい風だ。アラまた光ってる。」
「さっきより幾らか涼しくなったな、成程いい風だ。」
 窓のすぐ下は日蔽(ひおい)の葭簀(よしず)に遮(さえぎ)られているが、溝の向側に並んだ家の二階と、窓口に坐っている女の顔、往ったり来たりする人影、路地一帯の光景は案外遠くの方まで見通すことができる。屋根の上の空は鉛色に重く垂下って、星も見えず、表通のネオンサインに半空(なかぞら)までも薄赤く染められているのが、蒸暑い夜を一層蒸暑くしている。お雪は座布団を取って窓の敷居に載せ、その上に腰をかけて、暫く空の方を見ていたが、「ねえ、あなた」と突然わたくしの手を握り、「わたし、借金を返しちまったら。あなた、おかみさんにしてくれない。」
「おれ見たようなもの。仕様がないじゃないか。」
「ハスになる資格がないって云うの。」
「食べさせることができなかったら資格がないね。」
 お雪は何とも言わず、路地のはずれに聞え出したヴィヨロンの唄につれて、鼻唄をうたいかけたので、わたくしは見るともなく顔を見ようとすると、お雪はそれを避けるように急に立上り、片手を伸して柱につかまり、乗り出すように半身を外へ突出した。
「もう十年わかけれア……。」わたくしは茶ぶ台の前に坐って巻煙草に火をつけた。
「あなた。一体いくつなの。」
 此方(こなた)へ振向いたお雪の顔を見上(あげ)ると、いつものように片靨(かたえくぼ)を寄せているので、わたくしは何とも知れず安心したような心持になって、
「もうじき六十さ。」
「お父さん。六十なの。まだ御丈夫。」
 お雪はしげしげとわたくしの顔を見て、「あなた。まだ四十にゃならないね。三十七か八かしら。」
「おれはお妾(めかけ)さんに出来た子だから、ほんとの年はわからない。」
「四十にしても若いね。髪の毛なんぞそうは思えないわ。」
「明治三十一年生(うまれ)だね。四十だと。」
「わたしはいくつ位に見えて。」
「二十一二に見えるが、四ぐらいかな。」
「あなた。口がうまいから駄目。二十六だわ。」
「雪ちゃん、お前、宇都の宮で芸者をしていたって言ったね。」
「ええ。」
「どうして、ここへ来たんだ。よくこの土地の事を知っていたね。」
「暫く東京にいたもの。」
「お金のいることがあったのか。」
「そうでもなけれア……。檀那は病気で死んだし、それに少し……。」
「馴れない中は驚いたろう。芸者とはやり方がちがうから。」
「そうでもないわ。初めッから承知で来たんだもの。芸者は掛りまけがして、借金の抜ける時がないもの。それに……身を落すなら稼(かせ)ぎいい方が結句(けっく)徳だもの。」
「そこまで考えたのは、全くえらい。一人でそう考えたのか。」
「芸者の時分、お茶屋の姐(ねえ)さんで知ってる人が、この土地で商売していたから、話をきいたのよ。」
「それにしても、えらいよ。年(ねん)があけたら少し自前(じまえ)で稼いで、残せるだけ残すんだね。」
「わたしの年は水商売には向くんだとさ。だけれど行先の事はわからないわ。ネエ。」
 じっと顔を見詰められたので、わたくしは再び妙に不安な心持がした。まさかとは思うものの、何だか奥歯に物の挾(はさ)まっているような心持がして、此度(こんど)はわたくしの方が空の方へでも顔を外向(そむ)けたくなった。
 表通りのネオンサインが反映する空のはずれには、先程から折々稲妻が閃(ひらめ)いていたが、この時急に鋭い光が人の目を射た。然し雷の音らしいものは聞えず、風がぱったり歇(や)んで日の暮の暑さが又むし返されて来たようである。
「いまに夕立が来そうだな。」
「あなた。髪結さんの帰り……もう三月(みつき)になるわネエ。」
 わたくしの耳にはこの「三月になるわネエ。」と少し引延ばしたネエの声が何やら遠いむかしを思返すとでも云うように無限の情(じょう)を含んだように聞きなされた。「三月になります。」とか「なるわよ。」とか言切ったら平常(つね)の談話に聞えたのであろうが、ネエと長く引いた声は咏嘆(えいたん)の音(おん)というよりも、寧(むしろ)それとなくわたくしの返事を促す為に遣われたもののようにも思われたので、わたくしは「そう……。」と答えかけた言葉さえ飲み込んでしまって、唯目容(まなざし)で応答をした。
 お雪は毎夜路地へ入込む数知れぬ男に応接する身でありながら、どういう訳で初めてわたくしと逢った日の事を忘れずにいるのか、それがわたくしには有り得べからざる事のように考えられた。初ての日を思返すのは、その時の事を心に嬉しく思うが為と見なければならない。然しわたくしはこの土地の女がわたくしのような老人(としより)に対して、尤(もっと)も先方ではわたくしの年を四十歳位に見ているが、それにしても好いたの惚(ほ)れたのというような若(もし)くはそれに似た柔く温(あたたか)な感情を起し得るものとは、夢にも思って居なかった。
 わたくしが殆ど毎夜のように足繁く通って来るのは、既に幾度か記述したように、種々(いろいろ)な理由があったからである。創作「失踪」の実地観察。ラディオからの逃走。銀座丸ノ内のような首都枢要の市街に対する嫌悪。其他の理由もあるが、いずれも女に向って語り得べき事ではない。わたくしはお雪の家を夜の散歩の休憩所にしていたに過ぎないのであるが、そうする為には方便として口から出まかせの虚言(うそ)もついた。故意に欺くつもりではないが、最初女の誤り認めた事を訂正もせず、寧ろ興にまかせてその誤認を猶(なお)深くするような挙動や話をして、身分を晦(くらま)した。この責だけは免れないかも知れない。
 わたくしはこの東京のみならず、西洋に在っても、売笑の巷(ちまた)の外、殆(ほとんど)その他の社会を知らないと云ってもよい。其由来はここに述べたくもなく、又述べる必要もあるまい。若しわたくしなる一人物の何者たるかを知りたいと云うような酔興な人があったなら、わたくしが中年のころにつくった対話「昼すぎ」漫筆「妾宅(しょうたく)」小説「見果てぬ夢」の如き悪文を一読せられたなら思い半(なかば)に過るものがあろう。とは言うものの、それも文章が拙(つたな)く、くどくどしくて、全篇をよむには面倒であろうから、ここに「見果てぬ夢」の一節を抜摘しよう。「彼が十年一日の如く花柳界に出入する元気のあったのは、つまり花柳界が不正暗黒の巷である事を熟知していたからで。されば若し世間が放蕩者(ほうとうしゃ)を以て忠臣孝子の如く称賛するものであったなら、彼は邸宅を人手に渡してまでも、其称賛の声を聞こうとはしなかったであろう。正当な妻女の偽善的虚栄心、公明なる社会の詐欺的活動に対する義憤は、彼をして最初から不正暗黒として知られた他の一方に馳(は)せ赴(おもむ)かしめた唯一の力であった。つまり彼は真白だと称する壁の上に汚い種々(さまざま)な汚点(しみ)を見出すよりも、投捨てられた襤褸(らんる)の片(きれ)にも美しい縫取りの残りを発見して喜ぶのだ。正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠の糞(ふん)が落ちていると同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と香(かんば)しい涙の果実が却(かえっ)て沢山に摘み集められる。」
 これを読む人は、わたくしが溝の臭気と、蚊の声との中に生活する女達を深く恐れもせず、醜いともせず、むしろ見ぬ前から親しみを覚えていた事だけは推察せられるであろう。
 わたくしは彼女達(かのおんなたち)と懇意になるには――少くとも彼女達から敬して遠ざけられないためには、現在の身分はかくしている方がよいと思った。彼女達から、こんな処(ところ)へ来ずともよい身分の人だのに、と思われるのは、わたくしに取ってはいかにも辛い。彼女達の薄倖(はっこう)な生活を芝居でも見るように、上から見下(みおろ)してよろこぶのだと誤解せられるような事は、出来得るかぎり之を避けたいと思った。それには身分を秘するより外はない。
 こんな処へ来る人ではないと言われた事については既に実例がある。或夜、改正道路のはずれ、市営バス車庫の辺(ほとり)で、わたくしは巡査に呼止められて尋問せられたことがある。わたくしは文学者だの著述業だのと自分から名乗りを揚げるのも厭(いや)であるし、人からそう思われるのは猶更嫌いであるから、巡査の問に対しては例の如く無職の遊民と答えた。巡査はわたくしの上着を剥(はぎ)取って所持品を改める段になると、平素(ふだん)夜行の際、不審尋問に遇う時の用心に、印鑑と印鑑証明書と戸籍抄本とが嚢中(のうちゅう)に入れてある。それから紙入には翌日の朝大工と植木屋と古本屋とに払いがあったので、三四百円の現金が入れてあった。巡査は驚いたらしく、俄(にわか)にわたくしの事を資産家とよび、「こんな処は君見たような資産家の来るところじゃない。早く帰りたまえ、間違いがあるといかんから、来るなら出直して来たまえ。」と云って、わたくしが猶愚図々々しているのを見て、手を挙げて円タクを呼止め、わざわざ戸を明けてくれた。
 わたくしは已(や)むことを得ず自動車に乗り改正道路から環状線とかいう道を廻った。つまり迷宮(ラビラント)の外廓を一周して、伏見稲荷の路地口に近いところで降りた事があった。それ以来、わたくしは地図を買って道を調べ、深夜は交番の前を通らないようにした。
 わたくしは今、お雪さんが初めて逢った日の事を咏嘆的な調子で言出したのに対して、答うべき言葉を見付けかね、煙草の烟(けむり)の中にせめて顔だけでもかくしたい気がしてまたもや巻煙草を取出した。お雪は黒目がちの目でじっと此方(こなた)を見詰めながら、
「あなた。ほんとに能く肖(に)ているわ。あの晩、あたし後姿を見た時、はっと思ったくらい……。」
「そうか。他人のそら肖って、よくある奴さ。」わたくしはまア好かったと云う心持を一生懸命に押隠した。そして、「誰に。死んだ檀那に似ているのか。」
「いいえ。芸者になったばかりの時分……。一緒になれなかったら死のうと思ったの。」
「逆上(のぼ)せきると、誰しも一時はそんな気を起す……。」
「あなたも。あなたなんぞ、そんな気にゃアならないでしょう。」
「冷静かね。然し人は見掛によらないもんだからね。そう見くびったもんでもないよ。」
 お雪は片靨(かたえくぼ)を寄せて笑顔をつくったばかりで、何とも言わなかった。少し下唇の出た口尻の右側に、おのずと深く穿(うが)たれる片えくぼは、いつもお雪の顔立を娘のようにあどけなくするのであるが、其夜にかぎって、いかにも無理に寄せた靨のように、言い知れず淋しく見えた。わたくしは其場をまぎらす為に、
「また歯がいたくなったのか。」
「いいえ。さっき注射したから、もう何ともない。」
 それなり、また話が途絶えた時、幸にも馴染(なじみ)の客らしいものが店口の戸を叩いてくれた。お雪はつと立って窓の外に半身を出し、目かくしの板越しに下を覗(のぞ)き、
「アラ竹さん。お上んなさい。」
 馳(か)け降りる後(あと)からわたくしも続いて下り、暫く便所の中に姿をかくし客の上ってしまうのを待って、音のしないように外へ出た。

 来そうに思われた夕立も来る様子はなく、火種を絶さぬ茶の間の蒸暑さと蚊の群とを恐れて、わたくしは一時外へ出たのであるが、帰るにはまだ少し早いらしいので、溝づたいに路地を抜け、ここにも板橋のかかっている表の横町に出た。両側に縁日商人(あきゅうど)が店を並べているので、もともと自動車の通らない道幅は猶更狭くなって、出さかる人は押合いながら歩いている。板橋の右手はすぐ角に馬肉屋のある四辻(よつつじ)で。辻の向側には曹洞宗東清寺と刻(しる)した石碑と、玉の井稲荷の鳥居と公衆電話とが立っている。わたくしはお雪の話からこの稲荷の縁日は月の二日と二十日の両日である事や、縁日の晩は外ばかり賑(にぎやか)で、路地の中は却て客足が少いところから、窓の女達は貧乏稲荷と呼んでいる事などを思出し、人込みに交って、まだ一度も参詣(さんけい)したことのない祠(やしろ)の方へ行って見た。
 今まで書くことを忘れていたが、わたくしは毎夜この盛場へ出掛けるように、心持にも身体にも共々に習慣がつくようになってから、この辺(あたり)の夜店を見歩いている人達の風俗に倣(なら)って、出がけには服装(みなり)を変(かえ)ることにしていたのである。これは別に手数のかかる事ではない。襟(えり)の返る縞のホワイトシャツの襟元のぼたんをはずして襟飾をつけない事、洋服の上着は手に提げて着ない事、帽子はかぶらぬ事、髪の毛は櫛(くし)を入れた事もないように掻乱(かきみだ)して置く事、ズボンは成るべく膝や尻の摺(す)り切れたくらいな古いものに穿替(はきかえ)る事。靴は穿かず、古下駄も踵(かかと)の方が台まで摺りへっているのを捜して穿く事、煙草は必(かならず)バットに限る事、エトセトラエトセトラである。だから訳はない。つまり書斎に居る時、また来客を迎える時の衣服をぬいで、庭掃除や煤払(すすはらい)の時のものに着替え、下女の古下駄を貰ってはけばよいのだ。
 古ズボンに古下駄をはき、それに古手拭をさがし出して鉢巻の巻方も至極不意気(ぶいき)にすれば、南は砂町、北は千住から葛西金町辺(かさいかなまちあたり)まで行こうとも、道行く人から振返って顔を見られる気遣いはない。其町に住んでいるものが買物にでも出たように見えるので、安心して路地へでも横町へでも勝手に入り込むことができる。この不様(ぶざま)な身なりは、「じだらくに居れば涼しき二階かな。」で、東京の気候の殊に暑さの甚しい季節には最(もっとも)適合している。朦朧(もうろう)円タクの運転手と同じようなこの風をしていれば、道の上と云わず電車の中といわず何処(どこ)でも好きな処へ啖唾(たんつば)も吐けるし、煙草の吸殻、マッチの燃残り、紙屑、バナナの皮も捨てられる。公園と見ればベンチや芝生へ大の字なりに寝転んで鼾(いびき)をかこうが浪花節(なにわぶし)を唸(うな)ろうが是(これ)また勝手次第なので、啻(ただ)に気候のみならず、東京中の建築物とも調和して、いかにも復興都市の住民らしい心持になることが出来る。
 女子がアッパッパと称する下着一枚で戸外に出歩く奇風については、友人佐藤慵斎(ようさい)君の文集に載っている其(その)論に譲って、ここには言うまい。
 わたくしは素足に穿き馴れぬ古下駄を突掛(つッか)けているので、物に躓(つまず)いたり、人に足を踏まれたりして、怪我をしないように気をつけながら、人ごみの中を歩いて向側の路地の突当りにある稲荷に参詣(さんけい)した。ここにも夜店がつづき、祠(ほこら)の横手の稍(やや)広い空地は、植木屋が一面に並べた薔薇(ばら)や百合(ゆり)夏菊などの鉢物に時ならぬ花壇をつくっている。東清寺本堂建立(こんりゅう)の資金寄附者の姓名が空地の一隅に板塀の如くかけ並べてあるのを見ると、この寺は焼けたのでなければ、玉の井稲荷と同じく他所(よそ)から移されたものかも知れない。
 わたくしは常夏(とこなつ)の花一鉢を購(あがな)い、別の路地を抜けて、もと来た大正道路へ出た。すこし行くと右側に交番がある。今夜はこの辺(あたり)の人達と同じような服装(みなり)をして、植木鉢をも手にしているから大丈夫とは思ったが、避けるに若(し)くはないと、後戻りして、角に酒屋と水菓子屋のある道に曲った。
 この道の片側に並んだ商店の後(うしろ)一帯の路地は所謂(いわゆる)第一部と名付けられたラビラントで。お雪の家の在る第二部を貫くかの溝は、突然第一部のはずれの道端に現われて、中島湯という暖簾(のれん)を下げた洗湯(せんとう)の前を流れ、許可地外(そと)の真暗な裏長屋の間に行先を没している。わたくしはむかし北廓を取巻いていた鉄漿溝(おはぐろどぶ)より一層不潔に見える此溝も、寺島町がまだ田園であった頃には、水草(みずくさ)の花に蜻蛉(とんぼ)のとまっていたような清い小流(こながれ)であったのであろうと、老人(としより)にも似合わない感傷的な心持にならざるを得なかった。縁日の露店はこの通には出ていない。九州亭というネオンサインを高く輝(かがやか)している支那飯屋の前まで来ると、改正道路を走る自動車の灯(ひ)が見え蓄音機の音が聞える。
 植木鉢がなかなか重いので、改正道路の方へは行かず、九州亭の四ツ角から右手に曲ると、この通は右側にはラビラントの一部と二部、左側には三部の一区劃が伏在している最も繁華な最も狭い道で、呉服屋もあり、婦人用の洋服屋もあり、洋食屋もある。ポストも立っている。お雪が髪結の帰り夕立に遇(あ)って、わたくしの傘の下に駈込んだのは、たしかこのポストの前あたりであった。
 わたくしの胸底(むなそこ)には先刻お雪が半(なかば)冗談らしく感情の一端をほのめかした時、わたくしの覚えた不安がまだ消え去らずにいるらしい……わたくしはお雪の履歴については殆ど知るところがない。どこやらで芸者をしていたと言っているが、長唄も清元も知らないらしいので、それも確かだとは思えない。最初の印象で、わたくしは何の拠(よ)るところもなく、吉原か洲崎あたりの左程わるくない家にいた女らしい気がしたのが、却て当っているのではなかろうか。
 言葉には少しも地方の訛(なま)りがないが、其顔立と全身の皮膚の綺麗なことは、東京もしくは東京近在の女でない事を証明しているので、わたくしは遠い地方から東京に移住した人達の間に生れた娘と見ている。性質は快活で、現在の境涯をも深く悲しんではいない。寧(むしろ)この境遇から得た経験を資本(もとで)にして、どうにか身の振方をつけようと考えているだけの元気もあれば才智もあるらしい。男に対する感情も、わたくしの口から出まかせに言う事すら、其まま疑わずに聴き取るところを見ても、まだ全く荒(すさ)みきってしまわない事は確かである。わたくしをして、然(そ)う思わせるだけでも、銀座や上野辺(あたり)の広いカフエーに長年働いている女給などに比較したなら、お雪の如きは正直とも醇朴(じゅんぼく)とも言える。まだまだ真面目な処があるとも言えるであろう。
 端無(はしな)くも銀座あたりの女給と窓の女とを比較して、わたくしは後者の猶(なお)愛すべく、そして猶共に人情を語る事ができるもののように感じたが、街路の光景についても、わたくしはまた両方を見くらべて、後者の方が浅薄に外観の美を誇らず、見掛倒しでない事から不快の念を覚えさせる事が遙(はるか)に少ない。路傍(みちばた)には同じように屋台店が並んでいるが、ここでは酔漢の三々五々隊をなして歩むこともなく、彼処(かしこ)では珍しからぬ血まみれ喧嘩(げんか)もここでは殆ど見られない。洋服の身なりだけは相応にして居ながら其職業の推察しかねる人相の悪い中年者が、世を憚(はばか)らず肩で風を切り、杖を振り、歌をうたい、通行の女子を罵(ののし)りつつ歩くのは、銀座の外(ほか)他の町には見られぬ光景であろう。然るに一たび古下駄に古ズボンをはいて此の場末に来れば、いかなる雑沓(ざっとう)の夜(よ)でも、銀座の裏通りを行くよりも危険のおそれがなく、あちこちと道を譲る煩(わずらわ)しさもまた少いのである。
 ポストの立っている賑な小道も呉服屋のあるあたりを明い絶頂にして、それから先は次第にさむしく、米屋、八百屋、蒲鉾(かまぼこ)屋などが目に立って、遂に材木屋の材木が立掛けてあるあたりまで来ると、幾度(いくたび)となく来馴れたわたくしの歩みは、意識を待たず、すぐさま自転車預り所(どころ)と金物屋との間の路地口に向けられるのである。
 この路地の中にはすぐ伏見稲荷の汚れた幟(のぼり)が見えるが、素見(すけん)ぞめきの客は気がつかないらしく、人の出入は他の路地口に比べると至って少ない。これを幸に、わたくしはいつも此路地口から忍び入り、表通の家の裏手に無花果(いちじく)の茂っているのと、溝際(どぶぎわ)の柵(さく)に葡萄(ぶどう)のからんでいるのを、あたりに似合わぬ風景と見返りながら、お雪の家の窓口を覗く事にしているのである。
 二階にはまだ客があると見えて、カーテンに灯影(ほかげ)が映り、下の窓はあけたままであった。表のラディオも今しがた歇(や)んだようなので、わたくしは縁日の植木鉢をそっと窓から中に入れて、其夜はそのまま白髯橋(しらひげばし)の方へ歩みを運んだ。後(うしろ)の方から浅草行の京成バスが走って来たが、わたくしは停留場のある処をよく知らないので、それを求めながら歩きつづけると、幾程もなく行先に橋の燈火のきらめくのを見た。
        *        *        *
 わたくしはこの夏のはじめに稿を起した小説「失踪」の一篇を今日(こんにち)に至るまでまだ書き上げずにいるのである。今夜お雪が「三月(みつき)になるわねえ。」と言ったことから思合せると、起稿の日はそれよりも猶以前であった。草稿の末節は種田順平が貸間の暑さに或夜同宿の女給すみ子を連れ、白髯橋の上で涼みながら、行末の事を語り合うところで終っているので、わたくしは堤を曲らず、まっすぐに橋をわたって欄干に身を倚(よ)せて見た。
 最初「失踪」の布局を定める時、わたくしはその年二十四になる女給すみ子と、其年五十一になる種田の二人が手軽く情交を結ぶことにしたのであるが、筆を進めるにつれて、何やら不自然であるような気がし出したため、折からの炎暑と共に、それなり中休みをしていたのである。
 然るに今、わたくしは橋の欄干に凭(もた)れ、下流(かわしも)の公園から音頭踊(おんどおどり)の音楽と歌声との響いて来るのを聞きながら、先程お雪が二階の窓にもたれて「三月になるわネエ。」といった時の語調や様子を思返すと、すみ子と種田との情交は決して不自然ではない。作者が都合の好いように作り出した脚色として拆(しりぞ)けるにも及ばない。最初の立案を中途で変える方が却てよからぬ結果を齎(もたら)すかも知れないと云う心持にもなって来る。
 雷門から円タクを傭(やと)って家に帰ると、いつものように顔を洗い髪を掻直した後、すぐさま硯(すずり)の傍(そば)の香炉(こうろ)に香を焚いた。そして中絶した草稿の末節をよみ返して見る。
「あすこに見えるのは、あれは何だ。工場(こうば)か。」
「瓦斯(ガス)会社か何(なん)かだわ。あの辺はむかし景色のいいところだったんですってね。小説でよんだわ。」
「歩いて見ようか。まだそんなに晩(おそ)かアない。」
「向へわたると、すぐ交番があってよ。」
「そうか。それじゃ後(あと)へ戻ろう。まるで、悪い事をして世を忍んでいるようだ。」
「あなた。大きな声……およしなさい。」
「…………」
「どんな人が聞いていないとも限らないし……。」
「そうだね。然し世を忍んで暮すのは、初めて経験したんだが、何ともいえない、何となく忘れられない心持がするもんだね。」
「浮世離れてッて云う歌があるじゃないの。……奥山ずまい。」
「すみちゃん。おれは昨夜(ゆうべ)から急に何だか若くなったような気がしているんだ。昨夜だけでも活(いき)がいがあったような気がしているんだ。」
「人間は気の持ちようだわ。悲観しちまっちゃ駄目よ。」
「全くだね。然し僕は、何にしてももう若くないからな。じきに捨てられるだろう。」
「また。そんな事、考える必要なんかないっていうのに。わたしだって、もうすぐ三十じゃないのさ。それにもう、為(し)たい事はしちまったし、これからはすこし真面目になって稼(かせ)いで見たいわ。」
「じゃ、ほんとにおでん屋をやるつもりか。」
「あしたの朝、照ちゃんが来るから手金だけ渡すつもりなの。だから、あなたのお金は当分遣わずに置いて下さい。ね。昨夜も御話したように、それがいいの。」
「然し、それじゃア……。」
「いいえ。それがいいのよ。あんたの方に貯金があれば、後が安心だから、わたしの方は持ってるだけのお金をみんな出して、一時払いにして、権利も何も彼も買ってしまおうと思っているのよ。どの道やるなら其方が徳だから。」
「照ちゃんて云うのは確な人かい。とにかくお金の話だからね。」
「それは大丈夫。あの子はお金持だもの。何しろ玉の井御殿の檀那(だんな)って云うのがパトロンだから。」
「それは一体何だ。」
「玉の井で幾軒も店や家を持ってる人よ。もう七十位だわ。精力家よ。それア。時々カフエーへ来るお客だったの。」
「ふーむ。」
「わたしにもおでん屋よりか、やるなら一層(いっそう)の事、あの方の店をやれって云うのよ。店も玉も照ちゃんが檀那にそう言って、いいのを紹介するって云うのよ。だけれど、其時にはわたし一人きりで、相談する人もないし、わたしが自分でやるわけにも行かないしするから、それでおでん屋かスタンドのような、一人でやれるものの方がいいと思ったのよ。」
「そうか、それであの土地を択(えら)んだんだね。」
「照ちゃんは母さんにお金貸をさせているわ。」
「事業家だな。」
「ちゃっかりしてるけれども、人をだましたりなんかしないから。」
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 九月も半(なかば)ちかくなったが残暑はすこしも退(しりぞ)かぬばかりか、八月中よりも却て烈しくなったように思われた。簾(すだれ)を撲(う)つ風ばかり時にはいかにも秋らしい響を立てながら、それも毎日のように夕方になるとぱったり凪(な)いでしまって、夜(よ)はさながら関西の町に在るが如く、深(ふ)けるにつれてますます蒸暑くなるような日が幾日もつづく。
 草稿をつくるのと、蔵書を曝(さら)すのとで、案外いそがしく、わたくしは三日ばかり外へ出なかった。
 残暑の日盛り蔵書を曝すのと、風のない初冬(はつふゆ)の午後(ひるすぎ)庭の落葉を焚(た)く事とは、わたくしが独居の生涯の最も娯(たの)しみとしている処である。曝書(ばくしょ)は久しく高閣に束ねた書物を眺めやって、初め熟読した時分の事を回想し時勢と趣味との変遷を思い知る機会をつくるからである。落葉を焚く楽みは其身の市井(しせい)に在ることをしばしなりとも忘れさせるが故である。
 古本の虫干だけはやっと済んだので、其日夕飯(ゆうめし)を終るが否やいつものように破れたズボンに古下駄をはいて外へ出ると、門の柱にはもう灯(ひ)がついていた。夕凪(ゆうなぎ)の暑さに係(かかわ)らず、日はいつか驚くばかり短くなっているのである。
 わずか三日ばかりであるが、外へ出て見ると、わけもなく久しい間、行かねばならない処へ行かずにいたような心持がしてわたくしは幾分なりと途中の時間まで短くしようと、京橋の電車の乗換場から地下鉄道に乗った。若い時から遊び馴れた身でありながら、女を尋ねるのに、こんな気ぜわしい心持になったのは三十年来絶えて久しく覚えた事がないと言っても、それは決して誇張ではない。雷門からはまた円タクを走らせ、やがていつもの路地口。いつもの伏見稲荷。ふと見れば汚れきった奉納の幟(のぼり)が四五本とも皆新しくなって、赤いのはなくなり、白いものばかりになっていた。いつもの溝際に、いつもの無花果と、いつもの葡萄、然しその葉の茂りはすこし薄くなって、いくら暑くとも、いくら世間から見捨てられた此路地にも、秋は知らず知らず夜毎に深くなって行く事を知らせていた。
 いつもの窓に見えるお雪の顔も、今夜はいつもの潰島田(つぶし)ではなく、銀杏(いちょう)返しに手柄をかけたような、牡丹(ぼたん)とかよぶ髷(まげ)に変っていたので、わたくしは此方(こなた)から眺めて顔ちがいのしたのを怪しみながら歩み寄ると、お雪はいかにもじれったそうに扉をあけながら、「あなた。」と一言強く呼んだ後、急に調子を低くして、「心配したのよ。それでも、まア、よかったねえ。」
 わたくしは初め其意を解しかねて、下駄もぬがず上口(あがりぐち)へ腰をかけた。
「新聞に出ていたよ。少し違うようだから、そうじゃあるまいと思ったんだけれど、随分心配したわ。」
「そうか。」やっと当(あて)がついたので、わたくしも俄に声をひそめ、「おれはそんなドジなまねはしない。始終気をつけているもの。」
「一体、どうしたの。顔を見れば別に何でもないんだけれど、来る人が来ないと、何だか妙にさびしいものよ。」
「でも、雪ちゃんは相変らずいそがしいんだろう。」
「暑い中(うち)は知れたものよ。いくらいそがしいたって。」
「今年はいつまでも、ほんとに暑いな。」と云った時お雪は「鳥渡(ちょいと)しずかに。」と云いながらわたくしの額にとまった蚊を掌(てのひら)でおさえた。
 家の内の蚊は前よりも一層多くなったようで、人を刺す其針も鋭く太くなったらしい。お雪は懐紙(ふところがみ)でわたくしの額と自分の手についた血をふき、「こら。こんな。」と云って其紙を見せて円める。
「この蚊がなくなれば年の暮だろう。」
「そう。去年お酉(とり)様の時分にはまだ居たかも知れない。」
「やっぱり反歩(たんぽ)か。」ときいたが、時代の違っている事に気がついて、「この辺でも吉原の裏へ行くのか。」
「ええ。」と云いながらお雪はチリンチリンと鳴る鈴の音(ね)を聞きつけ、立って窓口へ出た。
「兼ちゃん。ここだよ。何ボヤボヤしているのさ。氷白玉(しらたま)二つ……それから、ついでに蚊遣香を買って来ておくれ。いい児だ。」
 そのまま窓に坐って、通り過る素見客(ひやかし)にからかわれたり、又此方(こっち)からもからかったりしている。其間々には中仕切の大阪格子を隔てて、わたくしの方へも話をしかける。氷屋の男がお待遠うと云って誂(あつら)えたものを持って来た。
「あなた。白玉なら食べるんでしょう。今日はわたしがおごるわ。」
「よく覚えているなア。そんな事……。」
「覚えてるわよ。実(じつ)があるでしょう。だからもう、そこら中浮気するの、お止(よ)しなさい。」
「此処(ここ)へ来ないと、どこか、他(わき)の家(うち)へ行くと思ってるのか。仕様がない。」
「男は大概そうだもの。」
「白玉が咽喉(のど)へつかえるよ。食べる中(うち)だけ仲好くしようや。」
「知らない。」とお雪はわざと荒々しく匙(さじ)の音をさせて山盛にした氷を突崩(つきくず)した。
 窓口を覗(のぞ)いた素見客が、「よう、姉さん、御馳走さま。」
「一つあげよう。口をおあき。」
「青酸加里か。命が惜しいや。」
「文無しのくせに、聞いてあきれらア。」
「何云(いっ)てやんでい。溝ッ蚊女郎。」と捨台詞(すてぜりふ)で行き過るのを此方も負けて居ず、
「へッ。芥溜(ごみため)野郎。」
「はははは。」と後(あと)から来る素見客がまた笑って通り過ぎた。
 お雪は氷を一匙口へ入れては外を見ながら、無意識に、「ちょっと、ちょっと、だーんな。」と節をつけて呼んでいる中、立止って窓を覗くものがあると、甘えたような声をして、「お一人、じゃ上ってよ。まだ口あけなんだから。さア、よう。」と言って見たり、また人によっては、いかにも殊勝らしく、「ええ。構いません。お上りになってから、お気に召さなかったら、お帰りになっても構いませんよ。」と暫くの間話をして、その挙句(あげく)これも上らずに行ってしまっても、お雪は別につまらないという風さえもせず、思出したように、解けた氷の中から残った白玉をすくい出して、むしゃむしゃ食べたり、煙草をのんだりしている。
 わたくしは既にお雪の性質を記述した時、快活な女であるとも言い、また其境涯をさほど悲しんでもいないと言った。それは、わたくしが茶の間の片隅に坐って、破団扇(やれうちわ)の音も成るべくしないように蚊を追いながら、お雪が店先に坐っている時の、こういう様子を納簾(のれん)の間から透(すか)し見て、それから推察したものに外ならない。この推察は極く皮相に止(とどま)っているかも知れない。為人(ひととなり)の一面を見たに過ぎぬかも知れない。
 然しここにわたくしの観察の決して誤らざる事を断言し得る事がある。それはお雪の性質の如何(いかん)に係らず、窓の外の人通りと、窓の内のお雪との間には、互に融和すべき一縷(る)の糸の繋(つな)がれていることである。お雪が快活の女で、其境涯を左程悲しんでいないように見えたのが、若(も)しわたくしの誤りであったなら、其誤はこの融和から生じたものだと、わたくしは弁解したい。窓の外は大衆である。即(すなわ)ち世間である。窓の内は一個人である。そしてこの両者の間には著しく相反目している何物もない。これは何(なん)に因るのであろう。お雪はまだ年が若い。まだ世間一般の感情を失わないからである。お雪は窓に坐っている間はその身を卑しいものとなして、別に隠している人格を胸の底に持っている。窓の外を通る人は其歩みを此路地に入るるや仮面をぬぎ矜負(きょうふ)を去るからである。
 わたくしは若い時から脂粉の巷(ちまた)に入り込み、今にその非を悟らない。或時は事情に捉(とら)われて、彼女達(かのおんなたち)の望むがまま家に納(い)れて箕帚(きそう)を把(と)らせたこともあったが、然しそれは皆失敗に終った。彼女達は一たび其境遇を替え、其身を卑しいものではないと思うようになれば、一変して教う可からざる懶婦(らんぷ)となるか、然らざれば制御しがたい悍婦(かんぷ)になってしまうからであった。
 お雪はいつとはなく、わたくしの力に依って、境遇を一変させようと云う心を起している。懶婦か悍婦かになろうとしている。お雪の後半生をして懶婦たらしめず、悍婦たらしめず、真に幸福なる家庭の人たらしめるものは、失敗の経験にのみ富んでいるわたくしではなくして、前途に猶多くの歳月を持っている人でなければならない。然し今、これを説いてもお雪には決して分ろう筈がない。お雪はわたくしの二重人格の一面だけしか見ていない。わたくしはお雪の窺(うかが)い知らぬ他の一面を曝露して、其非を知らしめるのは容易である。それを承知しながら、わたくしが猶躊躇(ちゅうちょ)しているのは心に忍びないところがあったからだ。これはわたくしを庇(かば)うのではない。お雪が自らその誤解を覚(さと)った時、甚しく失望し、甚しく悲しみはしまいかと云うことをわたくしは恐れて居たからである。
 お雪は倦(う)みつかれたわたくしの心に、偶然過去の世のなつかしい幻影を彷彿(ほうふつ)たらしめたミューズである。久しく机の上に置いてあった一篇の草稿は若しお雪の心がわたくしの方に向けられなかったなら、――少くとも然(そ)う云う気がしなかったなら、既に裂き棄てられていたに違いない。お雪は今の世から見捨てられた一老作家の、他分そが最終の作とも思われる草稿を完成させた不可思議な激励者である。わたくしは其顔を見るたび心から礼を言いたいと思っている。其結果から論じたら、わたくしは処世の経験に乏しい彼の女(おんな)を欺き、其身体(しんたい)のみならず其の真情をも弄(もてあそ)んだ事になるであろう。わたくしは此の許され難い罪の詫(わ)びをしたいと心ではそう思いながら、そうする事の出来ない事情を悲しんでいる。
 その夜、お雪が窓口で言った言葉から、わたくしの切ない心持はいよいよ切なくなった。今はこれを避けるためには、重ねてその顔を見ないに越したことはない。まだ、今の中ならば、それほど深い悲しみと失望とをお雪の胸に与えずとも済むであろう。お雪はまだ其本名をも其生立(おいたち)をも、問われないままに、打明(うちあけ)る機会に遇わなかった。今夜あたりがそれとなく別れを告げる瀬戸際で、もし之を越したなら、取返しのつかない悲しみを見なければなるまいと云うような心持が、夜のふけかけるにつれて、わけもなく激しくなって来る。
 物に追われるような此心持は、折から急に吹出した風が表通から路地に流れ込み、あち等こち等へ突当った末、小さな窓から家の内(なか)まで入って来て、鈴のついた納簾(のれん)の紐(ひも)をゆする。其音につれて一しお深くなったように思われた。其音は風鈴売が子窓(れんじまど)の外を通る時ともちがって、此別天地より外には決して聞かれないものであろう。夏の末から秋になっても、打続く毎夜のあつさに今まで全く気のつかなかっただけ、その響は秋の夜もいよいよまったくの夜長らしく深(ふ)けそめて来た事を、しみじみと思い知らせるのである。気のせいか通る人の跫音(あしおと)も静に冴(さ)え、そこ等の窓でくしゃみをする女の声も聞える。
 お雪は窓から立ち、茶の間へ来て煙草へ火をつけながら、思出したように、
「あなた。あした早く来てくれない。」と云った。
「早くって、夕方か。」
「もっと早くさ。あしたは火曜日だから診察日なんだよ。十一時にしまうから、一緒に浅草へ行かない。四時頃までに帰って来ればいいんだから。」
 わたくしは行ってもいいと思った。それとなく別盃(べっぱい)を酌(く)むために行きたい気はしたが、新聞記者と文学者とに見られて又もや筆誅(ひっちゅう)せられる事を恐れもするので、
「公園は具合のわるいことがあるんだよ。何か買うものでもあるのか。」
「時計も買いたいし、もうすぐ袷(あわせ)だから。」
「あついあついと言ってる中、ほんとにもうじきお彼岸だね。袷はどのくらいするんだ。店で着るのか。」
「そう。どうしても三十円はかかるでしょう。」
「そのくらいなら、ここに持っているよ。一人で行って誂(あつら)えておいでな。」と紙入を出した。
「あなた。ほんと。」
「気味がわるいのか。心配するなよ。」
 わたくしは、お雪が意外のよろこびに眼を見張った其顔を、永く忘れないようにじっと見詰めながら、紙入の中の紙幣(さつ)を出して茶ぶ台の上に置いた。
 戸を叩(たた)く音と共に主人の声がしたので、お雪は何か言いかけたのも、それなり黙って、伊達締(だてじめ)の間に紙幣(さつ)を隠す。わたくしは突(つ)と立って主人(あるじ)と入れちがいに外へ出た。
 伏見稲荷の前まで来ると、風は路地の奥とはちがって、表通から真向(まっこう)に突き入りいきなりわたくしの髪を吹乱した。わたくしは此処へ来る時の外はいつも帽子をかぶり馴れているので、風に吹きつけられたと思うと同時に、片手を挙げて見て始て帽子のないのに心づき、覚えず苦笑を浮べた。奉納の幟(のぼり)は竿(さお)も折れるばかり、路地口に屋台を据えたおでん屋の納簾と共にちぎれて飛びそうに閃(ひらめ)き翻(ひるがえ)っている。溝の角の無花果(いちじく)と葡萄(ぶどう)の葉は、廃屋のかげになった闇の中にがさがさと、既に枯れたような響を立てている。表通りへ出ると、俄に広く打仰がれる空には銀河の影のみならず、星という星の光のいかにも森然として冴渡(さえわた)っているのが、言知れぬさびしさを思わせる折も折、人家のうしろを走り過る電車の音と警笛の響とが烈風にかすれて、更にこの寂しさを深くさせる。わたくしは帰りの道筋を、白髯橋の方に取る時には、いつも隅田町郵便局の在るあたりか、又は向島劇場という活動小屋のあたりから勝手に横道に入り、陋巷(ろうこう)の間を迂曲(うきょく)する小道を辿(たど)り辿って、結局白髯明神の裏手へ出るのである。八月の末から九月の初めにかけては、時々夜になって驟雨(ゆうだち)の霽(は)れた後(あと)、澄みわたった空には明月が出て、道も明く、むかしの景色も思出されるので、知らず知らず言問(こととい)の岡あたりまで歩いてしまうことが多かったが、今夜はもう月もない。吹き通す川風も忽ち肌寒くなって来るので、わたくしは地蔵坂の停留場に行きつくが否や、待合所の板バメと地蔵尊との間に身をちぢめて風をよけた。

 四五日たつと、あの夜をかぎりもう行かないつもりで、秋袷の代まで置いて来たのにも係らず、何やらもう一度行って見たい気がして来た。お雪はどうしたかしら。相変らず窓に坐っている事はわかりきっていながら、それとなく顔だけ見に行きたくて堪らない。お雪には気がつかないように、そっと顔だけ、様子だけ覗いて来よう。あの辺を一巡(ひとまわ)りして帰って来れば隣のラディオも止む時分になるのであろうと、罪をラディオに塗付けて、わたくしはまたもや墨田川を渡って東の方へ歩いた。
 路地に入る前、顔をかくす為、鳥打帽を買い、素見客(ひやかし)が五六人来合すのを待って、その人達の蔭に姿をかくし、溝の此方(こなた)からお雪の家を窺(のぞ)いて見ると、お雪は新形の髷を元のつぶしに結い直し、いつものように窓に坐っていた。と見れば、同じ軒の下の右側の窓はこれまで閉めきってあったのが、今夜は明くなって、燈影(ほかげ)の中に丸髷の顔が動いている。新しい抱(かかえ)――この土地では出方(でかた)さんとかいうものが来たのである。遠くからで能(よ)くはわからないが、お雪よりは年もとっているらしく容貌(きりょう)もよくはないようである。わたくしは人通りに交って別の路地へ曲った。
 その夜はいつもと同じように日が暮れてから急に風が凪(な)いで蒸暑くなった為(た)めか、路地の中の人出もまた夏の夜のように夥(おびただ)しく、曲る角々は身を斜めにしなければ通れぬ程で、流れる汗と、息苦しさとに堪えかね、わたくしは出口を求めて自動車の走(は)せちがう広小路へ出た。そして夜店の並んでいない方の舗道を歩み、実はそのまま帰るつもりで七丁目の停留場に佇立(たたず)んで額の汗を拭った。車庫からわずか一二町のところなので、人の乗っていない市営バスがあたかもわたくしを迎えるように来て停った。わたくしは舗道から一歩(ひとあし)踏み出そうとして、何やら急にわけもわからず名残(なごり)惜しい気がして、又ぶらぶら歩き出すと、間もなく酒屋の前の曲角(まがりかど)にポストの立っている六丁目の停留場である。ここには五六人の人が車を待っていた。わたくしはこの停留場でも空(むな)しく三四台の車を行き過(すご)させ、唯茫然(ぼうぜん)として、白楊樹(ポプラ)の立ちならぶ表通と、横町の角に沿うた広い空地の方を眺めた。
 この空地には夏から秋にかけて、ついこの間まで、初めは曲馬、次には猿芝居、その次には幽霊の見世物小屋が、毎夜さわがしく蓄音機を鳴(なら)し立てていたのであるが、いつの間にか、もとのようになって、あたりの薄暗い灯影(ほかげ)が水溜(みずたまり)の面(おもて)に反映しているばかりである。わたくしはとにかくもう一度お雪をたずねて、旅行をするからとか何とか言って別れよう。其の方が鼬(いたち)の道を切ったような事をするよりは、どうせ行かないものなら、お雪の方でも後々(あとあと)の心持がわるくないであろう。出来ることなら、真(まこと)の事情を打明けてしまいたい。わたくしは散歩したいにも其処(そのところ)がない。尋ねたいと思う人は皆先に死んでしまった。風流絃歌の巷も今では音楽家と舞踊家との名を争う処で、年寄が茶を啜(すす)ってむかしを語る処ではない。わたくしは図らずも此のラビラントの一隅に於いて浮世半日(ふせいはんじつ)の閑を偸(ぬす)む事を知った。そのつもりで邪魔でもあろうけれど折々遊びに来る時は快く上げてくれと、晩蒔(おそまき)ながら、わかるように説明したい……。わたくしは再び路地へ入ってお雪の家の窓に立寄った。
「さア、お上んなさい。」とお雪は来る筈の人が来たという心持を、其様子と調子とに現したが、いつものように下の茶の間には通さず、先に立って梯子(はしご)を上るので、わたくしも様子を察して、
「親方が居るのか。」
「ええ。おかみさんも一緒……。」
「新奇のが来たね。」
「御飯焚(たき)のばアやも来たわ。」
「そうか。急に賑かになったんだな。」
「暫く独りでいたら、大勢だと全くうるさいわね。」急に思出したらしく、「この間はありがとう。」
「好(い)いのがあったか。」
「ええ。明日(あした)あたり出来てくる筈よ。伊達締(だてじめ)も一本買ったわ。これはもうこんなだもの。後で下へ行って持ってくるわ。」
 お雪は下へ降りて茶を運んで来た。姑(しばら)く窓に腰をかけて何ともつかぬ話をしていたが、主人(あるじ)夫婦は帰りそうな様子もない。その中(うち)梯子の降口(おりくち)につけた呼鈴が鳴る。馴染の客が来た知らせである。
 家(うち)の様子が今までお雪一人の時とは全くちがって、長くは居られぬようになり、お雪の方でもまた主人の手前を気兼しているらしいので、わたくしは言おうと思った事もそのまま、半時間とはたたぬ中(うち)戸口を出た。
 四五日過ると季節は彼岸に入った。空模様は俄(にわか)に変って、南風(なんぷう)に追われる暗雲の低く空を行き過る時、大粒の雨は礫(つぶて)を打つように降りそそいでは忽(たちま)ち歇(や)む。夜を徹して小息(おや)みもなく降りつづくこともあった。わたくしが庭の葉頭は根もとから倒れた。萩の花は葉と共に振り落され、既に実を結んだ秋海堂(しゅうかいどう)の紅い茎は大きな葉を剥(は)がれて、痛ましく色が褪(あ)せてしまった。濡れた木(こ)の葉(は)と枯枝とに狼藉(ろうぜき)としている庭のさまを生き残った法師蝉(ほうしぜみ)と蟋蟀(こおろぎ)とが雨の霽(は)れま霽れまに嘆き弔(とむら)うばかり。わたくしは年々秋風秋雨に襲われた後(のち)の庭を見るたびたび紅楼夢(こうろうむ)の中にある秋窓風雨夕(しゅうそうふううのゆうべ)と題された一篇の古詩を思起す。
秋花ハ惨淡トシテ秋草ハ黄ナリ。
耿耿タル秋燈秋夜ハ長シ。
已ニ賞ス秋窓ニ秋ノ不レ尽キザルヲ。
那イカンゾ堪ンヤ風雨ノ助クルヲ二凄涼ヲ一。
助クルノレ秋ヲ風雨ハ来ルコト何ゾ速ナルヤ。
驚破ス秋窓秋夢ノ緑ナルヲ。
………………………
 そして、わたくしは毎年同じように、とても出来ぬとは知りながら、何とかうまく翻訳して見たいと思い煩(わずら)うのである。
 風雨の中に彼岸は過ぎ、天気がからりと晴れると、九月の月も残り少く、やがて其年の十五夜になった。
 前の夜もふけそめてから月が好かったが、十五夜の当夜には早くから一層曇りのない明月を見た。
 わたくしがお雪の病んで入院していることを知ったのは其夜である。雇婆から窓口で聞いただけなので、病の何であるのかも知る由がなかった。
 十月になると例年よりも寒さが早く来た。既に十五夜の晩にも玉の井稲荷(いなり)の前通の商店に、「皆さん、障子(しょうじ)張りかえの時が来ました。サービスに上等の糊を進呈。」とかいた紙が下っていたではないか。もはや素足に古下駄を引摺(ひきず)り帽子もかぶらず夜歩きをする時節ではない。隣家(となり)のラディオも閉めた雨戸に遮(さえぎ)られて、それほどわたくしを苦しめないようになったので、わたくしは家に居てもどうやら燈火に親しむことができるようになった。
        *        *        *
 東綺譚(ぼくとうきたん)はここに筆を擱(お)くべきであろう。然しながら若しここに古風な小説的結末をつけようと欲するならば、半年或は一年の後、わたくしが偶然思いがけない処で、既に素人(しろと)になっているお雪に廻(めぐ)り逢う一節を書添えればよいであろう。猶又、この偶然の邂逅(かいこう)をして更に感傷的ならしめようと思ったなら、摺れちがう自動車とか或は列車の窓から、互に顔を見合しながら、言葉を交したいにも交すことの出来ない場面を設ければよいであろう。楓葉荻花(ふうようてきか)秋は瑟々(しつしつ)たる刀禰河(とねがわ)あたりの渡船(わたしぶね)で摺れちがう処などは、殊に妙であろう。
 わたくしとお雪とは、互に其本名も其住所をも知らずにしまった。唯東の裏町、蚊のわめく溝際(どぶぎわ)の家で狎(な)れ(した)しんだばかり。一たび別れてしまえば生涯相逢うべき機会も手段もない間柄である。軽い恋愛の遊戯とは云いながら、再会の望みなき事を初めから知りぬいていた別離の情は、強(し)いて之(これ)を語ろうとすれば誇張に陥り、之を軽々(けいけい)に叙し去れば情を尽さぬ憾(うら)みがある。ピエールロッチの名著阿菊(おきく)さんの末段は、能(よ)く這般(しゃはん)の情緒を描き尽し、人をして暗涙を催さしむる力があった。わたくしが東綺譚の一篇に小説的色彩を添加しようとしても、それは徒(いたずら)にロッチの筆を学んで至らざるの笑を招くに過ぎぬかも知れない。
 わたくしはお雪が永く溝際の家にいて、極めて廉価(れんか)に其媚(こび)を売るものでない事は、何のいわれもなく早くから之を予想していた。若い頃、わたくしは遊里の消息に通暁した老人から、こんな話をきかされたことがあった。これほど気に入った女はない。早く話をつけないと、外のお客に身受けをされてしまいはせぬかと思うような気がすると、其女はきっと病気で死ぬか、そうでなければ突然厭(いや)な男に身受をされて遠い国へ行ってしまう。何の訳もない気病みというものは不思議に当るものだと云う話である。
 お雪はあの土地の女には似合わしからぬ容色と才智とを持っていた。群(けいぐん)の一鶴(いっかく)であった。然し昔と今とは時代がちがうから、病むとも死ぬような事はあるまい。義理にからまれて思わぬ人に一生を寄せる事もあるまい……。
 建込んだ汚(きたな)らしい家の屋根つづき、風雨(あらし)の来る前の重苦しい空に映る燈影(ほかげ)を望みながら、お雪とわたくしとは真暗な二階の窓に倚(よ)って、互に汗ばむ手を取りながら、唯それともなく謎(なぞ)のような事を言って語り合った時、突然閃き落ちる稲妻に照らされたその横顔。それは今も猶ありありと目に残って消去らずにいる。わたくしは二十(はたち)の頃から恋愛の遊戯に耽(ふけ)ったが、然し此の老境に至って、このような癡夢(ちむ)を語らねばならないような心持になろうとは。運命の人を揶揄(やゆ)することもまた甚しいではないか。草稿の裏には猶数行の余白がある。筆の行くまま、詩だか散文だか訳のわからぬものを書(しる)して此夜の愁(うれい)を慰めよう。
残る蚊に額さされしわが血汐。
ふところ紙に
君は拭いて捨てし庭の隅。
葉頭の一茎(ひとくき)立ちぬ。
夜ごとの霜のさむければ、
夕暮の風をも待たで、
倒れ死すべき定めも知らず、
錦なす葉の萎(しお)れながらに
色増す姿ぞいたましき。
病める蝶ありて
傷(きずつ)きし翼によろめき、
返(かえり)咲く花とうたがう頭の
倒れ死すべきその葉かげ。
宿かる夢も
結ぶにひまなき晩秋(おそあき)の
たそがれ迫る庭の隅。
君とわかれしわが身ひとり、
倒れ死すべき頭の一茎と
ならびて立てる心はいかに。
丙子(ひのえね)十月三十日脱稿
[#改ページ]
作後贅言(ぜいげん)
 向島寺島町に在る遊里の見聞記(けんもんき)をつくって、わたくしは之を東綺譚と命名した。
 の字は林述斎が墨田川を言現(いいあらわ)すために濫(みだり)に作ったもので、その詩集には上漁謡と題せられたものがある。文化年代のことである。
 幕府瓦解の際、成島柳北が下谷和泉橋通(いずみばしどおり)の賜邸(してい)を引払い、向島須崎村(すさきむら)の別荘を家となしてから其詩文には多くの字が用い出された。それから字が再び汎(あまね)く文人墨客(ぼっかく)の間に用いられるようになったが、柳北の死後に至って、いつともなく見馴れぬ字となった。
 物徂徠は墨田川を澄江となしていたように思っている。天明の頃には墨田堤を葛坡(かつは)となした詩人もあった。明治の初年詩文の流行を極めた頃、小野湖山は向島の文字を雅馴(がじゅん)ならずとなし、其音によって夢香洲(むこうしゅう)の三字を考出したが、これも久しからずして忘れられてしまった。現時向島の妓街に夢香荘とよぶ連込宿がある。小野湖山の風流を襲(つ)ぐ心であるのかどうか、未(いま)だ詳(つまびらか)にするを得ない。
 寺島町五丁目から六七丁目にわたった狭斜の地は、白髯橋(しらひげばし)の東方四五町のところに在る。即ち墨田堤の東北に在るので、上となすには少し遠すぎるような気がした。依(よ)ってわたくしはこれを東と呼ぶことにしたのである。東綺譚はその初め稿を脱した時、直(ただち)に地名を取って「玉の井雙紙(ぞうし)」と題したのであるが、後に聊(いささ)か思うところがあって、今の世には縁遠い字を用いて、殊更に風雅をよそおわせたのである。
 小説の命題などについても、わたくしは十余年前井上唖々子(いのうえああし)を失い、去年の春神代帚葉翁(こうじろそうようおう)の訃(ふ)を聞いてから、爾来(じらい)全く意見を問うべき人がなく、又それ等について諧語(かいご)する相手もなくなってしまった。東綺譚は若し帚葉翁が世に在るの日であったなら、わたくしは稿を脱するや否や、直に走って、翁を千駄木町(せんだぎまち)の寓居(ぐうきょ)に訪(おとな)い其閲読を煩(わずらわ)さねばならぬものであった。何故(なにゆえ)かというに翁はわたくしなどより、ずっと早くからかのラビラントの事情に通暁し、好んで之を人に語っていたからである。翁は坐中の談話がたまたまその地の事に及べば、まず傍人より万年筆を借り、バットの箱の中身を抜き出し、其裏面に市中より迷宮に至る道路の地図を描き、ついで路地の出入口を記(き)し、その分れて那辺に至り又那辺に合するかを説明すること、掌(たなごころ)を指(さ)すが如くであった。
 そのころ、わたくしは大抵毎晩のように銀座尾張町の四ツ角で翁に出逢った。翁は人を待合すのにカフエーや喫茶店を利用しない。待設けた人が来てから後、話をする時になって初めて飲食店の椅子に坐るのである。それまでは康衢(こうく)の一隅に立ち、時間を測って、逢うべき人の来るのを待っているのであるが、その予測に反して空しく時を費すことがあっても、翁は決して怒りもせず悲しみもしない。翁の街頭に佇立(たたず)むのは約束した人の来るのを待つためばかりではない。寧(むしろ)これを利用して街上の光景を眺めることを喜んでいたからである。翁が生前屡(しばしば)わたくしに示した其手帳には、某年某月某日の条下に、某処に於いて見る所、何時より何時までの間、通行の女凡(およ)そ何人の中(うち)洋装をなすもの幾人。女給らしきものにして檀那(だんな)らしきものと連立って歩むもの幾人。物貰い門附(かどづけ)幾人などと記してあったが、これ等は町の角や、カフエーの前の樹の下などに立たずんで人を待っている間に鉛筆を走(はしら)したものである。
 今年残暑の殊に甚(はなはだ)しかった或夜、わたくしは玉の井稲荷前の横町を歩いていた時、おでん屋か何かの暖簾(のれん)の間から、三味線を抱えて出て来た十七八の一寸(ちょっと)顔立のいい門附から、「おじさん。」と親しげに呼びかけられた事があった。
「おじさん、こっちへも遊びに来るのかい。」
 初めは全く見忘れていたが、門附の女の糸切歯を出して笑う口元から、わたくしは忽(たちま)ち四五年前、銀座の裏町で帚葉翁と共にこの娘とはなしをした事があったのを思出した。翁は銀座から駒込の家に帰る時、いつも最終の電車を尾張町の四辻か銀座三丁目の松屋前で待っている間、同じ停留場に立っている花売、辻占売(つじうらうり)、門附などと話をする。車に乗ってからも相手が避けないかぎり話をしつづけるので、この門附の娘とは余程前から顔を知り合っていたのであった。
 門附の娘はわたくしが銀座の裏通りで折々見掛けた時分には、まだ肩揚(かたあげ)をして三味線を持たず、左右の手に四竹(よつだけ)を握っていた。髪は桃割(ももわれ)に結い、黒襟(えり)をかけた袂(たもと)の長い着物に、赤い半襟。赤い帯をしめ、黒塗の下駄の鼻緒も赤いのをかけた様子は、女義太夫の弟子でなければ、場末の色町の半玉のようにも見られた。細面(ほそおもて)のませた顔立から、首や肩のほっそりした身体(からだ)つきもまたそういう人達に能(よ)く見られる典型的なものであった。その生立や性質の型通りであるらしいことも、また恐らくは問うに及ばぬことであろう。
「すっかり、姉(ねえ)さんになっちまったな。まるで芸者衆(げいしゃしゅ)だよ。」
「ほほほほほ、おかしか無い。」と言いながら娘は平打(ひらうち)の簪(かんざし)を島田の根元にさし直した。
「おかしいものか。お前も銀座仕込じゃないか。」
「でも、あたい、もう彼方(あっち)へは行かないんだよ。」
「こっちの方がいいか。」
「此方(こっち)だって、何処だって、いいことはないよ。だけれど、銀座はあぶれると歩いちゃ帰れないし、仕様がないからね。」
「お前、あの時分は柳島へ帰るのだったね。」
「ああ、今は請地(うけじ)へ越したよ。」
「お腹(なか)がすいてるか。」
「いいえ、まだ宵(よい)の口だもの。」
 銀座では電車賃をやった事もあったので、其夜は祝儀五十銭を与えて別れた。その後一ト月ばかりたって、また路端(みちばた)で出逢ったことがあるが、間もなく夜露も追々肌寒くなって来たので、わたくしはこの町へ散歩に来ることも次第に稀になった。しかしこの町の最も繁昌するのは、夜風の身に沁(し)むようになってからだと云うから、あの娘もこの頃は毎夜かかさずふけ渡る町を歩いているのであろう。
        *        *        *
 帚葉翁(そうようおう)とわたくしとが、銀座の夜深(よふけ)に、初めてあの娘の姿を見た頃と、今年図らず寺島町の路端でめぐり逢った時とを思合せると、歳月は早くも五年を過ぎている。この間に時勢の変ったことは、半玉のような此娘の着物の肩揚がとれ、桃割が結綿(ゆいわた)をかけた島田になった其変りかたとは、同じ見方を以て見るべきものではあるまい。四竹を鳴して説経を唱(うた)っていた娘が、三味線をひいて流行唄(はやりうた)を歌う姉さんになったのは、孑(ぼうふり)が蚊になり、オボコがイナになり、イナがボラになったと同じで、これは自然の進化である。マルクスを論じていた人が朱子学を奉ずるようになったのは、進化ではなくして別の物に変ったのである。前の者は空(くう)となり、後の者は忽然(こつぜん)として出現したのである。やどり蟹(がに)の殻の中に、蟹ではない別の生物が住んだようなものである。
 われわれ東京の庶民が満洲の野(や)に風雲の起った事を知ったのは其の前の年、昭和五六年の間であった。たしかその年の秋の頃、わたくしは招魂社境内の銀杏(いちょう)の樹に三日ほどつづいて雀合戦のあった事をきいて、その最終の朝麹町(こうじまち)の女達と共に之を見に行ったことがあった。その又前の年の夏には、赤坂見附の濠(ほり)に、深更人の定(さだま)った後、大きな蝦蟇(がま)が現れ悲痛な声を揚げて泣くという噂が立ち、或新聞の如きは蝦蟇を捕えた人に金参百円の賞を贈ると云う広告を出した。それが為め雨の降る夜などには却(かえっ)て人出が多くなったが、賞金を得た人の噂も遂に聞かず、いつの間にかこの話は烟(けむり)のように消えてしまった。
 雀合戦を見た其年も忽ち暮に迫った或日の午後、わたくしは葛西村(かさいむら)の海辺(うみべ)を歩いて道に迷い、日が暮れてから燈火を目当にして漸く船堀橋(ふなぼりばし)の所在を知り、二三度電車を乗りかえた後、洲崎の市電終点から日本橋の四辻に来たことがあった。深川の暗い町を通り過ぎた電車から、白木屋(しろきや)百貨店の横手に降りると、燈火の明るさと年の暮の雑沓(ざっとう)と、ラディオの軍歌とが一団になって、今日の半日も夜になるまで、人跡(じんせき)の絶えた枯蘆(かれあし)の岸ばかりさまよっていたわたくしの眼には、忽然(こつぜん)異様なる印象を与えた。またしても乗換の車を待つため、白木屋の店頭に佇立(たたず)むと、店の窓には、黄色の荒原の処々(ところどころ)に火の手の上っている背景を飾り、毛衣(けごろも)で包んだ兵士の人形を幾個(いくつ)となく立て並べてあったのが、これ又わたくしの眼を驚した。わたくしは直(ただち)に、街上に押合う群集の様子に眼を移したが、それは毎年(まいとし)の歳暮に見るものと何の変りもなく、殊更に立止って野営の人形を眺めるものはないらしいようであった。
 銀座通に柳の苗木が植えつけられ、両側の歩道に朱骨(しゅぼね)の雪洞(ぼんぼり)が造り花の間に連ねともされ、銀座の町が宛(さなが)ら田舎芝居の仲(なか)の町(ちょう)の場と云うような光景を呈し出したのは、次の年の四月ごろであった。わたくしは銀座に立てられた朱骨のぼんぼりと、赤坂溜池(ためいけ)の牛肉屋の欄干が朱で塗られているのを目にして、都人(とじん)の趣味のいかに低下し来(きた)ったかを知った。霞ヶ関の義挙が世を震動させたのは柳まつりの翌月(あくるつき)であった。わたくしは丁度其夕(ゆう)、銀座通を歩いていたので、この事を報道する号外の中では読売新聞のものが最も早く、朝日新聞がこれについだことを目撃した。時候がよく、日曜日に当っていたので、其夕銀座通はおびただしい人出であったが電信柱に貼付(はりつ)けられた号外を見ても群集は何等特別の表情を其面上に現さぬばかりか、一語のこれについて談話をするものもなく、唯露店の商人が休みもなく兵器の玩具に螺旋(ぜんまい)をかけ、水出しのピストルを乱射しているばかりであった。
 帚葉翁が古帽子をかぶり日光下駄をはいて毎夜かかさず尾張町の三越前に立ち現れたのはその頃からであった。銀座通の裏表に処を択(えら)ばず蔓衍(まんえん)したカフエーが最も繁昌し、又最も淫卑(いんぴ)に流れたのは、今日(こんにち)から回顧すると、この年昭和七年の夏から翌年にかけてのことであった。いずこのカフエーでも女給を二三人店口に立たせて通行の人を呼び込ませる。裏通のバアに働いている女達は必ず二人ずつ一組になって、表通を歩み、散歩の人の袖を引いたり目まぜで誘(いざな)ったりする。商店の飾付(かざりつけ)を見る振りをして立留り、男一人の客と見れば呼びかけて寄添い、一緒にお茶を飲みに行こうと云う怪し気な女もあった。百貨店でも売子の外に大勢の女を雇入れ、海水浴衣を着せて、女の肌身を衆人の目前に曝(さら)させるようにしたのも、たしかこの年から初まったのである。裏通の角々にはヨウヨウとか呼ぶ玩具を売る小娘の姿を見ぬ事はなかった。わたくしは若い女達が、其の雇主の命令に従って、其の顔と其の姿とを、或は店先、或は街上に曝すことを恥とも思わず、中には往々得意らしいのを見て、公娼の張店(はりみせ)が復興したような思をなした。そして、いつの世になっても、女を使役するには変らない一定の方法がある事を知ったような気がした。
 地下鉄道は既に京橋の北詰まで開鑿(かいさく)せられ、銀座通には昼夜の別なく地中に鉄棒を打込む機械の音がひびきわたり、土工は商店の軒下に処嫌わず昼寝をしていた。
 月島小学校の女教師(おんなきょうし)が夜になると銀座一丁目裏のラバサンと云うカフエーに女給となって現れ、売春の傍(かたわら)枕さがしをして捕えられた事が新聞の紙上を賑(にぎわ)した。それはやはりこの年昭和七年の冬であった。
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 わたくしが初て帚葉翁と交(まじわり)を訂(ただ)したのは、大正十年の頃であろう。その前から古本の市(いち)へ行くごとに出逢っていたところから、いつともなく話をするようになっていたのである。然し其後も会うところは相変らず古本屋の店先で、談話は古書に関することばかりであったので、昭和七年の夏、偶然銀座通で邂逅(かいこう)した際には、わたくしは意外の地で意外な人を見たような気がした為、其夜は立談(たちばなし)をしたまま別れたくらいであった。
 わたくしは昭和二三年のころから丁度其時分まで一時全く銀座からは遠のいていたのであったが、夜眠られない病気が年と共に烈しくなった事や、自炊に便利な食料品を買う事や、また夏中は隣家(となり)のラディオを聞かないようにする事や、それ等のためにまたしても銀座へ出かけはじめたのであるが、新聞と雑誌との筆誅(ひっちゅう)を恐れて、裏通を歩くにも人目を忍び、向(むこう)の方から頭髪を振乱した男が折革包(おりかばん)をぶら下げたり新聞雑誌を抱えたりして歩いて来るのを見ると、横町へ曲ったり電柱のかげにかくれたりしていた。
 帚葉翁はいつも白足袋(たび)に日光下駄をはいていた。其風采(ふうさい)を一見しても直(ただち)に現代人でない事が知られる。それ故、わたくしが現代文士を忌み恐れている理由をも説くに及ばずして翁は能く之を察していた。わたくしが表通のカフエーに行くことを避けている事情をも、翁はこれを知っていた。一夜(いちや)翁がわたくしを案内して、西銀座の裏通にあって、殆ど客の居ない万茶亭(ばんさてい)という喫茶店へつれて行き、当分その処を会合処にしようと言ったのも、わたくしの事情を知っていた故であった。
 わたくしは炎暑の時節いかに渇(かっ)する時と雖(いえども)、氷を入れた淡水の外冷いものは一切口にしない。冷水も成るべく之を避け夏も冬と変りなく熱い茶か珈琲(コーヒー)を飲む。アイスクリームの如きは帰朝以来今日まで一度も口にした事がないので、若(も)し銀座を歩く人の中で銀座のアイスクリームを知らない人があるとしたなら、それは恐らくわたくし一人(いちにん)のみであろう。翁がわたくしを万茶亭に案内したのもまたこれが為であった。
 銀座通のカフエーで夏になって熱い茶と珈琲とをつくる店は殆ど無い。西洋料理店の中でも熱い珈琲をつくらない店さえある。紅茶と珈琲とはその味(あじわい)の半(なかば)は香気に在るので、若し氷で冷却すれば香気は全く消失(きえう)せてしまう。然るに現代の東京人は冷却して香気のないものでなければ之を口にしない。わたくしの如き旧弊人(きゅうへいじん)にはこれが甚だ奇風に思われる。この奇風は大正の初にはまだ一般には行きわたっていなかった。
 紅茶も珈琲も共に洋人の持ち来ったもので、洋人は今日(こんにち)と雖その冷却せられたものを飲まない。これを以て見れば紅茶珈琲の本来の特性は暖きにあるや明(あきらか)である。今之を邦俗に従って冷却するのは本来の特性を破損するもので、それはあたかも外国の小説演劇を邦語に訳す時土地人物の名を邦化するものと相似ている。わたくしは何事によらず物の本性(ほんせい)を傷(きずつ)けることを悲しむ傾があるから、外国の文学は外国のものとして之を鑑賞したいと思うように、其飲食物の如きもまた邦人の手によって塩梅(あんばい)せられたものを好まないのである。
 万茶亭は多年南米の殖民地に働いていた九州人が珈琲を売るために開いた店だという事で、夏でも暖い珈琲を売っていた。然し其主人(あるじ)は帚葉翁と前後して世を去り、其店もまた閉(とざ)されて、今はない。
 わたくしは帚葉翁と共に万茶亭に往く時は、狭い店の中のあつさと蠅(はえ)の多いのとを恐れて、店先の並木の下に出してある椅子に腰をかけ、夜も十二時になって店の灯の消える時迄じっとしている。家(うち)へ帰って枕についても眠られない事を知っているので十二時を過ぎても猶(なお)行くべきところがあれば誘われるままに行くことを辞さなかった。翁はわたくしと相対して並木の下に腰をかけている間に、万茶亭と隣接したラインゴルト、向側のサイセリヤ、スカール、オデッサなどいう酒場に出入する客の人数(にんず)を数えて手帳にかきとめる。円タクの運転手や門附と近づきになって話をする。それにも飽きると、表通へ物を買いに行ったり路地を歩いたりして、戻って来ると其の見て来た事をわたくしに報告する。今、どこの路地で無頼漢が神祇(じんぎ)の礼を交していたとか、或は向の川岸で怪し気な女に袖(そで)を牽(ひ)かれたとか、曾(かつ)てどこそこの店にいた女給が今はどこそこの女主人(おんなあるじ)になっているとか云う類(たぐい)のはなしである。寺島町の横町でわたくしを呼止めた門附の娘も、初めて顔を見知ったのはこの並木の下であったに違いはない。
 わたくしは翁の談話によって、銀座の町がわずか三四年見ない間にすっかり変った、其景況の大略を知ることができた。震災前(ぜん)表通に在った商店で、もとの処に同じ業をつづけているものは数えるほどで、今は悉(ことごと)く関西もしくは九州から来た人の経営に任(ゆだ)ねられた。裏通の到る処に海豚汁(ふぐじる)や関西料理の看板がかけられ、横町の角々に屋台店の多くなったのも怪しむには当らない。地方の人が多くなって、外で物を食う人が増加したことは、いずこの飲食店も皆繁昌している事がこれを明にしている。地方の人は東京の習慣を知らない。最初停車場構内の飲食店、また百貨店の食堂で見覚えた事は悉く東京の習慣だと思込んでいるので、汁粉屋の看板を掛けた店へ来て支那蕎麦(そば)があるかときき、蕎麦屋に入って天麩羅(てんぷら)を誂(あつら)え断られて訝(いぶか)し気な顔をするものも少くない。飲食店の硝子(ガラス)窓に飲食物の模型を並べ、之に価格をつけて置くようになったのも、蓋(けだ)し已(や)むことを得ざる結果で、これまた其(その)範(はん)を大阪に則(と)ったものだという事である。
 街に灯(ひ)がつき蓄音機の響が聞え初めると、酒気を帯びた男が四五人ずつ一組になり、互に其腕を肩にかけ合い、腰を抱き合いして、表通といわず裏通といわず銀座中をひょろひょろさまよい歩く。これも昭和になってから新(あらた)に見る所の景況で、震災後頻(しきり)にカフエーの出来はじめた頃にはまだ見られぬものであった。わたくしは此不体裁にして甚だ無遠慮(ぶえんりょ)な行動の原因するところを詳(つまびらか)にしないのであるが、其実例によって考察すれば、昭和二年初めて三田の書生及三田出身の紳士が野球見物の帰り群(ぐん)をなし隊をつくって銀座通を襲った事を看過するわけには行かない。彼等は酔(えい)に乗じて夜店の商品を踏み壊し、カフエーに乱入して店内の器具のみならず家屋にも多大の損害を与え、制御の任に当る警吏と相争うに至った。そして毎年二度ずつ、この暴行は繰返されて今日に及んでいる。わたくしは世の父兄にして未(いまだ)一人(いちにん)の深く之を憤り其子弟をして退学せしめたもののある事を聞かない。世は挙(こぞ)って書生の暴行を以て是(ぜ)となすものらしい。曾てわたくしも明治大正の交、乏(ぼう)を承(う)けて三田に教鞭(きょうべん)を把(と)った事もあったが、早く辞して去ったのは幸であった。そのころ、わたくしは経営者中の一人(いちにん)から、三田の文学も稲門(とうもん)に負けないように尽力していただきたいと言われて、その愚劣なるに眉を顰(ひそ)めたこともあった。彼等は文学芸術を以て野球と同一に視ていたのであった。
 わたくしは元来その習癖よりして党を結び群をなし、其威を借りて事をなすことを欲しない。むしろ之を怯(きょう)となして排(しりぞ)けている。治国の事はこれを避けて論外に措(お)く。わたくしは芸林に遊ぶものの往々社を結び党を立てて、己(おのれ)に与(くみ)するを揚げ与せざるを抑えようとするものを見て、之を怯となし、陋(ろう)となすのである。その一例を挙ぐれば、曾て文藝春秋社の徒が、築地小劇場の舞台にその党の作品の上演せられなかった事を含み、小山内薫(おさないかおる)の抱ける劇文学の解釈を以て誤れるものとなした事の如きを言うのである。
 鴻雁(こうがん)は空を行く時列をつくっておのれを護ることに努めているが、鶯(うぐいす)は幽谷を出(い)でて喬木(きょうぼく)に遷(うつ)らんとする時、群(ぐん)をもなさず列をもつくらない。然も猶鴻雁は猟者(りょうしゃ)の砲火を逃(のが)るることができないではないか。結社は必ずしも身を守る道とは言えない。
 婦女子の媚(こび)を売るものに就(つ)いて見るも、また団結を以て安全となすものと、孤影悄然(しょうぜん)として猶且つ悲しまざるが如きものもある。銀座の表通に燈火を輝すカフエーを城郭となし、赤組と云い白組と称する団体を組織し、客の纒頭(てんとう)を貪(むさぼ)るものは女給の群(むれ)である。風呂敷包をかかえ、時には雨傘を携え、夜店の人ごみにまぎれて窃(ひそか)に行人(こうじん)の袖を引くものは独立の街娼である。この両者は其外見頗(すこぶる)異る所があるが、その一たび警吏に追跡せらるるや、危難のその身に達することには何の差別もないのであろう。
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 今年昭和十一年の秋、わたくしは寺島町へ行く道すがら、浅草橋辺で花電車を見ようとする人達が路傍(みちばた)に堵(かき)をなしているのに出逢った。気がつくと手にした乗車切符がいつもよりは大形になって、市電二十五周年記念とかしてあった。何か事のある毎に、東京の街路には花電車というものが練り出される。今より五年前帚葉翁と西銀座万茶亭に夜をふかし馴れた頃、秋も既に彼岸を過ぎていたかも知れない。給仕人から今しがた花電車が銀座を通ったことを聞いた。そして、其夜の花電車は東京府下の町々が市内に編入せられたことを祝うためであった事をも見て来た人から聞き伝えたのであった。是(これ)より先、まだ残暑のさり切らぬころ、日比谷の公園に東京音頭と称する公開の舞踏会が挙行せられたことをも、わたくしはやはり見て来た人から聞いたことがあった。
 東京音頭は郡部の地が市内に合併し、東京市が広くなったのを祝するために行われたように言われていたが、内情は日比谷の角にある百貨店の広告に過ぎず、其店で揃(そろ)いの浴衣(ゆかた)を買わなければ入場の切符を手に入れることができないとの事であった。それはとにかく、東京市内の公園で若い男女の舞踏をなすことは、これまで一たびも許可せられた前例がない。地方農村の盆踊さえたしか明治の末頃には県知事の命令で禁止せられた事もあった。東京では江戸のむかし山の手の屋敷町に限って、田舎から出て来た奉公人が盆踊をする事を許されていたが、町民一般は氏神の祭礼に狂奔(きょうほん)するばかりで盆に踊る習慣はなかったのである。
 わたくしは震災前(ぜん)、毎夜帝国ホテルに舞踏の行われた時、愛国の志士が日本刀を振(ふる)って場内に乱入した為、其後舞踏の催しは中止となった事を聞いていたので、日比谷公園に公開せられた東京音頭の会場にも何か騒ぎが起りはせぬかと、内心それを期待していたが、何事も無く音頭の踊は一週間の公開を終った。
「どうも、意外な事だね。」とわたくしは帚葉翁を顧て言った。翁は薄鬚(うすひげ)を生(はや)した口元に笑を含ませ、
「音頭とダンスとはちがうからでしょう。」
「しかし男と女とが大勢一緒になって踊るのだから、同じ事じゃないですか。」
「それは同じだが、音頭の方は男も女も洋服を着ていない。浴衣をきているからいいのでしょう。肉体を露出しないからいいのでしょう。」
「そうかね、しかし肉体を露出する事から見れば、浴衣の方があぶないじゃないですか。女の洋装は胸の方が露出されているが腰から下は大丈夫だ。浴衣は之とは反対なものですぜ。」
「いや、先生のように、そう理窟詰めにされてはどうにもならない。震災の時分、夜警団の男が洋装の女の通りかかるのを尋問した。其時何か癪(しゃく)にさわる事を言ったと云うので、女の洋服を剥(は)ぎ取って、身体検査をしたとか、しないとか大騒ぎな事があったです。夜警団の男も洋服を着ていた。それで女の洋装するのが癪にさわると云うんだから理窟にはならない。」
「そういえば女の洋服は震災時分にはまだ珍らしい方だったね。今では、こうして往来を見ていると、通る女の半分は洋服になったね。カフエー、タイガーの女給も二三年前から夏は洋服が多くなったようですね。」
「武断政治の世になったら、女の洋装はどうなるでしょう。」
「踊も浴衣ならいいと云う流儀なら、洋装ははやらなくなるかも知れませんね。然し今の女は洋装をよしたからと云って、日本服を着こなすようにはならないと思いますよ。一度崩れてしまったら、二度好くなることはないですからね。芝居でも遊芸でもそうでしょう。文章だってそうじゃないですか。勝手次第にくずしてしまったら、直そうと思ったって、もう直りはしないですよ。」
「言文一致でも鴎外先生のものだけは、朗吟する事ができますね。」帚葉翁は眼鏡をはずし両眼を閉じて、伊沢蘭軒が伝の末節を唱えた。「わたくしは学殖なきを憂うる。常識なきを憂えない。天下は常識に富める人の多きに堪えない。」
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 こんな話をしていると、夜は案外早くふけわたって、服部の時計台から十二時を打つ鐘の声が、其頃は何となく耳新しく聞きなされた。
 考証癖の強い翁は鐘の音(ね)をきくと、震災前(ぜん)まで八官町に在った小林時計店の鐘の音(ね)が、明治のはじめには新橋八景の中にも数えられていた事などを語り出す。わたくしは明治四十四五年の頃には毎夜妓家の二階で女の帰って来るのを待ちながら、かの大時計の音(おと)に耳を澄した事などを思出すのであった。三木愛花の著した小説芸者節用などのはなしも、わたくし達二人の間には屡(しばしば)語り出される事があった。
 万茶亭の前の道路にはこの時間になると、女給や酔客の帰りを当込んで円タクが集って来る。この附近の酒場でわたくしが其名を記憶しているのは、万茶亭の向側にはオデッサ、スカール、サイセリヤ、此方(こなた)の側にはムウランルージュ、シルバースリッパ、ラインゴルトなど。また万茶亭と素人屋(しもたや)との間の路地裏にはルパン、スリイシスタ、シラムレンなど名づけられたものがあった。今も猶在るかも知れない。
 服部の鐘の音を合図に、それ等の酒場やカフエーが一斉に表の灯(ひ)を消すので、街路(まち)は俄(にわか)に薄暗く、集って来る円タクは客を載せても徒(いたずら)に喇叭(らっぱ)を鳴すばかりで、動けない程込み合う中(うち)、運転手の喧嘩がはじまる。かと思うと、巡査の姿が見えるが早いか、一輛残らず逃げ失せてしまうが、暫くして又もとのように、その辺一帯をガソリン臭くしてしまうのである。
 帚葉翁はいつも路地を抜け、裏通から尾張町の四ツ角に出(い)で、既に一群をなして赤電車を待っている女給と共に路傍に立ち、顔馴染(なじみ)のものがいると先方の迷惑をも顧ず、大きな声で話をしかける。翁は毎夜の見聞によって、電車のどの線には女給が最も多く乗るか、又その行先は場末のどの方面が最も多いかという事を能く知っていた。自慢らしく其話に耽(ふけ)って、赤電車にも乗りそこなう事がたびたびであったが、然しそういう場合にも、翁は敢て驚く様子もなく、却て之を幸とするらしく、「先生、少しお歩きになりませんか。その辺までお送りしましょう。」と言う。
 わたくしは翁の不遇なる生涯を思返して、それはあたかも、待っていた赤電車を眼前に逸しながら、狼狽(ろうばい)の色を示さなかった態度によく似ていたような心持がした。翁は郷里の師範学校を出て、中年にして東京に来り、海軍省文書課、慶応義塾図書館、書肆(しょし)一誠堂編輯(へんしゅう)部其他に勤務したが、永く其職に居ず、晩年は専(もっぱ)ら鉛槧(えんざん)に従事したが、これさえ多くは失敗に終った。けれども翁は深く悲しむ様子もなく、閑散の生涯を利用して、震災後市井(しせい)の風俗を観察して自ら娯(たの)しみとしていた。翁と交るものは其悠々たる様子を見て、郷里には資産があるものと思っていたが、昭和十年の春俄に世を去った時、其家には古書と甲冑(かっちゅう)と盆裁との外、一銭の蓄(たくわえ)もなかった事を知った。
 この年銀座の表通は地下鉄道の工事最中で、夜店がなくなる頃から、凄じい物音が起り、工夫の恐しい姿が見え初めるので、翁とわたくしとの漫歩は、一たび尾張町の角まで運び出されても、すぐさま裏通に移され、おのずから芝口の方へと導かれるのであった。土橋(どばし)か難波橋(なにわばし)かをわたって省線のガードをくぐると、暗い壁の面(おもて)に、血盟団を釈放せよなど、不穏な語をつらねたいろいろの紙が貼ってあった。其下にはいつも乞食が寝ている。ガードの下を出ると歩道の片側に、「栄養の王座」など書いた看板を出し、四角な水槽(みずおけ)に鰻(うなぎ)を泳がせ釣針を売る露店が、幾軒となく桜田本郷町の四ツ角ちかくまで続いて、カフエー帰りの女給や、近所の遊人らしい男が大勢集っている。
 裏通へ曲ると、停車場の改札口と向い合った一条(ひとすじ)の路地があって、其両側に鮓(すし)屋と小料理屋が並んでいる。その中には一軒わたくしの知っている店もある。暖簾(のれん)に焼鳥金兵衛としるした家で、その女主人(おんなあるじ)は二十余年のむかし、わたくしが宗十郎町の芸者家に起臥していた頃、向側の家にいた名妓なにがしというものである。金兵衛の開店したのはたしか其年の春頃であるが、年々に繁昌して今は屋内を改築して見違えるようになっている。
 この路地には震災後も待合や芸者家が軒をつらねていたが、銀座通にカフエーの流行(はや)り始めた頃から、次第に飲食店が多くなって、夜半過に省線電車に乗る人と、カフエー帰りの男女とを目当に、大抵暁の二時ごろまで灯(あかり)を消さずにいる。鮨(すし)屋の店が多いので、鮨屋横町とよぶ人もある。
 わたくしは東京の人が夜半過ぎまで飲み歩くようになった其状況を眺める時、この新しい風習がいつ頃から起ったかを考えなければならない。
 吉原遊廓(ゆうかく)の近くを除いて、震災前(ぜん)東京の町中(まちじゅう)で夜半過ぎて灯を消さない飲食店は、蕎麦(そば)屋より外はなかった。
 帚葉翁はわたくしの質問に答えて、現代人が深夜飲食の楽しみを覚えたのは、省線電車が運転時間を暁一時過ぎまで延長したことと、市内一円の札を掲げた辻自動車が五十銭から三十銭まで値下げをした事とに基くのだと言って、いつものように眼鏡を取って、その細い眼を瞬(しばたた)きながら、「この有様を見たら、一部の道徳家は大に慨嘆するでしょうな。わたくしは酒を飲まないし、腥臭(なまぐさ)いものが嫌いですから、どうでも構いませんが、もし現代の風俗を矯正(きょうせい)しようと思うなら、交通を不便にして明治時代のようにすればいいのだと思います。そうでなければ夜半過ぎてから円タクの賃銭をグット高くすればいいでしょう。ところが夜おそくなればなるほど、円タクは昼間の半分よりも安くなるのですからね。」
「然し今の世の中のことは、これまでの道徳や何かで律するわけに行かない。何もかも精力発展の一現象だと思えば、暗殺も姦淫(かんいん)も、何があろうとさほど眉を顰(しか)めるにも及ばないでしょう。精力の発展と云ったのは慾望を追求する熱情と云う意味なんです。スポーツの流行、ダンスの流行、旅行登山の流行、競馬其他博奕(ばくえき)の流行、みんな慾望の発展する現象だ。この現象には現代固有の特徴があります。それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている――その心持です。優越を感じたいと思っている慾望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あったところで非常にすくないのです。これが大正時代に成長した現代人と、われわれとの違うところですよ。」
 円タクが喇叭を吹鳴(ふきなら)している路端(みちばた)に立って、長い議論もしていられないので、翁とわたくしとは丁度三四人の女給が客らしい男と連立ち、向側の鮓屋に入ったのを見て、その後(あと)につづいて暖簾をくぐった。現代人がいかなる処、いかなる場合にもいかに甚しく優越を争おうとしているかは、路地裏の鮓屋に於いても直(ただち)に之を見ることができる。
 彼等は店の内(なか)が込んでいると見るや、忽(たちま)ち鋭い眼付になって、空席を見出すと共に人込みを押分けて驀進(ばくしん)する。物をあつらえるにも人に先(さきん)じようとして大声を揚げ、卓子(たくし)を叩き、杖で床を突いて、給仕人を呼ぶ。中にはそれさえ待ち切れず立って料理場を窺(のぞ)き、直接料理人に命令するものもある。日曜日に物見遊山(ゆさん)に出掛け汽車の中の空席を奪取(うばいと)ろうがためには、プラットフームから女子供を突落す事を辞さないのも、こういう人達である。戦場に於て一番槍の手柄をなすのもこういう人達である。乗客の少い電車の中でも、こういう人達は五月人形のように股(また)を八の字に開いて腰をかけ、取れるだけ場所を取ろうとしている。
 何事をなすにも訓練が必要である。彼等はわれわれの如く徒歩して通学した者とはちがって、小学校へ通う時から雑沓(ざっとう)する電車に飛乗り、雑沓する百貨店や活動小屋の階段を上下して先を争うことに能(よ)く馴(な)らされている。自分の名を売るためには、自ら進んで全級の生徒を代表し、時の大臣や顕官に手紙を送る事を少しも恐れていない。自分から子供は無邪気だから何をしてもよい、何をしても咎(とが)められる理由はないものと解釈している。こういう子供が成長すれば人より先に学位を得んとし、人より先に職を求めんとし、人より先に富をつくろうとする。此努力が彼等の一生で、其外には何物もない。
 円タクの運転手もまた現代人の中(うち)の一人(いちにん)である。それ故わたくしは赤電車がなくなって、家に帰るため円タクに乗ろうとするに臨んでは、漠然たる恐怖を感じないわけには行かない。成るべく現代的優越の感を抱いていないように見える運転手を捜さなければならない。必要もないのに、先へ行く車を追越そうとする意気込の無さそうに見える運転手を捜さなければならない。若しこれを怠るならばわたくしの名は忽(たちまち)翌日の新聞紙上に交通禍の犠牲者として書立てられるであろう。
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 窓の外に聞える人の話声と箒(ほうき)の音とに、わたくしはいつもより朝早く眼をさました。臥床(ねどこ)の中から手を伸して枕もとに近い窓の幕を片よせると、朝日の光が軒を蔽(おお)う椎(しい)の茂みにさしこみ、垣根際に立っている柿の木の、取残された柿の実を一層(ひとしお)色濃く照している。箒の音と人の声とは隣の女中とわたくしの家の女中とが垣根越しに話をしながら、それぞれ庭の落葉を掃いているのであった。乾いた木(こ)の葉の々(そうそう)としてひびきを立てる音が、いつもより耳元ちかく聞えたのは、両方の庭を埋(うず)めた落葉が、両方ともに一度に掃き寄せられるためであった。
 わたくしは毎年冬の寝覚(ねざめ)に、落葉を掃く同じようなこの響をきくと、やはり毎年同じように、「老愁ハ葉ノ如ク掃(ハラ)ヘドモ尽キズタル声中又秋ヲ送ル。」と言った館柳湾(たちりゅうわん)の句を心頭に思浮べる。その日の朝も、わたくしは此句を黙誦(もくしょう)しながら、寝間着のまま起(た)って窓に倚(よ)ると、崖の榎(えのき)の黄ばんだ其葉も大方散ってしまった梢(こずえ)から、鋭い百舌(もず)の声がきこえ、庭の隅に咲いた石蕗花(つわぶき)の黄(きいろ)い花に赤蜻蛉(とんぼ)がとまっていた。赤蜻蛉は数知れず透明な其翼をきらきらさせながら青々と澄渡った空にも高く飛んでいる。
 曇りがちであった十一月の天気も二三日前の雨と風とにすっかり定(さだま)って、いよいよ「一年ノ好景君記取セヨ」と東坡(とうば)の言ったような小春の好時節になったのである。今まで、どうかすると、一筋二筋と糸のように残って聞えた虫の音も全く絶えてしまった。耳にひびく物音は悉(ことごと)く昨日(きのう)のものとは変って、今年の秋は名残りもなく過ぎ去ってしまったのだと思うと、寝苦しかった残暑の夜の夢も涼しい月の夜に眺めた景色も、何やら遠いむかしの事であったような気がして来る……年々見るところの景物に変りはない。年々変らない景物に対して、心に思うところの感懐もまた変りはないのである。花の散るが如く、葉の落(おつ)るが如く、わたくしには親しかった彼(か)の人々は一人一人相ついで逝(い)ってしまった。わたくしもまた彼の人々と同じように、その後を追うべき時の既に甚しくおそくない事を知っている。晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃(はら)いに行こう。落葉はわたくしの庭と同じように、かの人々の墓をも埋めつくしているのであろう。
昭和十一年丙子(ひのえね)十一月脱稿
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底本:「東綺譚」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年12月25日発行
   1978(昭和53)年4月10日40刷改版
   2007(平成19)年1月15日79刷
入力:米田
校正:阿部哲也
2011年1月26日作成
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