だれがこれを四百年このかた憎悪《ぞうお》と敵愾《てきがい》をからませあった怪奇な忍法二族の嫡孫《ちやくそん》同士と思おう? それは一抹《いちまつ》の妖しい雲も翳りもない、生命にみちた青春の画像のようであった。おそらく、さしもかたくななおたがいの祖父や祖母のこころを溶《と》いたのも、この若々しい甲賀伊賀合体の未来図であったろう。
匂うようなひかりが、ふたりを包んだ。太陽がのぼってきたのだ。
そのとき、まだ模糊《もこ》とうすぐらい谷の方から、一つの声が追いかけてきた。
「おおいっ……おおいっ」
四人の従者はうなずいて、
「や? 蝋斎老か。――」
「いや、わしについてきた鵜殿丈助というやつの声だが」
と、弦之介はふりむいて、小くびをかたむけ、
「のんき者め、いままで何をしておったか。――いや、先刻ここへくる途中、一羽の鷹が巻物様のものをつかんで飛んでおるのをみて、丈助に追わせたのじゃが」
「鷹が!」
とさけんだのは蓬髪《ほうはつ》の男だ。伊賀の忍者、簔念鬼《みのねんき》という。――
「もしかすると、それは駿府のお婆さまのつかわされたものではないか」
「なに、お婆さまのお鷹?」
朧も息をひいた。蒼ぶくれの雨夜陣五郎が手をうった。
「さては、さっきの蝋斎老が、ものもいわずにかけだしていったのはそのためか!」
五人が不安な顔を見合わせているところへ、下からまるい袋のようなものがころがりのぼってきた。
「やあ」
と、みなを見まわし、例のカンだかい声で、
「こりゃ、ご一同、おそろいで何でござる?」
「丈助、鷹は?」
と、弦之介がするどくきいた。
「ああいや、えらく骨を折りました。なに、鷹ではござらん、鷹のおとしていったこの巻物を手に入れるためにな」
しゃあしゃあとした顔でふところからとり出した巻物をみて、「お!」と念鬼と陣五郎が一歩ふみ出した。
「左様、存じておる、存じておる、これは駿府のお幻婆さまからおくられたものでござるとな。へへへへ、これをとるため、先刻、小豆蝋斎と大汗かいて鬼ごッこじゃ。甲賀と伊賀、忍法くらべをして、勝った方がこれをもらうと。――」
「丈助っ」
「と、おいでなさると思った。なに、遊びでござるよ、だから鬼ごッこと申したではありませんか。伊賀の衆、くわしくは蝋斎老からきかれた方がよろしいが、要するに、甲賀と伊賀との忍法遊びに拙者が勝った証拠には、これ、ご覧のとおり――」
と、さし出した巻物を、弦之介はあらあらしくうばいとって、
「お婆さまからきたものなら伊賀衆のもの、何をいらざる悪戯《いたずら》をいたす。――朧どの、はやく見られい」
受けとって、その巻物を朧がひらこうとしたとき、
「待った!」
と、雨夜陣五郎がさけんだ。
朝の太陽が、その姿を無惨なばかりに照らし出していた。それは実に吐気《はきけ》をもよおすほどぶきみな人間であった。顔は水死人のようだが、その頸、手の甲なども、皮膚がウジャジャけて、青黴《あおかび》がはえているようなのだ。
「その巻物、弦之介さまのまえでひらくことはなりませぬ」
「陣五郎、何とえ?」
「駿府にまいられたお婆さまと甲賀弾正どのを待つものは、雨か風か、まだ判然とはいたさぬ。そのお婆さまが鷹をとばせて知らせようとなされたその巻物のなかみは――」
「陣五郎、よしこの世に何が起ころうと、伊賀と甲賀の両家のあいだにかぎって、もはや雨風の吹くいわれはない」
「それはそうありたいと拙者も念じ申すが、朧さま、その両家はまだ縁組したわけではありませぬぞ。現在ただいまは、何と申しても不倶戴天《ふぐたいてん》ともいうべき宿怨の間柄。……お婆さまよりの秘巻《ひかん》、甲賀衆に見られては留守《るす》をあずかるわれわれの責《せめ》がはたせぬと申すもの。――」
ネチネチとした声にはあきらかにまだ甲賀へ釈然《しやくぜん》たらざるものがある。それにこちらの丈助たちもおなじことだ。――と弦之介はかなしげな片笑みをうかべて、
「道理じゃ。わしは向こうへいっていよう。丈助、こい」
と、しずかに背をみせた。丈助は(なんだ、せっかくおれがとったものを)といいたげに、まんまるい頬をいよいよふくらませて、あとをふりかえりふりかえり、ついてくる。――と、そのうしろから巻物を無造作《むぞうさ》に四人に投げて、朧もあるいてきた。
「どうしたのだ、朧どの、お婆さまよりの知らせを見られぬのか」
「いえ、そんなことより、弦之介さま、どうぞ伊賀のものどもの無作法をゆるしてやって下さりませ」
涙ぐんで、哀怨《あいえん》なまなざしをひたむきにすがりつかせてくる朧をみると、弦之介はヒシと抱きしめてやりたいいとおしさをおさえて、そばの山椿《やまつばき》を一輪むしりとり、朧の被衣《かつぎ》にさした。
「いやいや、なにせ、四百年にわたる悪縁の両家じゃ。陣五郎がああ申すのもむりはない。思えば、これを溶くのも容易でないが、朧どの、よいか、われわれが鎖《くさり》となろう、甲賀伊賀を永遠にむすぶ、きれいな鎖に!」
雨夜陣五郎、簔念鬼、朱絹、蛍火の四人は、草の上に巻物をひろげ、頭をよせたままじっとうごかなかった。太陽を背に、四羽の不吉な鴉《からす》のように。
朧がふりかえって呼んだ。
「陣五郎、お婆さまは何といってこられたえ?」
雨夜陣五郎はゆっくりとこちらを見た。水死人が水底から呼ぶような声でこたえた。
「御安心くだされい、朧さま。……駿府城内、大御所と服部半蔵どののおんまえで、伊賀甲賀の和解まったく成り、お婆さまと甲賀弾正さま、あいたずさえて、これより春の江戸見物をしてかえると。――」
【四】
「まあ、やっぱり!」
「それはよかった!」
ぱっとかがやくような顔を、朧と弦之介が見合わせて、そちらへもどりかけたとき、雨夜陣五郎はすばやく巻物をまいて、こちらへあるいてきた。
「弦之介さま、先刻の御無礼おゆるし下され。容易に心をゆるさぬ忍者の習いが悲しき性《さが》となり――」
彼は、せいいっぱいの笑いをたたえていた。土左衛門の笑顔というやつは、どうもいただけない。
「が、これにて、万事決着。重畳《ちようじよう》しごくに存じまする。さて、こうなってみれば、あなたさまがやがてわれらの主《あるじ》となられる日もまぢかいと申すもの。……あなたさまと朧さまが、胸の符節を合するがごとく、けさこの甲賀伊賀をへだてる土岐峠でおあいあそばしたのも、思うにめでたき天の配剤《はいざい》でござろう。さてもよい折、いかがです。これよりいっそ伊賀まで足をのばされては?」
「ああ、それはほんとうによい思いつき!」
と、朧は手をたたいてよろこんだ。
「弦之介さま、ね、どうぞおいであそばせ、そして伊賀の者ども一同にあってやってくださいまし。お婆さまがおかえりになったとき、伊賀の者たちみなが、ちゃんと弦之介さまになついていたら、どんなにびっくりするでしょう。お婆さまはどんなによろこぶでしょう。……」
弦之介はしばらく朧の童女のような明るい笑顔をみていたが、
「まいろう」
と、大きくうなずいた。それから、ふりかえって、
「丈助、お前は甲賀にもどって、わしがこういう次第で伊賀へいったと一同につたえておけ」
「弦之介さま、お待ち下さい」
と、鵜殿丈助はくびをふった。
「それは軽はずみと存ずる。敵のまッただなかへ――」
「何を申す。もともと朧どののところへゆこうとして出てきたのではないか」
「それが、さっきまでとは少し事情がちがいます。なんだか、こんどは、拙者の方で胸さわぎが――」
弦之介は苦笑した。
「お前も習いが性《さが》となったか。いや伊賀の衆も、すべてがわしに心を許しておるわけでもあるまい。さればこそ、今朧どのの申されたとおり、これをよい折に、伊賀の面々にあって、みなの心をといておきたいのだ」
「ご心配なら、おぬしも来られたらどうじゃ。甲賀の方へは、わしなりあの念鬼なりがまいって知らせておくが」
と、笑いながらいう陣五郎を丈助は見かえして、
「いってもよいがな」
「そうなされ、いっしょに花見の酒を飲もう」
「そのまえに、いまの巻物をみせてくれ」
「なに」
「はたして甲賀と伊賀の和解が成ったかどうか、その巻物のなかみをこの目でみなければ、もはや一歩も伊賀へはいることはならん!」
と、さけんだ。
簔念鬼が、うしろでかすかにうなった。このとき丈助はみなかったが、念鬼の頭に実に奇妙な現象が起こった。その蓬々《ほうほう》たる総髪《そうはつ》が、まるで生き物のように、かすかながらぞうっと逆立ったのである。
朧がうなずいて、すすみ出た。
「陣五郎、わたしも見たい、巻物をおひらき」
「かしこまってござる」
と、陣五郎は巻物をひらきかけたが、ふとその手をとめて顔をあげ、ニヤニヤと笑った。
「いや待て、しばし――丈助どの」
「あん?」
「見せるのは容易じゃが、ちょっとそのまえにおぬしにきいてもらいたいことがある」
「なんじゃ」
「先刻、この巻物をとるのに、わが方の小豆蝋斎老との忍法くらべに勝ったといわれたな」
「くやしかろうが、そのとおり」
「うむ、いかにもいささかくやしい。どうじゃ、ここにいるわれら四人のうち、だれかひとりともういちど忍法くらべをする気はないか。それで、もしこっちが負けたら、この巻物のなかを見せるが」
「それはならぬ」
と、弦之介はあわてて声をかけた。
「さっきの丈助の悪ふざけは、あとで叱りおく。ゆるしてやってくれい。もはやそのような争いはよすがいい。巻物などは見ずともよい」
「それでもな、忍法に負けっぱなしでは、伊賀甲賀合体ののちも、われらいささか肩身が狭うござるでな」
と、陣五郎は煽《あお》るように、そそるようにいった。
「いや、どうせ遊びでござる。生命に別状ない法で――」
「よし、やるぞ?」
と、ついに丈助はうなずいた。笑っている。
「で、どなたさまとな?」
陣五郎はふりむいて、妖艶な朱絹の顔をみた。
「先ず、わしのみるところ、あれといい勝負であろう」
「女とか!」
と、丈助はあきれたような、憤然としたような声をあげたが、すぐダブダブと顔の肉を波うたせて、
「いや、朱絹どのとか。おもしろい。やあ、朱絹どの、実はわしはまえからそなたにちいっと惚《ほ》れておるのじゃよ。えへへ、その、何じゃ、弦之介さまと朧さまのご祝言のあと、わしがこんどはそなたを嫁にもらいたいものだと念願していたくらいで――」
「わたしが負ければ、あなたのお嫁になりましょう」
透きとおるような頬に、紅もちらさず朱絹はいった。
「や、それはまことか、かたじけない! わがものと思えば、いよいよその美しさはいや増すな、そのそなたとたたかうのは世にも切ないが、ことのなりゆき是非もない! ところで、勝負はいかがいたす?」
巻物への疑いなど忘れはてたように、この巨大な肉の鞠《まり》は浮かれきっている。
「刀を用いては相なりませぬぞ」
と、朧がいった。不安と興味のいりまじった目がキラキラとかがやいている。弦之介はついに沈黙した。
「うむ、ちょいとそれを拝借」
丈助はふと簔念鬼のついている樫《かし》の棒をとって、朱絹に手渡すと、
「朱絹どの、それでわしにかかられい。腕でも顔でも、わしを打ってもし血が出たら、わしの負けじゃ。それよりさきに――」
へらへらと笑った。
「わしがそなたをまるはだかに剥《は》いだら、わしの勝ち、どうじゃ?」
たまりかねて弦之介が声をかけようとするまえに、朱絹は冷やかにうなずいた。
「よろしゅうございます。では」
「いざ!」
ぱっとふたりはとびはなれた。
暁の春光にみちた土岐峠にむかいあった二人の異風の忍者――女の朱絹は棒をななめにかまえ、まんまるい鵜殿丈助は大手をひろげて――見ている弦之介の顔から、ふっと微笑がかききえた。それは朱絹の姿から吹き出す容易ならぬ殺気に、これはと目を見はったのである。しかし、女だ、一心不乱になるのもむりはない!
「えやっ」
白刃のようなひかりをひいて、樫の棒がはしった。丈助は回転してさがった。空をながれた棒は、稲妻のごとく燕返《つばめがえ》しにこれを打つ。例の鞠をうつような音がして、丈助は笑った。笑ったその顔のまんなかに、かっと棒がメリこんだ。たしかにそれはメリこんだが、棒がはなれると丈助の顔はぽんともとどおりにふくれて、またゲラゲラと笑った。
「あっ」
朱絹がとびすさった。それを追って、丈助の笑顔がぐうっと朱絹にせまると、抱きかかえるようにしてその帯をつかんだ。独楽《こ ま》のように朱絹は回って必死にのがれつつ、うしろなぐりに棒で薙《な》いだ。解けた帯を両手でつかんで、丈助はへいきで顔をつき出して、わざとななめに打たせたが、そのせつな、
「勝負あった!」
という雨夜陣五郎の叫びに、憤然たる目をこちらにむけた。が、いま棒でうたれた顔には、なんたること、ななめに鮮血のすじがひかれていたではないか!
みなのどよめきにはっとしてその顔に手をあてて、丈助の表情に驚愕《きようがく》の波がひろがった。
一瞬、阿呆《あほう》みたいに立ちすくんだ鵜殿丈助は、もういちど手を顔面にやって、
「おれの血ではない!」
と叫んだ。その滑稽《こつけい》な容貌が、みるみる憤怒《ふんぬ》の凶相《きようそう》にかわると、天からおちる樽のごとく朱絹に殺到《さつとう》した。
「これは、うぬの血だっ」
きものに手がかかると、それは裂けて、朱絹は上半身むき出しになった。ひと目みるや否や、さすがの甲賀弦之介が、おう! とのどの奥でさけんだ。朱絹の裸身は朱色《しゆいろ》にぬれていた。肩、腰、乳房――いちめん、淋漓《りんり》と鮮血をあびて、
「勝負は、まだっ」
と、さけぶと、恐怖の目を見張っている鵜殿丈助めがけて、幾千万かの血の滴《しずく》をとばせた。おお! この女は血を吹くのだ。その全身の毛穴から、血のしぶきを噴出するのだ!
――古来、人間の皮膚に生ずるウンドマーレーと呼ぶ怪出血現象がある。なんの傷もないのに、目、頭、胸、四肢からふいに血をながすものであって、ある種の精神感動が血管壁の透過性を昂進《こうしん》させ、血球や血漿《けつしよう》が血管壁から漏出《ろうしゆつ》するのだ。思うに、この朱絹は、この怪出血現象を意志的にみずから肉体に起こすことを可能とした女であったに相違ない。
目をおおい、空をかきさぐる丈助の姿が、真っ赤な一塊《いつかい》の霧につつまれた。それは茫《ぼう》とひろがり、日のひかりまでが赤くなり、くらくなり、この世のものならぬ妖《あや》しいもやのなかに朱絹の姿もきえ――その奥から、
「ま、まいったっ」
と、鵜殿丈助の絶叫《ぜつきよう》がきこえた。
破虫変(はちゅうへん)
【一】
「お幻《げん》さまは死なれた」
と、その男はいった。女のようにやわらかな声である。
色白で、ノッペリとして目がきれながで、ややふとりかげんのからだにも、女のように柔らかな線があったが、ふしぎなのは、その年だ。総髪の黒さといい、美しい顔だちといい、一見、三十になるやならずとみえるのだが、そのくせひどく老人のような気がする。それはなぜだかわからない。しいていえば、皮膚に全然つやがなく、唇《くちびる》が紫色だということだろうが、とにかく異様な老齢を思わせる魔性の印象が、この男にあった。
伊賀のお幻一族で、お幻がひとりだけ対等にあつかっていた薬師寺天膳《やくしじてんぜん》という男である。
いったい、彼はいくつなのか。いま彼をとりまいてうずくまる五人が、小豆《あずき》蝋斎《ろうさい》をもふくめてすべて子供のころから、彼はいまと寸分変わらぬ薬師寺天膳であったのだ。このとおりの若いノッペリした顔をして、しかも四、五十年もむかしの天正伊賀の乱の思い出ばなしなどを、よくお幻さまと話していた記憶がある。――
そのお幻さまからきた秘巻を手にいれて、まず雨夜《あまよ》陣五郎や簑念鬼《みのねんき》がこの男を呼びにやったのは当然だが、従者格の筑摩小四郎《ちくまこしろう》をつれていそいでやってきた薬師寺天膳は、巻物をひとめ見るやいなや、
「お幻さまは死なれた」
と、断定したのである。
伊賀と甲賀の国境、土岐峠《ときとうげ》のうえである。かれんな紅一点、蛍火《ほたるび》の姿もまじり、山桜が吹雪のように蒼空を舞う春の山上、一見のどかな点景ともみえる六人だが、これは恐ろしい伊賀の忍者評定《ひようじよう》。
さっき、ここであった甲賀弦之介《げんのすけ》と鵜殿丈助《うどのじようすけ》は、朧《おぼろ》と朱絹《あけぎぬ》に伊賀屋敷へ送らせた。もし朱絹と忍法くらべをして、じぶんのからだから血がながれたら、伊賀へまいろう――と大言壮語した丈助は、朱絹の全身から噴出する血の霧のなかに打ちすえられて、筋肉を鞠とする機能も故障をおこしたのか、たしかに痣《あざ》だらけ瘤《こぶ》だらけ血だらけとなって、ベソをかきかき、主人の弦之介とともに伊賀の谷へくだっていったのだ。――
「そして、甲賀弾正《だんじよう》も死んだな」
と、薬師寺天膳は、巻物のなかの、弾正お幻の名にひかれた血の線をみながら、凄然《せいぜん》とつぶやく。
母ともたのむ頭目《とうもく》の死を耳にして、だれもさけび声ひとつたてなかったのは、さすが忍法一族の修練であろう。しかし、うなだれてすわったままの五人のあいだから、音波でもなければ光波でもない、しかも面もむけられないような殺気の渦《うず》がまきのぼった。
「おれも、そう見た」
と、顔をあげて、雨夜陣五郎がうなずいた。
「じゃによって、弦之介には、甲賀と伊賀の和睦《わぼく》なって、お婆さまと弾正は手をたずさえて江戸見物にいったとごまかしたが」
「弦之介と丈助めをわれらの方へおびきよせたは何よりだ。きゃつらはすでに袋のねずみ。――」
と、簑念鬼が歯ぎしりして笑った。その髪が、蛇のように逆立った。
「いや、丈助はともかく、弦之介は容易に討てぬぞ。あれの目、不可思議な瞳術《どうじゆつ》は、敵ながら恐ろしい。――それに、あれに惚れた、朧さまが、こまったものじゃて」
と、天膳はかぶりをふった。筑摩小四郎が、
「朧さまに、お婆さまの死をつげ、この巻物をみせても承知はなさるまいか?」
「弦之介を敵とする――それを承知させるのに、手をやくぞ。きっと、ダダをこねなさる。ひとさわぎじゃ。そのうち、弦之介に気どられてしまうがおちじゃ」
「と、すれば、どうするのだ」
「朧さまには、だまっておけ。ここしばらく、朧さまと弦之介は、あのまま甘い夢を語らせておくがよい」
と、天膳はうす笑いした。が、その目に、ぞっとするような陰鬱《いんうつ》な嫉妬《しつと》と憎悪の炎がもえてきえたようだ。
しかも、それを押さえる意志力が、この男にあった。冷然として、
「それより、この巻物がいちはやくこっちの手中にはいったことこそ幸せ、まずここにならんでおる甲賀組の面々――弾正、弦之介、丈助をのぞき、あと七人を片づけよう。その手足を断ってから、ゆるゆると弦之介を料理したほうが利口《りこう》でもあるし、また甲賀組全滅の惨状をきゃつに見せつけてからのことにしたほうが、快くもある」
「おもしろい! うれしいぞ、服部家の禁が解かれたとは! なんの甲賀のへらへら忍法!」
と筑摩小四郎が、こみあげるような喜悦《きえつ》の笑い声をたてた。まだはたち前後の田舎じみた若者だが、腰にものすごい大鎌《おおがま》をさしている。
みんな、魂の底からの歓喜《かんき》がふきのぼってくるのを禁じえない表情を見あわせたなかに、ひとり不安そうな目をむけたのは蛍火であった。
「天膳どの、それにしても夜叉丸《やしやまる》どのはどうなされたか」
駿府にお幻婆にしたがっていった夜叉丸は、彼女の恋人だった。
「さて、それがわからぬ。夜叉丸の名に棒はひいてないが――」
指をおって、
「生きておるなら、鷹がけさ夜明け前にここに飛んできたとすれば、駿府をとび立ったのはおそらくきのうの夕――同時に駿府を夜叉丸が出たとすれば、今夜半か、あすの夜明け前にでもかえってくるはずじゃが」
天膳はちょっと思案していたが、すぐに顔をあげて、
「夜叉丸同様、気にかかるは、弾正について駿府へいった敵の風待将監《かざまちしようげん》じゃ」
と、目をひからせた。
「おそらく弾正も、これと同様の巻物を将監に託して甲賀へ送ったであろう。……それを断じて甲賀の手に入れさせてはならぬ」
「いかにも!」
「何はともあれ、まず将監を中途に待ちうけてたおし、その巻物をうばいとらねばならぬ!」
「よし、おれがゆく」
「いいや、おれが」
と、念鬼と小四郎が、先を争って立ちあがった。
「よし、雨夜だけ伊賀へもどれ」
「なぜ?」
「事はいそぐ。刺客《しかく》はこのまま立つ。弦之介主従、いやそれより朧《おぼろ》さまに何ごとも感づかせぬのが一仕事じゃ。うまくあしらいつつ、見張っておれ」
「弦之介――討てれば、討ってようござるな」
「フフフフ、それァ望むところだが、しくじって、騒ぎだされれば、すべてぶちこわしだ。陣五郎、わしたちがかえるまで、むりはするな」
「しからば、そのように――」
「さて簑、筑摩、それに蛍火に蝋斎老、わしもゆこう。相手は弾正がわざわざひとり駿府への供を申しつけたほどの風待将監じゃ。念には念をいれて、五人でかかれば、万に一つも討ちもらすことはあるまい。これ小四郎、何を笑う? 忍者の争いに、一騎討ちなどの見栄《みえ》はいらぬぞ。ただ、勝つ、殺す、相手をまちがいなくたおす、これが何よりの大事だ。さあ、ゆこう」
「信楽《しがらき》の谷を通るのでござるか」
「いや、敵の巣に伊賀者五人がはいって、さてはと感づかれてはならぬ。きのうの夕方、駿府を出たとして、いかに将監でも一昼夜に五十里走るがせいぜいであろう。さすれば、さよう、きゃつが甲賀の国の入口鈴鹿峠《すずかとうげ》にかかるは、はやくともきょうの夜と思う。甲賀にまではいって待ち受ける必要はない。伊賀から伊勢へ出て、関《せき》と鈴鹿峠のあいだあたりに網を張っておれば充分じゃ」
そして、薬師寺天膳は、すでに血ぶるいしている伊賀の精鋭たちを見まわして、愛撫《あいぶ》するように笑った。
「フフフフ、さようにうれしいか。それほど愉《たの》しいか。お婆さまが死なれたのは無念のきわみだが、またついに甲賀とたたかえる日がきたと思えば、一同本望であろう。いざ、ゆくか?」
「まいる!」
一瞬ののち伊賀と甲賀をへだつ春の山脈を、東へ、東へ、黒い流星のごとくとんでゆく五つの影があった。
いずれもこれ常人の想像を絶する妖幻の秘技《ひぎ》を身につけた恐るべき忍者たち、いかに家康を驚倒させた魔人風待将監といえども、はたしてこの五人の待ちぶせをのがれうるや否《いな》や。
【二】
伊賀伊勢甲賀の接点にそびえる油日山《あぶらひやま》をかけわたって、まるで五羽の鳥みたいに夕焼けの鈴鹿峠の山路へとびおりてきた伊賀の忍者たちは、まむかいの、支那《しな》の古画にも似た筆捨山《ふですてやま》の怪奇な山容には目もくれず、そのままたッたと東海道を関の宿の方へかけくだっていったが、突如、
「待て」
と、薬師寺天膳がさけんだ。
「なんだ」
「いまの山《やま》駕籠《か ご》にのっている人間を見たか」
やはり、鈴鹿峠を東へくだってゆく山駕籠を追いぬいて、百メートルもすぎたところである。
「いや」
「あれは、たしかに甲賀の地虫十兵衛《じむしじゆうべえ》。――」
「なにっ」
「きゃつ、何のために東海道をくだるか。ひとつ、ひッとらえて窮命してやろう」
「地虫十兵衛、きゃつの名もたしかあの巻物のなかにあったな。窮命もへちまもない。これはもっけの幸せ、いまここでたたッ斬れ」
と、簑念鬼がふりかえって、舌なめずりをした。
そのあいだにも、山駕籠は矢のようにはしってきたが、こちらの五人が立ちどまったのをみて、あやしむようにその速度がゆるんだ。
「蛍火、かがめ。あとのやつはさきにゆけ」
と、天膳はすばやく命じた。
念鬼、小四郎、蝋斎が何くわぬ顔してあるきだすと、蛍火が路傍《ろぼう》にうずくまり、天膳がその肩に手をかけた。ちょっと足をいためたか、腹痛でもおこした旅の娘を看護《かんご》しているふうにみえるが、
「蛍火、駕籠かきだけを殺せ」
「はい」
とは知らぬ山駕籠は、さっとふたりの傍《かたわら》をかけぬけて、十歩はしって、ふいに駕籠が地を磨《す》ってとまった。前後の駕籠かきは、棒立ちになっている。その手が宙をかきむしっていた。それも道理、ふたりのくびには、いつのまにか一匹ずつの蛇がまきついて、すでにのどの血を吸った赤い舌を三角の頭から吐いていたではないか!
声もなく、ふたりの駕籠かきは、身をねじってどうと崩折れた。天膳と蛍火が駕籠のそばへあゆみよったとき、さきへいった三人もかけもどってきた。蛍火が腕をさしのばすと、二匹の蝮《まむし》はそれをつたって、母のふところにかえるように、スルスルと彼女の胸へはいってゆく。
「地虫十兵衛」
呼ばれて、
「おいよ」
と、この場合、拍子《ひようし》ぬけするほどボンヤリした声とともに、にゅうとひとつの大きなあたまがのぞいて、みなを見まわした。
色のくろい、目の小さい、牛に似た顔のせいか、さほどおどろいたようすにもみえず、横着《おうちやく》なのか不敵なのか、駕籠からおりてくる気配もない。
「伊賀のお幻婆の手のものじゃ」
「伊賀? ……ふむ、何か用かい」
「ちょっと話がある。そこまできてくれ」
「せっかくだが、おれは歩けぬ。――ほ、駕籠かきをどうした。わしの足を殺して、あと、どうしてくれるぞい」
「ええ、面倒だ。念鬼、小四郎、駕籠をかついで、そこの山の中まではこんでくれ」
問答無用、はやく血祭にあげればよいのに――とでもいいたげに、念鬼と小四郎は不穏《ふおん》な目をちらっと山駕籠にはしらせたが、お幻婆亡きあとは伊賀一党の実質上の頭目格ともいうべき薬師寺天膳の言葉だから、ふたりは仏頂面《ぶつちようづら》でその駕籠をかついで傍の山へはいっていった。
「蝋斎老、もし十兵衛にふしんの挙動《きよどう》があれば即座に殺してくれ」
「いうにやおよぶ」
一行が山中にきえると、天膳はふたりの駕籠かきの襟《えり》がみひッつかんで、反対側の灌木《かんぼく》のしげみへ、犬の死骸《しがい》みたいになげこんでからそのあとを追った。
「十兵衛、出ろ」
往来《おうらい》からまったく見えない竹林の中にはいると、天膳はいった。地虫十兵衛という甲賀の忍者の返事はこうであった。
「出る足が、おれは欲しいのじゃが」
小豆蝋斎の足が、ながいばねみたいにのびて、山駕籠は蹴たおされた。
ゴロリところげだした地虫十兵衛の姿をみて薬師寺天膳以外のものは、みんなあっとさけんだ。十兵衛の両腕はなかった。両足もなかった。それは巨大な一匹の芋虫《いもむし》であった。天膳以外の伊賀の忍者たちは、地虫十兵衛がこういう男であることを、だれも知らなかったのである。
四肢《しし》なき忍者。行動の機能を喪失《そうしつ》した忍者。ゴロリと達磨《だるま》みたいにころがっただけの忍者。――かかる忍者が、この世にありうるか。
「十兵衛、なんのための旅だ」
と、天膳がきいた。地虫十兵衛の黒い唇がニヤリとした。
「甲賀のものの旅の目的を、伊賀者にいわねばならぬのか。しいてききたかったら、そっちから言え」
天膳はちょっとかんがえて、例の女のような微笑をうかべて、
「それでは、言おう。実は、駿府にゆかれたお幻さまの身が案じられての」
「ほ、そちらもか? おれの星占いにも、弾正さまが凶と出た」
「なに、星占い」
と、天膳は相手の牛のような顔をのぞきこみ、
「ふむ、それがうぬの芸か?」
とつぶやいたが、このとき、大地にひっくりかえったままの十兵衛が、いつしかうす闇につつまれていることに気がついた。あまり時間はかけられぬ。口早に、
「それでは、風待将監の運命は?」
「悪星が迫っておる。四つか五つの凶《まが》つ星が――」
「なんじの星占いはあたッたり!」
と、天膳は大声で笑うと、
「小四郎、蝋斎、念鬼、蛍火。この男はおれにまかせい。それより風待将監が、このままそこを通過しては一大事じゃ。さきへ走って迎え討て」
「ここは大丈夫か?」
「ばかな、このような達磨男。口だけはあるから、もう少しものをきいておこう。おぬしら一刻もはやくゆくがよい」
「おおっ」
四人は身をひるがえすと、まこと四つの星のように夕闇ただよう街道へかけ走った。
「十兵衛、ことのついでじゃ、甲賀一族のある者について、まずだいたいは知っておるつもりだが、まだよくわからぬところがある。おぬしもそのひとりじゃが、それよりも」
と、薬師寺天膳はいった。
「おぬしの仲間に、如月《きさらぎ》左衛門《さえもん》という男がいる。名はきいておる。遠くでその姿をみたこともある。が、顔がわからぬ。左衛門は、どんな顔をした男じゃ?」
「…………」
「室賀豹馬《むろがひようま》という盲人がおる。盲目の忍者。――彼はいかなる忍法をつかうのか?」
「…………」
「陽炎《かげろう》という女がいる。美女だなあ。あの美しさは恐ろしいが、ほかにどんな業《わざ》をもっておるのか?」
「…………」
「言わぬか?」
「フ、フ、フ」
「言うまいな、忍者なら、これでも――」
竹の枯葉にあおむけにころがったままの地虫十兵衛の襟元から下腹へかけて、すうっと銀の線がはしった。
「地虫十兵衛! なんじの星を占え!」
一刀をふりかざして薬師寺天膳はさけんだ。目にもとまらず刀身は十兵衛の衣服を、衣服だけをたてに切り裂いていたのだ。
「答えるか、答えぬか。次には、おなじところを、なんじの皮と肉を裂くぞ!」
無慈悲は忍者の争闘の常道とはいいながら、無抵抗の相手になんたる無惨《むざん》の脅迫だろう。地虫十兵衛は、なお黙したまま、宵闇《よいやみ》の底に海鼠《なまこ》のごとく模糊《もこ》とうごめいている。――が、そのとき、何をみたか、
「お!」
恐怖のさけびをあげて、さすがの天膳が十兵衛をのぞきこんだ。その胸から腹へかけて、いちめん、何やらえたいもしれず、もの恐ろしげなものがうす光ってみえたのだ。
――それは、鱗《うろこ》であった! 十兵衛の皮膚は角化《かつか》して、横に網の目が走り、大蛇の腹部《は ら》そっくりの形相《ぎようそう》を呈していたのだ!
「占う! なんじの星を――」
と、十兵衛は笑った。竹林《ちくりん》の空をあおいだままで。
「なんじの星は、凶《きよう》と出た!」
そのせつな、牛のようなその口から、がぼっ! というような音響とともに一本の槍の穂先《ほさき》が噴出して、とびのこうとした薬師寺天膳の左胸部を、背までぬきとおった。
悲鳴もあげえず、天膳はのけぞりかえっていた。
これは吹針といったようなものではない。実にこの芋虫男《いもむしおとこ》は、のどのおくに一尺ちかいものすごい凶器《きようき》をのんでいたのである。
十兵衛はゆるやかに反転して、うつ伏せになると、妖々《ようよう》とはいはじめた。腹部の巨大な鱗様《うろこよう》の角皮はすべて起伏《きふく》した。のみならず、その異常に発達した肋間筋《ろつかんきん》によって、肋骨も自由に前後にうごくらしかった。
そして彼は、朽葉《くちば》をざわめかしつつ天膳の屍《しかばね》のそばへはいよると、胸に刺さった槍の穂を歯でくわえて、あたまをふった。血まみれの穂はひきぬかれ、のどを上下にうごかすとみるまに、彼はそれをふたたび腹中にのみこんでしまったのである。腹中というより、食道であろう。これだけのものをすさまじい速度で噴出するのは、呼気だけでできるはずはない。おそらく食道の筋肉が、特別の吐逆《とぎやく》機能をそなえているのであろう。
「このことを相手に知られておればおれも百年目じゃが、知ったときは相手が百年目じゃ」
と、彼は笑いつつ、頬を天膳の胸につけていたが、天膳の鼓動が完全に停止し、しだいに全身が冷たくなってきたのを見すますと、
「さて、伊賀者どもが、かようなうごきに出るとは、いよいよもって弾正さまと将監が気にかかるて」
不安そうにひとりごとをつぶやいて、そのからだを大きくうねらせた。そして信じられないような速さで、灌木《かんぼく》を鳴らしつつ、夜の往還《おうかん》へはい去っていった。
また竹林に三日月がのぼった。またたきはじめた星のなかでひとつ血のように赤い奴があるのは、あれが薬師寺天膳の凶の星か。
――それから一時間ばかりたって、ただ死と闇と静寂のみのこもっているはずの竹林の底で、かすかな物音がした。虫か、獣か、風の声か。――いいや、たしかに、まるで眠りからさめた人間の、
「あアあ!」
というあくびのようなきみわるい声が。――
【三】
薬師寺天膳が案じていたのは、あたっていた。藪《やぶ》をかけ出した四人の伊賀者は、庄野《しようの》の手前で、東から疾駆《しつく》してきた風待将監にあったのである。もし地虫十兵衛にかかずらって、藪の中でうかと時をついやしていたら、あるいは将監を見すごしたかもしれない。
それにしても、なんたる超人的な将監の速歩ぶりよ!
駿府から庄野まで、五十里はこえているだろう。そのあいだを、彼は一昼夜とすこしでかけつづけてきたのだ。忍者のふつう一日の行程は四十里といわれるが、それはむろんなみなみの忍者にすべて可能なわけではない。よほど選ばれたものだが、将監は実にその限界をもこえている。もっとも、これは常人の通過できない山や谷や沼や沢を、直線的に走破してきたせいもあるだろう。
この速歩を行なうとき、ふつうの忍者は、横にあるいたり、爪先だけであるいたり、人によっては足の甲であるくという。――しかし、将監は二本の足だけを使いはしなかった。実に彼は四つの手足で、巨大な狼のごとく疾走《しつそう》してきたのである。もとよりこの走法は、日のおちるとともに試みたものであろうが、すれちがった旅人は、「あっ」とさけんで見送ったきり、それがいったい何物か、人か獣かの判別すらもつかなかった。
ただ、伊賀の忍者たちだけが、前方から疾駆してくるこの異形なものの姿を、薄闇のかなたにみとめて、立ちどまった。
「何者?」
さすがに、とっさにはわからず、十メートルの間隔までせまってから、
「おオっ、将監だっ」
「風待将監!」
四つんばいの風待将監は、すッくと直立した。四人、半円をえがいて街道にならんだうち、ものもいわずに筑摩小四郎がはしりよると、サッと大鎌が将監の腰をないだ。
将監は大地にはった。地上の口から粘塊がとんで、小四郎は顔をおさえて棒立ちになった。みごとに将監の痰《たん》で鳥黐《とりもち》のように鼻口をふさがれたのである。
宣戦の言葉もなければ、応戦の声もない。これが伊賀と甲賀の忍者のたたかいのはじまりであった。
小四郎には目もくれず、間髪をいれず敵のふした位置へうなっていった、簑念鬼の棒と小豆蝋斎の足から、風待将監はそのままの姿勢で、逆にひととび三メートルもとびずさり、二度めの跳躍で路傍の杉の大木へ、さかさにとまって、爛《らん》たる血いろの目で見おろした。
「伊賀か?」
はじめて、しゃがれた声で言った。
「将監、弾正から、伊賀甲賀忍法争いの人別帖《にんべつちよう》をわたされたであろう?」
「それをここにおいてゆけ」
と、下から念鬼と蝋斎がさけんだ。
「ホ、なぜそれを知っておる?」
さすがの将監も、これは意外だったらしい。同時に駿府を出た伊賀の夜叉丸がたずさえた巻物は、その実甲賀弾正のふところへもどっていて、伊賀の手にはまだはいっているはずがないと思っていたからだ。
念鬼は笑った。
「将監、うぬらの相手は伊賀のお幻一族であるぞ。それだけ胆《きも》に銘《めい》じて、死ね」
ほとんど手をうごかしたともみえないのに、棒が空をはしって、樹上四メートルの将監めがけてとんでいった。
ひろい大地や、石垣ではない。直立した一本の木である。さすがの将監が、避けもかわしもならず、棒のあたった背骨のあたりで、がっとたしかに骨の折れるような音がした。しかも、彼はころがり落ちない。――
「そこまで承知なら――」
と、彼は顔をひんまげてうめいた。
「まずこの人別帖から、うぬらの名前を消してくれる!」
同時にその口からビラビラビラ――と無数の糸のようなものが、念鬼と蝋斎へふきつけた。
「あっ」
思わず大きくとびのいたが、ふたりの顔から肩胸へかけて何百本かの粘《ねば》ッこい糸がまみれついて、念鬼と蝋斎はあわててそれをかきむしった。が、その異様な糸の粘強さは、さっき鼻口をふさがれた筑摩小四郎が、いまなお地上にうずくまったまま、それをとろうともがいていることからもわかる。――
シューッ……と奇妙なひびきをたてて、風待将監は糸を吹きつづける。つき出した口は、天をむいていた。そして、見よ、見よ、道をこえてむこうの杉木立へ、風か、息か、かぎりもなくみだれつつ、ながい糸が張られてゆくではないか。
将監は杉の木からその糸にのった。ツツとそれをわたりつつなお吐く糸は、縦に横にななめにながれて、みるみるそこに巨大な蜘蛛《く も》の巣と人間蜘蛛が現出した。
弦月《げんげつ》にキラキラと蛍光《けいこう》を発しつつ、大空にえがき出された幾何《きか》図形のなんたる妖異さよ! 凄惨美《せいさんび》よ! なお眉《まゆ》と睫毛《まつげ》にかかる糸をはらいつつ、うなされたようにふりあおいだ小豆蝋斎と簑念鬼は、
「伊賀者、どうした?」
蜘蛛の巣の中心からふってきた嘲笑に、はっとわれにかえった。
「うぬらごときの業をもって、忍法争いは笑止なり! この将監を討てるか、討てぬか、せめてこの網を破ってみろ!」
「ううむ」
「こわいか、臆《おく》したか。伊賀の忍者に恥なきやつ」
そのことばそのものが、将監の張った網であった。ようやく粘る痰や糸をむしりとった小四郎と念鬼と蝋斎は、憤怒のさけびをあげて、われとふたたびその網へ身をおどらせていった。
その網は、実に恐るべきものであった。小四郎の鎌と、念鬼の棒と、蝋斎の鞭《むち》のような四肢は、まるで蛾《が》みたいにからみつかれた。鎌で薙《な》いでもたわみ、棒でうってもきれず、四肢に膠《にかわ》のごとくねばりついた。
風待将監の吐く物質はいったい何なのか。それはやはり唾液《だえき》であった。人間が一日に分泌《ぶんぴつ》する唾液は千五百㏄におよぶ存外《ぞんがい》大量のものである。思うに将監の唾液腺は、これをきわめて短時間に、しかも常人の数十倍を分泌することを可能としたものであろう。しかもそれにふくまれる粘素《ムチン》が、極度に多量で、また特異に強烈なものであったと思われる。ここまでは異常体質としても、それを息と頬と歯と舌で、あるいは粘塊として吹きつけ、あるいは数十条の糸として吹きわけるのは、やはり驚嘆すべき練磨のわざだ。
「はははは、伊賀虻《あぶ》三匹、いざ、その名を削って人別帖を甲賀へ土産《みやげ》とするか。――」
はじめて山刀をぬきはらい、スルスルと糸をつたいかけて、将監の顔がふいに苦痛にゆがみ、肩で大きな息をつくと、そのあごにタラタラと血がしたたった。
さっき念鬼の棒でうたれた背骨が折れて、内出血を起こしていたのである。
「うぬ!」
しかも、彼はなおニヤリとして、血笑の顔をさかしまに、網をはいおりようとする。――
そのとき、月光が暗くなった。月が沈んだか、雲が出たか。――ふっと空をあおいで、風待将監は、「おおっ」とさけんで、思わずうごかなくなった。
あれはなんだ。空を覆う一道《いちどう》のつむじ風、それはあらゆる部分においてチラチラと浮動しつつ、明滅しつつ、しかも下界に舞いおりるにつれて、異様な風音をたてながら、将監の網に吹きつけてくる。
さすがの将監が茫乎《ぼうこ》としてただ息をのむばかり、しばらくそれがいったい何なのかわからなかったが、四方の網にかかってざわめくものを見て、目をかっとむき出した。
蝶《ちよう》だ。蝶だ。幾千羽ともしれぬ夜の蝶、前後左右にとびめぐり、舞いくるう胡蝶《こちよう》の大群、それは、たちまちあたりを霞《かすみ》のごとく銀の鱗粉《りんぷん》でつつんでしまった。――そして、その銀の霞のかなたに、将監は見たのだ。
眼下の路上に片膝をつき、胸のまえにがっきと印をむすんで天をあおいでいるひとりの娘の姿を。
【四】
蛍火《ほたるび》である。
蝶を呼んだのは、彼女であった。風待将監は、彼自身が一匹の蜘蛛《く も》にすぎないが、蛍火はこの地上のありとあらゆる爬虫《はちゆう》昆虫《こんちゆう》を駆使《くし》するのであった。蛇をつかうのは、彼女にとって、ほんの小手業《こてわざ》にとどまる。それは忍者にかぎったことではなく、ほかに世にないでもないが、一念、人間の感覚の識閾外《しきいきがい》の何かを放射して、野にねむる蝶をさまし、天に舞いたたせ、地に呼びよせるのは、実に忍法以上、まさに変幻不可思議の秘術とたたえても、だれしも異論はあるまい。
風待将監は、目をむき出したきり、うごかなかった。
たんに視覚的に昏迷《こんめい》におちいったばかりではない。うずまく蝶は、みるみる彼の張りめぐらした蜘蛛の巣にとまった。とまったというより、網にかかったといった方が至当であろうが、見るがいい、寸分の余地もなく、いちめんに波だつ蝶、蝶、蝶。暗天にゆれ、三日月にふるえる蜘蛛の巣型の蝶の大輪花《だいりんか》! ――狂う羽根と舞う鱗粉は、糸の粘着力をすべて無効としたではないか。
蛍火がかけよって、山刀をふるって、三人の仲間にからんだ糸をきりはらった。
「将監」
ふりあおいでさけんだとき、風待将監はまた口をとがらせた。糸を吹こうとしたらしい。しかし、はいたのは血であった。夜目にも白く、その醜《みにく》い顔の色がかわっていった。驚愕と絶望が、急速度に彼の生命力をうちのめしたのである。
「巻物をわたせ」
さかさの将監の首が、かすかにあがった。
「おお――」
といううなり声のような音をたてたが、次の瞬間、彼はふところからとり出した巻物を、大きく路上に投げたかと思うと、どうと巣から顛落《てんらく》した。真下におちた風待将監は、それっきりうごかなかったが、蛍火をのぞく三人の伊賀者は、その断末魔を見とどけるより、いっせいに身を反転させていた。なぜなら、将監の投げた巻物は十メートルも後方の路上へおちたからである。
そこに異様な物音が起った。
「あっ」
と、三人は絶叫した。
あまりに思いがけないものの姿を見いだして、彼らは一瞬、棒立ちになっていた。そこにはほそながい俵《たわら》みたいなものがころがっていた。とみえた刹那《せつな》、その俵が異様な物音をたててうねりだし、恐ろしい速度で逃走をはじめたのだ。あとに、巻物の影はなかった。
風待将監が最後の死力をふりしぼって、遠くへ巻物をなげた意味がわかった。
「きゃつだ!」
それは地虫十兵衛であった。
四肢のない彼がどうしてはうことができるのか。その彼がそこまで来ていたとすれば、薬師寺天膳はどうなったのか。その疑問よりも、まず巻物をとってにげられた狼狽《ろうばい》から、彼らはいっせいにとび立ち、土けむりをあげて追跡にかかった。
あとに蛍火だけが、山刀をひっさげて風待将監のそばへあゆみよる。
追う三人は、目をうたがった。追いつけないのだ。駿足あえて余人にゆずらぬはずの彼らが、四肢なき忍者の疾駆に、どうしても及ばないのであった。
庄野から亀山《かめやま》へ二里、この世のものならぬ怪奇な逃走と追跡がつづく。
月影くらく、夜目のきく伊賀の忍者たちも、ともすれば地をはう敵の姿を見うしないかけて、絶望の喘《あえ》ぎをもらしたとき、
「うっ」
と、前方で、ただならぬうめきがながれた。まだ三人には見えなかったが、地虫十兵衛のゆくてに、ぬっと立ちふさがった影がある。いまの声は、その影の正体をあおいだ十兵衛の驚愕のうめきであった。
「十兵衛、口にくわえたその巻物をはなせ」
と、影はいった。笑いをふくんだやさしい声である。
「はなさなければ、槍の穂が出せぬではないか」
十兵衛はなお口にくわえた巻物をはなさなかったが、地上から見あげた目は、恐怖にはりさけんばかりであった。――敵のいうとおりだ。彼は唯一の武器をはなつ口を、自らふさいでいるのだ。その巻物をはなすときが、槍の穂を吹く合図となる。それを敵は知っている!
背後から、三人が殺到してきた。
十兵衛の牛のような顔が、絶望にねじくれた。彼は巻物を口からはなした。一閃《いつせん》の光芒《こうぼう》がななめに空にはしった!