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森見登美彦 - 四叠半神话大系

_9 森見登美彦(日)
 一番恋い焦がれたのが猫ラーメンである。
 猫ラーメンは、猫から出汁《だし》を取っているという噂の屋台ラーメンであり、真偽はともかくとして、その味は無類である。一種異様な深みのあるスープに太い麺《めん》が入っている。まだ自由に外へ出られた頃は、夜中に思い立って喰いに行くことができた。
 夜中にふと思い立って猫ラーメンを喰いに行ける世界。
 これを「極楽」という。
       ○
 私が渇望したもう一つのものに、「風呂《ふろ》」がある。
 銭湯の広い湯船にざぶんと浸かりたいという思いが胸に迫った。下鴨本通を西へ渡って町中へ入ったところに古びた銭湯があったことを思いだした。気が向いたときにはタオルを持って出かけたものだ。夕方早めに暖簾《のれん》をくぐって、誰もいない湯船でぽかんと阿呆面をしているのは極楽であった。
 懐かしくてたまらない。
 丸一日行軍を止めて、風呂作りを試みたことがある。
 押入から段ボール箱をいくつか引っ張りだし、中身をぶちまけた後、分解した。それらの材料を使って、二時間がかりで湯船をこしらえた。ポットで沸かせる湯の量は知れている。できるだけ身体を浸せるように湯船は平べったくし、ゴミ袋を重ねて貼《は》りつけて防水加工をした。
 ポットで湯を沸かし、手製の湯船に注ぐ。何度かそれを繰り返す。
 風呂に浸かっているような気分にはなれたものの、湯はすぐに冷めてしまうし、身体は全部浸からないし、段ボールでできた小さな湯船の中で貧弱な裸体を縮めるのはつらかった。俺はいったい何をやっておるのだろう、という思いから逃れられないのである。やがて風呂は崩壊し、こぼれた風呂の湯で四畳半はびしょびしょになった。
 何がつらいといって、こんな阿呆な努力を重ねているのに、誰一人、馬鹿にしてさえくれないことがつらかった。もしここに小津がいれば、完膚なきまでに馬鹿にしてくれたことであろう。
「何をやってるんですか。大脳新皮質にウジ虫でも湧きましたか」
 そう言ってくれることであろう。
       ○
 ある朝、はたきで顔を撫でられているような感触に目を覚ました。
 万年床で身を起こすと、四畳半を蛾がたくさん舞っている。ギョッとした。ふだんは天井の隅に一匹はりついているだけなのに、その日は仲間がいっぱい寄り集まっていた。昨日私が壁に開けた穴から次々と蛾が入りこんで来る。その穴の向こうを覗くと、縦横無尽に蛾が飛び交って鱗粉を散らし、四畳半が黒々とざわめいているのである。
 私は慌ててリュックを掴むと、隣の四畳半へ移動し、窓をふさいだ。
 各四畳半に一匹ずつの蛾でも、集まれば大群を形成できる。彼らも淋しいのであろう。四畳半同士の交流が始まり、彼らは支え合うべき同胞を見つけたのだ。そして仲間を集めながら部屋から部屋へと旅を続けている。じつに羨《うらや》ましいことではないか。
 私は溜息《ためいき》をついた。
 彼らは猥談で盛り上がることもできるし、恋にうつつを抜かすこともできるし、猥談で盛り上がるやつらや恋にうつつを抜かすやつらを嘲笑《あざわら》うことさえできる。それにひきかえ、私は一人で猥談し、一人で妄想を膨らまし、そんな自分を嘲笑うばかりだ。自己完結にもほどがある。
 同居人の蛾がこの四畳半世界を満喫しているのを見せつけられ、私の孤独は深まった。
       ○
 前年の秋に話を戻す。
「香織さん誘拐計画」から逃走した後、私は隠れ家に籠もってぷるぷる震えていた。
 はっきりと謀反の意志を表明した以上、相島先輩は〈図書館警察〉を動かして、私をひねり潰してしまうであろう。城ヶ崎氏の運命は、私の運命でもある。恥ずかしい秘密を大学の掲示板へ貼りだされ、どこへ行っても笑い者、近いうちに暴漢に襲われて全身をピンク色に染められ、南禅寺|水路閣《すいろかく》へ叩《たた》きこまれるだろう。
 小津によると相島先輩は鵜《う》の目鷹の目で私の居所を捜しているらしかった。
「相島先輩にも困ったもんです。ちょっと暴走気味ですからねえ」と小津は言った。「〈印刷所〉の方でもナントカしなくっちゃと思っていたところです」
 私は隠れ家から一歩も外へ出なかった。
 隠れ家というのは、かつて私が図書を強制返還させようとした樋口清太郎の四畳半である。下鴨幽水荘の二階に隠れるという小津の案を初めは真に受けなかった。私は京都から落ちのびて、室戸《むろと》岬で悟りを開いて来ようとまで考えたのである。
「ヘタに動くよりもここに隠れていたほうが良いのです。灯台もと暗しと言うではないですか」
 小津に説得されて、私は樋口氏のもとへ居候することにした。
 私は連日、樋口氏と手作り海戦ゲームに耽って過ごした。小津はしばらく姿を見せなかった。私の学生生活が終わろうとしてる今、こんな風に海戦ゲームに熱中していてよいものか。私が陰気な顔をしながら潜水艦を撃沈していると、樋口氏は葉巻を出し、暢気《のんき》な口調で慰めてくれた。
「まあ大船に乗ったつもりでいたまえ。小津ならきっとうまく収めるだろう」
「あいつ裏切るんじゃないですかね」
「うん、そういう可能性もあるな」
 樋口氏は楽しそうに言った。「あいつの行動は予測がつかんからね」
「冗談じゃない」
「でも、貴君のことは身を挺《てい》してかばうと勇ましいことを言っていたよ」
       ○
 この世界に迷いこんでから五十日近くが過ぎ去った。
 信じがたい。外はもう夏真っ盛りであろう。
 千二百時間もの間、私はカステラと魚肉ハンバーグとビタミンの錠剤と珈琲と大根しか口にしていない。日光を浴びていない。新鮮な空気を吸っていない。ほかの人間と言葉を交わしていない。例の錬金術にも嫌気がさして、真面目に千円札を集めなくなっていた。いっそのこと札束の詰まったリュックを放りだして行こうと思ったほどだ。
 なんという世界か。なんという世界。
 地表はどこまでも隙間なく敷き詰められた畳であり、朝も昼もなく、風も吹かず雨も降らない。世界を照らすのは貧相な蛍光灯の明かりのみ。ただ孤独だけを友として、私はがむしゃらに世界の果てを目指して歩き続けた。数え切れない壁を破り、数え切れない窓枠をよじ登り、数え切れないドアを開けた。
 ときには同じ部屋に何日も腰を据え、本を読み、歌を歌い、煙草を吸い散らした。どうせ骨折り損のくたびれ儲《もう》け、二度と歩くものかとふて腐れる。しかし、全人類が死に絶えたかのような静寂に包まれ、ぼろぼろの天井を眺めて丸一日も過ごしていれば、恐ろしい淋しさが押し寄せてくる。限られた食材を使って奇妙奇天烈な新メニューを続々と開発し、紙を果てしなく折り続けて鶴とやっこさんを何十個も作り、ジョニーをなだめすかし、文章を書き、腕立て伏せをし、またジョニーをなだめすかし、輪ゴムで作った銃で射撃遊びをし、ありとあらゆる手を尽くしていても、現実を忘れることができない。
 待てど海路の日和なし。
 前年の秋に組織から足を洗って半年、私は四畳半の城に立て籠もってきた。自分は孤独に耐えうる人間であると思っていた。浅はかだった。私は孤独ではなかったのだ。今の私に比べれば、あの頃の私はちっとも孤独ではなかった。孤独の大海の波打ち際で、つま先だけをぴちょんと濡らしてみせ、「まったく俺って孤独だぜ」と嘯《うそぶ》くおませな赤ん坊であった。
 俺は孤独に耐え得ない。
 何としてもここから出なければならぬ。
 そうして私はよろよろと立ち上がる。ふたたび四畳半横断の旅に出る。
       ○
 誰もいない。
 誰とも言葉を交わしていない。
 最後に小津と言葉を交わしたのはいつであったろう。
 希望を持って歩くことは、日に日に難しくなった。窓枠を乗り越えるのも大儀になってきた。もはや私は独り言も言わなかった。歌も歌わない。身体も拭かない。魚肉ハンバーグを食べる気にもならない。
 どうせ同じ四畳半へ出るだけだ。
 どうせ同じだ。
 どうせ同じだ。
 どこまでも同じ景色が続いているだけだ。
 私はただ胸のうちでそう呟いていた。
       ○
 前年の秋、私が樋口氏の四畳半に潜み、海戦ゲームに耽っている間に何が起こっていたか。
 小津が妖怪のように暗躍していた。
 彼は手始めとして、〈印刷所〉副所長が北海道の学会へ出かけた隙をつき、代理権限を行使して〈印刷所〉の操業を停止した。そんなことは初めてのことだったから、相島先輩は私の件を放りだし、急遽《きゆうきよ》〈印刷所〉へ駆けつけた。
 小津は悪徳商人のように物欲しげな顔をして相島先輩の前に姿を現した。
「〈福猫飯店〉の運営で疑問があります。どうやら謀反を企てているやつがいるらしい。それで会議を開いて欲しいんです」
 まさか小津がすべてを乗っ取ろうとしているとは、相島先輩は考えもしなかったであろう。先輩と交渉する一方、小津は着々と他の組織に根回しをしていた。
 彼は宗教系ソフトボールサークル「ほんわか」のOBと親しく、そのOBは他のサークルに隠然たる力を及ぼしていたので話はつけやすかった。ほかにも学園祭事務局長は小津の友人であったし、胡散臭い研究会の隅々まで小津はよく知られていた。小津は彼らを説得するために、〈印刷所〉の収益のうち〈図書館警察〉への配分を大幅に削って、他のサークルや研究会に廻《まわ》す約束をした。〈図書館警察〉時代の人脈を使って、引きこめるだけの人間は自分の陣営へ引きこんだ。引きこめなかった人間は、〈自転車にこやか整理軍〉をさし向けて会議の当日には自宅へ閉じこめることにした。
 恐るべき八面六臂《はちめんろつぴ》ぶりというほかない。
 縦横に巡らされた陰謀の中へ、相島先輩は誘いこまれた。
 会議は開かれるなり終わった。
 意中の人を城ヶ崎氏に奪われた個人的|怨恨《えんこん》から相島先輩が図書館警察を動かしたという恥ずかしい事実が暴露され、満場一致で相島先輩は追放されることに決まった。まだ唖然《あぜん》としている相島先輩が、〈自転車にこやか整理軍〉によって議場から放りだされた後、会議は静かに続いた。
「小津君、君がやればいいじゃない」
 ソフトボールサークル「ほんわか」代表が、小津を推薦した。
「僕には荷が重過ぎますです」
 小津はいちおう、遠慮して見せた。
 けっきょく、小津が印刷所副所長および図書館警察長官を兼ねることが決まった。
       ○
 小津が図書館警察長官に就任した夜。
 私は一週間ぶりに隠れ家から出て、恐る恐る大学構内へ入った。隠れていた一週間のうちにまた一段と冷えこみは厳しくなり、紅葉もほとんど散ったように見えた。夜陰に紛れて法学部を抜け、会議場となっていた地下講義室へ入りこんだ私は、そこで小津のクーデターが成功し、相島先輩がいともやすやすと放りだされるのを見たのである。
 散会して学生たちがいなくなった後、教壇に小津がぽつんと座っていた。私は講義室の隅に座ったまま、小津の顔を眺めていた。我々二人だけが残された地下講義室はしんしんと冷えこみ、吐く息が白く凍った。印刷所副所長兼図書館警察長官たる小津は、その堂々たる肩書きにふさわしい貫禄を微塵《みじん》も感じさせず、相変わらずぬらりひょんのごときヘンテコな顔をしていた。
「恐ろしいやつだなあ」
 私はしみじみと言ったが、小津はあくびをした。
「こんなのはごっこ遊びですわ」
 彼は言った。「いずれにせよ、これであなたは助かったわけですねえ」
 我々は地下講義室から抜けだして、猫ラーメンを食べに行った。
 むろん、私の奢《おご》りであった。
 かくして私は〈福猫飯店〉から足を洗い、新世界に向かって船出したはずだったが、不毛に過ぎた二年の遅れをやすやすとは取り戻せない。私は下鴨幽水荘へ籠もりがちになった。
 小津のような恐ろしい人間とは早く袂を分かとうと思っていたが、それもうまくいかなかった。
 四畳半に籠もる私を訪ねてくるのは、小津だけだったからである。
       ○
 小津は私と同学年である。工学部で電気電子工学科に所属するにもかかわらず、電気も電子も工学も嫌いである。一回生が終わった時点での取得単位および成績は超低空飛行であり、果たして大学に在籍している意味があるのかと危ぶまれた。しかし本人はどこ吹く風であった。
 野菜嫌いで即席ものばかり食べているから、月の裏側から来た人のような顔色をしていて甚《はなは》だ不気味だ。夜道で出会えば、十人中八人が妖怪と間違う。残りの二人は妖怪である。弱者に鞭《むち》打ち、強者にへつらい、わがままであり、傲慢であり、怠惰であり、天《あま》の邪鬼《じやく》であり、勉強をせず、誇りのかけらもなく、他人の不幸をおかずにして飯が三杯喰える。およそ誉めるべきところが一つもない。
 しかしながら、彼は私のただ一人の友人であった。
       ○
 私は痛々しい行軍を続けた。
 その日泊まった四畳半の本棚には、映画関係の資料があった。私の持っていない風変わりなビデオカセットが机と本棚の間に積み重ねてある。珈琲を飲んで、煙草を吸いながらそれらのビデオを漁っていると、「賀茂大橋の決闘」と乱暴に殴り書きしたテープが見つかった。ラベルには「みそぎ」と書いてある。興味が湧いたので、ビデオデッキに入れてみた。
 それは奇っ怪千万な映画であった。
 出演者は私と小津だけで、二人芝居である。太平洋戦争前から続く由緒ある悪戯《いたずら》合戦を引き継いだ男たちが、知力と体力のかぎりを尽くしてたがいの誇りを粉砕しあうという内容で、能面のように終始表情を変えない小津の怪演と、私のデタラメでエネルギー過剰な演技、そして創意工夫を凝らした情け容赦ない悪戯の数々が盛りこまれている。大詰め、全身をピンク色に染められた小津と、頭の半分を剃られた私とが賀茂大橋で激突するシーンでは思わず手に汗を握った。観終わった後には手に汗を握った自分が情けなくなる、そんな映画であった。
 私は約七十日ぶりに小津の顔を見て、感動すらした。
 懐かしくてしょうがなかった。
 映画の終了後にはメイキングが収録されていた。メイキングと言いながらヤラセであることは明らかであった。小津と私がカメラの前で脚本の打ち合わせをしたり、殺風景なセットを作ったりしている。「上映後の感想を聞いてみた」という安っぽいコーナーもあったが、ほとんど誰も感想を述べてくれなかったらしく、ただ一人の女性が「また阿呆なもん作りましたねえ」と言っていた。
 いや、その女性には見覚えがあった。
「明石さんだ」
 私は呟いた。
       ○
 古本市。明石さん。もちぐま。『海底二万海里』。
 二回生の夏、ふいにのどかなアルバイトがしたくなった。河原町に「峨眉書房」という古本屋があって、たまたま古本市のバイトの手伝いを募集していたので申しこんだ。煮蛸《にだこ》のような顔の店主は、「時給なんて殆《ほとん》どないも同然だよ」と愛想なく言った。
 そのときのバイト仲間が明石さんである。店主は私には愛想が悪いのだが、明石さんと話すときにはまるでかぐや姫を見つけた竹取の翁《おきな》のような顔をした。煮蛸と竹取の翁とでは差があり過ぎる。
 参道のわきにある南北に長くのびた馬場に古本屋のテントがひしめき、本を漁る人々が大勢歩いていた。どこに目をやっても、古ぼけた書籍がみっちりと詰まった木箱が並んでいて、いささか目が廻る。毛氈《もうせん》を敷いた床机が並んでいて、古本市酔いを発症したらしい人々が行き場を失ってうなだれていた。蒸し暑かったが、蝉の声には風情があった。休憩時間に小橋の欄干に腰かけてラムネを飲んでぽかんとしていると、〈図書館警察〉などという阿呆な組織で蠢いているのが馬鹿馬鹿しくなった。
 明石さんとは連日顔を合わせた。彼女は髪を涼しげに短くして、理知的な眉をしていた。じっと何かを睨むような目つきが鋭かった。能ある鷹が爪を隠していないという印象を受けた。彼女は主に万引きを見張る役割を担っていたのだが、あの眼で睨まれていれば万引き犯もなかなか手が出せまい。
 それだけ強烈な睨みをきかせているのに、彼女はひどく可愛らしいものを鞄《かばん》にぶらさげていた。スポンジでできた小さな熊のぬいぐるみである。一日の片づけが終わった夕暮れ、彼女が哲学者のように難しい顔をして、一心不乱にぬいぐるみを揉んでいるのを見かけた。
「それはなんですか?」私は訊ねた。
 彼女はふわっと眉を緩めて笑った。「これはもちぐまですね」と言った。
 彼女は色違いの同じ熊を五つもっていて、「ふわふわ戦隊モチグマン」と称して大切にしているらしかった。「もちぐま」というナイスな名前も忘れがたかったが、彼女が「これはもちぐまですね」と笑ったときの顔は、よりいっそう忘れがたかった。
 ようするに、率直に書いてしまえば、大方の予想通り、私は惚《ほ》れたのである。
 最終日を明日に控える夕暮れ、私は小橋のたもとで「もちぐま」を拾った。明石さんが落として帰ったのだ。明日会ったときに渡そうと思って私はそれを持ち帰ったが、彼女は最終日には来なかった。急用が入って来られなくなったのだと峨眉書房店主は愛想なく言った。私は古本市の想い出に『海底二万海里』を購入して、下鴨神社を去った。
 以来半年、私は明石さんにいつか返さねばならぬと考え、「もちぐま」を大切にしていた。コインランドリーにおいて、もちぐまが謎めいた消失を遂げたことがどれだけ痛手であったことか。
「おお、なんと淡く遠い想い出ッ」
 私はテレビ画面に映る明石さんを見ながら、思わず言葉を漏らした。
       ○
 明石さんの顔を見たことが私に活力を与えた。
 翌日からまた私は壁を打ち壊して移動を開始したが、黙々とレンチを振るいながら、あのビデオテープについて考えていた。私は小津と一緒に映画を作ったことはない。しかしあのビデオは私と小津の手で作られたものである。我が身を省みてみれば、あんな映画を作りそうな暗い衝動が確かにある。ビデオテープのラベルには、「みそぎ」と書いてあった。私は遠い一回生の頃、あの運命の時計台前に立った記憶をたぐりよせた。かつて私が入らなかった映画サークルの名は、「みそぎ」ではなかったか。
 少しずつ変わる部屋の様子。
 私が作らなかった映画のビデオテープ。
 かつて買いそびれた本がならぶ本棚。
 買わなかった亀の子束子。
 同居していたはずのない香織さん。
 ある日、私は移動を止めた。四畳半の真ん中に立ち尽くして、天井を仰いだ。
 この四畳半世界の構造をようやく把握したのだ。
 今まで気づかなかった己が不明を恥じた。この世界で延々とつらなっている四畳半は、すべて私の四畳半には違いない。しかしその一つ一つが、一つ一つ別の選択をした私の四畳半である。この何十日もの間、私は様々な平行世界を生きる片割れたちの住処《すみか》を旅してきたのだ。
 全身の力が抜けた。
 どういう配列で並んでいるのかは知るよしもない。なぜこんな世界が出現したのかも分からない。なぜここに迷いこんだのかも分からない。
 しかし私は気がついた。
 ほんの些細な決断の違いで私の運命は変わる。日々私は無数の決断を繰り返すのだから、無数の異なる運命が生まれる。無数の私が生まれる。無数の四畳半が生まれる。
 したがってこの四畳半世界には、原理的に果てはないのだと。
       ○
 私は万年床に横たわり、耳を澄ませていた。
 四畳半世界はどこまでも無人であり、静かであった。
 語り合える相手はいない。何かを伝えようとすべき相手はいない。それを語るべき相手がいない私には過去がなく、未来もない。こんな私を見てくれる者もいない。私を馬鹿にしたり尊敬したりないがしろにしたり好きになったりしてくれる者もいない。そういった者がいつの日か現れる可能性も完全にない。
 私は四畳半の埃っぽい澱《よど》んだ空気のようなものだ。
 世界が失踪したのであろうと、私が失踪したのであろうと、私にとって存在しているのは世界中に私だけである。これだけ何百という四畳半をくぐり抜けながらも、私はついに誰とも出会わなかった。
 私は人類最後の一人となった。
 人類最後の一人に、果たして生きている意味があるのか。
       ○
 もしここから出ることができれば、色々なことがしたいと考えた。
 美味い飯を喰い、猫ラーメンをすする。四条河原町へ出かける。映画を観る。峨眉書房の煮蛸のような顔をした店主とやりあう。大学へ出かけて講義を拝聴するのも楽しいだろう。下鴨神社境内で祭神に捧げるダンスを踊ってもよい。二階の樋口氏のところへ行って猥談に耽るのもよい。窪塚歯科医院へ検診に出かけて、羽貫さんの繊細な指を舐めるのもよい。今や哀れにも組織から追放された相島先輩を慰めに行こう。みんなどうしているのか。賑やかな世界で、楽しくやってるのか。元気で暮らしているのか。城ヶ崎氏は香織さんと幸せにやっているのか。小津はあいかわらず他人の不幸で飯を三杯喰っているのか。明石さんは一匹だけ欠けた「ふわふわ戦隊モチグマン」を眺めて途方に暮れているのか、それとも、どこかとんでもない場所で拾い上げたりしているのか。それを私は確かめたい。
 しかしその願いは、もう二度とかなわない。
       ○
 私は背中に何か固いものが当たるのを感じた。さぐってみると、それは窪塚歯科医院で抜いてもらった親不知であった。「けけけ」と私は我ながら危険な笑い方をした。私はその虫歯になった親不知を掌にのせてころころと転がした。
 なぜこんなものがここにあるのか。
 ここは四畳半(0)だ。出発した地点だ。
 どの地点で間違ったのか分からないが、何十日もかけて、私は出発点たる四畳半(0)へ戻ってしまったことになる。おそらくこの無限に広がる四畳半世界の一角を、必死の思いをしながら小さくひと回りしただけだったのであろう。
 この世界の四畳半はどれもまったく同じというわけではない。ドアや窓を挟んだ場合、それは鏡のごとく反転する。したがって進む場合には、それを錯覚して、これまで進んできた方向とは逆に進んでしまうこともあり得るであろう。方向は慎重に選んできたつもりだが、完全ではなかった。
 不毛極まるひと巡りであったと思った。
 しかしすでに私は絶望していたから、どうということもなかった。静かに一切を受け入れた。
 私は寝床に横たわったまま、伸びた髭を撫で廻した。覚悟を決めて、この世界へ腰を据えよう。外の世界の美しい想い出を忘れてしまおう。壁を破るなどという野蛮なことはせずに、紳士らしく規則正しい生活をし、良書を読み、適宜猥褻文書も織り交ぜつつ、己の精神を高めることに意を注ごう。どうせこの広大無辺な座敷|牢《ろう》から出ることはできないのだから、堂々と畳の上で死ぬ日を待とう。
 そんなことを考えながら私は眠りについた。
 それが七十九日目の出来事である。
       ○
 目が覚めた。
 時計は六時をさしていたが、朝の六時なのか、夕方の六時なのか判然としない。布団の中で思案してみたが、どれぐらい眠ったのか分からない。
 私は布団の上で毒虫のようにもぞもぞしてから、のっそりと起きあがった。
 静かである。
 珈琲を飲んで煙草を吸った後、すぐには一日の行動を始める気になれず、布団に寝転んで思案に耽った。枕もとに転がっていた虫食いの親不知を手に取った。まがまがしい虫食い歯を蛍光灯にかざしながら、木屋町の占い師のことを考えた。
 私はすっかりこの不可解な状況をあの老婆のせいであると断じていた。「あなたは非常に真面目で才能もおありのようだから」などと甘言を弄《ろう》して、あり得べき別の人生に脱出したいという欲望に背を押されて近づいてきた私に四畳半の呪いをかけたのだ。
「コロッセオ」
 馬鹿馬鹿しい。
 もはや私は薔薇色で有意義なキャンパスライフなどという、正倉院《しようそういん》に納めてしかるべき究極の至宝のごときものを必要としてはいない。
 それにしても凄《すさ》まじい虫歯であった。こんなになるまで我慢したとは、我ながら呆れたものだ。歯の上部がごっそり抉《えぐ》られたようになっていて、内部断面が見えるのは科学模型のようである。じっくりと見ていると、もはやそれは親不知にすら見えず、あたかも古代ローマの巨大建築のごとき……。
「コロッセオ」
 私は呟いた。
 ばらばらと何かが窓へぶつかるような音がした。
 次の瞬間、半開きになっていた窓の隙間から、もぞもぞと蠢く黒い風のようなものが、この四畳半へ流れこんできた。
 四畳半世界を大移動している蛾の大群が、たまたまこの四畳半(0)を通りかかったらしい。おびただしい蛾が入りこんで、天井を埋め尽くしている。それでもなお、蛾は次々と入ってくる。
 私は泡を食い、早々に隣の四畳半(1)へ逃げだすことにした。
 ドアを開いた私の顔を、ひんやりとした廊下の空気が包んだ。
 埃っぽくてぺたぺたした板敷きの廊下が、暗く長く延びている。天井には、小さな電燈が点々とならんで明滅している。遠い玄関は、蛍光灯で白く陰気に輝いていた。
       ○
 私は玄関に向かって歩きだした。開け放された自室のドアから、蛾が次から次へと出てくることも気にならなかった。
 廊下の隅でしゅんしゅんと音を立てているのは、誰かが廊下の電源を利用して米を炊いているのであろう。炊きたての米の誘惑が私を釘づけにしかけたが、私は敢えて立ち止まらずに歩いた。靴箱を開けてみると、私の靴がきちんと収まっていた。
 私は下鴨幽水荘から、夕暮れの下鴨泉川町へとさまよい出た。
 町には藍色《あいいろ》の夕闇が垂れこめている。路地を吹き渡る涼しい風が頬を撫でた。たとえようもなく良い匂いがした。それは何か一つの匂いというわけではない。外の匂い。世界の匂いだ。匂いだけではない。世界の音が聞こえる。糺の森のざわめきや、小川のせせらぎ。夕闇の中を駆け抜けるバイクの音。
 私は頼りない足取りで、泉川町を抜けていった。堅いアスファルトがどこまでも続いていた。街灯や家々の門灯、窓から漏れる温かい光が見えた。往来へ明かりを投げかけている下鴨茶寮を過ぎた。そうして家々がひっそりと建ちならぶ下鴨神社の参道を歩いていった。やがて車の走り抜ける音、学生たちで賑わう鴨川デルタの喧噪《けんそう》が聞こえてきた。黒々としたデルタの松林が見えた。夕闇の中、大学生たちが宴《うたげ》を繰り広げているのが見えた。
 私は道路を渡り、鴨川デルタへ入った。
 土手の松林を抜けてゆく。万感の思い抑えがたく、半ば駆け足となった。松のざらざらした幹をぽかぽか殴りながら走った。浮かれ騒ぐ大学生を突き飛ばした。相手はなにくそという顔でこちらを見たが、髪も髭も延び放題の私を見るなり、何も気づかなかったふりをした。
 松林を抜けると、美しく深く澄んだ藍色の空がぽっかりと広がった。
 土手を転がるように駆け下りて、鴨川デルタの突端へ走った。水の音がひときわ大きくなった。船の舳先《へさき》に立つ船長のように、私はデルタの突端へ仁王立ちした。東から来る高野川と、西から来る賀茂川が私の目の前で混じり合い、鴨川となって、滔々《とうとう》と南へ流れて行く。
 ぽつぽつと灯《とも》る街灯の光が照り映えて川面は銀紙を揺らしているように見えた。目の前にはどっしりとした賀茂大橋が横たわっている。その欄干では行儀良く並んだ電燈が橙色の光を投げ、輝く車がひっきりなしに行き交う。さまざまな人々が賀茂大橋を歩み、さまざまな人々が鴨川デルタを蠢き、どちらを見ても人が溢れている。欄干の電燈も、真っ白に燦然《さんぜん》と輝く京阪《けいはん》出町柳駅も、ならぶ街灯も、遠く川下にある四条界隈の明かりも、橋を渡る車のヘッドライトも、何もかもがまるで宝石のように美しく煌《きら》めき、やがて滲んだ。
 なんということだ。
 賑やかだ。
 まるで祇園祭のように賑やかだ。
 香《かぐわ》しい空気を肺いっぱいに吸いこんで、桃色から藍色に変わろうとしている空を見上げ、私は顔を歪めた。そして意味不明の雄叫《おたけ》びを上げた。
       ○
 鴨川デルタに蠢くほかの人々からの恐怖と嫌悪の視線を浴びながら、私は生きてここにいる喜びに恍惚としていた。
 どれぐらい恍惚としていたものか分からない。やがて賀茂大橋が騒がしくなってきた。鴨川デルタの突端から見上げていると、東から西から大勢の学生たちが詰めかけて来て、わいわい喚いている。何の騒ぎであろうと思った。
 そうしているうちに、賀茂大橋の太い欄干に立ち上がった男がいる。欄干の上から、詰めかけてきた学生たちを相手にして、何か言い争っているらしい。欄干に灯る電燈に照らされた顔を見てみると、それは小津であった。欄干に立って、今にも飛び降りそうな仕草を見せたり、にやにやと笑ったり、卑猥な腰つきをしたりしている。八十日経っても彼は相変わらずふてぶてしい妖怪のような顔をしていた。私が姿を消している間も、己が呪われた道を邁進《まいしん》していたらしい。
 懐かしさのあまり私は「小津よーい」と叫んだが、彼は気づかないらしい。
 あんなところで何を阿呆なことをやっているのであろう。何かのお祭りであろうか。どうしたものかと思っているうちに、私の背後で甲高い悲鳴が上がった。
 振り返ると、土手の上にある松林の辺りが黒い靄《もや》に没している。その黒い靄の中で若人《わこうど》たちが右往左往している。手をばたばた振り回したり、髪をかきむしったりして、半狂乱である。その黒い靄はぞわぞわぞわと広がり、私のいる突端へ向かってくるらしい。
 松林からはどんどん黒い靄が噴きだしてくる。ただ事ではない。ぞわぞわぞわぞわぞわぞわぞわぞわぞわと蠢く黒い靄が絨毯《じゆうたん》のように土手から流れ落ちてきて、私の立っている突端へ押し寄せた。
 それは蛾の大群であった。
       ○
 翌日の京都新聞にも載ったことであるが、その蛾の異常発生について、詳しいことはよく分からなかった。蛾が飛んだ道筋を逆に辿ると、糺《ただす》の森すなわち下鴨神社まで到達するらしいが、判然としない。糺の森に棲《す》んでいた蛾が何かの拍子でいっせいに移動を始めたとしたにせよ、納得のいく説明はない。公式の見解とは別に、どうも発生源は下鴨神社ではなく、その隣の下鴨泉川町だという噂もあるが、それだと話はますます不可解になる。その宵、ちょうど私の下宿のあるあたりの一角が蛾の大群でいっぱいになり、一時騒然としたという。
 その夜、下宿に戻ったとき、廊下のところどころに蛾の死骸《しがい》が落ちていた。鍵をかけ忘れてドアが半開きになっていた私の部屋も同様だったが、私はうやうやしく彼らの死骸を葬った。
 しかしここまで読んだ読者には明瞭《めいりよう》なことであろう。
 私は以下のように考えた。
 私が八十日間暮らした四畳半世界には、蛾の大群があちこちで発生していたらしい。そのうちの一群が、四畳半世界から私の四畳半を経て、この世界へ流れこんだのである。
       ○
 顔にばたばたとぶつかって鱗粉をはね散らし、時には口の中まで押し入ろうとする蛾の大群を押しのけつつ、私は鴨川デルタの突端に雄々しく仁王立ちしていた。
 そうは言っても、そのときの蛾の大群は常識をはるかに越えていた。ものすごい羽音が私を外界から遮断し、まるで蛾ではなく、羽根をもった小妖怪のたぐいが通り抜けているように思われた。ほとんど何も見えない。うっすらと眼を開けた私が辛うじて見たものは、煌めく鴨川の水であり、賀茂大橋の欄干であり、欄干から鴨川へ落ちる人影であった。
 ようやく大群が行き過ぎて、鴨川デルタは先ほどの恐怖体験を声高に語り合う人々の声に満ちたが、私は黙然として鴨川を見つめていた。賀茂大橋の橋脚へ黒くて汚い昆布のようにわだかまっているものがある。あれは小津ではないか。
 橋の欄干を学生たちがびっしりと埋め尽くし、「あいつ本当に落ちた」「やばいやばい」「助けてやれ」「むしろ死ね」「殺しても死ぬようなやつじゃない」などと口々に喚いている。
 私は水嵩《みずかさ》の増した鴨川に入り、どうどうと流れる水の中を進んだ。幾度か足を滑らせて流されかけながら小津のもとへ急いだ。ずいぶん身体を洗っていなかった私はむしろ綺麗になった。
 ようやく橋脚まで辿り着いて、「大丈夫か?」と訊ねた。
 小津は私の顔をまじまじと見て、「うん? どちらさまでしたっけ?」と言った。
「俺だ俺だ」
 しばらく小津は眼を細めていたが、ようやく腑《ふ》に落ちたらしい。
「しかし、なんでそんなロビンソンクルーソーみたいな顔してますの?」
「大変だったんだ」
「まあ、こっちもなかなか大変ですわ」
「動けるか?」
「あ、いてててて。駄目です。これはぜったい折れてる」
「ともかく岸へ行こうぜ」
「いたい、いたい、動かしたら駄目」
 賀茂大橋で蠢いていた群衆のうちの一部が駆け下りてきて、助太刀してくれた。
「運ぶぞ」「おまえはそっち」「おれはこっち」と頼りがいのある声を出し、手際がいい。「痛い痛い、もうちょっと丁寧に運んで下さい」と贅沢《ぜいたく》なことを要求する小津は河原まで運ばれた。
 賀茂大橋から鴨川西岸にかけて大勢の人がうろうろしている。たいへんな騒ぎだ。人混みの中に相島先輩の姿を見たような気がして私は怯《おび》えたが、もはや怯える理由は何もない。群れ集まった人々は、河原に丸太のように転がされている小津をとり囲んだ。
 樋口氏が悠然と現れて、「救急車はどうした?」と誰にともなく訊ねている。城ヶ崎氏が「明石さんが呼んでくれたぜ。もうすぐ来る」と言った。樋口氏の傍らには羽貫さんもいて、呻《うめ》く小津を眺めていた。「自業自得と言えば自業自得なんだけど」と彼女は言っていた。
 暗い河原へ横になりながら、小津は呻いた。
「痛いよう痛いよう。とても痛い。なんとかして」
 樋口氏が小津の傍らに跪《ひざまず》いた。
「失脚しちゃいました」小津が小さな声で言った。
「小津、貴君はなかなか見所があるよ」師匠が言った。
「師匠、ありがとうございます」
「しかし骨まで折ることはないだろう。貴君は救いがたい阿呆だな」
 小津はしくしく泣いた。
 遠巻きにしている一群の人々の間から何人か偉そうな顔したやつらが出て来て、あれこれと喋り合っている。
「小津は逃げないから安心したまえ」
 樋口氏が怒ったような口調で一喝した。「私が責任を持つ」
 五分ほどして救急車が賀茂大橋のたもとへ到着した。
 城ヶ崎氏が土手を駆け上がって、救急隊員と一緒に下りてきた。救急隊員たちはプロの名に恥じぬ手際で小津をくるくると毛布に包んで担架に乗せた。そのまま鴨川に放りこんでくれれば愉快千万であったが、救急隊員は怪我をした人間には分け隔てなく哀憐《あいれん》の情を注いでくれる立派な方々である。小津は、彼の悪行には見合わないほどうやうやしく救急車へ運び上げられた。
「小津には私がついていこう」
 樋口氏が言い、羽貫さんと一緒に救急車に乗りこんだ。
       ○
 私が知らないところで何が起こっていたのか。
 小津が賀茂大橋へ追いつめられた経緯はとてつもなく入り組んでいるので、事細かに説明しているとそれだけで一つのお話になってしまう。だから手短にすませよう。
 樋口氏と城ヶ崎氏は昔から「自虐的代理代理戦争」という謎めいた争いを続けていた。その年の五月中旬、浴衣を桃色に染められた樋口氏は手下の小津に報復を命じた。そこで小津は城ヶ崎氏に一矢報いるために、香織さんを盗みだした。前年秋の相島先輩の模倣である。香織さんを預けようと当てにしていた私が不在であったために、小津は彼女を〈図書館警察〉の幹部Aに預けた。ところが、そのAがいともやすやすと香織さんとの禁じられた恋に落ち、ひそかに京都から逃亡を図ったことから話が大きくなる。小津は配下の〈図書館警察〉を私的に動かし、レンタカーで逃亡しようとしていたAを拘束、香織さんをいったんは取り戻した。ところが、小津が私的に組織を動かしたことが明らかになるや、〈福猫飯店〉を牛耳ってきた印刷所副所長兼図書館警察長官に不満を抱いていたサークルや研究会がここぞとばかりに動きだし、彼らに買収された〈自転車にこやか整理軍〉が、〈印刷所〉および〈図書館警察〉本部を占拠、さらにその過程で〈印刷所〉の収益の一部を小津が樋口氏の飲食代に流用していたことが判明、彼らは小津を捕獲して流用分を取り戻そうと企てた。小津への復讐《ふくしゆう》の機会を狙っていた相島先輩も、小津失脚の気配を察知すると、彼の身柄と引き替えに〈福猫飯店〉へ復帰を果たそうと企《たくら》んだらしい。彼は映画サークル「みそぎ」の後輩たちを顎《あご》で使って小津の行方を追った。事件当夜、帰宅途上にあった小津は敏感に危険を察知、マンションには戻らずに浄土寺の民家の庭先へ潜伏し、携帯電話を用いて羽貫さんに連絡、彼女を介して樋口氏に救援を求めた。かくして、樋口氏から「小津救出」の命を受けた明石さんがただちに浄土寺界隈へ潜入した。小津のマンション周辺には浄土寺から銀閣寺にかけて十重二十重の包囲網が巡らされていたが、明石さんが琵琶湖疏水の中を抜けるという一計を案じ、小津は包囲網をくぐり抜けた。鴨川以東、丸太町通《まるたまちどおり》以北に赤外線センサーのように張り巡らされた監視の目を逃れ、明石さんに女装させられた小津は夕闇に紛れて蓼倉橋《たでくらばし》を越え、下鴨幽水荘へ辿り着いた。樋口氏の四畳半で息をひそめていたものの、香織さんを盗まれて逆上した城ヶ崎氏が間の悪いことに樋口氏の下宿へ乱入、往来へ蹴りだされた小津は巡回監視中の〈福猫飯店〉関係者らに発見された。続々と蝟集《いしゆう》する関係者たちの手から持ち前の逃げ足の速さで辛くも逃れつつも、ついに小津は賀茂大橋へ追いつめられ、行き場を失って欄干へ飛びのった。
 小津は仁王立ちし、天狗《てんぐ》のごとき顔をした。
「僕に何かしようと言うんなら、ここから飛び降りてやる」
 彼は言った。「身の安全が保証されないかぎり、そちらへは降りないぞ」
 その挙げ句、賀茂大橋から鴨川へ落ちて骨折した。
       ○
 小津が運ばれてしまうと、まるで潮が引くように河原から人影がなくなった。八十日の一人ぼっち生活を経て、急にこんな大騒ぎに巻きこまれたので、私はしばらく呆然として、しきりに髭を撫でていた。
 ぼんやりと河原を見回していた私は、ベンチに腰かけている女性を見つけた。眉をひそめ、蒼《あお》い頬に両手を当てている。私は彼女へ近づいた。
「やあ、大丈夫ですか?」
 私が声をかけると、彼女は弱々しい笑みを浮かべた。
「蛾は本当に駄目なんです」
 なるほどそういうことかと思った。
「人が集まってたいへんな騒ぎだったけど、あれは何だったんですか?」
「小津さんが……いえ、もうあんまりややこしくて口では説明できません」
「君も小津の知り合い?」
「はい。あなたもですか?」
「そうそう。もう長い付き合いです」
 私は自己紹介した。下鴨幽水荘の一階に住んでいて、小津とは一回生の頃からの付き合いだと述べた。
「ひょっとして図書館警察におられた方ですか?」彼女は言った。「タツノオトシゴ事件の方ですね」
「タツノオトシゴ事件?」
「樋口師匠がタツノオトシゴを飼いたいと仰《おつしや》って、小津さんが水槽を調達してきたんです。ところがそれに水を入れた途端に割れてしまって」
「ああああ、知ってる。あれは酷《ひど》い目にあった」
「でも結局タツノオトシゴは飼わなかったそうです」
「なぜ?」
「ぐずぐずしているうちに師匠が大王|烏賊《いか》がいいと言いだして」
「そりゃ水槽で飼うのは無理ですね」
「さすがの小津さんもそれは調達できなかったそうです。そのかわりフェラーリの旗を買って来てごまかしたという話を聞きました」
 それから彼女は蒼白い頬をごしごし擦《こす》っている。
「お茶でも飲んで落ち着きますか?」
 私は訊ねた。
 決して蛾が苦手という彼女の弱点を卑怯《ひきよう》にも利用して、あわよくばなどと不埒《ふらち》なことを考えたわけではない。顔面|蒼白《そうはく》になっている彼女のためを思えばこそである。私は手近な自動販売機で缶珈琲を買ってきて、彼女と二人で飲んだ。
「ところで、もちぐまはお元気ですか?」
 私は訊ねた。
「はい。でも、一匹なくしてしまって……」と言ってから、彼女は口をつぐんだ。それから私の眼をまじまじと見た後、ようやく納得がいったという顔をした。「以前、古本市の峨眉書房で働いてらっしゃいましたね。気づかずに失礼しました」
「憶えてます?」
「はい。憶えてますけど、それにしても立派なお髭ですねえ」
 彼女は私の顔を見つめて言った。
 もはやこの感情について、今さらつらつら説明しても仕方があるまい。ともかくその感情を何らかの行動に結びつけようと四苦八苦して、私は一つの台詞を吐いた。
「明石さん、ラーメンを食べに行きませんか?」
       ○
 そして私が猫ラーメンを食べながら、店主も圧倒されるほどの滂沱の涙を流したのは言うまでもない。八十日ぶりの猫ラーメンであった。
「そんなに美味しいんですか?」
 明石さんが言った。
「うん、うん」私は呻いた。
「それは素晴らしいことです」
 彼女は静かに頷いて、つるつるとラーメンをすすった。
       ○
 それが私の「八十日間四畳半一周」の顛末《てんまつ》である。
 とうてい四畳半にふたたび寝泊まりする気にはなれず、私はその夜からしばらく廊下で寝ていた。そして元田中《もとたなか》に新しい下宿を見つけて、早々に引っ越した。今度は便所がきちんと部屋についている六畳を選んだ。それでも何かの拍子に麦酒瓶に排尿しようとしている自分に気づき、あの八十日間の恐ろしい経験を思いだす。
 奇妙なのは、あれだけ長い間、四畳半世界を彷徨《さまよ》っていたというのに、現実の世界では時間が流れていないことであった。浦島太郎ではなく、邯鄲《かんたん》の夢といった趣である。しかしあれは夢などではなかった。蛾の大群と、伸び放題の髭と、リュック一杯の千円札が何よりの証であろう。私の引っ越し費用はそのリュックから支払われた。
       ○
 私と明石さんの関係がその後いかなる展開を見せたか、それはこの稿の主旨から逸脱する。したがって、そのうれしはずかしな妙味を逐一書くことは差し控えたい。読者もそんな唾棄《だき》すべきものを読んで、貴重な時間を溝《どぶ》に捨てたくはないだろう。成就した恋ほど語るに値しないものはない。
       ○
 今や多少の新展開が私の学生生活に見られたからと言って、私が過去を天真爛漫《てんしんらんまん》に肯定していると思われては心外である。私はそう易々と過去のあやまちを肯定するような男ではない。確かに、大いなる愛情をもって自分を抱きしめてやろうと思ったこともあったが、うら若き乙女ならばともかく、二十歳過ぎたむさ苦しい男を誰が抱きしめてやりたいものか。そういったやむにやまれぬ怒りに駆られて、私は過去の自分を救済することを断固拒否した。
 あの運命の時計台前で、秘密機関〈福猫飯店〉を選んだことへの後悔の念は振り払えない。もしあのとき、ほかの道を選んでいれば私は別の学生生活を送っていただろう。
 しかしながらあの無限に続く四畳半世界を八十日間歩いてみた印象から推察するに、私はいずれの道を選んでも大して代わり映えのない二年間を送っていたのではないかとも思われる。何より、恐るべき想像ではあるが、いずれの道を選んでいても小津とは出会っていたのではないか。小津の言う通り、我々は運命の黒い糸で結ばれているということだ。
 したがって、私は過去の自分を抱きしめはしないし、過去のあやまちを肯定したりはしないけれども、とりあえず大目に見てやるにやぶさかではない。
       ○
 小津は大学のそばにある病院に少しの間入院していた。
 彼が真っ白なベッドに縛りつけられているのは、なかなか痛快な見物であった。もともと顔色が悪いので、まるで不治の病にかかっているように見えるのだが、その実は単なる骨折である。骨折だけで済んだのが幸いと言うべきだろう。彼が三度の飯よりも好きな悪行に手を染めることもできずにぶうぶう言っている傍らで、私はざまあみろと思ったのであるが、あまりぶうぶううるさいときには見舞いのカステラを口に詰めこんで黙らせた。
 樋口氏やら城ヶ崎氏やら羽貫さんやら明石さんに加えて、映画サークルの友人たち後輩たち、ソフトボールサークルの友人、学園祭事務局長、居酒屋主人、猫ラーメンの主人、および膨大な数の〈福猫飯店〉の関係者がひっきりなしにやって来た。相島先輩まで来たのには驚いた。病院の表には〈福猫飯店〉の人間がつねに張りこんでおり、小津が逃亡しないように見張っていた。
 ある日、私と明石さんが小津の傍らで話をしていると、清楚《せいそ》な女性が手作り弁当をたずさえて入ってきた。小津が異様に慌て、我々に出て行ってくれと言った。病室の外へ出た明石さんは「けけけ」と小悪魔のような笑い声を立てた。
「あの女の人は誰?」
 私は訊ねた。
「小日向さんです。私と小津さんのいる映画サークルをもう辞めた人ですが、一回生の頃から小津さんと付き合っているそうです」
「聞き捨てならん。小津に恋人がいたのか」
「あれだけ悪事を働いているのに、よく女性と付き合う時間がありますね」
 明石さんは面白そうに言った。
「小津さんはほかの人と小日向さんを会わせるのをとても嫌がるのです。おそらく小日向さんの前では良い子でいるんでしょう」
 私はふと病院の廊下の奥を見た。
 角の公衆電話の受話器を握って、無意味に十円玉を入れたり出したりしている男がいる。その横顔には見覚えがあった。〈図書館警察〉時代、一緒に香織さん誘拐に向かった幹部の一人に間違いない。相手は私が睨んでいることに気づくと、慌てて受話器をおろして、物陰に隠れた。
 私は溜息をついた。
「ねえ明石さん。小津は敵が多いから、しばらく身を隠したほうがいいだろうと思うんだ」
「そうですね」
 明石さんはニッと笑った。
「まかせてください。お手伝いしますよ」
       ○
 私はこの二年間ただ一人の友人であった小津の苦境に際し、惜しみない援助をすると申しでた。
「おまえは退院してもえらい目にあうんだろ」
「火を見るよりも明らかです」
「じゃあ、ほとぼりが冷めるまでどこかに逃げろ。費用は俺が持つ」
 小津は疑るような目で私を見た。
「どういう魂胆ですか? 僕は騙されないぞ」
「おまえも少しは人を信じる心を持った方がいいな。世の中には俺のように懐の深い人間もいるということだ。だいたい、おまえ、金はあるのか?」
「あんたに言われたくない」
「いいから俺に払わせろ」
「なぜそんなに払いたがるんです?」
       ○
 私はにやりと笑みを浮かべた。
「俺なりの愛だ」
「そんな汚いもん、いりません」
 彼は答えた。
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