沈痛な声だが、また平然とした表情でもある。まるで知人のうちに碁《ご》打ちにきて、家人の知らせにブラリと立ちかえろうとする態度にもみえる。
甲賀弦之介は、しずかに巻物をまいてふところにおさめると、刀を片手にさげたまま、縁側に出てきて、庭を見まわした。見まわしたのではない。ふしぎなことに、彼はなかば眠っているように目を半眼にしていた。
「やれっ」
と吼《ほ》えたのは簔念鬼。
「待てっ」
とさけんだのは薬師寺天膳。
この場合に天膳が制止しようとした意味を、伊賀侍たちは理解しなかった。雨にけぶる憂愁《ゆうしゆう》の花に似た弦之介の姿に、どんな恐れを感じたらいいだろうか。天膳の声は念鬼の声と同時であったし、かえって叱咤の撃鉄《ひきがね》をひかれたように、六人の伊賀者が縁のまえに殺到していた。
次のせつな――一同がみたのは、ひらめく六本の白刃よりも、そのむこうに爛《らん》とひかった黄金《き ん》いろのひかりであった。弦之介の目だ!
それはたばしる黄金の閃光のようにみえた。同時に――どうしたのか――六人の伊賀侍たちは、血しぶきの渦をまいてのけぞり、およぎ、たおれふしている。見よ、その肩や胴や頸に斬りこまれているのは、彼ら自身、おたがいの刃ではなかったか。――
「刑部、まいれ」
何事もなかったかのように、弦之介は庭に下り立った。ふたたび目を半眼にして、シトシトとあるき出す。霞刑部はそのあとに従って、伊賀者たちを見まわして、ニヤリとした。
それで、伊賀侍たちは、茫乎《ぼうこ》として立ちすくんでいるきりであった。彼らは天膳から、いくども弦之介の「瞳術」についてきかされてはいた。しかし、目撃したのは、まさにいまがはじめてであった。見ると同時に、六人が死んだ。しかも、弦之介に一挙手一投足のうごきもみられなかったのに。
甲賀弦之介の「瞳術」とは何か?
それは強烈な一種の催眠術であったといえよう。いかなる兵法者、忍者といえども、相手をみずして相手を斃《たお》すことはできない。しかも、弦之介と相対したとき、見まいと思っても、目が、弦之介の目に吸引されるのだ。一瞬、弦之介の目に黄金の火花が発する。すくなくとも、相手の脳裡《のうり》は火花のちったような衝撃をうける。次のせつな、彼らは忘我《ぼうが》のうちに味方を斬るか、あるいはおのれ自身に凶器をふるっている。弦之介に害意をもって術をしかけるときにかぎり、術はおのれ自身にはねかえっているのであった。
弦之介は、首をたれて、腕をこまぬいて、庭から庭へ、門の方へ去ってゆく。深沈とひとり瞑想にふけっているようである。いままでの甲賀伊賀への努力がついに無に帰したのを嘆いているのか、それとも、ふところの人別帖に消された配下たちへの思いに沈んでいるのか――。
それが、全然無防御の姿ともみえるだけに、何とも形容を絶するものすごさが尾をひいて、ひしめく伊賀者たちも、金縛りになったようにうごかなかった。
「やる」
ひとり、ようやくうめいた。筑摩小四郎だ。
「小四郎」
と、天膳が声をあげるのに、血ばしった目をはたとかえして、
「のがしてなろうか。伊賀の名にかけて――」
決死の形相で、ヒタヒタと追い出した。
もとより天膳とて、それを制御する道理はなかった。「……よし、何としても、のがすな」と他の伊賀者たちに命じると、蒼白な顔でふりむいた。
「朧さま」
朧は、自失していた。ひらいた口、うつろな目、思いがけぬ出来事に恐怖した童女の表情さながらだ。
「弦之介は去ります」
と、天膳はいった。
天膳はどういう心でいったのか。――「弦之介は去る」ただそのことのみが、朧の心をうちのめした。なぜ、こんなことになったのか。なぜ、あの甲賀の娘は殺されていたのか。なぜ、いま手下の伊賀者たちが殺されたのか? ――それをかんがえるより、朧の胸をおしひしいだのは、じぶんに声もかけず、ふりかえりもせず、冷たく、かなしげに去ってゆく弦之介の姿だけであった。
「弦之介さま」
さけんで、朧ははしり出した。
弦之介と刑部は、すでに門にちかづいていた。門の内側に三人ばかり、地にはっているのは伊賀侍だ。濠にかかるはね橋をおろしているのは如月左衛門であった。
「弦之介さま!」
甲賀弦之介はふりむいた。伊賀者たちは半円をえがいて、どどっと立ちどまる。――そのなかから、筑摩小四郎がひとりすすみ出た。片手にさげた大鎌が、青味をおびた冷光をはねかえした。いいや、小四郎自身から、名状しがたい殺意の炎が、青白くメラメラともえあがっているようだ。それに打たれたか、弦之介は大地に足を釘づけにして、ひとりあゆみ寄ってくる伊賀の若者を目でむかえた。
両人は二十歩の間隔にちかづいた。
「朧さま。……」
と、天膳がささやいた。
「朧さま。……いって下され、ふたりのあいだへ」
「むろん」
まろび寄ろうとする朧に、
「ただし小四郎を見るのではありませぬぞ。弦之介を見るのです」
「なぜ?」
朧は立ちどまる。
「伊賀一党に、弦之介を討つとすれば討てる見込あるものは、筑摩小四郎ただひとり」
まことにそのとおり、小四郎の生む真空の旋風をふせぐものがこの世にあろうとは思われぬ。白蝋のような顔いろで、
「なぜ、弦之介さまを討つのです?」
「だが……小四郎とて、あぶない。――」
弦之介と小四郎はいよいよ接近する。あと十五歩。
たまりかねたように朧はそのあいだにかけこんだ。身もだえして、
「およし、小四郎、やめておくれ!」
「姫、おどきなされ」
朧を無視して、小四郎は寄る。天膳がさけんだ。
「弦之介の目こそ恐るべし。朧さま、弦之介の目を見て下されい。――弦之介の瞳術を破るものは、あなたの目よりほかにない――」
「あ……」
「さもなくば、小四郎が敗れるかもしれませぬぞ!」
十歩。
筑摩小四郎は静止した。弦之介はもとより水のごとく寂然《じやくねん》とした姿だ。ふたりのあいだに動くものとては、銀の糸のような雨ばかり。……見ていたもの、すべて、目をとじてしまった。目をあけていられないような何かが虚空《こくう》にひろがり満ちた。
が――余人はしらず、朧までがその目をとじているのをみて薬師寺天膳は愕然となり、奥歯をきしらせた。
「朧さま! 目をあけなされ!」
「…………」
「目を! 目を!」
ほとんど憎悪にちかい絶叫であった。
「味方の小四郎を見殺しになさる気か!」
異様な音が空中に鳴った。朧は目をあけた。が、見たのは味方の小四郎にむけてであった!
天膳が何かさけんだ。筑摩小四郎はよろめきふした。おさえた両掌《りようて》のあいだから、鮮血が噴出していた。彼のつくった旋風の真空は、みずから顔面を割ったのである。
それは弦之介の「瞳術」のせいであったか。それとも朧の破幻の瞳のゆえであったか?
弦之介は冷然として背をみせて、はね橋を去っていった。あとに霞刑部と如月左衛門がうす笑いして従っているが、だれしもそれを追う気力を喪失《そうしつ》していた。
「いっておしまいなされた。……弦之介さまは、いっておしまいなされた。……」
朧はつぶやいた。ふたたびとじたまつげのあいだから、涙があふれ出ていた。
【三】
雨はあがったが、暗い黄昏《たそがれ》がせまっていた。
が――お幻屋敷の奥座敷では、灯《ひ》もつけず、凝然と坐っているいくつかの影があった。
いうまでもなく、薬師寺天膳、簔念鬼、雨夜陣五郎、朱絹、蛍火。――それに、まんなかに朧《おぼろ》。
「すでに、敵は知った。もはやこのうえは、伊賀、甲賀、全滅をかけて争うばかりでござる」
と、天膳はひくい声でうめいた。彼はついに服部家の不戦の約定が裂かれたことをうちあけたのである。
この一日に、小豆蝋斎をふくめて、十一人の伊賀者が殺された。ただ筑摩小四郎だけは、顔が柘榴《ざくろ》のようになったものの、命だけはとりとめた模様である。それは、朧の破幻の瞳で見られたために、術がやぶれて、かえって命びろいしたものとみえる。――しかし、鍔隠れの谷をおおう惨たるものは雨雲ばかりではなかった。
「わが方の十人のうち、蝋斎は死に、小四郎は傷つき、またおそらくは夜叉丸も討たれたに相違ない」
天膳のつぶやきに、念鬼と陣五郎が凶暴なうなり声をもらした。
「いいや、お婆さままでが」
朧は嗚咽《おえつ》した。
念鬼は目をすえて、
「あまつさえ、あの人別帖も奪われた! あのなかに――たがいに相たたかいて殺すべし。のこれるもの、この秘巻をたずさえ、駿府城へ罷《まか》り出ずべきこと――とあったのを忘れはせぬ。何としても、あの人別帖はとりかえさなければならぬ。……しかし、また考えてみれば、この谷の一族は、この日のために生きてきたと申してもよいことなのだ。わしはむしろ祝着《しゆうちやく》にたえない。みなもおなじこころでござる。ちかって甲賀者どもを血の池地獄に追いおとしてくれる。勝つ、かならず勝つ、わしは自信がある!」
天膳は、朧の手をつかんで、ゆさぶった。その全身を妖しい燐火《りんか》がふちどっているようにもみえる凄愴《せいそう》な姿であった。――ふしぎなことに、彼の頬には、きのうの朝ふかい刀傷をうけていたはずなのに、いまはもうウッスラと絹糸ほどの刀痕がのこっているばかりだ。
「ただ、そのためには、この修羅の争いのまっさきに、朧さまに立っていただかねば!」
天膳の声はキリキリと歯がみの音すらまじえて、
「それに……何ぞや、あなたは敵の甲賀弦之介を討つどころか、味方の小四郎をあのような無惨《むざん》の目にあわされた! もし、あなたがお婆さまの孫さまでなければ、ともに鍔隠れの空をいただかざる裏切者の所行《しよぎよう》と申してもよい」
「天膳、ゆるしておくれ。……」
「わびるなら、お婆さまと、四百年来の伊賀の父祖の霊にわびなさるがよい。いや、みずからすすんでこの忍法争いの血風のなかに身をなげこむことこそ、何よりの供養《くよう》」
「ああ。……」
「朧さま、ちかいなされ、かならずあなたの手で、甲賀弦之介を斃《たお》すと」
もだえつつ、朧はイヤイヤをした。五人の忍者はあきれた顔を見合わせる。天膳がおそれていたのは、まさにこのことであったのだ。いっせいにさけび出した。
「なんたること! 子供の争いではござらぬぞ!」
「わたしには……弦之介さまは討てぬ……」
「ならぬ!」
もはや主たることも忘れたような絶叫であった。さしも冷静な薬師寺天膳が血相をかえて、
「鍔隠れに住むわれら一族、老人、女房、子供どもまで、生かすも殺すも、あなたのその目にかかっているのでござるぞ!」
朧はしずかに顔をあげた。象牙《ぞうげ》で彫った死人みたいな顔になっている。ただ、目のみ黒い太陽のようにかがやいて、五人、息をのんだ。
彼女はだまって立って、奥座敷にはいった。
「……?」
ぎょっとして、身をかたくして見送っていると、まもなく出てきて、ひっそりと坐った。彼女は掌にのるほどの小さな壺をもっていた。
そして、黙々として、その封をきり、指さきをなかの液体にひたして、おのれのまぶたに塗ったのである。
「な、なんでござる?」
さすがの天膳も、はじめてみる壺であり、はじめてみる朧の挙動であった。朧は目をとじたまま、しずんだ声でいった。
「いつの日でしたか。――お婆さまが申された。朧よ、おまえは伊賀忍法の頭領の娘でありながら、ついになんの忍法も身につけることのできなんだふつつかな子じゃ。ただ、そなたの目のみ、生まれつきふしぎな力をもっておる。けれど、それは忍法ではない。婆が教えたものでない。それゆえ、それは恐ろしい。――婆は、そなたの目が、かえってこの鍔隠れの忍法を内から崩し、みなを生死の淵《ふち》におとすもととなるような気がしてならぬ。――こう申された。いまにして、天膳のせめる言葉をきいて、思いあたります」
「…………」
「そして、それに続けて、お婆さまの仰せられるには――もし、そのような日のきたときは、おまえの目こそ禍いのもと、朧よ、きっとこの七夜盲《ななよめくら》の秘薬をまぶたにつけよ、おまえの目は、七日七夜とじて開かぬ。――」
「あっ」
薬師寺天膳は驚愕して、朧の手から壺をうばいとった。あとの四人の忍者も、目をかっとむき、息をひいたままだ。
「わたしも伊賀の娘、天膳の申すことは重々わかる。まして、これほど鍔隠れのものが討たれてみれば、もはやわたしが何をいおうととおることではあるまい。……けれど、わたしは、弦之介さまとは争えぬ」
血を吐くような声であった。
「争えぬどころか……わたしは……そなたらの術をやぶりかねない心になるかもしれぬ。それがわたしは恐ろしい。それゆえ……わたしは盲になりました」
「姫!」
「わたしを盲にさせておくれ。この世も、運命も、何もかも見えないように。……」
五人とも呆然として、すでにほのじろくとじられたままの朧のまぶたを見つめたままであった。
恐ろしい瞳は消えた。どうじに鍔隠れの太陽も消えた。
何をいっていいのかわからない。何をしていいのかわからない。何をかんがえていいのかわからない。――沈黙の座は、このとき、あわただしい足音でやぶられた。
「天膳さま! 天膳さま!」
「何か?」
ばねにはじかれたようにふりかえると、ひとりの伊賀侍が手に文筥《ふばこ》をもって庭さきにまろびこみ、
「か、かようなものが、門前に――」
「なんだと?」
ひったくって、蓋をはねのけて、「あっ」と天膳は目を見はった。なかにはいっていたのは、けさ弦之介にうばい去られたはずのあの秘巻だったのである。
紐《ひも》をといて、ひらくと、なかはもとよりおなじものだ。ただ、敵味方の名にひかれた朱の棒のみがふえている。――
甲賀組
――――
甲賀弾正
甲賀弦之介
―――――
地虫十兵衛
――――
風待将監
霞刑部
――――
鵜殿丈助
如月左衛門
室賀豹馬
陽炎
―――
お胡夷
伊賀組
――
お幻
朧
―――
夜叉丸
――――
小豆蝋斎
薬師寺天膳
雨夜陣五郎
筑摩小四郎
簔念鬼
蛍火
朱絹
「ううむ。……」
と、天膳はうなった。筑摩小四郎の名にすじはひかれていない。判断は、正確である。それゆえに、いっそう恐ろしい敵といえた。しかし、それにしても、だれがこれを門前にもってきたのだろうか。むろん、甲賀者にちがいない。ひょっとしたら、あの如月左衛門か霞刑部が卍谷からとってかえしたのかもしれない。味方のだれに化《ば》けるかもしれない左衛門、万象に滅形する刑部、それはらくらくとやれることである。だが、これほど大事な人別帖を、なんのためにこちらにかえしてきたものか?
文筥《ふばこ》の底に、もう一通の書状があった。とりあげて、それが左封《ひだりふう》じであることに気がつく。果し状である。
服部家との約定、両門争闘の禁制は解かれ了《おわ》んぬ。
されど、余《よ》はたたかいを好まず。またなんのゆえにたたかうかを知らず。されば余はただちに駿府にゆきて、大御所または服部どのにその心をきかんと欲す。あえて人別帖を返すはそのためなり。同行するものは余以下、霞刑部、如月左衛門、室賀豹馬、陽炎の五人。
ゆえに、なんじら卍谷に来るといえども、余らすでに東海道にあり。血迷うて余人を殺傷するときは、また鍔隠れに全滅の天命くだると知れ。
余はあえてたたかいを好まざるも、なんじらの追撃を避くるものにあらず。なんじらいまだ七人の名をのこす。駿府城城門にいたるまで、甲賀の五人、伊賀の七人、忍法死争の旅たるもまた快ならずや。なんじら余らをおそるることなくんば、鞭《むち》をあげて東海道に来《きた》れ。
伊賀鍔隠れ衆へ
甲賀弦之介
猫眼呪縛(びょうがんしばり)
【一】
信楽《しがらき》の谷から、東海道水口《みなくち》へ出る街道は、山また山に挟《はさ》まれた悪路で、普通の旅には、満山緑にむせぶ風色も、大戸川《だいどがわ》の谿谷《けいこく》に鳴るせせらぎも、さらにそれを消さんばかりの老鶯《ろうおう》のさえずりも、目にも耳にもはいらないくらいだが、その険しい街道を、まるで南風《なんぷう》にのっているように、軽々と北へ流れてゆく五つの影がある。
そのはやさもおどろくにたりるが、なかにひとりの女の姿がまじっているのに気がついたほかの旅人は、みな、「お――」とあきれたような声をあげたが、さらにそのうちに両眼とじたままの盲の男がいることを知ったなら、唖然《あぜん》として声もあるまい。
駿河へいそぐ五人の甲賀の忍者だった。
もと聖武天皇の離宮であったとつたえられる紫香楽《しがらきの》宮《みや》が、のちに甲賀寺となり、さらにそれが滅んで、いまはただ礎石と古瓦のみちらばっている内裏野《だいりの》のあたり――荒涼たる草原に、晩春初夏の薫風《くんぷう》のみが生々たるひかりをはらんで吹いてゆく。
盲目の忍者室賀豹馬《むろがひようま》は、ふと、ひとりおくれて、大地に耳をつけた。
「追跡者はない」
と、つぶやく。毛なし入道の霞刑部《かすみぎようぶ》がもどってきて、
「いかに伊賀者でも、甲賀谷をとおりぬけて追うてはこまいが」
と、いま越えてきた方角、南の山脈をふりかえって、ぶきみに笑った。
「しかし、きゃつらが来ずにおるものか! また、追うてきてくれんでは、こっちがこまる。おそらく向こうは、すぐに伊賀から伊勢路へぬけるであろう。駿河まで、東海道はながいのじゃ。どこらあたりできゃつらと接触するか――」
そして、ひくい声でささやいた。
「ともあれ、敵の追撃を荏苒《じんぜん》待っていることはあるまい。いくさは先制攻撃じゃ。すでにわれらは、その手で伊賀組にやられた。こんどは、こっちから胆《きも》をつぶしてやらねば気がすまぬ。われらが先に東海道をゆくとみせて、ひそかに逆転して敵を襲うのもひとつの手だ。わしはひとり、ここからはなれて、伊賀組をたたいてみようと思うが、――気がかりなのは、おん大将じゃ。この期《ご》におよんで、ありゃほんとにやる気があるのか?」
と、刑部がいったのは、主人の弦之介《げんのすけ》の行動に、まだ納得できぬふしがあるからだ。弦之介は、確かに伊賀に対して憤怒《ふんぬ》を発した――らしい。ただ、らしい、とつけ加えなければならぬところに、配下の不安がある。
弦之介は、伊賀鍔隠《つばがく》れに挑戦状をなげて駿府へ旅立った。しかし、同時に、あの選手名簿を敵にかえすことも命じた。大御所《おおごしよ》よりの申しつけには、あの「秘巻をたずさえ」まかり出よとあったではないか。なぜあれをかえすのだ? またその駿府ゆきの目的も、甲賀伊賀の争闘の理由をたださんがためだという。理由もへちまもない。四百余年、宿怨の敵とたたかうのに、なんの疑問があるのだ。大御所にそのゆえんをききにゆくならば、まず伊賀方の選手十人を全滅させてからききにゆけ。
これが、霞刑部の考えであった。
弦之介に戦意ありや、という刑部の疑心に、
「ある」
と、豹馬はうなずいた。が、すぐに沈痛な声をかさねて、
「もし、敵が追うてくるならばだ」
「追うてこなんだら?」
「敵はくる、おぬしもそう申したではないか。弦之介さまも、それを見こしなされてのあの果し状だ。秘巻をかえしたのも、かならず敵がそれを持って追うてくるとの確信あればこそだ。最後にそれを奪いかえせば文句はなかろう」
「最後に――?」
刑部はえぐりこむように、
「弦之介さまは、はたしてあの朧姫《おぼろひめ》を討ちはたすご決心があるか?」
豹馬は、沈黙した。
足は風にのりながら、甲賀弦之介は、ならんであるく如月左衛門が、ときどきちらっちらっと不安なながし目でみるくらい、沈鬱《ちんうつ》な表情をしていた。まさに彼は、朧のことをかんがえていたのである。
彼は、伊賀とはたたかいたくなかった。いったい四百余年の宿敵という意識は、いまや卍谷にも鍔隠れの谷にも、その血はおろか、草木の一本一本にもしみこんでいるが、ひとり目ざめてみれば、その理由がわからない。いや、たとえ四百年のむかしにどんなに悲劇的な相剋《そうこく》があったにせよ、いまになってみれば、これほどすさまじい忍法を体得した二族が、盲目的にあいせめぎあいたたかうのは恐ろしいことでもあり、愚かなことでもある。――
しかし、伊賀とはたたかわねばならぬ!
この決意と痛憤は、いまや弦之介の胸に炎をあげていた。
甲賀から平和の手をさしのべているのにもかかわらず、伊賀は音もなく毒煙を吹きかけて、祖父弾正をはじめ、甲賀秘蔵の忍者、風待将監、地虫十兵衛、鵜殿丈助、お胡夷の五人を殺戮《さつりく》したのみならず、ふいに卍谷を襲って、十数人、無辜《むこ》の村人を血しぶきにつつんで風のごとく去ったのである。なんたるやつらか! 事ここにおよんでは、もはや彼がおさえようとしても、とうてい甲賀一党をおさえきれるものではない。
いや、それよりも彼自身の血が!
さすがものしずかな彼の理性も、いまやほとんどまっ暗な血の奔騰《ほんとう》にまみれようとするのをおぼえる。事態に気がついたときは、すでに選ばれた忍者の半数がこの世から消されていたということが、たえがたい痛恨と憤怒をよぶのである。なんたるおのれの不覚か、愚かしさか。
豪快な風待将監、のんきものだった鵜殿丈助、可憐《かれん》なお胡夷――それらの無念の死顔のまぼろしが胸をかすめると、彼は顔をそむけざるをえない。首をたれずにはいられない。彼らが死んでいったとき、おのれはのほほんと、鍔隠れの春夜をまどろんでいたのだ。
おのれ、はかったな!
切歯して、そこで水をあびたような思いにうたれるのは、あの朧だ。朧は最初から、すべてを承知しておのれを鍔隠れの谷へさそいこんだのか。あのあどけない顔は、あれも忍者の女の仮面であったのか。――いまとなれば、そうかんがえるよりほかはないが、しかし彼の心は、輾転《てんてん》として苦悩にねじれる。
朧はそれほど悪魔的な娘だったのであろうか。そうだとすると、彼は戦慄せざるをえない。しかし、彼はまだそうは信じきれないのだ。これは何かのまちがいだ。朧はそんな娘ではあり得ない? けれど――事がなにかのまちがいに発し、彼女がたとえ天使だったとしても、いまさらこの事態がどうなろう?
弦之介の沈鬱な表情は、この魂のねじれの発露であった。ついには彼は、じぶんの愚かしさや、朧への疑惑をこえて、じぶんたちをこのような破局にたたきこんだ駿府の大御所や服部半蔵に、狂おしいばかりの怒りをおぼえてくるのであった。
駿府へ旅立ったのは、もとよりこの真意不明のたたかいの謎をつきとめるためもあるが、また甲賀を脱出して、これ以上卍谷と鍔隠れに無用の死人を出さないためもあった。何はともあれ、大御所と服部家の、死闘を命じたのは敵味方十人ずつだけである。たたかうならば、それだけでよい。――それが弦之介の最後の理性であった。
伊賀の七人は追ってくるか?
来る! 弦之介はそう信じた。
すでに彼らは戦意にもえている。あと、われら五人の名に朱をひかねばあの秘巻の命がはたせぬ以上、かならずそれをもって追撃してくる! また彼らがそういう行動に出なければならぬように、弦之介は昂然《こうぜん》たる挑戦のことばを投げつけた。
彼らは来る。われらは待つ。
弦之介の目がにぶく金色にひかり、唇《くちびる》に凄然《せいぜん》たる微笑がよぎる。祖父よ、将監よ、十兵衛よ、丈助よ、お胡夷よ、魔天からしかと見ているがよい。そなたらの無念はきっとはらしてやる。
伊賀者は来る。しかし、朧はくるか? もし、朧がきたならば?
そこで弦之介の思考はとまる。うらぎられた怒りの炎のかげから、にっと愛くるしくのぞく朧の笑顔、あの太陽のような瞳が、不可抗的な魔力をもって、彼の怒りの炎を消し去るのを感じるのだ。おれは朧とたたかえるのか? 弦之介は歯ぎしりをした。
疾風《はやて》にふかれる雲のように、明暗の影のわたる弦之介の横顔を、ときどきのぞくのは如月左衛門ばかりではなかった。陽炎《かげろう》も見ていた。
しかし、彼女の目は、恍惚《こうこつ》としていた。それが情欲の恍惚であることを彼女は知らなかった。ただ。――
面をうつ微風が、一羽の蝶を舞わせてきたとき、ふっと陽炎の息にふれたその蝶が、そのままヒラヒラと地上へながれていって、草の根にうごかなくなったのを、うしろからくる室賀豹馬と霞刑部がみたならば、彼らは愕然としたであろう。
陽炎。――情欲が胸にもえたったとき、その吐息が毒気と変ずる女忍者!
しかし、幸か不幸か、豹馬は盲目で、刑部の姿はいつのまにか見えなかった。
「刑部っ――刑部はいかがいたしたか」
それに気がついて、弦之介が豹馬にきいたのは、水口《みなくち》の宿にはいったときである。
「はて、おりませぬか。きゃつ、どこへ失せおったか常人の目にもときどき見えなくなるきゃつが、いやはや、盲の拙者《せつしや》にとっては」
と、室賀豹馬は、ふだんはちっとも盲目らしくないくせに、急に盲人らしいうろたえかたをしてみせた。
信楽街道は、ここより東へ転じて東海道へはいる。
【二】
甲賀卍谷の男たちに、この谷に住む忍者が、だれがいちばん恐ろしいかときけば、彼らはちょっと考えて、それから異様な笑顔になって、それは陽炎だとこたえるだろう。
口から槍の穂を吹く地虫十兵衛にあらず、蜘蛛《く も》の糸を張る風待将監にあらず、全身鞠《まり》のごとく膨脹し、また縮小する鵜殿丈助にあらず、万物の形状と色彩中に没入する霞刑部にあらず、泥の死仮面《デスマスク》によって、自在に他人の顔となる如月《きさらぎ》左衛門《さえもん》にあらず、全身吸盤と化するお胡夷にあらず、さらに、あらゆる術を術者自身に酬《むく》わしめる瞳術をもつ甲賀弦之介ですらない。
それは実に、死の息吹《いぶき》をはなつ陽炎であった。
そして、恐ろしいのは、彼女が美女だということだ。しかも、彼女が死の息吹をはなつことを熟知し、一族に峻厳《しゆんげん》な統制力をもつ甲賀弾正の支配下にあり、そのうえ強烈な自制力をもつ男たちでなければたえきれぬほどの。――
さすが伊賀の薬師寺天膳《てんぜん》にも、陽炎の秘密がわからなかったのもむりはない。陽炎の息吹は、つねに死の匂いをふくんでいるのではない。ただ彼女の官能に点火されたときにかぎったのだから。
これは、陽炎にとっても実に悲劇だ。彼女は結婚生活というものをもつことはできない。ある種の昆虫には、交尾のクライマックスで雄をくいころす雌があるが、彼女の母もそうであった。法悦のあえぎの吐息を吸って、三人の男が死んだのだ。そして陽炎は、三人めの男によって生まれたのである。
三人の犠牲者は、甲賀弾正によって命ぜられた。それはただこの恐るべき遺伝の血脈をつたえんがためだ。そして甲賀卍谷の宿命として、彼らはすべてよろこんでこの奇怪な種つけの祭壇《さいだん》にのぼったのである。――
陽炎は成熟した。やがて、母とおなじように、女子が生まれるまで、彼女に何人かの犠牲の男たちが選ばれるはずであった。事実、弾正がこんど駿府へ旅立つ以前に、だれかしらその候補者の腹案があったようなふしがある。夜々、しばしば卍谷の囲炉裏《いろり》ばなしで、若者たちがそのことについて語りあっていたくらいだから。
陽炎と三三九度の盃をかわすことは、すなわち死の盃をのむことである。それはもとより恐ろしい。恐ろしいが、若者たちにそれを避けようとするものはひとりもなかった。むろん神聖厳粛《げんしゆく》なる卍谷の掟《おきて》が、彼らに服従を命じる。しかし、それ以外に、死をもってしてもいちど彼女と交わりあいたいという欲望をかきたてるものが、たしかに陽炎にあったのだ。華麗な食虫花《しよくちゆうか》にひきよせられる虫のように。
いや、例を虫にたとえるまでもない。人はこれをわらうことはできない。この世のあらゆる女が、青春のいっとき別人のように爛漫《らんまん》と匂いだして、この世のすべての男が、盲目的にその魔力の虜《とりこ》となるではないか。結婚というものが、これと大同小異の神の摂理によるものではないか。
陽炎は、娘となるまで、じぶんの秘密を知らなかった。そして、知るにおよんで苦しんだ。
けれど、その苦しみは、ただじぶんの肉体の悲劇を知ったからではなかった。その種類や機能はちがうが、もっと恐ろしい肉体的な秘密をもつ忍者はほかにもうんといる。いや、卍谷の人間のほとんどすべてがそうだったといってよい。陽炎の苦しみは、彼女が弦之介を恋していると自覚したときに発したのだ。
幸か、不幸か、彼女の家柄そのものが、卍谷でも、甲賀弦之介の妻となってもふしぎではない家柄なのであった。彼女は、おなじような家柄の、おなじような年ごろの娘たちをみて、ひそかにじぶんの美を誇った。そのうえ、彼女は、その性質も容貌に似て、緋牡丹《ひぼたん》のような華麗さをもっていた。少女のころ、いくたび彼女は弦之介の花嫁たる夢をゆめみたことであろう。
それなのに、じぶんが、恋するものを、恋する最高潮に殺すべき宿命を負った女であることを知ったときのおどろき!
彼女は絶望し、あきらめた。しかし、弦之介の花嫁となる女は、それではだれかということに、他人以上のつよい関心をとり去ることのできなかったのはいうまでもない。
そして、弦之介が宿敵伊賀のお幻一族の朧をえらんだことを知ったとき、一様に意外とした卍谷の人間のなかで、もっとも嫉妬《しつと》と怒りにもえたったのは陽炎であった。甲賀の娘なら、ぜひもない。なんぞや、あのお幻婆の孫娘とは――というのは、彼女の心理的弁解であって、実は嫉妬と怒りのあらわな吐《は》け口をえたからだといってよい。
じらい、陽炎は、かつてかんがえたことのない毒々しい空想にひたった。
じぶんは毒の息をもつ。弦之介は、敵が害意をもって術をしかけるとき、その術を術者自身にかえす術をもつ。しかし、じぶんに害意はないのだ。ただ弦之介を恋するだけなのだ。もしも、じぶんが弦之介に抱かれるならば、はたして息は彼を殺すか、じぶんを殺すか?
陽炎は、弦之介を殺してやりたいようにも思い、またもしそんな日があるならば、じぶんが死んでも悔いないと思ったりした。そしてそんな空想にひたるとき――彼女の吐息はすでに杏《あんず》の花のような死の香りをはなっているのであった。
――しかるに、一党の統制者、甲賀弾正は死んだ! ――恋する弦之介は、いまや朧と、ともに天をいただかざる宿敵の縁にもどった!
こんど鍔隠れ一族との争闘の火ぶたがきっておとされたことについて、心中だれがいちばん狂喜したかというと陽炎であろう。もとより、それで弦之介とじぶんのあいだに新しい希望が生まれたというわけではない。現実には、依然として恋してはならぬ鉄の掟《おきて》が存在する。しかし、満足のあまり、その乳房のおくで、陽炎はみずからその掟を解いたのだ。現実の掟を知ればこそ、欲望はいっそうせつなく恋の炎をかきたてるのだ。甲賀の男たちが、陽炎こそもっとも恐るべしと考えるのもむべなるかな。かくて陽炎は、彼女じしん無意識に、不可抗的に死の息吹をはなつ。ましてや卍谷を出て以来、弦之介とならんであるき、おなじ屋根の下にねむるという千載一遇《せんざいいちぐう》の機会をえたのである。この旅の途上、彼女の息にふれる生命《いのち》あるものに呪いあれ。
水口から東へ――道が伊勢路にはいったころから、一日はれていた空は、またもや暗雲におおわれはじめて、東海道はまた雨となった。
なんといっても女連れであり、それにかならずしも早くゆくばかりが目的の旅ではない。鈴鹿峠をこえるころ薄暮となり、一行はその夜、関《せき》の宿《しゆく》に泊った。
すなわちここは、過ぐる日、如月左衛門と霞刑部が、伊賀の夜叉丸を斃《たお》したところ――なんのへんてつもない顔で、ぼそぼそとあの死闘を物語る左衛門の忍法ばなしに夜がふけて――やがて、左衛門が別室に去り、豹馬も去った。
「陽炎、そなたもゆけ。ねむるがよい、明日ははやいぞ」
と、夜具をなおしたり、行灯《あんどん》をのぞいたり、いつまでも去りがてな陽炎に、弦之介はいった。
はっとしたように陽炎は行灯のそばに坐って、
「まいります。明日は桑名《くわな》から、船でございますか」
「いや、この雨では、船が出るか――風も出てきたようだ。陸路をまいろうと思う」
と、いって、ふと弦之介は陽炎の顔をみた。じいっとこちらを見つめているまっ黒な目――思わず、吸いこまれそうな情感にうるんだ目だ。と――そのとき、どこからか灯をしたってまよいこんできた蛾《が》が、陽炎の顔をかすめて、はたと落ちた。
弦之介がはっとしたとき、陽炎のからだがくねって、おもく熱い肉が、たわわにどっと彼のひざへくずれてきた。
「陽炎!」
「好きです、弦之介さま。……」
ふりあげた顔の、花のような唇から匂い出す吐息――魔香に目まいをおぼえつつ、あわててつきのけようとして、弦之介は逆にひしと陽炎を抱きしめた。
「陽炎、みよ、わしの目を!」
灯にひかる金色の目を、陽炎は、見た。どうじに、こんどは彼女が目をとじて、ガクリとなった。陽炎は彼女自身の毒の息に麻痺《まひ》したのである。
枕頭《ちんとう》の水さしの水を陽炎の口にそそいで、彼女の目をひらかせたとき、弦之介は蒼白な顔色をしていた。抱きしめて、目を見させたことによって、間一髪《かんいつぱつ》の危機をきりぬけたのだが、愕然としたのは、いまの一瞬ではなく、この女がじぶんを恋していることを知ったことであった。
恋する男を殺す女! 陽炎をつれてゆくことは、腹中に毒をのんで旅するにひとしいではないか。
「陽炎、そなた、わしを殺す気か?」
からくも、弦之介は笑った。じっと女の目から目をはなさず、
「たわけたふるまいをいたすと、おのれ自身の命はないぞ」
「死にたいのです。弦之介さま、いっしょに」
「ばかな、死にたければ、あの人別帖の伊賀者を殺してから、死ね」
「伊賀者すべてを? ……朧もですか」
すでに彼女は、朧を呼びすてにした。弦之介はうっと息をつめて沈黙した。陽炎は、きしり出るような憎悪の声をもらした。
「女のわたしには、朧は殺せませぬ。――弦之介さま、あなたが朧をお討ちなされますか?」
雨の音が、たかくなった。風が、樹々を鳴らした。
「討つ」
と、弦之介はうめいた。討てぬ、とはいえなかった。
陽炎は弦之介を見すえたまま、
「さようならば」
と、凄然《せいぜん》と笑った。
「わたしは、伊賀の男たちみんなに身をまかせましょう。わたしひとりで、伊賀の男たちすべてを殺すこともできるつもりでございます」
そして、陽炎は去った。
その深夜だ。――ふいに甲賀弦之介は魔睡におどろかされたように、むくと身を起こした。忍者の耳は、眠りの中でも起きている。いや、たとえ耳はねむっていても、第六感ともいうべき感覚がめざめて、敵のちかづくのを見張っているのだ。弦之介の耳も、第六感も、人間のしのびよる気配はまったく感じなかった。それにもかかわらず、何物かに驚愕して、彼はがばとはね起きたのである。
弦之介の目が、天井の一点をにらんだ。芯《しん》がつきたか行灯の灯がくらくなって、模糊《もこ》たるうす闇に、その目は黄金いろのひかりの矢をなげあげた。もし曲者が伊賀の忍者ならば、たちまち苦鳴をあげてたたみの上にころがりおちるはずであった。
しかし、弦之介がみたのは、人間ではなかった。それは一個の卵をくわえて、紅玉のような目でじっと見おろしている一匹の蛇であった!
「おおっ」
絶叫して、彼は宙におどりあがった。その手から、片手なぐりに一閃の光線がはしって、蛇はまっ二つになって斬りおとされていた。――が、血潮とともに、血潮でないものが、刀の鍔《つば》もとでぱっととびちったのである。
さすがの弦之介も、相手が人間でないので、これは思わぬ不覚であった。とびちったのは、切断される一瞬、蛇の吐きおとした卵の内容だったのだ。しかも、それはふつうの卵ではなかった。――
ただならぬ気配に、豹馬と左衛門と陽炎がかけこんできたとき、甲賀弦之介は刀身を片手にぶらんとさげたまま、座敷の中央に棒のように立ちすくんでいた。
「弦之介さま!」
三人は、さけんだ。
弦之介の片手は、両眼をおさえていた。ややあって、恐ろしいうめきが、その唇からもれた。
「豹馬。……わしは目をつぶされた。……」
三人は、息をひいた。
――伊賀者は来た。まさに来た。しかし彼らの姿はなく、蛇をつかって襲ってきたのだ。そして、東海道における最初の接触で、駿河までまだ六十里あるというのに、若き首領甲賀弦之介は、その最大の武器たる瞳をふさがれてしまったのである。
【三】
ふたりの伊賀者がひそんでいたのは、その旅籠《はたご》ではなく、まむかいの旅籠の屋根の上であった。
まっくらな雨と風に身をさらしたまま、すっくと立って、印をむすんでいるのは蛍火《ほたるび》で、そのそばにうずくまって、じっと向かいの旅籠をにらんでいるのは簔念鬼《みのねんき》である。
甲賀弦之介の泊っている屋敷の雨戸があいた。念鬼の目は、闇と雨をとおして、刀をぬきはらい、狼狽《ろうばい》その極に達した如月左衛門の顔をみた。なかで、たしかにさわぐ声がする。そして女の声で「弦之介さま、目が、目がみえぬとは!」とさけんだ悲痛な声が、はっきりきこえた。
「やったな」
と、念鬼はニヤリとした。
「思いのほか、たやすういったな」
なおしばらく、闇をすかしていたが、
「そうか、弦之介についておるのは、あの盲と女と彼奴《きやつ》であったか」
と、うなずいた。彼奴とは、如月左衛門のことだ。
伊賀の七人が鍔隠れから伊賀路をとおって伊勢に出るにあたって、薬師寺天膳が簔念鬼と蛍火にあたえた特別命令がある。で、ふたりはさきにはしって、鈴鹿に出て、ついにこの関宿で甲賀組をとらえた。しかし、弦之介と盲目の室賀豹馬と陽炎だけはわかったが、もうひとりの男が苧屑《からむし》頭巾《ずきん》をかぶっていたので、雨中、それが如月左衛門か霞刑部かわからなかったのだ。
「では、あの霞刑部はどこへいった?」
五人いるべき甲賀者は、たしかに四人であった。
じっとかんがえていた簔念鬼は、やがてぎょっと顔をふりあげた。刑部の忍法を思い出したのである。音もなく壁や泥に消えてゆく男――刑部はどこへいったのか。
いうまでもなく、じぶんたちが別働隊となって甲賀組を追尾してきたように、彼奴もまたひとりはなれて、伊賀組をもとめて去ったに相違ない!
「蛍火、これは用心せねばならぬ。刑部の姿がみえぬとすると、かれこれ味方の一行も加太越《かぶとご》えをしてこの宿《しゆく》にはいってくるころじゃが、彼奴が隠形《おんぎよう》のまま襲うおそれがある。そなた、ここよりひきかえして、いそぎこのことを告げにいってくれ」
「こちらは?」
「こちらは、おれが見張っておる。盲を目あきが見張るのじゃから、これアらくだ」
念鬼はまたうすく笑ったが、ふと思いついたように、
「蛍火、ゆきがけにな、蝶をとばしていってくれぬか。残った目あきふたりをさそい出して、あとの盲ふたりのようすをさぐってみたい」
「蝶をとばすのは何でもないが、念鬼どの、危いことは、よされたがよいぞ。天膳さまのお申しつけもそうじゃ」
「わかっておる」
薬師寺天膳の命令というのは、第一にまず、甲賀組を捕捉《ほそく》すること、第二に、うべくんば、甲賀弦之介の両眼をつぶすことであった。
そして、むろん第二の目的は、可及的《かきゆうてき》すみやかに、しかも絶対に遂行《すいこう》しなければならないが、さしあたっての至上命令は、むろん第一の行動であった。
甲賀弦之介の目をつぶせ!
それはあの「七夜盲」の秘薬を手に入れてからの着想である。
しかし、それがそう容易に成功しようとは、天膳はかんがえてはいなかった。というより、簔念鬼と蛍火に期待してはいなかった。「それは、おれがやる」言外に天膳はそう決意しているらしく思われた。ただ、盲目の朧をまもるために、天膳はかるがるしく本隊をはなれることはできない。ともかくも、まず甲賀組の所在をとらえて報告せよ――これが天膳の命令であった。
「蛍火、たのむぞ」
「はい!」
うなずいて、ふたたび闇天にすっくと立って、蛍火は印をむすぶ。――と、たちまち夜空に異様な風音が鳴って、いずこからともなくむらがりたつ雨夜の蝶。それはまぼろしの竜巻のごとく樹々をかすめ、屋根をかすめて、向かいの旅籠の雨戸にふきつけてゆく。――
――雨戸をあけて、血ばしった目をなげていた如月左衛門の驚愕した顔がみえた。何かさけぶと、抜刀したまま庭へとびおりる。つづいて、陽炎がはしり出た。
念鬼は声もなく笑って、ふりかえった。
「よし、ゆけ、蛍火」
西へはしる蛍火とは逆に、東へ移動する胡蝶の大群につりこまれて、思わずその方角へ、街道をかけだした如月左衛門と陽炎を見すますと、念鬼は往来におりたった。
彼の目は血いろにもえ、すでにその頭髪は天に逆立っていた。庭にしのび入り、雨戸にちかづきながら、彼の足はほとんど土をふんでいない。片手に一刀をひっさげたまま、その髪は樹々の枝に蛇のごとくからみついて、そのからだを空中に浮かせつつ移動してゆくのだ。
彼は、天膳の命令は承知していた。天膳がじぶんたちに万死をおかしても甲賀弦之介を斃《たお》せと要求したのではないことを心得ていた。
しかし、そうであればこそ、いっそう忍者の果敢な魂が野心をかきたてるのだ。思いのほか、実に容易に甲賀弦之介の両眼を盲にすることができた。その心のはずみもある。万死どころか、そこにいるのは盲目の忍者ふたりではないか。やれ!
そうでなくとも、伊賀一党のうちでも、もっとも凶暴勇猛な簔念鬼である。彼は風のごとく雨戸のあいだから座敷にすべりこんでいった。
座敷の灯はきえて、そこは闇黒であった。しかし、すべての忍者がそうであるように、闇も見とおす目で、彼は、向こうに寂然《じやくねん》と坐っているふたつの影をみた。
甲賀弦之介と室賀豹馬――はたせるかな、ふたりの両眼はとじられたままであった。
「伊賀者よな」
弦之介がしずかに声をかけた。念鬼はたちすくんだ。が、その目が依然としてふさがれているのをみて、念鬼はせせら笑った。
「甲賀弦之介、おれがみえるか」
「見えぬ」
弦之介はにっと笑った。
「うぬの死ぬ姿が、わしにはみえぬ」
「なにっ」
「豹馬、見よ」
盲目の室賀豹馬に、弦之介は、見よと命じた。と、とじられていた豹馬の両眼が、徐々にひらいていった。その眼《まなこ》は金色であった。
「あっ」
一刹那、脳髄に閃光のような衝撃をうけて、簔念鬼はとびのいていた。
あの不可思議な瞳術をもつものは、甲賀弦之介だけでなかったのだ!
逆立った念鬼の髪が、海藻のごとくみだれたって、みずからの両眼を刺した。血の噴水を両頬にほとばしらせつつ、さすがは念鬼、死力をしぼって一刀をふりかざし、豹馬の方へおどりかかろうとした。が、その柄《つか》をにぎる手がいつのまにか逆手《さかて》にかわって、ふりおろした刀身は、おのれ自身の腹を刺しとおしていたのである。
雨戸のあいだから、簔念鬼は庭にころがりおちて、すぐにうごかなくなった。あおむけになった死体の腹部につき立った忍者刀のひろい鍔《つば》に、雨がしぶいた。
室賀豹馬の目は、ふたたびとじられていた。
なんぞしらん、甲賀弦之介の「瞳術」の師は、この豹馬だったとは。――しかし、彼は、ほんとうに盲目なのだ。夜のみひらいて、金色の死光をはなつのだ。弟子は師をこえ、いまや彼は弦之介の夜の代役にすぎなかったが、そのことをさすがの伊賀者たちも知らなかったのである。薬師寺天膳が、しばしば豹馬の忍法について疑怖の念をもやし、それを知ろうと焦慮《しようりよ》したのは当然であったといわなければならない。
「左衛門、陽炎」
蝶の行方《ゆくえ》を見うしなって、呆然とかけもどってきた如月左衛門と陽炎は、闇のなかで弦之介によびかけられた。
「ひとり、伊賀者をそれに斃したわ。――声よりみて、おそらく簔念鬼という男であろう」
「や?」
愕然として、地上の死体に気がつく。
「では、蝶をつかったのは、こやつでござりましたか!」
「いや、そうではあるまい。虫をつかうは、蛍火という娘。――左衛門、蝶はどっちへいったか!」
「東の方へ」
「それでは蛍火は西へはしったのじゃ」
【四】
雨をついて、蛍火はかけていた。
関《せき》からは、西の鈴鹿峠へのぼる東海道とはべつに、伊賀へこえる道がわかれている。蛍火がはしっているのは、むろんこの街道であった。
関から鈴鹿へは、小川が右にながれ、左に水音をたてて、無数の瀬をわたらなければならないので、むかしから八十瀬川《やそせがわ》といわれるくらいだが、この伊賀と通じる道も同様であるうえに、東海道でないだけに、いっそうの険路悪路だ。いまを去る三十二年前、本能寺の変に遭逢《そうほう》した徳川家康が、服部半蔵の指揮する伊賀甲賀の忍び組三百人にまもられて、この山路《やまじ》を東へにげのびたのを、家康生涯の大難の第一としているが、その険《けわ》しさは当時とほとんど変わらない。
さすがの蛍火も、やはり女、途中をさえぎる水流にゆきなやんでいた。
この道をくるはずの朧さま一行にはまだゆきあわぬが、この雨風では、向こうも予定をかえて、途中の山宿にでも足をとどめているのであろうと思われる。しかし、そうであれば、その運命がいっそう気にかかる。あの寒天のごとく透きとおって消滅する霞刑部とやらが一行を狙っているとするならば!
「おおおおい」
遠く、背後から呼ぶ声に、彼女は立ちどまった。
「おうい、蛍火――」
簔念鬼の声だ。雨のなかに、蛍火は大きく目をみひらき、呼びかえした。
「念鬼どの――蛍火はここじゃ」
水しぶきをあげてかけてきたのは、ついいましがた関宿でわかれてきたばかりの念鬼の姿にまぎれもない。
「やあ、まだこのあたりにいたか。よろこべ、蛍火」
「えっ、では、甲賀弦之介と室賀豹馬を」
「討った。なにしろ盲、大根をきるより、もっとたやすかったぞ」
念鬼は歯をむき出して、
「そのうえ、蝶を見うしなって、ばかのようにかえってきた陽炎という女までも」
「まあ! で、もうひとり如月左衛門は?」
「惜しいが、のがした! 残念無念、陽炎が断末魔に白状したところによると、きゃつが伊賀の夜叉丸を殺したということじゃが」
蛍火は、ひしと念鬼の手をつかんだ。夜叉丸は彼女の恋人だ。如月左衛門が夜叉丸に変形していたことから判断して、おそらくそうであろうとは思っていたが、もえたぎるようなくやしさに、はげしく念鬼をゆさぶった。
「念鬼どのともあろうひとが、なんと不覚な! ほかのだれよりも、あの如月左衛門とやらを討てばよかったのに!」
さっき念鬼に、危ないことはよせといったのをわすれたほどの逆上ぶりだ。この可憐な娘が、キリキリと歯をかんで、
「けれど、それは、わたしに如月左衛門を討てという天意かもしれぬ。……」
「討てるか、蛍火――彼奴は、何物に化けるかもしれぬ顔をもつ男だぞ」