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森見登美彦 - 四叠半神话大系

_2 森見登美彦(日)
「もうちょっとましな学生生活を送るべきだったとか思ってるんでしょ」
 小津が急に核心をつくようなことを言った。
 私は鼻を鳴らして何も答えなかった。
「無理ですね」小津はタン塩を食べながら言う。
「なにが」
「どうせあなたはどんな道を選んだって、今みたいなありさまになっちゃうんだ」
「そんなことあるもんか。俺はそうは思わん」
「無理です。あんたはいかにもそういう顔してる」
「どういう顔だ」
「何というか、有意義な学生生活を送れない星のもとに生まれたというべき顔ね」
「おまえだってぬらりひょんみたいな顔してるくせに」
 小津はにんまりした。ますます妖怪みたいな顔になった。
「僕は有意義な学生生活を送れない星のもとに生まれたという事実を前向きに受け止めております。無意義な学生生活を力一杯エンジョイしているのです。とやかく言われる筋合いはございません」
 私は溜息《ためいき》をついた。
「おまえがそんな生き方をしているから、俺もこんなふうになっちまったんだ」
「無意味で楽しい毎日じゃないですか。何が不満なんです?」
「何もかも不満だ。俺がおかれているかくのごとき不愉快な状況は、すべておまえに起因する」
「そんな人として恥ずべき言い草を、よくもまあ堂々と断言しますねえ」
「おまえに会わなければ、もっと有意義に暮らしていた。勉学に励んで、黒髪の乙女と付き合って、一点の曇りもない学生生活を思うさま満喫していたんだ。そうに決まってる」
「その椎茸、妄想キノコではないですか?」
「俺がいかに学生生活を無駄にしてきたか、今日気づいたよ」
「慰めるわけじゃないけど、あなたはどんな道を選んでも僕に会っていたと思う。直感的に分かります。いずれにしても、僕は全力を尽くしてあなたを駄目にする。運命に抗《あらが》ってもしょうがないですよ」
 小津は小指を立てた。
「我々は運命の黒い糸で結ばれてるというわけです」
 ドス黒い糸でボンレスハムのようにぐるぐる巻きにされて、暗い水底に沈んで行く男二匹の恐るべき幻影が脳裏に浮かび、私は戦慄《せんりつ》した。小津はそんな私を眺めながら、愉快そうにタン塩ばかり食べている。この腐れへっぽこ妖怪め。
       ○
 鴨川デルタでの戦略的退却、占い師の謎めいた言葉、目の前に座る小津など、あれこれが積み重なって、私が杯を干すのを速くした。
「明石さん、まだみそぎにいるんだなあ」
 私が呻くと、小津は首を振った。
「いや、なんだかつい先週、辞めたようなことを聞きましたよ。城ヶ崎先輩も引き留めたらしいんですけどねえ」
「なんだ。じゃあ俺たちが辞めてすぐではないか」
「今宵はたぶんOBとして来てたんだろうと思いますな。彼女も律儀ですのう」
「それにしてもおまえ、よくそんなことまで知っているな」
「だって、こないだ彼女と一緒にお酒飲んじゃった。同じ工学部のよしみで」
「きさまそんな抜け駆けを」
 鴨川デルタの土手下の一団から距離をおいて、松の傍らで飄々《ひようひよう》と麦酒をあおっていた明石さんの姿を思い描いた。
「明石さんってどうです?」
 小津が言った。
「どうって何が」
「だからね、あなたという未曾有《みぞう》の阿呆で醜悪無比な人間をですよ、理解できてしまう不幸な人はこれまで僕しかいなかったわけだけれども」
「やかましい」
「彼女はそれができる。これは好機だ。この好機を掴まないと、あなたにはもう手の施しようがない」
 小津は笑みを浮かべて私を眺めた。私は手を振って彼を制した。
「あのね、君。俺は、俺のような人間を理解できる女性は嫌だ。もっと何かこう、ふはふはして、繊細微妙で夢のような、美しいものだけで頭がいっぱいな黒髪の乙女がいい」
「またそんな意味不明のわがままを言う」
「うるさい。放っておいてくれ」
「あなた、まさか一回生のときに小日向《こひなた》さんに振られたこと、まだこだわっているんじゃないでしょうね?」
「その名前を口にだすな」
「あ、やっぱりそうなんですね? あなたもしつこい人ですねえ」
「それ以上言ったら、この鉄板で焼いてやるぞ」
 私は言った。「おまえと恋の話なんぞする気はない」
 小津はドッと身体を背もたれに当てて、鼻で笑った。
「じゃあ、この好機、僕が取っちまおう。あんたの代わりに幸せになってやろ」
「おまえは腹黒過ぎるから無理だ。明石さんには人間を見る目がある。それにだいたい、てめえ、本当はもう恋人いるんだろう。俺に隠れてちんちんかもかもやってるんだろう」
「ふっふーん」
「その笑い方はなんだ」
「ヒミツ」
       ○
 そういう苛立たしいやり取りを交わしているうちに、ふいに心の中に浮かんできたのは、あの夢とも現実ともつかぬ、「猫ラーメン」での、かもたけつぬみのかみとの邂逅《かいこう》である。そこはかとなく神秘的でありながらも底抜けに胡散臭いあの邂逅において、不届きにも神を名乗る男は、私と小津を天秤《てんびん》にかけていることを示唆した。
 そうだそうだ。あまりにも胡散臭かったので、すっかり忘れていた。
 酒に酔った頭で冷静に考えてみるに、現今の状況はまさにあの謎の男が予見した通りと言えるのではないか。いや、そんな阿呆なことがあるわけがない。私ともあろうものが、人恋しさのあまりそのような都合の良い妄想の虜《とりこ》となってあわよくば明石さんという黒髪の乙女とねんごろになりたいと思うなど言語道断。しかしおかしい。あの神は私の人生遍歴を辿ってみせ、さらには私の恥ずかしい棘だらけの過去を仄《ほの》めかし、そして今ある状況を的確に言い当てている。これは説明がつかない。あの神様は本物なのではないか。本当に毎年秋に出雲へ電車で出かけては、運命の赤い糸を結んだりほどいたりしているのではないか。
 そんなことを考えているうちに、だんだん景色がゆらゆらしてきて、どうやら自分はかなり酔っぱらっていると思い始めたあたりで、小津がいないことに気づいた。便所へ行くとか言いながら席を立ったきり戻って来ていない。
 初めのうちは、何とも思わずに一人ぼっちで妄想を風船のように膨らましたり凹《へこ》ましたりして優雅に遊んでいたが、十五分経っても小津が戻って来ないという状況に至って、さては酔っている俺を尻目《しりめ》に軽やかに逃げたかと思い、怒髪天をつく怒りに駆られた。こうやって宴半ばで春風のように軽やかに去り、相手に精算の重荷を背負わせるのは彼の十八番であった。
「くそう、またか」
 私がふて腐れて呟《つぶや》いていると、ようやく小津が戻ってきた。
「なんだ」
 ホッとして向かいに座った人物を見てみると、これが小津ではない。
「さあがつがつと喰いましょう、先輩。もっと喰いたければ急いで下さい」
 明石さんは淡々と言い、皿に残った肉をじうじう焼き始めた。
       ○
 明石さんは私の一つ下の学年で、工学部に所属していた。歯に衣《きぬ》着せぬ物言いで、同回生からも敬遠されていたようである。ここぞという場合には城ヶ崎先輩に刃向かうことも厭わない彼女を眺め、私は好感を抱いた。彼女は舌鋒《ぜつぽう》の鋭さにかけては城ヶ崎先輩にひけをとらず、先輩はそのカリスマぶりに傷がつくことをおそれ、彼女の冷ややかで理知的な顔、そして乳に興味はあるものの、おいそれと言葉をかけられなくなった。
 彼女が一回生の夏であった。吉田山《よしだやま》の山中で例によって城ヶ崎先輩の意味不明のイメージに従って撮影を行っていたときであろう。休憩して食事をしながら、新入生たちがあれこれ暢気に喋っていた。明石さんの同回生が「明石さんって週末に暇なとき、何してんの?」とへらへらと訊ねた。
 明石さんは相手の顔も見ずに答えた。
「なんでそんなことあなたに言わなくちゃならないの?」
 それ以来、明石さんに週末の予定を訊ねる者はいなくなったという。
 私はその話を後ほど小津から聞いたのであるが、「明石さん、そのまま君の道をひた走れ」と心の中で熱いエールを送った。
 そこまでまっとうな理性のある彼女が、なにゆえ「みそぎ」なんぞという妙なサークルに居座っていたのかは分からないが、彼女自身は段取りもうまく、万事手回しが良いし、機材の扱いも一瞬で呑みこんでしまう頭の良さであったので、遠巻きにされつつも尊敬されている面があった。その点、同じ遠巻きにされつつ軽蔑されている私や小津とは雲泥の差がある。
 そんな中世ヨーロッパの城塞《じようさい》都市のように堅固な彼女にも、唯一の弱点があった。
 前年の初秋、「人手が足りないから手伝え」と言われて、私は嫌々撮影に参加して、エエカゲンに立ち働いていた。場所は相変わらず吉田山である。
 木に録音装置をしかけようとして戦時中の検閲官のように冷徹な顔をして木に登っていた明石さんが、「ぎょえええ」とまるでマンガのような声を上げて転落してきた。私はすばやく的確に彼女を受け止めた。言い換えれば、逃げ遅れて下敷きになったのである。彼女は髪を振り乱して私にしがみつき、半狂乱になって右手を振り回した。
 木にのぼっている途中、木肌をがしりと右手で掴んだつもりが、なんだかむにゅむにゅしていた。見ると巨大な蛾を掴んでいた。
 彼女は蛾が何よりも怖かったのである。
「むにゅっとしてました、むにゅっとしてました」
 彼女はまるで幽霊にでも出会ったように顔面|蒼白《そうはく》になってがたがた震え、何度もそう言っていたのだが、終始堅固な外壁に身を包んでいる人が脆《もろ》い部分を露《あら》わにしたときの魅力たるや、筆舌に尽くしがたいものがある。恋ノ邪魔者たる私が、危うく恋に落ちるところであった。一回生の夏以来、真っ白に燃え尽きていたはずの煩悩がふたたび燃えだしそうになったところを私はグッとこらえ、「むにゅっとしてました」と譫言《うわごと》のように繰り返す彼女を、「まあまあ落ちつきたまえ」と紳士らしく慰めていた。
 私と小津の不毛な戦いについて、彼女が共感をもっていたとは思えない。少なくともサークル内の浮ついた話については、彼女は終始冷ややかなる傍観者であったが、かといってことさらそれを問題にするといったところはなかった。
 私が小津と一緒に作った映画を観た彼女の感想は以下の通りである。
「また阿呆なもの作りましたねえ」
 彼女はこれを三回繰り返した。
 いや、最後の一作も含めると、四回であった。ただこの春に作った最後の作品だけは彼女の気に入らなかった。彼女は「品性を疑う」と付け加えたのである。
       ○
「明石さんよ、なぜ君がここにいるのだ。さっきまで鴨川デルタにいたではないか。肉欲に駆られてここまで来たのか」
 私がふわふわした口調で訊ねると、彼女は眉をひそめて口に人さし指を当てた。
「本当に先輩は工夫のない人ですね。ここはうちのサークルの馴染みの店なのを忘れたんですか」
「そりゃ知ってる。俺も何回か来たことがある」
「デルタで宴会やったあと、なぜか城ヶ崎さんが肉を喰いたいと言いだしまして、わざわざ新入生を連れてこっちに場所を移したんです。今そこに陣取っております」
 彼女は店の出口の方を指さした。私は椅子から伸び上がって衝立《ついたて》の向こうを見ようとしたが、「見つかりますよ」と制されて身を縮めた。
「なんで宴会の後で肉なんか喰うんだ、肉欲獣め。農耕民族としての誇りはないのか」
 私は呻いたが、彼女は無視した。
「見つかると非常に面倒臭いことになります」
「喧嘩なら受けて立つ。受けられるものなら。でも勝てない自信がある」
「喧嘩ならまだいいでしょう。でも、おそらくけちょんけちょんに馬鹿にされておしまいです。さくらんぼみたいに若々しい新入生たちの前で赤恥をかきます。ほら、早く残りのお肉を食べて下さい」
 彼女は焼けた肉を私に押しつける。そう言いながら自分もばくばく食べる。私が呆《あき》れて眺めていると「お肉は久しぶりですので失礼」と、ちょっと恥じらったように言った。恥じらっているわりにはよく食べる。私はすでに腹が一杯であったので、申し訳程度につまんで「もういい。君が喰え」と言った。
「もう帰ることにする。小津はどうした? 君は見なかった?」
「小津先輩はすでに裏口からお逃げになりました。さすが『逃げの小津』と呼ばれた人です」
 はやきこと風のごとし。甲斐《かい》の武田《たけだ》軍のようである。
「ここまでの分の精算は済ませておきました。表から出ると城ヶ崎さんたちに見つかるので、裏から出て下さい。店の人に言って、裏口を通れるようにしてもらってあります。ここは馴染みですから」
 恐ろしいまでの段取りの良さに私は呆れ、おとなしく彼女の言に従うことにした。私は焼き肉の代金を彼女に手渡した。
「この借りはいずれ返す」
「借りはいいですから、あの約束をちゃんと果たして下さい」
 彼女は眉間に皺を寄せて、私を睨んだ。
「約束って何だったかな」
 私が首をかしげると、彼女はばたばたと手を振った。
「もういいです。とにかく早く逃げて下さい。私もそろそろあっちへ戻らないといけないんです」
 私は烏龍茶《ウーロンちや》をぐびりと飲んで、彼女に軽く会釈した。酔って乱れそうになる足元をことさらに踏みしめて、衝立に身を隠すようにして立ち上がり、暗い廊下の奥へと進んだ。
 従業員用と書かれたドアのわきに白い割烹着《かつぽうぎ》を着たおばさんが立っていて、私が行くとドアを開けてくれた。「どうもありがとう」と丁寧に礼を言うと、「お若いのに色々と大変ですねえ」と同情の籠《こ》もった声で言われた。明石さんは何と言って説明をしたのであろうかとしばし考えた。
 外へ出ると、そこは暗くて狭い路地である。
 そうして私は夜の木屋町界隈へと抜けだした。小津の姿を探したが、どこにも見えなかった。
       ○
 私が最後に作った映画について述べる。
 ふたたび春が巡ってきて、私の苛立ちはさらに高まった。城ヶ崎先輩はしつこく現役として采配を振るい、引退する気配は微塵《みじん》もない。彼は赤ちゃんがおしゃぶりをしゃぶるように箱庭の権力をしゃぶり続け、新入生の新鮮な乳に目をとられていた。そして下回生たちは城ヶ崎先輩のちっちゃいカリスマぶりに魅了されたまま、有意義に過ごすべき学生時代を棒に振るつもりらしい。冷や水を浴びせる人間が今こそ求められている。そのおそろしく損な役回りを私が買ってでようと決意した。
 四月から五月にかけて行われる新入生勧誘のための上映会に向けて、私は二つの映画を用意した。一本は殺風景な四畳半に小津が一人で座っており、「平家物語」の那須与一《なすのよいち》の場面を朗々と暗唱するというものであった。城ヶ崎先輩をはじめとする先輩連中はこぞって上映に反対した。私としても当然であろうと思った。
「好きでしょうもないものを撮るのは構わないよ」
 暗がりの中で、城ヶ崎先輩はそう言い放った。「だが、新歓の邪魔だけはするな」
 しかし、私はウィンストンチャーチルのごとく堂々たる弁舌をもって反対意見を押し返し、上映を認めさせた。これが最後という私の気魄《きはく》が彼らにも通じたのかもしれない。
 じつは、その映画とはべつに私はもう一本の映画を用意していた。
 それは「桃太郎」をベースにした人形劇であったが、お婆さんとお爺《じい》さんは桃から生まれた桃太郎になぜか「マサキ」という名前をつける。そこからマサキの鼻持ちならない遍歴の旅が始まる。マサキは映画サークル「鬼ヶ島」を創設し、毒入り吉備団子《きびだんご》で下級生をたぶらかして箱庭の権力を掌中にし、阿呆丸出しの人生論を語り、恋愛論を語り、腹心の犬猿雉《きじ》が連れてくる乙女たちの乳に見惚《みと》れ、一般的に「男前」と言われる顔の裏ではおそるべき変態性をほしいままにし、酒池肉林の大騒ぎ、ついにはマサキ帝国を作り上げて、その頂点に君臨する。しかし、やがて正義の味方と言うべき二人の男が現れ、マサキの全身をピンク色に染め上げた挙げ句に簀巻《すま》きにして鴨川に流し、世界に平和をもたらす。
 表面上はごくありきたりの、桃太郎にブラックユーモアを注入しただけの作品のように見えるし、私なりに精一杯の努力をして観客へのサービスに努めた。しかし、マサキとは城ヶ崎先輩の名前であり、ほかの登場人物たちにもすべて現実の名前を与えた。これは「桃太郎」を借りた城ヶ崎先輩の暴露ドキュメンタリーであった。
 城ヶ崎先輩の裏話については、全面的に小津の情報に頼った。小津は、そんなことはいくら私でもホモサピエンスとしての誇りに阻まれて暴露できないという裏の裏まで城ヶ崎先輩について熟知していた。「情報機関へ渡りをつけたのです」とだけ彼は言ったが、謎である。改めて私は彼の人間としての邪悪さに心を打たれ、できるだけ早く袂《たもと》を分かたねばならぬと心に決めた。
 上映会当日、私は当初予定していた小津が平家物語を暗唱している映画と、この「城ヶ崎先輩版 桃太郎」を差し替えて上映を始めた。
 そして暗がりに紛れ、会場を抜けだしたのである。
       ○
 木屋町の焼き肉屋から脱出した後、私は夜の川端通《かわばたどおり》に沿って、北へ自転車を走らせた。
 水嵩《みずかさ》を増して流れる鴨川の対岸には町の灯りが煌《きら》めいて、夢の景色のように思われる。三条大橋と御池橋《おいけばし》の間には、鴨川等間隔の法則として知られる男女の群れがあった。そんなものは全然気にもならん、断じて意に介す必要はない、むしろ意に介していられるだけの余裕がない。自転車を走らせるうちに、やがて繁華街の明かりも鴨川等間隔の法則も遠ざかった。
 鴨川デルタはこの時刻になっても人影があって、ざわめいていた。軽佻浮薄な大学生たちが、何か良からぬことを企《たくら》んでうごうごしているのであろう。その北側には葵公園の森が鬱蒼《うつそう》と繁っているのが見えた。私は鴨川デルタから下鴨神社へ向かい、ひんやりとした夜気を頬に受けながら走った。
 下鴨神社の参道は暗かった。
 私は参道の入り口に自転車を置いて、暗い糺の森を歩いていった。参道から少し入ったところに小橋がかかっていて、この欄干に腰かけてラムネを飲んだことを思いだした。
 あれは一年前、夏の下鴨神社の古本市だった。
 参道のわきにある南北に長くのびた馬場に古本屋のテントがひしめき、本を漁る人々が大勢歩いていた。下鴨幽水荘から足を伸ばせばすぐということもあって、私は連日のごとく通ったのである。あのときの賑わいが夢のように、その夜の暗い馬場はがらんとして不気味であった。
 その古本市で明石さんに会った。
 木漏れ日の中でラムネを飲んで、夏の風情を心ゆくまで味わったあと、両側に連なる古本屋の出店をひやかしながら歩いていった。どこに目をやっても、古ぼけた書籍がみっちりと詰まった木箱が並んでいて、いささか目が廻《まわ》る。毛氈《もうせん》を敷いた床机が並んでいて、私のように古本市酔いを発症したらしい人々が行き場を失ってうなだれていた。私もそこへ腰かけて放心した。八月のことなので蒸し暑く、私はハンカチで額の汗をぬぐっていた。
 目の前に「峨眉書房《がびしよぼう》」という古本屋が店を出していた。店先に置いてあるパイプ椅子に腰かけているのが明石さんであった。あれはサークルの後輩ではないか、と私は気づいた。どうやら店番のアルバイトをしているらしい。当時、彼女はまだ「みそぎ」に入ったばかりだったが、能ある鷹ながら爪を隠さず、その才能およびとっつきにくさは誰の目にも明らかであった。
 私が床机を立って、峨眉書房の本棚を物色しながら彼女に目を合わせると、彼女は軽く頭を下げた。私はジュールヴェルヌの『海底二万海里』を買った。そのまま歩み去ろうとすると、彼女が立ち上がって追いついてきた。
「これ、お使い下さい」
 彼女はそう言って、納涼古本市の文字が入った団扇《うちわ》をくれた。
 汗に濡れた顔をぱたぱたと扇《あお》ぎながら、『海底二万海里』をぶら下げて、糺の森を抜けていったことを思いだす。
       ○
 翌日である。
 夕刻に目を覚まして、出町のそばにある喫茶店へ出かけて夕食とした。
 鴨川デルタのそばを抜けるとき、夕日に照らされる大文字がくっきりと見えた。ここからは送り火がよく見えるであろう。ここで明石さんと一緒に大文字を眺めたらどんなものであろうと妄想を膨らましかけたが、あんまり夕風に吹かれて妄想に耽っていても腹が減るだけなので、適当なところで切り上げた。
 諦《あきら》めて四畳半へ戻り、『海底二万海里』を読んだ。しかし古典的冒険世界へ空想を羽ばたかせようとしても、羽ばたくのは妄想ばかりであった。あの占い師の予言とかもたけつぬみのかみの登場は何か関係があるのだろうかと、私はファンタスティックな妄想に耽った。占い師の言っていた「コロッセオ」という言葉を呟いてみた。好機を掴めだと。何が好機なんだか分かりゃせん。
 日もすっかり暮れた頃に、小津が訪ねてきた。
「昨夜はどうも」
「おまえ、相変わらず逃げ足だけは速いな」
「相変わらずむっつりしてますな」と彼は言う。
「恋人もいない、サークルからも自主追放された、真面目に勉強するわけでもない、あなたはいったいどういうつもりだ」
「おまえ、口に気をつけないとぶち殺すぞ」
「ぶって、しかも殺すなんてあなた。そんなひどいことを」
 小津はにやにやした。「これあげるから御機嫌治して下さい」
「なんだこれ」
「カステラです。樋口師匠からたくさんもらったので、おすそ分け」
「めずらしいではないか。おまえがものをくれるなんて」
「大きなカステラを一人で切り分けて食べるというのは孤独の極地ですからね。人恋しさをしみじみ味わって欲しくて」
「そういうことか。ああ、味わってやる。飽きるほど味わってやるとも」
 それから小津は珍しく自分の師匠の話をした。
「そうそう、師匠がタツノオトシゴを欲しがったときにね、ゴミ捨て場で大きな水槽を見つけて、持っていったのです。試しに水を入れてみたら、途中で水が怒濤《どとう》のように漏れだして大変な騒ぎになっちゃった。師匠の四畳半が水浸し」
「待てよ、おまえの師匠の部屋は何号室だ?」
「この真上です」
 私はふいに怒り心頭に発した。
 いつか、私の留守中に二階から水漏れがしたことがあった。帰ってきてみれば、したたり落ちた水が貴重な書籍類を猥褻非猥褻のへだてなくふやけさせていた。被害はそれだけにとどまらず、水に浸ったパソコンからは貴重なデータが猥褻非猥褻のへだてなく電子の藻屑《もくず》と消えた。この出来事が、私の学問的退廃に追い打ちをかけたことは言うまでもない。よっぽど抗議に行こうかと思ったが、私は正体不明の二階の住民とかかわり合いになる面倒を厭い、あの時はうやむやにしてしまった。
「あれはおまえの仕業か」
「猥褻図書館が水浸しになったぐらい大した被害じゃないでしょ」
 小津はぬけぬけと言うのであった。
「もう、とっとと出て行け。俺は忙しいんだ」
「出て行きますとも。今宵は師匠のところで闇鍋の会があるのです」
 にやにや笑う小津を廊下の外へ蹴《け》りだして、ようやく心の平安を得た。
       ○
 そうして夜も更けた。
 珈琲《コーヒー》がごぼりごぼりと沸く音を聞きながら、小津からもらったカステラを眺めた。孤独の極地で人恋しさを味わえと小津は言っていたが、私は負けるつもりはない。珈琲が沸いてから、おもむろに心頭を滅却し、悠然とカステラを喰うことにした。
 甘く懐かしい匂いがして、子どもの頃に戻ったような気がした。
 カステラを頬張りながら、しかしこれだけのカステラを一人で喰うのはじつに味気ないし、人間として間違っている、誰か気持ちの良い人と一緒に優雅に紅茶でもすすりながら上品に食べたいものだ、たとえば明石さんとか、断じて小津ではなく、明石さんとか、と考えたのは我ながら驚いた。鴨川デルタでの退却、神様のいらんちょっかい、占い師の謎めいた言葉、焼き肉屋での出来事、そういう突発的な出来事の数々が私の心を腑抜《ふぬ》けにして、理性が角砂糖のようにぼろぼろと崩れている。
 さして熱烈な恋に身を焦がしているわけでもあるまいに、刹那《せつな》的な寂しさから赤の他人を求めるなど、私の信条に反する。そうやって孤独に耐え得ずがつがつと他人を求める不埒《ふらち》な学生たちを軽蔑すればこそ、恋ノ邪魔者というかぎりなく汚名に近い勇名を馳せてきたのではなかったか。不毛な苦闘に憂き身をやつし、ついにはかぎりなく敗北に近い勝利を収めたのではなかったか。
「じゃあ、この好機、僕が取っちまおう。あんたの代わりに幸せになってやろ」
 焼き肉屋で小津はそう言った。
 あの胡散臭い神の言うことを信じるわけではないし、明石さんのように人を見る目のある人物が小津のような変態偏食妖怪に騙《だま》されるわけがないと思う一方、彼女はそれなりの縁があれば妖怪でも面白がれるだけの懐の深さをもつ人間だとも思われた。考えてみれば、小津は同じ工学部である。さらに同じサークルをやめた同志である。このまま手をこまねいていて、小津と明石さんがねんごろになるというおよそ想像を絶する奇怪事が起こったら、由々しきことである。これは私一個人の人恋しさの問題ではない。明石さんの将来にかかわることだ。
 頭上では、いつの間にか入りこんだ大きな蛾が新品の蛍光灯のまわりをばたばたとうるさく飛んでいた。
 そうこうしているうちに、女性と男性が語らう声が聞こえてきた。
 耳を澄ませてみると、隣室から聞こえてくるらしい。甘い囁きに聞こえないこともない。押し殺した笑い声もする。いったん廊下へ出てみて、隣室を確認してみたが、ドアの上にある小窓からは明かりが漏れていない。にもかかわらず、壁に耳をつけてみると甘い囁きが聞こえてくる。
 隣室に住んでいるのは中国からの留学生である。大陸から海を越えて来て異邦の地で出会った二人、たがいに慣れない異国の地で辛《つら》いこともあったろう。そんな二人が寄り添い助け合うのは、人間として自然なことであり、私がとやかく言うべき筋合いではない。それは分かっている。分かっているけれども看過できない。明かりを落とした隣室で、しかも中国語で甘い睦言を交わされては、内容が分からないだけに盗み聞きして憂さを晴らすこともできない。私は第二外国語として中国語を学ばなかったことを腹の底から後悔し、もどかしさのあまりカステラをやけ喰いした。
 負けてたまるか。
 人恋しさに負けてたまるか。
 四畳半に独り居るという孤独を紛らわせるために、カステラを丸ごと齧《かじ》るという気っ風の良さを誰にともなく見せつけていたが、その角張った菓子の周囲を隈無く野獣のように齧り尽くしたあとで、ようやく我に返った。あまりの虚しさに思わず涙腺からほとばしりそうになる汁を堪え、齧りかけのカステラをそっと置いた。そうして、しげしげと眺めてみた。無惨に喰い散らかされたカステラ、それはもはやカステラにすら見えず、あたかも古代ローマ建築のごとく……。
 コロッセオ。
 私は呟いた。
 あの占い師め、何という廻りくどい予言を。
       ○
 サークルを辞める前に明石さんと会ったときのことを思い起こした。
 春の新歓上映会が行われていたのは、大学の講義室であった。私は「桃太郎」の上映を始めるとすぐに、闇に紛れて講義室から抜けだし、大学の隅にあるサークルのボックスへ歩いて行った。いかに間抜けな城ヶ崎先輩であっても、数分も観れば、あの映画の内容が把握できるだろう。そうなれば城ヶ崎先輩の指揮下にある連中に吊《つる》し上げられるのは明らかだったから、すぐに会場を抜けだし、私物を処分するためにボックスへ足を運んだのである。
 黄金色の夕日が構内の新緑を輝かせ、木々の葉がまるで飴《あめ》のように光っていたことを不思議と思いだす。二年もの間、自分でもなぜ居座っていたのか分からないようなサークルであったのに、やはり出るということになるといささか感傷的になったらしい。
 ボックスには私に一歩先んじた小津がうずくまっていて、私物を漁ってリュックに詰めていた。まるで妖怪が人骨を漁っているようだ。どこまでも逃げ足が速く、そして不気味な男であると感服した。
「速いなあ」私は呻いた。
「だって、面倒くさいのは嫌ですもん。後腐れなく、さっさと消えちゃおうと思って。もっとも、もう後腐れ切ってますけどねえ」
「そりゃそうだ」
 私は私物を用意してきた鞄《かばん》に入れて、置いておいたマンガや小説を眺め渡し、それらのコレクションはこのまま放置してゆくことに決めた。せめてもの贈り物である。
「俺に付き合って辞める必要はないぞ」
「あんなことさせておいて、よくそんなことが言えますな。僕だけ一人でここに居座ったら、まるっきり阿呆じゃないですか」小津はぷりぷりしながら言った。「それに、あなたと違って僕は多角的に学生生活を送ってますからね、居場所は他にいくらでもあるのです」
「前々から思ってたんだけど、おまえ、他に何してんの?」
「とある秘密組織にも所属してるし、手間のかかる師匠はいるし、宗教サークルに入ってたこともあるし……恋に遊びに大忙しですわ」
「待てよ。おまえ、恋人なんかおらんじゃないか」
「ふっふーん」
「なんだね、その卑猥な笑い方は」
「ヒミツ」
 そうやってボックスを漁っていると、小津が「あ、誰か来た」と言った。「待てよ」と言う間もなく、彼はリュックを担いでボックスから飛びだした。げに逃げ足の速いことよ。私が追いかけようとして鞄を手に取ったところに、明石さんが入ってきた。
「おや、明石さん」
 私が立ち止まって言うと、彼女は手に持っていたペットボトルのコーラをぐいと飲んでから、眉をひそめて私を睨むようにした。
「また阿呆なものを作りましたねえ」と彼女は言った。「私、途中まで観てました」
「上映、止められてないか?」
「観客が面白がってますから、止めるに止められないようでした。けれど相島先輩やその他数名、先輩を捜しておりました。もうすぐここへ来るでしょう。こっぱみじんにされたくなければ、お逃げになったほうが良いと思います」
「そうか。観客が笑ってるなら、まあ良かろ」
 彼女は首を振った。
「私はこれまでの方が好きでした。今回の作品は品性を疑います」
「いいんだ。今回のは作り逃げだ」
 彼女は私がぶら下げている鞄に目を留めた。
「先輩、辞めるんですか」
「当たり前だろう」
「まあ、あんなもの作ってしまってはしょうがないのかもしれません。先輩はあれで最後の最後に残っていた名誉のひとかけらまで吹き飛ばしました」
 私は我ながら空虚な笑い声を立てた。「本望だ」
「先輩は阿呆です」
「その通りだ」
「あの映画、本当は小津さんの平家物語の予定でしたね。私はそれが観たかったのです」
「観たけりゃ今度さし上げよう」
「本当ですか? 約束ですよ」
「うむ。また次回。でも、我ながらあれはどうかと思うぞ」
「約束ですよ」彼女は念を押した。
「マンガは置いて行くから、読んでくれたまえ」
 二年もの間、不毛な苦闘に挑み、不毛に己を磨いていた空間を私は去った。最後の作品で城ヶ崎先輩のカリスマぶりに嫌らしく水がさせれば良いと思った。しかしどこかで、どうせ無理であろうと諦めてもいたのである。
 ドアのところで振り返ると、明石さんが座りこんで、私の残したマンガを読もうとしている。
「それでは明石さんよ、さらばぢゃ。城ヶ崎マジックに騙されちゃいかんぞ」
 私が言うと、彼女は顔を上げて私を睨んだ。
「そんなぼけなすに見えますか、私が」
 そのとき、ボックスへ向かって走ってくる相島先輩とその他数名のそれなりに屈強な男たちの姿が見えた。私は彼女に返事することなく、逃亡した。
       ○
 人恋しさと理性が組んずほぐれつの死闘を演じ、まさに竜虎|相搏《あいう》つの観がある一夜を過ごして、私は寝不足の頭を抱えて大学へ出かけた。その一日はあれこれと思い悩むことに暮れたので、ほとんど何も憶えていない。
 私は綿密に物事を分析して分析して分析し尽くした挙げ句、おもむろに万全の対策を取る。むしろ万全の対策が手遅れになることも躊躇《ちゆうちよ》せずに分析する男である。明石さんの人生、小津の人生、そして私の人生を幾通りものパターンで分析し、それぞれの行く末を比較検討し、天秤にかけ、考え尽くした。誰が幸せになるべきで、誰が幸せになるべきでないかも考えたが、これは意外に早く結論が出た。さんざん他人の恋路を邪魔して、馬に蹴られて死すべき運命にある私が、いまさら生き方を変えることができるのかということも検討してみた。これはなかなかの難問であった。
       ○
 そろそろ藍色《あいいろ》の夕闇があたりを覆い始めた頃合い、私は大学から帰ってきた。自室で一服して、私は最後の思案に耽った。
 ついに意を決した私は、神様に面会すべく部屋を出た。
 二年も暮らしているというのに、幽水荘の二階に上がるのは初めてである。二階は廊下に放置されているものが多く、一階に輪をかけて薄汚れている。街中のようにごたごたしており、奥へ進んで行くとだんだん薄暗くなって、木屋町の路地裏あたりに通じているように思われた。私は一番奥まで進んだ。部屋番号は210号室とある。部屋の前にはオットマン付きの肘《ひじ》掛け椅子、埃《ほこり》をかぶった水槽、色|褪《あ》せたケロヨン、古本市の幟などが雑然と置かれていて、足の踏み場もない。神様の住処《すみか》としては、フォーマルさに欠ける気がした。その時点で、こんな混沌《こんとん》とした二階からは逃げだして平和な一階へ戻り、生涯つつましく静かに暮らそうかと思った。我ながら阿呆な期待をかけたものだと自己嫌悪に陥った。表札には名前も出ていない。
 ともかく、どうせ冗談ならそれでもいい、笑ってすませようと、ここは男らしく所存のほぞを固め、私はドアをノックした。
「ふわあやい」
 間の抜けた声がして、神様がひょんと顔をだした。
「あ、貴君か。それで、どうする?」
 じつにあっさりと、彼はまるで週末の予定を繰り合わせるように気軽に言った。
「小津はいけません。私と明石さんにして下さい」
 私が言うと、神様はにっこりした。
「よう言った。では、ちょっとそこの椅子に腰かけて待ちたまえ」
 彼はそう言い残して、部屋へ引っこんだ。そうして中でがさがさやっている。私は埃だらけの椅子に腰かける気にもなれず、ぽつねんと廊下に佇《たたず》んでいた。
 やがて神様が部屋から姿を現し、「じゃあ行こう。ついて来たまえ、貴君」と言った。
       ○
 どこへ行くのであろう。まさか下鴨神社へ出かけて生け贄《にえ》を捧げるとか、そういう作業をしなければならぬのであろうか。私は不安におののきながら彼の後をついて行ったが、彼は下鴨神社へは足を向けずに、夕闇に明かりを投げかけている下鴨茶寮《しもがもさりよう》を通り過ぎて、ずんずん南へ歩いていく。私が首をひねっているうちに、出町柳《でまちやなぎ》の駅前まで出た。そこから彼は川に沿って今出川通《いまでがわどおり》まで歩いていき、賀茂大橋の東詰で立ち止まった。そして腕時計を眺めている。
「どうするんですか?」
 私が訊ねても、彼は唇に指を当てて答えない。
 すでにあたりは藍色の夕闇に没している。今夕も鴨川デルタを大学生たちが占拠して賑やかである。先日までの雨で水嵩が増した鴨川はどうどうと音を立て、ぽつぽつと灯る街灯の光が照り映えて川面は銀紙を揺らしているように見える。日も暮れた今出川通は賑やかで、車のヘッドライトやテールランプがぎらぎらと賀茂大橋に詰まっている。橋の太い欄干に点々と備えつけられた橙色の明かりがぼんやりと夕闇に輝いているのが神秘的であった。今宵はやけに賀茂大橋が大きく感じられる。
 ぼんやりしていた私の背中を、神様が叩《たた》いた。
「よし。これから橋を渡れ」
「なぜです」
「いいかね、貴君。向こうから明石さんが来る。何か話しかけて、喫茶にでも誘いなさい。そのためにわざわざこんなろまんちっくな場所を選んだのだ」
「無理です。お断りする」
「そんな駄々をこねるな。さあ行け、やれ行け」
「おかしいじゃないか。あんた、この秋に出雲へ出かけて縁結びすると言ってたじゃないか。今はまだ縁を結んでないんだから、あれこれしたって無駄ということになる」
「妙な理屈をこねるやつだな。縁を結ぶにしても、布石は打たねば。さあ行け」
 神様に背を押されて、私は賀茂大橋を西へ向かって渡り始めた。じつに腹立たしい。人を馬鹿にするにもほどがあると思っていると、後ろから「おおい、明石さんの前に、妙なやつが歩いてくるけど気にしてはいかん」と神様が言った。
 そのまま歩いて行って、何人かとすれ違ったが、やがて見覚えのある顔が近づいてきた。欄干の明かりに浮かび上がるその不吉な面相。忘れようとしても忘れられない妖怪ぬらりひょん。なにゆえこいつがこんなところに。ぐいと睨みつける私へ小津は微笑み返した。それから、ぴょんと跳ねるような奇怪な動きをして私の腹を殴った。「うぐ」と呻くこちらをよそに、彼は東へ歩いていく。
 私が腹を押さえて立ち止まったのはちょうど橋の中央であり、真下を鴨川が流れている。南の方を見やると、黒々とした川の流れの果てに、遠く四条界隈の街の明かりが宝石のように輝いていた。
 そこへ明石さんが歩いてきた。
 私は平気で話しかけようとしたが、はたと当惑した。
 私は彼女の尊敬すべき先輩であり、常日頃は平気で言葉を交わしていた。しかしながら、いざ「恋ノ邪魔者」の汚名を返上して、縁結び工作へ冷徹に邁進《まいしん》せんと決意したとたん、身体は鉄筋が入ったようにガチガチになり、口は火星表面のような乾燥地と化した。眼は焦点が合わずに視界はむにゃむにゃ、呼吸の方法を忘れて気息奄々《きそくえんえん》、我ながら未《いま》だかつてないほどの挙動不審ぶりを露わにし、そのまま明石さんの胡散臭げな視線から逃れるためならば、滔々たる鴨川の流れに身を投げて京都から落ち延びて悔いなしと思った。
「どうも、こんばんは」
 明石さんは怪訝《けげん》な顔をして言った。「一昨日は無事、逃げられましたか?」
「うん。おかげさまで」
「お散歩ですか」
「そうそう」
 それっきり、私の皺多き脳味噌は活動を停止した。沈黙は金である。
「それでは」
 彼女はそう言って、私のわきを通り過ぎようとする。
 やむを得まい。ただ人の恋路を邪魔することばかりに憂き身をやつして、恋路の走り方などかけらも学んでこなかった私が、しかもこんなに誇り高い私が、今さら自尊心の藪に埋もれかけた恋路をおめおめ走れるか。少なくとも、今少し修練が必要である。今日はここまで。我ながら精一杯。君はじつによくやった。
 そのまま行き交おうとした私と明石さんは、ふいに傍らの欄干へ仁王立ちする不気味な化け物の存在に気づき、ぎょっとして飛び退いた。欄干に立っているのは小津である。何を考えているのか分からないが、橙色の明かりが彼の顔を下から照らして、不気味である。我々はならんで小津を見上げた。
「おまえ、そんなところで何やってる?」
 私が訊ねると、小津はクワッとこちらへ喰らいつくような顔をした。
「キョウハココマデなんて思ってるのではないでしょうな。まったくあなたには呆れてものもいえない。神の言葉に逆らわず、とっとと恋路を走りやがれ」
 ふいに思いだして、私は賀茂大橋の東詰を見た。例のかもたけつぬみのかみが腕を組んで、我々のやり取りを興味深そうに眺めている。
「さては全部おまえの企みか、小津」
 私はようやく腑《ふ》に落ちた。「分かったぞ。ひっかけやがったな」
「何ですか、何なのですか?」明石さんが囁く。
「下鴨神社の神様に約束したじゃないですか」小津は言った。「今こそ好機を掴んでやれ。ほら、あなたには見えないんですか? 明石さんはそこにいる」
「大きなお世話だ」
「今すぐガツンと行かないと、ここから飛び降りてやる」
 小津はわけのわからないことを言い、我々に背を向けた。欄干から今にも空へ飛び立とうとするかのように両手を一杯に広げた。
「ちょっと待て。俺の恋路とおまえが飛び降りることと何の関係がある」
 私は言った。
「僕にもちょっと分かりません」と小津。
「小津さん、水嵩が増えてるから危険です。溺《おぼ》れると死にます」
 明石さんも説得している。
 そういう意味不明のやり取りをしているうちに、橋の北にある鴨川デルタで悲鳴が上がった。浮かれていた大学生たちが何か大騒ぎをして逃げ惑い始めた。
「あれは何?」
 小津が腰をかがめて怪訝そうに言った。
 思わず欄干に手をかけて見ると、葵公園の森から鴨川デルタにかけて黒い靄《もや》のようなものがぞわぞわぞわと広がり、眼下にあるデルタの土手をすっぽり覆う勢いである。その黒い靄の中で若人たちが右往左往している。手をばたばた振り回したり、髪をかきむしったりして、半狂乱である。その黒い靄はそのまま川面を滑るように流れて、こちらへ向かってくるらしい。
 鴨川デルタの喧噪は一層激しくなる。
 松林からはどんどん黒い靄が噴きだしてくる。ただ事ではない。ぞわぞわぞわぞわぞわぞわぞわぞわぞわと蠢《うごめ》く黒い靄が絨毯《じゆうたん》のように眼下に広がったと思うと、川面からどんどんせり上がってきて、ぶわっと欄干を乗り越え、賀茂大橋に雪崩《なだ》れこんだ。
「ぎょええええ」と明石さんがマンガのような悲鳴を上げた。
 それは蛾の大群であった。
       ○
 翌日の京都新聞にも載ったことであるが、その蛾の異常発生について、詳しいことはよく分からなかった。蛾が飛んだ道筋を逆に辿《たど》ると、糺の森すなわち下鴨神社まで到達するらしいが、判然としない。糺の森に棲《す》んでいた蛾が何かの拍子でいっせいに移動を始めたとしたにせよ、納得のいく説明はない。公式の見解とは別に、どうも発生源は下鴨神社ではなく、その隣の下鴨泉川町だという噂もあるが、それだと話はますます不可解になる。その宵、ちょうど私の下宿のあるあたりの一角が蛾の大群でいっぱいになり、一時騒然としたという。
 その夜、下宿に戻ったとき、廊下のところどころに蛾の死骸が落ちていた。鍵《かぎ》をかけ忘れてドアが半開きになっていた私の部屋も同様だったが、私はうやうやしく彼らの死骸を葬った。
       ○
 顔にばたばたとぶつかって鱗粉《りんぷん》をはね散らし、時には口の中まで押し入ろうとする蛾の大群を押しのけつつ、私は明石さんのそばに寄り、じつに紳士らしく彼女をかばった。こんな私もかつてはシティボーイであり、昆虫風情と同居することを潔しとしなかったが、二年間あの下宿で種々雑多な節足動物と慣れ親しむ機会を得て、すっかり虫に慣れていた。
 そうは言っても、そのときの蛾の大群は常識をはるかに越えていた。ものすごい羽音が我々を外界から遮断し、まるで蛾ではなく、羽根をもった小妖怪のたぐいが橋の上を通り抜けているように思われた。ほとんど何も見えない。うっすらと眼を開けた私が辛うじて見たものは、賀茂大橋の欄干にある橙色の電燈のまわりを乱舞する蛾の群れであり、明石さんの艶々《つやつや》光る黒髪であった。
 大群がようやく行き過ぎても、置いてけぼりをくらった蛾たちがばたばたとあちこちで飛び回っていた。明石さんは顔面蒼白になりながら立ち上がり、狂ったように全身をはたいてまわり「くっついてませんかくっついてませんか」と叫び、それから路上でじたばたする蛾から逃れようと恐ろしい速さで賀茂大橋の西詰へ走っていった。そうして、夕闇の中へ柔らかな光を放つカフェの前でへたりこんだ。
 蛾の大群はまた黒い絨毯となって、鴨川を四条の方へ下っていった。
 ふと気づくと、浴衣姿の神が私の傍らに立って、欄干から身を乗りだしている。茄子のような顔をくしゃくしゃにして、泣いているのか笑っているのか分からない表情をした。
「小津のやつ、本当に落ちたのではないか」
 浴衣の神様は言った。
       ○
 私と神様は賀茂大橋の西詰から土手を駆け下りた。目の前を左から右へ、鴨川が滔々と流れている。水嵩が増してふだんは藪になっているところまで水に浸っており、いつもよりも川幅が広かった。
 我々はそこから水に入り、賀茂大橋の橋下へ近づいていった。橋脚の蔭《かげ》で何かがうごうごしていた。小津はそこへ汚物のようにへばりついて、身動きがとれなくなっているらしい。水は深くないが、流れは急であり、神様はつるりと足を滑らせて、神様のくせに流されかけた。
 さんざん苦労して、我々は小津らしき物体のところへ辿り着いた。
「この阿呆め」
 私が水しぶきを浴びながら怒鳴ると、小津はひいひいと泣き笑いした。「こんなものを拾いましたあはは」と言って、勝ち誇るように腕を突きだした。彼はスポンジでできた熊のぬいぐるみを握りしめていた。「ここに浮いてたんです」小津は痛みに呻きながら言った。「不肖この小津、転んでもただでは起きない」
「いいから黙っていたまえ」
 神様が言った。
「はい、師匠。なんだか右足がとても痛いです」
 小津は素直に言った。
「あなたが小津のお師匠さんですか?」私は訊ねた。
「いかにも」そう言って神様は莞爾《かんじ》と笑った。
 神様こと小津の師匠の手を借りて、私は小津の身体を担ぎ上げた。「痛い痛い、もうちょっと丁寧に運んで下さい」と贅沢なことを要求する小津を、我々はとりあえず河原まで運んだ。遅れて河原へ下りてきた明石さんは、蛾の大群に揉まれた衝撃で顔面蒼白ではあったものの、抜かりなく救急車を呼んでいた。119番へ電話をかけた後、彼女は河原のベンチに腰かけて青い頬を押さえた。我々は小津を丸太のように転がし、濡れた衣服を乾かしながら寒さに震えた。
「痛いよう痛いよう。とても痛い。なんとかして」小津は呻いた。「うぎぎ」
「やかましい。欄干なんぞにのる方が悪い」
 私は言った。「もう少しで救急車が来るから我慢しろ」
「小津、貴君はなかなか見所があるよ」小津の師匠が言った。
「師匠、ありがとうございます」
「しかし友のために骨を折るといったって、本当に折ることはないだろう。貴君は救いがたい阿呆だな」
 小津はしくしく泣いた。
 五分ほどして救急車が賀茂大橋のたもとへ到着した。
 小津の師匠が土手を駆け上がって、救急隊員と一緒に下りてきた。救急隊員たちはプロの名に恥じぬ手際で小津をくるくると毛布に包んで担架に乗せた。そのまま鴨川に放りこんでくれれば愉快千万であったが、救急隊員は怪我をした人間には分け隔てなく哀憐《あいれん》の情を注いでくれる立派な方々である。小津は、彼の悪行には見合わないほどうやうやしく救急車へ運び上げられた。
「小津には私がついていこう」
 師匠が言い、悠々と救急車に乗りこんだ。
 やがて救急車は走り去った。
       ○
 後にはベンチに腰かけて青い顔を抱えている明石さんと、濡れた私だけが残された。私は小津が橋脚にひっかかりながら握りしめていた熊のぬいぐるみを持っていた。むぎゅっと絞ってやると、その熊は情けない顔をしながらぽとぽと水をしたたらせた。水もしたたるイイ熊だと思った。
「大丈夫かい?」
 私は明石さんに尋ねた。
「蛾は本当にだめなのです」
 彼女はベンチに座ったまま呻いた。
「珈琲でも飲んで落ち着きますか?」
 私は訊ねた。
 決して卑怯《ひきよう》にも蛾が苦手という彼女の弱点を利用して、あわよくばなどと不埒なことを考えたわけではない。顔面蒼白になっている彼女のためを思えばこそである。
 私は手近な自動販売機で温かい缶珈琲を買ってきて、彼女と一緒に飲んだ。だんだん彼女も落ち着いてきた。彼女は私が渡した熊のぬいぐるみをふにふにと押し潰《つぶ》しては、しきりに首をかしげている。
「これはモチグマンですね」
 彼女は言った。
「モチグマンとは?」
 明石さんはそれと同じぬいぐるみを大切にしていたという。そのたぐいまれな柔らかさにちなんで、「もちぐま」と名付け、五つ揃えて「ふわふわ戦隊モチグマン」と称することにした。そうして彼らの柔らかい尻をつつきながら日々の慰めとしていたのだが、そのうちの一つを鞄にぶら下げておいたところ、前年の下鴨神社の古本市で落としてしまった。以来、哀れな彼の行方は杳《よう》として知れなかった。
「それがコレかい」
「不思議千万ですね。なぜこんなところにもちぐまが」
「川上から流れて来たんだろう」
 私はそう推測した。「どうせ小津が拾ったものだから、君が持って帰っていいと思うよ」
 彼女はしばらく怪訝な顔をしていたが、「ともあれモチグマンの面々が再び顔を揃えたのは喜ばしいことである」というような顔をして、しゃんと背筋を伸ばした。蛾の大群に襲われた衝撃からは立ち直ったと見えた。
「今日は小津さんに誘われて、そこのカフェに来たのです。そうしたら賀茂大橋を渡るように言われたんですが……何のつもりだったんでしょうね」
「さあねえ」
「でも面白い人です。昔、小津さんがフェラーリの大きな旗を振って、百万遍《ひやくまんべん》交差点を斜めに駆け抜けるところを見たことがあります」
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