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纆东绮谭 永井荷风

永井荷风(日)
※纆東綺譚
永井荷風
+目次
+
+一
+二
+三
+四
+五
+六
+七
+八
+九
+十
+作後贅言(ぜいげん)

 わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない。
 おぼろ気な記憶をたどれば、明治三十年頃でもあろう。神田錦町(にしきちょう)に在った貸席錦輝館で、サンフランシスコ市街の光景を写したものを見たことがあった。活動写真という言葉のできたのも恐らくはその時分からであろう。それから四十余年を過ぎた今日(こんにち)では、活動という語(ことば)は既にすたれて他のものに代(かえ)られているらしいが、初めて耳にしたものの方が口馴れて言いやすいから、わたくしは依然としてむかしの廃語をここに用いる。
 震災の後(のち)、わたくしの家に遊びに来た青年作家の一人が、時勢におくれるからと言って、無理やりにわたくしを赤坂溜池(ためいけ)の活動小屋に連れて行ったことがある。何でも其(その)頃非常に評判の好いものであったというが、見ればモオパッサンの短篇小説を脚色したものであったので、わたくしはあれなら写真を看るにも及ばない。原作をよめばいい。その方がもっと面白いと言ったことがあった。
 然し活動写真は老弱(ろうにゃく)の別(わかち)なく、今の人の喜んでこれを見て、日常の話柄(わへい)にしているものであるから、せめてわたくしも、人が何の話をしているのかと云うくらいの事は分るようにして置きたいと思って、活動小屋の前を通りかかる時には看板の画と名題とには勉(つと)めて目を向けるように心がけている。看板を一瞥(べつ)すれば写真を見ずとも脚色の梗概も想像がつくし、どういう場面が喜ばれているかと云う事も会得せられる。
 活動写真の看板を一度に最(もっとも)多く一瞥する事のできるのは浅草公園である。ここへ来ればあらゆる種類のものを一ト目に眺めて、おのずから其巧拙をも比較することができる。わたくしは下谷(したや)浅草の方面へ出掛ける時には必ず思出して公園に入り杖(つえ)を池の縁(ふち)に曳(ひ)く。
 夕風も追々寒くなくなって来た或日のことである。一軒々々入口の看板を見尽して公園のはずれから千束町(せんぞくまち)へ出たので。右の方は言問橋(ことといばし)左の方は入谷町(いりやまち)、いずれの方へ行こうかと思案しながら歩いて行くと、四十前後の古洋服を着た男がいきなり横合から現れ出て、
「檀那(だんな)、御紹介しましょう。いかがです。」と言う。
「イヤありがとう。」と云って、わたくしは少し歩調を早めると、
「絶好のチャンスですぜ。猟奇的ですぜ。檀那。」と云って尾(つ)いて来る。
「いらない。吉原へ行くんだ。」
 ぽん引(びき)と云うのか、源氏というのかよく知らぬが、とにかく怪し気な勧誘者を追払うために、わたくしは口から出まかせに吉原へ行くと言ったのであるが、行先の定(さだま)らない散歩の方向は、却(かえっ)てこれがために決定せられた。歩いて行く中(うち)わたくしは土手下の裏町に古本屋を一軒知っていることを思出した。
 古本屋の店は、山谷堀(さんやぼり)の流が地下の暗渠(あんきょ)に接続するあたりから、大門前(おおもんまえ)日本堤橋(にほんづつみばし)のたもとへ出ようとする薄暗い裏通に在る。裏通は山谷堀の水に沿うた片側町で、対岸は石垣の上に立続く人家の背面に限られ、此方(こなた)は土管、地瓦(ちがわら)、川土、材木などの問屋が人家の間に稍(やや)広い店口を示しているが、堀の幅の狭くなるにつれて次第に貧気(まずしげ)な小家(こいえ)がちになって、夜は堀にかけられた正法寺橋(しょうほうじばし)、山谷橋(さんやばし)、地方橋(じかたばし)、髪洗橋(かみあらいばし)などいう橋の灯(ひ)がわずかに道を照すばかり。堀もつき橋もなくなると、人通りも共に途絶えてしまう。この辺で夜も割合におそくまで灯(あかり)をつけている家は、かの古本屋と煙草を売る荒物屋ぐらいのものであろう。
 わたくしは古本屋の名は知らないが、店に積んである品物は大抵知っている。創刊当時の文芸倶楽部(クラブ)か古いやまと新聞の講談附録でもあれば、意外の掘出物だと思わなければならない。然しわたくしがわざわざ廻り道までして、この店をたずねるのは古本の為(ため)ではなく、古本を鬻(ひさ)ぐ亭主の人柄と、廓外(くるわそと)の裏町という情味との為である。
 主人(あるじ)は頭を綺麗に剃(そ)った小柄の老人。年は無論六十を越している。その顔立、物腰、言葉使から着物の着様に至るまで、東京の下町生粋(きっすい)の風俗を、そのまま崩さずに残しているのが、わたくしの眼には稀覯(きこう)の古書よりも寧(むし)ろ尊くまた懐しく見える。震災のころまでは芝居や寄席(よせ)の楽屋に行くと一人や二人、こういう江戸下町の年寄に逢うことができた――たとえば音羽(おとわ)屋の男衆(おとこしゅ)の留爺(とめじい)やだの、高嶋屋の使っていた市蔵などいう年寄達であるが、今はいずれもあの世へ行ってしまった。
 古本屋の亭主は、わたくしが店先の硝子(ガラス)戸をあける時には、いつでもきまって、中仕切(なかじきり)の障子際(ぎわ)にきちんと坐り、円い背を少し斜に外の方へ向け、鼻の先へ落ちかかる眼鏡をたよりに、何か読んでいる。わたくしの来る時間も大抵夜の七八時ときまっているが、その度毎に見る老人(としより)の坐り場所も其の形も殆どきまっている。戸の明く音に、折かがんだまま、首だけひょいと此方(こなた)へ向け、「おや、入らっしゃいまし。」と眼鏡をはずし、中腰になって坐布団の塵(ちり)をぽんと叩(たた)き、匐(は)うような腰付で、それを敷きのべながら、さて丁寧に挨拶をする。其言葉も様子もまた型通りに変りがない。
「相変らず何も御在(ござい)ません。お目にかけるようなものは。そうそうたしか芳譚(ほうたん)雑誌がありました。揃(そろ)っちゃ居りませんが。」
「為永春江(ためながしゅんこう)の雑誌だろう。」
「へえ。初号がついて居りますから、まアお目にかけられます。おや、どこへ置いたかな。」と壁際に積重ねた古本の間から合本(がっぽん)五六冊を取出し、両手でぱたぱた塵をはたいて差出すのを、わたくしは受取って、
「明治十二年御届としてあるね。この時分の雑誌をよむと、生命(いのち)が延(のび)るような気がするね。魯(ろ)文珍報も全部揃ったのがあったら欲しいと思っているんだが。」
「時々出るにゃ出ますが、大抵ばらばらで御在ましてな。檀那、花月新誌はお持合せでいらっしゃいますか。」
「持っています。」
 硝子戸の明く音がしたので、わたくしは亭主と共に見返ると、これも六十あまり。頬のこけた禿頭(はげあたま)の貧相な男が汚れた縞(しま)の風呂敷包を店先に並べた古本の上へ卸しながら、
「つくづく自動車はいやだ。今日はすんでの事に殺されるところさ。」
「便利で安くってそれで間違いがないなんて、そんなものは滅多にないよ。それでも、お前さん。怪我アしなさらなかったか。」
「お守(まもり)が割れたおかげで無事だった。衝突したなア先へ行くバスと円タクだが、思出してもぞっとするね。実は今日鳩(はと)ヶ谷(や)の市(いち)へ行ったんだがね、妙な物を買った。昔の物はいいね。さし当り捌口(はけくち)はないんだが見るとつい道楽がしたくなる奴さ。」
 禿頭は風呂敷包を解き、女物らしい小紋の単衣(ひとえ)と胴抜(どうぬき)の長襦袢(じゅばん)を出して見せた。小紋は鼠地の小浜ちりめん、胴抜の袖(そで)にした友禅染も一寸(ちょっと)変ったものではあるが、いずれも維新前後のものらしく特に古代という程の品ではない。
 然し浮世絵肉筆物の表装とか、近頃はやる手文庫の中張(うちば)りとか、又草双紙(くさぞうし)の帙(ちつ)などに用いたら案外いいかも知れないと思ったので、其場の出来心からわたくしは古雑誌の勘定をするついでに胴抜の長襦袢一枚を買取り、坊主頭の亭主が芳譚雑誌の合本と共に紙包にしてくれるのを抱えて外へ出た。
 日本堤を往復する乗合自動車に乗るつもりで、わたくしは暫く大門前の停留場に立っていたが、流しの円タクに声をかけられるのが煩(うるさ)いので、もと来た裏通へ曲り、電車と円タクの通らない薄暗い横町を択(えら)み択み歩いて行くと、忽ち樹の間から言問橋の灯(あかり)が見えるあたりへ出た。川端の公園は物騒だと聞いていたので、川の岸までは行かず、電燈の明るい小径(こみち)に沿うて、鎖の引廻してある其上に腰をかけた。
 実は此方(こっち)への来がけに、途中で食麺麭(しょくパン)と鑵詰(かんづめ)とを買い、風呂敷へ包んでいたので、わたくしは古雑誌と古着とを一つに包み直して見たが、風呂敷がすこし小さいばかりか、堅い物と柔いものとはどうも一緒にはうまく包めない。結局鑵詰だけは外套(がいとう)のかくしに収め、残の物を一つにした方が持ちよいかと考えて、芝生の上に風呂敷を平(たいら)にひろげ、頻(しきり)に塩梅(あんばい)を見ていると、いきなり後(うしろ)の木蔭から、「おい、何をしているんだ。」と云いさま、サアベルの音と共に、巡査が現れ、猿臂(えんぴ)を伸してわたくしの肩を押えた。
 わたくしは返事をせず、静に風呂敷の結目(むすびめ)を直して立上ると、それさえ待どしいと云わぬばかり、巡査は後からわたくしの肱(ひじ)を突き、「其方(そっち)へ行け。」
 公園の小径をすぐさま言問橋の際(きわ)に出ると、巡査は広い道路の向側に在る派出所へ連れて行き立番の巡査にわたくしを引渡したまま、急(いそが)しそうにまた何処(どこ)へか行ってしまった。
 派出所の巡査は入口に立ったまま、「今時分、何処から来たんだ。」と尋問に取りかかった。
「向(むこう)の方から来た。」
「向の方とは何方(どっち)の方だ。」
「堀の方からだ。」
「堀とはどこだ。」
「真土山(まつちやま)の麓(ふもと)の山谷堀という川だ。」
「名は何と云う。」
「大江匡(おおえただす)。」と答えた時、巡査は手帳を出したので、「匡(ただす)は匚(はこ)に王の字をかきます。一タビ天下ヲ匡スと論語にある字です。」
 巡査はだまれと言わぬばかり、わたくしの顔を睨(にら)み、手を伸していきなりわたくしの外套の釦(ぼたん)をはずし、裏を返して見て、
「記号(しるし)はついていないな。」つづいて上着の裏を見ようとする。
「記章(しるし)とはどう云う記章です。」とわたくしは風呂敷包を下に置いて、上着と胴着(チョッキ)の胸を一度にひろげて見せた。
「住所は。」
「麻布区御箪笥町(おたんすまち)一丁目六番地。」
「職業は。」
「何(なん)にもしていません。」
「無職業か。年はいくつだ。」
「己(つちのと)の卯(う)です。」
「いくつだよ。」
「明治十二年己の卯の年。」それきり黙っていようかと思ったが、後(あと)がこわいので、「五十八。」
「いやに若いな。」
「へへへへ。」
「名前は何と云ったね。」
「今言いましたよ。大江匡。」
「家族はいくたりだ。」
「三人。」と答えた。実は独身であるが、今日(こんにち)までの経験で、事実を云うと、いよいよ怪しまれる傾(かたむき)があるので、三人と答えたのである。
「三人と云うのは奥さんと誰だ。」巡査の方がいい様に解釈してくれる。
「嚊(かか)アとばばア。」
「奥さんはいくつだ。」
 一寸窮(こま)ったが、四五年前まで姑(しばら)く関係のあった女の事を思出して、「三十一。明治三十九年七月十四日生丙午(ひのえうま)……。」
 若(も)し名前をきかれたら、自作の小説中にある女の名を言おうと思ったが、巡査は何(なん)にも云わず、外套や背広のかくしを上から押え、
「これは何だ。」
「パイプに眼鏡。」
「うむ。これは。」
「鑵詰。」
「これは、紙入だね。鳥渡(ちょっと)出して見せたまえ。」
「金がはいって居ますよ。」
「いくら這入(はい)っている。」
「サア二三十円もありましょうかな。」
 巡査は紙入を抜き出したが中は改めずに電話機の下に据えた卓子(テイブル)の上に置き、「その包は何だ。こっちへ這入ってほどいて見せたまえ。」
 風呂敷包を解くと紙につつんだ麺麭と古雑誌まではよかったが、胴抜の艶(なまめか)しい長襦袢の片袖がだらりと下るや否や、巡査の態度と語調とは忽(たちまち)一変して、
「おい、妙なものを持っているな。」
「いや、ははははは。」とわたくしは笑い出した。
「これア女のきるもんだな。」巡査は長襦袢を指先に摘(つま)み上げて、燈火にかざしながら、わたくしの顔を睨み返して、「どこから持って来た。」
「古着屋から持って来た。」
「どうして持って来た。」
「金を出して買った。」
「それはどこだ。」
「吉原の大門前。」
「いくらで買った。」
「三円七十銭。」
 巡査は長襦袢を卓子の上に投捨てたなり黙ってわたくしの顔を見ているので、大方警察署へ連れて行って豚箱へ投込むのだろうと、初(はじめ)のようにからかう勇気がなくなり、此方(こっち)も巡査の様子を見詰めていると、巡査はやはりだまったままわたくしの紙入を調べ出した。紙入には入れ忘れたまま折目の破れた火災保険の仮証書と、何かの時に入用であった戸籍抄本に印鑑証明書と実印とが這入っていたのを、巡査は一枚々々静にのべひろげ、それから実印を取って篆刻(てんこく)した文字を燈火(あかり)にかざして見たりしている。大分暇がかかるので、わたくしは入口に立ったまま道路の方へ目を移した。
 道路は交番の前で斜に二筋に分れ、その一筋は南千住、一筋は白髯橋(しらひげばし)の方へ走り、それと交叉して浅草公園裏の大通が言問橋を渡るので、交通は夜になってもなかなか頻繁(ひんぱん)であるが、どういうことか、わたくしの尋問されるのを怪しんで立止る通行人は一人もない。向側の角のシャツ屋では女房らしい女と小僧とがこっちを見ていながら更に怪しむ様子もなく、そろそろ店をしまいかけた。
「おい。もういいからしまいたまえ。」
「別に入用なものでもありませんから……。」呟(つぶや)きながらわたくしは紙入をしまい風呂敷包をもとのように結んだ。
「もう用はありませんか。」
「ない。」
「御苦労さまでしたな。」わたくしは巻煙草も金口のウエストミンスターにマッチの火をつけ、薫(かおり)だけでもかいで置けと云わぬばかり、烟(けむり)を交番の中へ吹き散して足の向くまま言問橋の方へ歩いて行った。後で考えると、戸籍抄本と印鑑証明書とがなかったなら、大方その夜は豚箱へ入れられたに相違ない。一体古着は気味のわるいものだ。古着の長襦袢が祟(たた)りそこねたのである。

「失踪(しっそう)」と題する小説の腹案ができた。書き上げることができたなら、この小説はわれながら、さほど拙劣なものでもあるまいと、幾分か自信を持っているのである。
 小説中の重要な人物を、種田順平(たねだじゅんぺい)という。年五十余歳、私立中学校の英語の教師である。
 種田は初婚の恋女房に先立たれてから三四年にして、継妻(けいさい)光子(みつこ)を迎えた。
 光子は知名の政治家某(なにがし)の家に雇われ、夫人付の小間使となったが、主人に欺かれて身重になった。主家では其(その)執事遠藤某をして後の始末をつけさせた。其条件は光子が無事に産をしたなら二十個年子供の養育費として毎月五拾円を送る。其代り子供の戸籍については主家では全然与(あずか)り知らない。又光子が他へ嫁(か)する場合には相当の持参金を贈ると云うような事であった。
 光子は執事遠藤の家へ引取られ男の児を産んで六十日たつか経たぬ中(うち)やはり遠藤の媒介(なかだち)で中学校の英語教師種田順平なるものの後妻となった。時に光子は十九、種田は三十歳であった。
 種田は初めの恋女房を失ってから、薄給な生活の前途に何の希望をも見ず、中年に近(ちかづ)くに従って元気のない影のような人間になっていたが、旧友の遠藤に説きすすめられ、光子母子(おやこ)の金にふと心が迷って再婚をした。其時子供は生れたばかりで戸籍の手続もせずにあったので、遠藤は光子母子の籍を一緒に種田の家に移した。それ故後(のち)になって戸籍を見ると、種田夫婦は久しく内縁の関係をつづけていた後、長男が生れた為、初めて結婚入籍の手続をしたもののように思われる。
 二年たって女の児が生れ、つづいて又男の児が生れた。
 表向は長男で、実は光子の連子(つれこ)になる為年(ためとし)が丁年になった時、多年秘密の父から光子の手許(てもと)に送られていた教育費が途絶えた。約束の年限が終ったばかりではない。実父は先年病死し、其夫人もまたつづいて世を去った故である。
 長女芳子と季児(すえこ)為秋(ためあき)の成長するに従って生活費は年々多くなり、種田は二三軒夜学校を掛持ちして歩かねばならない。
 長男為年は私立大学に在学中、スポーツマンとなって洋行する。妹芳子は女学校を卒業するや否や活動女優の花形となった。
 継妻光子は結婚当時は愛くるしい円顔であったのがいつか肥満した婆(ばば)となり、日蓮宗に凝りかたまって、信徒の団体の委員に挙げられている。
 種田の家は或時は宛(さなが)ら講中の寄合所、或時は女優の遊び場、或時はスポーツの練習場もよろしくと云う有様。その騒(さわが)しさには台所にも鼠が出ないくらいである。
 種田はもともと気の弱い交際嫌いな男なので、年を取るにつれて家内の喧騒には堪えられなくなる。妻子の好むものは悉(ことごと)く種田の好まぬものである。種田は家族の事については勉めて心を留めないようにした。おのれの妻子を冷眼に視るのが、気の弱い父親のせめてもの復讐(ふくしゅう)であった。
 五十一歳の春、種田は教師の職を罷(や)められた。退職手当を受取った其日、種田は家にかえらず、跡をくらましてしまった。
 是(これ)より先、種田は嘗(かつ)て其家に下女奉公に来た女すみ子と偶然電車の中で邂逅(かいこう)し、其女が浅草駒形町(あさくさこまがたまち)のカフエーに働いている事を知り、一二度おとずれてビールの酔を買った事がある。
 退職手当の金をふところにした其夜である。種田は初て女給すみ子の部屋借をしているアパートに行き、事情を打明けて一晩泊めてもらった……。
        *        *        *
 それから先どういう風に物語の結末をつけたらいいものか、わたくしはまだ定案を得ない。
 家族が捜索願を出す。種田が刑事に捕えられて説諭せられる。中年後に覚えた道楽は、むかしから七ツ下りの雨に譬(たと)えられているから、種田の末路はわけなくどんなにでも悲惨にすることが出来るのだ。
 わたくしはいろいろに種田の堕落して行く道筋と、其折々の感情とを考えつづけている。刑事につかまって拘引(こういん)されて行く時の心持、妻子に引渡された時の当惑と面目なさ。其身になったらどんなものだろう。わたくしは山谷の裏町で女の古着を買った帰り道、巡査につかまり、路端の交番で厳しく身元を調べられた。この経験は種田の心理を描写するには最も都合の好い資料である。
 小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とである。わたくしは屡(しばしば)人物の性格よりも背景の描写に重きを置き過るような誤(あやまち)に陥ったこともあった。
 わたくしは東京市中、古来名勝の地にして、震災の後新しき町が建てられて全く旧観を失った、其状況を描写したいが為に、種田先生の潜伏する場所を、本所か深川か、もしくは浅草のはずれ。さなくば、それに接した旧郡部の陋巷(ろうこう)に持って行くことにした。
 これまで折々の散策に、砂町や亀井戸や、小松川、寺島町(てらじままち)あたりの景況には大略通じているつもりであったが、いざ筆を着けようとすると、俄(にわか)に観察の至らない気がして来る。曾(かつ)て、(明治三十五六年の頃)わたくしは深川洲崎遊廓(すさきゆうかく)の娼妓を主題にして小説をつくった事があるが、その時これを読んだ友人から、「洲崎遊廓の生活を描写するのに、八九月頃の暴風雨や海嘯(つなみ)のことを写さないのは杜撰(ずさん)の甚(はなはだ)しいものだ。作者先生のお通いなすった甲子楼(きのえねろう)の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなかろう。」と言われた。背景の描写を精細にするには季節と天候とにも注意しなければならない。例えばラフカジオ、ハーン先生の名著チタ或はユーマの如くに。
 六月末の或夕方である。梅雨(ばいう)はまだ明けてはいないが、朝から好く晴れた空は、日の長いころの事で、夕飯をすましても、まだたそがれようともしない。わたくしは箸(はし)を擱(お)くと共にすぐさま門を出(い)で、遠く千住(せんじゅ)なり亀井戸なり、足の向く方へ行って見るつもりで、一先(ひとまず)電車で雷門(かみなりもん)まで往(ゆ)くと、丁度折好く来合せたのは寺島玉の井としてある乗合自動車である。
 吾妻橋(あづまばし)をわたり、広い道を左に折れて源森橋(げんもりばし)をわたり、真直に秋葉神社の前を過ぎて、また姑(しばら)く行くと車は線路の踏切でとまった。踏切の両側には柵(さく)を前にして円タクや自転車が幾輛となく、貸物列車のゆるゆる通り過るのを待っていたが、歩く人は案外少く、貧家の子供が幾組となく群(むれ)をなして遊んでいる。降りて見ると、白髯橋から亀井戸の方へ走る広い道が十文字に交錯している。ところどころ草の生えた空地(あきち)があるのと、家並(やなみ)が低いのとで、どの道も見分(みわけ)のつかぬほど同じように見え、行先はどこへ続くのやら、何となく物淋しい気がする。
 わたくしは種田先生が家族を棄てて世を忍ぶ処を、この辺の裏町にして置いたら、玉の井の盛場(さかりば)も程近いので、結末の趣向をつけるにも都合がよかろうと考え、一町ほど歩いて狭い横道へ曲って見た。自転車も小脇に荷物をつけたものは、摺(す)れちがう事が出来ないくらいな狭い道で、五六歩行くごとに曲っているが、両側とも割合に小綺麗な耳門(くぐりもん)のある借家が並んでいて、勤先からの帰りとも見える洋服の男や女が一人二人ずつ前後して歩いて行く。遊んでいる犬を見ても首環に鑑札がつけてあって、左程汚(きたな)らしくもない。忽(たちまち)にして東武鉄道玉の井停車場の横手に出た。
 線路の左右に樹木の鬱然と生茂(おいしげ)った広大な別荘らしいものがある。吾妻橋からここに来るまで、このように老樹の茂林(もりん)をなした処は一箇所もない。いずれも久しく手入をしないと見えて、匐(は)いのぼる蔓草(つるくさ)の重さに、竹藪(たけやぶ)の竹の低くしなっているさまや、溝際(どぶぎわ)の生垣に夕顔の咲いたのが、いかにも風雅に思われてわたくしの歩みを引止(ひきとど)めた。
 むかし白髯さまのあたりが寺島村だという話をきくと、われわれはすぐに五代目菊五郎の別荘を思出したものであるが、今日(こんにち)たまたまこの処にこのような庭園が残ったのを目にすると、そぞろに過ぎ去った時代の文雅を思起さずには居られない。
 線路に沿うて売貸地の札を立てた広い草原が鉄橋のかかった土手際に達している。去年頃まで京成(けいせい)電車の往復していた線路の跡で、崩れかかった石段の上には取払われた玉の井停車場の跡が雑草に蔽(おお)われて、此方(こなた)から見ると城址(しろあと)のような趣をなしている。
 わたくしは夏草をわけて土手に登って見た。眼の下には遮(さえぎ)るものもなく、今歩いて来た道と空地と新開の町とが低く見渡されるが、土手の向側は、トタン葺(ぶき)の陋屋(ろうおく)が秩序もなく、端(はて)しもなく、ごたごたに建て込んだ間から湯屋の烟突(えんとつ)が屹立(きつりつ)して、その頂きに七八日(ななようか)頃の夕日が懸っている。空の一方には夕栄(ゆうばえ)の色が薄く残っていながら、月の色には早くも夜らしい輝きができ、トタン葺の屋根の間々からはネオンサインの光と共にラディオの響が聞え初める。
 わたくしは脚下(あしもと)の暗くなるまで石の上に腰をかけていたが、土手下の窓々にも灯がついて、むさくるしい二階の内(なか)がすっかり見下されるようになったので、草の間に残った人の足跡を辿(たど)って土手を降りた。すると意外にも、其処はもう玉の井の盛場を斜に貫く繁華な横町の半程(なかほど)で、ごたごた建て連った商店の間の路地口には「ぬけられます」とか、「安全通路」とか、「京成バス近道」とか、或は「オトメ街」或は「賑本通(にぎわいほんどおり)」など書いた灯がついている。
 大分その辺を歩いた後、わたくしは郵便箱の立っている路地口の煙草屋で、煙草を買い、五円札の剰銭(つり)を待っていた時である。突然、「降ってくるよ。」と叫びながら、白い上ッ張を着た男が向側のおでん屋らしい暖簾(のれん)のかげに馳(か)け込むのを見た。つづいて割烹着(かっぽうぎ)の女や通りがかりの人がばたばた馳け出す。あたりが俄に物気立(ものけだ)つかと見る間もなく、吹落る疾風に葭簀(よしず)や何かの倒れる音がして、紙屑と塵芥(ごみ)とが物の怪(け)のように道の上を走って行く。やがて稲妻が鋭く閃(ひらめ)き、ゆるやかな雷(らい)の響につれて、ポツリポツリと大きな雨の粒が落ちて来た。あれほど好く晴れていた夕方の天気は、いつの間にか変ってしまったのである。
 わたくしは多年の習慣で、傘(かさ)を持たずに門を出ることは滅多にない。いくら晴れていても入梅中のことなので、其日も無論傘と風呂敷とだけは手にしていたから、さして驚きもせず、静にひろげる傘の下から空と町のさまとを見ながら歩きかけると、いきなり後方(うしろ)から、「檀那、そこまで入れてってよ。」といいさま、傘の下に真白な首を突込んだ女がある。油の匂(におい)で結ったばかりと知られる大きな潰島田(つぶし)には長目に切った銀糸(ぎんし)をかけている。わたくしは今方通りがかりに硝子(ガラス)戸を明け放した女髪結(かみゆい)の店のあった事を思出した。
 吹き荒れる風と雨とに、結立(ゆいたて)の髷(まげ)にかけた銀糸の乱れるのが、いたいたしく見えたので、わたくしは傘をさし出して、「おれは洋服だからかまわない。」
 実は店つづきの明い燈火に、さすがのわたくしも相合傘(あいあいがさ)には少しく恐縮したのである。
「じゃ、よくって。すぐ、そこ。」と女は傘の柄につかまり、片手に浴衣(ゆかた)の裾(すそ)を思うさままくり上げた。

 稲妻がまたぴかりと閃き、雷がごろごろと鳴ると、女はわざとらしく「あら」と叫び、一歩(ひとあし)後(おく)れて歩こうとするわたくしの手を取り、「早くさ。あなた。」ともう馴れ馴れしい調子である。
「いいから先へお出で。ついて行くから。」
 路地へ這入ると、女は曲るたび毎に、迷わぬようにわたくしの方に振返りながら、やがて溝(どぶ)にかかった小橋をわたり、軒並一帯に葭簀(よしず)の日蔽(ひおい)をかけた家の前に立留った。
「あら、あなた。大変に濡れちまったわ。」と傘をつぼめ、自分のものよりも先に掌(てのひら)でわたくしの上着の雫(しずく)を払う。
「ここがお前の家(うち)か。」
「拭(ふ)いて上げるから、寄っていらっしゃい。」
「洋服だからいいよ。」
「拭いて上げるっていうのにさ。わたしだってお礼がしたいわよ。」
「どんなお礼だ。」
「だから、まアお這入んなさい。」
 雷(かみなり)の音は少し遠くなったが、雨は却て礫(つぶて)を打つように一層激しく降りそそいで来た。軒先に掛けた日蔽の下に居ても跳上(はねあが)る飛沫(しぶき)の烈しさに、わたくしはとやかく言う暇(いとま)もなく内へ這入った。
 荒い大阪格子を立てた中仕切へ、鈴のついたリボンの簾(すだれ)が下げてある。其下の上框(あがりがまち)に腰をかけて靴を脱ぐ中(うち)に女は雑巾(ぞうきん)で足をふき、端折(はしょ)った裾もおろさず下座敷の電燈をひねり、
「誰もいないから、お上んなさい。」
「お前一人か。」
「ええ。昨夜(ゆうべ)まで、もう一人居たのよ。住替(すみかえ)に行ったのよ。」
「お前さんが御主人かい。」
「いいえ。御主人は別の家(うち)よ。玉の井館ッて云う寄席(よせ)があるでしょう。その裏に住宅(すまい)があるのよ。毎晩十二時になると帳面を見にくるわ。」
「じゃアのん気だね。」わたくしはすすめられるがまま長火鉢の側(そば)に坐り、立膝(たてひざ)して茶を入れる女の様子を見やった。
 年は二十四五にはなっているであろう。なかなかいい容貌(きりょう)である。鼻筋の通った円顔は白粉焼(おしろいやけ)がしているが、結立(ゆいたて)の島田の生際(はえぎわ)もまだ抜上(ぬけあが)ってはいない。黒目勝の眼の中も曇っていず唇や歯ぐきの血色を見ても、其健康はまださして破壊されても居ないように思われた。
「この辺は井戸か水道か。」とわたくしは茶を飲む前に何気なく尋ねた。井戸の水だと答えたら、茶は飲む振りをして置く用意である。
 わたくしは花柳病よりも寧(むしろ)チブスのような伝染病を恐れている。肉体的よりも夙(はや)くから精神的廢人になったわたくしの身には、花柳病の如き病勢の緩慢なものは、老後の今日、さして気にはならない。
「顔でも洗うの。水道なら其処(そこ)にあるわ。」と女の調子は極めて気軽である。
「うむ。後でいい。」
「上着だけおぬぎなさい。ほんとに随分濡れたわね。」
「ひどく降ってるな。」
「わたし雷さまより光るのがいやなの。これじゃお湯にも行けやしない。あなた。まだいいでしょう。わたし顔だけ洗って御化粧(おしまい)してしまうから。」
 女は口をゆがめて、懐紙(ふところがみ)で生際の油をふきながら、中仕切の外の壁に取りつけた洗面器の前に立った。リボンの簾越しに、両肌(もろはだ)をぬぎ、折りかがんで顔を洗う姿が見える。肌は顔よりもずっと色が白く、乳房の形で、まだ子供を持った事はないらしい。
「何だか檀那になったようだな。こうしていると。箪笥(たんす)はあるし、茶棚はあるし……。」
「あけて御覧なさい。お芋か何かある筈よ。」
「よく片づいているな。感心だ。火鉢の中なんぞ。」
「毎朝、掃除だけはちゃんとしますもの。わたし、こんな処にいるけれど、世帯持は上手なのよ。」
「長くいるのかい。」
「まだ一年と、ちょっと……。」
「この土地が初めてじゃないんだろう。芸者でもしていたのかい。」
 汲(く)みかえる水の音に、わたくしの言うことが聞えなかったのか、又は聞えない振りをしたのか、女は何とも答えず、肌ぬぎのまま、鏡台の前に坐り毛筋棒(けすき)で鬢(びん)を上げ、肩の方から白粉をつけ初める。
「どこに出ていたんだ。こればかりは隠せるものじゃない。」
「そう……でも東京じゃないわ。」
「東京のいまわりか。」
「いいえ。ずっと遠く……。」
「じゃ、満洲……。」
「宇都の宮にいたの。着物もみんなその時分のよ。これで沢山だわねえ。」と言いながら立上って、衣紋竹(えもんだけ)に掛けた裾模様の単衣物(ひとえ)に着かえ、赤い弁慶縞の伊達締(だてじめ)を大きく前で結ぶ様子は、少し大き過る潰島田の銀糸とつりあって、わたくしの目にはどうやら明治年間の娼妓のように見えた。女は衣紋を直しながらわたくしの側に坐り、茶ぶ台の上からバットを取り、
「縁起だから御祝儀(しゅうぎ)だけつけて下さいね。」と火をつけた一本を差出す。
 わたくしは此の土地の遊び方をまんざら知らないのでもなかったので、
「五十銭だね。おぶ代(だい)は。」
「ええ。それはおきまりの御規則通りだわ。」と笑いながら出した手の平を引込まさず、そのまま差伸している。
「じゃ、一時間ときめよう。」
「すみませんね。ほんとうに。」
「その代り。」と差出した手を取って引寄せ、耳元に囁(ささや)くと、
「知らないわよ。」と女は目を見張って睨(にらみ)返し、「馬鹿。」と言いさまわたくしの肩を撲(う)った。
 為永春水(ためながしゅんすい)の小説を読んだ人は、作者が叙事のところどころに自家弁護の文を挾(さしはさ)んでいることを知っているであろう。初恋の娘が恥しさを忘れて思う男に寄添うような情景を書いた時には、その後で、読者はこの娘がこの場合の様子や言葉使のみを見て、淫奔娘(いたずらもの)だと断定してはならない。深窓の女(じょ)も意中を打明ける場合には芸者も及ばぬ艶(なまめか)しい様子になることがある。また、既に里馴れた遊女が偶然幼馴染(おさななじみ)の男にめぐり会うところを写した時には、商売人(くろと)でも斯(こ)う云う時には娘のようにもじもじするもので、これはこの道の経験に富んだ人達の皆承知しているところで、作者の観察の至らないわけではないのだから、そのつもりでお読みなさいと云うような事が書添えられている。
 わたくしは春水に倣(なら)って、ここに剰語を加える。読者は初めて路傍で逢った此女(このおんな)が、わたくしを遇する態度の馴々し過るのを怪しむかも知れない。然しこれは実地の遭遇を潤色せずに、そのまま記述したのに過ぎない。何の作意も無いのである。驟雨(しゅうう)雷鳴から事件の起ったのを見て、これまた作者常套(じょうとう)の筆法だと笑う人もあるだろうが、わたくしは之を慮(おもんばか)るがために、わざわざ事を他に設けることを欲しない。夕立が手引をした此夜の出来事が、全く伝統的に、お誂(あつらい)通りであったのを、わたくしは却て面白く思い、実はそれが書いて見たいために、この一篇に筆を執り初めたわけである。
 一体、この盛場の女は七八百人と数えられているそうであるが、その中に、島田や丸髷に結っているものは、十人に一人くらい。大体は女給まがいの日本風と、ダンサア好みの洋装とである。雨宿(あまやどり)をした家の女が極く少数の旧風に属していた事も、どうやら陳腐の筆法に適当しているような心持がして、わたくしは事実の描写を傷(きずつ)けるに忍びなかった。
 雨は歇(や)まない。
 初め家(うち)へ上った時には、少し声を高くしなければ話が聞きとれない程の降り方であったが、今では戸口へ吹きつける風の音も雷(かみなり)の響も歇んで、亜鉛葺(とたんぶき)の屋根を撲つ雨の音と、雨だれの落ちる声ばかりになっている。路地には久しく人の声も跫音(あしおと)も途絶えていたが、突然、
「アラアラ大変だ。きいちゃん。鰌(どじょう)が泳いでるよ。」という黄いろい声につれて下駄の音がしだした。
 女はつと立ってリボンの間から土間の方を覗(のぞ)き、「家(うち)は大丈夫だ。溝(どぶ)があふれると、此方(こっち)まで水が流れてくるんですよ。」
「少しは小降りになったようだな。」
「宵の口に降るとお天気になっても駄目なのよ。だから、ゆっくりしていらっしゃい。わたし、今の中(うち)に御飯たべてしまうから。」
 女は茶棚の中から沢庵漬(たくあんづけ)を山盛りにした小皿と、茶漬茶碗と、それからアルミの小鍋を出して、鳥渡(ちょっと)蓋(ふた)をあけて匂をかぎ、長火鉢の上に載せるのを、何かと見れば薩摩芋(さつまいも)の煮たのである。
「忘れていた。いいものがある。」とわたくしは京橋で乗換の電車を待っていた時、浅草海苔(のり)を買ったことを思い出して、それを出した。
「奥さんのお土産(みやげ)。」
「おれは一人なんだよ。食べるものは自分で買わなけれア。」
「アパートで彼女と御一緒。ほほほほほ。」
「それなら、今時分うろついちゃア居られない。雨でも雷でも、かまわず帰るさ。」
「そうねえ。」と女はいかにも尤(もっとも)だと云うような顔をして暖くなりかけたお鍋の蓋を取り、「一緒にどう。」
「もう食べて来た。」
「じゃア、あなたは向(むこう)をむいていらっしゃい。」
「御飯は自分で炊くのかい。」
「住宅(すまい)の方から、お昼と夜の十二時に持って来てくれるのよ。」
「お茶を入れ直そうかね。お湯がぬるい。」
「あら。はばかりさま。ねえ。あなた。話をしながら御飯をたべるのは楽しみなものね。」
「一人ッきりの、すっぽり飯はいやだな。」
「全くよ。じゃア、ほんとにお一人。かわいそうねえ。」
「察しておくれだろう。」
「いいの、さがして上げるわ。」
 女は茶漬を二杯ばかり。何やらはしゃいだ調子で、ちゃらちゃらと茶碗の中で箸をゆすぎ、さも急(いそが)しそうに皿小鉢を手早く茶棚にしまいながらも、顎(おとがい)を動して込上げる沢庵漬のおくびを押えつけている。
 戸外(そと)には人の足音と共に「ちょいとちょいと」と呼ぶ声が聞え出した。
「歇んだようだ。また近い中に出て来よう。」
「きっと入(い)らっしゃいね。昼間でも居ます。」
 女はわたくしが上着をきかけるのを見て、後へ廻り襟(えり)を折返しながら肩越しに頬を摺付(すりつ)けて、「きっとよ。」
「何て云う家(うち)だ。ここは。」
「今、名刺あげるわ。」
 靴をはいている間(あいだ)に、女は小窓の下に置いた物の中から三味線のバチの形に切った名刺を出してくれた。見ると寺島町七丁目六十一番地(二部)安藤まさ方雪子。
「さよなら。」
「まっすぐにお帰んなさい。」

小説「失踪」の一節
 吾妻橋のまん中ごろと覚しい欄干に身を倚(よ)せ、種田順平は松屋の時計を眺めては来かかる人影に気をつけている。女給のすみ子が店をしまってからわざわざ廻り道をして来るのを待合(まちあわ)しているのである。
 橋の上には円タクの外(ほか)電車もバスももう通っていなかったが、二三日前から俄(にわか)の暑さに、シャツ一枚で涼んでいるものもあり、包をかかえて帰りをいそぐ女給らしい女の往き来もまだ途絶えずにいる。種田は今夜すみ子の泊っているアパートに行き、それからゆっくり行末の目当を定めるつもりなので、行った先で、女がどうなるものやら、そんな事は更に考えもせず、又考える余裕もない。唯今日(こんにち)まで二十年の間家族のために一生を犠牲にしてしまった事が、いかにもにがにがしく、腹が立ってならないのであった。
「お待ちどうさま。」思ったより早くすみ子は小走りにかけて来た。「いつでも、駒形橋(こまがたばし)をわたって行くんですよ。だけれど、兼子さんと一緒だから。あの子、口がうるさいからね。」
「もう電車はなくなったようだぜ。」
「歩いたって、停留場三つぐらいだわ。その辺から円タクに乗りましょう。」
「明いた部屋があればいいが。」
「無かったら今夜一晩ぐらい、わたしのとこへお泊んなさい。」
「いいのか、大丈夫か。」
「何がさ。」
「いつか新聞に出ていたじゃないか。アパートでつかまった話が……。」
「場所によるんだわ。きっと。わたしの処なんか自由なもんよ。お隣も向側もみんな女給さんかお妾(めかけ)さんよ。お隣りなんか、いろいろな人が来るらしいわ。」
 橋を渡り終らぬ中に流しの円タクが秋葉神社の前まで三十銭で行く事を承知した。
「すっかり変ってしまったな。電車はどこまで行くんだ。」
「向嶋の終点。秋葉さまの前よ。バスなら真直に玉の井まで行くわ。」
「玉の井――こんな方角だったかね。」
「御存じ。」
「たった一度見物に行った。五六年前だ。」
「賑(にぎやか)よ。毎晩夜店が出るし、原っぱに見世物もかかるわ。」
「そうか。」
 種田は通過(とおりすぎ)る道の両側を眺めている中、自動車は早くも秋葉神社の前に来た。すみ子は戸の引手を動しながら、
「ここでいいわ。はい。」と賃銭をわたし、「そこから曲りましょう。あっちは交番があるから。」
 神社の石垣について曲ると片側は花柳界の灯(あかり)がつづいている横町の突当り。俄に暗い空地の一隅に、吾妻アパートという灯が、セメント造りの四角な家の前面を照している。すみ子は引戸をあけて内(なか)に入り、室の番号をしるした下駄箱に草履をしまうので、種田も同じように履物を取り上げると、
「二階へ持って行きます。目につくから。」とすみ子は自分のスリッパーを男にはかせ、その下駄を手にさげて正面の階段を先に立って上る。
 外側の壁や窓は西洋風に見えるが、内(なか)は柱の細い日本造りで、ぎしぎし音のする階段を上りきった廊下の角に炊事場があって、シュミイズ一枚の女が、断髪を振乱したまま薬鑵(やかん)に湯をわかしていた。
「今晩。」とすみ子は軽く挨拶をして右側のはずれから二番目の扉を鍵(かぎ)であけた。
 畳のよごれた六畳ほどの部屋で、一方は押入、一方の壁際には箪笥(たんす)、他の壁には浴衣(ゆかた)やボイルの寝間着がぶら下げてある。すみ子は窓を明けて、「ここが涼しいわ。」と腰巻や足袋(たび)の下っている窓の下に座布団を敷いた。
「一人でこうしていれば全く気楽だな。結婚なんか全く馬鹿らしくなるわけだな。」
「家(うち)ではしょっちゅう帰って来いッて云うのよ。だけれど、もう駄目ねえ。」
「僕ももう少し早く覚醒(かくせい)すればよかったのだ。今じゃもう晩(おそ)い。」と種田は腰巻の干してある窓越しに空の方を眺めたが、思出したように、「明間(あきま)があるか、きいてくれないか。」
 すみ子は茶を入れるつもりと見えて、湯わかしを持ち、廊下へ出て何やら女同士で話をしていたが、すぐ戻って来て、
「向(むこう)の突当りが明いているそうです。だけれど今夜は事務所のおばさんが居ないんですとさ。」
「じゃ、借りるわけには行かないな。今夜は。」
「一晩や二晩、ここでもいいじゃないの。あんたさえ構わなければ。」
「おれはいいが。あんたはどうする。」と種田は眼を円くした。
「わたし。此処(ここ)に寝るわ。お隣りの君ちゃんのとこへ行ってもいいのよ。彼氏が来ていなければ。」
「あんたの処(とこ)は誰も来ないのか。」
「ええ。今のところ。だから構わないのよ。だけれど、先生を誘惑してもわるいでしょう。」
 種田は笑いたいような、情ないような一種妙な顔をしたまま何とも言わない。
「立派な奥さんもお嬢さんもいらっしゃるんだし……。」
「いや、あんなもの。晩蒔(おそまき)でもこれから新生涯に入るんだ。」
「別居なさるの。」
「うむ。別居。むしろ離別さ。」
「だって、そうはいかないでしょう。なかなか。」
「だから、考えているんだ。乱暴でも何でもかまわない。一時姿を晦(くらま)すんだな。そうすれば決裂の糸口がつくだろうと思うんだ。すみ子さん。明部屋のはなしが付かなければ、迷惑をかけても済まないから、僕は今夜だけ何処(どこ)かで泊ろう。玉の井でも見物しよう。」
「先生。わたしもお話したいことがあるのよ。どうしようかと思って困ってる事があるのよ。今夜は寝ないで話をして下さらない。」
「この頃はじき夜があけるからね。」
「このあいだ横浜までドライブしたら、帰り道には明くなったわ。」
「あんたの身上話は、初めッから聞いたら、女中で僕の家(いえ)へ来るまででも大変なものだろう。それから女給になってから、まだ先があるんだからな。」
「一晩じゃ足りないかも知れないわね。」
「全く……ははははは。」
 一時(ひとしきり)寂(しん)としていた二階のどこやらから、男女の話声が聞え出した。炊事場では又しても水の音がしている。すみ子は真実夜通し話をするつもりと見えて、帯だけ解いて丁寧に畳み、足袋を其上に載せて押入にしまい、それから茶ぶ台の上を拭直(ふきなお)して茶を入れながら、
「わたしのこうなった訳、先生は何だと思って。」
「さア、やっぱり都会のあこがれだと思うんだが、そうじゃないのか。」
「それも無論そうだけれど、それよりか、わたし父の商売が、とてもいやだったの。」
「何だね。」
「親分とか侠客(きょうかく)とかいうんでしょう。とにかく暴力団……。」とすみ子は声を低くした。

 梅雨(つゆ)があけて暑中になると、近鄰の家の戸障子が一斉に明け放されるせいでもあるか、他の時節には聞えなかった物音が俄に耳立ってきこえて来る。物音の中で最もわたくしを苦しめるものは、板塀(いたべい)一枚を隔てた鄰家のラディオである。
 夕方少し涼しくなるのを待ち、燈下の机に向おうとすると、丁度その頃から亀裂(ひび)の入(い)ったような鋭い物音が湧起(わきおこ)って、九時過ぎてからでなくては歇まない。此の物音の中でも、殊に甚(はなはだ)しくわたくしを苦しめるものは九州弁の政談、浪花節(なにわぶし)、それから学生の演劇に類似した朗読に洋楽を取り交ぜたものである。ラディオばかりでは物足らないと見えて、昼夜時間をかまわず蓄音機で流行唄(はやりうた)を鳴(なら)し立てる家もある。ラディオの物音を避けるために、わたくしは毎年夏になると夕飯(ゆうめし)もそこそこに、或時は夕飯も外で食うように、六時を合図にして家を出ることにしている。ラディオは家を出れば聞えないというわけではない。道端の人家や商店からは一段烈しい響が放たれているのであるが、電車や自動車の響と混淆(こんこう)して、市街一般の騒音となって聞えるので、書斎に孤坐している時にくらべると、歩いている時の方が却て気にならず、余程楽である。
「失踪」の草稿は梅雨があけると共にラディオに妨げられ、中絶してからもう十日あまりになった。どうやら其(その)まま感興も消え失せてしまいそうである。
 今年の夏も、昨年また一昨年と同じように、毎日まだ日の没しない中(うち)から家を出るが、実は行くべきところ、歩むべきところが無い。神代帚葉翁(こうじろそうようおう)が生きていた頃には毎夜欠かさぬ銀座の夜涼みも、一夜(いちや)ごとに興味の加(くわわ)るほどであったのが、其人も既に世を去り、街頭の夜色にも、わたくしはもう飽果(あきは)てたような心持になっている。之に加えて、其後銀座通にはうっかり行かれないような事が起った。それは震災前(ぜん)新橋の芸者家に出入していたと云う車夫が今は一見して人殺しでもしたことのありそうな、人相と風体(ふうてい)の悪い破落戸(ならずもの)になって、折節(おりふし)尾張町辺を徘徊(はいかい)し、むかし見覚えのあるお客の通るのを見ると無心難題を言いかける事である。
 最初(はじめ)黒沢商店の角で五拾銭銀貨を恵んだのが却て悪い例となり、恵まれぬ時は悪声を放つので、人だかりのするのが厭(いや)さにまた五拾銭やるようになってしまう。此男に酒手(さかて)の無心をされるのはわたくしばかりではあるまいと思って、或晩欺いて四辻の派出所へ連れて行くと、立番の巡査とはとうに馴染になっていて、巡査は面倒臭さに取り合ってくれる様子をも見せなかった。出雲町(いずもちょう)……イヤ七丁目の交番でも、或日巡査と笑いながら話をしているのを見た。巡査の眼にはわたくしなどより此男の方が却て素姓が知れているのかも知れない。
 わたくしは散策の方面を隅田河の東に替え、溝際(どぶぎわ)の家に住んでいるお雪という女をたずねて憩(やす)むことにした。
 四五日つづけて同じ道を往復すると、麻布(あざぶ)からの遠道も初めに比べると、だんだん苦にならないようになる。京橋と雷門(かみなりもん)との乗替も、習慣になると意識よりも身体(からだ)の方が先に動いてくれるので、さほど煩(わずらわ)しいとも思わないようになる。乗客の雑沓(ざっとう)する時間や線路が、日によって違うことも明(あきらか)になるので、之を避けさえすれば、遠道だけにゆっくり本を読みながら行くことも出来るようになる。
 電車の内(なか)での読書は、大正九年の頃老眼鏡を掛けるようになってから全く廃せられていたが、雷門までの遠道を往復するようになって再び之を行うことにした。然し新聞も雑誌も新刊書も、手にする習慣がないので、わたくしは初めての出掛けには、手に触れるがまま依田学海(よだがくかい)の墨水二十四景を携えて行った。
長堤蜿蜒。経二三囲祠一稍成二彎状一。至二長命寺一。一折為二桜樹最多処一。寛永中徳川大猷公放二鷹於此一。会腹痛。飲二寺井一而癒。曰。是長命水也。因名二其井一。並及二寺号一。後有二芭蕉居士賞レ雪佳句一。鱠二炙人口一。嗚呼公絶代豪傑。其名震レ世。宜矣。居士不二過一布衣一。同伝レ於レ後。蓋人在下所二樹立一何如上耳。
 先儒の文は目前の景に対して幾分の興を添えるだろうと思ったからである。
 わたくしは三日目ぐらいには散歩の途すがら食料品を買わねばならない。わたくしは其ついでに、女に贈る土産物をも買った。此事が往訪すること僅に四五回にして、二重の効果を収めた。
 いつも鑵詰(かんづめ)ばかり買うのみならず、シャツや上着もボタンの取れたのを着ているのを見て、女はいよいよわたくしをアパート住いの独者(ひとりもの)と推定したのである。独身ならば毎夜のように遊びに行っても一向不審はないと云う事になる。ラディオのために家に居られないと思う筈もなかろうし、又芝居や活動を見ないので、時間を空費するところがない。行く処がないので来る人だとも思う筈がない。この事は言訳をせずとも自然にうまく行ったが、金の出処(でどころ)について疑いをかけられはせぬかと、場所柄だけに、わたくしはそれとなく質問した。すると女は其晩払うものさえ払ってくれれば、他(ほか)の事はてんで考えてもいないと云う様子で、
「こんな処(とこ)でも、遣(つか)う人は随分遣うわよ。まる一ト月居続けしたお客があったわ。」
「へえ。」とわたくしは驚き、「警察へ届けなくってもいいのか。吉原なんかだとじき届けると云う話じゃないか。」
「この土地でも、家(うち)によっちゃアするかも知れないわ。」
「居続したお客は何だった。泥棒か。」
「呉服屋さんだったわ。とうとう店の檀那(だんな)が来て連れて行ったわ。」
「勘定の持逃げだね。」
「そうでしょう。」
「おれは大丈夫だよ。其方(そのほう)は。」と言ったが、女はどちらでも構わないという顔をして聞返しもしなかった。
 然しわたくしの職業については、女の方ではとうから勝手に取りきめているらしい事がわかって来た。
 二階の襖(ふすま)に半紙四ツ切程の大きさに複刻した浮世絵の美人画が張交(はりまぜ)にしてある。その中には歌麻呂の鮑(あわび)取り、豊信(とよのぶ)の入浴美女など、曾(かつ)てわたくしが雑誌此花(このはな)の挿絵(さしえ)で見覚えているものもあった。北斎の三冊本、福徳和合人の中から、男の姿を取り去り、女の方ばかりを残したものもあったので、わたくしは委(くわ)しくこの書の説明をした。それから又、お雪がお客と共に二階へ上っている間、わたくしは下の一ト間で手帳へ何か書いていたのを、ちらと見て、てっきり秘密の出版を業とする男だと思ったらしく、こん度来る時そういう本を一冊持って来てくれと言出した。
 家には二三十年前に集めたものの残りがあったので、請われるまま三四冊一度に持って行った。ここに至って、わたくしの職業は言わず語らず、それと決められたのみならず、悪銭の出処(でどころ)もおのずから明瞭になったらしい。すると女の態度は一層打解けて、全く客扱いをしないようになった。
 日蔭に住む女達が世を忍ぶ後暗い男に対する時、恐れもせず嫌いもせず、必ず親密と愛憐との心を起す事は、夥多(かた)の実例に徴して深く説明するにも及ぶまい。鴨川(かもがわ)の芸妓は幕吏に追われる志士を救い、寒駅の酌婦は関所破りの博徒に旅費を恵むことを辞さなかった。トスカは逃竄(とうざん)の貧士に食を与え、三千歳(みちとせ)は無頼漢に恋愛の真情を捧げて悔いなかった。
 此(ここ)に於てわたくしの憂慮するところは、この町の附近、若(も)しくは東武電車の中などで、文学者と新聞記者とに出会わぬようにする事だけである。この他(た)の人達には何処で会おうと、後をつけられようと、一向に差閊(さしつかえ)はない。謹厳な人達からは年少の頃から見限られた身である。親類の子供もわたくしの家には寄りつかないようになっているから、今では結局憚(はばか)るものはない。ただ独(ひとり)恐る可(べ)きは操觚(そうこ)の士である。十余年前銀座の表通に頻(しきり)にカフエーが出来はじめた頃、此に酔を買った事から、新聞と云う新聞は挙(こぞ)ってわたくしを筆誅(ひっちゅう)した。昭和四年の四月「文藝春秋」という雑誌は、世に「生存させて置いてはならない」人間としてわたくしを攻撃した。其文中には「処女誘拐」というが如き文字をも使用した所を見るとわたくしを陥れて犯法の罪人たらしめようとしたものかも知れない。彼等はわたくしが夜竊(ひそか)に墨水をわたって東に遊ぶ事を探知したなら、更に何事を企図するか測りがたい。これ真に恐る可きである。
 毎夜電車の乗降りのみならず、この里へ入込んでからも、夜店の賑(にぎわ)う表通は言うまでもない。路地の小径(こみち)も人の多い時には、前後左右に気を配って歩かなければならない。この心持は「失踪(しっそう)」の主人公種田順平が世をしのぶ境遇を描写するには必須(ひっしゅ)の実験であろう。

 わたくしの忍んで通う溝際(どぶぎわ)の家が寺島町七丁目六十何番地に在ることは既に識(しる)した。この番地のあたりはこの盛場では西北の隅(すみ)に寄ったところで、目貫(めぬき)の場所ではない。仮に之を北里に譬(たと)えて見たら、京町一丁目も西河岸(がし)に近いはずれとでも言うべきものであろう。聞いたばかりの話だから、鳥渡(ちょっと)通(つう)めかして此盛場の沿革を述べようか。大正七八年の頃、浅草観音堂裏手の境内が狭(せば)められ、広い道路が開かれるに際して、むかしから其辺に櫛比(しっぴ)していた楊弓場(ようきゅうば)銘酒屋のたぐいが悉(ことごと)く取払いを命ぜられ、現在(いま)でも京成バスの往復している大正道路の両側に処定めず店を移した。つづいて伝法院の横手や江川(えがわ)玉乗りの裏あたりからも追われて来るものが引きも切らず、大正道路は殆(ほとんど)軒並銘酒屋になってしまい、通行人は白昼でも袖(そで)を引かれ帽子を奪われるようになったので、警察署の取締りが厳しくなり、車の通る表通から路地の内へと引込ませられた。浅草の旧地では凌雲閣(りょううんかく)の裏手から公園の北側千束町の路地に在ったものが、手を尽して居残りの策を講じていたが、それも大正十二年の震災のために中絶し、一時悉くこの方面へ逃げて来た。市街再建の後西見番(にしけんばん)と称する芸者家組合をつくり転業したものもあったが、この土地の繁栄はますます盛になり遂に今日の如き半ば永久的な状況を呈するに至った。初め市中との交通は白髯橋(しらひげばし)の方面一筋だけであったので、去年京成電車が運転を廃止する頃までは其停留場に近いところが一番賑(にぎやか)であった。
 然るに昭和五年の春都市復興祭の執行せられた頃、吾妻橋から寺島町に至る一直線の道路が開かれ、市内電車は秋葉神社前まで、市営バスの往復は更に延長して寺島町七丁目のはずれに車庫を設けるようになった。それと共に東武鉄道会社が盛場の西南に玉の井駅を設け、夜も十二時まで雷門から六銭で人を載せて来るに及び、町の形勢は裏と表と、全く一変するようになった。今まで一番わかりにくかった路地が、一番入り易くなった代り、以前目貫といわれた処が、今では端(はず)れになったのであるがそれでも銀行、郵便局、湯屋、寄席(よせ)、活動写真館、玉の井稲荷(いなり)の如きは、いずれも以前のまま大正道路に残っていて、俚俗(りぞく)広小路、又は改正道路と呼ばれる新しい道には、円タクの輻湊(ふくそう)と、夜店の賑いとを見るばかりで、巡査の派出所も共同便所もない。このような辺鄙(へんぴ)な新開町に在ってすら、時勢に伴う盛衰の変は免れないのであった。況(いわん)や人の一生に於いてをや。
 わたくしがふと心易くなった溝際の家……お雪という女の住む家が、この土地では大正開拓期の盛時を想起(おもいおこ)させる一隅に在ったのも、わたくしの如き時運に取り残された身には、何やら深い因縁があったように思われる。其家は大正道路から唯(と)ある路地に入り、汚れた幟(のぼり)の立っている伏見稲荷の前を過ぎ、溝に沿うて、猶(なお)奥深く入り込んだ処に在るので、表通のラディオや蓄音機の響も素見客(ひやかし)の足音に消されてよくは聞えない。夏の夜、わたくしがラディオのひびきを避けるにはこれほど適した安息処は他にはあるまい。
 一体この盛場では、組合の規則で女が窓に坐る午後四時から蓄音機やラディオを禁じ、また三味線をも弾(ひ)かせないと云う事で。雨のしとしとと降る晩など、ふけるにつれて、ちょいとちょいとの声も途絶えがちになると、家の内外(うちそと)に群(むらが)り鳴く蚊の声が耳立って、いかにも場末の裏町らしい侘(わび)しさが感じられて来る。それも昭和現代の陋巷(ろうこう)ではなくして、鶴屋南北の狂言などから感じられる過去の世の裏淋しい情味である。
 いつも島田か丸髷(まるまげ)にしか結っていないお雪の姿と、溝の汚さと、蚊の鳴声(なくこえ)とはわたくしの感覚を著しく刺戟(しげき)し、三四十年むかしに消え去った過去の幻影を再現させてくれるのである。わたくしはこのはかなくも怪し気なる幻影の紹介者に対して出来得ることならあからさまに感謝の言葉を述べたい。お雪さんは南北の狂言を演じる俳優よりも、蘭蝶(らんちょう)を語る鶴賀なにがしよりも、過去を呼返す力に於ては一層巧妙なる無言の芸術家であった。
 わたくしはお雪さんが飯櫃(おはち)を抱きかかえるようにして飯をよそい、さらさら音を立てて茶漬(ちゃづけ)を掻込(かっこ)む姿を、あまり明くない電燈の光と、絶えざる溝蚊(どぶか)の声の中にじっと眺めやる時、青春のころ狎(な)れ(した)しんだ女達の姿やその住居(すまい)のさまをありありと目の前に思浮べる。わたくしのものばかりでない。友達の女の事までが思出されて来るのである。そのころには男を「彼氏」といい、女を「彼女」とよび、二人の侘住居を「愛の巣」などと云う言葉はまだ作り出されていなかった。馴染(なじみ)の女は「君」でも、「あんた」でもなく、ただ「お前」といえばよかった。亭主は女房を「おッかア」女房は亭主を「ちゃん」と呼ぶものもあった。
 溝の蚊の唸(うな)る声は今日(こんにち)に在っても隅田川を東に渡って行けば、どうやら三十年前のむかしと変りなく、場末の町のわびしさを歌っているのに、東京の言葉はこの十年の間に変れば実に変ったものである。
そのあたり片づけて吊る蚊帳(かちょう)哉(かな)
さらぬだに暑くるしきを木綿蚊帳(もめんがや)
家中(いえじゅう)は秋の西日や溝(どぶ)のふち
わび住みや団扇(うちわ)も折れて秋暑し
蚊帳の穴むすびむすびて九月哉
屑籠(くづかご)の中からも出て鳴く蚊かな
残る蚊をかぞへる壁や雨のしみ
この蚊帳も酒とやならむ暮の秋
 これはお雪が住む家の茶の間に、或夜蚊帳が吊ってあったのを見て、ふと思出した旧作の句である。半(なかば)は亡友唖々(ああ)君が深川長慶寺裏の長屋に親の許さぬ恋人と隠れ住んでいたのを、其折々尋ねて行った時よんだもので、明治四十三四年のころであったろう。
 その夜お雪さんは急に歯が痛くなって、今しがた窓際から引込んで寝たばかりのところだと言いながら蚊帳から這(は)い出したが、坐る場処がないので、わたくしと並んで上框(あがりがまち)へ腰をかけた。
「いつもより晩(おそ)いじゃないのさ。あんまり、待たせるもんじゃないよ。」
 女の言葉遣いはその態度と共に、わたくしの商売が世間を憚るものと推定せられてから、狎昵(こうじつ)の境(さかい)を越えて寧(むしろ)放濫(ほうらん)に走る嫌いがあった。
「それはすまなかった。虫歯か。」
「急に痛くなったの。目がまわりそうだったわ。腫(は)れてるだろう。」と横顔を見せ、「あなた。留守番していて下さいな。わたし今の中(うち)歯医者へ行って来るから。」
「この近処か。」
「検査場(けんさば)のすぐ手前よ。」
「それじゃ公設市場の方だろう。」
「あなた。方々歩くと見えて、よく知ってるんだねえ。浮気者。」
「痛い。そう邪慳(じゃけん)にするもんじゃない。出世前の身体(からだ)だよ。」
「じゃ頼むわよ。あんまり待たせるようだったら帰って来るわ。」
「お前待ち待ち蚊帳の外……と云うわけか。仕様がない。」
 わたくしは女の言葉遣いがぞんざいになるに従って、それに適応した調子を取るようにしている。これは身分を隠そうが為の手段ではない。処と人とを問わず、わたくしは現代の人と応接する時には、あたかも外国に行って外国語を操(あやつ)るように、相手と同じ言葉を遣う事にしているからである。「おらが国」と向の人が言ったら此方(こっち)も「おら」を「わたくし」の代りに使う。説話(はなし)は少し余事にわたるが、現代人と交際する時、口語を学ぶことは容易であるが文書の往復になると頗(すこぶる)困難を感じる。殊に女の手紙に返書を裁する時「わたし」を「あたし」となし、「けれども」を「けど」となし、又何事につけても、「必然性」だの「重大性」だのと、性の字をつけて見るのも、冗談半分口先で真似をしている時とはちがって、之を筆にする段になると、実に堪難い嫌悪(けんお)の情を感じなければならない。恋しきは何事につけても還らぬむかしで、あたかもその日、わたくしは虫干をしていた物の中に、柳橋(やなぎばし)の妓にして、向嶋小梅の里に囲われていた女の古い手紙を見た。手紙には必ず候文(そうろうぶん)を用いなければならなかった時代なので、その頃の女は、硯(すずり)を引寄せ筆を秉(と)れば、文字を知らなくとも、おのずから候可く候の調子を思出したものらしい。わたくしは人の嗤笑(ししょう)を顧ず、これをここに録したい。
一筆(ふで)申上まいらせ候。その後は御ぶさた致し候て、何とも申わけ無之(これなく)御免下されたく候。私事これまでの住居(すまい)誠に手ぜまに付この中(じゅう)右のところへしき移り候まま御(おん)知らせ申上候。まことにまことに申上かね候え共、少々お目もじの上申上たき事御ざ候間、何卒(なにとぞ)御都合なし下されて、あなた様のよろしき折御立より下されたく幾重にも御(おん)待申上候。一日も早く御越しのほど、先(まず)は御めもじの上にてあらあらかしく。
??より
竹屋の渡しの下にみやこ湯と申す湯屋あり。八百屋(やおや)でお聞下さい。天気がよろしく候故御都合にて唖々(ああ)さんもお誘い合され堀切(ほりきり)へ参りたくと存候間御しる前からいかがに候や。御たずね申上候。尤(もっとも)この御返事御無用にて候。
 文中「ひき移り」を「しき移り」となし、「ひる前」を「しる前」に書き誤っているのは東京下町言葉の訛(なま)りである。竹屋の渡しも今は枕橋(まくらばし)の渡(わたし)と共に廃せられて其跡(そのあと)もない。我青春の名残(なごり)を弔(とむら)うに今は之を那辺(なへん)に探るべきか。

 わたくしはお雪の出て行った後(あと)、半(なかば)おろした古蚊帳の裾(すそ)に坐って、一人蚊を追いながら、時には長火鉢に埋めた炭火と湯わかしとに気をつけた。いかに暑さの烈しい晩でも、この土地では、お客の上った合図に下から茶を持って行く習慣なので、どの家でも火と湯とを絶(たや)した事がない。
「おい。おい。」と小声に呼んで窓を叩(たた)くものがある。
 わたくしは大方馴染の客であろうと思い、出ようか出まいかと、様子を窺(うかが)っていると、外の男は窓口から手を差入れ、猿をはずして扉(と)をあけて内(なか)へ入った。白っぽい浴衣(ゆかた)に兵児(へこ)帯をしめ、田舎臭い円顔に口髯(くちひげ)を生(はや)した年は五十ばかり。手には風呂敷に包んだものを持っている。わたくしは其様子と其顔立とで、直様(すぐさま)お雪の抱主(かかえぬし)だろうと推察したので、向から言うのを待たず、
「お雪さんは何だか、お医者へ行くって、今おもてで逢いました。」
 抱主らしい男は既にその事を知っていたらしく、「もう帰るでしょう。待っていなさい。」と云って、わたくしの居たのを怪しむ風もなく、風呂敷包を解いて、アルミの小鍋を出し茶棚の中へ入れた。夜食の惣菜(そうざい)を持って来たのを見れば、抱主に相違はない。
「お雪さんは、いつも忙しくって結構ですねえ。」
 わたくしは挨拶のかわりに何かお世辞を言わなければならないと思って、そう言った。
「何ですか。どうも。」と抱主の方でも返事に困ると云ったような、意味のない事を言って、火鉢の火や湯の加減を見るばかり。面と向ってわたくしの顔さえ見ない。寧(むし)ろ対談を避けるというように横を向いているので、わたくしも其まま黙っていた。
 こういう家の亭主と遊客との対面は、両方とも甚(はなはだ)気まずいものである。貸座敷、待合茶屋、芸者家などの亭主と客との間もまた同じことで、此両者の対談する場合は、必ず女を中心にして甚気まずい紛擾(ごたごた)の起った時で、然らざる限り対談の必要が全くないからでもあろう。
 いつもお雪が店口で焚(た)く蚊遣香(かやりこう)も、今夜は一度もともされなかったと見え、家中(いえじゅう)にわめく蚊の群は顔を刺すのみならず、口の中へも飛込もうとするのに、土地馴れている筈の主人も、暫く坐っている中(うち)我慢がしきれなくなって、中仕切の敷居際に置いた扇風機の引手を捻(ねじ)ったが破(こわ)れていると見えて廻らない。火鉢の抽斗(ひきだし)から漸(ようや)く蚊遣香の破片(かけら)を見出した時、二人は思わず安心したように顔を見合せたので、わたくしは之を機会に、
「今年はどこもひどい蚊ですよ。暑さも格別ですがね。」と言うと、
「そうですか。ここはもともと埋地で、碌(ろく)に地揚(じあげ)もしないんだから。」と主人もしぶしぶ口をきき初めた。
「それでも道がよくなりましたね。第一便利になりましたね。」
「その代り、何かにつけて規則がやかましくなった。」
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