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失踪HOLIDAY

_4 乙一(日)
 呼び出し音が鳴《な》る。わたしは目を閉じてイメージした。
 自分は今、窓のない部屋《へや》に閉じ込められている。扉《とびら》がひとつだけあるが、鍵《かぎ》がかかっている。真ん中に古い机と椅子《いす》があり、わたしはそこに座《すわ》らされている。机の上に電話機がある。わたしのかたわらには、男が立っている。コートを着た男。わたしを誘拐《ゆうかい》した犯人だ。彼はわたしに受話器を持たせて、家に電話するよう強要した。彼がわたしの前に、何か文章の書かれた紙を広げる。乱暴に書かれた文字。わたしは電話で、その文章を読み上げなくてはならないのだ。呼び出し音が続く。もし、犯人からの電話があった場合、きっとパパが電話を受けるのだろう。おそらく屋敷《やしき》の居間、逆探知の機械が取り付けられた電話の前で、パパが警察から何事か注意を受けているに違《ちが》いない。逆探知を成功させるために、話を引き延《の》ばすよう言われているのだ。
 呼び出し音が途切《とぎ》れ、受話器のあげられる音。
「……もしもし」
 緊張《きんちょう》したパパの声。かすかに震《ふる》えている。
 その声が鼓膜《こまく》を通じて、全身に染《し》み渡《わた》るのを感じる。
「……パパ」
 一秒ほど間を置いて、声を出した。
「ナオ!」激しい感情のこもった声。受話器から、割れて聞こえた。「大丈夫《だいじょうぶ》か!? 今、どこにいる? 何もされていないかい?」
「うん」平気だと言いかけて、声を押《お》しとどめる。時間を引き延ばしてはいけない。警察がこちらの所在を突《つ》き止めてしまう。「……パパ、ごめんなさい。何も言ってはいけないことになっているの。そう、命令されているの……」
 演技などしなくても、冷静ではいられない。
「命令? だれに命令されているのだい!? そこに、だれかいるのかい!?」
 目を閉じると、わたしのイメージした犯人が、パパの質問に答えるなという強い意思表示をした。無視して目の前の文章を読み上げろ、と彼は言っている。彼はわたしの生殺与奪《せいさつよだつ》の権限を持っており、絶対なのである。
「……使用人の楠木クニコを、十代橋駅に行かせろ」まるで文章を棒読みするように、感情のこもらない調子で言葉を並べた。受話器の向こうでパパが息を呑《の》む。「駅構内にあるコカ?コーラの自動|販売機《はんばいき》を探せ。その裏側の壁《かべ》に、手紙をはってある。それを読め。駅までは、車をつかってもかまわない。ただし、構内には楠木だけが入る。もし、他《ほか》の人間が後をついてきたり、警察らしい人影《ひとかげ》が見えたら、……娘《むすめ》の命はない」
 言い終えると、わたしはすぐに受話器を置いた。
 はずしていた携帯《けいたい》電話のイヤホンを耳にはめる。一気にあわただしい雰囲気《ふんいき》である。クニコが呼ばれる声。
「楠木さん、十代橋駅だそうです!」
 警察の者らしい男の声。
「え……、あ、はい。今すぐ、行きます」
「駅までは、車で送っていただいていいそうです。楠木さん、免許は持ってらっしゃらないですよね? 大塚さんに送っていただきます。警察の者に運転をさせたいところですが、犯人が監視《かんし》しているおそれがあります」
 身代金《みのしろきん》入りの鞄《かばん》を胸に抱《だ》いたクニコが、背中をおされるように玄関《げんかん》から外へ出る。足早に正門近くの車庫へ向かっているようだ。おそらく、みんなの視線は、クニコに集中している。
 菅原家で運転手をしている大塚の旦那《だんな》さんが、車の用意はすでにできていることを告げる声。クニコが乗りこむ。娘《むすめ》を頼《たの》みます、失敗しないで、というパパやエリおばさんの声をかすかに携帯電話が拾い、車が発進する。
 時計を見ると、十二時五分。
 わたしは辺りを見まわした。公園から駅の方角に目をやる。
 公園の敷地《しきち》に沿って、植木の並んだ歩道と、車がかろうじて並んで二台通れる程度の道がある。そのさらに外側には、低いビルが立ち並んでいた。それらは少しの隙間《すきま》もなく、まるで一枚の巨大《きょだい》な壁《かべ》を作るように建っている。クリスマスの直前、友人といっしょにここへ来た。あれはクニコの部屋《へや》に住み着いた日のことだ。
 目標のビルを見つけた。三階建ての、古いビルである。友人と忍《しの》び込んだ建物だ。裏側は公園の方に面しており、勝手口らしき小さな木の扉《とびら》が見える。正面は駅から続く大通りに面していたはずだ。通りには、食べ物の店や、CDを売っている店が並んでおり、昼間のうちは人間が多い。
 その、中身の入っていない、取り壊《こわ》し寸前の建物は、わたしの計画で、もっとも重要な場所である。なぜなら、菅原ナオはそのビルの中で発見される予定だからだ。
 公園を後にして、目標のビルへ急ぐ。デパートで購入《こうにゅう》したコート等の入った紙袋《かみぶくろ》が、重く感じられる。早足でまっすぐ歩道を横切る。並んでいるビルのそばにくると、太陽の明かりがさえぎられて薄暗《うすぐら》く、一段と寒い。真昼でも、この季節の太陽は角度が浅いのだ。近くに食べ物屋が並んでいるのだろう、換気扇《かんきせん》から出されたいくつもの匂《にお》いが混じり合い、異様な臭気《しゅうき》と化している。
 ビルの裏口は、汚《きたな》く、古い。手垢《てあか》と錆《さび》に覆《おお》われ、雨の染《し》みで、もともと何色だったのかわからなくなっている。かつて、正面から入り、この裏口から公園側へ抜《ぬ》けた。人のいない裏通りに、クリスマスソングが寒々しく聞こえていたのを思い出す。
 わたしは取っ手に手をかけ、裏口を開けようとした。予想に反して、動かない。こんなビルでも、実は持ち主がいるのだろう。この二週間余りのうちに、開けた錠《じょう》は管理人が閉めたらしい。
 わたしは迷った。ビルの正面に回り、表の入り口から入ろうか。そちらの方は、錠がおりていないかも。しかし、そうではないかも。
 辺りを見まわす。裏口の左上、ちょうど見上げたととろに、窓がある。すりガラスに入ったひびを、ガムテープで補強《ほきょう》してある。小さな窓だったが、なんとかわたしなら潜《くぐ》りぬけられそうだった。しかし、背伸《せの》びをして、ようやく指先が窓下に届《とど》くという高さである。
 隣《となり》の建物の裏に、ビール瓶《びん》のケースが積まれていた。わたしはそれをひきずってきて、足場にしようと考えた。
 不意に、通りを数人の男の子が通る。おそらく高校生だろう。派手《はで》な服装をしていた。わたしは動きをとめ、何気ない様《さま》を装《よそお》って彼らが通りすぎるのを待つ。わたしはあきらかに不審《ふしん》な行動をしており、だれかに見咎《みとが》められてはならない。
 男子高校生たちは、通りすぎる瞬間《しゅんかん》、じろじろと品定めするようにわたしを眺《なが》めた。わたしは緊張《きんちょう》し、息を殺した。この周辺は、案外、治安が悪いと友人が言っていた。ひったくりが多いそうだ。ただ通りすぎただけなのに、彼らを見て、ついそのことを思い出してしまった。
 彼らが遠く離《はな》れ、見えなくなったのを確認《かくにん》し、ケースを運んだ。一個では、高さが足りない。背が低いことを呪《のろ》いながら、もう一つ重ねる。
 携帯《けいたい》電話からは、クニコと大塚さんの会話が聞こえる。大塚さんは、しきりにクニコへ話しかけ、緊張をほぐそうとつとめている。クニコが、身代金《みのしろきん》の入った鞄《かばん》を抱《だ》きしめたまま首をすくめるように座席へつき、うなずきを返している光景が目に浮《う》かんだ。どうやら、もうじき十代橋駅に到着《とうちゃく》するらしい。腕時計《うでどけい》を見る。十二時十七分。あと、五十分程度で、彼女はここにやってくる。
 動作の邪魔《じゃま》になるので、耳にはめていたイヤホンをはずしてポケットにしまう。ビール瓶《びん》のケースで作った足場に、片足を載《の》せてみる。ぐらついて倒《たお》れたりはしないようだ。大丈夫《だいじょうぶ》そうであることを確かめ、その上に立ってみた。
 ぐんと見晴らしがよくなる。ビルの窓が一気に近くなった。窓のサッシに指をかける。窓枠《まどわく》には油汚《あぶらよご》れのような黒いものが付着しており、そこにほこりや泥《どろ》がこびりついていた。力をこめて開けようとするが、鍵《かぎ》がかかっていて開かない。
 首をめぐらし、だれにも見られていないことを確認する。わたしは足場から降りて、ケースからビール瓶を一本、つかんだ。もう一度、足場に乗って、窓ガラスにそれを叩《たた》きつける。瞬間、ほこりが舞《ま》う。割れる音は、案外、小さかった。ひびをふさいでいたガムテープにくっついて、大きな破片はだらりとビル内にたれさがっているようだ。持っていたビール瓶で、サッシにくっついていた残りの破片を綺麗《きれい》に落とす。
 先に、窓の中へ紙袋《かみぶくろ》などの荷物を投げ込む。その後で窓枠に腕《うで》を引っ掛《か》け、わたしは不安定な足場の上でジャンプした。まず上半身が窓を潜《くぐ》りぬける。窓枠にかかる全体重をおなかでささえながら、足をばたつかせる。上着が汚れるのも無視する。
 腰《こし》のあたりが窓を通りぬけるとき、わたしの体重のために、何かが壊《こわ》れる音がした。壁枠《かべわく》にひびが入ったのだろうかと一瞬、考えた。まさか、運動不足のせいでそんなに太ってしまったのだろうか。いや、そんなはずない。もう、これは断じてそういうわけではないのである。
 足が窓を抜《ぬ》け、わたしは頭から突《つ》っ込むようにビルの内側へ入り込んだ。空気は長いこと淀《よど》んでいたらしく、湿《しめ》っていた。明かりもほとんど入らず、さきほどの窓が唯一《ゆいいつ》の光源である。ビルの中は、外の空気よりもさらに冷えており、急激に体が冷却《れいきゃく》されてくるのを感じる。その部屋《へや》は、四方が五メートルほどの四角い部屋だった。家具は何もなく、かびの生えた材木が片隅《かたすみ》に打ち捨てられていた。壁には、ポスターの貼《は》ってあった跡《あと》や、落書きなどが残っていた。
 さきほどくぐった窓から、公園を眺《なが》める。葉のついていない木の枝のすきまから、ベンチが見える。身代金《みのしろきん》を持って、クニコはそこへくるはずである。
 公園は広い。鷹師駅前のポストにはりつけた二通目の手紙には、ただ公園のベンチへ行けと書いただけで、どのベンチとは指定しなかった。クニコへ取り付けた盗聴器《とうちょうき》によって、手紙の内容を知り、警官が先回りしているとしても、彼らはどのベンチを監視《かんし》していればいいのかわからないだろう。しかし、クニコは偶然《ぐうぜん》を装《よそお》って、このビルにもっとも近いベンチへ直行する。そうすることは、図で説明を繰《く》り返しながら、あらかじめ話し合っていた。彼女は何度もつぶやいて、頭に叩《たた》き込んでいた。
 ビル内を歩く。裏口の扉《とびら》を調べると、錠《じょう》は内側から解くことができた。扉は多少きしんだが、開閉するのに支障はなかった。次にわたしは、正面入り口へ行ってみた。こちらも錠がおりていた。以前、友人とこのビルに入ることができたのは、たまたま正面入り口の錠が開いていたおかげである。そこの鍵《かぎ》も、内側から開けることができた。汚《よご》れてはいたが、裏側にあった扉と比較《ひかく》すれば、はるかに大きく、立派なドアだった。そこを抜《ぬ》けて、一度、正面の通りへ出てみる。ビルの中の薄暗《うすぐら》い静寂《せいじゃく》さが夢だったのかと思わせるほど、外は明るい。人の流れも多いが、菅原ナオが犯人によって連れこまれている薄汚れたビルには、みんな無関心である。
 ビル内に戻《もど》り、階段で二階へのぼってみる。おおまかな間取りを把握《はあく》する。
 二階、ビルの正面側にある部屋の窓から、大通りを見下ろす。今からしばらくした後、クニコがここを通りすぎるはずである。駅前から公園へ行く通り道なのだ。彼女はこの周辺にきたことがなかったので、打ち合わせの際、わたしは地図を描《か》いて道を説明してやらねはならなかった。
 同じ階にある、通りとは反対側の部屋へ移動した。そこの窓からは公園が見える。一番、近いベンチの位置を、もう一度、確認《かくにん》する。
 一階に下りて、デパートで購入《こうにゅう》した男物のコートを羽織《はお》った。帽子《ぼうし》はまだ、かぶらずにその辺へ置く。デパートの紙袋《かみぶくろ》やレシートなどを、近くのファーストフード店のゴミ箱へ放《ほう》り込んでくる。
 裏口と、正面入り口は、一本の廊下《ろうか》でつながっている。正面入り口にもっとも近い部屋を、菅原ナオの救出される舞台《ぶたい》として選んだ。
 作戦はつまり、こうである。
 身代金の入った鞄《かばん》を胸に抱《だ》き、クニコが公園のベンチへやってくる。わたしはそれをこのビルの中から監視する。その際、警察はクニコの後についてきて、公園のどこかから見ているかもしれない。そうであることを考慮《こうりょ》して、態勢のあまり整わないうちに素早《すばや》く行動を起こす。
 わたしは男物のコートと帽子《ぼうし》を身に着け、クニコのもとへ近づく。つまり、犯人に変装して、身代金の入った鞄を奪《うば》うのだ。そして、一目散にこのビルの中へ駆《か》け込む。
 クニコもまた、鞄を奪った犯人を逃《のが》してなるものかという演技をして、わたしの後を追いかける。わたしといっしょに、二人でビルへ入る。
 その様子を警察が見ていたなら、同時に後を追ってくるだろう。わたしとクニコは、彼らに追いつかれてはならない。
 ビルの中で、わたしは正面入り口にもっとも近い部屋《へや》へ向かう。クニコも、わたしに続いて入る。わたしはコートと帽子を脱《ぬ》ぎ捨て、変装を解いた後、その場に倒《たお》れ込む。公園でクニコからうばった鞄も、その辺に転がす。わたしの手足を、急いでクニコがしばる。わたしの口にガムテープもはる。脱ぎ捨てたコート等も、彼女が処分する。
 後は、追いついてきた警察に発見されるのを待つだけだ。しばられて転がされているわたしと、クニコだけがそこにいる。それを発見した警察の人間に、わたしはこう証言するのだ。
「犯人は身代金《みのしろきん》の入った鞄を放《ほう》り出して、そこの窓から大通りへ逃《に》げていきました! 楠木さんが、犯人と乱闘《らんとう》をして、追い払《はら》ったんです!」
 うまくいけば、クニコはわたしと身代金、両方を犯人から奪い返した者として、一目《いちもく》置かれる存在となる……。
 わたしが拘束《こうそく》されているようにみせかけるため、ビニール紐《ひも》やガムテープを、あらかじめ切って用意しておかなくてはならない。
 乱闘が行われたように、辺りの物を壊《こわ》しておく必要もある。犯人が逃げたように見せかけるため、正面側の窓を開けておかなくてはいけない。
 大通りを歩いていた人間に、窓からはだれも出てこなかった、と証言させてはいけない。しかし、幸い、選んだ部屋の窓は、隣《となり》の店の看板《かんばん》で大通りからは見えにくい。証言をぼやけさせることができる。
 残る問題は、コートと帽子をどのようにして処分するかである。この点を考慮《こうりょ》せずに計画を立てていた。
 部屋は建物の隅にあった。犯人がつかって逃げ出したことにする窓と、もう一つ、建物側面の窓があった。ただし、そちらは隣のビルとのわずかな隙間《すきま》しかないため、ほとんど窓としての意味がない。しかし、コートと帽子はそこへ投げ捨てると都合《つごう》がよさそうだった。わたしが救出された後、警察はそこも調べるだろうか。捨ててあるコートを見つけ、犯人の着ていたものに似ている、とだれかが言い出さないか、不安だ。
 時計を確認《かくにん》する。十二時四十分。あと三十分もたたないうちに、クニコがやってくるはずだ。今ごろは一通目の手紙を読んで、電車内だろう。
 ふと、自分のおろかさに気づく。携帯《けいたい》電話に耳を傾《かたむ》けて、彼女の様子を確認していなかった。ズボンのポケットへ入れていた電話のイヤホンを取り出し、耳にはめる。
 おかしい。何も聞こえない。どうやら、クニコとの通話は切れてしまっているようだ。こんなときに! 舌打ちしながら電話を取り出してみると、そうではないことがわかった。
 小さな液晶《えきしょう》画面には、何も表示されていなかったのだ。ひびが入り、プラスチックの外郭《がいかく》も割れていた。どのボタンを押《お》しても、機械は反応しなかった。
 さきほど、窓を通りぬけるときに聞いた何かの壊《こわ》れる音、これだったのか、と腑《ふ》に落ちた。
 クニコの現在の状況《じょうきょう》がまったくわからない。そのことでたちこめる不安感は計り知れないものだった。突然《とつぜん》、自分の感覚機能の一部が消滅《しょうめつ》してしまったかのようだ。
 しかし、おおまかなスケジュールはわかっている。たぶん、大丈夫《だいじょうぶ》だ。わたしはそう自分をはげます。じきに電車が鷹師駅に到着《とうちゃく》し、クニコが二通目の手紙を手に入れる。後は公園へやってくるだけ。ただ、彼女がベンチに到着したのを見逃《みのが》さなければいいだけなのだ。
 それまでの間に、できるだけ支度《したく》を調えておかないといけない。
 乱闘《らんとう》があったように見せかけるため、部屋《へや》の中を散らかそう。まわりを見まわし、それが困難であることに気づく。家具などは一切《いっさい》なく、わずかな材木が隅《すみ》の方に集められているだけである。これだけの材料をつかって、ここで派手《はで》な立ちまわりがあったことを演出しなくてはいけない。わたしは、床《ゆか》にたまっていた土を引っ掻《か》き回し、隅にあった材木を、乱雑《らんざつ》に部屋中へ置いた。
 だめだ。乱闘があったようには見えない。食器|棚《だな》なんかがあれば、こなごなにぶち壊していたのに。せめて、自分が床に転がされていたように見せるため、床の土を体中へ付着させることにする。乾燥《かんそう》して白くなった土を一握《ひとにぎ》りつかみあげると、腕《うで》や胸、足になすりつけた。乾燥した細かい土で、指先が冷たくなる。これで少しは、乱暴な扱《あつか》いをうけたように見えるだろうか。
 建物の外では着飾《きかざ》った人たちが楽しそうに歩いているというのに、人気《ひとけ》のない建物の中でひとり全身を汚《よご》すというのは、自己|嫌悪《けんお》に陥《おちい》る作業だった。やっているうち、嫌《いや》になってくる。それでも、やらなければいけない。即席《そくせき》で作ったこの計画のほころびを、地道《じみち》に一箇所ずつ、縫《ぬ》っていかなくてはいけないのだ。
 もっと時間がほしかった。余裕《よゆう》があれば、いろいろ用意ができたはずだ。本当ならこのビルへも、事前に下見をしにこなくてはいけなかった。以前、友人ときたときに見た、うろ覚えの記憶《きおく》だけで計画を立ててはいけなかった。髪《かみ》の毛を土で汚しながら、計画への不安が膨《ふく》れ上がってくる。
 ビニール紐《ひも》を、いくつか適当な長さに切る。残った紐の束《たば》と鋏《はさみ》は、その辺りに捨てた。口にはるためのガムテープも同じようにする。しかし、接着面にほこりがくっついてしまいそうだ。直前に切ることにした方がいいだろうか。当初は、こんなことで悩《なや》むとは考えていなかった。軽いいらつきを感じる。
 そういえば、建物に入るとき、割った窓ガラスはどうなるのだろう。あのまま、片づけなくても大丈夫だろうか? 警察は、あの窓に注目するだろうか。犯人が合い鍵《かぎ》をつかわずに、このビルへ侵入《しんにゅう》するとなると、小さな窓を使ったと考えるのだろうか。もしそうなら、犯人はあの窓を通ることができるくらい小柄《こがら》な子供だと推測できてしまうのではないだろうか。
 もう遅《おそ》い。そんなことを考えている余裕《よゆう》はない。
 用意したビニール紐《ひも》を見ながら、また見落としに気づいた。手足をしばられていたのなら、その跡《あと》がわたしについていなくてはいけないはずだ。なんとか犯人から逃《に》げようともがいているはずでありもし跡がついていなければ、逃げる気がなかったと思われてしまう。
 そのことに思い当たり、一瞬《いっしゅん》、動きが止まる。しかし迷っているひまはない。手首だけでも、跡をつけよう。
 両手に紐を巻きつける。一人でも、なんとかできた。捕《とら》えられたわたしは、必死に紐を解《と》こうとするはずだ。思いっきり力をこめて、手首をひねったり、もがいたりしてみる。ビニールの紐は引っ張られて、細くなるが、決して切れない。手首にその圧力がかかるようにする。何度かやっていると、白い皮膚《ひふ》に、赤味が入る。痛いのを我慢《がまん》する。
 時計を見ると、十二時五十分になっていた。手首に紐を巻いたまま二階へ行き、正面の大通りを見下ろすことのできる部屋《へや》で待機した。明るい日差しのもと行き交《か》う人々を、窓から眺《なが》める。携帯《けいたい》電話が役に立たなくなった今、クニコが現在、どのような状況《じょうきょう》にあるのかを知ることはできない。しかし、じきに彼女はここを通るはずである。わたしは一人一人、つぶさに顔を観察する。鞄《かばん》を抱《だ》いて、不安げに歩いてくる背の高い女を探す。
 手首に薄《うす》く赤い線がついたものの、これでもがいた跡に見えるかどうか不安になる。もっと力をこめるべきだ。皮膚《ひふ》が裂《さ》けて、血の滲《にじ》み出すほどの勢いで、紐を手首にこすりつける。やけどするような摩擦《まさつ》の痛みに耐《た》える。わたしはいっそ泣きたかった。もっと、いろいろ考えておくべきだった。
 大人だったら、立派な計画をたてて、事前にリハーサルしていた。いや、そもそも、こんなことにはならなかった。手首に、充分《じゅうぶん》な跡ができたのを確認《かくにん》し、紐を解く。わたしは、なんて未熟なのだろう。
 腕時計《うでどけい》を見る。十三時になった。わたしの心臓が早くなる。ちょうど一時間前に菅原家へ電話し、パパと短い言葉を交《か》わした。たしかその後、クニコが屋敷《やしき》を出発したのは十二時五分|頃《ごろ》だった。頭の中にあるおおまかなスケジュールでは、そろそろクニコは、駅前から公園へ向かって、わたしの見下ろしている通りを歩いてくるはずだった。
 彼女は今、どうしているだろう。鞄《かばん》を落としていないだろうか。交通事故にあっていないだろうか。電車が、何かのトラブルで遅《おく》れていないだろうか。いや、それとも、わたしが見落としただけで、すでに彼女は通りを抜《ぬ》け、公園に到着《とうちゃく》しているのではないだろうか。
 一度、裏手に位置する部屋《へや》へ行き、窓から公園を見る。やはりクニコは来ておらず、すぐに正面の方にある部屋へ戻《もど》った。
 心配だった。クニコの様子を知りたかった。彼女は人通りの多い所が苦手《にがて》だ。こういった場所へくるのは嫌《いや》だろう。彼女は始終、おどおどしていたし、悪意のある人間が見たら、格好《かっこう》のカモとして映るかもしれない。ここへ来る途中《とちゅう》、だまされて鞄《かばん》を巻き上げられていないだろうか。
 十三時十分を過ぎた。クニコはまだこない。
 焦燥《しょうそう》に駆《か》られ、胸が苦しくなる。何か見落としはないだろうかと考えるが、何も頭に浮《う》かばない。ふとすると、クニコがベンチへやってきた後、自分のとらなければならない行動まで忘れそうになる。
 自分以外にだれもいないビルは静寂《せいじゃく》に包まれ、眼下を歩く人々の賑《にぎ》やかな声が遠く聞こえる。外は生活感のある現実の世界であるのに対して、何もないビルの中は空虚《くうきょ》な暗い洞穴《ほらあな》である。
 クニコが現れるのを待ちながら、いろいろなことを後悔《こうかい》していた。なぜ、自分がこんなことをしているのかわからない。軽い気持ちでついた嘘《うそ》から、家族をだまし、大勢の人を混乱させてしまった。寒さに身を縮ませながらも楽しげな笑顔《えがお》で歩いている人々が、ひどくうらやましかった。わたしはいつだってその中に混じって歩くことができたはずなのに、救いがたい愚《おろ》かさが積み重なった末、人前に出ることができなくなってしまった。
 いつのまにか、時計を確認《かくにん》するのも忘れ、人込みに見入っていた。土がついて白くなった手で、手首の赤い線をさする。普段《ふだん》、思うことはないのに、自分の手首の細さに気づかされる。わたしは子供だ。そのことを、まるで今はじめて知ったように思う。
 実際の身長と、心の視界の広さは比例するのだろうか。まだ背の低いわたしには、まわりの人の気遣《きづか》いも、自分の限界も、見えていなかった。そのくせ、自分の中にある世界がすべてだと勘違《かんちが》いしていた。穴だらけの計画を大真面目《おおまじめ》にたてて、何の障害もなく、それが成功すると信じていた。大勢の警官を相手に、渡《わた》り合えると思っていた。わたしは、いきがっていたんだ。
 キョウコへも、悪いことをした。明確な理由もなしに、彼女が部屋に入り込んでいると決め付けた。きっと、それはわたしの妄想《もうそう》なんだ。実際はだれも侵入《しんにゅう》していないのに違《ちが》いない。旅行から帰ってきたときに感じた違和感《いわかん》は、子供っぽい怒《いか》りの生んだ錯覚《さっかく》だったのだろう。自分が自分で嫌《いや》になる。
 不意に、三畳間《さんじょうま》のことを思い出した。コタツに入り、わたしは腹をすかせている。クニコが一階の炊事場《すいじば》で沸かしたお湯を持って、部屋に現れる。ふたを開けたカップラーメンを差し出すと、彼女はいつもの困ったような顔で、それでもどことなく楽しげにお湯を入れてくれた。懐《なつ》かしかった。あの部屋は日当たりが悪く、このビルと同じくらい、古かったし、寒かったはずだ。しかし思い出せるのは、コタツのぬくもりと、わたしを両手で包み込むような心地《ここち》よい部屋の狭《せま》さだ。
 駅の方角に視線を転じたとき、鞄《かばん》を胸に抱《だ》きしめて歩いてくる見知った背の高い女の姿を確認した。心臓がはね、血液が高速で体中を走り始めた。
 クニコがビルの前を通りすぎるまで、まだ二十メートルほどあった。彼女はいつもの野暮《やぼ》ったいセーターの上に、盗聴器のしかけられた地味な上着を着ていた。まるでちょっとゴミを出すために家を出てきたような感じだった。緊張《きんちょう》のためか、顔を青ざめさせていることさえわかる。まわりの雑踏《ざっとう》に比べて、彼女の歩みは予想以上に遅《おそ》い。人とぶつかりそうになるたび、驚《おどろ》いたように歩みを止める。人込みを歩きなれない人間の持つ危なっかしさがそこにある。
 彼女とすれ違《ちが》う人間には、無意識のうちにそれがわかるのだろう。鞄を抱いた女が視界に入る距離《きょり》になると、ぶつからないように、あらかじめ余裕《よゆう》をもって彼女を避《よ》ける。上から見ていると、その様《さま》がよくわかった。
 ビルの前を通りすぎ、この先にある十字路の角を右へ曲がると、すぐに公園である。誘拐《ゆうかい》犯人の出番は近い。何度も計画を頭の中で反芻《はんすう》する。手のひらを、開いたり、閉じたりする。汗《あせ》をかいていた。彼女から鞄を奪《うば》うとき、手がすべってはいけない。コートの裾《すそ》で手の汗をぬぐう。そういえば、誘拐を通知する手紙を送りつけたときも、おなじように手の汗をコタツ布団《ぶとん》でぬぐった。変なことを思い出す。
 警察は犯人の忠告に従わず、こっそりクニコの後ろをついてきているのだろうか。そうでなければ、話にならない。わたしの計画は、ある程度、警察が見ているということを前提に立てている。
 さきほどまで考えていたいろいろな不安を振《ふ》り払《はら》う。いくら後悔《こうかい》しても、もう取り返しのつかないところまできている。全力でやらなくてはいけない。心の中で、何かがはじける。もし、警察につかまってしかられるのだとしても、ここで逃《に》げるわけにはいかない。すべて、わたしが巻き起こしたことだ。何らかの形で決着をつけなくては、鞄を運んできてくれたクニコにも、捜査《そうさ》してくれた警察にも失礼だ。
 ビルの一階へ降りておこうと思った。ベンチの見える公園側の部屋《へや》で、飛び出す準備をしておかなくてはならない。緊張のため、耳のあたりの血管が熱く脈打ちはじめる。クニコから目を離《はな》し、下へ行こうとした。
 そのとき、彼女の後ろに、おかしな人影《ひとかげ》を見つけた。その男は紫色《むらさきいろ》の帽子《ぼうし》をかぶり、サングラスをかけ、クニコの後ろ姿を見つめているような気がした。警官の一人だろうかと最初は考えた。しかし、わたしは彼に不穏《ふおん》なものを感じた。窓から離れるのを忘れ、そいつを目で追う。
 男は徐々《じょじょ》に歩みを速め、クニコへ近づいてくる。ジャンパーのポケットに両手を突《つ》っ込み、やや前傾《ぜんけい》姿勢で足早に歩く。それは寒さのためというよりは、人間の視線から少しでも隠《かく》れたいという感情の表れに見えた。
 クニコは、男に気づいていない。二人の距離が短くなるにつれ、わたしの鼓動《こどう》がトクトクと早くなる。
 男がクニコの横に並んだ。そのまま通りすぎてくれ。胸の中で飛び跳《は》ねているものが、最高潮に達する。
 男はポケットから手を出し、クニコの抱《だ》いていた鞄《かばん》をつかんだ。
 通りのざわめきが一瞬《いっしゅん》、耳から消えさったような気がした。
 クニコはとっさに反応し、鞄を渡《わた》すまいとする。しかし無駄《むだ》だった。男は鞄を奪《うば》うと、そのまま向きを変えずに走り出した。クニコは呆然《ぼうぜん》とした表情をする。
 ひったくりだ。無意識のうちに、わたしは窓から離《はな》れ、階段を駆《か》け降りていた。このままでは計画が破綻《はたん》してしまう。といって、男を捕《つか》まえたところでどうすればいいのかわからない。軌道《きどう》修正の方法もわからない。しかしわたしは、なんとか男を捕まえて、鞄を取り返さなくてはいけないという考えにとらわれていた。
 一階におり、裏口から外へ出る。
 男があのままの向きで走るとすれば、このビルの前を通りすぎ、その先にある十字路へ向かうはずだ。その十字路までは、脇《わき》にそれる道はない。わたしは裏口の方からそこへ先回りし、男の前に立ちはだかることにした。今、正面から外へ出ると、クニコの後を追いかけてきた警官に見つかる可能性がある。
 裏口を抜《ぬ》け、薄暗《うすぐら》いアスファルトの道を左手に走り出す。五十メートルほど先に、T字に分かれた道がある。そこをさらに左へ曲がり、建物ひとつ分、走ったところが十字路である。
 わたしの靴音《くつおと》が、並んだビルの壁《かべ》に反響《はんきょう》する。頭は混乱し、ただ自分の不運を呪《のろ》っていた。曲がり角までやけに長く感じる。コートがまとわりつくので、走りながら脱《ぬ》ぐ。準備運動もせずに全力|疾走《しっそう》するものだから、すぐに息があがる。しかし立ち止まるわけにもいかず、男よりも先に十字路へたどり着かねばならない。走らなくてはならない距離《きょり》はわたしの方が長く、不利に思える。しかし、向こうは人をかきわけて進まなくてはならないはずだ。一方、こちら裏通りは人気《ひとけ》がなく、障害物などなにもない。
 わたしは速度をゆるめないまま、全速力で裏通りの角を曲がった。
 その瞬間《しゅんかん》、激《はげ》しく何かにぶつかり、はね返されて道路に転がった。ひどい衝撃《しょうげき》に、肺の中の空気が、残らず押《お》し出された。あお向けに倒《たお》れたせいで、わたしの視界いっぱいに、ビルにはさまれた青い空が映った。アスファルト表面の小さな凹凸《おうとつ》を手のひらに感じた。
 男のうめき声が、そばで聞こえた。わたしは倒れたまま、首をめぐらす。視界のはしに、さきほどクニコから鞄をうばった男が転んでいた。案外、彼の足は速かったらしい。わたしは曲がり角で、彼に衝突《しょうとつ》してしまったのだと、かろうじて理解する。
 男が立ちあがり、わたしの方を見た。衝突の際に落としたのだろう、地面に転がっていた鞄をつかみあげる。
 わたしは動けなかった。待って! と言おうとしたのだが、舌が思うように動かず、だらしない寝《ね》ぼけた声になる。視界が徐々《じょじょ》に暗くなり、意識はそこで途切《とぎ》れた。
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 家にはそれぞれ独特の匂《にお》いがある。しかし自分の家のものだけは、どうもうまく識別できないような気がする。長い間、生活しているうちに、自分の家の匂いにだけ嘆覚《きゅうかく》が鈍化《どんか》してしまうからではないだろうか。
 はじめて菅原家にきたとき、まだ小さかったわたしは、母親に手をひかれて屋敷《やしき》に入った。幅《はば》の広い廊下《ろうか》にびっくりし、つるつるの床板《ゆかいた》で滑《すべ》りそうになる。知らない場所だったから不安で、母の手を強く握《にぎ》りしめると、母も同じ気持ちだったらしく、わたし以上の力で握り返した。屋敷中から、ほのかに木の匂いがした。それを長いこと忘れていた。
 暗闇《くらやみ》の中、ひさびさに感じる懐《なつ》かしい匂いがやさしく手招きして、もう目覚める時間であることをわたしに告げた。やわらかい布団《ふとん》の中で、ぼんやりと視界がもどる。自分の部屋《へや》の、ベッドの上だった。いつのまにかわたしは帰宅していた。
 軽い混乱に襲《おそ》われた。上半身を起こそうとすると、体のあちこちに痛みが押《お》し寄せる。とくに背中が痛み、「こんちくしょう」とうめき声をあげた。しかしそのおかげで、誘拐《ゆうかい》に関するさまざまなことが夢ではなかったことを知る。路面に倒《たお》され、ひどく背中を打った。そのまま気を失っていたらしい。
 扉《とびら》が開き、エリおばさんが入ってきた。わたしが目覚めているのに気づくと、彼女は一瞬《いっしゅん》、驚《おどろ》いた表情をした。目は赤かったが、口をほころばせ、「おかえり」と言った。
「……おはよう、の間違《まちが》いでは?」
 わたしはそう返した。
 二十四時間ほど気絶していたらしい。おばさんが説明した。つまり、身代金《みのしろきん》受け渡《わた》しの、次の日になっていたのだ。
 痛みが押し寄せないように、そっとベッドの上へ腰掛《こしか》ける。いつのまにかパジャマを着ていた。
「わたしは……」
 いったい、どうなってしまったのだろう?
 だれに着替《きが》えさせられたのだろう。身代金の入った鞄《かばん》はどうなったのだろう。ひったくりの男は、捕まったのだろうか。クニコは今、どこにいるのだろう。疑問がありすぎて、どれから手をつけていいのかわからない。わたしは、数学の教科書を渡《わた》された原始人のように、途方《とほう》にくれた。
 その様子が頼《たよ》りなげに見えたらしい。エリおばさんが気遣《きづか》わしげに言った。
「……ナオ、あなたは誘拐《ゆうかい》されていたのよ。泥《どろ》だらけで道に倒れていたのを、保護されたの」
 そんなことは、わかっているのだ。しかし、わたしはとっさに嘘《うそ》をついた。
「……覚えて、ない」
 十分後、部屋《へや》に呼び出された医者は、心配そうに見守るパパやおばさんの前で、わたしが精神的ショックによる健忘であると診断した。もう、まったく何も覚えていないのであり、犯人の顔も、どんなところに閉じ込められていたのかも、どうして路上に倒《たお》れた状態で発見されたのかも、警察に証言できないわけである。それは非常に残念なことであるが、記憶《きおく》にないものだからしょうがないのだ。
「ひどいことは、忘れたほうがいいよ」
 パパがわたしの額に手をあてた。そのぬくもりを感じながら、わたしは家に帰ってきたのだということを実感した。
 ふと、パパの後ろにキョウコが立っているのを見つける。
「ああ、そうそう、キョウコ、ごめんよ!」
 そう言うと、彼女は気味悪そうにわたしを見た。
 医者のかんたんな診断がすむと、パパたちを追い出して、部屋にエリおばさんと二人だけにしてもらった。とにかく、説明してもらいたかった。
 足を組んで椅子《いす》に座《すわ》り、おばさんは丁寧《ていねい》に最初から話してくれた。嘘の誘拐《ゆうかい》の後は、嘘の記憶|喪失《そうしつ》というわけだ。誘拐事件のあらましを聞いて、いちいち驚《おどろ》いてみせる。
 話が身代金《みのしろきん》の受け渡《わた》しに関するところまでくると、わたしは身を乗り出して聞き逃《のが》すまいとした。
「……公園へ向かっていた楠木は、途中《とちゅう》で、犯人に鞄を取られたの」
「犯人に?」
 彼女はうなずいた。
「人込みにまぎれて、犯人は鞄を奪《うば》い、逃《に》げたらしいのよ。後ろの方から楠木を監視《かんし》していた警察官が、何人も確認《かくにん》しているわ」
 予想通り警察は、クニコを遠巻きにしていたらしい。
「駅で楠木が手紙を読み上げ、それを盗聴器《とうちょうき》で警察は聞いていた。だから、動かせる人間の多くを先に公園へ向かわせていたらしいの。犯人に見つかってはいけないから、あまり大げさに行動できなかったはずだけど、かなり多くの警官が公園にいたはずよ。でも、通りで楠木の後についていた人間はごく少数だった。だから、通りで鞄をうばい逃げ出した犯人を捕《つか》まえることができなかった。犯人はまだ見つかってないわ」
 どうやら警察は、あのひったくりを犯人だと思い込んだらしい。ペテンがばれたわけではないと知り、わたしは安堵《あんど》のため息をついた。
「犯人を追いかけている途中で、あなたを見つけたの……。道端《みちばた》で気絶していたナオを保護して、一旦《いったん》は病院へ運んだのよ。気絶しているうちにいろいろ検査して。着替《きが》えさせたりしたの。本当は入院するはずだったけど、お兄さんが家に連れ帰ってきた。ひとまずそれで一件落着というわけね。お金を持って犯人は逃《に》げたけど、そんなことはどうでもいいことなのよ。鞄《かばん》には、発信機がつけてあった。でも、お金の抜《ぬ》き取られた空っぽの鞄が、近くで見つかっただけ。犯人のかぶっていた帽子《ぼうし》なんかといっしょにゴミ箱から発見されたの」
 警察は、わたしが保護された直後、例のひったくりと似たような格好《かっこう》をした人物を、その周辺で数人ほど見つけたらしい。彼らを取り調べたが、いずれも大金など隠《かく》し持っておらず、解放するしかなかったそうだ。
 このままひったくりが見つからなければ、真実は闇《やみ》の中だ。クニコから鞄をうばった男に逃げ足の神様が微笑《ほほえ》んでくれるよう、ひそかに祈《いの》りをささげた。
「ところで、使用人の……楠木さんは?」
 まだ、クニコの顔を見ていない。
「ああ、あの子なら、出ていったわよ」ごくかんたんに彼女は言い放った。「ええと、直接あなたには関係ないから、言い忘れてたけど、あの子、ちょっとした事故を起こしてたの」
 うなずく。その原因を作ったのはわたしなのだから、当然、知っている。
「それで、責任をとらされてクビになったわけ」
「でも、身代金《みのしろきん》の受け渡《わた》しなんて大仕事をやったんだから、免除《めんじょ》してくれてもいいんじゃない……?」
 クニコの肩《かた》を持つわたしを、おばさんは不思議そうに見た。ただの目立たない使用人に対して、普段《ふだん》のわたしならとくに関心は持たないはずだった。しかし、言わないわけにはいかなかったのだ。
「事故で怪我《けが》をした人が、それでは気がすまないらしいのよ。それに一応、あなたが無事に発見された後、お兄さんが楠木を引きとめたわ。とても感謝していたから。でも、彼女は自分から出ていったの」
「自分から?」
「そう。今朝《けさ》、荷物をまとめて出ていった。その直前まで仕事をしていたみたい。朝食のしたくをして、黒いゴミ袋《ぶくろ》を捨てに行くのを見かけた。わたしと兄さんはそれを呼び止めて、ここを出て行きたくないなら、いてもいい、そう言ったの。でも、彼女は首を横にふったわ」
 わたしは裏切られた気分で立ちあがった。「いてー」と悲鳴を何度もあげた。引きとめるエリおばさんを無視して離《はな》れへ向かった。
 離れの二階、クニコのいた三畳間《さんじょうま》は空っぽだった。部屋いっぱいにひろがっていたコタツが消え、押《お》し入れの中にあったはずの、水が入っていたポリタンクすらない。狭《せま》い部屋が、やけに広く感じられてしまう。
 ふと気づくと、押し入れの床板《ゆかいた》の一部がはずれかけていた。クニコがノートを隠《かく》していた場所だ。いかにもわざとらしくずれているのを見て、もしやと思い、中を確認《かくにん》する。絵が描《か》かれている例の古いノートが、持っていかれずに残っていた。手にとり、ぱらぱらとめくる。彼女の故郷。海。ゴミ収集車。菅原家の面々。わたし。最後のページに、彼女の文字があった。
『ナオお嬢様《じょうさま》、すみません。留守中《るすちゅう》、お嬢様の部屋《へや》に入ったのはわたしです。だって、わたしの部屋から、お嬢様の部屋の窓が丸見えだったものですから……。いつも、窓を開けっぱなしにして出かけてしまうこと、自分で気づいていらっしゃいますか? いつも、そうなんです。それが、短い間の留守なら問題はないのですが、修学旅行などで長期間、部屋にいないときなどは、雨が降り出してしまう日もあるわけで……。つまり、そうなんです。晴れた日なら、向かいにある開け放した窓も安心して見ていられるのですが、雨が降り出すともうたまらない気特ちになってしまったのです。悪いとは思いつつ、きっとだれにもしゃべらなければ気づかれないだろうと思い、部屋に入りこんで窓を閉めてしまったのです。そのことを、ちゃんと報告しておけばよかったのですが、実はわたし、お嬢様はもっと怖《こわ》い人だと思っていたので、つい言えなかったんです。すみませんでした。そして、ありがとうございます。[#地付き]楠木』
 読み終えた瞬間《しゅんかん》、手から力が抜《ぬ》け、ノートが畳《たたみ》の上に落ちた。くだらなすぎ。
 三畳部屋《さんじょうべや》の窓を大きく開け放つ。これまでのように、隙間《すきま》からのぞき見るような真似《まね》はしなくてもよい。向かいにあるわたしの部屋で、まだエリおばさんが椅子《いす》に座《すわ》っており、目があってしまった。
「そんなところで、何やってるの?」
 彼女はわたしの部屋の窓から、呆《あき》れたように言った。声は、十メートルある建物同士の隙間《すきま》を飛び越《こ》えた。
「……いや、なんとなく」
 長い答えが見つからず、口龍《くちご》もる。
 あらためて室内を見まわすと、ここですごした短い時間を思い出す。はがれかけた壁紙《かべがみ》、古い蛍光灯《けいこうとう》、すべてがやさしげにわたしを受け入れる。コタツは消えてしまったが、匂《にお》いはそのまま残っており、まるで懐《なつ》かしい友達のようにわたしの嗅覚《きゅうかく》と挨拶《あいさつ》を交《か》わした。
「ナオ」エリおばさんが向かいの窓から呼びかける。「警察の方だよ」彼女の背後《はいご》に、数人の男たちが立っていた。
 母屋《おもや》へ戻《もど》る。わたしの部屋に大勢が集まるのは嫌《いや》だったので、客間で待っていてもらう。わたしは服を着替《きが》え、警察の人間に会った。彼らは五人いた。話を聞いてみると、屋敷《やしき》へ変装して入り込んでいた面々だった。確かに、彼らの声にはどこか聞き覚えがあった。クニコへ持たせた携帯《けいたい》電話越しに、鼓膜《こまく》がしっかり記憶《きおく》していた。わたしはこれでも、物覚えはいい方だ。たまに、特徴的《とくちょうてき》な声に出会うことが人生にはあるもので、その人のことをはっきり覚えていたりする。
 警察の方は、わたしの元気そうな顔を見て、喜んでいた。仕事の苦労が報《むく》われたという様子だった。ただ、記憶喪失《きおくそうしつ》であることを聞いて、残念そうな顔を隠《かく》せなかった。犯人を見つける手がかりが一気に少なくなってしまったのだ。
 彼らとはごくかんたんな会話しか交《か》わさず、十分ほどで帰っていった。その間中、わたしは心の中で激しく動揺《どうよう》し、うろたえていた。彼らが帰るとき、思いきってたずねてみたのだ。
「すみません、この屋敷《やしき》に潜入《せんにゅう》したのは、もしかして六人だったのではありませんか?」
 不思議そうな顔をして、彼らの一人が首を横にふった。
「いいえ、我々、五人だけですよ」
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 誘拐《ゆうかい》のことはあまり騒《さわ》がれなかった。パパが情報の公開に口をはさんだのだろう。身内など、ごく一部の人間だけ、わたしがさらわれたことを知っている。
 失踪《しっそう》していたのは、ちょうど冬休みの間だったため、中学の同級生でさえ、わたしがいなかったことに気づいていなかった。ただ、休み明けの三学期、冬休みに何をして遊んでいたのかという話題に加わることができないだけだった。
 そうこうするうち、十ヶ月が経過した。わたしは中学三年生になり、じきに訪《おとず》れる受験のため、勉強をしていた。寒さが増してくると、去年のことをぼんやり思い出す。三畳部屋《さんじょうべや》のコタツにもぐりこみ、外で冷たい風が吹《ふ》くのを聞きながら、まどろんでいた日々を懐《なつ》かしく感じる。
 クニコから、ごくかんたんなハガキが送られてきたのは、そんなときである。結婚《けっこん》しました、という意味の文章が簡潔に述べてあり、住所が添《そ》えてあった。実家の住所ではなく、はじめて聞く地名だった。実を言うと、わたしは誘拐|騒動《そうどう》の後、一度もクニコに会っていなかった。顔を見たかった。そして、いろいろなことを話したかった。彼女のハガキを読み、わたしは旅の支度《したく》をはじめた。
 十一月の、ある土曜日。
 わたしは電車を下り、改札を出た。菅原家から飛行機と電車を使わなくてはならない、遠く離《はな》れた駅だった。クニコへ、事前に連絡《れんらく》をいれることができなかった。住所は記されていたが、電話番号は見当たらなかった。
 駅のまわりは商店街だった。大きな建物は見当たらず、スーツを着た人間はひとりもいない。すでに陽《ひ》は傾《かたむ》きかけ、黄色い帽子《ぼうし》をかぶった小学生が集団で下校していた。駅の脇《わき》に葉を落とした木があり、放置されたように錆《さび》の浮《う》いた自転車がたてかけられていた。腰《こし》を直角に曲げたおばあさんが、目の前をゆっくり通りすぎていく。
 パパに連絡《れんらく》をいれ、クニコの家にしばらく滞在《たいざい》するかもしれないと告げる。ゆっくりしてきなさい、という返事をもらった。
 わたしは駅前のバス停《てい》で、バスがくるのを待った。薬局の広告が印刷されたプラスチックのベンチがあり、汚《よご》れないかどうか気をつけながら腰掛《こしか》けた。足元に枯《か》れ葉が散っており、風が吹《ふ》くと地面を転がった。
 クニコのノートを持ってきていたので、それを眺《なが》めて時間をつぶす。太陽が徐々《じょじょ》に赤味をおび、しだいに寒さがましてくる。
 突然《とつぜん》、ひざに広げていたノートに、影《かげ》が落ちた。見上げると、正面に背の高い女が立っていた。
「まあ……」
 彼女は右手に買い物|袋《ぶくろ》を提げて、あのなつかしいのんびりさで驚《おどろ》いた。
「ひさしぶり」
 わたしは驚きを隠《かく》して、クニコに右手を上げた。
 バスへ乗り込み、最後部の座席に並んで腰掛けた。彼女は旦那《だんな》を残して駅前に買い物へきていたらしい。帰りのバスで、偶然《ぐうぜん》、わたしといっしょになったというわけだ。
 ほんの少しバスが走ると、風景に建物の数が少なくなる。山のふもとの方に家があるらしく、やがて町を見下ろせる高い道になる。バスの車内にはわたしたちだけだった。
 十ヶ月前の思い出話や、最近までどうしていたかなどを話した。言葉を交《か》わしているうちに、彼女のゆるやかな、決して急がない言葉のつむぎかたを思い出した。会っていない時間など存在せず、まるで三畳間《さんじょうま》から出なかったように、いつのまにかわたしと彼女の主従関係はよみがえっていた。わたしが、「クニコのくせにえらそうだぞぅ」と言うと、「ああ、ごめんなさい、ごめんなさい」と彼女は困った顔をするのだ。
 十分ほどで、バスを降りた。その頃《ころ》にはもう辺りは暗く、バスはヘッドライトをつけ、荒々《あらあら》しく排気《はいき》ガスを出しながら走り去った。バス停のまわりには、自動|販売機《はんばいき》が一台、明るい光を出していた。わたしはクニコのかわりに、重い買い物袋を持って歩き出す。熟《う》れすぎて落ちた柿《かき》の、腐《くさ》った甘《あま》い匂《にお》いが路面に染《し》みついていた。
 彼女の家は、ごく普通《ふつう》の民家だったが、なかなか過ごしやすそうなたたずまいだった。旦那《だんな》の実家なのだとクニコは説明した。
 クニコが「ただいま」と言って中に入る。わたしは何も言わないで、その後に続いた。
「おかえり」と、男の声が奥《おく》から聞こえてくる。声のした方へ向かう。
 居間には、低いテーブルと、それをはさむようにソファーがある。古い型のテレビがあった。今は電源が切れている。ソファーに、新聞を読んでいる男が座《すわ》っていた。クニコの旦那であろう。彼はテレビ欄《らん》に目を落としたままだったから、客の存在に気づいていなかった。
 わたしは居間の入り口に立ったまま、だまって彼を見ていた。クニコがわたしの横を通りすぎる。持ってあげていた買い物|袋《ぶくろ》を、彼女へ戻《もど》した。
 そこでようやく、旦那が顔をあげる。目が合った。
「やあ、どうも」
 それだけ言うと、目をそらしてさきほどの状態にもどる。
 わたしは向かいに座り、くつろいだ。
「うん、ここをわたしの別荘《べっそう》にしてあげよう」
 と、旦那に言ってみた。
「部屋《へや》なら、ひとつ余ってますよ」彼は新聞に目を向けたままだった。「でも、三?五|畳《じょう》だから、あなたには広すぎるかも」
 わたしは腹をすかせており、その旨《むね》をお嬢様《じょうさま》らしくやや遠まわしに伝えてみる。
「おなかがすいたので、何か、食べるものがほしい」
 旦那は新聞をたたみ、微笑《びしょう》を浮《う》かべて立ちあがった。
「たしか冷蔵庫に、ぼくの作ったパイがあったはずだ」
「素敵《すてき》です。わたし、あなたの作ったパイをクニコさんが持ちかえるの、いつも楽しみにしてたんですよ」
「それはどうも、ありがとう」
 彼は、一度聞いたら容易に忘れることのできない、例のかすれた声で言うと部屋を出ていった。居間で一人になり、クニコのノートを鞄《かばん》から出した。ゴミの収集人の絵を見る。旦那とうりふたつだった。そしてまた、その絵に帽子《ぽうし》とサングラスを頭の中で描き足してみる。すると、あの身代金《みのしろきん》受け渡《わた》しの日、クニコから鞄をうばったひったくりにそっくりなのである。
 十ヶ月前の、身代金受け渡しの次の日。屋敷《やしき》の玄関先《げんかんさき》で、五人の警官が帰るのを見送っていた。
「ナオ」
 振《ふ》り返ると、パパがわたしの背後《はいご》に立っており、大事そうに何かを持っていた。それは、白い布切れに見えた。
「これを犯人に取り上げられて、つらかっただろう。残念ながら、犯人の指紋《しもん》は出なかったそうだよ。これ、昨日、警察から取り返したんだ。大切なものだから、返してくれと言ってね」
 パパが、それをわたしの手に握《にぎ》らせる。母の、形見のハンカチだった。クニコの三畳間へ持ち込んでいたものだったが、いつのまにか存在を忘れていた。なくなっていたことすら、そのときまで気づいていなかった。
 なぜ形見のハンカチを持っているのか、説明を求める。
「犯人から送られてきた手紙に、同封《どうふう》されていたのだよ……」
 パパの言葉が、すぐには理解できなかった。
 手紙の、本当の差出人はわたしのはずだが、そんなものを同封《どうふう》した記憶《きおく》はない。ちょっと待って、と口を挟《はさ》みそうになるが、その気持ちを押《お》しとどめる。
 娘《むすめ》の所持品であるハンカチが、犯人から送られてきた最初の手紙といっしょに、封筒《ふうとう》へ入れられていた。そこでパパは、手紙の内容が真実であり、わたしが本当にさらわれてしまったのだと確信したそうだ。
 送られてきたという手紙を見せてもらう。本物はビニールに入れられて警察が保管しているそうだが、手紙のコピーがあった。あきらかに、わたしが活字を切りぬいて作成したものではなかった。見覚えのない文面である。しかも、子供の冗談《じょうだん》ではすまされない、切実な言葉で作られた文章である。
 わたしの思い描《えが》いていた物語と、いくつかの点に違《ちが》いがあることを確信したのは、そのときだった。
 あの三畳部屋《さんじょうべや》において、得る情報のほとんどはクニコを中継《ちゅうけい》したものだった。窓の隙間《すきま》から屋敷《やしき》を眺《なが》めることもできたが、発見されることを恐《おそ》れて積極的に覗《のぞ》き見ができなかった。そこから得られる情報といえば、遠く離《はな》れたところを緊張《きんちょう》した顔の人間が歩いているといった程度のことだった。屋敷内で何が行われているのかを知ることは無理だったのだ。ただ、わたしはひしひしとした緊迫感《きんぱくかん》だけを窓の隙間から感じ取っていた。たまに砂利道《じゃりみち》で交《か》わされる会話も聞こえたが、かろうじて耳に届《とど》くその内容から真実をつかみとることはできなかった。自分の置かれている正しい状況《じょうきょう》について、知ることはなかったのである。
 屋敷内のことは、クニコから話を聞かされていた。彼女が仕事からもどり、三畳間へ帰ってくると、コタツをはさんで座《すわ》った。みかんなどを食べながら、興味深く、その日に屋敷内で起こった出来事を聞いていた。それ以外の情報となると、彼女に持たせた携帯《けいたい》電話が、雑音混じりに拾う物音だけだった。
 したがってわたしは、自分の意志で誘拐《ゆうかい》されたという手紙を出し、狂言《きょうげん》誘拐の泥沼《どろぬま》にすっかり足をとられたものと思っていた。自ら三畳部屋に隠《かく》れたまま、最後に路上で救出されるまで、わたしは被害者《ひがいしゃ》というより、むしろ計画を企《くわだ》てた張本人であるように感じていた。しかし実際はそうでなかった。わたしはいつのまにか、クニコに誘拐され、あの狭《せま》く愛着を持った部屋に監禁《かんきん》されていたのである。
「……本当に、お嬢様《じょうさま》には、なんて謝《あやま》ればいいのかわかりません。ナオお嬢様から狂言誘拐に関する話をはじめて聞いたあの夜、紙くずの散らかる三畳部屋で、わたしはおおまかな計画をたてました」
 クニコは旦那《だんな》の隣《となり》に腰掛《こしか》け、すまなそうな顔で頭を下げた。わたしたちはテーブルをはさんで、ソファーに腰掛けていた。コーヒーの入った三つのカップが用意され、わたしの前にだけパイの載《の》った皿があった。
 音楽も、テレビの音もない。わたしは軽い緊張を感じながら、彼女の言葉を聞いていた。
「完成した手紙を郵便受けに入れてくるようナオお嬢様に言われたあの日、わたしはすぐにはそうしませんでした。封筒《ふうとう》を持って、当時からつきあっていたこの人のところへ行きました」
 隣に座《すわ》っている旦那に視線を送る。彼はわたしにうなずいてみせた。さほど緊張しているようには見えず、このような夜が訪《おとず》れることを以前から待ち望んでいた様子すらうかがえた。
 クニコはワープロが打てなかった。そこで彼に、もう一枚、本物の犯人がしたためるような凶悪《きょうあく》な手紙を作成してもらった。そういえば、手紙を郵便受けへ入れてくるだけなのに、なぜかなかなか彼女がもどってこなかったのを覚えている。彼の家へ向かったため、遅《おそ》くなったのだ。当時、彼の住んでいたアパートは、菅原家から歩いて十分の場所だったそうだ。
 封筒には、当時の旦那が作成しなおした手紙と、母が残した形見のハンカチを同封した。それを郵便受けに入れる。わたしはそのハンカチがなくなっていたことに、気づかなかった。彼女はそれが母の形見であり、パパもそのことを知っているのだということをわたしから聞かされていた。それで、利用できると思ったのだ。手紙を投函《とうかん》するために部屋を出る直前、こっそり衣類の中から盗《ぬす》んでいたのだろう。洗濯《せんたく》はすべてまかせており、彼女がわたしの衣類をあつかっていても、不審《ふしん》に感じなかった。
 大塚さんが封筒を発見し、パパに知らせたあたりのことを携帯《けいたい》電話|越《ご》しに聞いた。あのとき、パパが手にしていたのはわたしの作った手紙ではなかったわけである。
 クニコはそのとき、わたしに聞かせたくない情報が流れようとすると、即座《そくざ》にその場を離《はな》れたり、電源を切ったりして、真実を覚《さと》られないようにしていたそうだ。犯行声明の手紙をパパが読んだときのこと、急に電波の状態が悪化し、不通になったのを覚えている。おそらく、パパがハンカチに関することを大塚さんに説明しようとしたのだろう。それで彼女は、即座に電話を切ったのだ。
「そういえばクニコさんは、誘拐《ゆうかい》したことを知らせる最初の手紙を出して以降、わたしが見つかるのを避《さ》けたがっている様子だった。外へ出て行くときも、いっしょについてきたわ」
「はい、あのぅ、事件の最中にナオお嬢様が発見されるのは不都合《ふつごう》でしたから……。お嬢様が窓から外を見たり、大きな声で笑ったり、くしゃみしたり、トイレへ行くために部屋を出たりするときは、心配で死にそうでした」
 しかし、彼女の部屋にわたしがいることを、結局だれにも悟られることはなかった。その危《あや》うい綱渡《つなわた》りが成功したのは、他《ほか》でもない、誘拐されている当のわたしが必死でかくれる努力をしていたためである。
「ほっとしました。お嬢様、真相を知って、怒《おこ》ってらっしゃるかと思っていました」
 わたしは答えを返さずに、出されたコーヒーへ口をつける。
 怒っていなかったといえば、嘘《うそ》になる。でも、それは事件の真相に気づいた十ヶ月前、一瞬《いっしゅん》だけ感じたことであり、そのすぐ後には裏切られたという怒《いか》りなど跡形《あとかた》もなく消え去ったのだ。
 パパからハンカチを渡《わた》され、犯行を知らせる見覚えのない手紙のコピーを見た後、まだわたしは気絶したまま夢を見ているのではないかと思った。しかし、ひったくりとぶつかり、撥《は》ね飛ばされたときにつけた腕《うで》の青痣《あおあざ》は、まぎれもなく痛かったのである。
 わたしは、家出をした後に菅原家へ送られてきたすべての郵便物を確認《かくにん》した。友人からわたしにあてた年賀状《ねんがじょう》がたくさんあった。しかし、それらを脇《わき》に振《ふ》り分けながら、郵便物の山から目的の手紙を探す。
 誘拐のことなど計画していなかったとき、パパを安心させるために送った手紙も警察が保管していた。警察は当然、わたしが家出をした後の足取りを捜査《そうさ》するため、その手紙についても調べ上げていた。
 家出をしたわたしは、鷹師駅の辺りで友人と別れた直後、何者かにさらわれたものであると判断されていた。足取りがつかめなくなって約二週間後、犯行を知らせる手紙が郵便受けに入れられる。それまで家族を安心させる目くらましとして、その手紙は、犯人がわたしに書かせたものであると結論づけていた。
 わたしは事件後、記憶《きおく》を消していたため、そのことに関してコメントはできなかった。
 しかし、わたしが郵便物の中から探していた目的の手紙は、それではなかった。
 かつて三畳間《さんじょうま》で、警察の大掛《おおが》かりな捜査《そうさ》や、心配するパパたちの様子を見て、わたしは狂言《きょうげん》誘拐を取り消そうと思った。そこで、切りぬきの手紙がだれかのいたずらであることを示そうとして、再度、元気にしているという手紙を書いた。しかし、警察の持っている証拠品《しょうこひん》の中にも、パパの記憶にも、その存在がなかったのである。大塚さんに、配達されていた手紙はこれだけかと尋《たず》ねたが、他《ほか》にはないと彼女は答えた。
「あの手紙は、ええ、ポストへ投函《とうかん》しませんでした……」
 クニコの話を聞きながら、わたしはなつかしい味のパイにフォークを刺《さ》した。彼女の旦那《だんな》が作ったそれは、あいかわらずうまかった。
「誘拐《ゆうかい》したことを知らせた最初の手紙が、だれかのいたずらだと思わせる必要はなかった。むしろ、避《さ》けなくてはならないことだった」
 ソファーにゆったりと腰掛《こしか》け、旦那は足を組んで天井《てんじょう》を見上げる。その目はまるで、十ヶ月前の光景を思い出しているようだった。
「クニコさんがゴミを出そうとしていたとき、声をかけてきた警官があなただったんですね」
 彼は頭をかいた。そして、あのとき携帯《けいたい》電話|越《ご》しに聞いた独特のかすれ声で肯定《こうてい》した。
「ぼくは、裏口のあたりをひそかに監視《かんし》する警官のふりをした。でも、実際はあの家の門の外で、あらかじめ作っておいた台詞《せりふ》を読んでいただけだった。しかも、ゴミを収集するときの作業服を着てね。家の中にいる警察の人間が、事件に対してどのような判断を下しているのか、携帯電話越しに聞いているきみへ植えつけなくてはいけなかった」
 クニコはゴミを捨てるために裏口へ向かう途中《とちゅう》、警官と話をしたと思っていた。しかし実際は、裏門から出た敷地《しきち》の外で、一芝居《ひとしばい》うっていたわけだ。敷地の外なら、警官の目も届《とど》かなかったわけだ。わたしは二人の会話を携帯《けいたい》電話で盗聴《とうちょう》していた。わたしの知らされていた情報のいくつかは、二人のでっちあげた脚本だったのだ。
「そういえば、その直前、あなたから電話がかかってきたわ。わたしは眠《ねむ》っていて、それで起こされた」
「はい、お嬢様《じょうさま》には、ぜひ聞いていてほしかったものですから。事前に電話をかけてみたのです」
 彼女と話をしていた男の声は、しっかりわたしの耳に残っていた。しかし、事件の後、屋敷内《やしきない》に泊《と》まりこみで働いていた五人の警官に、その声の人物はいなかったのである。それで、屋敷にいた警官は、六人だったのではないかと思った。しかしそうではない。
 もう一人の人物の存在を漠然《ばくぜん》と感じ始めたのは、そのときだった。
 郵便物を前にして、事件の真相がぼんやりと見えてきたころ、身代金《みのしろきん》を要求する犯人からの手紙を読んだ。それも本物は警察が保管しており、わたしが読んだものはコピーだった。犯行を示す最初の手紙同様、わたしの目に見覚えはなく、切りぬきで作成されたものではなかった。ワープロで打たれたものであり、いくらか書きなおされていた。文章を通して、容赦《ようしゃ》のない犯人の精神が見えてくるようだった。
 ただし、身代金の受け渡《わた》しに関する時間や、使用人のクニコを使うことなどは変えられていなかった。内容について異なる部分があるとすれば、要求した身代金の額だけだった。わたしの計画で、要求した額は二百万円だったが、実際に送られてきていた手紙は、身代金三千万円を要求していた。
 ふと、受け渡しのさいにキョウコの言った例え話を思い出す。サービスとその見返りについての話で、彼女は、「娘《むすめ》を返して欲しかったら、三千万円と交換」という言葉を使った。あのとき、彼女の頭の中には、この手紙のことがあったにちがいない。
「お嬢様が本当に現金を要求する心理になるとは、思っていませんでした。誘拐《ゆうかい》の手紙は他人のいたずらだとみんなに思わせ、騒動《そうどう》を収拾させたがっていましたから。身代金要求の手紙も、そのうちわたしたちが書かなくてはいけなくなるだろうと思っていたのです。お嬢様に隠《かく》して、この人と二人で身代金の取引を行う手はずでした」
「でも、ある夜、事故が起きた。わたしが後ろ歩きをしていて、それを避《よ》けた車が壁《かべ》に衝突《しょうとつ》した。あれは不測の事態だったのね」
 彼女が代わりに罪をかぶってわたしを逃《に》がしたのは、誘拐されているはずの人間がそこにいてはいけなかったためだろう。しかし、その事故が原因で、わたしは身代金を要求し、その上、クニコを代理人に指名することを思いついた。
 彼女は、わたしの計画を利用した。臨機応変に、わたしが作った計画を実行するように見せかけ、それと同時に本物の身代金受け渡《わた》しを行うことにしたのだ。
「もし事故がなくて、わたしが身代金を要求していなかったら、どうしていたの?」
 夫婦はお互《たが》いに顔を見合わせ、わたしに向き直ると、二人同時に肩《かた》をすくめた。
「さあ、わからない。でも、事故の後、クニコが追い出されるまでの間に、やっぱり身代金を要求していたと思う。つまり、きみに黙《だま》ったまま、身代金の受け渡しをしていただろう。まあ、どうにかなっていたさ」旦那《だんな》の方が答えた。
 手紙に書かれていた三千万円という額を最初に読んだとき、わたしは当惑《とうわく》した。結局、そのお金はどこへ消えてしまったのだろう。パパたちは、確かに三千万円の現金を用意したとわたしに説明した。
 結局、ひったくりがクニコから鞄《かばん》を奪《うば》い、中に入っているお金だけ抜《ぬ》き取って、発信機のついていた鞄は公園のそばに捨てていたのだ。
 わたしは考えながら家の中を歩き回っていた。まだ背中の痛みは完全に消えていなかったが、じっとしていられなかった。
 ふと見ると、大塚さんの奥さんがゴミ捨てをしていた。それまではクニコがその仕事の担当《たんとう》だったが、彼女はもういない。
 わたしは、ゴミ袋《ぶくろ》を持った彼女を呼び止め、一階のトイレへ連れていった。かつて警官たちの寝床《ねどこ》でもあった十二|畳《じょう》和室から、一番、近いところにあるトイレだ。
「わたしが救出された日、このあたりで何か見なかった?」
 そう尋《たず》ねたが、彼女は首をかしげて、覚えていないと言った。しかしわたしは、トイレの脇《わき》に作られた物置を見て、ますますある確信を深めた。そこは掃除《そうじ》用具などを入れておくスペースだったが、三千万円を隠《かく》す余裕《よゆう》は充分《じゅうぶん》にあった。
「あなたは、身代金《みのしろきん》の受け渡《わた》しに出発する前、すでに鞄から現金を抜き取っていたんだわ」わたしがそう追及しても、クニコは否定しなかった。「身代金の入った鞄を抱《だ》いたまま、あなたは和室で待機していた。鞄を抱いていていいかと、あなたは警察の人間にたずねて、すでに準備していたんだ。そして、人目がなくなるのを待った。キョウコと二人で話をした直後、あなたは鞄を持ったままトイレへ行った。キョウコは、あなたが鞄を持ったままなのを指摘《してき》しようとしたが、聞こえないふりをした。そして、トイレに入ると、三千万円をどこか人目のつかないところに隠した」
 もしも屋敷内《やしきない》でお金を隠《かく》すチャンスが訪《おとず》れなければ、受け渡《わた》し場所へ行く途中《とちゅう》のどこかですませたはずだ。
 あの日、クニコは空っぽの鞄を胸に抱いて、公園へ向かった。
 鷹師駅の大通りで、旦那は彼女の鞄をひったくり、逃《に》げる。途中《とちゅう》、わたしにぶつかるというハプニングがあった。しかし、予定通り計画を遂行《すいこう》する。鞄を途中であっさり投げ捨て、帽子《ぼうし》とサングラスというかんたんな変装を解く。後は通行人に混じるだけである。服装が似ているという理由で、たとえ警察に話を聞かれても、問題のお金は持っていない。あっさり容疑ははれるはずである。犯人は鞄の中身を抜《ぬ》き取り、逃走《とうそう》していると考えられていたからだ。
「ひったくりに変装したあなたを追いかけて、わたしはビルを出た……」クニコの旦那に向かって話しかけた。「最後に、あなたとぶつかって気絶してしまったわけだけど、あのことは予測していなかったはずだわ。クニコさんが鞄をうばわれるところを目撃《もくげき》したのは、ほとんど偶然《ぐうぜん》なのだから。もし、あそこで追いかけていなかったら、いったいわたしはどうなってたの? あのまま、公園のベンチをずっと見張っていたわけ?」
「あのぅ……、そのときは機会を見つけて、わたしがお嬢様《じょうさま》に携帯《けいたい》電話でかんたんなあらましを伝えようと思っていました。いえ、この本当の計画のことではなく、ひったくりに鞄をうばわれたことだけ説明するのです。それで、いっそのことひったくりに罪を全部なすりつけてみましょう、と促《うなが》す手はずでした……」
 わたしに怒《おこ》られると思ったのか、クニコは所在なさげに手を動かしていた。
「冗談《じょうだん》じゃないよ。あのとき、携帯電話は壊《こわ》れていたんだよ!」
「え、そうだったんですか……?」
「そうだよ、ビルに入るとき、わたしの重みで壊れていたの。今まで知らなかったの?」
 彼女はすまなそうにうなずいた。
「でも、携帯電話って、案外、丈夫《じょうぶ》そうなんですけど。ナオお嬢様の重みって……」
「……カントリーマアムが悪いの」
 もしもビルの二階からクニコを見つけられず、追いかけていなかったら、状況《じょうきょう》もわからないで大変なことになっていたかもしれない。
「結局、わたしは路上で気絶していたところを救出され、クニコさんは英雄《えいゆう》になるわけでもなく、屋敷《やしき》を追い出されたわけだ……。ところで、大塚さんがゴミ捨てしているのを見て、わたしはエリおばさんの言葉を思い出したの。あなたが菅原家を出ていった日、黒いゴミ袋《ぶくろ》を捨てに行くのを見たとおばさんは言った。彼女は気づいていなかったけど、わたしは納得《なっとく》がいかない。透明《とうめい》なゴミ袋ではなく、黒いゴミ袋を使用するのは違反《いはん》だわ。菅原家のある地区では、ゴミ袋には透明なものを用いると定められているから。でも、その理由はかんたん。中に現金を入れて隠《かく》しておくのに、中の見える袋を使うわけにはいかなかった。ゴミ袋に入れた現金は、きっとトイレの物置に隠《かく》していたんだ。たまたま物置を開けた人がその袋を見ても、中に大金が入っているとは想像しない」
 クニコはうなずいた。
 真相に気づいたわたしは、痛む背中をさすりながら、クニコの実家へ電話をかけてみた。指が震《ふる》えて、番号を間違《まちが》えそうになった。
 頭の中に、彼女の歩く姿が思い浮《うか》んで離《はな》れなかった。
 気絶しているわたしが路上で発見され、事件が収束したように見えた次の日の朝。わたしは自室のベッドで眠《ねむ》り続けていた。警察は、和室に設置していた無線機や、電話に取り付けていた逆探知機を片付けていた。正門を監視《かんし》するためにつないでいたケーブルや、映像を記録していたビデオデッキも取り外す。まだ、警察は屋敷内《やしきない》を歩き回っていたのである。
 その中を彼女は、身代金《みのしろきん》三千万円の詰《つ》まった黒いゴミ袋を抱《かか》えて、悠々《ゆうゆう》と歩いて出て行ったのだ。途中《とちゅう》、パパとエリおばさんに呼び止められる。出て行きたくないなら、ここにいてもいいと、パパたちは彼女に言ったそうである。そのときクニコの持っていたゴミ袋の中に、まさか身代金が入っていたとは思わない。彼女は動じることもなく、ごく普通《ふつう》の様子で首を横にふる……。
 電話には、彼女の弟が出た。しかし、姉は戻《もど》ってきていないという。それだけでなく、菅原家から休暇《きゅうか》を言い渡《わた》されたことも連絡《れんらく》されていなかった。最初から実家へもどるつもりなどなかったのではないかと感じた。
 わたしは、彼女の犯罪に気づいてしまう立場にいたわけで、警察に通報するかもしれないと考えたのだろうか。それとも、警察が真相に気づき、追ってくることを恐《おそ》れたのだろうか。
 クニコがどこへ消えてしまったのか、手がかりはなく、連絡をとる方法が見当たらなかった。彼女は失踪《しっそう》したのである。
「ナオお嬢様《じょうさま》が真相を告白するかどうか、わかりませんでした。……たぶん、しないだろうと思っていました。それを口にすることは、同時に、ご自分の狂言誘拐《きょうげんゆうかい》についても話すわけですし……」クニコは自信なさげにつぶやいた。「この十ヶ月間、だれにも行き先を告げないまま、遠くから捜査《そうさ》の動向を窺《うかが》っていました。しかし、真相が知れ渡《わた》ることはなかった。だれにも話をしないという意志が、お嬢様にあることを覚《さと》りました。そこで、今になってこの家の住所をハガキに記し、菅原家へ送ってみたのです」
「わたしが無傷で戻ってきたわけだから、身代金がなくなったこと以外はすべて幸運な結果に終わっているのよ。だからきっと、それほど熱心に捜査《そうさ》は行われていないんだわ。他《ほか》に重要な事件は毎日、起こっているのだから、ほとんど解決した被害者《ひがいしゃ》のいない事件に、いつまでも警察は関《かか》わっていられないんだ」
「それに、三千万円なんて、あの家にとってはたいした額ではなかった」
 旦那《だんな》がそう付け足す。
 わたしはうなずき、背伸《せの》びをする。ソファーの背に思いきり反《そ》り返った。十ヶ月の間ずっと頭にあった考えを、ようやく追い払《はら》うことができたわけで、ひどく気分がよかった。だれかに話したり、質問することはできず、一人で考え続けていたのである。わたしの狭苦《せまくる》しい頭蓋骨《ずがいこつ》の中、クニコの犯罪に関することは、あまりにも空間|占有率《せんゆうりつ》が高すぎた。
「なんだか、今日はいい感じで眠《ねむ》れそう」
 本心からそう思った。二人が企《くわだ》て、実行した計画が、愉快《ゆかい》だった。
 すでに窓の外は暗く、わたしはもちろんこの家に泊《と》めてもらうつもりだった。余っているという、三?五|畳《じょう》の部屋《へや》を使うことにした。
 その部屋へ案内するため、クニコが立ちあがろうとする。
「いいから、きみは座《すわ》ってなよ」旦那《だんな》が彼女を押《お》しとどめ、わたしに向き直る。「ぼくが案内する」
 わたしは彼について歩き、階段をのぼった。その部屋は二階にあり、なぜかわたしは懐《なつ》かしさに襲《おそ》われた。この家の狭《せま》さ、古さ、蛍光灯《けいこうとう》の暗さが、どこか離《はな》れの中を思い出させた。
 クニコの旦那は突《つ》き当たりにある木の扉《とびら》を開け、わたしを招き寄せた。
「この部屋だよ……、少々、いろんなものが置かれているけど、だめかい?」
 電気をつけると、狭い部屋のほとんどがコタツによって占《し》められているのがわかった。近づいてよく見なくても、それがクニコの部屋にあったものだとわかる。彼女の部屋にいた約半月の間、わたしの体の一部だった、クニコが去ると同時に消えてしまったコタツだ。当時、カードで買い物して、そのままクニコが持っていってしまった携帯《けいたい》DVDプレイヤーや、ラジオなどもあった。
 コタツの前に座り、足をいれてみる。他《ほか》の電化製品には見られない、布で被覆《ひふく》された独特のコード。すでにプラグはコンセントへ差し込まれ、スイッチが「入」に切り替《か》わるのを待っている。
 切りぬきの手紙を作るとき、カッターで傷つけた跡《あと》がある。それを指でなぞりながら、その部屋がきちんと掃除《そうじ》され、ほこりがひとつも落ちていないことに気づく。
 クニコは、わたしがこの家にくることを知っていたのだ。そして、事前にコタツを出して、掃除までしてくれていたのだ。きっと、最初からこの部屋でわたしを休ませるつもりだったのに違《ちが》いない。
「まったく、もっと広くていい部屋はなかったの? これじゃあ、監禁《かんきん》されているのも同じだわっ!」
 そう不満を述べてみるが、内心のおもしろさが顔をにやけさせていたらしい。クニコの旦那は苦笑して部屋《へや》を出ていった。なんて子供っぽい、いいやつらなんだろう。
 コタツの電源を入れる。掛《か》け布団《ぶとん》をめくって、あの赤い光を確認《かくにん》する。でもまだ、あったまるには時間が必要だ。
 部屋の電気を消し、懐《なつ》かしい感触《かんしょく》に頬《ほお》を埋《うず》める。心地《ここち》よい暗さと静けさの中、まるで部屋全体が宇宙空間に浮《う》かんでいるような気がしてくる。いつも同じようなことを、クニコの部屋で感じていた。そっと包み込まれるような親密さに、いつのまにかわたしは、菅原家から遠く離《はな》れた地にいるのだということを忘れる。いったい、今がいつなのかも判断できなくなる。
 わたしの意識は時間をさかのぼり、十ヶ月前のあの部屋に戻《もど》っていた。冷たい風が離れの窓をゆらす音、温かいコタツ布団にくるまって目を閉じていた当時のことがよみがえる。
 ラジオのクリスマスソング特集を聴きながら、窓の隙間《すきま》から外を覗《のぞ》いているわたしがいた。音もなく、ゆっくりおりる雪を、長い間、眺《なが》めていた。コタツと壁《かべ》にはさまれて寝転《ねころ》がり、天井《てんじょう》のあまりの低さに驚《おどろ》いている自分がいた。
 キョウコに対して愚《おろ》かな敵意を抱《いだ》いたわたしもいた。娘《むすめ》不在のまま笑い声をあげていたパパへ、自分勝手な逆恨《さかうら》みを押《お》し付けた。誘拐《ゆうかい》の手紙を送り、パパが心配しているのを見なくては、安心できない小さな自分がいた。
 ささやかな四角い空間で、クニコと静かに夜を送った。だれかに知られないよう、まるで内緒話《ないしょばなし》のような生活だった。懐かしさに胸が熱くなり、泣きたくなるような衝動《しょうどう》が突《つ》き上げる。
 隙間《すきま》から冷気が忍《しの》び込んでいたはずなのに、なぜかやさしい温かさに満ちていた。彼女の部屋は小さくて、きゅうくつで、きっと母のおなかの中は、あんな感じだったはず。
 赤外線のランプが、ブーンとはりきりだす。コタツ型のタイムマシンが、だんだんあったまってきた。
 眠《ねむ》りに入る寸前、クニコへ祈《いの》りをささげる。大きなおなかを大切に。あなたの子供が、わたしのような親不孝に育たなければいいけど。
[#改ページ]
 あとがき
 あとがきを書こうと思った。これは重要なことである。しかも今、ぼくははりきっている。ある人が、「あなたの本、あとがきがおもしろい」と言ってくれたからだ。これは、本編よりもあとがきのほうがおもしろい、という意味にもとれる。しかしまあ、これまでに三回しかあとがきを書いたことがないくせにここまで期待されては、これはもう男としておもしろいものを書かなくてはいけないと思う。あとがきの存在は大きい。店頭であとがきだけを立ち読みし、ああおもしろかったと棚《たな》に戻《もど》す人間をぼくは知っている。というか、それはぼくなのだけど。
 とにかく、あとがきだけを読んで買うかどうかを決める人は、意外と多いのだ。そのため、不用意なことは書けない。たとえばここで近況《きんきょう》報告などを正直にやったとしよう。するととんでもないことになる。ぼくが募金《ぼきん》をしたことや、川で溺《おぼ》れている子供を助けたこと、車にひかれそうになった子犬を命がけで守ったことなどを書かなくてはならない。そうなるとぼくのイメージが崩《くず》れてしまい、実に困ったことになる。
 デビュー前、ともかくあとがきを書いてみたい時期があった。いろんな人の本を読んで、自分だったらこんなあとがきにするのに、と想像をめぐらした。「あとがきが苦手だ」ということをあとがきに書く作家さんがいるけど、何を悩《なや》むことがあるのだろうと不思議に思った。そのころ、あとがきというのは自分の好きにやれる唯一《ゆいいつ》の解放区のように思えていたからだ。
 でも今なら、妙《みょう》にその気持ちが理解できる。いざ書こうとすると、毎回、悩むのだこれが。たった数ページのくせして、実に憎《にく》らしいでしょ。
 そのようなわけで、何を書こうか迷った末に、ぼくはインターネットを使って問題を解決することにした。あとがきのいろいろを調査すれば、何かわかるかもしれないと思ったからだ。
「あとがきでストーリーの補完をしている本は最低」
 という意見をネット上で見つけた。同感である。以前、「この短編は雑誌|掲載《けいさい》時、枚数制限により一部のストーリーを削《けず》った」などという、言い訳がましいあとがきを読んだ。まったくあきれたものである。どんな神経をしているのかと疑ってしまう。その本の作者はだれだったかなあと思い出してみると、残念なことにぼくなのである。どうもすみません。
「登場人物があとがきで座談会というのもダメ」
 この意見を読んで、ぼくはショックだった。こういった種類のあとがきが、けっこう好きだったのだ。とくに、座談会というのがいいじゃないか。さまざまな雑誌で、「なんとかかんとか覆面《ふくめん》座談会」なんて特集があると、むさぼるように読んでしまう。これはぼくだけだろうか。もしもぼく一人だけだったら、さみしいので、座談会のことは忘れる。
「あとがきではしゃいでいる作家は、性格が暗いのでは?」
 その真偽《しんぎ》についてはわからないけど、ぼくは性格が暗い。
「あとがきで、遅《おそ》くなってすみません、と言っている人はダメ。修羅場《しゅらば》の自慢《じまん》してるだけ」
 まったくその通りである。ぼくはこのあとがきを大学の研究室で書いているのだが、卒業論文の締《し》め切りまで一週間をきっている。論文も書いてないのに、この本の仕上げをやっていた。もしかすると卒業できないかもしれないが、そんなことを述べると修羅場自慢になるので、あとがきには書かないよう気をつけたい。
「作品内容に触《ふ》れているあとがきはダメだと思います。あったらその場でその本を捨てる」
 これはぼくにも経験がある。読書の楽しみが半減してしまうので、やめなくてはならない。というわけで、このあとがきでは、作品内容についてではなく、題名に関する思い出を語ってみようと思う。
「しあわせは子猫のかたち」、この題名はたしか、漫画《まんが》「ピーナッツ」(スヌーピーの出てくるあれ)のとある回の題名、「しあわせは一匹のあったかい子犬」が原型としてあったと思う。それにしてもちょっと長い題名かもしれない。何度か口にしていると、舌を噛《か》んでしまうかもしれないので、あまり口にしないほうがいいと思う。実際、ぼくは舌を噛んでしまうのを恐《おそ》れて、この話を会話に出すとき、「子猫のあれ」と言うようにしている。だから、正式|名称《めいしょう》は「子猫のあれ」なのかもしれないが、それではかっこよくないので、「しあわせは子猫のかたち」なのだ。うん、こっちのほうが、やっぱりいいと思う。
「失踪HOLIDAY」、この話が作られたのは、本当に些細《ささい》なことがきっかけだった。あるとき担当編集者の青山さんが、「昔、わたしが携《たずさ》わった小説で、『疾走HOLIDAY』というのがあるのです。この題名わたしが考えました」と言ったことに端《たん》を発する。ぼくはてっきり、『疾走HOLIDAY』ではなく、『失踪HOLIDAY』であると勘違《かんちが》いした。
 耳で聞いただけではそう勘違いしても仕方がないと思う。これは、ぼくが昔、漢字の小テストが苦手だったこととはまったく関係がない。いやもう断じてそういうわけではないのである。後日、青山さんの言った題名が、『疾走HOLIDAY』と書くことを知らされた。それならばぼくが『失踪HOLIDAY』という題名を使っても怒《おこ》られないなと思った。実を言うと、『失踪HOLIDAY』っていいタイトルだと思っていた。話の内容とか、キャラクターなんかは、すべてその後で考えた。結局、これまで発表した中で、最長のものになった。やればできる。
 さて、そろそろページ数もなくなってきました。年賀状のあまりでもなんでもいいので、感想のお手紙をくださるとありがたいです。手紙のあてさきはこちらです。
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〒102-8078  角川書店「ザ?スニーカー」編集部 乙一先生へ
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 またこんなことを書くと、まわりの人から、自分の名前に「先生」とかつけやがって、と言われるはずだけど、別にこの「先生」という部分は書いても書かなくてもいいです。「先生」などと呼ばれるとかなり偉《えら》そうなので、恥《は》ずかしいかもしれない。かといって、「乙一」だけだったら、これはこれで名前のようには見えず、たんなる糸クズであるように思われそうだ。だから、「乙一(糸クズではありません)」という注意書きが必要かもしれない。ウソである。
 また、羽住都先生へお手紙を送るときは、「乙一」の部分を、「羽住都」と置きかえるだけでいいはずだ。はっきりいって、この本をだれかが買ってくれるとしたら、羽住先生のイラストのおかげだと思う。でも、ぼくが羽住先生の「羽住」って苗字《みょうじ》を、最初、「はじゅう」と読んでしまったことは知られてはいけない。もし知られたら、今度から絵を描いてくれなくなるかもしれない。それは実に困る。路頭に迷う。とにかく、ありがとうございます羽住先生。
 さて、次にスニーカー文庫からぼくの本が出版されるとしたら、「ザ?スニーカー」に掲載された「calling you」とか、「傷 kiz/kids」という題名の短編が収録されるような気がします。どちらもタイトルに英文がまじっており、「縦書きにしたとき、かっこわるくなる!」と青山さんがぼやくかもしれません。
 では、次作でまた会いましょう。
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